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京都

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青木繁の素顔:/下 戦後に評価高まる /京都

 ◆作品が重要文化財に

 「天才」と称される青木だが、美術史的な評価は意外に遅い。京都国立近代美術館の2代目館長を務めた河北倫明が、美術研究所(現・東京文化財研究所)在職中の1944~47年、同研究所の学術誌に評伝を連載。青木の画業が広く知られるきっかけとなった。ちなみに河北は青木の母校である明善校の後輩にあたる。

 その後1960年代に「海の幸」と「わだつみのいろこの宮」が相次いで重要文化財に指定され、中学校の美術の教科書などにも登場し始める。現在は美術の教科書より、社会科の日本文化史でより多く取り上げられている。

 ◆「海の幸」のなぞ

 青木の代表作「海の幸」(1904年)にはサインがなく、絵の具の塗り残しがあるなど、完成作か未完作かで専門家の意見も分かれる。山野英嗣・同館学芸課長は完成作と見る1人だ。「真ん中の部分を際立たせるために一部を省略、見る者にいろいろ想像させようとしたのでは」と推測する。また、画面に格子状に引かれた線(グリッド)が残ることから、絵を拡大する意図があったのでは、との見方もある。

 ◆失意の晩年

 「海の幸」で注目された青木だが、絶頂は長くは続かなかった。07(明治40)年に発表した「わだつみのいろこの宮」が3等末席という不本意な結果に。青木は審査への不満から「大家は退化なり、画が描けては大家になれず、貯財せずば大家になれず」などと激しい攻撃文を雑誌に投稿。審査員クラスの人々との溝が決定的なものとなる。

 同年、父危篤の知らせで久留米に帰省した青木は、そこでも家族と衝突し放浪生活へ。中央画壇への復帰の願いもかなわず病に倒れ、11(明治44)年、帰らぬ人となる。姉と妹にあてた手紙(同展で展示中)では、骨灰を久留米近郊のケシケシ山(兜山)へ埋めてほしいと求めている。「さみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣(ふんまん)と呪詛(じゅそ)とを捨てて静に永遠の平安なる眠りに就く可く候」との一節は胸を打つ。(敬称略)

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 ◇京都国立近美で10日まで

 京都国立近代美術館で開催中の青木繁展は、21日から後期展示に入った。デッサン類が入れ替わったほか、デビュー作の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」(1903年)や「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(1906)などを見ることができる。

 7月10日まで。月曜休館。開館時間は午前9時半~午後5時、金曜は午後8時まで(入館は閉館の30分前まで)。入場料一般1200円、大学生900円、高校生500円。中学生以下無料。同館(075・761・4111)。

毎日新聞 2011年6月30日 地方版

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