村西とおる生ライブ配信開始
◆ 人間の死と来世・・・2011.6.12

丁度成田空港で中国行きの飛行機の

搭乗手続き、をする時でした。



最後に念の為にとケイタイの受信記録をチェックすると

懐かしい電話番号からの着信記録がありました。



その電話番号は

ビニ本時代までさかのぼって30年を越えて付き合いがある

印刷会社の女会長の電話番号でした。



女会長にはここ何年もの間、連絡をしていません。

不吉な予感がしました。



電話をかけると案内の女性に変わって

現在は会社の実務を取り仕切っている孫の若社長が出ました。



「会長が数日前亡くなりました。会長の遺言で密葬を取り行ないました。

昨日家に遺骨が帰ってきて一段落しましたので、

監督にお知らせだけはしておこうと思いお電話をしました」



孫の青年の声を耳元で聞きながらその場にヘタリこみました。

悲しみが襲ってきて、涙が出ました。

拭いても拭いても涙が出て止まりません。



「悲しいな、悲しいな、悲しいな」と電話口で独り言を言いながら、

泣き声を上げていました。



近くにいた航空会社の女性スタッフの一人が駆け寄って来て

ウズクまっている手前どもの肩越しに

「お客様、いかがなさいましたか」と声をかけてきました。

彼女が身につけているかすかに甘い香水の臭いが漂い、我に帰りました。



助平とは性のないもので、

どんな時でも「色事」のツボへの刺激があると覚醒するのでございます。

周りを見回すと何人か旅行客が

「何事が起きたのか知らん」と怪訝そうな目でこちらを見ていました。



少なからず世間さまに顔を知られた身でございます。

自分の置かれている状況が見えてきて慌てました。



女性に立ち去られる、という悲恋のドラマの展開があって

国際空港のゲートで泣き崩れる、というシーンでさらしているならまだしも、

60過ぎのエロ事師がケイタイを耳にあてた姿で

チェックイン・カウンターの前でうずくまり泣き崩れていては

周囲の不安をアオルばかりでございました。



搭乗手続きをキャンセルして手荷物を持ちその場を離れました。



女会長には生前一方ならぬお世話になっていました。

我が愚息の名付け親でもあります。

何かあったら頼って行きたい、と心の寄り所にしていました。



突然の死とはいえ、恩人ともいうべき人の死を聞いて

このまま中国に行く気にはとてもなりませんでした。



チェックイン前に女会長の死を知ったのは何かの因縁でした。

霊前に手を合わせて最後のお別れをしたいと思いました。



上海では重要な商談の相手が待っていました。

特に今回は大きな取り引きをする予定でした。

その為にこの数ヶ月何回も中国との間を往復してきたのでした。



中国の相手先に電話をして事情を話し、

商談を延期してもらうように頼みました。

相手側も「恩人の死」という事情であれば仕方が無い、

と心よく理解をしてくれて、数日後の再会を快約してくれました。



成田エクスプレスに乗り新宿まで車窓の外の風景を目で追っていると、

女会長の想い出が走馬灯のように頭をよぎりました。



女会長との初めての出会いは今から30年程前でした。

当時「ビニ本」が全盛時代を迎えていました。

全国に160店舗を構える書店ネットワークのオーナーとして、

また版元として「ビニ本稼業」に勤しんでいた時、

女会長の印刷会社にも一部の「ビニ本」の印刷を依頼していました。



女会長は享年87歳で亡くなられたのですが、

その頃はまだ50代後半の「女盛り」で独特の「色香」を漂わせた、

「ヤリ手女実業家」でございました。



女会長は青森県津軽の旧家の出身で

東京の有名女子大を卒業した「才嬢」でもありました。

そうした出自のせいか「ヤリ手女実業家」としての側面と同時に

大正時代の日本女性の「上品さ」と「透明な精神性」

を合わせ持っていました。



若い頃はさぞかし美人であったに違いない、と思われる

老いた晩年にあっても「女らしさ」を失わない会長でありましたが、

