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[21440] Mode.憂国 |近世風架空王国物語|
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2011/06/30 01:25
 窓から射す光が、美しく伸びている。
 少女はゆっくりと青の絨毯を踏み、彼女が訪れることを知る奉公人が活けてくれたのだろう、眠るこの部屋を行くその頬を柔らかに芳香が過ぎていく。
 母親と弟と、会合のために彼女はここへ来た。
 この会合は重要で、大切なことを話し合わなければならないことを知っていたが、机の向こうに座るであろう、その人たちと顔を合わせることに少女は気が引けた。
 席に着くことはしなかった。
 母を残して、彼らと顔を合わせることもなく、ここへ着くなり少女は幼い弟を連れてこの広い屋敷を歩き回り、疲れたのだろう、母のもとへ戻るという弟を人に預け、一人になった彼女は、逃げ込むようにこの部屋にやってきた。
 部屋の中心、彼女が足を止めた先に、一枚の肖像画が掛けてある。
それは変わらぬ姿で、温かく彼女を向かい入れ、足はまた一歩、彼へ向かう。彼、――少女の父親は、ここではない静かな丘で眠りの中にいる。
 写真がないわけではない。しかし彼女は、この画を好んだ。穏やかな陽に照らされ、今このとき、彼はこの画のように彼女に微笑みかけているようで、心に酷く染み入るのだ。
 窓の外で、明るい声がする。
 母と弟のものであるそれに、逸れることのなかった視線がふと光の方へと向かう。つられるように楽しげに、足は自然と窓に向かい、外を覗く頬は小さく緩む。
 そして平穏の陽のもと、一つの銃声が鳴った。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※※
基本見切り発車にも関わらず修正も追いつかず、古いものは特に読みにくい文になっております。
それでも読んでくださった方には心から感謝を、また、新たに読み始めようとしてくださっている方はご注意ください。


初投稿です。
お見苦しい点も多々あるとは思いますが、楽しんで頂ければ幸いです。



[21440] Ⅰ-1
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2011/06/30 01:22
 太陽はどこだろうか。
 青い空がただ美しく広がるこの見上げた先には、鳥も雲もなく、光はとろけるようにやわらかく彼の瞳になじんでいく。
 何も遮るもののない、空の底が――見上げているのに覘いている気のする今日の不思議な空の底が、この眼ひとつで見え透いて、木箱の上に寝転ぶリツはひとつ舌打ちをする。
 けだるい体を預けた先、見計らったようになぜこんな青空が目前に用意されているのだと、彼は苛立つ。青く透き通るこの清々しさは彼にとっては皮肉そのもので、彼自身それが単に言いがかりであることはわかっていても、不愉快を隠すことはしない。いや、隠すことが出来ない。この空とは裏腹に、彼の中では沸々と邪魔なものが湧き出して、そればかりに支配されてしまう。
 馬鹿にしている、と思うのだ。この空が自身を。
 なぜ、と聞かれればリツは答えに困ってしまう。直感と言ってしまえばそれまでで、直情であるが故にうまく処理できない。しかし、彼はそもそも根拠の不在を好しとしない男である。自身の中にこの感情の理由を見つけることが必要だ。だけれど、この直情はけだるさに拍車をかけ、彼をその作業から遠ざける。捌け処のない苛立ちは蛇のように体の中を這い、彼の口は知らないうちに歪み不機嫌の体はますます濃くなる。
 いっそのこと瞼を閉じてすべて忘れてしまおうか、そうちらりと思ってリツは躊躇する。不愉快で面白くもない、だがどういうわけか心地悪いわけではない。
 矛盾を抱えながら、彼は空と格闘を続ける。ここに留まることは苦痛であり苦痛ではない。
 そうして、ふと突然呼吸を意識してみる時のように、彼はここが無音であることに気づく。
 刹那、目の前が黒一色に染まった。
 急な光と一気に帰ってくる賑わいの声と足音、そこに混ざる不気味な声、極めつけは黒光りの中に写りこんだリツ自身の顔、それが不自然なほどに近い――
「うっ――」
 出た声ははじめの一音だけだったが、体は瞬時に反応し、彼は全速力で後退る。あまりの勢いに、ベッド代わりにしていた木箱から落下し、さらに後頭部を強打、しかし衝撃に他ならない驚きが、頭部の痛みに勝る。混乱する頭の中と愕然とする心拍数を必死に払いのけ、
「っざけるな!」
「あら酷い。うなされてたから起こしてあげたのよ、親切にも」
「うなされてた方がまだましだ!」
 荒い呼吸を整えつつも見てしまった恐ろしい画に、夢にでそうだと頭を抱えるリツの横で、酷いわーとわざとらしく傷つく彼、改め自称彼女は屈めた体を起こす。
 いわゆる性別を飛び越えてしまったた存在である彼、ジルは、長めのショートヘアーの金髪をきれいに整え、唇は艶やか、しかし一方でその肉体は十分に鍛えられ、筋骨隆々、生まれつきの褐色の肌が更に引き締まった印象を、その上、上背もある。極めつけの黒のサングラスが彼を不気味なものにすらし、もはや何を目指しているのか全くわからない、とリツは思うのだが、不思議なことにこの街では彼が注視されることは少ない。
「大体店番はいいわけ?」
「……うるせえ」
 得意げな顔で窺うジルの視線から顔を逸らし、盗み見るようにリツは辺りを見回す。
 赤レンガが敷き詰められた眩しい広場の中で、布を張っただけの簡単な屋根と並ぶ木箱、キャベツやらかぶやらが積まれたその向こう側には、それらを目に留めながら人々がにぎやかに行き来する。途切れることなく、ぶら下げられた空き缶にはコインが入れられ、木箱の中身は次々に買われていく。
 左右も、流れていく人のその向こう側にも、彼と同じようにその日限りの露店を広げ、商人やら農夫やらが騒がしく客引きをしている。カラリと晴れた五月の太陽の元、日常は変わりない。
 いつ現実が飛んでったと、リツは一人眉を顰める。
 それに気付いたのか、ジルが頭の上から、
「豪気なもんね、この街の住人は。混乱の最中にあって普段とまるで変わらないんだもの」
 呆れたような、どっちつかずの態度で言う。今度はリツが、ちらりとジルを窺う。
「……王家が勝手に騒いでるだけだろ。そもそも知らされてない」
「公表されてなくたって、市民というものは本来変化には敏感なものよ。ただでさえ情報管理は甘甘なのに。その分こっちはやりやすいけど」
ジルの口元はしっかりと弧を描いている。
「面白かったでしょ? こないだの」
「そこそこ」
「そこそこ? 素直じゃないわねぇ、譲りがいがないわ。もっとこう、輝く少年の瞳!みたいなのがないと。若さが足りないわ、若さが!」
 彼はジルをなるべく視界から叩き出し、
「今月のは?」
「……やっぱり気になってるんじゃない」
 ジルがにやりと微笑する。彼はぶら下げていた鞄の中から紙袋を取り出すと、当然の様に広げられたリツの手のひらに、不満げな顔をしつつも乗っけてやる。
 中には本が一冊と雑誌が三冊。雑誌と言っても絵の描かれた表紙はでたらめで、中身は文字で埋めつくされている。リツはそのうちの一冊を取り出し、いくらか大雑把に目を通してから今度は本のほうを取り出す。
「積極防衛論?」
 尋ねながら彼は頁をめくり、文字を追っていく。
「お隣フィオレダ王国の流行」
「中身は?」
「まあ、それなりに役に立つわよ」
 ふーん、と視線を落としたまま曖昧な返事を返し、彼は二、三ページをざっと眺めて表紙を閉じた。
 受け取った紙袋をしっかりと懐に抱え、
「……なによ?」
 彼の要求の手のひらは再び上がる。
「こないだの、ちゃんと届いたって連絡入ってんだろ? 報酬」
「あら、先払いしてあげたじゃない?」
「あんなんで足りるか! なにが年代もののワインだ、取引禁止の拳銃運ばせやがって」
「ちゃんとワイン入れたけど?」
「あんな雑なカモフラ、入れたうちにはいるわけねえだろ。俺が兄貴と憲兵の目をごまかすのにどれだけ苦労したと思ってんだ。盗賊の類にはやけに絡まれるし、お前んとこの情報管理こそ怪しいな」
「うちの管理はいつだって万全よ。それに、そんなの全部いつものことじゃない」
「だったら中身をごまかす必要もないだろ。倹約なら他でしろ」
「そもそもどっかの誰かさんが、雑なワインのカモフラで騙されちゃったのが原因じゃないかしら?」
「うっ」
「ま、私に寄せるその絶大なる信用は買ってあげるけど」
 うふっ、と自信たっぷりの笑みを向けられ、彼は苦虫を噛み潰すとともに腹だしさに大いに口を曲げる。
「報酬ねぇ。小銭集めて何したいか知らないけど、どうするつもり? もう〝お祭り〟も終わり。今立たないとこの国ではあきらめる他ないかもよ。世の中貴族様至上主義なんだから、儲けたいなら混乱に乗じるのが一番。シュドル陣営にちょっとでも貢げば、足場なんて簡単に作れるわ。口利いてあげてもいいわよ、安価で」
 冗談の延長のような口調で、ジルは鋭く口角を上げる。
 リツの耳から陽の喧騒がゆっくり遠ざかっていく。
「そう簡単にいくもんでもねえだろ」
「まあ、末はうちで小間使いにしてあげないこともないわよ」
 ふふん、と戯れに笑うジルとは裏腹に、リツは無言で人ごみに視線を置き続ける。
「……俺にも立場がある。村は離れられない」
「あんたって意外と律儀よねぇ」
「そういう決まりだ」
「掟なんて守る柄だったかしら?」
「そういう問題じゃない」
「勿体ないわー、こんな商売のしやすい国、めったにないのに。こうして野菜売って、それでいいの?」
 一向に顔を上げないリツに、ジルは口角を下げようとはしない。にんまりと深くした笑みで、彼はわざわざ身を屈め、
「ホントは試してみたいってうずうずしてるくせに」
「くどい!」
「あら怖い」
 思わず睨みつけた先で、怒ったわー、とけらけら笑うジルとかち合い、リツは不愉快と書いたような表情でふいっと顔を背け、雑踏を睨む。
「もういい、早く帰ればいいだろ」
「いやよ、アイくんにも会いたいしー」
「兄貴ならまだ帰って来ねえよ」
「あら残念ねぇ」
 ため息混じりにジルは悠長に言い、この場を去る様子はない。むしろ手を打つようにひょいと表情を変え、
「なら仕事の話ね。今回の雑誌代埋め合わせてもらわなくっちゃ」
「こないだの分でイーブンだ」
「それこそ足りないわ! あんた、相変わらずあれの価値がわかってないわね。あたしの素晴らしい実力がなかったら、あんな高度な情報は手に入らないの! おまけに今回のは特別大変だったのよ! ちゃんと見合うだけの仕事、してもらなきゃねえ」
「、わかった、わかった!」
 ぐいぐいと寄せられるジルの顔を追い払いながら、リツは乱暴に繰り返す。
「わかればいいのよ」
 ジルはにんまりと笑い顔を引き、リツはげっそりと疲れた顔を垂れる。
「あんた、今日は二条村経由帰るんでしょ?」
「そうしろっつうなら、それで帰るけど」
「ならそうして。今夜出発すれば、三日後には着くわね。今回も運び屋さんよろしく」
「今度はなんだよ」
「今度こそ年代物のワイン」
 即座にリツが疑いの目を返す。ジルは心外だと大袈裟に肩を上げて見せてから、鋭くも余裕のある笑みにすっと変わり、
「今度こそホントよ」
 潜めた声はいくらか重みを増す。
「……ワインじゃなかったら、今度こそ大金払わせる」
「十八時、大手通り、十一番目ね」
「夜? これから持ってくるんじゃないのか?」
「まだこっちに届いてないのよ」
「どういう――」
「ごめん、遅くなってしまった」
 名を呼ぶ声に二人そろって振り返れば、ガタガタとレンガの地面を鳴らしながら台車を引く一人の青年がいる。
 人ごみを上手く避けながらやってくるその姿を認めると、ジルはリツに向き直り、
「おにいちゃん、随分早いお帰りねぇ」
 にやりと笑った。
 アイくーん、と早速手を振るジルにアイはすぐに笑顔で答え、店に着けば彼に丁寧に頭を下げて挨拶をする。
 リツとジルの取引などまるで知らない彼だが、それでも弟の年の離れた友人としてジルになんの疑念も違和感も抱かないらしく、リツは彼の感覚と、自身における兄の認識を心配せざるを得ない。
 いつも弟がお世話になっています、と和やかに言うアイの横で、リツは苦い顔をする。
「外の配達に行ってたの?」
「はい、おかげ様で最近は箱での注文も多いんですよ。ああ、よかったらいくつかどうぞ」
 そう素直に笑うアイは大きな紙袋を手にすると、並べてあるものを次々に詰め込んでいく。
 リツに比べ、アイはいくらか柔らかい目元をしていて、良く見れば輪郭や鼻など二人は似ているところのほうが多いのだが、一見した印象に性格の違いが手伝ってか、ジルを含め大多数が似ていない結論付けている。
「嬉しいわぁ、すっごぉくおいしいからいつも助かってるのよぉ」
「こいつにそんなにやらなくていい!」
 慌てて阻むリツの努力はむなしく、ジルは紙袋を両手にずっしりと提げ、帰って行った。



[21440] Ⅰ-2
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2011/04/04 23:58

 荷台を覆う布越しに、差した夕日がそこかしこに色をつける。見上げる雲には影が伸び、街には徐々に明かりが灯されていく。穏やかな時の流れる広場では時折軽やかに笑い声が上がり、賑わいが一つ一つ去っていく。
 リツは振り返り、
「あとは?」
「これで全部だ」
 アイから受け取った木箱は手前に積み上げられ、商売道具のすっかり押し込まれた荷台はこの街で買い揃えた品々で半分以上が埋まっている。
 荷台を降り、出入口に厚布を下ろしリツは助手席に乗り込む。まだ残る人々を注意深く避けながら、車は広場を後にする。歩く人を抜き、いくらかの馬車や車とすれ違い、夜を照らす街灯が両端を過ぎていく。
 車は大手通りを進み、その途中、リツの言で車は道端に止められる。
「すぐ戻る」
 アイは残しリツは一人車を降り、車から立ち昇る白い蒸気の中をくぐっていく。
通りに面した店はそれぞれ玄関口に灯りを提げ、まだ往来の絶えないなかをリツはすいっと脇目を振ることもなく行き、青銅の看板の提がる店の寂しげなわき道へ入っていく。
 道はそれほど広くない。裏口らしい左右のドアも奥に進むほど無くなり、黒い影の両方の壁には靴音だけが反射し、高くから射す月明かりがひっそりと足元を照らす。代わり映えのしない景色を歩くうち、夜の冷えた空気がやけにはっきりしてきて、彼はいくらか身ぶるいする。
「こっちよ」
 声に振り返る。見れば、壁と通り過ぎたそこは引戸で暗く穴のように窪んだ向こうで、灯りも持たず女性が一人立っている。
ゆるく波打つ茶色の長髪、黒の眼鏡をかけた彼女は、整った顔立ちも均整のとれた立ち姿もすべてが美しい。
「シェイラ?」
 こんばんは、と微笑した彼女にリツは怪訝そうな顔をする。
「あら、私じゃだめなの?」
「ただのワインだろ? なんでわざわざ」
 彼女は微笑したまま踵を返し、彼がくぐるように抜けたドアの先にはまた壁と壁に挟まれた細い道が続く。
「変装までして」
「ワインだって、高価なものなら金塊にだって化けるのよ。厳重にするに越したことはないわ」
 ここ、と彼女が立ち止る。壁の中に埋まるようにある、古びたドアを開けた先にも明かりはない。
「重いから気をつけて。取り扱いは厳重にね」
 闇になれた目を注げば、木箱がひとつ台車の上に乗っている。それほど高さはなく、広げた両腕が回る程度のそれを狭い戸口から出し終え、
「二条村を回って帰るんでしょ?」
「ああ。受け渡し場所は?」
 差し出されたメモを受け取り、彼は案内された行きとは違う一本道を一人重い台車を押していく。
「兄貴」
 まっすぐ伸びた大手通りの終わり、遠く正面に聳える王宮の城壁をじっと眺めていたアイはガラスを叩く声でようやくドアを開ける。
「どうした? なんかあったのか?」
 そうアイの眺めていた先に、リツは警戒の眼差しを向ける。
「いや、なんでもない。お前の用は済んだのか?」
 アイはそちらに視線を残すこともなく平静と変わらず言う。リツは不審げに眉を寄せるが、城頭では王家の紋様である梟の御旗がいつも通り淡々となびいているだけで、気に留めることなく彼も視線を戻し、
「荷物が増えた。積むの手伝ってくれ」

「ああそうだ!」
 そうアイが声を上げたのは、石壁に囲まれたこの街の南東、東門を出た頃だった。
 南北と東西に伸びる二つの山脈が丁度交わるその裾に構えられたこの城下街には、東西と南に一つずつだけ、街と外をつなぐ門がある。街が夜に沈むとともにたった今、それが閉じられた音を背で聞いたリツは、読んでいた雑誌から顔を上げアイの思い出し事に些か身構える。兄が抜けているのは、弟であるリツが身に沁みて最もよく知っている。万が一街での用事だと言い出せば門が再び開く朝まで待ちぼうけをくう、彼はそれを恐れている。
「帰りにミナキのところに寄って行かないと。今季の出来を見せる約束をしてたんだ」
 ああそういえば、とリツも思い当たるところがあったらしく呟く。しかし、彼はちょっと考える。友人ミナキの住む村はここから東に進んだ山の向こうにある。リツが通過点としようとしていた二条村も東に進んだ先にあり、最終的な方向としてはどちらを選んでも問題はない。むしろ彼の村は距離にしてみればより城下に近いのだが、山間に位置するため道のりが複雑で山の中を迂回しなければならない。城下に通ずる山であるから山道は相応に整備されているが、しかしそれは昼間のためのものであり、広すぎるこの山々には賊の類も潜んでいる。
「なら、そっちで行くか」
 リツの計慮の結論は、つまり山道であれば空いているという一点に拠る。
 アイはハンドルを切り、雲の多い月明かりの下を淡いヘッドライト一つで滞りなく進んでいく。
 車内に吊るした小さなランプの下でリツが冊子をめくり、
「第二王子シュドルの優勢は決定的、第一王子カナトの継承は絶望的――」
「……なんの話だ?」
 唐突に読まれた一文に、視線は暗路に向けたままアイが難しげな顔をする。
「国勢の話」
「国勢? この国のか?」
「そう、殊に王家の」
 王家、と再びアイが疑問符を付けて繰り返す。
「王位の相続で皇室同士が遣り合ってたんだが、それが終わりそうだ」
 うん、と困ったように返事をした彼は少し考えてから、
「……いつも思うが、お前の読んでるそれ、俺たちにあんまり関係なくないか?」
「なくはない。王が変わって外からの商売禁止とか、なったりするかもしれねえし」
「それは困るな。ここを追い出されたら頼まれ物を買う店をまた一から探さないといけない」
「あいつら変なものばっか頼むから、下手したらここまで来なきゃならなくなる」
「……面倒だな」
「ああ面倒だ」
「うーん、このまま変わらないってことはないのか?」
「それはない。先王はもう死んでるからな」
 思わず言葉に顔を向けたアイに、リツが冷静に、前前、と注意し彼ははっとして顔を戻す。
「そうか……、まるでそんな雰囲気がなかったから気付かなかった」
 神妙に言うアイにリツはため息混じりで答える。
「そもそも先王の急死がお家騒動の原因だ」
「……ああなるほど、それでか」
「なにが?」
 今度はリツが疑問符を浮かべる。
「ん? あれ、ここは左でいいんだよな」
 同じく首を傾げたアイは、既に山道に入り、山賊道を含めて方々に向かう曲がり角を前に自信なさ気にスピードを落とす。
「右だ右」
 暗闇で先は見えないが、何度となく通ったその道筋をリツはなおざりに指示し、
「それで?」
「いや、なんだか付けられてるから変だと思ったんだ」
 今度はリツが目を丸くする。
「俺たち国籍不明だから、きっと間違われてるんだろう」
 犯人と、と悠長に言ってのける様にリツは長いため息を漏らす。
「急死っつってもただの病死だ。暗殺とは言ってねえよ」
「そうか」
 口だけで答えるアイは、もう辺りを窺うことに集中し始めている。
「そうだ。で、いつから」
「門を出たときにはもういたな」
「ならもっと早く言えばいいだろ!」
「一台回り込んで来てる」
「距離はっ!」
 リツは乱暴に聞くが、一方で彼はこの強襲について思い当たる可能性を思慮し始める。
「まだある」
「よし、なら一回止めてくれ」
 リツがドアを開けかけたところで、あ、とアイが些か緊張感に欠けた声を上げる。同時に車は俄かに減速し、
「やられた」
「おそらくどこかのパイプだな。この距離でこれだけの威力――」
 銃声はリツも聞いた。嫌な予感が彼の中で確実に現実に近づいてくる。思い浮かぶ一つの木箱、そして思考は輪郭を持った可能性を導き出し始め、しかしそれが彼にとってある種のひらめきを持っている。
 リツは自らに一人苦虫を噛み潰す。
「新型に違いない!」
 声で彼は現実に帰る。言うアイは子供のように瞳を輝かせ、裏腹にリツの頭は一気に冷静さを取り戻す。一見ただ喜んでいるように見える――実際喜んでいるだけなのだが、アイのその目を爛々と輝かせるのはひとえに殺気であることをリツは知っている。
「これは勝負するほかない」
 楽しそうに言い切る兄に、リツは頭痛を覚える。
「出来れば持って帰りたいが斬りに行くには遠すぎる」
 言いながらアイは座席の裏に備えられたうちの片刃の一本を選び出し、リツはリツで座席横に差してあった拳銃を取り、その弾数を確認してからドアに手をかける。
「敵がいんのはそっち側だよな?」
「今のところはな」
 言葉に引きずられるように、驚きと不審の混ざった顔で彼は構えた体を翻す。
「おい、そんなに数が――」
 リツに構うことなく、アイは勢いよく飛び出して行く。
「おいっ――、」
 慌てる間もなくすぐにまた一つ銃声が響いて、彼は即座にアイの開け放した対面のドアを引っ張り閉じる。ため息で仰ぎ座席に身を預け、疲れの滲む眉間に指を当てたその時、再びの銃声が目前でピシリと裂ける。嫌々見れば、螺旋状の亀裂の走ったフロントガラスに鉛玉が刺さっている。
 ばっと音のたつ勢いでランプを取り、リツは唐突に車を飛び出し開け放したドアを背に荷台へ一直線に駆け飛び乗る。
「どうかしたか?」
 荷台からさらに数歩行ったところでそうちらりと振り返るアイの横をまた、銃弾が過ぎていく。
「数はいくつだって聞いてんだよ!」
「狙撃手二人の一台には回り込まれたが、他の三台はまだ遠い」
「多いな。時間がない、遊ぶのも大概にしてさっさと修理して撒かねえと」
 言いながらリツは荷台の中で忙しく、小さな木箱を降ろしていく。
 アイはゆっくりと剣を構えなおし、暗闇ににやりと攻撃的な笑みを浮かべ、
「三台くらいならやれるさ」
「冗談はよせ、この攻め方山賊にしては上等すぎる」
 リツの言葉尻に響く銃声と同時に、アイはきらりと一瞬のうちにその刀身は鋭く瞬き剣を振るう。乾いた高音ののちに、振り切られた彼の剣もぴたりと止まり、切っ先を下ろしてアイはそのまましゃがみ込む。
 しん、と急に静かになった背後をリツは振り返り、
「おい、聞いてんのか!」
 ああ聞いてる、と答えはするもののアイは地面に落ちた鉛玉を拾い上げ、月に照らし眺めて難しい顔をしている。リツはため息とあきらめの顔つきで、
「せめて前でやってくれ、あれじゃあガラスがもたねえ」
「前のは特別丈夫だから平気だろう。それに後ろの方が腕がいい」
 言うが早いかアイは再び剣を構え、リツも今度はため息を付く間も惜しみ自身の目的に頭を切り替える。
 リツの前にはシェイラから受け取った木箱がある。
 街から付けられていたとなると原因はこの木箱を除いて他になく、敵のこの手法、これほどの新型銃は山賊風情にたやすく渡るものではない。立てた仮説にある確信めいたものが彼を波立たせる。念のための拳銃を片手に、物入れから取り出した工具で四辺の留め具を落としていく。
 一つ、二つ、三つ、無言で彼は数を数え、鬼が出るか蛇が出るか、ろくなものを寄越さないという点では彼はジルに信用を置いている。リツは夢中で手を掛け、一気に持ち上げる。
 目下には積み上げられたボトルワインが数十本、きれいに収まるその形にラベル、すべてに見覚えがあるそれはジルに前回つかまされたものと寸分変わらない。
彼はまるで何か急かされているように上からそれを掴み出し、転がるのも構わず床に次々投げ出していく。
 すっと俄かに、頬に冷たく夜の平穏が触れる。
 覗く先には何もない。ワインの下にはまたワインが、そしてその下もワインが並び、中にはワインのほかに何もない。
 体の沈むまま、リツは音を立てて木箱に寄りかかり、押さえつけるように瞼を閉じる。
 置いたランプに反射して、瞼の裏でちかちか光る陳腐なボトルに価値がない事を彼は経験で知っている。
「一体何の当て付けだ」
 呟きそれ自体を潰すように奥歯を噛み締める。しかし彼は冷静に目を開き、表情なく淡々と辺りを片付け蓋を閉め、荷台を降りて、開け放しのドアに一発また一発と目の前に銃弾が打ち込まれるのも気に掛けることなく歩いていく。乱暴にドアを閉め乗り込んだ座席の裏から工具箱と冊子を取り出し、ランプを置いた足元へ潜り込んでハンドル下のボルトの類を冊子を頼りに締める作業をただ黙々と繰り返す。
 攻撃を受けてもこの車は出力系統を切り替えれば走るように出来ている。作業は完璧に滞ることなく進み、最後の一つも単調にスパナをはめて押しまわす。
 だが力を込めたその時、思いがけずスパナはボルトを外れて空を切る。勢いのまま彼の右手はパイプに突っ込み、殴りつける寸前でようやく意識が追いつき手は止まる。
 肩を上下させ愕然とリツは自身の右手を眺める。眺めて、彼の表情は酷く歪んでいく。窮屈に体を丸め、右手はスパナの重さにこうして床に這い蹲る。彼は一気に頭を染め上げる激しい感情のままに殆ど反射的に右手を振り上げる。
降下しかけて、しかし宙で止まる。握り締めた指先は押しつぶすように小刻みに震え、振りかぶったままリツはいっそう強く奥歯を噛む。無言の時はじっと彼にのしかかる。
 静まり返る車内で、リツは短い呼吸を繰り返し顔を伏せていく。震えの止まった右手は虚しく下ろされ、力なく床に落ちた右手からスパナが抜け落ちる。
「馬鹿なことは考えるな」
 呟き、もう一度噛み締める。



