金森さんは2007年から『ジーザス・クライスト=スーパースター』(以下『JCS』)に出演され、最初からイスカリオテのユダという重要な役を演じてきましたね。
ユダは、命を掛けてジーザスを愛した結果、ジーザスを「裏切る」という行為をはかった、裏切り者の代名詞ともいえる存在です。いくらジーザスを愛してもその愛が届くことのなかったユダ。
民衆もまた同じです。皆が苦しみ、ジーザスに救いを求める中で、娼婦マリアに心を開き、キスを許すジーザス。この光景はユダにとって衝撃的なものです。
その時ユダはジーザスに対し、こんな大事な時になぜマリアを許すのかと問うと、ジーザスは「かまうな 私のこの人に 罪のない者がいれば 石をもて この人を打て」と発します。
確かに罪を犯したことのない者はいないのかもしれない。しかしそう返されたユダの気持ちがわかりますか。同じ理念を共有し歩んできた唯一の存在であるジーザスに受け入れられなかった今、自分は一体何のために生きてきたのだろう…。
そう考えたとき、ふと自身のこれまでの人生を見つめ直さずにはいられなくなりました。
「愛が届くことはあるのか?」「孤独の中でしか、生きる術はないのではないか?」「愛するがゆえに裏切るなら、愛とは何なのか?」。
答えは見つからず、自分の魂とユダの魂がだんだんと混濁してきて、『JCS』京都公演では、24時間悩み続ける日々でした。舞台の上でも、そして舞台を降りても、「早く天に召してくれ!この苦しみから解放してくれ!」と願うほど。周りの方々にも心配をかけてしまいました(笑)
ユダが憑依してしまったのですね。
その頃と比べて、ご自身の中では何が大きく変わりましたか?
今回の稽古中、太宰治の『駈込み訴え』というユダを扱った作品を読んで気づいたことがありました。描かれているユダに対して「なんて女々しく、独りよがりな男なんだろう」と嫌悪感を覚えたんですね。でも、それが自分が演じていたユダと重なり、恥ずかしさをおぼえました。
本来、ユダが抱くジーザスに対する「愛」は、群衆一人ひとりに対する想いや愛につながっているのではないかと思います。群衆一人ひとりもまた、孤独の中でもがいているんです。だから、自分を見つめて、この瞬間を必死に生きることこそが大切。
否定ではなく、孤独を受け入れること。例え届かなくても、生きることは愛することであり、そこに意味があるのだと思います。生きていることは当たり前のことではない。本当は生きていることは奇跡なんですね。
一瞬一瞬を感謝しながら、出来ることをやる。それが自分の生きていく道だと、今は思っています。
それが、仰った「人生観をも変えてしまった」ということの意味ですね。
では最後に、7月5日(火)から始まる<エルサレム・バージョン>アンコール公演への意気込みをお聞かせください。