家族
わたくしの苦悩。姉は日本人と中国人のハーフであるけんちゃんと結婚をしたいと言い既に同姓もしている。誰を愛するかは本人の自由であり、わたしは中国人に対する蔑視の感情など、さらさらないから、そういった意味では姉の結婚に反対する気はない。ただ、気にかかるのは、将来の自分の生活にまで何か不都合が生じるのではないかということである。さすがに自分や自分の子供にまで差し支えがあるというのでは、気持ちよく賛成できないというのが正直なところである。
まあ、そうはいうものの、姉からの信頼にかけて真っ向から反対することはできない。それに、けんちゃんから、お金をもらって受け取ってしまったし、それにけんちゃんと仲良くなってしまったから、けんちゃんにも残酷なことはできない。
母はと言えば、姉がハーフと結婚することに真っ向から反対である。あの人はあの人で姉やその子供の生活、そしてその他の関係者に差し支えが生じることを心配して、反対しているという部分もあるだろうし、現にそれを前面に押し出しているが、あの人自身が自覚しているかわからないが、中国人に対する蔑視の念が多少なりともあることは否めないであろう。そして、何よりもあの人が気にかけているのは、世間体であろう。母「いくら差別がなくなったからといったところで、まだまだ世間には差別はあるのよ」。
弟は最近、家で暴れるという。きょうも、寒いだろうとはんてんを持ってきた母をけったという。おそらく、推薦は駄目だったのだろう。私が電話をしても出ない。こんなことは初めてだ。将誠がインテリアか服飾関係の学校に行きたいといったとき、母はその道をとらせてあげればよかったのではないかと思う。まあ、その業界で生計は立てられないから、大学に行きなさいといった母の気持ちもわからないでもないが。 姉のいうとおり、母には自分の考え方しか正しいと思わず、その他の考え方に対しては排他的な部分があると思う。その道にいっていれば今のように苦しむこともなかったと思って、自分にこんな苦しい道を母が強要したように感じ、矛盾に苦しみ、ゆきのぶが母にあたる気持ちはよくわかる。さて困った。将誠に母の病気のことを今言い聞かせるべきであろうか。
なぜ、私ばかりにこんなたくさんの不幸が訪れるのだろう。それはそれで、私が成長するためのステップだと思っているが。父さんが死んだときの顔を思い出した。霊安室のガラスの向こうで、まるで昔の父さんとは思えない痩せこけた頬だった。豊富な私の頬を、しかし確かに父さんのと同じ頬を涙が伝っていった。弱虫な私は泣いた。医者が作ったのであろう父さんの笑顔は本当の笑顔ではなかった。それでも父さんは、やっと幸せになったんだと感じることができた。前に父さんは私の前で、初めて涙を流しながら話してくれた。
「・・・店の前で、お父さんにお金を渡されてパンを買ってくるように頼まれて・・・。それで、買って店を出たらお父さんがいないんだよな。お父さん、お父さんて呼んだけど・・・店のおばさんが「僕、どうしたの?」って・・・」
父さんは、親を恨んでいただろうか?それでも、やはりお父さんやお母さんのもとに行ったんじゃないだろうか。父さんは、自分が小さいころにしたのと同じ気持ちをどうしてぼくにもさせたの?私は自分の子供につらい思いをさせないようにしたい。
今までの自分の人生は全てこの人に会うために、と思えるような人に出会うことがある。そんな人にどれだけ会ったことがあるかは、その人の人生の価値をはかるパラメータのひとつだと思う。そしてまた、あのときの経験はすべていまここでこうして語るためにと思えるようなときがある。そんな経験をどれだけ積んできたかもその人の人生の価値をはかるパラメータのひとつだと思う。
「生きる」って一体どういうことなんだろう。そんな問いをいつからかもつようになって、ずっとわからないままだった。そんなことは多分、人生全てを終えてから初めてわかるようなものすごいスケールの問いなんだと思ってた。でも、父さんの葬式の日、みんなで食事をしているときに、ほなみが、「これはおじいちゃんの分だから」といって、料理をとっておこうとしたときに、僕は全てを悟ることができた。
「生きる」ことって何?という問いは何もそんなに難しい問いではなかった。生ってものはすぐそこに存在している。よく考えればそれは当たり前。私たちは生きているのだから。ただ、そのことに気づくのは難しい。私がたとえ口で説明したところで、それがわかるのは、きっかけをもっている一部の人にすぎないだろう。例えば私たちは美味しいものを口にしたとき、私たちはそれを当たり前のこととして済ませてしまう。でも、思い出してみよう。私たちがこの地球上に生を授かった日、最初から全てのことをそんなに当たり前のこととして片付けただろうか。否。私たちは、もっと物事に感動し、生あることの素晴らしさを、言葉で表現できなくとも、全身で受け止めてはいなかっただろうか。
私はいまになってよくあの日を思い出す。おいしいものを食べること。いい香りをかぐこと。美しいものをみること。夢見るメロディーを聞くこと。風を感じること。そして、たくさんの人間と出会い、同じ瞬間を共有し、同じことを思い、いつかは愛する人をみつけ、はかない自分の命の中にも永遠を感じること。ただ、それだけのこと。でも、それだけのことが何よりも大切で僕たちはそれを命続く限り、精一杯に享受しなければならないと、私は考える。自分はつめたくされても、かえってあたたかく接することができるだけの心を持ちたい。
1999年11月17日に語った恋愛論
・がつがつしないほうがいい。がつがつすると、女からは冷たく甘く見られる。むしろ女なんかに興味がないぜぐらいに見せるのが良い。だから、まずは友達から。君とお友達になりたいんだよぐらいに見せる。
・女友達は特に大学1年のうちにたくさんつくっておいたほうが良い。そこからその友達とかでつながる場合もあるし、どこにどんなチャンスが潜んでいるのかわからない。
・3年になるともてる。なぜなら、女からは忙しそうに見えて、
・1年生は圧倒的に不利。
・あまり1年生のあいだは彼女とかをつくろうと思わないほうがいいかもしれない。
うそは大きければ大きいほどばれにくい。「一つの命を救うものが世界を救える」ユダヤ聖書、タルムード、「シンドラーのリスト」より。
自分の頭の中で考えたことだけじゃなくて、心に涌き出た感情を言葉あるいは行動でストレートに表現することを私は覚えなければならない。人は皆、外面や体裁を気にして生きる。でも私は内面から出る強さを、内面から溢れる情熱を大切にして生きたいと思う。人は皆、心で生きることを知らないから、いつまでたっても不幸せだ。もし皆が内側から溢れる自分の気持ちに正直に生きたなら、幸せになれるだろうとわたしは思う。誰か私の隠された心を読み取ってください。
19991226
親に捨てられたことで涙を流して私に語った父さんが、親に捨てられる悲しみを知らないわけがない。ああ、一体私は何を恨めば良いというのだろう。あんなに優しい父さんを、こういう状況にならしめるよう追いやった世の中か。1999年12月25日姉から真実を聞いた。本当は父さんも家族5人で暮らしたかったんだと。そして別れ際に「博だけはもらっていきたい」と言ってくれたんだということを。すこしでも父さんのことを疑った自分が恥ずかしかった。泣いた。