[21440] Ⅰ-3
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2011/04/12 18:15
 荷台の外、剣を中段に構えるアイは眼光鋭く、口元は楽しげに弧を描く。
 五月のまだ肌寒い澄んだ空気は、人の気配、微妙な空気の流れをより鮮明に伝え、彼は張り詰める独特の雰囲気を拾い上げていとも簡単に敵の動きを追っていく。
 中段から右手首をかぶせ、刀身はゆっくりと水平へ近付いて、突如消える。目前で光がはじけたのは一瞬、銀の切っ先は残像ですらりと美しい直線を描き、そして追いかけるように銃声が響く。
 彼はすぐに剣を降ろし落ちた銃弾を拾い上げては、うまくいかない、と口を曲げ、眺めるそれは拉げてはいるが切れてはいない。
 残骸をひょいと捨て今度は下段に剣を構え、瞳が再びぎらりと光る。しかしふと攻撃的な光は消え失せ、彼は構えを降ろしてすばやくどこか動物じみた動きで顔を他へ向ける。透かさず放たれる銃弾に振り向くことなく刀身側面で往なしつつ、つかの間じっと佇み、突然助手席に向かって駆け出した。
「そろそろ出るか」
 未練の一つもなさそうに、アイは車に乗り込みからりと運転席のリツに言う。
「もういいのか?」
「ああ、なんだか数が増えてきてる」
 リツの表情は酷く落ち着いている。ハンドルを握り少し考え、
「どこまで着いてくる気か知らねえが、ここで頭の二、三台は潰しておくか」
「そうだな、撒くなら早いほうがいい。ミナキのとこまで連れてくわけにはいかないからな」
 ガラスはまた敵の銃弾にさらされるが、車が動き出すにつれそれも追いつかなくなる。枝を払い、道を外れて木立に分け入りリツは速度を上げていく。
 葉が散り枝は折れ飛び、終始うるさい中でアイは瞳を闇に据え、
「車に乗ったな」
「狙撃の一台か。奥へ逃げる気か?」
「いや、南に下り始めてる。本体と合流するんだろう」
「ならこっちの位置を取ってんのは先発の三台か。このまま北に登るぞ」
「ああ、それがいい」
 右に曲がり、左に折れ、車は複雑に、道というにはあまりに粗末な狭い山賊道を速度を保ち器用に進む。一度鋭く北上し、大きな楕円を描きぐるりと東に回り込み、リツは難なく三台のうち先頭の一台、そのやや前方で十分な距離を取って並走し始める。そこから徐々に距離を詰めて、彼らの左方、アイの側からはもうその下方でちかちかと敵車の反射する月光が見えている。
「気付かれたな」
「もう遅えよ」
 敵車の引き窓が開かれるのが切れ切れに見て取れる。途端、敵は車中から銃撃を開始する。銃声は絶え間なく、いくらかの銃弾は木々の間を縫って窓ガラスの傷がさらに増していく。リツは段々と速度を落とし車は敵車を追う格好に、揺れる車内ではアイが手にした鞘を音も無く抜き取る。
 木立が途切れる僅かな瞬間、アイはドアをすばやく開き飛び降りる。
 間を見てドアをすばやく開き、アイは前進する車から飛び降りる。それを確認し、リツは急激に方向を切り替えそこから一気にスピードを上げる。
 木の葉は一層激しくぶつかり、視界が音を立てて晴れると同時に車は飛び込むように敵車の真横に躍り出る。殴るようにリツは轟音で車体側面をぶつけて横に付け、衝撃で途切れるように浮いた敵車体が重低音で踏みとどまる。掻きむしるような高音で、ぶつかり合う二台は火花を飛ばし並走する。
 押し込まれる敵車は更に速度を上げ、同時に徐々にリツの前方へと抜け出し始め、遂には完全に視界を陣取って見せる。敵は後部より即座に銃撃を再開、めちゃくちゃに撃ち込まれるフロントガラスは視界を塞ぐほどにひびが入り、ぶつかる度四方が軋む。しかしそれでもリツは追走を止めず、寧ろ速度は更に増す。
 騒々しく囲まれた揺れる車内で酷く冷静にリツは白い亀裂とその向こう、黒い敵後部をじっと見詰め、そして俄かにハンドルを切る。寸分遅れて敵も右に折れるがリツの方が早い。車輪は派手に土を削り滑るように左に振られる敵車の内側、そこにリツは鋭く車を入れ、も一度その側面を叩きけて押し合い、地鳴りを立てて更に敵車を外へと弾いていく。リツが再びハンドルをすばやく回すと同時に車体は一層激しく衝突し、押し付けられた敵車は直後立ち木へ突き刺さる。
 左正面を大きく破損し、敵車は夜目に薄白く細く煙を上げる。敵の動き出すより早く、待ち構えるリツは直ちにボンネットめがけて銃弾を数発放ち、敵車から一斉に蒸気が噴出、辺りは一瞬で真っ白な霧で視界は無くなる。幾らか叫ぶ声が響くが振り返ることなく淡々と、リツは速やかにその場を後にする。
 一方アイは山道へ出て突っ立っていた。提げた抜き身はちかちかと光を反射し輝き、彼は暗闇に楽しげに口角を上げる。豪快な音はだんだんと彼に近づいてくる。
 ぱっと彼の全身が黄色の光で照らされた瞬間、目の前に飛び出す一台の車、アイは突っ込んでくるその軌道からひらりと外れ、追って鋭く方向転換を図る敵の車に前傾で一気に踏み切る。途端に距離を詰めまずは一人、アイは運転席をガラスごと突き刺すと、またすさまじい速さで剣を引く。だが車はすぐには止まらない。彼の太刀筋の前ではゆっくりと、過ぎる車後部が彼の正面に到達したのと同じく、後部ドアは勢い激しく開かれる。アイはそれをくるりと後方へ飛びかわし、放たれた銃弾を着地するなり剣で払う。
 激突で停止した車を盾に敵の銃撃は途切れず、だが彼が払ったのは二度、剣を振り下げ、振り上げ直線を描き、直後再び踏み込む。甲を返し刀身を立てるように起こした先でまた一つ銃弾を落とし、間近に迫る銃口をかわして敵の、銃を持ったその手を腕ごと切り落とす。丁度瞬間足の止まったアイの背後で、怯むことなく別の一人が振りかぶる。握りをそのままに、アイは振り返り様その胴を鮮やかに切って落とし、車を跨いで打ち込まれる銃弾をもすらりとかわす。残りの一人に向かい踏み込みかけたところで、彼の左方より敵の車がもう一台、姿を現しアイは一度後退し距離を取る。
 狙いを定め、迫り来るその車に向かって彼は自ら駆け出し、銃弾をひらりひらりと払つつ再度立ち回りを演じ始めかけたその時、枝葉をへし折る躍進でリツの車が敵車に突っ込んだ。
 アイがすばやく身を引き、大きくハンドルを切ったリツは、急カーブで滑らせた車体の後部を敵車の横っ腹へぶつけをなぎ払う。敵はそのまま木々に弾かれ斜面を落ちていく。リツは再び林の中に潜り、車は闇に姿を消す。
「お前は相変らず無茶をする」
「兄貴にだけは言われたくねえ」
 運転席に荷台から引き込んだパイプ伝いに声が届く。
「後続の足が思いのほか速いな」
 緊張感を残し言うのはリツ、同意する荷台のアイは木箱に腰掛、穏やかに剣に滴る血を拭っている。
「もう頭は潰したんだ。さっさと逃げるに限る!」
 リツは速度を上げ、この複雑な迷路である山道の最短距離を迷うことなく選び取り、車は独走していく。もうただただのんきに車に揺られるだけになったアイは世間話のように長閑に、
「……憲兵だろうか」
 リツの眉間が小さく皺を刻む。
 戦闘に関してならのアイの言うことに間違いはないこと、更に彼自身の考察もアイの見解と一致する。
 だが国直属の軍である憲兵がなぜ――、じっと前を見詰めたまま回そうとした彼の思考がふと途切れる。リツ自身、意識的にそれを止めた。
「なんにしろ、撒いちまえば同じだろ」
 パイプの向こうの声にアイは僅かに耳をそばだてたが、
「……そうだな」
 微笑で答える彼に執着はない。
 リツは努めて夜の森に集中する。並木は入れ替わり立ち代り現れそして消え、時折車体を掠めた葉がざわりと鳴る。繰り返す夜は覆い被さるように車内は急に静けさを取り戻す。
 淡々と音もなく軽やかに回る現実は、彼を知らずのうちに内側へと押し込めていく。まるで糸でひかれていくかのように、彼の内でひっかかっている思惑が誘惑にも似た感覚で彼の思考を傾ける。
 ハンドルに握る指が食い込む。靄の立ち込める釈然としない頭は感情を煽り結びつき、まごつくばかりの苛立ちが腹立たしい。彼を取り込み激情は思考を進め、また良く似た別の感情のために足を止める。繰り返し――はっ、とリツの顔が跳ね上がる。
 反射的に走った感覚に、彼はようやく現実を取り残していたことに気がつく。全身から冷や汗が流れたが、目の前に取り戻した視界は優秀に木々を避け、車は相変らず森を疾走している。
 強張った全身は安堵と共に平静を取り戻し、しかし瞼の上がりきらない薄い視界には、黒く大きな斑点が散っている。リツは順序をさかのぼり、自身が光によって連れ戻されたことを思い出す。
 なんの明かりだ、と闇を探し始めたその時、
「伏せろっ!」
 今度は冷や汗のほうが追いつかない。咄嗟にリツはアイに叫び、足は必死にブレーキを踏む。車は甲高い金属音を激しく上げ、瞬間切ったハンドルが土を乱暴に撒き散らす。
 車は勢いのままに行き、大きく車体を揺らしようやく停車する。
 リツはハンドルに付き合わせた頭を上げながら、
「……おい平気か?」
 返事はない。
「おい!」
「平気だが平気じゃない。木箱が雪崩れてすごいことになってる」
 がたがたと持ち上げる音に混ざって声はパイプの中から返ってくる。リツはひとまず胸を撫で下ろし、
「今行く」
「ああ助かる。一体どうした?」
「いや、ぼっとしてた。……確か車が止まってて――」
「敵か?」
「同じ黒だが、形が違う」
「ぶつかったぞ? ……まさか一般車じゃないだろうな?」
 冷静に眉を寄せるリツは無言、それは肯定に他ならないとアイは顔色を変える。
「大変だ、こっちはいいからそっちを!」
 背で、無事だといいんだが、とアイが案じるのを聞きながらリツは外へ飛び出していく。駆け足で後方に回れば記憶通り一台の黒の車が、衝突は避けたもののその前方は大きく破損している。
 嫌な汗が一筋頬を伝う。だが一方で、彼は冷静な考察でもっていくらか怪訝そうな顔をする。
 ほぼ無傷の後部の車窓には黒く布がひかれ、ガラスの割れ落ち潰れかけた前方も暗く窪んで、車内に明かりは一切ない。あれだけ派手に銃声を鳴らしたこの山中に未だ留まるこの車に、彼は拳銃を取り出し片手にしながら、後部ドアを開け放つ。
「――――」
 大丈夫か、と用意していた言葉は喉で止まる。開きかけた口は閉じることなく、リツはあからさまに目を丸くしていく。
 彼の額に、突きつけられた銃口が黒く光る。
 ドアを開けるや否や待ち構えていた拳銃が彼を迎え、そして引き金に指を掛けるのは一人の少女。上品な姿をした彼女は幼さを残す瞳できつくリツを捉え、震える唇に言葉はない。
「――王族」
 リツが口だけで小さくつぶやく。その瞳に写るのは、拳銃に施された、雄雄しく美しいふくろうの紋様。
「お前、王族か!」
 突きつけられた拳銃を鷲づかみ退け、鋭い眼光で彼は少女に詰め寄る。
「なっ――」
 少女は咄嗟に身を退くが、引き金を引くことはしない。リツの瞳が更にが狭まり見つめるのは彼女の背後、黒い影がいる。身を縮め不安げに座る、彼女と同じ瞳の色をした一人の幼い少年。
 リツの心臓が音を立てて大きく脈打つ。
「第一王子カナト――!」
 少女がその瞳を大きく見開く。
 彼が知っているのは情報の上でのみ、王子はまだ十に満たない少年であること、少年には歳の離れた実姉がいること、そしてふくろうの紋様が許されるのは王族のみ――、直感はすぐに確信に結びつく。衝撃に打たれた胸は思わず短く息を吸う。
「ぶっ、無礼者!」
 銃口を取り戻そうと少女がもがくのに、リツは素直にその手を離して二人を見下ろし、口で綺麗に弧を描く。
「成程そういうことか……、遂に逃げたか!」
 彼は天を仰ぎ一点の曇りもない笑顔で言う。塞ぐように瞳は片手で覆い、一人肩を揺らし、喉を振るわせ声を上げ、リツは楽しげに笑う。
 少女は不審に眉を顰めるが、夜空にカラリと響く声は止むことなく、次第に彼女の表情は歪んでいく。
「――っ無礼者! 王家と知って笑うとは何事じゃ!」
 彼女は強く銃口を向け直す。だが笑いは途切れない。声を飲み込み笑う姿は彼が顔を伏せて行く度に、悲しみに涙を流す姿に似始めて、泣いているのか笑っているのか見分けの付かないその姿に、少女は向けた銃口をさ迷わせる。
 やがてたどりついた終着点で彼は静かに息を呑み、顔を上げる。彼女とぶつかる視線は鋭い。
「国を捨てて逃げるのか」
 リツはもう一度、今度はにやりと不穏な笑みを浮かべる。
 少女が顔色を変える。瞳は強く鋭く彼を捉え、
「違う」
「ならなんだ? この劣勢の中で城を空けてもつはずがない。お前らは王座を捨てに来たのか?」
「違うっ!」
 一層強く、拳銃を握る彼女の両手は小さく揺れる。
「逃げるのではない、今は……今は身を引くが、この恨みは必ず晴らす、あの首はとってみせる――」
 強い口調とは裏腹に声はつぶやくようで、みるみる闇に吸い込まれて残響は残らない。俯きかけた顔はしかし、きっ、と必死に上げられ、
「数々の無礼、今すぐ詫びよ。さもなければ即刻引き金を引く」
 震える腕で彼女は照準を合わせるが、彼の口元は涼しげに上げられたまま崩れない。
「首をとる? 今身を引いて、それが出来ると思うのか」
 瞳の奥が揺れる。強く結ばれた口の中、彼女は精一杯奥歯を噛み締める。震えたままの指先は強張り、引き金へと触れる。
「リツ」
 交差していた二人の視線が逸れる。
 音を立てて転がり落ちる木箱と一緒にアイはようやく荷台を抜け出し、上げた頭はひどく乱れている。
「平気だったのか?」
 リツと大きく壊れた車を見るなり、彼は慌てて近づき肩越しに車内を覗き込む。
 アイの視線は少女のそれとカチリと合う。
「怪我は! 大丈夫?」
 目前の拳銃を飛び越し少女と不思議そうに彼を眺める幼い少年に、アイは一気に青ざめる。
 目をしばたきながら殆ど驚いた勢いで少女が小さく頷いて、大きく胸を撫で下ろしアイはにこりと彼女らに安堵の笑みを漏らす。
 彼はリツを振り返り、
「運転席は?」
「まだ」
 反対側の運転席へ回っていくリツの背を、何をしていたんだとアイは些か驚いたような視線で見送り、それから再び二人に向き直る。
 彼はきっちりと頭を下げ、
「怖い思いをさせて本当にすまない」
 少女が戸惑うように瞳を揺らす。拳銃を持つ腕はさ迷って小さく下げられる。
「前に乗っているのは一人だけ?」
 彼女は無言で頷く。アイは頷き返し、
「今助けるから心配しないで。それと、今この山はちょっと物騒なんだ。すぐに移動しないとまずい。俺たちが責任を持って送るから」
 言い残し、アイも運転席へと駆ける。
 その背をいくらか追った少女の視線は、地面に引かれるように静かに落とされる。
「どうだ?」
「頭を打ったみたいだ」
 歪んだドアをあきらめ、リツは腰にさしたままになっていた工具で窓枠に残るガラスを落としていた。車内には一人の男性がハンドルに凭れ、反応はない。
「ミナキのところで診てもらうのが一番早いか。とりあえず応急処置を、荷台も空けないと」
「時間は?」
「そんなにない。急がないと追いつかれるな……。二人とも、」
 アイが振り返った先には車を降りた二人が、拳銃を手にしたままの少女と、少年はその背後に隠れるようにして、少し離れた暗闇で彼らを窺い佇んでいる。
「……ええっと」
 言いよどんだアイにリツが、
「アルディスにカナトだ」
「アルディス、カナト、少し手伝って欲しい」
 ん、と彼はしゃべりながら首をかしげる。作業を止めることなくリツが再び、
「この国の姫と王子だ」
「ああ、通りで聞いたことがあるはずだ」
 納得する彼に驚きは伴わない。
「そうか、なら城に送ればいいのか?」
「いや、――」
「そう、城に届けてくれればいいわ」
 リツを遮る少女の口調は強い。彼は思わず少女を見やるが、口を強く結んだ彼女は逃げるように瞳を反らす。
 挑発するようにリツは口角を上げ、
「逃げるんじゃなかったのか?」
「はじめから逃げる気などありはしない」
 少女は視線を上げようとはしない。険悪に張り詰める彼らの雰囲気に怪訝そうに首を傾げ、
「急がないとまずいのか?」
 少女の表情の深刻さをそう解釈したらしいアイが眉を寄せる。
 彼女は頷く。
「困ったな。敵の数が多い、この状態で突破するのは難しいぞ」
「敵――?」
「聞こえただろ? あれは全部お前らの敵だ」
 俺たちは囮だったわけだと作業に戻るリツは淡々と言う。
「なら尚更まずいな」
「ミナキのとこを回って戻るしかねえよ」
「そうだな」
 アイは頷き、自身の車に駆けていく。不安げに少女はその姿を視線で追う。声の消えた空間は急にしんと盲目的な静けさに変わり、暗闇の中カナトが震えるように彼女の服を握る。
「まだ間に合う」
 少女ははっと顔を上げる。声は呼び止めるようではなかったのに、振り返った彼女を待っていたのは鋭く、しかし冷ややかではない、火を灯したようなまっすぐな瞳、
「お前らが戻るのなら、まだ遅くはない」
 リツははっきりと彼女に言う。
 言葉ではない、その突き刺すような瞳に、彼女は恐怖に似た嫌な感じを覚える。足下を崩してしまうような、気持ちの悪い圧力がきゅっとその心臓を緊張させる。息苦しいその視線は、しかし彼女を張り付けるように反らすことを許さず、リツは、だが、と猶予なく続きを紡ぐ。
「お前、本当に戦う気はあるのか?」
 息の詰まるような動揺が、彼女を襲う。彼は表情を変えることなく、冷静にその瞳を向け続ける。振り払うように彼女は面を伏せて、握ぎるその拳にはぐっと爪が立てられる。怯えるように瞼を強く閉じる彼女に、カナトは泣き出しそうに眉を歪めて一層強く服を掴む。
 顰めた顔をリツがふとそむけて、飛んできた布をすばやく取って、次いでアイが乗車席から救急箱を持って戻ってくる。ガラスを取りさらった窓枠へその布をかぶせ、二人掛りで車内から男を引っ張りあげていく。筋となって血の流れる頭を慎重に支えて横たえ、少女にアイが早口で、
「名前は?」
「エイク」
 大丈夫ですか、とアイが繰り返し名前を呼びかける。遠目にじっと見守る少女らは痛ましげに眉を寄せ、やがてエイクは小さく唸って、ようやく幾らかやわらかな顔をする。だがそれもつかの間、アイは忙しく立ち上がり、
「アリス、カナト、来てくれ」
 言い残し荷台に戻るアイを、少女はきょとんと眺める。
「お前だ、アリス。時間がないんだ早くしろ」
 手早く包帯を巻きながらリツがあごでしゃくる。少女はあからさまにむっとし反論の口を開きかけるが、
「それを中に入れてくれないか」
 空の木箱を降ろした周りには、荷台から転がり落ちた小箱やら袋やらが散らばっている。荷台を降りたアイに純粋な笑顔で呼ばれ、彼女はしぶしぶ彼に従う。木箱に一つ一つ丁寧に詰めていくのをカナトも手伝い、そのうち並び入れた上に乱雑に物が投げ込まれ、
「適当でいい」
 リツに言われて、カナトはこくりと控えめに頷きその作業を少しだけ雑にする。
 アイは荷台の木箱を次々と積みなおし、リツも荷台に上ってジルから受け取った大きな木箱に手を掛ける。
「重いと不利だ。余計な物は、これも捨てて行っていい」
「いいのか?」
「いい、もういらねえ。場所も丁度空くだろ」
 二人掛りで木箱は車の背後、少し離れたところに道を塞ぐように残される。
 ひとまず空けた場所にエイクを寝かせ、アリスとカナトも乗り込み、アイは出口に木箱を積み上げる。
「まずいな、足が速い」
 外の木箱に刺しっぱなしになっていた刀身を抜き取り、アイは一端座席に戻り、
「すぐに出るぞ」
「わかってる」
 ハンドルを握るリツは既に車を起こしにかかっている。
「敵は二・四・六方向だ。ルートは任せる。多少は俺が後ろで何とかするから安全運転でな」
「ああ」
 それから、とリツは本を一冊、ランプを引っ張り出しているアイの目前に取り出す。
「これ読んどけ」
「……これを?」
 アイは嫌そうに顔を顰めるが、もう敵の音が聞こえ始めている。彼は受け取り、急いでドアに手を掛ける。
「兄貴」
 アイの手が止まる。声はやけにはっきりしている。
 アイは顔を上げるが、そこにリツの瞳はない。彼はじっと、強く光を湛えた瞳でまっすぐ前を睨みつけ、
「兄貴、俺はこの国を獲るぞ」
 断言し、ぐっと唇を引き結ぶ。
 アイは戸惑う。彼はすぐさまそこにリツの堅い意志が打ち立つことを直感するが、示されたはずの意味はまるで理解に結びつこうとしない。なにより鋭い瞳にあるのはひどく楽しげな光で、それを無下にすることも出来ずにアイは困惑の混ざり合う微笑みで、
「そうか」
 と、答えた。
 リツはすっと冗談めいて彼に笑みを返し、アイは荷台へ戻っていく。
 車は急激に動き出す。
 アイが飛び乗ったと同時に、その背後、斜面を滑り敵の一台が車体を揺らし、衝撃音を鳴らし鋭く追走し始める。
「伏せて!」
 荷台に着地するや否や、アイは二人の頭を腕で覆い伏せさせる。
 車はすぐさま照らし出され、敵は間髪入れず銃撃を開始する。
 防壁のように積まれた木箱が次々に木片を飛ばし、いくらか貫通した銃弾が乾いた音で荷台を覆った布にぶつかる。リツは一気にスピードを上げ激しく揺れる荷台はガタガタ唸り、銃声はひっきりない。
「心配しないで。すぐに撒く」
 アイは身を起こし、片手に拳銃、もう一方に抜き身を構えて応戦に出る。積んだ木箱を盾に撃ち、あるいは弾きを繰り返す。
 銃声は数を増し、益々近くなる。震えを押さえつけるように体を抱いていたアリスの両手が、必死に耳を押さえ込む。顔面は一瞬にして蒼白に変わり、膨張する恐怖心はまるで言うことを聞かず彼女自身を取り込んでいく。ガタガタと音を立てる腕は役に立たずに易々と銃声を頭の中まで導きいれ、彼女は今にも涙のこぼれそうな瞳をぎゅっと塞いでカナトを強く抱きしめる。
 殺伐とした音に混じり、荷台の中で突如一際大きな音が鳴る。
 砕ける音に、残骸がはじける軽い音、しかしそれほど残酷なものではない。カランカランと足元に転がって来たものに、アリスは恐る恐る瞼を開ける。薄目で捉えたものは木片、そして僅かに顔を上げながら、彼女はその先にあるものをたどって行く。
 壊れて、防壁の役割を果たせなくなった木箱が一つ、その横には拳銃を構えるアイ、そして眩しく光はっきりしないその向こう――一瞬、アリスの視界は、はっきりと停止する。
 くっきりと闇に浮かび上がったのは黒く鈍く光る銃口、それがまっすぐに向かっている、こちらに。
 息を呑むのも追いつかない。彼女は自身の中で凍り付くようなひびの入る音を聞く。すっと遠くなる彼女の視界を刹那、光が過ぎる。
 銃声が鳴ったのは同時、
「ねえ様?」
 覗き込むカナトの目の前で、アリスは力なく頭を垂れて行く。
「ねえ様!」
 カナトは叫ぶ。
「どうしたっ?」
 銃声に潰されかけながらも、振り返るアイの声は彼女の意識を幾度かたゆたい、そしてやがて遠くに消える。
アリスの瞼が吸い込まれるように落ちた。



