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■■ Japan On the Globe(331)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪:日比友好小史 独立を求めるフィリピン人と、それに共鳴する日本人の 間に、幾多の友情の物語が生まれた。 ■■■■ H16.02.15 ■■ 34,799 Copies ■■ 1,008,476 Views■ ■1.日本とフィリピン■ マニラ空港から外に出ると、夏のような強い陽光と暑い空気、 そして群衆と車の喧噪が押し寄せてきた。うっかり日本の冬支 度で来てしまった私は、コートとマフラーと上着を抱えたワイ シャツ姿というなんとも場違いな恰好である。 迎えの車が混雑したマニラの町を走り出すと、独立の英雄・ ホセ・リサールの肖像を描いたポスターを見つけた。運転手に リサールの事を聞くと、今も独立の英雄として尊敬されており、 またリサールの日本での恋人「おせいさん」の事も知っていた。 1時間ほど北上して、マニラの郊外に出ると、美しい広大な 水田が広がっていた。所々に広がる木立は熱帯らしい椰子や棕 櫚は目立たず、むしろ温帯の森林に近い感じである。遠くの山 並みと水田と木立という風景は、九州や台湾を思わせる。確か に地理的に考えれば、日本列島から台湾、フィリピンと、アジ ア大陸の太平洋側を囲む島々として一続きになっている。 フィリピンは我々の意識の中では遠い国だが、東南アジア諸 国の中では地理的に日本にもっとも近く、それだけに歴史の中 では多くの絆があった。ホセ・リサールとおせいさんの物語も その一つである。 ■2.リサールとおせいさん■ ホセ・リサールは1888(明治21)年2月29日、ヨーロッパ に向かう亡命の旅の途中、日本に立ち寄った。リサールはその 前年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、スペインとカト リック教会を批判した小説をヨーロッパで発表し、スペイン政 府から反逆の書として激しく非難された。フィリピンに帰った リサールを待っていたのは、小説の発禁と国外追放の命令だっ た。 日本にはごく短期間、逗留する予定だったが、2、3日ですっ かり日本の魅力に取りつかれ、出発を先延ばしする。そこに出 会ったのが「おせいさん」臼井勢似子である。維新で没落した とはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画 を得意とし、英語とフランス語を学んでいた。 22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、 たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを 案内して貰ったりした。「日本人は温順、平和、勤勉で将来あ る国民である」「日本とフィリピンとは緊密な交渉を持たねば ならないだろう」などと、本国の家族や友人への手紙や日記に 書き残している。 また歌舞伎で見た忠臣蔵には感動を覚えた。身を捨てても、 主君のために尽くす浪士たちの行動に、わが身をおきかえて共 感したのであろう。またおせいさんの方も、兄が彰義隊に加わ り、上野で戦死しているだけに、独立の志士として不遇な状況 にあるリサールに深い同情の念を抱いた。 こうして27歳のフィリピン青年は日本とおせいさんにすっ かり魅了されてしまう。 ■3.「おせいさんよ、さようなら、さようなら」■ リサールはスペイン公使館から、日本に開業医として残って 欲しいという要請も受けた。心の通うおせいさんとともに、こ の国に留まりたいという気持ちが湧いたのも当然だろう。 しかし、故郷や世界各地にはフィリピン独立のために、自分 を待っている同志がたくさんいる。断腸の思いで、彼は当初の 計画どおりヨーロッパに向かう決心をする。4月12日、横浜 港からの出発を明日に控えて、リサールはおせいさんとの別れ の一時を、目黒のあるお寺で過ごした。おせいさんも武士の娘、 リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていた。おせいさん と分かれた晩、リサールは次のような手記を残した。 日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹 木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさん よ、さようなら、さようなら。・・・ 思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かっ て旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛 と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。 