東日本大震災

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福島第1原発:認知症の母、避難先で凍死 家族行き場なく

 東京電力福島第1原発の事故で避難指示が出された福島県富岡町の認知症の女性(62)が、避難先の新潟県田上町で亡くなった問題で、記者が現場近くから遺品の靴を見つけたことをきっかけに、長女(41)が再発防止につながればと毎日新聞の取材に応じた。認知症の母に加え、90歳近い祖母、耳が聞こえない妹(40)やその娘(2)も一緒に避難所を転々とした生活は困難を極める。富岡町に戻れるめどは立たず、十分なケアを受けられる落ち着き先は今も見つかっていない。【堀智行】

 ◇無線の声届かず

 東日本大震災が起きた3月11日、造園業の父(67)と母、祖母は自宅にいた。「堤が決壊し水没する」との町の指示で町内の中学校へ行き、すぐ警察から再避難を指示された。

 町内に住む妹は娘と原発近くの公園にいたが、難聴の妹に防災無線の声は届かない。妹の夫は知的障害者施設の職員で、入所者の避難に追われ帰宅できなかった。父は何とか妹らと合流したが、5人が乗った車は大渋滞に巻き込まれ、避難所はどこも満員だった。避難や屋内退避の指示範囲拡大に追われるように川内村、田村市、三春町の避難所を渡り歩き、14日に郡山市の避難所にたどり着いた時にガソリンが尽きた。

 転々とするうち、震災前は畑仕事や家事をこなしていた祖母は体中が痛み、動けなくなった。母の認知症も悪化し、避難所で何度も迷子になった。スキューバダイビングなどスポーツ万能だった妹は避難生活を強いられた理由を理解できずパニック状態に。物を投げて大声を出し、娘の世話もできなくなった。

 ◇足りぬガソリン

 避難所を移るたび、登録の際に家族の健康状態を伝えたが保健師の巡回はなく、郡山で1回だけ医師の診察を受けた。「ガソリンがなくて病院にも行けねえ」。父は携帯電話で長女に窮状を訴えた。

 長女は仕事先の仙台市で被災し、20日に南相馬市の自宅へ戻れた。21日、市に家族の受け入れを相談すると、「役所が開くかも分からない。自身の判断で来てください」。

 5人が24日、一家を心配した避難者が工面してくれたガソリンで南相馬に着くと、長女は変わり果てた姿に驚いた。父は被災後のことが思い出せないほど精神的に参っていた。母は屋内退避圏と説明しても、日課の散歩に行きたいとせがんだ。郡山市の避難所でもらった賞味期限切れのパンなどで食いつないだが、26日に新潟県田上町へ避難を決めた。

 ◇娘と最後の散歩

 27日午後4時、田上町に到着。落ち着いた様子で保健師の問診を受けた母に長女は「妹たちと散歩に行っていいよ。必ず一緒に戻ってね」と声をかけた。母は「ありがとう」とうれしそうに出て行った。10分後、戻ったのは妹と娘だけだった。

 28日午前8時半、母は林道の雪の上で遺体で見つかり、靴は履いていなかった。凍死だった。手前数メートルの雪の中に片方の靴が埋まっていた。

 母はいったん、避難所の前に戻ったようだった。長女は「約束通り2人を送り届け、いつも通り夕方の散歩に出たんだと思う。見つかった母の顔は笑っているようだった。富岡町のように田んぼが広がる景色の中を散歩できてうれしかったんだと思う」と話す。

 ◇よみがえる記憶

 妹を診察した医師からは「症状が強く治療に時間がかかる」と説明を受けた。妹の娘は公園に連れて行くと被災時の記憶がよみがえったのか、「怖い」と長女にしがみつき、夜泣きがひどくなった。妹の夫は千葉県に避難した施設の子どものもとを離れられない。避難所生活で症状が悪化しかねないため、医師の指示で新潟県内のホテルに身を寄せた。

 今は長女が4人の面倒を見ているが、いずれ南相馬に戻らなければならず、仙台にいる三女や自分の近くで過ごさせたい。だが、福島県内で受け入れ施設は見つからず、仙台市にも「どこもいっぱいで県外の人のケアまでは難しい」と断られた。

 長女は言う。「症状が悪化しても、医者にも行けず役所も頼れない。そういう人はたくさんいるはず。少しでも目をかけられる状況になってほしい」。国や自治体は実態把握を進めている。

毎日新聞 2011年4月7日 1時11分

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