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第93回全国高校野球選手権大会

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壊れたひじ…でも役割がある 浜松市立高の芝田君

2011年7月4日0時46分

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写真:練習でボールをトスする芝田敦基君(右)。右ひじに手術の痕が残る=浜松市中区広沢1丁目拡大練習でボールをトスする芝田敦基君(右)。右ひじに手術の痕が残る=浜松市中区広沢1丁目

 静岡県浜松市立高校の芝田敦基君(3年)は、ベンチで選手の動きを追っていた。早稲田実業(東京)との練習試合。4回2死、ランナーはいなかった。

 「代打」

 藤田裕光監督(48)の声が聞こえた。普段は、誰を代打にし、守備にどの選手を入れるかを考えるのが、学生コーチを務める芝田君の仕事だ。ただ、この時だけは、誰が代打なのか分からなかった。

 「芝田、お前だよ。バット持って来い」

 驚いた。そして、涙が出た。

 バットを持って打席に入ると、今度はほおが自然と上がってきた。

 「打てる」。思いっきり振り抜いた打球は一塁手の前に転がった。一塁まで全力で走ったが、一塁ゴロだった。これが、高校生活で初めての打席だった。

 甲子園で優勝した早稲田実業との試合で打席に立った。将来、子供が生まれたら、この時のことを話そうと思う。

 中学2年の秋、球を投げた瞬間、右ひじに今まで感じたことがない激痛が走った。練習を頑張りすぎて、軟骨がすり減っていた。小学校の時にも同じ場所を痛めていた。手術を決めた。

 だが、元のひじには戻らなかった。

 高校に入学し、どの部活に入ろうか迷っていた。陸上部、演劇部、美術部…。仮入部でどの部活を見ても、いまいちピンと来なかった。グラウンドで練習する野球部の姿は、ずっと目で追っていた。

 プレーはできない。「でも、マネジャーとしてなら」。将来、野球の指導者になりたいとの思いが固まった。

 芝田君は、藤田監督から「学生コーチ」に任命された。トレーニングやマッサージの本を読みあさった。1年の学生コーチが、3年の先輩にアドバイスをすることは出来なかった。経験も技術も乏しい自分。自分の役割や立場が分からず、悩みながら練習に参加した。

 昨夏。静岡大会のメンバーが発表され、2年生の芝田君は学生コーチとして背番号20番をもらった。自分がベンチに入ることで、3年生が1人、ベンチを外れた。3年生が最後の夏を目指して練習に取り組んできた姿を、ずっとグラウンドで見ていた。

 メンバー発表の後、藤田監督の後を追った。「3年生を入れて、ぼくを外してください」

 藤田監督は怒った。「芝田じゃないとできない仕事がある。お前がベンチに入れ」。試合中、交代する選手に準備をさせたり、ブルペンの投手に情報を伝えたり――。「自分じゃなきゃだめなんだ」。自分の役割が、やっと分かった。

 まだまだ、怒られることはある。ショックで誰とも話したくなくなることもある。でも、ある時、ミーティングで仲間が発言した。

 「芝田がいないと、この部活は成り立たない」

 また、涙が出た。

 今、選手のサポートが楽しい。1日でも長く、このチームの学生コーチをやっていたい。

 目指す指導者像は、藤田監督だ。元々、中学校の教諭で、人事交流で市立高校の監督を務めている。芝田君の夢は、中学の教諭になった。藤田監督とあうんの呼吸でベンチワークをする最後の大会。恩師、仲間の一挙手一投足を見逃さないつもりだ。

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