[21440] Ⅰ-4
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2011/05/27 21:47
 深く、鐘が鳴る。
 ゆっくりと溶け合い、いずれなくなろうとするその音を追ってまた一つ、平静が訪れる前に鐘は打ち鳴らされる。
 広く天上に開いた窓の、柔らかな光がまっすぐに床を切り取り、整然と並んだ長椅子はを古めかしく霞ませる。
 広く美しい、一様に椅子ばかりがならぶこの部屋で、彼女は無数に行き交う鐘の音をぼんやりと数えて、ただ佇む。
「姉さん、もう帰ろう」
 沈めた面を上げることなく、アリスは無言で首を振る。
 二人の間をまた、崇高な音が通り過ぎて行く。
 耐えるように口を引き結び佇む、彼女とは違う色の瞳をした少年は、俯いたままもう一度彼女に言う。
「もう帰ろう」
 アリスは答えない。
 鐘が鳴る。そしてもう一度、鐘はうるさく鳴り響く。
「カナトも、ミラおばさんも、母さんも、みんな姉さんを待ってる」
 早く――、そう続く言葉が途切れるように消えていく。
 鐘が、さらにもう一つ、間髪入れずに鳴らされる。唐突に速度を増して連なる鐘の音は、少年の声を消し去り、彼女の頭を直接揺らす。
 音は止まない。警鐘のように迫り、アリスは耳を塞いで、重くなる頭は下に下にと落ちていく。はたと気付けば、目の前にあるはずの彼女の足は失われ、代わりに闇が満ちている。
 上げたはずの声に音は無く、もがいたはずの手は闇に埋まってどこにも無い。ついに恐怖がなだれのように彼女の息を塞ぎにかかり、ただただ逃れようと、アリスは必死に瞼を閉じる。
 はっと突如闇は開かれ、彼女は夢から醒めていた。
「――違う」
 夢の延長で、しかし妙にはっきりとした意識で、アリスは真っ先に呟く。
 視界には淡く木箱に映る明かりが、控えめな音ですべては緩やかに揺れている。しばらくふわふわと揺れる影を眺めていた彼女は、切ったように我に返って目を覚ます。
 血相を変え、まるで脅かされているかのように視線を左右にさ迷わせ、――引かれた布、木箱の破片、いない。
 無意識に起こしたその肩から滑り落ちる毛布に反射的に身を縮め、自身の側に目を止めてようやくアリスは深く胸を撫で下ろす。彼女に寄り添うように、カナトは穏やかに眠りについている。
「ああ、アリス。おはよう」
 アイがランプに照らされたその顔を上げた。
「大丈夫? 驚いただろ、全部撒いたからもう安心だ」
 傷の一つもない顔でアイは微笑み、アリスは頷くような曖昧な動作で、毛布に包まるカナトへ視線を戻す。倣って彼も二人に視線を寄せ、
「二人ともさっきまで起きてたんだ。エイクさんの怪我も痛みはあるようだが、幸いそんなに酷くはなさそうだ。着くまでまだ少し掛かるから、アリスももう一眠りするといい」
 ぼっと二人を見つめたまま、アリスは答えはしなかった。
 静かな夜と柔らかな黄金色の明かり、やけに穏やかな知りもしないこの空間は、彼女の意識に優しく幕を下ろしていく。現実であるのに現実から遠いような、漠然とした非現実は彼女にとって望ましい。
 だが一つ一つ、揺れる車と土を漕ぐ音、色に姿、頬に触れる冷ややかな空気、五感には酷く鮮明な現実が与えられ、彼女の心を淡く引っ掻く。
 小さくさ迷うアリスの視線は、ふと床に伸びた明かりに出会う。
 アイがランプを引き寄せ、木箱を机に本を読んでいる。
「どうかしたの?」
 アリスは思わず尋ねる。紙面に向かって寄せられた彼の表情は、ちょっとびっくりするほど難しい。
 アイはうーんとうなり声に似た長い返事をした後に、
「だめだ」
 紙面に頭から墜落した。
 アリスは肩を跳ねて、唖然とする。
「訳がわからない」
 搾りだすように訴えるアイが、机に潰れたまま大きくため息を漏らして動かない。
「……だ、大丈夫?」
 困惑の色を浮かべるアリスに、彼は、うん、と力ない声を寄越す。しかしそれきり、やはり動く様子はない。
 彼女に見守られてしばらく、アイは唐突に深刻な顔を上げ、
「アリス、字を読むのは得意?」
「苦手ではないけど……」
「何かコツを教えてくれないだろうか」
「え?」
「俺は苦手なんだ、字を読むの」
 そして彼はまた、ため息を吐く。
「これを読めと言われたんだが、このままじゃ絶対に無理だ、寝てしまう」
 机に近付き覗き込めば、ぎっしりと詰まった小さな文字に彼女も少し尻込みする。
「人名とか地名とか、とにかくよくわからない単語ばかりだし、そもそも何の話をしているのかわからない。あいつはなんでこんなものを読む気がするんだろう」
 アイは頭を沈めながら、はあ、と更にため息を吐く。彼が殆ど放棄しかけているその紙面を自身の方へ寄せ、アリスは文字を追い始める。
 ページはすぐにめくられる。そしてまた、次々に薄い一枚一枚が擦れていく。
「……アリス?」
 瞬きもせずに文字を追う視線は忙しく動き、アリスの表情はみるみる険しく顔色も思わしくない。アイが再び彼女への心配を言葉にしかけた時、音は止まり、彼女の指はゆっくりと文字をなぞっていく。そしてその指も一点で止まる。
「女王ミラ、」
 彼女が読み上げたのは、指が示す単語。
「私の母よ」
 抑揚の無いその告白に、アイは息を呑む。彼女の指の続きには、暗殺、とあった。
「これをどこで手に入れたの?」
 アリスは、鋭く顔を上げる。詰問の視線は厳しく、表情は痛ましく歪む。
「女王の死など以ての外、王の死だって公表していないのに、ここにはすべて書いてある。貴方たち、一体何者?」
「な、何者と聞かれると困る……」
 突き刺さす眼光に、アイは顔を曇らせる。視線から逃れるように顔を傾け、少し思慮をしてから身構える彼女に向き直る。
「本当は、あまりしゃべっていいことじゃないんだが……、なんていったらいいか、俺たちは所謂秘境に住む人間なんだ」
「……秘境?」
「世捨て人というか、そういう人ばかりの村で、外との交流はまるで無いし、どこの国にも所属していない。村の存在自体、無いものなんだ」
 眉間を寄せるアリスを窺うことなく、アイは続ける。
「だから外のことはよくわからない。これも普通に売っているものかと思っていたが……確かに店で見たことはないな……。これはリツのだから、あいつに聞けばどこで手に入れたかはわかると思うが、詳しいことはきっとあいつも知らないだろう」
 すまない、とアイは目を伏せる。
 アリスの表情は硬い。彼女は慎重に、しかしどこかぼんやりと、
「……それは本当のこと?」
 問われるアイは寧ろ不思議そうに、本当だと答え今度は心配そうな顔をする。
 彼女が瞳を閉じると同時に小さく漏らしたため息は、緊張からの解放のようでも、悲しみを吐露するようでもある。
 ランプの炎が、彼女がなぞった残酷な文字を揺らす。彼は瞳に刻まれるその字列に、後悔をする。
「……嫌なものを見せてしまった」
 顔を伏せたままアリスは緩く首を振る。
「事実だもの、貴方は悪くない」
 ごめんなさい、口にした彼女の頬を暖かく灯りはたゆたい、手繰り寄せたその膝に彼女が顔を隠してなお、灯りは一様に陽だまりのように彼女の上で揺れ続ける。
「きっとそこには、私の知らない事実も書いてあるのよ」
アリスは独り言のようにアイに言う。
「自分のことなのに――まるで他人の事みたい」
 澄んだ声で、呟きは闇に落ちた。
 机に残されたページには、シュドル、の名があった。アイは静かに文字を追い、彼が王女を暗殺し、彼が彼女の腹違いの弟であることを知った。
 細く迷い込んでは肌を過ぎる夜風は冷たくアイは瞼を閉じ、暗闇をさ迷う彼女は銃声を思い出す。
「帰るところなんて、どこにあるっていうの」
 誰に聞かせるでもなく、アリスは独り問う。
「奪ったのは、あなたでしょう?」



[21440] Ⅱ-1
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2011/06/14 03:51
 せっせと食器を洗っていた青年がふと耳をそばだてた。無邪気に予感を乗せた顔を上げて、すぐそこに空いた窓からひょいと顔を出す。
「おっ、やっぱりそうだ」
 楽しげに眺める先で田畑は広大に続いている。終わりなく広がる目前の緑は、闇の中で山との境目を失って空に昇るように一息に伸びて、そこにぽつりと唯一光る小さな黄色が乱暴に揺れている。
 ひっそりと雲を長閑に見送るばかりこの夜に、まったくもって騒々しく、ただし強烈な爽快さを引き連れて、一台の車が突撃する。
 一際激しく地面は叩かれ、だだ広いこの家屋の玄関口に速度もろくに緩めず車は派手に停止する。
「よお、久しぶりだなアイ! 元気だった?」
 真っ先に顔を見せたのはアイ、荷台から飛び降りた彼は振り返るなり、
「ミナキ! 怪我人だ、ラントさんは?」
 早口に言い、荷台の布を纏め上げていく。
「怪我人?」
 それを眺めながらミナキは悠長に、笑みの混じったため息をついた。
「また何かやらかしたの? ちょっと待って、今玄関開けっから」
 ミナキが腕を引っ込める。と、入れ替わりに、今度は女性がひょいと顔を覗かせる。
「何、また無茶やったの?」
 ミナキが手早く皿洗いを切り上げて顔ばかりは苦く肯定すれば彼女は、あーあ、とカラカラと彼によく似た笑いを漏らした。
「リイナさん、ラントさんは?」
 乗車口を閉めながら、彼女を見やったリツが、荷台で忙しく動く一方に比べて割にのんびりと言う。
「あ、そうだった……って」
 丁度ドアを開けたミナキがもう一度、部屋に顔を戻して言い淀む。
「ああー、残念ながら酔い潰れてら。あれじゃ今日は使い物にならないな」
 否定的に目を薄く棒のようにして、ミナキは断言する。次いで、彼と同じように振り返ってリイナが、何でもないような笑顔で、
「待ってね、今起こすから」
 軽やかに告げて背を向ける。
「え、ちょっと姉ちゃん?」
 戸惑うミナキはしばし待ったが彼女の返答はない。無言で彼は一通りの重いため息を吐き出すが、ふと思い出したように再び顔を上げ、
「当てにするなよ」
 横で突っ立つリツに釘を刺す。
 彼はもう誰もいない窓に視線をやったまま、
「……この村には他に医者がいないんだから、やむを得ないだろ」
 さらっと答えて、
「あと担架頼む」
 早々に荷台へ駆けていく。
「そんな重症? ……いや絶対無理だって!」
 リツにもまた返答はない。

「すごく遠くへ来たみたい」
 荷台の影で辺りを見渡し、アリスは呟く。車にそう長く揺られていたわけではなく、大袈裟に驚くことなどないはずのこの景色には、城下の、いつでもくるくると回るような忙しさは露程もなく、山の向こうに本当に王城があるのかすら危うく感じられる。音も明かりも乏しい空虚な空間は暗闇に寄り添うように寂しげで、しかしそれはまた、城壁をたった一歩踏み越えた、いつもの住処のようでもあり、アリスは小さく眉を寄せた。
 おずおずと一人荷台を降りたカナトがまた、彼女の影に隠れるように寄り添い、ぼんやりと辺りを眺めかけて、その顔を彼女の背に埋めるようにしてしがみつく。
「あれ、」
 荷台の方へ顔を出したミナキの視線が、彼女達へまっすぐ注がれる。目が合った彼のその口が開いたと思った途端、彼は血相を変え、
「何で子供? えっ、怪我させたってまさか子供!」
 抱えた担架を多少ぶつけて、慌ててミナキは荷台に駆け寄り、音を立てて体を乗り出す。
「やっぱやめたほうがいいって! 罪もない子供に命の綱渡りさせる気かー!」
「え?」
 声のぶつかった先でアイは怪訝そうに首を傾げ、身を起こしていたエイクは不安げに笑みを崩す。
「担架ご苦労!」
 やけに威勢よく言い放ち、手にしていた木箱を放って透かさずリツがミナキの前に立ちはだかる。
 速やかに彼は担架を奪いにかかり、はっとしたミナキもすばやく応戦にと転じる。二人はがんと音の立つ勢いで顔を突き合わせ、
「人として渡すわけには」
「子供じゃねぇだろ」
「けど子連れだろ!」
 頑として譲らずミナキは一層強く引く。火花を飛ばす二人の間で担架は軋み、
「あんまり適当だから命乞いしてきた山賊のおっさんとか、そういうの想像しただろ!」
「それだ、それ」
「いや、違くない? 子供いるし」
「いや、違くなくない。子連れの山賊のおっさんだっていんだろ!」
「はっ、」
 そうか、とミナキが顔に描いた隙に、担架はリツの手に渡る。くるりと無表情で振り返るリツを眺めてアイが明るく、
「あ、担架来ましたね」
「……いや、もう私一人で歩けると思うので……」
 行き交った末の担架にエイクが遠まわしな笑みで言う。用心に越したことはないとまったくの善意の主張で彼はエイクの主張を退け、
「ですが、そんなに具合がいいなら良かった」
 微笑で続け、隣のリツは素知らぬ顔で淡々と、兄弟はエイクを担架に乗せていく。
 一方、外ではミナキが深刻な顔で佇む。
ぽかんといざこざを眺めていたアリスとカナトに向き直り、彼は重苦しく口を開く。
「なんていうか、まだ知らないかもしれないけど、君たちの父ちゃんは……その、いわいる山賊っていう、割と、いや、すっごい迷惑な仕事をしてるんだ。村の倉庫から作物盗んだり、収穫前の作物盗んだり、そして田畑も荒らしたり、それはもうとってもとっても悪い、鬼にも勝る所業で皆を困らせているんだ。だからこれは、君たちが真っ当な道に進むためのいい機会かもしれない」
 一層呆然とする二人を前にして、彼は時折自身に頷きながら力説する。
 ミナキ越しに、アリスは担架を担いで通り過ぎるアイを見つけ、困惑と希望の眼差しを向けるが、そこで待ってて、というアイの笑顔は清々しい。
「こっちこっち」
 リイナに誘導されて、一室に迎えられた彼らの元に姿を現したのは、形だけは白衣を着た男。しかしその白衣もリイナに直されつつ、ふらふらと足元の危うい彼に、ラントさんお久しぶりです、とアイは短く挨拶し、エイクは腑に落ちたと青い顔をする。
「いやーあんた運がいいね!」
 エイクを見るなり機嫌よく言うランとは、彼とは対照的に表情、顔色ともに湯にでも浸かっているように緩く、赤い。エイクの顔色はますます悪化し、ちらりと窺うアイの表情は曇りなく、リツの姿は既にない。
「今日ちょーど、とっても旨い酒が手にはいったんだ! 多少惜しいがこれも何かの縁だろう、存分に飲みたまえ!」
「え、」
「その様子なら、脳と骨は大丈夫だろう。けど、傷は縫わないと」
「いや、なんと言いますか、麻酔薬というのを使ったりは――」
「うん、今切らしてる」
 言い切る顔は清々しい。
「大丈夫! うちの人、腕だけはいいから」
「アリス達には俺たちがついてますから、安心してください」
 頼もしく頷くアイとリイナに、エイクの視界はひとりでに、ぼやっと揺らいだ。

「今度はまた、随分かわいいのを拾って来たね」
 アイが居間に戻るなり、ふやけかかった赤い顔で男は笑う。
「お前はホント拾いものが得意だな」
「俺じゃありませんよ、大抵はリツの奴が見つけて連れてくるんです」
 アイも笑顔を見せて、それから、
「おじさん、おばさん、挨拶が遅れました」
 丁寧に頭を下げるのに、うんうん、と嬉しそうに頷いて彼は陽気に手招きをしかけて、しかし、上げた手も、体の軸も、船を漕ぐ様にあやふやで、耳まで真っ赤な頭は頷いた勢いのままぐらりと地面に落ちかける。それをようやく持ち直して、
「この子らは、まったく乱暴ものだぞ」
 今度は向かいの、広い居間の食卓を小ぢんまりとぎこちなく囲むアリスとカナトに、アイを指差し大袈裟に悪戯めいて話始める。
「この子らときたら、野荒しやら盗賊やらが出た聞くと、それはもう大喜びして山に登りに行くんだ。討伐だっつって散々派手に暴れまわって、そのくせして、息のある奴はしっかり連れて帰って、怪我を治せってここに運びこんでくる。まったくとんだ奴らだろう?」
「いいのよ、こんな酔っ払いに付き合わなくて」
 愉快げに笑う彼の横へ、台所から出てきた女性が人の良い笑顔で言いながら、手際よくコップを並べていく。身動き出来ずに呆然と瞬きばかりをしているアリスとカナトを、力ない彼の非難の声を無視して割って入って隠してしまう。ついでに彼女は、机にばらばらと広がった酒の類をさっさと片していってしまう。
 二人がぐだぐだと御猪口の奪い合いを繰り広げるうちに、その斜向かい、アリスは隣に座ったアイにいくらか硬い表情を和らげる。
 しかし彼女は、またすぐに眉を潜める、
「エイクは?」
「大丈夫だ。念のために傷は縫うけど、他は平気そうだって。ラントさんは優秀な医者だから任せておけば心配ないよ」
 微笑むアイに頷くものの、アリスの表情には不安が残る。彼が察して、
「あの人は、もともと貴族の出なんだ。それも城下で名の知れた、代々医者の。腕は折り紙付きだよ」
「あの人、貴族なの?」
「うん。だけど、こっちに住んで長いし、本人も、もうそのつもりはないみたいだけどね」
 ふうん、と呟きながらアリスは視線を落とした。
「ご飯まだなんですって?」
 おじさんを退けておばさんが、アリス達の前にオレンジージュースが既に並んでいるように、アイの手前へ空のコップを差し出しながら、
「急いで作るからちょっと待ってね。二人は何か食べられないものとかある?」
 尋ねる視線に、カナトはすぐにアリスの影に身を潜めてしまう。アリスが、彼女もいくらか縮こまって、控え目に首を振り、
「すいません、俺も何か手伝いますよ」
 アイが立ち上がりかけるのを制止して、会話は雑多に進む。
「今度はどのくらいいられるの?」
「いえ、それが一度城下に戻るので、明日の朝にでも」
「あら、ホント? それは忙しいわね。でも……、この様子じゃかなり降るわよ」
 彼女が目をやるのは、窓の外。倣うアイも、暗夜に眉に雲がかかる。
「雨の山道は危ないし、もう少しいたら?」
「そうですね……、リツと相談してみます」
 答えて、アイはころりと思い至り、
「あれ、そういえばリツは?」
「さっき車入れに行ったよ」
 悠長に辺りを見回した先で、アイは外から戻ったミナキに行き当たり、そして唐突にはっ、とその表情は驚きに変わる。ミナキはにやりと見計らい、
「ふふん、今季の自信作だ」
「すごいじゃないか!」
 アイの視線の行き先、ミナキは誇らしげに一つのレタスを掲げてみせた。途端に彼らの瞳に、きらきらと光が輝きだす。
「今年は大分綺麗な形に出来たんだ」
「うん、立派だ」
「色々工夫したのがうまいこといったみたいでさ、大変だったよ、土作りから始まって、」
 転がり出したら止まらない。再びアリスとカナトが唖然と口を空く。
うんうんとアイが頷き、農業話は途切れることなく、さらには二人も巻き込んで、
「持ってみる?」
 返事を待たず手渡され、カナトが危なっかしく抱えるのに、アリスの頬に冷や汗は絶えない。
「俺も少しだが、お土産に持って来たんだ。あ、リツに先に運んでもらえばよかったな」
「おお! 見たい見たい」
「じゃあちょっと取に行って来る」
「おう、俺も――」
「待ったっ!」
 びくり、とアリスの肩が跳ねる。振り返りはしたものの、再び興味深げレタスに戻したカナトを除き、視線は一斉に、声音鋭いおじさんに注がれる。沈没したものと暗黙のうちに片付けられていた彼は、まるで復活を遂げたかのように姿勢を正し、
「――ミナキ、母さんも、席について」
 今度も大袈裟に、強いて自らを厳かに演出する。
「……なんだよ、親父」
 身構えるミナキがレタスを受け取りながら言うが、彼の母は造作なく、
「今? ご飯出来てからでいいじゃない」
「いや、ダメだ」
 もう無理、とぐらつく彼にミナキも見当をつけ、ため息は混じるものの彼らは仕方がないと温かな笑みをこぼし席に着く。
 倣い座りはしたものの、何事かと、まさに困惑の最中にある瞳を向けてアリスは無言のうちに尋ねるが、答えようとアイが口を開く折、彼の前に差し出されていた杯に勝手に注がれ始めた酒に言葉は奪われ、
「おじさん、俺はダメですよ、飲まないことに――」
「よーし、みんな持ってー!」
 気のよい強引さに、どんどん巻き込まれていく。
「一体何、」
「ごめんね、適当にコップ持ってくれれば気も済むから」
 そう、ミナキに行った彼女の視線は、反射的に通り過ぎてカナトへ向かう。
「そうそう上手、こぼさないように気をつけてね」
 彼女の胸は俄かに大きな鼓動で音を立てる。促されるままに、頷くカナトは楽しげな瞬きでこれから始まることを待っている。
 早くなった鼓動はすっと水が引いていくように収まるが、不思議と胸のうちは息苦しくきゅっとつままれる。
「では、足りないのもいるけど、」
「あ、始まった」
「アリス、」
 もう諦めたらしいアイに呼ばれ、アリスは慌ててコップを持ち上げる。
「まずはアイに、いないけどリツ、よく来たな! お前たちは相変らず元気で結構!」
 酔いの残った、たどたどしい口調で始め、おじさんは鷹揚に頷いてから、
「それに、えー、アリスちゃんに、カナトくん、」
 アリスの肩はまた跳ねる。
「二人ともよーく聞きなさい。君たち二人、こうして我々とここに座った以上、泣こうがわめこうがどんなに嫌がろうとも、既にうちの一員だ! そしてすなわち、君たちには義務が発生します。いーかい? 我が家の隊員に課せられた義務はただひとつ! こいつらのように無茶しろとは決して言わない! だけどこうして、元気な顔をここへいちいち見せに来ること! どんなに楽しいときでも、どんなに苦しいときでも、この家はいつでもここにある。だから来たくなったら、思い出したら、いつでも遊びに来ること! おーけー?」
 据わりかけた目を二人に向けて、彼は満面で微笑む。
「それでは皆さん、」
 そしてゆらりと威勢よく、真っ赤な顔で腕を上げる。ぐるっと座を見渡し、
「皆さんの健在ぶりと、新しい、この幸せな出会いに、」
 音頭と共に、一斉に、
「乾杯!」
 幸福な音が鳴らされた。