こんな想い出があります。



20年前倒産した後、

再起をかけてもう一勝負しようと旧知の実業家のもとへ

借金を申し込みに行ったことがあります。



保証人が必要ということで

女会長に「保証人」になってくれるように頼みました。

倒産時には女会長にも「数億円」の迷惑をかけていましたので、

常識的に考えればとても「保証人」に頼める間では無かったのですが、

必死でした。



女会長には当方から巨額な売り掛け金を踏み倒されて会社が苦境に陥り、

とても当方に資金を融通してくれる余裕はありませんでした。



「保証人」ならいいだろう、となっていただくことになりました。

借金を申し込んだ先の事業家は、ソファに並んで座っている

当方と女会長を交互に見比べて戸惑いの表情を見せました。



「アダルトの帝王」と呼ばれている43歳の男と

67歳の老境にさしかかった女性実業家のコンビが

眼の前でヒザを揃えて座っているのですから「どんな関係?」

と不思議?に思われたとしても当然のことでした。



事業家は女会長に向かい気づかうように

「監督とはどんな関係ですか」と尋ねました。

すると女会長は艶然とした笑いを顔に浮かべながら

「もう、この人には苦労させられぱなしで、さんざんな思いをしております」

と応えたのでした。



事業家はイスズラ心を持っていました。

女会長の答えを引き受けて

「男として惚れた人間ですから、苦労も楽しみのうちでしょう」

とマゼッ返しました。



いわずもがのことですが女会長と当方との間には

「男と女」の関係など一切ありませんでした。



18歳でいわきの故郷を離れて45歳まで

ある事情と破執があって故郷の母親とは「断絶」状態にありました。

その間、実の母親代わりとなって何かと面倒を見てくれたのが

この女会長でした。二人は実の親子のような親しい仲でした。



しかし女会長は何を勘違いをしたのか、事業家のマゼッ返した言葉を受けて

「それはそうなんですけど・・・」と頬を赤く染めて

少女のような恥じらいを見せながらうつむいて見せたのでございます。



事業家はニヤリと助平な笑いを浮かべて当方の顔を見てきました。

その顔には「お前さんはAV女優に飽きたらず、

こんな老女をもコマしているのか」と飽きれかえった表情が見てとれました。



驚いたのは当方でございます。

慌てました、が女会長に向かって「なにを言ってんだ」

とその場で抗議の声を上げる訳にもいかず極まりました。



保証人の件について手続きは後日連絡を受ける、

ということで女会長は一足先に事業家の事務所を出ました。



残された当方は誤解を解くために「ビジネスでの関係でしかない」

ことを必死で弁明をしましたが、事業家は「お前ってヤツは」と

そのことについて女会長の言葉をうのみにして取り合ってくれませんでした。



晴天の霹靂とはあの時のことを言うのでしょう。

自分としてはもう一押しで融資話しが決定する、

という自信を持っていましたのに、いらぬ誤解を与えて

融資話が壊れるかと思うとやりきれない思いでした。



かと言ってせっかく保証人に名乗りを上げてくれた女会長に

文句を言える筋合いもなく、途方に暮れました。



一週間後、事業家から融資する主旨の連絡がありました。

その連絡をしてきた電話口でも事業家は「お前さんという男は」

とまた「あのこと」を思い出して笑い声を上げるのでした。



どうやら女会長の「失言」が「幸い転じて福」となったようでした。

事業家は女会長と当方との「男と女」の「関係話」を

どのように受け取って融資話を決定したのかは分かりません。

がその「事実」が事業家の好奇心をあおって

「決断」にプラスの要素を与えたのは事実のようでした。



融資が実行された日、

保証人になっていただいた女会長と事業家の事務所からの帰り道、

ソバ屋に立ち寄ってソバを喰べました。



食後、ソバ湯をすすりながら女会長に、どうしてあのとき事業家の前で

あたかも男と女の関係にあるかのように答えたのか、と聞きました。



