名作「海の幸」で知られる明治の洋画家、青木繁(1882~1911)の画業を振り返る「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」が京都国立近代美術館(京都市左京区)で開催されている。「早世の天才」は実際どんな人物だったのだろうか。友人の証言や自伝などが伝える貴重なエピソードから、その素顔に迫る。【野宮珠里】
◆京都の関わり
青木と京都の直接の関わりは確認できないが、郷里の福岡・久留米で青木に洋画の手ほどきをした森三美(みよし)は京都府画学校(現・京都市立芸術大)の出身だ。生涯の友となる画家・坂本繁二郎も森の元で学んでいる。河北倫明の著書「青木繁-悲劇の生涯と芸術」によると、森の元にはターナーやコンスタブルら英国の画家らの作品が紹介された英国製の本もあったといい、恐らく青木も刺激を受けたのではないだろうか。
◆芸術こそ男子の事業
青木の「自伝草稿」によると「何の学科も相応にできる」が、「芸術的創作こそ男子の事業」と画家を目指す。旧久留米藩士の父は「美術とは何だ、武術の間違いじゃないか」と反対。しかしめげることなく、久留米中学明善校を退学して上京。1900(明治33)年、東京美術学校に入学し、黒田清輝らの指導を受ける。
同級生の熊谷守一らの証言では、当時洋画壇の指導的存在だった黒田も青木の才能には一目置き、また、青木も黒田の作品に敬意を示したという。しかし後には、度を越えた青木のわがままに黒田が参ってしまったらしい。
◆留学歴なし
青木に留学歴はないが、ラファエル前派やギュスターブ・モロー、シャバンヌ、モネなどの影響は、専門家も指摘している。上野の図書館で美術書や画集などを通して学んだ成果とみられるが、「決して単なる焼き直しに陥らず、想像力豊かな特有の鋭い目で(それらを)自分の芸術の一助として使った」と河北は指摘する。(敬称略)
毎日新聞 2011年6月29日 地方版