[21440] Ⅱ-2
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2011/06/19 16:42
「みんな、私のことを子供扱いするわ。そんな歳じゃないのに」
 アイの提げたランプに照らされながら、彼女は口を尖らせる。彼は自然な笑顔で、
「ほら、俺たちに比べれば若いし、背もちいさいから」
 悪気があるわけじゃないよ、と楽しそうに歩き、アリスの顔は小さくほころぶ。
 薄っすらと湿った風も賑やかな余韻を纏った頬には心地よく、一斉に揺れる稲の青い匂いも気にはならない。母屋の明かりを背に受けて、平らな一本道はなにも遮るものなく続いている。
「だけど、少しだけ疲れたわ、あんなに賑やかなのは久しぶりだから……」
「いいところだろう?」
「……ええ」
 どこか気恥ずかしげに彼女は微笑み、アイは曇りの夜空には似つかわしくない笑みを向ける。
「よーし、早く戻ろ」
 愉快な声で、ランプを持たない片方で彼はひょいと陽気に、丁度隣で彼を見上げたカナトを抱き上げた。肩に乗っけて、意気揚々と頭を持ち上げたところで不意に、彼がぐらりと重心を失う。
「あれ、軽くて逆にバランスが、」
 カナトの重みが持ち上げ一歩行こうとした勢いに釣り合わない。間の抜けた声とは裏腹に、体は勢い良く後ろへ倒れていく。
 すっと、アリスは自分の頬が冷たくなるのを感じた。カナトの頭は放物線を描き落ち、まるで糸で引かれるようにあっという間に地面は近くなる。咄嗟に伸ばす手は追いつかない。声になりそこねた息が咽ぶように鳴るのが頭の中で響いて、突然、胸の内がぐしゃりと握り込まれる。緊張が勝手知ったるように臓物を押し上げて、感情は一気に凝縮する。
 ぱっと白く、時は姿を消して、深い瞬きで彼女が気付けばアイはカナトを乗っけたまま、目を瞬かせてしゃがんでいる。
「はーびっくりした」
 反射的に上半身を起こしていたらしい彼は、何事も無かったかのように長閑な息を吐いて立ち上がる。
 しかしアリスの、凍った背筋は溶けない。一瞬のうちに訪れた感覚が、彼女を離そうとしない。
「……もしものことがあったらっ……」
 上がった息のまま、ようやく出てきた彼女の弱い声に、アイが驚きの色で眉を曇らせる。
「大丈夫?」
 地面は土である。この感覚は度が過ぎていると彼女自身も理解している。だが、思うように呼吸は整わない。
「ん?」
 不意にアイが顔を上げる。カナトが彼の髪を引いている。そしてけろりとした顔で、
「もう一回、」
 にこにこと言ってのける。
 思わずアリスは目を丸くして、ぱちりぱちりと固まったように一時大きく瞬きをする。それからようやく、口は慌てて息を吸い込んで、
「カナト、やめなさい、危ないことはしてはだめ!」
 大口で言う彼女の頬には桃色が戻り、表情は帰ってくる。それをちらりと窺い、アイも眉にかけた影を退けて、見上げたカナトの笑顔に、にっ、と頬を上げる。
「アイ!」
 咎めるアリスに、大丈夫、と繰り返し、アイは楽しげに立ち上がる。重心を揺ら揺らと変えながら歩いて、アリスは忙しなく隣について、その一挙一動にはらはらと顔を青くし、あるいは笑い声を上げるカナトの様子に自然と頬に張り詰めた力は抜けていく。眺めて、アイは笑みを漏らし、
「リツにもそういうところがあるが、アリスもだな。二人とも心配のしすぎだ」
「貴方が心配しなすぎなの」
 きっぱりと言って、それから彼女は伏し目がちにちょっと考え、それに、と付け加える。
「あの人少し苦手だわ」
 控えめに言う彼女に、アイは気さくに頷いて、
「それはアイツが悪いな。口は悪いし、愛想もないから」
 しかしながら、語尾は少しばから困ったように濁って、
「中身は悪い奴じゃないんだ。仲良くしてやってほしい」
 アリスに微笑んで締めくくり、彼は顔を上げる。
「さ、急ごう」
 大股で踏み出した先には、屋根の高い、重たげに佇む車庫がある。闇に紛れながらも、そこだけ強く黒で塗り潰したような無言の存在感は、顔を上げたアリスの胸に嫌な鼓動を一つ脈打たせる。

「気分は?」
「おかげさまで、大分いいよ」
 頭に包帯を巻かれ、エイクは弱く微笑みを返す。
「君たちの言った通り、彼はいい腕をしているね。もう問題なく動けそうだ」
 上半身を起こしていた彼は、言いながら腕を軽く回して見せる。
 治療に当たったラントとリイナの姿は既になく、窓が開けられているために、一組の小さな机とベッドが一つあるだけのこの狭い部屋に薬臭さは残っていない。
「リツ君、だったね?」
 ああ、と頷きながらリツは進み入る。机の上の小さな明かりを手に取り、その火を壁の室内灯に移していく。その動作を目で追いつつ、エイクは続ける。
「ひょんなことに巻き込んでしまって、すまなかったね。もっとちゃんと話すべきなんだろうけど、ちょっと時間がない」
 一つ目の火元に灯がつき、次の一つに火を寄せるリツは相槌を打つことはしない。
「車の手配を頼めないだろうか、すぐに発ちたいんだ」
 三つめを灯し終えてから、彼は振り返る。
「それは出来ない」
 たった今灯した明かりが、彼の無表情を照らし、彼は平淡に言う。
「あいにく俺たちの車を渡すことは出来ないし、敵も時期にここにたどり着く。狭い村だ、車が一台消えただけでも、お前らがここにいた事実が割れる可能性がある。逆賊に加担したとなれば、この村が制裁を受けるのは免れない」
「逆賊……」
「違うのか?」
 ふ、とリツは初めて口角を上げ、エイクは僅かに、硬く雰囲気を変える。
「……君たちの事はおおよそ、君の兄上に話を聞かせてもらった。何が目的かは知らないが、こちらにもそれなりの準備があるとだけは警告させてもらう」
二人の視線はぶつかりあったまま動かない。
「勘ぐる必要はない、俺たちの後ろにはなにもない。これは全くの偶然だ。街を出て、この村に向かう途中でぶつけた車がお前らだった、それだけだ」
「それは少し無理がある。君たちはひどく慣れている上に、知りすぎている」
 リツに覗く余裕は揺らがない。
「うちの兄貴は山賊を追っかけ回すのが趣味みたいなもんなんだ、慣れもする。それに情報なんて、この程度、少し探せばいくらでも手にはいる。お前らがここまで追い込まれたのだって、もともとは情報戦で後手に回ったのが原因だろ?」
 エイクが潜めて眉を上げたが、リツはかまわず続ける。
「なにより、第二王子シュドルの母イレーネは、かのフィオレダ王国王族の血筋だ。今更この後継争いに手を出して、フィオレダを敵に回すようなまねを演じる国はありはしねえ」
 至極あっさり言ながら、彼は机に火種を戻し置く。
「俺にお前らをどうしようなんて気はない。ただ、」
 近くなった炎が、写るエイクの待つ瞳でちらりと冷静な光をあぶり出す。
「一つ提案をしたい」
「提案?」
 薄っすらと笑みを纏わり付かせたまま、繰り返したエイクに向ける瞳は一際強く光る。
「ああ、王座を取り戻すための提案だ」

 中は一層黒く、入り口までじとりと手を伸ばして肌を撫でる湿気と、背筋を震わす冷えた空気がひっそりと過ぎ、アリスは思わず後ずさりをする。そのまま振り返って、丁度肩を降りたカナトを迎える風でアイの手にランプを戻してしまう。
 足元を照らし、気を付けるよう言いながら、車庫の入り口を潜ったアイの背に、彼女は隠れるようにしてカナトの手を引いて行く。滲み入るランプの明かりに闇は億劫そうに退いて、一方では突き当たった土ぼこりに汚れる壁をくっきりと照らし、もう一方では浅黒い地面の上で曖昧な進退を繰り返している。
「少し待ってて」
 言いながら、一人奥へ行くアイと一緒に明かりが動く。虚ろな光の境界線は、車庫に置かれた雑多な物のすれすれの、輪郭をたやすくなぞって過ぎていく。他愛の無いものが他愛なく、照らされそして闇に潜り、アリスの視線は窺うようにそれを追う。ここに立ち込める、ぬるく冷たい空気は不快で、彼女はどこか落ち着かない。
 視線の先で光がこつりと行き止った。次いで鋭く白く光が反射して、咄嗟に跳ねた肩が知らぬうちにカナトの手を離れた。
 彼らの車は、行儀よくそこに収まっていた。
荷台を布で覆われた、掠れた白の多い、中型の車。暗く浮かび上がった外様は凹み、酷く傷ついている。惨忍な白さで反射する窓ガラスには、いくつも螺旋が描かれて、ぐるりぐるりと渦の中心へ落ちるみたいにアリスの双眼が捕らわれたその中心で、突き刺さる銃弾がぬらりと光った。
 規則正しく冷静に、心臓が脈打つ音をアリスは耳の底で聞いている。銃弾がきりきりと確実に彼女の咽喉を絞めていく。凝縮した感情は行き詰まる。
 自身の内が肌寒い。やけに冷静なのだ。たまらない息苦しさが、押し込まれる胸の内を遂には結晶のように、はらりとつまんで潰し割る。しかし自身が白い瞳で、それを見ている。
「アリス?」
 はっ、アリスは音を立てて息を継ぐ。
「な、なに?」
 反射的にその瞳はしまいこみ、慌てて答えて、彼女には嫌な動揺が残る。
 車庫はもう明るい。ランプの火を貰ったらしい備え付けの照明器具が広くを照らし、呼びかけたアイの手には小ぶりの木箱があった。
「アリスも食べる?」
 彼の側で不思議そうにこちらに向かうカナト瞳とぶつかりかけて、アリスは躊躇するようにアイの木箱に視線を戻す。
 彼の抱えた木箱に傷はない。
 アイが箱の中から赤い苺をつまみ上げて見せ、彼女は頷いた。すっと視線は僅かに車をなぞったが、それきり、二人の元へ早足で行く彼女がそれを見る事はなかった。
「それにしてもリツの奴、挨拶も済ませずに一体どこに行ったんだ。行き違いってことにはならないだろうし……」
 まったく、と口を曲げて辺りを見回すアイの隣で、見上げるカナトは手に持った苺を彼女に見せて、
「おいしい?」
「うん」
 笑顔は屈託ない。
 アリスも自然と口角を上げ、上がりかけて、ふと突然、表情から色が消える。
「……ねえ様?」
「おーい!」
 駆け込む声にアイが顔を向けたのは車庫の入り口、ミナキが水を払いながら、
「傘持ってってないだろ、もう降ってるぞ」
 まとめて握った傘を持ち上げる。
「ああ助かった。どうしようかと思ってたんだ」
 笑みは幾らか濁って、
「ミナキ、リツと合わなかったか?」
「ん? 見てないな」
 答えにアイが眉を顰める。
 半ば反射的に二人を見上げていたカナトは、解放されたように慌ててアリスに顔を戻す。彼女はカナトを見返すと困ったように微笑み、それは彼の良く知る顔に違いない。

 窓の外から緩慢に流れ入る空気が、絶えず明かりを鈍く揺らめかせる。
 ペンを置いたリツは、まだインクの乾ききらないざらが身を摘み上げて楽しげに、角を合わせて四つ折にしていく。
「シュドルの離脱で、兵力は二分、いや大半を奴らに持っていかれてることは知っている。おまけに城内の統率は危うく、情報は敵に筒抜け。内通者が多いことは確かだが、一方でこれだけの状況でもカナト派が倒れないのは、忠義の臣が存在するからに他ならない」
 小さくされた紙は机の上の種火にかざされ、間もなくじわりと炎が移る。摘む指へとちりちりと、紙を焦がして昇る炎を彼は揺らして弄び、誰に向けるようでもなく、
「小数でも精鋭なら、これで十分やれる」
 リツはすっと刃物の冷たさの宿った双眼を光らせ、口元は終始弧を描く。
 燃えていく紙切れを愕然と眺めて、エイクの額に薄く汗が一筋伝っていく。
「まさかこれほどの――」
 呟かれた言葉に、リツの視線だけを上げ、エイクがそれを鋭く見据える。
「やはり、納得がいかない。これほどの策を披露しておいて、それでも君はただの一個人だというのか?」
 リツはまた、億劫そうに目を戻して、
「……一個人だからこそ、この偶然にしがみつこうと必死なんだろうが」
 自嘲を、リツは他人事のように雑に投げ捨てる。
「俺たちについての話は聞いたといったな。なんてことはない、俺たちは山奥の小さな村から来たただの田舎者だ。だが、たまたまその村は秘境の村、つまり世捨て人の村でな。多少特殊な人間が多い」
「それはまた随分――」
「得体の知れない話ではある。だが、それが事実ですべてなんだから仕方ない」
 リツ自身、呆れるように緩く笑う。だが、潜む鋭さが消えはしない。
「たとえば車、あれは村で作られたものだから、世間に出回ってるのとは仕組みが違う。性能も上だ。俺たちが戦闘に慣れているように見えるのも、その実、性能の違いが物を言ってるに過ぎない」
 事務的に一通りを述べて彼はいよいよ指先に迫る炎の、もうほんのかけらになってしまった紙切れをぽとりと火種の中に落とした。火は一瞬ぼっと燃え上がって後に何も残らない。
「そもそも、世間には存在を知られていないのが俺たちだ。それがどうして、謀計の歯車になりうる?」
 向けた攻撃的な瞳は同じく好戦的なそれとぶつかり合って、双方が糸の左右を引くように空気がぴたりと張り詰める。
「ならば、君たちの目的は?」
「目的もなにも、もうこれだけ盾突いてんだ。王が変わるとこっちだって迷惑すんだよ。それに――」
 切り込むようにリツの瞳は一層強く光って、一方でまるで鼻歌でも歌うように軽やかな、楽しげな色を滲ませる。
「俺には勝つ自信がある。なら、舞台に立って損はないだろ?」
 エイクの片眉がぴくりと、脈打つように微かに動く。



[21440] Ⅱ-3
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2011/06/27 02:23
「兄貴」
 壁と廊下に接する四角い玄関で、持ってきた木箱を丁度置いたアイが待ち構えていたように奥の廊下を振り返る。
「お前は一体どこで油を売ってたんだ」
 非難のため息が混じる彼の傍らで、外の雨音に潰され判然としないリツの足音に姉弟は揃って暗い廊下に目をやって、だが、影を潜って姿を見せた彼に小さく神経質に身を縮める。
「挨拶ぐらいは揃って顔を見せないと失礼だろう。もう済ませたのか?」
 ああ、と曖昧に言うリツは、無表情に斜へ向けた視線を上げようとしない。広い玄関を彼の方へ足を数歩行かせていたアイは困ったように眉を寄せかけて、ふと、対峙する足を止める。
「どうした、何かあったのか?」
 真顔に変わった顔は、リツの表情を見ている。
「いや。その件は俺が悪かった」
 かわすようにリツはすっと顔を上げて、アイの後ろを見やり、
「話があるそうだ」
 目の合ったアリスは些か動揺する。それを悟られまいとした彼女の声は、多少無愛想になって、
「……エイクが?」
「ああ」
「もう平気なのか?」
 アイが尋ねたのにリツが頷き、そうかと彼は胸を撫で下ろす。
 もう閉じられた玄関の脇に四角く抜かれた小窓、リツは明かりの反射で外は殆ど見えないそこに視線をやって、
「戻ってきたとこ悪いが、そろそろ出る準備を始めたほうがいいな……」
 ようやくアイと目を合わせた彼は唐突に真剣な面持ちをしている。
「車の整備を頼む。エイクのところに案内してから、俺もすぐ行く」
「あ、ああ。わかった……」
 返答には困惑が残るが、リツはかまわずアリスを一瞥で促し、彼女がカナトの名を呼んでその手を引きかけたのにぴたりと、
「カナトはここで待ってろ。まだ薬のにおいがきつい」
 にべも無く言い残して、さっさと踵を返してしまう。
 アリスは不安げに表情を変えるが、後ろでやり取りを気楽に眺めていたミナキがやはり気楽に声を掛けて、
「いいよ、俺が見てるから」
 なっ、と笑いかける彼にカナトも頷き、アリスは急いでリツの後を追っていく。
 二人の背を見送るアイの表情は、はっきりしない。
「あ、車手伝ったほうがいい?」
「いや、大した作業じゃないんだ。大丈夫」
 しかし寄せた眉に離れる様子はなく、そう、とカナトと顔を並べてミナキは控え目に言う。
「あまり良くないの?」
 角を曲がり、アリスはリツの一歩後ろに続く。
「そんなことはない」
 答えて彼はまた、板張りの廊下を無言で進む。
 居心地が悪そうにアリスはリツを窺うが、彼に口を開く様子はない。
 縮こまる彼女はふと、抜け道を見つけるようにアイの言っていた事を思いだす。
「そういえば、」
 一歩前に出るように始めた口ぶりは、誤魔化し混じりでいくらか尊大な風になる。
「おじ様から聞いたわ、あなた面白いことしているのね。悪人を成敗して、でも怪我人は助けて、正義の味方みたいなこと」
 彼女としては褒めたつもりだったが、
「捨て置いて生き残れば面倒だが、こっちで生かせば勝手に恩を受けた気になる。百人殺っても一人助けさえすれば、悪になることはない。お前は王族をやるくせに、その程度の頭もないのか」
 にべも無い。淡々と言い放つその言い様に、彼女は驚き一辺倒で咀嚼の意識に穴が開く。それからようやく、腹立たしさやら恥ずかしさやらが沸々と湧き上がってきて、はくはくと唇を開けはするものの、返す言葉は結局上手く出ずに口は噤んでしまう。
 膨れっ面でその背を睨みつけても、彼が振り返ることはない。
 それからしばらく平行線を辿ったまま歩き続けて、不意にリツが足を止める。廊下にまだ扉はなく、アリスは不審げに顔を上げる。
「話はしてある。後はお前が指示するだけだ」
 会話は唐突に始まる。
「……なんの話?」
「この国の話だ」
 振り返り、リツがすっとアリスの瞳を捉える。
 頬を冷気がかすめるような、殺伐とした緊張が彼女に近付く。
「もう一度聞く。お前は本当に、戦う気があるのか?」
 アリスが双眼に宿す、その色が、静かに暗く変容する。
「戦う気があるのなら、俺が王座をお前にやろう」
「……この国はそんなに簡単じゃない」
「当たり前だ、簡単じゃ困る。だが、やれるだけの余地は十分ある」
 見つめるアリスにリツは笑みを残す。
「お前にとってこの国がどれほどのものかは知らねえが、俺はもう、すべてくれてやることにしたんだ」
「すべて?」
 繰り返す瞳は鏡のように冷静に、逸らすことはしない。
「そうだ。何もかも捨てて、この国に挑む」
「……一体なんのために?」
「俺のために」
 濁り無い声で言い放ち、足を止めたまま彼は廊下の先を指差す。
「角を曲がってすぐの部屋だ。直に出発する、早く決めろ」
 そして踵を返し、視線を合わすことなく彼はアリスの横を過ぎていく。
「あなたは馬鹿だわ。こんなにも手にしているというのに――」
 その背を見ることなく彼女は呟く。
 足音が、つ、と止まる。
「馬鹿はお前だ。これだけ奪われてまだ、逃げ果せる気でいる」
 淀みなく再開された足音を背に、アリスは静かに視線を落とした。

 控えめにノックをして、アリスはノブに手をかける。
「エイク、入るわ」
 部屋の壁際、置かれたベッドの上に腰掛けてエイクはじっと木目の床を眺めていた。
 明るい部屋の中心で机の上の小さな炎が揺れている。それでも闇はじわりと残って角を食んでいるのを彼女は漠然と視界の端で眺めて、そして造作なく通り過ぎて動かない彼にもう一度、
「エイク?」
 エイクが弾かれたように顔を上げる。
「、姫様」
 その姿を認めると同時に彼はすぐさま膝を折り、立てた肩膝右手を添えて頭を下げる。
「申し訳ありません、姫様に大変なご無礼を――」
「それより怪我のほうは」
「はい、見ての通り大事ありません」
 顔を上げて微笑したエイクに、よかった、とアリスは大きく息をつく。
「面を」
「は、」
 彼は進み出て椅子を引いたが、アリスは緩く首を横に振って立ち止まったまま彼を見上げる。
「どうかしたの?」
 彼は答えない。伏せられたその瞳の元、思慮深く眉が寄っている。
 一層強く口角を引いて、それから軌跡を描いていくように、エイクは静かに視線を上げる。
 アリスは酷く真剣な面持ちに対面する。
「……姫様、私の任務は若君、姫様と共にこの国より無事逃れ、御身をお守りすることです。ですからこれから申し上げることは、戯れ言です」
 アリスは頷く。
 待ち構える彼女を見据えエイクの口は、はっきりと開かれる。
「勝機がございます」
 いつでも穏やかな彼の瞳が、暗く光る。
「あのリツという少年、到底只者とは思えません。彼は我々が望む策……、勝利のための非常に現実的な策を持っています」
 驚きで顰めた眉をそのままに、アリスは冷やかな色をもって瞳を細める。
「彼の策に依れば、若君の王座もかないましょう」
「……確かか?」
「確かです」
 エイクは微動だにせず断言する。
「そう……勝てる……」
 彼女は小さく反芻し、俯かせたその顔に、感情はのらない。
「お父様がいらしたら、どうなさるだろう……」
 霧中にあるような、ぽつりと呟かれた言葉はエイクに届く前に、彼女の自嘲めいた口元に緩やかに消されてしまう。
 柔らかな明かりの空虚を眺めていた彼女が、やがて小さく呟く。
「エイク、私は一体どれほど許される?」
 声に震えはない。だが、すぐに消えてしまうその様はあまりにも儚い。
 慈愛の満ちた悲しみを彼は双眼に浮かべるも、下ろした瞼は鋼鉄のように頑強に、
「我々には、忠誠を誓った姫様、カナト様、そしてこの王国こそがすべてです。ですから、この身、この命を捧げることなど、容易いのです」
 そうして開かれた瞳が穏やかに、この優しき姫へ微笑みかけた。



[21440] Ⅱ-4
Name: ---◆b6852166 ID:d8e9d6a8
Date: 2011/06/30 00:45
 雨は、酷くはない。しとしとと雨音は間断なく耳に薄く覆いかぶさり、雨どいの端を落ちる雨粒が一定に水溜りを打っている。簡単な明かりを脇に置いて狭い車体の下に潜り込んだアイの鼻先でパイプが立体的な網目をつくり、その一本一本を確認する瞳はまるで機械的で、意識は居心地悪くくすぶる違和感のありどころを探している。
 意識は記憶を辿り、視界に欠陥らしきところが映ればまた戻って手直しし、行ったり来たりをしているうちに、記憶がじわりと浮かびあがってくる。
 彼が眉間を絞ったの同時に、鈍い音で滑りの悪い引戸が開く。地面に置かれた一つと壁に備え付けられた一つのランプが割によく照らし、地面で影が動いている。
「どうだ?」
 傘を置いたリツが車体に向かって尋ねる。
「大丈夫そうだ。悪いところは特にない」
 背に引いた寝板ごとガラガラと音を立ててアイが車体の下から滑り出る。リツは車用の大きな出入り口へ行って、
「一度動かしてみたほうがいいだろ」
 大きな引戸に両手を掛け、軋みながら開いた雨の音がくっきりと強くなる。
 突っかかりながら動く戸を、開ききらないうちに押すリツの手が緩やかに止まる。アイは傷だらけの車体を過ぎて、手にする炎が重い足取りと一緒に揺れ、足が止まって一際揺らぐ。
 険しい眉のまま、アイはリツの背に対峙する。
「リツ、お前、この国を獲ると言っていたな」
 リツは答えない。それは肯定であると知るアイの表情を影が掠める。
「どういうことだ? あの子達をどうするつもりでいる?」
 リツは雨を眺めるように佇み、表情に明かりは届かない。
「王族は王族のすべきことをするだけだ」
「それはつまり、あの子たちに姉弟で殺し合いをさせるということか?」
 語尾は低くなる。軽い雨は沈黙を埋めず、アイの苛立ちは増していく。彼は、この沈黙が意味しようとしているものを察したくはない。詰まる所それは――
「……そうだ」
 雨の中に投げされる肯定は、アイに十分届く。顰められた彼の表情が、更に深くなる。
「どうして、そんなことを」
「王族に権力争いは付き物だ」
「そうじゃない」
 語勢は些か乱暴にリツを切り捨てる。継いだ呼吸が硬いため息になる。
「……一体どうしたんだ。今日はお前、何か変だ」
 リツの背は振り返らない。
「なぜそんなことをさせる必要がある? 身内同士の争いなんて、どれだけ無意味で残酷か、わかりきってるだろう? リツ、これは俺たちにどうこう出来る話でもなければ、首を突っ込むような話でもない。――身内で殺し合うくらいなら、あの子たちは逃げてしまった方がずっといい」
 アイは痛ましげに目を伏せる。
 寄せる沈黙の波が、彼らをわずらわしく取り巻いていく。佇むリツは足をとられることはなく、その右手がゆっくりと握られていく。五本の指が折りたたまれ、一層力の込められた拳は一瞬小さく揺れ、そして虚しく緩んだ。
「……兄貴、ここで別れよう」
 リツはひたすら闇を睨む。
「俺はあいつらと城下に行く。車は手配してある、兄貴はこのまま村に帰ってくれ」
 アイが驚きで顔を上げる。
「馬鹿なことを言うな、このまま帰ろう」
「嫌だ」
「リツ、」
「なんと言おうが俺はやる」
 音を立ててリツは振り返る。その瞳が、アイのそれと激しくぶつかる。
 戦うように差し向かう視線は退くことなく、闇と光の中にあって明確に閃く。
 真剣さを宿して、アイが口を開く。
「……お前の腕じゃ、あの子たちは守れない。不幸にするどころか、命を落とすぞ」
「そうだ、だから俺も命を賭ける」
 アイが目を見張る。
「城下に下って、俺はもう村には帰らない」
 咄嗟に開いたアイの口が言葉にする前に、リツは告げる。
「俺は村に出る」
 しん、と沈黙の波すら引いていくように、音が消える。それは、唐突に途切れた糸に似ている。
「……いい加減にしろ」
 愕然と正体を失っていたアイの瞳が、じわりと鋭くなっていく。
「それがお前の目的か?」
 それは静かに、はっきりと怒りを写し出す。
「村を出たいがために、そんなことをするのか?」
 リツは、意識的に背を向ける。アイはきつく、暗い地面に視線を落とす。
「……村を出ることは許されない。そういう掟だ。だが、お前がそれを望むなら、 俺も一緒に頭を下げよう。俺たちはあの村に育ててもらったも同然だ、命の恩人に対してのそれがせめてもの礼儀のはずだ」
 ぶら下がったアイの右手がぐっと音を立てて握られる。眉はみるみる苦しげに歪んで、短い呼吸を呑み込んだ。
「それを、まるでなかったもののように裏切って……皆をどれだけ傷つけることになるか、わからないお前じゃがないだろう……!」
硬い背の、リツの声色に感情は滲まずに、
「もう決めたことだ」
「ふざけるな。人を裏切り、利用することが、許されると思うのか」
 空気が冷たく、刃のように張り詰める。
「頭を冷やせ」
「俺は十分冷静だ」
「リツっ、」
「兄貴は!」
 俯くリツが、顔を上げることなしに叩き出す。跳ねるように散った音が静寂をつくる。
「このまま帰ってくれ」
 リツは光に背を向ける。
「俺のことは憎んでいい、だから、帰ってくれ」
 いつの間にか雨は音を立てて泥を突き、傘もささずに踏み出したリツは、決して振り返らずに闇に消える。