私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。ど んな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。 どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・ もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら。さようなら。 ■4.「最後の訣別」■ ヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を 発表し、フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けた。 1892年には家族や友人の反対を押し切って祖国に戻るが、逮捕 され、ミンダナオ島に流刑される。4年間の流刑を終えてマニ ラに戻った彼を待ち受けていたのは、そのころ激化していた独 立勢力の武装蜂起を教唆したとして、名ばかりの裁判を受け、 銃殺刑に処せられるという運命だった。 処刑当日、別れに来た妹に形見として渡したアルコールラン プの中には、「最後の訣別」と題した14節ものスペイン語の 詩が隠されていた。 さようなら、なつかしい祖国よ 太陽に抱かれた地よ 東の海の真珠、失われたエデンの園よ! いまわたしは喜んできみにささげよう この衰えた生命の最もよいもの「最後の訣別」を いや、生命そのものを捧げよう さらに栄光と生気と祝福が待っているなら、 何を惜しむことがあろう。(第一節) 1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールはスペイ ン兵士の放った銃弾に倒れた。「最後の訣別」は、フィリピン 独立に挺身する人々に永く愛唱され続けた。この12月30日 は、独立の英雄であり、国父であるリサールの死を悼む日とし て、今も国家による儀式が行われている。 リサールが処刑までの最期の日々を過ごした要塞イントラム ロスには、現在、リサール記念館が建てられ、気品のあるおせ いさんの大きな肖像画も掲げられている。 ■5.対米独立戦争での支援■ リサールが銃殺された2年後の1898年、スペインとアメリカ との間で米西戦争が勃発し、この機に乗じて革命指導者の一人 エミリオ・アギナルドがフィリピン独立を宣言し、自ら初代大 統領に就任した。しかしスペインを打ち破ったアメリカは、新 たな宗主国として居座ってしまう。フィリピン革命政府はこん どは米国との戦いを始め、日本にもマリヤノ・ポンセ駐日外交 代表を日本に送って、支援を求めた。 明治政府はフィリピンに同情的だったが、日清戦争後で国力 が弱っており、またロシアの南下が迫る中で、アメリカと事を 構える余裕はなかった。それでも日本国内有志が300トンも の武器弾薬を送ったり、5人の陸軍予備役将校やフィリピン在 住日本人約300人が義勇軍として、独立戦争に加担した。 革命軍の指導者リカルテ将軍はアメリカに鎮圧されて一時、 囚われの身になったが、脱獄して日本に亡命。大東亜戦争が始 まるとフィリピン独立の約束を取り付けた後、日本軍とともに 75歳の老躯を駆って、祖国への再上陸を果たした。1943(昭 和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、「フィリ ピン共和国」として独立の日を迎えたが、その後、日本軍の敗 退と共に逃避行軍を続け、80歳にして亡くなった。 リカルテ将軍の副官として永く公私の交わりを続けた太田兼 四朗氏は、遺言にしたがって、遺骨の一部を第二の故郷である 日本に持ち帰り、東京多摩の太田家の墓所に納めた。昭和46 年には、将軍が亡命中に住んだ横浜市の山下公園に「リカルテ 将軍」記念碑が建立されている。[a] ■6.ラウレル大統領と大東亜共栄圏の理想■ 日本軍政下からの独立は、現在のフィリピンの教科書でも 「第2共和国」とされ、大統領となったホセ・ラウレルも、マ ラカニアン宮殿で第3代大統領として肖像画が飾られている。 11月5日、東京で大東亜会議が開かれ、満洲国、タイ、ビ ルマ、インドなどの代表が集まり、ラウレル大統領もフィリピ ン代表として参加した。 歓迎会に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。そし て私は勇気づけられ、鼓舞され、自らに誓った。10億の アジア人、10億の大東亜諸民族−−−どうして彼らが、 しかもその大部分が、特に米英に支配されてきたのか。 (バー・モー「ビルマの夜明け」より) 大東亜共栄圏の理想をラウレルは心底から支持したが、日本 の国力で英米を駆逐できるとは、信じられなかった。