すると女会長は憤然として

「馬鹿言ってんじゃないよ、あんたと私が男と女の関係だなんて」

と声を荒げました。

女会長は本当に自分が言ったことを忘れているようでした。



しかしそれから5年10年と付き合いを続けているうちに、

決してあのときの言葉は女会長が偶然放った言葉ではなく、

十分に計算した上で吐いた小芝居の言葉ではなかったか、

と思うようになりました。



女会長は事業家として人を見る目に優れていて、

この場で何を言えば相手の心を動かせるか熟知している達人であったのです。



毎晩のように女会長の家に行っては

晩飯をご馳走になっていた時期がありました。

女会長は自慢の手料理を振る舞うのが好きで、

ガツガツと口一杯にほおばって喰べる様子を目を細めてながめていました。



女会長には10歳年上のご亭主がいました。

ご亭主は5年前92歳でお亡くなりになりましたが、

このご亭主もまた「日本男子の鏡」のような男でした。



ご亭主は印刷の職人で女会長を前面に建てながらも

自分は裏方に徹して印刷会社を陰で支えていました。



このご亭主の職人芸によって

クリスタル映像からダイヤモンド映像にかけての「AV黄金時代」の

ユニークな書き文字のビデオパッケージとポスターが印刷されたのです。



ご亭主は帝国陸軍の「曹長」でした。

酔うと決まって中国大陸での活躍の自慢話が出ました。

帝国陸軍の「曹長」だったご亭主の軍での任務は「スパイ」でした。



中国語を流暢に話すことができた「曹長」は、

帝国陸軍の自分が所属する部隊より一足先に進軍する敵地におもむき、

敵陣の様子を部隊に知らせる、という任務に就いていました。



「曹長」によれば中国での日本陸軍の戦い、は熾烈を極めたといいます。

特に強敵となったのは中国軍の便衣兵の存在でした。



「便衣兵」とは普段は農民や商人の平服姿をしていながら、

背中を向けると背後から隠していた銃を取り出して襲って来る、

というヤッカイな存在です。



国際法的には「便衣兵」は

卑劣な違法戦闘行為として叫弾されるものでしたが、

中国側はこの「便衣兵」の活躍によって

戦況を大きく変えようとして画策していました。



日本陸軍の「曹長」の主だった任務は敵の陣地に深く入り込み

「便衣兵」の存在を明らかにすることでした。



どこにどんな風にどれだけの数の「便衣兵」が潜んでいるか

を調べあげることの「戦い」に明け暮れましたが、

戦況が次第に混乱してくると「便衣兵」の探索もままならなくなりました。



「曹長」自身、便衣兵の襲撃にあい

全身に数ヶ所の銃弾を受けて重傷を負う経験を幾度かしました。



そこで戦局の終盤では村や町に関東軍が攻め入ると、

その村や町にいる中国人の男性を全員「便衣兵」と見なし、

日本軍は皆殺しにするようになりました。



日本陸軍の名誉ある「曹長」であったご亭主はこんな経験をしました。

ある村に攻め入った時でした。ドロで建てられた貧しい家から

若い青年とその妻と思われる女性と小さな二人の男の子が出てきました。



命令通り、早速その青年を連れて行こうとすると若い妻が

「曹長」の脚にすがりついてきました。

どうか夫を助けてくれ、と中国語で泣き叫びました。

二人の小さな男の子も母親の背中にしがみついて泣いています。



当の中国の若い青年は両手をあわせて、

何度も何度も「助けてくれ」と哀願していました。

中国の青年の目はこれまでに一度も見たことの無いような

悲しい眼をしていました。



その余りにも悲しい目を見て「曹長」の心が折れました。

「行け」と言って青年を解き放ちました。

親子四人は脱兎のごとくその場から逃れて姿を消しました。



20mほど前方に歩いた時でした。

傍にいた戦友が突然、バッタ、とばかりに道の上に棒のように倒れました。

見れば戦友のヘルメットがブッ飛び後頭部から血が吹き上がっています。

銃で何者かに射抜かれてたのです。



振り返ると先程いた場所に、