 油の臭う浅黄の傘は、次第に強くなっていく雨に巻き込まれ、闇に隠れるように進む。
アイはランプをつけてはいなかった。
 雨と傘にくぎられた狭い隙間の向こうで、遠い山肌は時折ちかりと光り、また消える。彼らを捜索するものに違いないそれを、彼は無感動に視界に入れ、次ぐ足は泥に塗れていく。
 たどり着いた家の明かりに、彼が顔を上げたときだった。
「アイ、」
 雨に歪められることなく、声は鈴の音が鳴るようにすっと彼の耳に届く。
 あぜ道の終わり、ミナキの家に続く広い道の入り口に、一本の立派な樹が立っている。裾が汚れてしまうのも構わずに、その根に丸まるようにアリスが佇んでいる。
「どうした、そんなところで」
「貴方を待っていたの」
 立ち上がり、アリスは踏み出す。広くなった葉の間から雫は落ち、その頬を濡らす。彼女の手に傘はない。
「貴方に頼みがある」
 アイに向かう瞳が、薄っすらと射す光を受けている。冷たくも温かくもないそれは、ただ彼女が真剣であることだけをアイに伝える。
「……あんまり濡れると風邪を引くよ」
 アイは微笑み、彼女の上に傘を差し伸べる。
「私は、いいの」
 すっ、と顔を伏せ、足を引くアリスに、彼は困ったような顔をしたものの、傘を閉じて優しく彼女の腕を引く。幹まで入ってしまえば、葉が雨粒を消す。
 彼は振り返り、
「俺もアリスに訊きたいことがあるんだ。先にいいか?」
 尋ねる笑顔は、顔に乗った影が濃いせいだろうか、忍ぶようでぎこちない。
 緩くアリスが頷いたのに、ありがとう、と短く言う彼の表情が重苦しく変わる。
「城に戻りたいと、今も思っている?」
「……ええ」
 彼女はアイと視線を交えようとはしない。眩しいものを見るときのように、細められた瞳は雨の向こうばかりを眺めている。
「何のために?」
「……戦うために」
 苦く、彼は口を閉じる。
 雨の音が重くのしかかり、夜が深くなっていく。
「……アリス、カナトを連れて逃げるんだ」
 彼の眉間が厳しく寄る。
「俺はこの国の出じゃないから、行き先ならいくらでも紹介できる。きっと逃げ切れる」
 アリスは緩く首を振る。美しいその髪からゆっくりと雫は落ち、彼女はようやくアイと向き合う。
「私には、他に行くべき場所がない」
「それは違う」
「違わない」
「そんなことはない、どこだってきっと――」
「私が、」
 遮る彼女の語気は強く儚い。
「私が、許せないの……私には他の選択肢なんてない……!」
 顔を上げたアリスの瞳は酷く感情的な光を湛えている。
 眉間を一層深く、アイは沈黙する。
 彼女ははっきりと呼吸をする。
「だけど、あの子は違う」
 小さな声は、しかし澄んでいる。
「カナトは、別の道を生きていける……」
 唐突に、アリスは泥の中に膝を折る。冷たい地面に両手を着き、その頭はゆっくりと伏せられる。
 垂れた、美しい髪が泥に浸る。
 落ちる雨が弾ける泥の根で、アリスは土下座し、アイの表情は歪む。
「私はこれから戦争をする。もし私が負けるときは、カナトを連れて貴方の村まで逃げ欲しい」
 張り詰めた彼女の声が、動きかけたアイを制止する。悲痛なほどに、彼女の心がそこにあった。
 思わず顔を伏せた彼は、ぐっと拳を握り、立ち竦む。
「貴方にこんなことを頼む私は、ずるくて、汚いわ。だけど、私は絶対にカナトを守りたい」
 アリスは額を一層汚して、言葉を絞る。
「どうか、カナトを……!」



[21440] Ⅱ-5
Name: ---◆b6852166 ID:831f7702
Date: 2011/06/30 00:46
 ほとんど地下に埋まっているこの部屋は、太陽の昇っている内ならまだしも、沈んでしまえばまるで穴倉になる。高い天井沿いに空いた横長の窓は、外を通り過ぎる人々の靴ばかりをおぼろげに写す高さでしかない。月明かりも街灯も拾えないそれは陽が沈んだ早々に塞がれ、代わりに部屋には爛々と過不足なくランプが灯される。
「ジル」
 炎が一斉に揺れ、返事を待たずにドアが開かれる。
 金の髪を後ろでまとめ上げ、紫色の瞳をしたシェイラは些か不機嫌そうな表情で進み入る。しかしそれが彼女の本来であることを知るジルは、広くも狭くもない丸テーブルの上にコーヒーをのせ、生返事だけを返して書類を読む視線を上げることはしない。首に僅かばかり掛かる長さの深い黒の髪はきれいになでつけられ、サングラスない目元は切れ長で線のはっきりした顔立ちはいかにも涼しげで整っている。
「どうしたの、そんなに真剣に。目新しいことは書いてなかったけど」
 彼の手元を後ろからひょいと覗き込み、シェイラは不思議そうな顔をする。
「いや、ただの確認。どうかした?」
「手紙」
「誰から?」
「さあ」
 宛名も差し出し人もない真白な封筒にさして驚く様子もなくジルは受け取り、すぐに封を開けていく。
「他には?」
「少しあるけど、急ぎじゃないから後でいいわ」
 答えるシェイラはやはり怪訝そうに、彼の置いた書類を手に取る。
 手紙を広げてしばらく、全文暗号で綴られたそれを無言で読み進めうちに、彼の口角は鋭く悠然と上がっていく。そしてジルは元のように手紙を折り畳み、その音でいくらか顔を上げた彼女に楽しげに、
「生きていたらしい」
「……ああ、あの子?」
 答える彼女は、得心がいったとようやく書類を置く。
「リツくんでしょ? 心配なら最初から囮なんてよせばいいのに」
「それじゃ面白くない」
 ジルは悪戯っぽく笑い、彼女は呆れたため息を漏らしながらも柔らかな微笑みを返し、
「でも、うまくいったならよかった。あなたの見込みも外れずにすんで」
 しかしジルは、だが、と軽く息を吐き出し、
「どうやら俺はまた、盲目だったらしい」
「……どうしたの、」
 シェイラの表情が俄かに張り詰める。緩やかな彼の笑みにはほんの僅か緊張が漂っている。
 寄せられていく彼女の眉を、引きとめるようにジルは冗談めいた微笑みでんで見せてから、
「俺はもともと兄の方を買っていたんだ。兄のアイは恐ろしいほど腕が立つ……だが、弟の方もどうも随分な食わせ者だったらしい」
 ジルは口角をにやりと上げ、ひらひらと、手紙をつまみ上げる。
「それで、脅迫状。あれはどうやら俺を売る気らしい。それもこれ以上なく立派な材料で」
「――――ヴァン、まさか」
 一気に血の気の引いた彼女に、彼が人差し指を立て口の前におく。はっとしたように彼女は口を結び、しかし不安げ問う視線にジルは大げさな動作でもって諦めと肯定を表明する。
 シェイラは瞬時に表情を険しくし、
「だけど、一体どうやって……知る余地なんて絶対に無い、断言できる」
「俺もそう思ったが……よくよく記憶を洗ってみれば、思いあたるところがひとつだけある」
「え?」
「おそらく、初めて会ったと俺が記憶しているより前に、俺はあいつと一度会っている」
「会うって……リツくんとの付き合いはもう長いじゃない。あの子の歳でそれ以上前といっても……」
「ガキもいいところだ。その上、俺も忘れるぐらいたわい無い……」
 冷静な面持ちでジルは一口、ゆるりとコーヒーを飲む。
「おそらくこっちに来てすぐだ。人をつけてたか、待ち伏せでもしてたか、よく覚えてないが、その途中、路地で子供と思い切りぶつかったことがある」
「ぶつかった?」
「出会い頭にな。確かむこうは荷物を抱えていた、その上ほんの子供だ、たいした速度じゃ歩けない」
「だから気が付けなかった?」
「覚えてなかったことを思えば、そう片付けたんだろう。だが時期も時期だ。ぶつかったその時はそれなりに焦った。つまり、“演じ”損ねた」
「……それであなたの過去に疑問を持ったって言いたいの? それだけで気付くなんて……しかもそんな子供の頃のこと、そもそも覚えているかどうかもあやしいわ。それに、気付いたからといってどうこうなる話でもない」
「まあ俺も遊び半分で、あれにはこっちの世の中の仕組みやらなんやら、一通りは教えてあるからな……」
「飼い犬に手を噛まれたなんて笑えない……可能性が本当にないかもう一度調べてみないと……」
「いや、その必要ないな。お前の言う通り流れ出る余地はない」
「じゃあ……」
「要はただの仮定だろう」
「……想像で組み上げたって言うの?」
「実際の情報が持つ関連性はわずかであっても、最初から一つの仮定を持って結び付けていくことが出来たなら……、組みあがらないこともない」
「信じられない……。一つ一つの関連性なんてほんの僅かなしかないのに」
「だが仮想であろうとそれが真実と一致してしまえば、こっちは白旗を振るほかない」
「……それで要求は?」
「それが問題だ」
 彼はまた溜め息を吐く。
「あの馬鹿、手元の駒で天下を取ると言い出した」
「駒? ――、時間通りに出したんだから、出会うはずがないわ……」
「大方お姫サマらしく随分ごゆっくりな道中だったんだろ。まったく。囮の意味がない。まあ、それについては後で報告を聞こう」
 彼女は頷くも、不服そうに顰めた眉は変わらない。
「……なんにしろ、時期尚早よ」
「ああ。俺もそう思ったからこそ、この話にのったっていうのに、まったくとんだ誤算だ」
 しかしその言葉とは裏腹に、彼は不敵な笑みを浮かべる。シェイラはそれを窺い、
「……買いかぶりが過ぎるわ」
 ジルは悪戯をたくらむ子供のように、にやりと彼女に笑って見せる。
 そして冗談めいた笑みを湛えて、彼は手紙を元のように封筒に戻していく。
「まあどっちにしろ、あいつが真実を握りかけてる以上逆らえないだろ? それに、俺もヅラ生活卒業したいし」
「馬鹿らし」
 まるで取り合う様子のない彼女は机のコーヒーを一口、思考に視線を留めて飲み、席を立つ。
「勝手に処理するなよ」
「……さあ、それは約束できないわ」
 シェイラはふわりと言い、美しく微笑んで、
「だけれどあなたが処理してくれた方が、手間がかからないのは確かね」
 応じ、ジルはにやりと口角を上げる。



[21440]
Name: ---◆b6852166 ID:b4cc31c2
Date: 2011/06/30 01:27
-attention-
これ以降は特に賞味期限切れの文章が続きます。
御読みの際はお気をつけください。



[21440] Ⅲ-1
Name: ---◆b6852166 ID:d8e9d6a8
Date: 2010/09/08 23:31

「足取りは?」
 技巧の凝らされた美しいドアを些か乱暴に閉め、部屋に入るなり彼は尋ねた。四十代初頭だろう、気難しそうに眉を寄せた端整なその顔は年月に疲れてはいないが、すでに重厚な雰囲気を漂わせている。
「いえ、まだ……」
 彼の様子を見るなり、答える少女の表情は憂いを色濃くする。彼と同じ色の瞳と黒のスーツを纏った小柄な彼女は、色の白さのせいか、しっかりとしたその瞳と裏腹に、どこか儚い。
「ギーゼラ様は……」
 白い手袋はずしながら執務机に向かう彼に駆け寄り、追い縋るように彼女は言う。
 彼は首を振り、
「あの御仁、どうあっても言うつもりはないらしい」
 ため息と共に革張りの椅子に沈み、眉間にしわを刻んだまま目を瞑る。
 彼の言葉に顔を伏せた少女は、用意してあったポットを取り、紅茶を注いでいく。金で縁取られた白いティーカップが、窓から入る薄日で静かに光る。
 丁寧に置かれたそれを手に取り、彼は優雅に一口含み、また下ろす。
「敵は今朝も変わらず捜索を続けている。そんな顔をしなくても、御二人はご無事だ」
「ですがっ……」
 ぱっ、と顔を上げた少女はまた瞳を伏せてしまう。
「心配でなりません」
 少し小さくなった声に、彼は力を抜くように優しく微笑む。
「ミオリ、国境線近くにも動きはないのだろう?」
「はい」
「援軍要請にお出でになったというのは、さすがに偽りだろう。ギーゼラ公もよもや陛下のお命をあえて危険にさらすようなことはしまい……」
 彼はまた考え込むように、表情を硬くしていく。その変化を察したミオリの眉が、彼を気遣うように揺れる。
「クライトに会ってみます」
「知っていても何もしゃべりはしないだろう、彼も今や一軍の将だ」
 彼はまた一口紅茶を飲み、ミオリは口を噤む。
「お前の気持ちもわからないわけではない。しかし――」
 彼が言葉を切ってすぐ、ドアが二度叩かれる。
「入れ」
 彼に命じられ部屋に入った男はすばやく膝を折り、頭を下げる。
「ハイデン様、ミオリ様、今し方カナト様、アルディス様共にお戻りになられました」
 二人は同時に息をつく。
「……そうか。して御様子は、」
「御二人ともご無事のようです。お付きになっていたのは、エイク様、それに、」
 報告を行う彼は、上げた顔をいくらか顰める。
「三名程未確認人物が――」

 昨晩の雨は霧雨に変わったが、雲は厚く日は薄い。窓から入るくぐもった朝陽は、高貴に飾られたこの色彩豊かな部屋をひどく単調に見せる。
「貴公の読みは正しい」
 部屋の中心、青年が机上に広げられた地図から顔を上げた。
「もともとこれはこちらのもの、構造から設備まで良く知っている。落とすのならすぐに済む」
 彼は貴族然とした態度で、向こう側のリツに言う。
 低い机を囲み、広いソファーに二人はそれぞれ掛け、地図には書き込まれた黒い印と、赤くあるいは青く塗られた駒が並ぶ。
 青年の後ろにはエイクが控え、彼は成り行きを見守るように彼らと共に地図を見下ろす。そして部屋にはもう一人、男が部屋の一番端に置かれたソファーに掛け、肩肘を付きながら彼らを見物している。
 高貴な身なりをした彼は老いてはいないが、リツに対座する青年はもとより、エイクよりも年上である。しかし彼は口を挟む気などまるでないように、好奇心を浮かべた長閑な顔をしている。
 青年は続ける。
「貴公らを襲撃したのも、エイクの言う通り敵のものに間違いない。我らも、今現在監視をしている最中なれば、こちらも問題ない。成程、良い策だな」
 淡白な口調のまま言うと、彼は体の向きを変え、四角い机を囲むもう一辺のソファーに対向する。
「――しかしよろしいのですか、アルディス姫」
 ソファーに上品に腰掛け、地図を眺めるアリスは、
「ええ」
 抑揚もなく答える。
「わかりました」
 青年は驚きもせず頷き、立ち上がると、右手を添え軽く頭を下げる。
「それでは、我ら陛下のため、これより出陣致します」
「……貴方がたの武運を祈ります、クライト」
 顔を上げたアリスと視線を合わせた彼は、もう一度頭を下げると、黙礼するエイクの前を過ぎ、部屋を出た。




[21440] Ⅲ-2
Name: ---◆b6852166 ID:9fd2c17c
Date: 2010/09/23 01:03

「なんだ、糸引いてるのはお前か」
 ソファーに座る人物を見つけるなり、男は納得がいったと間が抜けた声を上げた。
 たった今まで見物人に徹していたこの男は、軍議の終了と共にアリスに追い払われ、今度はふらりとこの部屋を訪れた。
 部屋には先客がいたが、彼は気にする様子もなく一直線にソファーに座り、一人頷く。
「道理で賢い」
「違うわよ。私が、あの子に雇われてるの」
 黒いサングラスを光らせたもっともらしい顔で、彼の向かいには当たり前のようにジルが座っている。
「んな馬鹿な」
 取り合う気もない彼は背もたれに頭を預け、大げさにため息をつきながら、
「遂に乗っ取りに来たわけね。これ許していいんですか、ギーゼラ公」
 彼らと斜めに対座する老翁を見やる。
「許すわけがあるまい」
「だそうだ。さ、退散したまえ」
「何を今更。いつでも持ちつ持たれつの仲じゃない」
 大仰に驚くジルに向かう二人の視線は変わらない。ジルはふん、と鼻を鳴らし、
「何度も言うけど、こっちに非はないわよ。むしろ感謝されたいわ。せっかく上手く逃がしてあげたのに、あんたたちのお姫サマがもたもたしてるから足がついたの」
 余裕の笑みでジルは言ってのける。
「どうせ、お姫サマが渋ったんでしょ」
「――では、姫様に非があると?」
 ギロリ、とギーゼラは重い瞼の隙間から目を光らせる。
 ジルはその余裕を仕舞おうとはしない。しかしすぐに、参ったといわんばかりに肩をすぼめ、彼は冗談めいたその態度をいくらか潜めて、唇で弧を作る。
「別にあなたに楯突くつもりはないわ。こう見えて義理堅いのよ、私って。これまで通り仲良くやりましょ、これからも」
 ギーゼラは言葉を返さない。無言は、否定ではない。
「さてと、」
 ジルは腰を上げる。
「見物人が帰って来たってことは、軍議も終わったってことね。そろそろお暇するわ」
 彼は軽やかに身を翻し、ドアの閉まる音が鳴る。
 ギーゼラは使用人が注いだコーヒーをゆっくりと含むと、短いため息を吐く。
「まったく、これでは意味がない……よもやあの男にこれほどの気概があったとは」
「ああ、エイクのことですか。そう言われてみれば彼は確か、もともと軍の人間でしたね」
「だが、親衛に移って長い。気性は良く知っていたつもりだったが……」
「軍人魂ってやつですかね。なんとも質の悪い」
 悠長に言う彼とは対象的に、ギーゼラは難しい顔でまたカップに手を伸ばす。
「それで、貴殿の用向きは?」
 答える彼はギーゼラに向き直り、歳相応の落ち着いた微笑を見せる。
「いえ、特には。しかし、時の分岐点に立ち会うのが私の役目なものですから」
「学者殿も大儀なものだな、ロディッチ殿」
 ロディッチは洒落た笑みをギーゼラに返すものの、その目に潜めた真剣さは消えない。
 ギーゼラの視線は彼を外れ、しかし悠然と答える。
「この老骨が最早動くまい……。ただただ先王に代わり御二人をお守りするのみよ」

 開いたドアから、ジルが顔をのぞかせる。
「あら、一人? てっきり姫サマと一緒だと思ったわ」
「アリスならさっき出てった」
 地図の広がったままの机の上には構わず数冊の本が重ね置かれ、なおもリツは壁に並ぶ本棚の前に立つ。
「あらそう……、まあ勉強熱心なこと」
「軍議する部屋だけあって、それなりに面白いのが置いてある」
「ふうん」
 リツの背中に生返事を返しながら、彼が座っていただろう向かいに腰掛けると、ジルは机の上にすでに積まれた本の背表紙をなぞり見、一人満足気に微笑する。
「記録書が見当たらねえ。この部屋にはないのか」
「ああ、それだったらここの歴史家に聞きなさい」
「歴史家? 城に学者がいるのか?」
「学者で貴族なのよ。それなりに権威だから名前くらいは知ってるかもね」
「……ふうん」
 俄かに止まったリツの指は、返答すると共に本を追う作業を再開する。しかしそれは申し訳程度で、既に手に提げていた一冊を抱え、彼はソファーに戻る。
「それで、敵の動きは?」
「まだないわよ、気が早いわね」
「何だ違うのか」
「心配しなくたって、何かあれば逐一教えてあげるわよ」
「だといいが」
「まあ、なんて可愛くないのかしら、健気に迎えにまで行ってあげたっていうのにこの態度!まったく、よくそれで姫サマを落とせたものね」 
 天を仰いでみせるジルを無視して、リツの視線はいつの間にか開いた本に向かっている。
「もとをたどればカナト派が後手に回ったのだって、交戦を嫌った姫サマの意思を丸呑みしたのが始まりよ? 相当頑固だと思ったのに、まさかあんたみたいのにほだされるなんて」
「みたいなのは余計だ」
「だいたい外の敵より、まずは内の敵よ」
 ため息を引き伸ばしたジルの口ぶりから拾い上げるように、字句を追うリツの瞳が動きを止める。
「わかってる」
「姫サマにどれほどの危機感があるかは知らないけど、裏切り者を泳がせておけるほど堅い状況じゃあないわよ」
 ジルは反応を窺うように意地の悪い笑みを向ける。リツはそれをちらりと見、それから何食わぬ顔でパタンと音を立てて本を閉じると、
「アリスにはもう言ってある」
「あら。あんたがこんなに入り込める程ユルくて仲良しこよしなのがここの売りよ? ショック受けちゃったんじゃない?」
「さあ……」
 立ち上がる彼は、眉を上げるジルに鋭く光るような微笑を浮かべて見せる。
「まあ、見てろよ。すぐに片付く」
「……随分と楽しそうだこと」
 呼応するようにジルは再び口角を上げた。



[21440] Ⅲ-3
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/09/23 01:08
※前話のⅢ-2を少しですが修正致しました。非常にお手数をお掛けしますがご確認いただけるとありがたいです。(9/23)
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 観音開きの立派な扉をくぐり、ハイデンは一人議場に入った。
 広い部屋の中心に置かれた横長のテーブルには、既に数人の貴族が席に着いている。ハイデンの姿を認めると、彼らの話し声はすっと退く。
 手前に座る者たちが立ち上がり挨拶するのに短く答え、彼はその長辺の最も奥に座わる。
 太陽はおおよそ天辺に昇ったが、やはり空は白く、テーブルには等間隔に置かれた燭台の炎が銘銘揺らぐ。
「しかしこれはまた、急な召集ですね」
「……ええ。セルドラ殿の方には何か?」
「いえ、何も。ハイデン様の方もですか。はて、何事でしょう」
 ハイデンの隣に掛けていた男、セルドラが首を捻る。相変らず眉間の寄ったハイデンは一座を見回し、いくつか空いた席の一つに目を止め、眉は更に僅かばかり動くが、
「御成あり」
 掛け声に一同の注意は一様に入り口に向かう。同時に規律し、扉を潜るギーゼラを筆頭に続くカナトとアリスを向かい入れる。
 ハイデンの右斜め、この場を見渡せる席にカナトとアリスが座り、それから全員が一斉に席につく。最中、軽く会釈をしたハイデンに、アリスの横に行儀よく座ったカナトが嬉しそうに微笑み返す。
 椅子を引く音が止み、閉じられる扉の重い低音は会議の始まりを意味する。
 部屋には緊張を誘う無音が台頭し始める。
「ギーゼラ公、クライト殿の姿が見当たりませんが?」
 問うハイデンの向かいに座すギーゼラ、その隣は空席のままである。
「彼は任務で欠席だ」
「任務?」
「今朝未明、東方山にて山賊の被害が報告されている。放置するには問題となる程度の武装が確認された故、クライト殿国軍が征伐に当たっている」
「山賊に国軍とは少々大袈裟では? 今国軍が動けば、シュドル派の警戒心を煽ることになりかねません」
 顔付きを堅くするハイデンに加勢するように、セルドラが言う。それを受け止めるような表情を示すもののギーゼラは、しかし、と言葉を次ぐ。
「些か困ったことになった。先程入ったクライト殿の報告によれば、追撃を続けた結果、標的の賊群は南方に下り、条関城に入城を果たしたとのこと」
「なんと……」
「今や条関城はこの王宮に最も近い敵城。件の賊とシュドル派における関係に疑念を抱かざるを得ないが、我々にとってはいずれであろうと関するところではない」
 ざわりと浮き足だした下座を正すように、ギーゼラの一層重厚な態度で言う。
 静観を続けていたアリスが動く。美しい姿勢で座る彼女は、どこか幼いところのあるその顔つきにまるで似合わない鋭さで端を発する。
「我が軍は現在、賊の引渡しに応ずるよう、心ならずも城主となっているマルタ方に交渉中である。しかし、本日正午を期限に返答なくばこれを国賊とみなし、正当なる武力を持って排除する」
 皆が息を呑む。
 議場は凍りつき、支配するただならぬ緊張感は彼女の威厳に他ならない。
「万一敵が応戦に転じた場合、それはすなわち逆臣シュドルの我々に対する宣戦である。我が方は全勢力を持って迎え撃つ」
「お待ちください、姫様!」
 声を上げたのはハイデンである。
「ご決断を早まってはなりません。正午とはあまりに急。賊とシュドル派の関係が明確でない以上、攻勢に出るのは危険です。まずはシュドル派に正式な警告を行い、敵の出方を見極めた上で――」
「異論は認めぬ」
「姫様!」
「これより我が方は臨戦態勢に入る。当城の出入を現状をもって禁止、各自私兵を召集及びその数、装備等を改めて報告、詳しい配置等については追って伝える。ギーゼラ、手配せよ」
 は、と短い返事でギーゼラは受諾する。
 アリスの冷静な瞳は、しかしまざまざとその強固な意志をそこに写す。
「ここに戦時規範への移行を宣言する。各々戦闘に備え君命を待て」
 明言し終えると同時に彼女は立ち上がり、カナトがそれに続く。
 戸惑を浮かべた議場を、それを許さない毅然とした態度で彼女は見下ろし、貴族たちは慌てて起立し退室する彼女たちを見送る。
「もともとご意志の固い方ではありましたが……あれほど張り詰めたお顔は見たことがありません。非常なご覚悟なのでは」
 彼女らを追うように、すぐさま歩き出したハイデンをセルドラが制止する。
 ハイデンは動きを止め、彼の忠言に耳を貸したものの、答えることなく足早に議場を去っていく。