いずれ日 本は敗退するだろうが、しかし現時点では日本から独立を与え られ、弱小国として日本と米国の狭間で、とにかく民族が生き 残れるように導いていくことを自らの義務と考えた。昭和19 年10月には、日本の敗戦必至と判断して、次のような遺書を 書いた。 兼ねて言う通り、日本が負け比島(フィリピン)が再び 米国の制圧下に入るも、此(この)大東亜戦争の影響は必 ず将来の東亜に於ける子孫に及ぼし、亜細亜人の亜細亜な る思想は、到底撲滅せらるべきものにあらず、必ず自分ら の衣鉢を継いで立つものあるを確信しおれり。 ラウレル大統領と親交を結んだのが、駐比日本大使でフィリ ピン派遣軍の最高顧問だった村田省蔵だった。敗色濃厚となっ た1945年6月、弾丸雨飛の中を村田大使に率いられて、ラウレ ル大統領、アキノ国会議長やその家族などは日本に亡命し、奈 良ホテルに滞留した。 戦後、ラウレルは一時米軍に逮捕されていたが、帰国して上 院議員として政界に復帰し、日本との賠償会議の首席全権を務 めた。この時、奇しくも日本側代表となった村田省蔵と渡り合 い、ともに日比国交回復に貢献した。亡命中に滞在した奈良ホ テルには、「ホセ・P・ラウレル博士−比共和国第二代大統領」 と刻まれた胸像が残されている。 ■7.ロハスを救った神保中佐■ 戦後最初の大統領となった第5代マニュエル・ロハスは、日 本軍の進攻が始まった時に、日本と戦うべく、志願してフィリ ピン軍の指揮に当たった。マッカーサーが豪州に脱出した後、 飛行機を迎えに出すと言ってきたが、「自分はフィリピン民衆 と運命をともにする。戦争が済むまで一歩も離れない」と断っ ている。 ロハスは日本軍に捕らえられ、マニラの軍司令部から処刑せ よとの命令が出された。この時に出会ったのが、神保信彦中佐 である。神保は、やつれてはいたが眼光鋭く気品のあるロハス を一目見て、これはただ者ではない、と見抜いた。いろいろ話 を聞いてみると、日本軍とは戦ったが、決して親米でもない。 あくまで祖国フィリピンの独立を求めているのである。ロハス は日本の歴史にも詳しく、日本はヒロヒト天皇を戴く仁義ある 国で、ドイツのように捕虜を虐殺したりしないと信じていると まで言う。 これはフィリピンのためにどうしても生かしておくべき人物 だと考えた神保はマニラの軍司令部に飛んで、処刑命令につい て問いただした。すると命令は急進派の若手参謀が勝手に出し たものだと分かった。和知鷹二参謀長は神保の助命意見を諒解 して、ただちに「ロハスを当分宣撫工作に利用すべし」との軍 命令を出してくれた。 ロハスは ミンダナオ島北部にあるマライバライで、約2万 人の捕虜を取り仕切る役を命ぜられた。日本軍が敗退した翌年 の1946年7月4日、ロハスは戦後初の大統領に就任し、フィリ ピン共和国の3度目の独立を宣言した。 ■8.神保を救ったロハス大統領■ 神保はロハスを救った後、北支那方面軍に転属となり、共産 軍との戦いに活躍したが、日本の敗戦に伴い、中国戦犯容疑者 として逮捕された。隆子夫人は、何としても夫を助けねば、と 奔走し、その思いをロハス大統領に伝えることができた。 ロハスは直ちに蒋介石あてに助命嘆願書を送った。「私の大 統領就任の最初の手紙が、なぜこのような個人的なものでなけ ればならないかは、本書の内容でお分かり戴けると思います」 と書き始められた手紙は、自分が生きながらえているのは神保 中佐のお陰であること、彼がいかに人道的な人間であるか、を 真情をこめて綴ったものであった。ロハスのまごころは蒋介石 を動かし、ほどなく神保の釈放が決まった。 神保は昭和22(1947)年6月28日早朝、新聞記者やニュー ス・カメラマンが待ちかまえる品川駅に着いた。「地上の権力 はいつかは亡びるが、真の愛情は永久に続く」と神保は語った。 ロハスは翌年4月15日、大統領就任後2年余りで急逝するが、 そのわずか6日前にも神保の生活を案じた手紙を送っている。 神保はその後、日本リサール協会の理事長を務め、日比友好 に尽力し、昭和53年に他界。1995(平成5)年には第12代フィ デル・ラモス大統領から、ロハスを救った行為に対する表彰状 が、未亡人と長男に手渡された。 ■9.今も生まれつつある無数の日比友好の物語■ スペインやアメリカ、日本など大国の狭間で、木の葉のよう に翻弄されながら、必死に独立を求めてきたのが、フィリピン の近代史の基調であると言える。その過程ではフィリピンの運 命に同情する日本人との間で、幾多の友好のきずなが結ばれた。 日米激突の戦場となったフィリピンは大きな被害を受けたが、 それに対して反省と謝罪をしているだけの「引きこもり」的態 度では、近隣の大国として日本の責任を果たしているとは言え ないだろう。 今回のフィリピン訪問では、筆者は日系の6つの工場を訪問 したが、それぞれ数人の日本人が、数百人、あるいは数千人の フィリピン人を雇用して、生産を行っていた。