解き放った青年が銃を構えてこちらに狙いをつけていました。



「曹長」は射撃の名手でした。

とっさの判断で身をひるがえしながら、

腰からピストルを引き抜いて青年に向かって連射しました。

中国の青年の顔面をピストルの弾が射抜いて

その顔が四方に飛び散るのが見えました。



まるで西部劇映画のシーンのような場面ですが、

「曹長」は昨日のことのようにその時のことを

克明に覚えていて語るのでした。



若い女房と小さな男の子が倒れた青年の体にしがみつく姿が見えました。

中国大陸の戦地で兄弟のような強い絆で結ばれていた戦友の死、

そしてあの底なし沼のような悲しい目をした青年の死、

「あの時ほど、戦争が心底嫌だと思ったことはない」

と帝国日本陸軍の曹長は口を堅く結びました。



「仕方が無かったんだ、殺さなければ、こちらが殺されたんだから、

戦争に良い人悪い人はいない、

いるのは死んだ人、生き残った人、どちらかだ」



1972年、日中友好が叶って

1990年代に日本で空前の中国旅行のブームが起きました。

旅行好きの「曹長夫妻」は国内はもとより、

海外のあちらこちらに旅をしましたが、

決して中国に行くことはありませんでした。



「曹長」は

「中国大陸には自分たち日本軍の兵隊が殺した

数えきれない数の中国人の霊が未だにさ迷っている、

あの中国の大地に自分が行けば、その霊の捕らわれ人となって

無事で帰ってくることはできない」と忌避続けました。



人生80年といわれますが、

帝国日本陸軍の「曹長」だったご亭主は92歳でこの世を去りました。

その最後は朝起きたらベットの上で死んでいた、

というアッパレな突然死でした。



前日まで仕事に遊びに、と男としてバリバリ現役で健康そのものでした。

人間は92歳になってもこれほどまでに

心身ともに健康でいることができるものかと瞠目しました。



「曹長」の生き方に触発され人生観が変わりました。

人間は頭もボケることなく、気力に衰えを見せずに

92歳まで元気で働き生きれる、ことを知ったことは

何よりの財産となりました。



手前どもにとって一千億のお金にも変えがたい人生観を

根底から変える「遺産分与」となったのです。



よい伴侶に恵まれた「女会長」でありましたが、

その思い出は尽きないのですが、もう一つこんな印象的な思い出がります。



これまたお金の話しで恐縮ですが

20年前50億の借金を抱えて倒産寸前の時でした。

ある金融業者のところに手形を持ち込んで

割り引きの依頼にやってきていました。



時間は午後2時を過ぎていて、

手形の決済の3時まで時間が迫っていました。

金額は8000万円という大きなものでしたので、

相手は初対面の金融業者のことで、どうにも交渉が難行していました。



しかしここで諦めたら「倒産」は確実となります。

何としてでも諦める訳にはいきませんでした。



「お願いします」と必死の形相で金融業者に頼み込んでいました。

すると右眼から何かが飛び出ました。

見るとテーブルの上に血の飛沫の跡がありました。

右眼を指先で拭いてみると、指先に血がベッタリとこびり付いてきました。



慌てて事務所のトイレを借りて飛び込んで鏡を見ると、

右眼の眼底付近から血がニジミ出て流れていました。

眼底付近の血管が興奮したことで血圧が上がり、破れたようでした。



その時は切羽詰まっていて右眼などどうなってもいい心境でした。

ハンケチで目頭を押さえて再び事務所に戻り

手形の割り引きを改めて懇願しました。



と、その時でした。

ケイタイが鳴りました。その頃はケイタイ電話の使用料が高く

ケイタイに電話がかかってくるのは余程の用事の時に限っていました。



「どんな急用か知らん」と金融業者に断りを入れて電話に出ると、

電話の相手は印刷会社の女会長でした。

「お母さん、いま忙しいで後で連絡するからご免ね」と、

用件も聞かずに一方的に断りを入れて電話を切りました。