 条関城を視界に据え、クライトは陣中に座していた。
 東方山からの追撃部隊は南方へ直接下ったクライト指揮下の本隊と合流を果たし、相当数となったカナト軍は、賊の武装に対する警戒を名目に既に城を包囲、条関城有する小山に正対した丘陵に本陣を置き、敵の返答を待っている。
「動きませんね」
「大方、脅しだと踏んでいるのだろう。何しろ姫様の心変わりは味方も読めないほどだからな」
「熱心な敵状視察が裏目に出ましたな。我慢もしてみるもんだ」
「まったく、その通りだ」
 共に本営に詰める将官にクライトは苦笑しながら答える。
 陣営の兵がたびたび懐中時計を確認し、彼らの目下の緑間には兵たちの姿が見て取れる。鷹揚に臨む彼らのもとに昇る風にも、時折高揚と緊張が滲む。
 ふと将官が、見取り図に落ち込むクライトの目線に気が付く。
「なにか気になることでも?」
「いや、」
 尋ねられて、クライトはいくらか驚いた様子で顔を上げる。何でもないと彼はさらりと答えたが将官は怪訝そうに、
「作戦なら抜かりありませんよ」
「当然だ。違う、気にするな」
「総督、」
 彼が早口で言ったとこで、時計を手にした一人がきりりとした声を上げる。
「マルタ氏から回答なし、最終警告済みです」
「よし」
 頷くクライトは勢いよく立ち上がる。
 兵士たちの表情は一層引き締まり、クライトもまた鋭い視線を敵城に据える。
「時間だ。これより攻撃を開始する、全軍直ちに出陣せよ!」




[21440] Ⅲ-4
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/10/04 21:00

「お父様!」
 自室に戻ったハイデンに待ち侘びたと言わんばかりにミオリは駆け寄る。その瞳は不安に揺れている。
「クライトが条関城に攻撃を……!」
「……そうか」
 彼は正午を回った時計を確認し、重々しく答える。
「今からでも姫様に」
「いや、姫様は……姫様の、ご命令だ」
 目を見開くミオリは声を呑む。
「まるでお人が変わったようだ……あれほど戦うことを否定なされていた方が……」
 立ち竦む彼女の顔を見ずに、ハイデンはいくらか感情的に言った。
「主導したのは軍部かギーゼラ公か、……どちらにせよ条関城への誘導は意図的と考えて間違いない。――城内に残った軍部の動きは?」
「はい……依然軍備に慌しく動いております。おそらくは次なる攻撃の準備かと」
 入り口近くで待機していた彼の部下が答える。
「やはり、条関城だけで終わらせるつもりではないな」
「ですが、戦力の差は変わらず歴然、その上お味方は動揺が広がっています。現状のままでは、シュドル派と一戦交えるどころでは――」
「……知っていたからこそ、お逃がししたのではないのか、ギーゼラ公」
 呟き、握る彼の拳が震える。
「何か策があるのではないかと探っているのですが、今のところ掴めていません」
「いかような策があろうとシュドルは動く。……決断せねばならない」
 険しい顔でハイデンは唇を強く引き結ぶ。

「俺に恨みでもあんのかよお」
 背もたれに頭を預け、ぐたりとソファーに埋まるミナキは天井に向かって疲れきった声を上げる。
「こういうのはアイの得意分野だろ! なんで俺!? 俺を殺す気!?」
「死んでねえだろ」
「死んでたまるか!」
前のめりのミナキの抗議に、奥の机で本を広げるリツは顔を上げる気配すらない。
「仕方ねえだろ。こっちは人がいない上に、信用もされてねえんだから」
「だから、アイを――」
「兄貴は兄貴だ」
 リツはぴしゃりと言い切り、頬に絆創膏をつけたミナキからは長々とため息が漏れる。しかしそれをあっさりと無視して、
「で?」
「……でもなにも、万事上手くいってるよ。お前に聞いた通りにちゃんと戦ってたし、怪しいところも、そういう奴のうわさもないし。明日には落ちんじゃないかって話だから、順調も順調、あれだけ強いんだから、まあ当然だな」
「王軍が優秀だというのは確かか……」
 やけに朗らかな報告にリツはそう呟き、僅かに上げた視線は考え込むように動かなくなる。
 彼の様子にミナキは首を傾げるが、気にする様子もなく、
「俺に言わせれば軍なんかより、あのサングラスかけたマッチョのオカマのほうがよっぽど怪しい」
「ああ、あれは信用するには足りないが……まあ外して問題はない。とりあえずはな」
「……俺さ、お前のこと今まで友達少ない奴だと思ってたけど、なんていうか、お前の世界って恐ろしいほど広かったんだな。勘違いして悪かっ」
「それ以上ぬかすと殴り飛ばすぞ」
「……あ、そうだ。伝言頼まれてたんだ、そのオカマに」
 恨めしげな目をリツ向けていた彼は唐突に手を打つ。
「敵先発隊が進軍を開始したって」
「そうか……急がねえと」
「……何が?」
「内通者の始末をだ」
「え、聞いてないよ? 俺たち多分邪魔者だけど命大丈夫?」
「まあ、すぐに済む」
「すぐ済む顔なのそれ?」
「おそらくミナキには関係ない、多分。そろそろ後続部隊が発つはずだ。引き続き、条関城の方頼んだ」
「”え、また!? もう陽も沈むし俺やだよ」
「ここで暗殺されんのとどっちがいい?」
「いや、今関係ないって言ったじゃん!」
「多分な」
「………………コンチクショおー!」
 嘆きを残し、ミナキは再び部屋を去っていった。

「備えの程に問題ありません。詳細はこちらに」
 セルドラは机に差し出た書類に手を添える。ギーゼラは頷き、
「貴殿の私兵隊は我が方でも指折りの戦力、陛下も期待しておられる」
「恐悦至極にございます。ご期待に添えられるようきつく気を引き締めねば」
 相槌を打ち、彼はそこに書かれた概要を手早く確認していく。
「……姫様には少し驚かされました。あれ程勇ましくご指示をなさるとは」
 ティーカップを傾け、いくらか味わった紅茶の味に賛辞を満足げ述べた後、まるでその延長にあるような簡素さでセルドラが言う。
「陛下のご決断に異議を申したいわけではないのです。ですが、果たすべき役割もわからなければ、歯がゆいばかりではありませんか」
「貴殿の言わんとするところはよくよく心得ている、この老骨とてそれは同じ。しかしながら、待たれるほかあるまい。戦況も直固まる」
「戦況、ですか……」
「条関城が落ち次第、再び命が下ろう」
 セルドラは彼に頷くことはせず、眉を下げた笑みのまま彼を見る。歳を重ねた皮膚に表情を埋め、ギーゼラはただただゆったりと紅茶を口にする。
 何かを紛らわすように、セルドラの視線はふらりと窓に行き着く。
「雲が退きませんね……雨になってはクライト殿の分が悪い」
 誘われるようにギーゼラの視線もまた、月の無い夜空に向かう。

 終わりなく続くランプは次々と入れ替わり、彼女と彼女の行く先を照らす。
 頬に赤く明かりが移ったその顔はどこか苦しげであったが、行く先をだけをまっすぐ見つめて俯くことはない。いくつかのドアを過ぎ、彼女は滞りなく廊下を進んだが、幾度目かの角を目前にしてそれが不意に止まる。
 僅かばかりに伏せた瞳が、音のない廊下でランプの炎と一緒に揺れる。
 深呼吸をするように浅く目を瞑り、それから意を決したように顔を上げた彼女は、角を曲がりそこにある一つのドアに向かう。
「陛下と、……姫様にお取次ぎを」
「……少しお待ちを」
 腰に剣を携え、簡単な防備をした二人の衛兵のうち一人が頷き、彼はドアを叩く。
「姫様、ミオリ様がお見えです」
 水底に沈んだような部屋で、アリスの肩が跳ねる。手にしていた写真立てを反射的に引き寄せ、それを目前の小さな机の引き出しに伏せると、焦ったようにそのまま仕舞う。
「……わかりました、通して」
 彼女はそこを離れ、ドアが開く。
 彼女とカナトの私室はいくらかの部屋が隣同士に繋がれ、そのうちのひとつ、カナトの眠る彼らの寝室と隣り合うこの部屋には長足の机を中心に、角の小机など彼女の私物が多く並ぶ。
「姫様、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「ええ、大丈夫。今お茶を淹れるから」
「いえ、私が、」
「いいの、ミオリは座って」
「……ありがとうございます」
 いくらか緊張した面持ちで部屋に入った彼女の表情は、アリスの見せる笑顔にいくらか和らぐ。しかし、注がれていく紅茶と注ぐアリスを見ているうちに、彼女の表情には憂いの色がぶり返し、揺らぐ視線は小机の上に行き着いて、それは明確になる。
「……姫様、どうしてもお聞きしたいことがあるのです」
「それはハイデンの?」
「いえ、父は関係ありません。私自身が知りたいのです……。姫様は、……姫様は本当に開戦をお望みでなのすか?」
 アリスに向かう真剣な眼差しには不安が混じる。逃れるように、口を結ぶアリスの瞳は深い色をしてカップに浮かぶ湯気を追う。
「私には、どうしても姫様が出された結論だと信じられないのです。あれほど戦われるのを拒まれたお優しい姫様が……。もしも、姫様のお望みでないのなら、どうか私に打ち明けてください、私たちでなんとしてでもクライトを収めて、シュドル側との会談を――」
「違う、私の決断よ」
 ミオリの言葉が空白になる。開いたままの口は、それでも宙を噛むように、
「なぜですか、どうして――」
「――シュドルはお母様を殺したのよ、なぜ……、なぜ許せるというの……!」
「しかしそれでも姫様は――、」
 俯くアリスの肩が震えている。ミオリの眉は切なげ歪み、言葉は結ばれた口に飲み込まれ、視点は落ちていく。
 音は俄かに途絶える。
「……申し訳ありません、出すぎたことを言いました。
 ……ですが姫様、おこがましいことではありますが、私は姫様のことを実の妹のように思っているのです。どうか、お困りのことがあれば何でもこのミオリにおっしゃってください」
 彼女の微笑みは優しくも寂しげで、顔を上げたアリスは言葉を紡ごうと口を開くが、それを禁じるようにドアが打ち鳴らされる。
「姫様、ご夕食をお持ちいたしました」
「もうそんな時間、」
 ドアの向こうでは、衛兵が最後の皿の毒見を終えている。アリスの了承を得た給仕が一人、白く清潔な布が掛けられた配膳台を押し、部屋に入った彼は丁寧にドアを閉めた。
「姫様ありがとうございました。では、私はこれで――」
「その、もしよければ、ミオリも一緒にどうかしら、夕食」
「よろしいのですか、」
「もちろんよ。もう一人分、お願いするわ」
 釣鐘型の銀の覆いを外し、料理を並べ始めていた給仕は笑顔で了解し、既に席を立っていたミオリは顔をほころばし足を戻す。戻しかけて、ふっと彼女は鋭く顔を上げる。
 白い布がふわりと舞う。
 飛び出す男は銀の刀身を伴い白布の配膳台の中から一直線にアリスへ翔ける。躊躇なく振るわれた白刃が鮮やかに軌跡を描き、切っ先の静止と共にドタリと床が鳴る。
 伏せるアリス、そして覆いかぶさるようにミオリが倒れこみ、浅く切られたミオリの肩口には僅かに血が滲む。
 叫ぶ間も与えず男は踏み込み、刀は迫る。怯まずミオリは身を返し、手にした釣鐘型の銀蓋を振りかざす。
 衝突音と火花が爆ぜる。
「ミオリっ!」
「お逃げください姫様!」
 ミオリは振り返らずに言う。競り合う銀はギリギリと音を立て、受け止めるミオリは徐々に押し負けていく。
 彼女の背で震えるアリスは助けを呼ぼうと咽喉を開くが、行く手を覆うように給仕が回り込み、上げた凶刃をまさに振り下ろす。
 金属音は唐突に鳴る。アリスの前に割り込んだ一人の衛兵は刀を受け止め、敵の腕が僅かに浮いたところを透かさず、痛烈に腹を蹴り飛ばす。
 敵はなるがまま壁に叩きつけられ、棒のように崩れ落ちる。方は一瞬で付いた。
「ミオリっ」
「私は大丈夫です、それより姫様にお怪我はっ」
 かぶりを振るアリスにミオリは息を吐きかける。だが彼女の息は瞬時に止まり、直ちに立ち上がる。
「陛下はっ」
「大丈夫、刺客はこれで全部だ」
 引き止める衛兵に、顔を凍りつかせたアリスは大きくため息を吐く。
 ミオリは些か目を丸くし、彼に懐疑の眼を向ける。見回せば、彼女の目の前と壁際、開け放たれたドアの外にも衛兵であったはずの一人が倒れている。
 床に落ちかけた白の布を切り裂き、彼は顔をいくらか覆っていた衛兵揃いの鉄甲を外して、彼女に歩み寄る。
「アイ、早く医者を」
「私は平気です。すぐに人も来るでしょうから、先に敵の拘束をなさってください」
「いや、先に止血をするよ。救急箱を用意しておけばよかった」
 傷はミオリが言うようにごく浅い。しかしアイの顔は暗く険しく、アリスは酷く不安げに巻かれていく布を見つめている。
「姫様ご心配には及びません、痛みもありませんし、すぐに治ります。ですが、これではクライトに稽古を付け直してもらわなくてはなりませんね」
 今にも涙を流しそうなアリスに、穏やかな微笑むミオリは肩を小さく竦めて言う。
 だがアリスは一層泣き顔になって、隠すように頭を垂れた彼女は消え入りそうな声で、
「……よかった、裏切り者がミオリじゃなくて本当にっ――」
 柔らかくアリスの頭を撫でるミオリの唇が、僅かに張り詰めた。




[21440] Ⅳ-1
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/10/20 12:03

 常駐の衛士の前を過ぎ、角に差し掛かり少年は反射的に身を潜める。彼が向かっていたその部屋に、急使が緊迫の表情で入っていく。
 少年の顔が俄かに強張る。深夜の廊下には人も音も無い。ドアが閉じられると同時に彼は足早に近付き、耳を立てる。中は広い部屋ではない、会話は僅かばかり途切れ途切れに、立ち込める鋭さと一緒になって彼まで届く――
「――状況は思わしくありません。敵の夜通しの攻撃で、条関城は落城間近、」
「流石にやる。継いだばかりの若造が陣頭といえどもその実力は変わらんか」
「もともと磐石な組織なのだから、そのくらいで揺らがないのは当然。それは織り込み済みでしょう、デュレル」
 机の上の地図を臨み、男はうなる。奥にかける女性の冷静さは揺らがない。聡明な顔付きをした彼女の、女性らしいしなやかな声音には鋼のような強さがある。
 デュレルはちらりと彼女の脇に控えるもう一人の凛とした女性を見やり、
「オリアさんとこの部隊は別として、こっちの大半は旧王軍離反組と貴族私兵隊、数では勝っても寄せ集め感は否めない……、もちろん勝ち負けの話をしてるんじゃない。ただあんまり動かれると、こっちも余計な被害が出かねません。それはよろしくありませんよ」
 面倒だといわんばかりの口調とは裏腹に、初老の彼の眼光は攻撃的に鋭い。
「願わくば――」
 少年は半ばドアを突き放すように耳を離す。少年の肩は反射的に大きく跳ねたが、慌しい咳払いで取り繕うと背後の人影に振り向き、
「他言無用で頼む」
「言いませんわ、陛下のご命令とあらば」
 すらりと立つ官女は特に柔らかい笑みを崩さず、さらりと言う。
 ばつが悪いのを隠すように彼は顔を逸らすが、彼女が手にしているのが書簡用入れであるのに気付くと歳相応の表情は影を潜める。
「例の間者か」
「ご覧になりますか? もちろん他言は致しません」
「ありがとう、助かるよ」
 強く頷き少年は、彼女が開いた箱の中に手を伸ばす。幾重にも折られた手紙に触れる指がほんの一瞬、戸惑うように震えたが、彼は硬い無表情のまま、酷く真剣な瞳は走り書きの文字を追う。
 滞ることなく終わりまでたどりついき、再び手紙は畳まれる。
 官女は窺うように彼に視線を投げかけたが、少年は答えようとはせず、口にした礼と共に手紙はもとのように箱に収まった。
 少年がドアを叩き、彼が名を告げればドアは開かれる。
「遅くまで苦労を掛ける」
 そう労う少年の姿に、皆一様に頭を下げる。奥に座る女性を彼は特に見やり穏やかに、
「母上、先に休ませていただきます。くれぐれもご無理はなさらずに、お早くお休みになってください」
「ええ、ありがとう。お休みなさい、シュドル」
「お休みなさい」
 一礼するシュドルを愛しむ、彼女の微笑は安堵の表情に似ている。しかしシュドルが部屋を後にするなり緊張は逆戻りし、彼と入れ替わりに部屋に入った官女が差し出す書簡を手にした彼女の顔は難い。
「芳しくありませんわ」
「カナト王子が健在となると、そろそろ、本腰を入れねばなりませんな」
 折りたたまれた書簡は再び官女に預けられ、その処理を確認するように、
「陛下にはお伝えしなくてよろしいのですか?」
 彼女は王妃を推し量る。
「こんなことを、あの子が知る必要はないわ」
「失礼致しました」
 王妃は切り捨て、頭を下げ書簡を火にくべていく黒髪の女性、シェイラは密やかに口角を上げる。

「シュドル王子はアルディス姫の一つ下、母親は側室のイレーネ様だ。お二方の母親で正室ミラ皇后はルアーク国の、イレーネ様はフィオレダ国王族の血縁だが、双方とも直系ではなく、その境遇に似たところがあったからか気が合うようで、仲はとても良かった。もちろん陛下との関係も円満で、陛下が娶られたのもこのお二方のみ。陛下が崩御なされるまで問題といえるような問題も特に起こったことはない」
 背もたれにゆるりと体を預け、白い朝日を浴びるロディッチは一息に述べ、更にいかにも貴族風な廉潔な笑みを浮かべる。
「君の監督責任は、あの鼻につく両性類に問えばいいのかい?」
「ああ、文句はそっちに言ってくれ。それで――」
「勘弁してよ、俺朝苦手なんだよ」
 言うなり纏うのは気だるさに切り替わり、彼の頭は山の様に書籍の積まれた執務机にがくりと落っこちる。部屋に唯一空いた窓の光は短く途切れ、リツは一面に乱立する本棚の黄ばんだ色に埋まりつつ、容赦ない無表情で続ける。
「つまり、そもそも世継ぎ問題は存在しなかったのか?」
 ため息で肩肘を付くロディッチは、文言を読み上げるように、
「伝統的に継承権は第一王子に優先される。カナト様がお生まれになった時点で、後継がカナト王子であることは当然であり、揺らぐことない共通認識であった。もちろんこれはイレーネ妃も例外ではない。談義が起こるはずもなく、陛下も明言を急ぐ必要が無かった。だが陛下は若くして急逝なされ、残されたカナト王子はまだ幼子。明言はなく、伝統も所詮守るべきとされるに過ぎない」
「過ぎなくとも、伝統とはすなわち正義。伝統とは歴史であり、それを司るのが歴史学者、そういう構造で、あんたはここにいるんだろ?」
「違いない。例えうわべの存在であっても人は伝統を必要とし、現にこの国のそれに未練のある俺は、愚かしくも、かくも職務を全うしてる。だが、歴史とは決して正義ではない」
「正義でなくとも、正義になりうる、つまりはそういうものか」
 ロディッチは洒落た笑みで肯定を示して見せる。
 リツはようやく固定されたような無表情と首筋を、ふ、と緩め、僅かに上がった口角は人知れず鋭い。しかしそれはすらりと消え、彼は敬虔なほどに真剣な顔に改まる。
「一つ、頼みたいことがある」

 心地よい冷たさで過ぎる風をアイは一太刀斬りつける。空に舞い、空にぴたりと止まるその刃に、彼の意思は無い。体のなるままに動く切っ先は、しかし一本の軌跡を寸分違わず行き来を繰り返す――
「本当に申し訳ない、」
 深い赤の絨毯とランプの灯が続く廊下で、アイは一心に頭を下げる。
「お顔を上げてください、こんなものは怪我のうちに入りません。姫様も貴方もご心配が過ぎます」
「だが、あまりにも不甲斐ない、」
「いえ、いいのです」
 深深と思い詰めるように垂れる頭に持ち上がる様子はなく、ミオリは一層狼狽する。同じやり取りを数回繰り返し、ようやく顔を上げたアイは、しかし歯切れ悪く俯き、
「まさか、こんな失敗をするとは思ってもみなかったから、こういう時にどうしていいかわからないんだ。俺に何か――」
 初めてしっかりと、彼女を見たアイの言葉が思わず途絶える。俯くミオリの唇は引き結ばれ、顔色は目に見えて悪い。
 驚いたアイが再び口を開く前に、
「人払いをお願いします」
「了解致しました、姫様」
 どこを見るでもなく、だが深く眉を寄せたミオリが言うのに、廊下の少し先、正した姿勢で人形のように立つ衛士が彼女に答え、浅く頭を下げる。
「少しお時間をいただけませんか、お聞きしたいことがあります」
 彼女は顔を上げ、立ち尽くすアイに鋭く真剣な眼差しを向ける。有無を言わさぬ強い瞳にアイは頷くが、彼女の顔は変わらず蒼く、寄った彼の眉は緩まない。
 衛士の右手、彼の開けたドアを潜る彼女をアイは素直に追い、
「お待ちを。武器はこちらに」
 衛士に従い腰の刀を預け、アイの背でドアは閉められた。
 部屋は小洒落た喫茶室で、中心の円机と壁の絵画、背の低い本棚のほかには何もない。
「どうぞ、おかけください」
「いや、」
「では、このままで失礼いたします」
 ランプと燭台に火を入れ終えたミオリが振り返る。互いに立ち尽くす表情は重苦しい。
「あなたが衛兵でないことは、いえ、こちらの方ではないことも、存じています。昨晩、あなた方が現れたと同時に事態は急速に変化し、先のあの場に衛兵でない貴方がいた――、あなた方の目的は、何ですか、」
 恭しく冷静に問う彼女の瞳には、しかし、詰問の色と僅かな感情が滲む。彼女を写すアイの瞳は憂いの色濃く、
「俺はアリスに、姫に、カナトを守るよう頼まれている……、やっぱり顔色が良くない、先に医者に、」
「いえ、もともとこういう色なのです、そんなことよりも質問に、」
「俺には何もわからない。本当に、ただそれだけでここに来たんだ」
「ならば、これほどに事が動くはずがありません」
「そうじゃない」
「では一体、」
 迫る声は焦燥感を増し、一方彼女の眉は痛ましげに歪む。目の当たりにするアイの答えは、口淀む。
「アリスが、望んでいる。アリスが戦争をしようとしている」
「そんなはずはありません。貴方はご存知ないのです、この戦争がどんなものか、」
 即座の否定は強くも、弱く揺れる彼女の瞳に、アイは首を振る。
「そんなはずはないのです。姫様はいつでも、皇后様がお亡くなりになられた後でさえ、シュドル様を、イレーネ様を確かにご家族と、御二人のことを想っていらっしゃった、確かなのです、いつも大事にお写真を飾られて、つい先日にだって――、」
 俯くミオリは唇を噛む。
「人の心がそれほどに、変わることがあるでしょうか、」
 アイの瞳が、静かに見開かれる。
 継ぎ接ぎだらけの彼女の否定は儚くアイの内を突き、だがやがて彼の気付かぬうちに、はらはらと崩れて消えていく。無意識に開かれた彼の唇は、彼の無言のうちに閉じられる。
「変わってしまうのかもしれない」
 睫で影を引いた瞳を上げ、彼の視線は彼女の動揺するそれを捉える。
「きっと君は正しい。だけど俺には、――」
 振りぬかれた腕は微塵の余勢も無く止まり、陽に当てられて刀身ばかりがぎらりと光る。
「なに、どうかしたの?」
 身を翻すのに音はない、尋常でない速さでアイは構えを気配に対向させる。だが切っ先が捉えた人物に、彼は、はっとして殺気を収める。
「なんだよびっくりするなよ、びっくりするだろ! 俺今一瞬死ぬかと思った」
 切っ先の延長線上で、仰け反るように身を引くミナキが必死の形相で言う。アイは目を丸くして、
「いつから居た?」
「いつって、結構前からだけど……ええ、熱でもあるんじゃないの?」
 驚くミナキは眉を顰める。いや、と彼を短く否定したアイは、浅く瞼を閉じるとため息で剣を降ろす。
「というか、俺の話は聞いてなかったわけね」
「ああ、すまない。もう一度頼む」
「いや、別にいいんだけどさ。……まったく二人して、調子狂うなあ」
 呟くミナキはなんとも疲れた顔で倉庫の前の、もともとの段差に座り直し、彼の向こうには広い訓練場と多くの兵士、その奥には王宮がある。
「で、どうしたんだこんなところで?」
 穏やかに尋ねる彼は、徐に素振りを再開する。
「今丁度こっちに戻って来たところなんだ。そしたらこんなところに居るから、何してんのって」
「うん、訓練を受けてるんだ。今は休憩中なんだが、次は銃剣の実践らしい」
「……習いたいのそれ?」
「いや、それで若手部隊に編入してもらえるように話をつけてもらったんだ。次の出陣には、俺も行きたい」
 剣の切り裂く先を無表情で見つめるアイはさらりと言い、彼を見てミナキは茫然と二度瞼を瞬かせる。不可解だという顔をしながら、まあそうだよな、と頷きながらミナキは広い訓練場に視線を戻していく。
「むしろ、何で今まで行きたいって言わないのか不思議だったんだ。真っ先に行きそうなのに」
「いや、そんなこと考えもしなかった。なのに急に行きたくなったんだ」
 アイはぼんやりと曖昧に口を閉じるが、振り下ろされる刀身の鋭さはほんの僅かも曇らない。寧ろそれは、剣に一心を注ぐ揺らぎない姿に他ならない。
「なんでかわからないけれど、やっぱり、行きたくて仕方がないんだ」



