東日本大震災で被災した岩手県沿岸で津波での“死亡者ゼロ”を実現した村があった。人口約3000人の普代村。村長を10期40年務めた故和村幸得(わむら・こうとく)氏が、「そのうち来るだろう津波から村民を守る」という信念で、昭和時代に高さ15・5メートルの防潮堤2基を建設していた。結果、今年3月11日に震災から発生した大津波をはね返し、住宅地への浸水は全くなかった。現在、和村氏の墓前には花が飾られ、生家は観光スポットになりつつある。
普代村の黒埼地区に黒く磨かれた墓石がある。「和村家」と刻印され、真新しい菊の花がきれいに飾られている。1947年(昭22)から87年までの40年間、同村の村長だった和村幸得氏が永眠している墓だ。
この墓地から歩いて約3分の場所には、和村氏の生家が建っていた。近所の主婦は「最近は、ここにも、見たごどのねぇ方々がいらっしゃる。あの世に行っても、人さ呼ぶ偉大な村長さんだぁ」と話し、生家の前で頭をペコリと下げた。和村氏が亡くなって13年8カ月、津波による死亡者を出さなかった村の英雄として、墓と生家は今、観光スポットになろうとしている。
村には太田名部(おおたなべ)防潮堤と普代水門の2つの防潮堤がある。太田名部防潮堤は、総工費5837万円で67年に完成。普代漁港の前にあり、同防潮堤の内側には一般住宅が軒を連ねる。82年に35億6000万円で完成した普代水門は、水門のゲートが遠隔操作できる。近くに小学校がある。
着工前はどちらも、当時の地権者から「なんで15・5メートルの高さが必要なんだ」「津波なんか本当に来るのか」と非難の集中砲火を浴びたという。それでも和村氏はひるまずに強制執行をかけるなどし、ほぼ独断で防潮堤建設を推し進めた。1896年の明治三陸地震で発生した津波で、普代村は1010人の死者・行方不明者を出した。そのときの波の高さは15・1メートルとの記録があったからだ。「必ず同じ規模の津波は来る。それには高さ15・5メートルは絶対に譲れん」と言い切ったという。最終的には、県を動かし、村が総工費の約1割を負担する公共事業となった。結果、今年3月11日の津波で村内の1120世帯は1軒も浸水せず、村民から死者は出なかった。
太田名部防潮堤前の漁港には、船を停泊させる堤防が防潮堤と平行に5基並び、さらに沖には消波ブロックも埋め込まれ、防潮堤に到達した津波の勢力を抑えていた。地震の影響で停電となり、普代水門のゲートは手動に切り替わった。津波到達までに水門は完全に閉まらず、水門を越えた。しかし、1933年の昭和三陸地震以後に植樹した防潮林の松ががれきを含んだ津波を止めた。巨大防潮堤だけに頼って津波を防いだのではなかった。
今月8日には東京都議11人の視察団が、防災への取り組みを学ぶために同村を訪れるという。村役場には、このほかに非公式ではあるが視察要請も届いている。住民課では「将来的には歴史的構造物として県に申請することになるかもしらん」と話す。和村氏への墓参も含め、三陸の新たな史跡になるかもしれない。【寺沢卓】
◆普代村(ふだいむら)岩手県沿岸部にある面積69・69平方キロの村。1889年(明22)町村制が施行され、現在に至る。海岸部は高さ100メートル以上のがけがほとんどで、2つの防潮堤の設置された場所だけが低くなっている。津波での人的被害はなかったが、漁協関連施設はすべて損壊し、船も552隻が流され、漁業関連の被害総額は約50億円と試算された。プロ野球の楽天銀次内野手が同村出身。深渡(ふかわたり)宏村長。
◆和村幸得(わむら・こうとく)1909年(明42)2月21日、普代村生まれ。盛岡中(現盛岡一高)から慶応大学高等部(現慶大)に進学するも「胸を患い」(自叙伝「貧乏との戦い四十年」)中退。故郷に戻り、小川(こがわ)村長に見込まれ役場で仕事をする。38歳で村長選に出馬して初当選。47年から10期40年、漁業振興に力をそそいだ。84年には、三陸鉄道開業を記念して、村製作のシングルレコード「俺の北緯40度」を発表。デビュー2年目の鳥羽一郎が歌い、作曲した船村徹氏を生家に宿泊させた。97年10月18日、88歳で永眠。