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背負った故郷や家族 東北ナイン、全力でぶつかった2011年3月28日14時15分 どん底の悲しみを封印して、東北(宮城)の選手たちは甲子園の舞台に上がった。乗り越えられたわけではない。でも、全力でぶつかろう。そう心に決めて、グラウンドに飛び出した。 初回、大垣日大(岐阜)の強襲を受け、先頭打者本塁打などで一挙5点を奪われた。「まだいける」。心は切れない。2回、斎藤圭吾一塁手(2年)の放った詰まった打球は、執念が乗り移ったように一、二塁間を抜けていった。 地震発生の3月11日午後、部員の多くは仙台市内の寮の近くにある中学校の柔剣道場に避難した。他の部員や一般の人も含めて200人ほど集まっていた。ラジオからは、刻々と故郷の惨状が伝えられていた。 斎藤君の自宅がある仙台市若林区の沿岸部は、津波で壊滅的な被害を受けた。母親からの電話で自宅は無事と知った。でも近くまで津波が押し寄せ、「何もかもなくなった」と聞いた。想像できなかった。夢の中の話に思えた。 ■ ■ 電気、ガスは通じず、水も出ない。夜、畳の上で寮から持ってきた布団と毛布を敷いて寝た。寒い。眠れない。 くらやみの中、だれとはなしに話し始めた。「俺たちどうなるのかな」「野球やってていいのかな」。気を紛らわそうとしたのか、入部後の思い出話も出た。「練習きつかったよな」「先輩怖かったよな」……。 斎藤君が甲子園に行く前夜の18日、家から電話があった。祖父母、父母、兄、姉、斎藤君の3世代7人家族。仕事で不在の父を除く5人が代わる代わる電話に出た。「けがしないようにね」「わかった」「思いっきりやってこい」「わかった」 父からも後でメールが届いた。「調子はどうだ」「大丈夫、ばっちり。任せろ」。本当は、すぐにでも家に帰りたかった。泣きたくなる気持ちをぐっと抑えた。 ■ ■ 地震後、中学の友だち30〜40人に安否確認の一斉メールを流していた。同級生の女子は母親を亡くした。別の女子は意識不明のまま病院に運ばれたが、一命をとりとめた。返信があるたびに、胸が押しつぶされそうになった。 宿舎入りしたあと、チーム内で地震の話はほとんどしていない。みんな「野球に集中しよう」と言い合っている。でも、故郷が気になる。練習で声が出ない。 「お前ら元気ないぞ! いつまで暗くなってんだ」。22日に仙台から宿舎入りした、コーチも兼ねる我妻敏(わがつま・しゅん)部長(28)が夕食後のミーティングで一喝した。場の空気が張り詰めた。東北OBでもある我妻さんは、津波で野球部同期の仲間を失っていた。 「あれでチームが締まった」と感じた選手は多い。斎藤君は自由時間があると、宿舎で仲間と一緒に甲子園のテレビ中継を見ながら、初戦の対策を練っていた。1人になると、地震のことで頭がいっぱいになってしまうから。 「家族は来られないけど、みんなテレビで見ている。東北の人が少しでも元気になるように、全力以上の全力を出さなければ」と言う。 ■ ■ 控えの三塁手の工藤圭祐君(3年)は、宮城県七ケ浜町の中学時代の同級生2人を失った。まだメールの返信がない仲間も数人いる。 帽子のつばの裏には、フェルトペンで「2011・3・11 東日本大震災」と書き込んである。ほかの仲間も書いている。だれが言い出したわけでもなく、広がった。斎藤君は試合前夜、「宮城県孝行 全力疾走」と書いた。 それぞれ故郷への思いを刻んで、戦った。(松本紗知、向井大輔、藤橋一也) おすすめリンク総合ニュース
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