[21440] Ⅳ-2
Name: ---◆b6852166 ID:ba9cfe8a
Date: 2010/11/24 00:48


「――事の首謀者はセルドラだ」
「……なんと――!」
 リツの提示する密書に思わず声を上げたのは、クライトの背後に持す老齢の従者、クライトは眉一つ動かさず、
「これは確かに?」
「……うむ」
「そうですか」
 難しく瞼を閉じたままギーゼラが頷き、クライとは端的な動作でもって奥のアリスに向き直る。
「陛下並びに姫様のお命に関わる、極めて重大事態に対処は愚か、事態その事すらこうして今になって知る始末。その上怪我人を出したとなれば、最早申し開きのしようもありません。どうか、ご処分を」
粛々と、直線を引くように彼の頭は下げられる。
掛けるアリスは整然と、
「貴方が謝るような事は何も無いわ。貴方は貴方の役目を果たした、処分など以ての外です。条関城での勝利、その働きに感謝します」
「……ありがとうございます」
 伏せたままの顔の、クライトの視線は茫然と床と正対する。彼は徐に頭を上げるが、取りこぼしたように、視線ばかりは重く落ち込み残される。しかしすっと違和感なく、結局彼は難なく面を上げると、冷静な瞳をアリスに向け、もう一度浅く礼をしてみせる。
「――今、セルドラ殿の戦力を失っては、進軍は難しい」
 クライトは振り返り、机上の地図に向かう。王城を中心に、西に条関城、更にそこより北西に三つの山を跨ぎ、条関城の次に王城の近くに位置する城、鹿林城が標される。彼は並ぶ駒を手に取り、
「条関城を基点に北西からの敵援軍に対し防衛線を引き、本隊は鹿林城に進攻――、しかし鹿林は北の堅城、シュドル派における防御の要。攻城には相応の兵がいる」
「だが、ここを落とさなければ勝利はない。となれば、奴の件は内密のまま目を瞑る他ない。利で動いた者は利で引き戻す……ここで勝機を得て、大勢を傾ける」
 机上の地図から目を放さずにリツは言い、木駒を置いていく。
「セルドラ私兵の大部分は鹿林城攻めに投入し、更に条関城と北西の防衛線、三点すべてに割り振り、それぞれ解体に近い形で王軍に編入。セルドラ自身は王城に封じ、兵と完全に引き剥がす」
「つまりは、すべての私兵隊の解体配備か。このまま伏せるのであれば、セルドラ殿だけでは済むまい」
「ああ。ハイデン侯に、ギーゼラ侯も含めた主力私兵隊は一様に、中隊以下に解体した上での配備が望ましい。指揮は執れるか?」
「執るほかあるまい。……だが、我らも数に余裕があるわけではない。こちらの主力も鹿林城に当てる必要がある。本城の統率はギーゼラ公にお任せするとして、条関城からのラインが些か心元ない。実質ここに当てるのは中小諸侯の私兵隊、数の上では問題はないが寄せ集めにすぎない」
「……条関城にアリスを置くか」
 ギーゼラの口端が不服げに引かれる。
「アルディス姫様、だ」
「ギーゼラ」
 アリスに制され、ギーゼラは口を閉じるが、咎める視線は依然リツに突き刺さる。その隣で、今地図から顔を上げたクライトが、
「許容できない。これ以上姫様の身に危険が及ぶことがあってはならない」
 冷静な無表情で言い、リツは結んだ口の中でため息をつく。
ギーゼラは目を瞑り、いくらか眉を寄せて、
「ハイデン殿に入っていただくのが良かろう」
「今のところ動きはないが、ハイデンが完全に白だとは言い切れない。セルドラと手を結ぶ可能性もある」
「……ハイデン殿には一人娘がある。彼女を本城に残こせば彼もまさか叛くこともあるまい。そうであろう、」
「……ええ」
 クライトは言葉だけで返答する。
「ハイデン殿の忠誠は厚い。もとより杞憂ではあるだろうが」
アリスの瞳が僅かに戸惑ったのを察し、ギーゼラがそう付足し、彼女はクライトの視線に答え、頷く。
「では、条関城にはハイデン様を」
 木駒は条関城に収められた。

 部屋を後にし、二人は足早に廊下を進む。
「エイクを親衛に戻して本城に残す。手配をしておいてくれ」
「承知致しました。しかし残念がるかもしれませんな、鹿林城攻めを前に皆意気込んでいますから」
 続く従者がその年齢を思わせない快活さで答え、クライトは思わず笑みを漏らす。
「それは頼もしいが、皆には少し休むよう言ってくれ。条関城を攻めたばかりで疲労もあるだろう」
「おとなしくするのはもっと苦手な奴らですぞ」
「ふっ、ほんとにな。先勝祝いの宴でも設けられればいいのだが、すまないことにそうも言ってられない」
「いえいえ、鹿林城を落としてこそ、旨い酒が飲めるってものですよ」
「それもそうだ」
頬を緩めた延長でなんとなしに眺めた窓の外に、クライトは目を止める。向こう側に折れた曲輪の、長い廊下を歩く一人の姿がある。
「――先に行っててくれ、すぐに行く」
 彼はすぐに視線を戻すと和やかに言い、しかし一人別れたその表情は俄かに難くなる。階段を登り、角を折れ、彼は長い廊下を進む。
いくらかのドアの前を過ぎ、行き着いた廊下の終わりには庭を見下ろす窓と、一人の衛兵が佇む。
衛兵は無言で敬礼し、クライトは彼の様相をちらりと確認してから、ご苦労、と短く声を掛け、その脇、彼の守る一番端のドアを開ける。
部屋は明るい。
どんよりと白かった空はいつしか晴れ渡り、輝く光は窓辺に佇む姿――、ミオリを照らし、あるいは影にする。ガラスに触れるその指だけが、光を透して濃淡を行き来し、壁の柱時計が軋む様に唯一の音を刻んでいる。
「次は鹿林城を攻めるの?」
「……いずれ通知する」
 彼は後ろ姿に答える。
 彼女は兵たちが行き来を繰り返す訓練場を見下ろし続け、クライトも部屋の奥まで足を進めることはしない。
「多くの犠牲者が出るわ。……戦うべきじゃない」
「勝敗が先だ。勝機があって、戦わない理由がない」
 感情の無い声に、ミオリの指がぎゅっとガラスを押す。
「クライト、だけど貴方にとって軍の皆は、」
「だったら何だという。お前のように、俺にも〝守れ″と言いたいのか」
 彼女の背がふと不意に色を失ったのは一瞬、ミオリはきっと振り返る。しかし待ち構えていたように、まっすぐ彼女を見る彼の瞳は揺らがず、苛立ちは交差する。
 先に口を開いたのはクライト、
「そんな事は望まれていない。誰にも、だ。どんな犠牲を払ってでもこの国と、陛下を守るために戦う、それが一将のあるべき姿であり、それが俺に許されるすべてだ。俺たちはそういうものだと、お前もわかっているだろう?」
 問う彼の眉は歪む。
 辛く悲しげに開かれた彼女の唇は、彼が孤独に首を横に振り、切なく閉じられる。
「もうあきらめろ、ミオリ。傷だけではすまなくなる」
 ミオリの長い睫が影を引く。
変わらずに照る陽の光を、彼は遮るように瞼を下ろす。古びた時計の秒針が軋みながらいくらか進み、穏やかに瞼を上げたクライトは、
「――もう行く」
そう静かに微笑して、踵を返す。




[21440] Ⅳ-3
Name: ---◆b6852166 ID:a8c1d335
Date: 2011/01/03 20:59
 出陣を告げるトランペットを、背で聞く彼の口角がひとりでに上がる。
 軍用の大手門からは最も遠い、城の裏手に位置する狭い通用門を三台の車が潜り、その最後尾でハンドルを取る彼は、窓の向こうで敬礼する門番に軽く会釈をして見せる。
 毎朝の物資の搬入をいつも通りに終えた三台の車は、一列になってもと来た道をまっすぐに城下へ続く丘陵を降りていく。
「ちょっと、」
 車がガタンと揺れたのと同時に、座席の後方からくぐもった非難の声が上がる。彼の運転するのは前方に二席のみが設けられた、後部に荷物の積み込みが可能な中型車で、大小の木箱がいくつか積まれている。
 ぐるりと長い外壁を周り終え、まだ往来の絶えない街中の声をガラス越しに聞きながら、車は無言で進む。
「……まだ?」
「まだ」
 導くように前方を走っていた二台の大型車は、いつの間にか一台が道を外れ、往来を抜ける頃にはもう一台の姿もない。しかし彼は迷うことなくハンドルを握り、車や馬や人やらで長閑に出来た列に加わり、西の門をゆったりと潜って行く。
 宿場町を過ぎ車が進む程、人の姿はどんどんまばらになり、やがて辺りは見渡す限りの田畑に変わる。小鳥の小さなさえずりさえも、ずっと向こうまで届きそうなそこで、彼はようやく車を止めた。
 片隅の地図を広げ眺めていると、
「ねえ、」
 不意に不機嫌な声が彼を呼ぶ。熱心に地図を見つめていた彼は車を降りて後ろに回り、コツコツと控えめに音を立てる木箱の上板を開けた。
「……こんなものに入れられる日が来るなんて」
「来ると言ったのはお前だ」
「案内人が欲しいって言ったのは貴方よ」
 アリスが木箱の中から青くなった顔を出す。彼女は一人荷台を降り、リツも彼女を振り返ることなく木箱を閉じる。
 ふらりふらりと、たどたどしい足取りで車の脇へしゃがみ込んだアリスは、それでも風に当たるうちに頬はいくらか血色を取り戻し、いつしかその視線は目前の風景に向かう。
 鼻先に触れる小さな風が、畑の緑を揺らし、鳥が訪れ、時折虫が飛んでいく。自身の胸の鼓動を聞くような温かで穏やかな移ろいを、アリスは惚けたように眺め続け、しばらくして、ふと小さく開いた唇が動く。
「カナトは、大丈夫一人で平気かしら――」
 彼女は睫をはっきりとはためかせ、すくっと糸で引かれる様にまっすぐに立ち上がる。
「出して」
「言われなくとも」
 助手席に乗り込むアリスを一瞥し、リツは不機嫌そうな顔で地図を畳む。
 見晴らしの良い長閑な道を車は無言で再び進み始める。
「次を右」
「もう二つ後だ」
「こっちが近道なの」
「……なんで知ってる」
「お父様はいつもこっちの道を行かれたわ」
「運転なんてするのか、国王が」
「するわ」
「物好きな奴だ」
 投げつけられた地図をリツがひょいと顔を引いて避け、口を曲げたアリスはハンドルの下で彼の足をばしっと蹴った。
 車内は険悪に沈黙する。
 二人そろって半円型にした目を据わらせ、沈黙の車内は険悪な空気が立ち込める。
「ちょっと、今の道、」
 曲がり道を迷うことなく通り過ぎ、リツは直進を続ける。
「戻って、今のところよ」
「温室野郎のぬるい道なんて信用できねえ」
「……田舎者の嫉妬は醜いわ」
 しん、沈黙が更に険悪さを増したのもつかの間、減速もせずにリツは突然ハンドルを切った。
 角を折れる車体もろとも遠心力に引かれ、荷台からはガタリと鈍い音、目を丸くしたアリスは慌てて腕で身を支え、
「っ、この先なんでしょっ!」
「ここから直線で行ったほうが、地図上では一番近い」
「ちょっと!」
 彼女の静止をリツは無表情で無視し、進む車は勢いのまま、今度は車道脇の雑木林に突っ込んだ。
 絶句するアリスをよそに、車は速度を落とすことなく木々の間を縫うように、緩やかな傾斜をどんどんと登って行く。
 ガタガタとひっきりなしに揺れる騒がしい車内で、アリスは縁に必死にしがみ付き、そしてハンドルを切ると同時にふと訪れた今までとは違う浮遊感に、彼女の背筋は凍る。
「はっ――」
 思わず息を呑んだ時には、既に片輪は宙に浮き、斜めに大きく傾いた車体の中でアリスの頭は真っ白になる。
 時が止まったかのように、横転間近の車体は一瞬宙で止まる。浮いたアリスの体がゆっくり雪崩れるように運転席に落ちかけて――、車は一気に直下した。
 ダン、と一際大きな音と揺れで、浮いた車輪は勢い良く着地し、車は止まった。
 座席に元のように着席したアリスは人形のようにしばらく硬直し、それからようやくはくはくと口が動きを取り戻し、
「――信じられない! シュ、……シュドルが運転したときだってこんなに酷くはならなかったわ!」
「車が悪い」
 不機嫌に口を引く彼は、手近の取っ手を操作しながら答えるが、詰め寄ろうとするアリスをよけるように車を降りると、地図を右手に無言で歩き出す。
「どこ行くの」
「もう歩いて行ける距離だ、早くしろ」
 アリスは唖然と口を開けるが、容赦なく木々の中に遠のくリツの背に、握り拳で肩を振るわせ、
「――信じられない!」
 叫び、がむしゃらに飛び出した。
 丈夫で手に馴染む細長い枝を見つけて拾い上げ、引きずるようにリツはばらばらと落ち葉散らかし地面に一本線を描いて歩く。雑木林は光が適度に差し込むほどに手入れされているものの、雨の残る地面は湿り気を帯びたままで、彼を追いかけていたアリスは、跳ねる泥と落ち葉を避けるうちに彼の枝を持つ手と反対側に、結局隣同士膨れっ面を並べ歩くはめになる。
 隣をちらりと伺い見、また行く先に視線を戻し、やはり無言で傾斜に向かい続けて、だんだんと木々が空いてきたと思った矢先、背の高い、天辺に簡単な装飾など施してある白の柵が現れる。
 アリスの足がぴたりと止まり、顔は硬直する。
 その様子にちらりと、僅かに目をやるものの、リツは一人柵に近付き、その向こうに広がる屋敷や庭を鋭い瞳で、じっと思考するように観察していく。更には振り返り、今しがた過ぎて来た木々を真剣に見回してから、
「おい、俺はしばらく外から見て回るが、お前はどうする」
 愛想もなく尋ねるリツには、答えずにアリスはまっすぐに柵に近付き、花が美しくにぎわう中庭を見つめ、
「あそこで撃たれたの」
「……知ってる」
 色もなく言う彼女に、リツも感情もなく答える。
「歩いてたら半日かかるわ。中に車があるから、こっち」
「まあ姫様!?」
 門に取り付けられた呼び鈴の音で、区切られた向こうに建つ小屋から顔を出した年老いた婦人が目を丸くする。あらあら、と嬉しそうに微笑む婦人とその夫に案内され彼らは門を潜った。
 広い庭を中に立つ立派な屋敷は、無人であるにも関わらず老夫婦によって手入れがなされ、美しく優雅で穏やかな時の中にいる。
「あの二人は信用できるのか」
「ええ」
 婦人の案内を断り、明るい廊下を歩く二人に表情はない。リツは一部屋一部屋に入り、間取りを確認し、外を眺め、真剣な面持ちで時折メモを取る。
「議場に使うときのために、客室は相当数あるわ。――ここは子供部屋」
 低い本棚にあった絵本をリツが手に取ったに気付き、アリスは平淡に付け足す。
「王族の別邸でもあったから」
 彼女の無表情を振り返り、特に何を言うでもなく彼は本を戻して立ち上がる。
 廊下に置かれた華やぐ花器を通りすぎ、彼らは淡々と歩く。いくらか繰り返し、リツはまたドアを開く。
 部屋はこれまでとは違う、鮮やかな青の絨毯が敷き詰められ、ふわりと部屋に置かれた花が香る、窓の光が温かい穏やかな部屋だった。
 リツは絨毯に足を埋め、壁にかけられた王の大きな肖像画をいくらか眺めてから、やはりここでも窓の外を検分するように眺める。中庭が良く見渡せるその眺めに彼は一層目を光らせ、取り出した間取り図になにやら書き込み、部屋の中を振り返り、
「おい、――」
 彼女に尋ねようと口を開きかけて、リツは思わず目を丸くする。彼が先程立った部屋の中央で、アリスは茫然と肖像画を見つめ、頬を静かに一筋、涙が伝っていた。 
 リツは僅かに眉を顰めたが、しかしすぐにそれまでの無表情に変わり、彼は何も言わずアリスの後ろを通り過ぎて行く。
「――銃声は左から聞こえたわ。本当はシュドルを狙ったのよ、あの子も一緒に庭に出ていたから。おそらくお母様は銃口に気付かれた」
 足を止めた背後の彼に、アリスは気丈に言った。
「俺もあの歴史学者からいくらか聞いている。あとは一人でいい」
「そう」
 部屋を出て彼は、今度は一人、作業を再開する。無音の廊下に何度目かの締まるドアの音が単調に響き、リツはまた廊下を歩く。止まることない足のように、思考する延長のように自然に彼の口が開く。
「俺はこの国を手に入れ――、アイツは何を手に入れる?」
 ぴたりと、リツが足を止める。我に返ったように、硬直する表情は信じられないといわんばかり、彼は自身に目を見張る。
「――何を言ってる」
 ふっと嘲笑するように吐き出した息と共に彼は顔を伏せ、歩みを再開するとともに上げた顔には鋭い笑みが浮かんだ。

「下見は済んだ?」
 本に落とした視線を上げることなく、ソファーにかけるジルが尋ねる。
 リツもまたジルにちらりとも目を呉れずにドアを閉め、睨みつけるように前を見据えたまま、彼にしては僅かばかり早く、注意の足りない足音で執務机にまっすぐ向かう。
「問題ない、使える」
「……そう。なら良かった。準備はしといてあげるわ、あとは――、」
 相変らず浮かべた不適な笑みを崩すことなく、ジルが不意に言葉を区切る。彼が本を閉じる前に、リツの足音がやんでいる。
 彼が捉えるのはジルの向かい、
「あ、お帰り」
「ミナキ、お前なんでここにいる?」
 問うリツの眉が酷く寄る。
「戦場視察は? 軍の出立は今朝済んだはずだ」
「あれ、言ってなかったっけ? 代ってもらったんだ、アイが行くっていうからさ」
「――兄貴が? 戦場に?」
 リツの血の気が傍目でわかるほど、俄かに頬から引いていく。彼は息を呑み、
「なんで止めない! どこの部隊だ!?」
「だっ、大丈夫だよ、あんだけ強いんだから絶っ対。そんな心配しなくたって、けろっと帰ってくるって」
「部隊は!」
「……多分、鹿林城、行きたがってたから」
「くそっ」
 リツは乱暴に踵を返し、しかし、
「待ちなさい」
 背中越しに、ジルが鋭くその足を止める。
「どこへ行く気? まさか、くだらない考えを抱いたわけでもないでしょう? アイくんは戦闘にかけては天才的、たかが一兵と言えど、切迫した戦況であればこれを使わない手はない――あとは、どこで落とすか。そうでしょ?」
 ジルは威圧的に微笑み、リツはまっすぐ壁を睨みつけたまま立ち尽くす。だがやがて、彼は口を結び、鋭い目付きのままきっと踵を返し、足は机に再び向かう。
「――いや、俺行ってくるよ」
「行かなくていい」
「行く。程々にするよう言うだけなら問題ないだろ? ジルさん車の手配頼むよ」
 そう微笑むミナキの眼光は強い。ジルの腕を引っ張り、席を立った彼は、背を向けたままのリツを残し、部屋を出る。
「信じられないほどお人よしねえ」
「うーん、あいつらにとってはお互いが唯一の肉親だからさ、リツの気持ちは俺にもなんとなくわかる――、大目に見てよ、ね」
 ミナキが、にっと人の良い笑顔で手を合わせる。
 まさに日が落ちようとする、眩しい窓に向かってリツは立つ。
「この国を手に入れて、俺は――」
 ぶらりと落ちた手のひらを、しかし彼は強く握り夕日に背を向ける。



[21440] Ⅴ-1
Name: ---◆b6852166 ID:40c85a97
Date: 2011/03/01 22:30
 火花を飛ばし、白刃は白刃を走る。太刀は柔らかに一線を描き、合わせたその切っ先がすらりと白刃を押し抜けたと共にアイは身を翻し、僅かに仰け反る敵の背に太刀を返して振り下ろす。跳ねる血と崩れる体に目も呉れず、彼は直ちに足を引き寄せ振り返る。体を入れ換え、その胴めがけて突き出された槍先を鈍い刃音で受け止め、組み合う十文字の向こう、敵の姿を冷静に見据え、アイがいくらか口を引き垂る。
 乱暴に打ち払われると同時に、すばやく引かれた十文字槍は捲くし立てるように次打を繰り出し、白刃は音を立てて三度ぶつかり、そして自ら一歩大きく飛び退いたアイは、追い出る敵へ向かい急激に踏み出す。振り下ろすアイの刀身は綺麗に鉾の中心を捉え、重低音で叩きつけられるままに槍はねじ伏せられ、そして容易く払ったアイは一気に敵本体に駆け込みその腹を一突きにする。
「違う……」
 刀身の血を振り払い、呟く顔付きは厳しい。
 戦場に絶え間なく張り巡らされた咆哮は耳鳴りのように染み付き、遠くで響く銃声のほうが寧ろ耳につく。上半身ばかりに鎧を引っ掛けて、アイは戦場に立っている。浮いた姿で、彼は異質にこの戦場を睨みつけ奥歯を嚙む。
 立ち尽くすその背後に突如、
「――てああああ!」
 掛け声で背に斬りかかる敵、しかしアイは置いた視線を逸らさずに、切っ先だけを敵の甲冑の隙間に滑り入れ、首を絶つ。
「違う」
 がしゃりと落ちる音を噛み潰すように言い、見回した先、斬り合う兵の向こうに馬で駆ける一隊の将が彼の目に映る。すうっと突き刺すように睨みつけ、彼は駆け出す。

 幕営の内、燃え盛る松明が揺れる。
「左翼では幾度か敵小隊との単発的な交戦があり、いずれも我が方が勝利しています。ですが他所においては、敵は前線に大規模な銃隊を置き、木柵及び盾を用いた守備は堅く、進退はなく終始銃撃戦とあいなりました」
 示される布陣図を将官たちは腰を据え囲む。
 条関城の北東、シュドルの居城より南東に位置する鹿林城は、隣国との境に最も近い丘陵を切り開き建てられたもので、南に二の丸、北に本丸の堂々たる二つの御殿からなり、高い城壁がそれを囲む。
 長机に乗る布陣図で両軍は南の二の丸を臨む平野で相対し、眺める上座のクライトは無言で報告を聞く。
 一人の将官が身を乗り出し、
「総督、我が隊が特攻をかけましょう。戦果は上げています。懐にさえ入ってしまえば実力は我らが完全に上、攻め込めば敵は崩れましょう」
「いや、鹿林城まではまだ遠い。決定的な戦果が見込めない段階で仕掛けても意味がない」
 机上を眺める冷静な瞳を変えることなく、クライトは答える。
 彼の最も近くに座る老将が彼をちらりと見やり、また布陣に目を戻し、髭をなでつけながら、
「うむ……、しかし白兵戦で押し負けたとなると、敵は益々中央に兵を固めてきますぞ。敵がデュレル殿ともなれば、おそらく敵本隊は鹿林城ではなく、条関城へ向かい直接王城に向かいましょう。ここで銃撃戦を続ければ鹿林での長期化は必至、条関城は持ちませんぞ」
「違う。逸るな、と言っているんだ。時間がないのは確かであるが、勝ちを焦れば却って勝機を逃す。中央の銃隊を主力に両翼は陽動を仕掛け、まずは銃撃戦を制し、敵前線を押し上げる。攻撃を続ければ、敵の足並みは必ず乱れる」
「ご承知である通り鹿林の軍備は堅く、決死の覚悟なくては容易に下がりますまい」
「実力では我らが上だ」
「総督、兵を惜しむときではありませぬ」
「ならん」
 布陣に向かったままの表情に色はなく、しかし頑として彼は言う。