その頃女会長のことを「お母さん」と呼んでいました。



するとそれを聞いてた金融会社の社長の態度がガゼンとして変わりました。

「監督さん、お前さんも目から血を出してたいそう頑張り屋さんやなあ。

それに母親は大切にしないとあきませんで、ワシかて孤児院に育って

オカンの味などナンも知らんから、アンタが羨ましいわ。

ヨシ、アンタの目玉とオカンに免じてお金貸したるわ」



と金融業者は関西弁でマクシ立て八千万円の金を近くの銀行から

即座に当方の当座に振り込んでくれました。



女会長はなんの用事で電話をかけてきたのか分かりませんでしたが

「後で話しを聞きましたら、

晩飯を喰べに来ないかというたわいもない誘いでした」

その電話が神がかりな威力を発揮して「窮地」を救ってくれたのでした。



女会長の遺影の前に女房ドノと愚息を引き連れてぬかずきました。

遺影は「女会長」が元気だった「全盛期」のものが飾られていました。



よく遺影に死の寸前の晩年の老いたものを使われることがありますが、

手前どもは反対です。例え十数年前のものでも

その人が一番元気で輝いていた頃の写真を使うことが

何よりの供養となって集った人々を慰めるものです。



写真の「女会長」は

「あんたもよく来てくれたね」

といつものあの優しい微笑みを見せてくれていました。



「お母さん、しばらくご無沙汰しました。

あの世に行ってお会いしたとき、これまでのご無礼をお詫びします」

と手を合わせました。



ご亭主が5年前亡くなられてから

数度しか「お母さん」の家には伺っていませんでした。

あれほどお世話になっていながら、と心が痛みましたが

手前どもには別な思いがありました。



ご亭主が亡くなられた後、会う都度に

「お母さん」の体が小さくなっていくことに恐怖を感じていたのです。

ああ「お母さん」も時間の問題であの世に行ってしまうのか、

と思うと会いに行く勇気が失ないました。



半年程前、

思いついて「元気ですか?」と電話をしたのが

「お母さん」の言葉を聞いた最後となりました。



帰るとき玄関まで孫の若社長が見送りにきてくれました。

彼とは「お母さん」と同じくかれこれ30年近くの付き合いになります。

幼稚園に通っている頃、よく「お母さん」と一緒に

手前どもの事務所に遊びに連れられてやってきました。



黒木香嬢のワキ毛をイタズラをして抜いたり、

松坂季実子嬢のオッパイを触って無邪気に遊んでいた坊やが、

今では立派な青年社長に成長していました。



彼が引き継いだ会社は現在印刷業というより

AVメーカーとして大きな成長を遂げるに至っています。

門前の小僧習わぬ経を覚える、とのたとえがあるように

幼稚園児や小学生の頃から手前どもの会社に出入りしたり

「女会長」の仕事ぶりを見ていて「生きる道」を定めたようでした。



彼は現在熟女モノのAVメーカーとしては最も人気のある

T映像の若社長でもあるのでした。



別れる時、青年社長と握手を交わしました。

青年社長の手はガッシリと大きく力強く両手で当方の手を握ってきました。

あのモミジのような小さな手で松坂季実子のオッパイに触れていた手が

こんなにもたくましく成長したかと思うと、

感慨深く感じられて涙が再び零れました。



「あの世に行ってお会いしたとき」と前述しましたが、

それは当方の来世に対する素直な考えです。

俗世の宗教が伝えるような「来世観」というものは一切持っていません。



しかし自分なりの、自分だけが信じる「来世観」というものを持っています。

世の中の全てのことは「主観」です。

自分が「認識」し「感じる」ことだけが「事実」であり「真実」です。

世の中には「客観」は無く、全ては「主観」しかない、

というのが手前どもの考えです。



ですから手前どもには、手前どもだけが考える「あの世」があります。

死んだら「あの世」に行って先にお亡くなりになった人達と再び会える、

と信じている「あの世」が存在しているのです。



「あの世」でお袋や親父に会ったら、どんな話をしようか、

