今回、初めてのジーザス役となりますが、芝さんと『ジーザス・クライスト=スーパースター』(以下『JCS』)の付き合いはとても長いですね。
- 芝
- 群衆役、兵士役といったアンサンブルから始まって、シモン、ユダ、そしてジーザス。ひとつひとつの役を経て、一歩一歩階段を上ってきた気がします。
僕と『JCS』の出会いは、大学生のとき。講義の一環で観劇したのがきっかけでした。今でもありありと思い出せるほど、すさまじい衝撃を受けましたね。体育会系の気質だった当時の僕にとって、ミュージカルというのはどこか気取った印象があったんです。でも、そんなイメージが吹き飛んで「なんだ、これは!」と。
ひと目惚れですね。
- 芝
- まさに熱に浮かされたような状態で、いてもたってもいられず、所属していた英語劇研究会で上演したんです。そこで初めてユダを演じました。でも、やはりどこか物足りない。もっと本物の『JCS』を演じたい! と思って、四季に入団したというわけです。
初参加は87年の日生劇場での公演で、アンサンブルでした。
- 芝
- あの時の稽古は本当に大変でしたね(笑)。大八車の演出パターンだけでも100通り以上を試しました。3ヵ月間必死で稽古して、それでも舞台に上がれるかどうかわからない。なんとかチャンスを掴むために、群衆から兵士まで7,8役を覚えて。どんな役でもいい、骨の一本や二本折れてもいい、誇張じゃなく「生きること=舞台に上がること」でした。
そうした経験を経てのタイトルロールであるジーザス役ですが、どのような思いですか?
- 芝
- 嬉しくもありますが、それ以上に「なんて難しい役なんだ!」という驚きですね。これまでユダをずっと演じてきて、ジーザスへの愛憎半ばする複雑な感情をどう表現するかに苦労してきました。これももちろん難しいのですが、ジーザスでは演技の方向性自体がまったく逆なんです。
ユダやシモン、群衆役の場合、ジーザスという器がある。ジーザスへ向けた「攻めの演技」でいいわけです。ですが反対に、ジーザスに求められるのは、それらすべてを受け入れる「受けの演技」。精神的にも肉体的にも、ジーザス役の難しさは、経験した人でなければわからない難しさだと思います。
特に僕の場合、群衆、シモン、ユダと演じてきていますから、彼らの思いが身に沁みてわかる。その分、受けきるにはとても重かった。
その難しさを、どうやって克服したのでしょう?
- 芝
- 助けになったのは、演出家(浅利慶太)からの「自意識を捨てろ、普通でいいんだ。ジーザスが神なんじゃなく、周りが神にするんだ!」というアドバイスでした。
ジーザスは神ではなくひとりの男、生身の人間なんです。それゆえに、気負ってジーザスっぽく演じようとすればするほど、ジーザスとしての居方(存在の有り様)から遠ざかってしまうと気付かされました。
特別なことをするのではなく、喜びも悲しみも“ただ、もらって返す”。美しくシンプルに「普通にある」ことで、ジーザスがぽっかりと浮かび上がってくるのだと。
「周りが神にする」という点で、本作においてはアンサンブルが演じる群衆が非常に重要な役割を担っていますね。稽古場でも、芝さんはアンサンブルの指導に多くの時間を費やしていました。ご自身の稽古はいつされていたのですか?
- 芝
- 僕は、ひたすらひとりで稽古していました。ジーザスがそうであったように、孤独の中で自分を最大の批判者として自分を律し、自分を知る。自分との闘いです。体も、72キロで体脂肪率が20%くらいあったのを、筋肉をつけながら65キロまで絞り、体脂肪率も12%まで落としました。
それに、実は稽古場でも自分の稽古はできているんですよ。というのも、若い団員を叱咤激励するとき、頭ごなし言ったのでは体に入っていかないので、ぐっと堪えて「こんな時、自分ならどうする?」と問いかけて考えさせる。これは、そのままジーザスの説法なんですね。たまに、ユダが出てきてしまうときがありますけど(笑)。
『JCS』にずっと関わってきた芝さんだからこそ、期待も大きいと思います。追い求めるジーザス像はありますか?
- 芝
- そうですね、僕は“ジーザス像”というものはないと思っています。なぜなら、言葉にした途端、類型的な説明になってしまうからです。
僕が意識しているのは、とにかく腹を深く、柔らかく保ちながら、“ただそこにいる”こと。ジーザスは、決して僕ひとりで完結する役ではありません。その意味でどこまで追求しても終わりはないし、だからこそ毎日ワクワクしながら舞台に立っています。
終演後は、その日の反省をノートに書いて点数をつけているんですが、まだ満足できる点数はないですね。最高でも75点くらい。
75点! 「ゲッセマネの園」クライマックスの声の伸びなどは、すでに観た人たちから称賛の声が多数届いています。
- 芝
- あの場面は、それまで「受けの演技」を貫いてきたジーザスが自身の葛藤を告白し、そして死を覚悟する大切なシーンです。クライマックスの声の伸びは、実は毎回酸欠状態。でも「あそこまでいかないと、いけない」(ジーザスに到達できない)という思いがあるんです。磔にされる運命を受け入れるとは、どれほど苦しく、辛い試練なのか。その境地に少しでも近づくため限界まで声を伸ばすんです。逆に、思いがつながっていかないと最後まで伸びきらない。観ている方が息を飲んで、胸が押し潰されるような緊迫感が出ていればいいのですが。
これから<ジャポネスク・バージョン>も開幕しますが、演じる側として違いはありますか?
- 芝
- ジャポネスク・バージョンは、静かなる様式美があり、表情もわかりづらいので、わざとらしさや嘘っぽさが少しでもあると、すべて白日の下にさらけ出されてしまう恐さがあります。それだけに居方が問われ、生半可では負けてしまう。最初は圧倒される舞台美術や白塗りのメイクが、後半では「これが自然」だと感じられるようにしたいですね。
では、最後にこれから観劇される人へのメッセージをお願いします。
- 芝
- キリストの生涯をモチーフにした作品ですが、構えずにあくまでひとりの人間としてのジーザスの生き様を見て欲しいですね。丸裸になった人間の醍醐味を。きっと何か、自分の心の中に共鳴するものが見つかると思います。
そして、一度きりでなくもう一度と繰り返し見るうちに、ユダや群衆など別の視点から見えてくるものもあります。自分がさまざまな役を通じて感じ取ってきたものを、皆さんにも感じて頂ければ、これ以上の喜びはありません。