一心に仕事をし ながらも、私が通りかかると明るく挨拶をするフィリピン人従 業員、また彼らを一生懸命育てようと努力している日本人幹部 の姿勢を見ると、今も無数の日比友好の物語が生まれつつある 事が感じられた。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(156) リカルテ将軍〜フィリピン独立に捧げた80年の生涯 わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その 星条旗の下に帰ろうとは思わない。 b. JOG(180) 渡辺はま子〜同胞(はらから)を思う歌 その歌によって目覚めた国民の同胞への思いは、マニラ郊外 に囚われた百数十名を救い出した。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 名越二荒之助編、「昭和の戦争記念館第4巻 大東亜戦争その後」 ★★★、展転社、H12 2. 佐藤虎男、「フィリピンと日本 交流500年の軌跡」★★、 サイマル出版会、H6 3. Inside News of the Philippines、★★★、 (フィリピン歴史写真館など、価値ある資料を満載。) _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「日比友好小史」について 小泉環さんより 日比友好小史を読ませていただき、思わず涙ぐんでしまいま した。私の伯父は戦中、フィリピンに渡り、現地の産業開発に 取り組んでいました。米軍侵攻とともに現地招集となり、戦死 の通報はありましたが、具体的な場所、日時はいまだに不明で す。 伯父の性格からフィリピンの民衆に心を砕いていたことは間 違いなく、そのフィリピンでこのような日比友好の歴史があっ たとは私の不勉強でした。フィリピンは東南アジア諸国の中で 唯一、経済発展に乗り遅れた国です。フィリピンの経済発展の ために留学生の受け入れ、民衆のための働き口開発など援助の 手を差し伸べる必要があると思います。 それにしても旧日本軍は大東亜共栄圏、八紘一宇などと唱え ておきながら、その精神は文中の急進派参謀に見られるように 全軍に徹底していませんでした。その精神が全国民、全軍のも のになっておれば、戦争の行方も変わってきて、アジアは日本 を解放者として迎え入れてくれたのに、と残念でなりません。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 「八紘一宇(天の下に住むものすべてが、一つ屋根の下の大家 族のように仲よくくらそう)」の理想は、今またイラクで求め られていると言えましょう。 ■タイゲンさんより 私も2年余り米国に居住していましたが、そこで痛感したこ とは故国を知り、そして故国に誇りを持たないものは外でも通 用しないし、大して信頼もされない、ということです。その点、 このサイトはもっと日本人に知られてほしいと願っています。 それと、最近感じていることなのですが、このような日本の 本来の歴史や日本像、日本人像を日本人自身が英語で書き記し、 外に発信することが必要ではないか、と感じている次第です。 (別に英語でなくとも、スペイン語でも中国語でもいいのです が、より広く理解されるという意味で英語、という趣旨です) というのは、最近、数人の外国人に日本の歴史を断片的に説 明していて、この手の素材が無い、ということに気がついたか らです。外国人が英語で書いた日本史のは数多あるのですが、 日本人によるものが見当たらないのです。外国人による日本史 は、それなりに面白い視点があることも事実ですが、一方でど うしても、言葉の壁や著者の持つ文化的背景の違いから生じる 誤解が付きまといます。やはり日本人の手によるもの、それも 自虐史観とは別の立場からのものが必要ではないかと思うので す。 かつて先人は、茶や武士道や、典型的日本人について英語で 記し、海外に広めようと努めました。これをさらに一歩進め、 日本の歴史一般について同様のことを行ってはどうかと思うの です。作業的にはかなり大変なことなので、一人では不可能だ と思いますが、趣旨に賛同する有志を多く募れば、できなくは ないのでしょうか。その節は私も微力ながら是非お手伝いさせ ていただきたいと思う次第です。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 弊誌ホームページには、「教育者のページ」というコーナー があり、そこで、PHPが発行している"JAPAN CLOSE-UP"という 広報誌が英訳してくれた号を4つほど、アメリカ在住の読者が 英訳してくれた号が一つ掲載されています。ご利用頂ければ、 幸いです。 また、どれかお気に入りの号を英訳されたら、同様に掲載い たしますので、ぜひ原稿をお送り下さい。© 平成16年 [伊勢雅臣]. 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