と今から楽しみなのです。



再会を果たした時、お前はなんというみっともない人生を生きてきたんだ、

とお叱りを受けないように現世ではもっと頑張らなければ、

と気を引き締めています。



お袋の母親、97歳で亡くなったおばあちゃんにも会うのが楽しみです。

97歳でおばあちゃんが亡くなるまで、

おばあちゃんは行方不明状態だった当方の身を案じてくれていました。

誠にもって申し訳の立たない孫でありました。



お袋のお父さんの顔を知りません。

おばあちゃんは亭主が若死にしたため

まだ7才の子供のお袋を嫁ぎ先に残したまま、

別の家に行き再婚しました。



そのお袋の父親の写真が一枚も残っていません。

どんなお祖父ちゃんだったのか、あの世で再会するのが楽しみです。



お袋には種違いの8歳年下の弟がいました。

弟は1945年1月2日、台湾海峡で特攻により

弱冠20歳の命を散らして「英霊」となりました。



往時の海軍航空隊時代の写真が当方にウリ二ッなのです。

20歳で死んだ、その叔父さんに、あの世で会って

その無念の心の内を是非聞いてみたいと思っています。



17歳、高校二年生でバイク事故でこの世を突然去った

親友だった菅谷クンにも是非会ってみたい、と願っています。



菅谷クンは血気盛んな青年でした。

手前どもがエロ事師として歩んだ人生を

彼はどのように「総括」するでありましょうか。



義母にも会ってみたいです。

義母は最後に手前どもの目を見つめて

「孫のことは頼みましたよ」と言いました。



あのとき孫だった愚息は6才でした。

あれから11年その孫はもう今年で17歳になりました。

17代続いた旧家の跡取りで婿を迎えた義母にとって

男の子の誕生は夢にまで見たものでした。

一日でも長く生きて孫の成長をどれほど見届けたかったことでしょう。



その無念の思いに報いるためにも

お蔭さまで、なんとか息子も無事に大きく育ちました。

と感謝の言葉を申し上げたいと思っています。



数年前、突然先立たれた15歳年下の佐々木君にも会ってみたいです。

交通事故死でしたが、噂ではその死の原因は「自殺」ともささやかれました。



熱血の高校球児から警視庁のキャリアとなり、

最後は警視庁を辞めて実業家の道を歩んでいました。

いつも笑顔を絶やすことなく好漢であった佐々木君の

ある日突然の死はショックでした。

再会を期して、交友を更に深めたいと願っています。



あの人、この人、あの世でめぐり会いたい故人のことを考えると尽きません。

福沢諭吉、黒岩重吾、加藤康一等々

眠れぬ夜などはそのことだけで数時間を過ごすことがあります。



定められた時が訪れて我が女房ドノと愚息と別れる時が来たら、

「さらば、あの世でまた会おう」

と元気に別れる言葉を伝えたいと思っています。



我が女房ドノは95%の確率で

「いいえ、あの世でお会いしなくても結構でございます」

と言うでありましょう。でもコッソリと、

君を見ているだけでいいから会うつもりだよ、

とダメを押したいと思っています。



東北大地震で被災された皆さまのなかにも、

あの世で再び会うことを約束された方々が多くおられるでありましょう。



授かった命を大切に、あの世で再びめぐり会いの時が訪れたとき

「よく頑張った」と互いに肩をたたき、

称え合えるような思い切りのいい生き方をして、参りたいものでございます。


 









ラジオデイズの番組に出演致しております。

番組のリンクは下記にございます。
・釈徹宗・村西とおるの「色即是空」対談【クリック】
・プロフィールと前回の対談【クリック】




























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主演:浜崎りお

監督:村西とおる



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