 朝靄のまだ引かない、肌寒い草原を隊列はひっそりと動きを開始する。静まり返る戦場に、がちゃりと重く鎧の擦れ合う音が続く。
 将官を先頭に次に騎馬隊、更に後ろの歩兵部隊が進み始めたとき、その最後尾にアイは駆け込んだ。
 ふう、とほっと汗をぬぐい、当然のように隣に加わる彼に、一人の若い兵士が懐疑一色の鋭い視線を向ける。
「……なんだお前。うちの隊じゃないだろ」
「ああ。だけどこの隊が一番前に行くんだろう?」
「知っててその装備かよ」
「駄目だろうか。全部つけると動きにくいんだ」
 肩から下げた自らの甲冑を見て、アイは首を傾げる。
「まあ死にたいなら好きにしろよ。敵の間者なら今ここで斬るがな」
「それは違う。飛び入りだが俺は味方だ」
「どうだか」
 はき捨てるように嘲ったきり、彼は前を見詰めて口を噤む。
 列は長くはなく、彼らかれでも靄の中に騎馬隊の揺れ動く背がいくらか見える。
 直前の兵士が歩みを始め、続く彼らも一歩、と踏み出してアイが急に振り返り、足を止める。
 先程の兵士は構わず数歩進んだが、それでもついて来ようとしないアイに舌打ちをし、柄に手をかける。しかし同時に、
「おーい!」
 靄の向こうから人影が現れる。
 影は駆け、ガシャッと音をたて転がるようにアイの前に膝を付く。
「やっと見つけた、まったく」
「なんだミナキも来てたのか!」
「来てたんじゃなくて来たの!」
 荒い呼吸で答えるミナキと彼に合わせてしゃがんだアイを、いくらか離れて眺める兵士が訝しげに目を細める。彼は柄に手を置いたまま、
「おい、お前! どこの所属だ」
「――、俺?」
「そうだ」
 兵士が目を止めるのは、ミナキの着込んだ軍正規の甲冑。
「えーと、条関城では視察部隊にいた。第三視察隊で西三ノ曲輪を」
「……、隊列を乱すな」
 鋭い眼差しをいくらか向けた後、言いながら彼は振り返る。
「おお、すごいなミナキ」
「軍は二回目だからな、まかせとけ。じゃなくて、お前何その格好! 心配するわけだよホント」
「ミナキまで言うのか。着込むと動きにくくて逆に危ないぞ」
「俺は動かないからいいの。せめて頭ぐらいは被ってくれ、取って来るから!」
「音が聞こえ辛くなったら、それこそ危険だ」
 はああ、とミナキの盛大なため息を無視して、アイはさっさと駆けて行ってしまう。
 仕方なく追うミナキも加わり、隊列は進む。
「ミナキも来るのか?」
「一応リツと約束したからな」
「リツと? ……よくわからないが、ミナキは戻ったほうがいい」
 不思議そうに寄せたアイの眉が、言いながら重くなる。
「この隊は前線に出る」
「え”」
 驚きで開かれる口と、やっぱり、と細くなる目がミナキの顔に同居する。
「……せめて後ろの方にいない?」
「それじゃ意味がない。おそらくミナキのことを気に掛ける余裕はない」
「そんなに激戦地?」
「願わくば、な」
 顰めた眉のまま、前を向く表情は酷く真剣に言う。
 その表情にもう何度目かのため息を、ミナキは飲み込むように鼻に逃がす。
「死んだら取り返しがつかない」
「そうだな」
 人事のように穏やかに微笑むアイの、一見して毒気のないそれは彼の狂気を併せ持つ。

 くぐもった太陽の下、すっと張り詰めた糸のような静寂が、ぷつんと弾ける。
 一斉に沸き起こった喊声で平野は飲み込まれ、先陣を切る銃隊は次々と前進し、襲い来る銃撃に怯むことなく累々と大盾を打ちたてていく。
「……始まったか、」
 地鳴りのように足元を伝う会戦の轟音を振り返り、馬上の将官は呟く。
 眼前に構える兵士たちは堂々と、将官は彼らに向き直り、
「予定通り、これより我らは敵部隊への突撃を敢行する――」
 勇ましい号令が厳粛に響く人中、陣立ての済んだ部隊の中盤、一人喫驚で目を開くミナキの表情が一気に切迫する。
「玉砕部隊じゃないか」
「……そうらしい」
 アイは眩しい中を見るような、顰めた眉で将官を眺めるまま答える。
 潜めた声のままミナキはアイの肩を掴み、
「止そうアイ。死に急いでどうする、お前ら二人っきりの兄弟だろ」
 瞳は真剣に差し向かう。しかし彼の背は唐突に押しやられ、
「隊列を乱すな!」
 並ぶ兵士の叱責ともに、顕著になる警戒心が彼らを取り囲む。
「退けそうにないな」
 そう険しく口を結び、アイの眉間は一層深く皺を刻む。
「どうにかして銃は潰す。最善は尽くすから、その後は自分でどうにかしてくれ」
 真剣な口ぶりに、ミナキは思わず目を瞬きながら相槌を打つ。
「諸君、健闘を祈る! この戦場に風穴をぶち開けてやろう!」
 叫ぶ将官は馬上で剣を掲げ、兵士達の勇ましい喚声が次々と続く。緊張と高揚は最高潮に達し、彼は掲げた剣で戦場を指し、
「全軍前へ!」
「五感で敵全体を見ること、なるべく人の後ろを進め! 絶対に止まるなよ、止まったら死ぬぞ」
 現れる波のように、ゆっくりと開始される歩みに従いながらアイが言う。
 あたふたとミナキの口は幾度か空気を嚙んだが、
「こうなったらもうやけだ! 俺だって伊達にお前らと吊るんでないさ、兵隊がなんだ、農民なめんなよ!」
「うん、その通りだ!」
 がっと勢いよく歯を合わせたミナキに、いつもとなんの変わりもない朗らかな笑みで頷き、アイは前を向く。馬上の剣は大きく振られ、
「突撃いい!」
 幕は切って落とされた。
 真っ先を行くのは騎馬隊、馬は怒涛のごとくその体躯をうねらせ草草をねじ伏せ駆ける。
「敵襲――!!」
 進軍は突如開始されたといえど距離は十分にある。敵方最前線は、号令と共に、部隊を即座に組み立て銃身を持ち上げる。そして銃口はまっすぐに向けられ、
「撃て!」
 いくつもの破裂音は重なり合い、爆発音のような衝撃を持って、騎馬隊に襲い掛かる。
 けたたましい馬の悲鳴と、地面にひっくりかえるものもいくつか、しかし騎兵たちは怯むことなく左に構える盾をかざし馬を駆る。
 アイは一目散に前線を目指す。ひっきりなしになる銃声はまだ遠く、兵士のかき鳴らす足音、そして耳の一番近くを風が音を立てて過ぎて行く。兵士達を抜き去り、盾と槍を構えた先行部隊に紛れ、やがて人ばかりだった視界が開けていく。倒れた人体が徐々に現れ始め、足場はどんどん悪くなるが、進む先から視線は逃さず、走る彼は下へちょっと手を伸ばし、転がる盾をひょいと掬い上げて肩に背負って更に行く。
 敵の構えた木柵がもう見える。人の背よりもあるそこに辿りついた兵は僅か、そしてその数は目の前で益々減っていく。重なりあう人体を踏み越えながら、随分広くなった野原でアイがすっと剣を抜く。
「――倒れない」
 火薬のにおいが立ち込める敵陣、構えた銃から頬を離し、兵士の一人が愕然と呟く。
「よく狙え!」
「狙ってる!」
「次から次へと来るんだ! 手を休めてどうするっ!」
 反論に動きかけた体を、合わせた歯で抑え兵士は再び引き金を何度も引く。
 銃弾は髪を揺らすが構わず、アイが弾くのは最小限、すっと冷静に、そして正確に剣をかざしていく。足は止まらず、ついに目と目が合うほどに彼の進軍を許し、発せられた怒号と共に集中する銃撃の中、アイはようやく盾を構えるが、体を大抵覆ってしまうそれも木片を飛ばし、裏打ちされた鉄はみるみるへこんでいく。
 それでも動じずに駆け、ようやく木柵に到達しようかというところ、アイは唐突に盾を捨てるように地面に投げつけた。
「なっ、」
 彼の恐ろしく冷静な瞳が見えたのは一瞬、跳躍したアイは倒れていく盾が地面に垂直になったちょうどその時、その天辺に乗るように片足を掛け、飛んだ。
 銃口が一斉に天を仰ぐ。
 撃ち込まれた銃弾が当たる間もなく、今度は木柵の天辺を踏み台に兵の中へ降り立つ。
 息を呑むのが声となる。兵士たちが振り返ったときには、既にアイの周りでいくつかの首が飛んでいる。
「殺せえええ!」
 叫ばれる命令はまさに悲鳴で、動きは早く銃口に捉えることも出来ず、剣を抜こうとも力量が違いすぎる。アイは敵陣を駆け、殆どすれ違い様に次々と斬り捨て、最早防御のためだけに銃をかざす兵も容赦なく息の根を止めていく。
「おお!」
 浮き足立つ敵に力を得た後続が怒涛のごとく突進し、一方敵陣後方からは援軍が駆けつけ、戦場は死闘の様相を呈していく。

 響く争いの音は、ともすれば幻のようにクライトの耳元を通り過ぎていく。
 なだらかな丘陵の上、幕営を背に彼の目下で細々と重なり合うぼんやりと、しかし確かに人と分かる姿の発する熱気が、彼の元まで揺ぎ無く押し寄せる。
「右翼が騒がしいな」
 すっ、と瞼を狭めた彼の眉が寄る。
 時同じくして、鎧を鳴らし、急を知らせる馬が駆け込む。
「報告!」
「……どうした」
 すばやく馬を降り、寸分の無駄なく地に手を突いた物見兵に、クライトはそのままの表情で問う。
「ダレス殿、五つ半をもって突撃を敢行。今なお交戦中」
「……そうか」
 口だけで答える彼に、もう一度頭を下げ物見兵は速やかに退く。
 クライトは一人、拳を握り込む。
「攻撃は許していない」
 口調は静かに、しかし確かに苛立ちが潜む。
 傍らに控える老将は狼狽の一つもなく、厳かに彼に向き直る。そしてゆっくりと頭を下げ、
「私が、許可いたしました。責任は粛々と努めさせていただきます」
 確として述べ、腰を上げる。
 しかし先に立ち上がったのはクライト、
「馬を引け!」
 怒鳴り、進み出る足音は荒い。
「総督、」
「立たずにいられるはずがない……」
 振り向く事はせず、拳を握ったまま呟く。
「前線にて総攻撃の指揮を執る。私に続け!」

 戦場は俄かに動き出す。
 広く、打ちたてられた大盾が点々と並ぶ野原に緊張感は静かに張り詰め、硝煙でかすむ最前線はひたすらに銃声が響く。
 撃っては身を隠し、前進し、あるいは後退し、神経質に続く攻防線の後方に一人の兵士が馬を走らせ、
「伝令だ! 指揮官は!」
 そう馬を降りたのと同時に、振り向いた銃兵の一人が前方に駆けて行く。向かう前方に、敵の姿はまだ遠い。しかし届く敵の銃声と共に、盾に弾の打ち当たるのが時折後方まで聞こえてくる。
「どうしました!」
 そう駆け寄ってくる指揮官の、鎧を上げ現れた面に兵士は目を丸くする。
「エイク! お前王宮じゃなかったのか」
「ええ、その予定だったんですが変更に」
「そうか、それは頼もしい」
「それで、」
「ああ。全軍に進軍命令が下った」
「総督殿が?」
 エイクが僅かに声を潜める。兵士が静かに頷き、
「ご決断くだされた」
「これでいいんです、あの方は我々に気を遣いすぎる」
 眉根を寄せつつも口角を穏やかにするエイクに、兵士は気のいい笑みで答えてから、今一度表情を引き締める。
「これから機動部隊中心に右翼より敵全軍を崩しにかかる。これに乗じて銃撃部隊も進軍してくれ。なんとしても鹿林二の丸まで敵を押し下げる」
「了解」

 振り下ろされるのは馬上の剣、寸前振り向き様に抜き身が受け止め、なぎ倒されるの勢いのままアイの身は野を転げ、馬は駆け抜ける。
 惰性の延長でアイはすぐ様身を起こすが、切り返す敵も彼に馬を走らせる。立ち上がる間もなく騎兵は再びアイに突っ込み、身を投げかわす彼は地に伏した手近の敵の剣を取り、一つ舌打ちをしたかと思うと、拾い上げたその剣で唐突に撃ち込まれた背後の銃弾を払いのける。そのまま剣を持ち上げると、丁度反転をしていた騎兵めがけて投げつけ命中、馬から落とすと体を持ち上げるように立ち上がり放たれる次弾を弾いて、今度は向こうに潜む銃撃手へ走り始める。
 彼に応じ、歩兵が彼に向かう。走る勢いのまま、踏み込み剣をぶつけ合い、あるいはすいと抜けるようにアイは剣を引いていく。円を描くように滑らかに、振り下ろした切っ先はいち早く敵の懐を裂き、彼が過ぎれば刃は進む。
 いつの間にか進む速度は歩みに変わり、浴びたようについた向かい血の、既に乾いた部分が銃弾を受ける度にかけらとなって落ちていく。徐々に退きつつあった銃兵は、やがて完全に身を翻す。見えた背にアイは一瞬柄を握り締めたが止め、遠のく背を見送るように歩みを止める。
 音は随分遠のいた。それでもまだ銃声は止まず、喊声は強く鳴り続ける。瞳だけが冷たく光った無表情が招かれたようにそちらに向かい、しばらく眺めて、知らぬ間に吸ったままになっていた息を吐き出し、アイは剣を収めた。
 元来た道を振り返り、彼は一人淡々と歩き始める。木柵は傾き、白く照らされる人体は伏せ連なり、風のないの野原に降りる黒い鳥までも単に無音であり、草を踏み潰す彼の足音はしぼみ消えゆく。
 草が獣じみた音で鳴る。
 アイが身構えたのは一瞬、掴まれた右足を見下ろし彼は、泥に塗れ仰向けに見上げる瞳とかち合う。
「よお、見た顔だな」
 上手く動かないのか、呟くときの僅かな声量でかすかに兵士は頬を上げる。ひゅと抜け出るように息を継ぐその裂けた腹をちらりと見やり、アイは足を止めて彼を見下ろす。
 彼は天を仰ぎ、
「たとえ相手が同胞だとしても、兵士として覚悟は出来ていた……出来ていたんだ、しかし――」
 一度、出来る限りの空気を吸い込み、また乾いた咽喉を鳴らし息をする。
「頼む」
 兵士は目を閉じ、手はぎこちなく離れていく。
アイは静かに剣を抜き、無念だと呟いた兵士の音は消え入った。

 轟音で状況はわからない。見回す暇はなく、目の前を斬り、進みを繰り返す。途切れることのない戦いの音はそれ自体、兵士達と一体になり、一挙に押し寄せ、砕け、しかし退かず彼らに確かな行き先を伝えていく。
「先方部隊、三の丸東の一門に到達!」
「そのまま突破しろ! 城内は複雑かつ難儀、敵の退却に乗じこのまま数で押し切るしかない」
 馬上のクライトは叫ぶ。
「銃隊は城内からの攻撃に対処、歩兵部隊はとにかく攻勢の流れを絶やすな!」
 転じ二の丸へ続く三の丸庭、駆ける足音は荒い。
「敵、一門を突破!」
「四門以降も直ちに封鎖、歩兵部隊の二の丸に引き上げを急がせろ! 第十六銃 隊、まだか!」
 叫ぶ指揮官の周りを槍を持った兵士が駆け行き、銃を担ぐ小隊は次々と曲輪へ登って行く。
「撃ちかける手を休めるな! 必ずここで追い落とす!」
 彼は大股で振り返り、軽装の一人を捕まえ、
「一の丸に至急援軍を寄越すよう言ってくれ。堅城といっても、敵はこちらの縄張を知っている」
 頷く兵士を走らせれば、今度はその横から再び物見兵が駆け寄る。息を切らす彼に、
「なんだ!」
「敵に火攻の気振りあり!」
 指揮官が目を見開く。
「なんだと!」
 兵は大きく頷き、彼は歯を折る勢いで歯茎を晒し、思い切り地を踏み潰す。
「百年の長き渡る国防の砦、この鹿林を自ら焼こうというのか!」
「最早、それほどの決意なくして我が王国に未来はない」
 時折冑を掠める銃弾に構いもせず、一門を前に先頭に立ち言うエイクは続く銃隊を顧みる。
 開いた彼の右手はゆっくりと上げられ、
「正義は我らにあり! 撃ち方用意――!」



[21440] Ⅴ-2
Name: ---◆b6852166 ID:b4cc31c2
Date: 2011/04/26 02:52
 整然とひたすら単調にアイの足音は続き、それがふと質を変えたのと同時に踏み出しかけた一歩が途切れる。
 僅か顔を上げ、アイは俄かに動きを止める。
背の喧騒はもう遠く、陽の下り始めた陰惨な野原に音はない。佇む彼の瞼はすっと 狭くなり、渦巻き漂流する沈黙に鋭く感覚を澄ませていく。
 再びアイが今度は早足で歩き出す。少し右へ向きを変え、進む先に降りていた黒い鳥が一羽二羽、彼を避けるように飛び立っていく。ざっと砂を鳴らし唐突に足を止めると、もう一度立ち止まり眉を潜めたまま動かない。
 急激に時が張り詰めて暫く、彼がふっと短く息を吐き同時に緊張がぱっと消散する。
 いくらか表情を穏やかにし、アイはまた歩き始める。
 崩れた木柵はもう過ぎて、平野は漠然と続いていく。まっすぐに歩いていく彼の脇を砕かれた大盾が順々に通り過ぎ、彼が土に汚れた亡骸を過ぎる度黒い鳥が飛んでいく。
 無残に散った破片が彼の足に当たり、地を這いながら一瞬飛んですぐに落ちる。繰り返す風景にアイは忌々しげに口を引き、足取りは殺伐と草を踏み潰す。
 そうして進むうち、向こう側横倒れになった大盾に、埋もれるように一人腰掛ける姿が現れる。脱いだ兜をぶら下げて、片肘を突く兵士は足音に顔を上げ、
「アイ! 生きてたか!」
 立ち上がるのはミナキ、
「いやー、流石のアイでも死んだかと思ったよ。よかったよかった」
 アイの肩を叩く彼は大きなため息で破顔する。
「何より俺が死ぬかと思った。ホントすごいな俺、実は実力あるのかな、いやあるな確実に」
 一人大きく頷くミナキとは裏腹に、今だ顔を上げきらないアイの口が僅かに動く。
「―――い、」
「ん?」
「つまらない」
 凍るような瞳で地平を眺め彼は呟き、ミナキの顔を冷たい汗が伝う。アイは奥歯を嚙み潰し、
「つまらない、まるでつまらない。こんなに斬ったのに気分が悪い」
 はき捨て、鋭い光を湛えミナキを見据える。
「ミナキ、ちょっと俺を殺してみないか?」
「――、やだよ、殺そうとした瞬間俺殺されるじゃん」
 絶句するミナキに、冗談めいた笑みを漏らすアイはしかし鋭い瞳は変わらず、
「お前が負ければな」
 アイは乱暴な足音で歩き出す。
「おい、どこ行くんだよ」
「先に戻ってくれ。俺は顔を洗いに行く。気持ち悪いんだ、もうこれもいらない」
 歩きながらアイは肩に掛かる防具を、赤黒い血の厚く塗りつけられたそれを剥ぎ取るように脱いで投げ捨てる。
 鎧は音を立てて壊れ、振り返らない彼の背を茫然と眺めたミナキがふと向こう側、目を移した先には鹿林城が聳え立つ。
「……良く燃えてら」
 仰ぎ見たのは一度きり、放られた彼の兜が簡素な音で転がっていく。

 陽は沈み、爛々と爛々と焚かれた篝火の下、馬駐めでぼんやり座り込む番兵が背後を過ぎる足音に慌てて振り返り、その主を捉えて勢い良く立ち上がる。
「総督っ!」
 大急ぎで敬礼をする兵士を特に気にする様子もなく、クライトは囲われた馬の一匹を連れ出し、手早く鞍を載せていく。目を白黒させながらも駆け寄る兵士はそれを手伝い、
「そ、総督、どちらへ」
「すぐに戻る。言うなよ」
 クライトは穏やかに僅か微笑み、一人駆け出す。
 本陣を置く丘陵の向こう側、少し行ったところにもうひとつ、鹿林城に対する深山が聳えている。月明かりは十分に明るく、星の輝く空の下、クライトは剣ばかり一つ提げてそれを目指して無心で馬を駆る。
 ひとりでに起きる風がひっきりなしに彼の頬を過ぎ、耳を騒がせ去っていく。山道は後ろに引いて登り、中腹近く途中で険しくなる行き先を見上げて彼ははたと振り返り、彼に遅れてゆっくり足を止める姿を暗闇で隠れた顔でしばらく眺め、それから少し引き返して違う道を行き直す。登るうちに木々は段々と捌け、彼はそこに鹿林城を臨む狭い窪地があるのを知っている。
 月明かりが溜まる平地が見え始め、手綱を引きかけたクライトはちょっと足を止めて、それからゆっくりと月明かりの中へ踏み出していく。
「――まさか先客がいるとは思わなかった」
「…………あまり近くで見たいものでもない」
 同じく月明かりの下、立てた膝に荒っぽく肘をつき城を眺めたままの一人の青年が、無愛想に答える。軽装の彼の背後には無用心に剣が転がり、その少し手前で足を止めたクライトもまた遠景を眺め、
「本丸までは落ちないか……、これではまだ――」
 小さく眉を顰めていく。
 鹿林城にはもう炎は見えず、焼け崩れた二の丸が真っ黒く暗闇の中で浮いている。その黒が這い伝っていくように、薄暗い緑の平野には塊が黒く塗りつぶされた影になって散乱し、絶え間なく延々続いている。見下ろし、クライトは深い呼吸を飲み込むように重くなるばかりの瞼を閉じる。
「こんなものであるなら、彼女の言う通りアリスは戦うべきじゃなかった」
 青年がぽつりと独り言つ。
 アリス、とクライトは口の中だけで繰り返し、それからため息のような自嘲的な笑み漏らす。
「……戦うべきではないと、俺もそう言われた一人だ」
 背ばかりだった青年がふと顔を上げ、
「彼女は間違いなく正しかった」
 口調は強く、クライトは静かに目を見開く。
「なぜこんなものを望む? 俺はここでただ殺戮をしただけだ。勝ちも負けもない。なんてつまらない――。こんなものは、俺は耐えられない」
 横顔は平らな地面を更に鋭く睨みつけ、言い放つ。
 クライトの表情は硬直し、失われていく。
 月明かりは冷たく変わり、覆うすべての暗闇がのしかかってくる気すらする。立ち尽くすクライトは込み上げる渇いた笑いに、声もなく咽喉の奥を震わせ項垂れる。
 呟くように空気を嚙んで飲み込み、目を瞑り、息をする。胸の打つ鼓動に耳を傾けいくらか俯き、そしてクライトは清々しく顔を上げた。
 彼の口元は穏やかに弧を描いたが、しばらくしてそれは曖昧に霧消し、過ぎ去ったことのように、
「――俺には、どうするべきであるのかわからない。ここに立つ資格がないんだ」
 ただ冷静に述べ、その胸だけが押し込むように息苦しい。
浮かぶようにある青年の背が無言で彼の言葉を聞く。
「情けないことに、俺にとってこの王軍は家族に違いない。物心ついたときにはここにいて、最早あるのは家の名だけになったというのに、俺は変わらずここにいることを許してもらっている。だが俺は――」
 闇を眺める彼に表情はなく、穏やかな、しかし一方で淡白な口調のまま、
「こうしてしかとここに立ち、なんなくこの戦場を見下ろしている。こんなものに耐えうることが、どうして愚かでないという」
 口が閉じた後には、水面の行ったり来たりするようなゆったりと確かな沈黙が、輪を描くように広がっていく。そこに身を置き、クライトはもう一度小さく微笑みを浮かべる。
 沈黙の延長のように、
「名は……確か、アイと聞いている」
 青年の頭が僅かに上がる。点になって灯る遠い鹿林城の明かりから、クライトの視線は彼へと移り、くっきりと輪郭を持った声で、
「――頼みを、聞いてくれないか」
 闇のなか青年は――アイは初めて振り返る。


 室内灯が温かく照らす部屋、長椅子にもたれるアリスの瞼がゆっくりと閉じられる。
 まだ白い湯気が揺らめく紅茶を残し、ミオリは対のソファーから一人静かに立ち上がる。机の上の水差しを手に取り、廊下に続くドアへと急ぎそのままノブに手をかける。息を止め一瞬彼女は自身のその手を見詰め、だが一度の瞬きと共にドアを押し開く。
「――どうか致しましたか?」
 廊下の兵士は二人、近い一人が薄く開かれたドアの向こうのミオリを振り返る。
「お湯をいただけませんか? 切らしてしまって」
「ああ、これは気が回らず申し訳ありません。すぐにお持ちします」
 両手で丁寧に受け取り、一礼で兵士は廊下を駆けて行く。
 ミオリはもう一人の衛兵に控えめな会釈をしてドアを閉め、部屋のうちに数歩進んで足を止める。
 間を置くことなく、廊下で鈍く短い音が鳴る。
 次いで彼女の背後でドアが開き、意識のない衛兵を引きずり一人の、これも兵士のような格好をした男が部屋へと侵入する。
 顧みることなくミオリはゆっくりと歩いていく。羽織っていた裾の長い上着を脱ぎ、それを眠るアリスに丁寧に掛け、離すミオリの手は震えている。
「姫様、お早く」
 衛兵に縄をかけ終えた男が低い姿勢のまま言い、彼女の肩は微かに跳ねる。体の前で重ねられていた両の手は、それぞれを傷つけるほどに更に深く握られる。
 空気を嚙んだ口はもう一度、小さく開かれ、
「――申し訳ありません、アルディス様」

 短く二度、ドアは叩かれ、
「どおーぞ」
 書物から顔を上げることなく、ソファーにかけたジルは間延びした声で応じる。
 ドアは簡素に開け閉めされ、ちらりと視線を上げたジルのサングラスで燭台の火が踊る。
「よく来れたわね」
「これが多分最後。さすがにもう抜け出せそうにないわ――あら、リツくん寝てるの?」
 いくつかの燭台の火だけが照らす暗い部屋の、床にくっきりと延びた月明かりをなぞって彼女の視線は執務机に伏せたリツにたどり着く。
「あらほんと」
「気付いてなかったの? 可愛そうに、疲れてたんじゃない」
「まあここ数日は特に必至だったかもねえ」
「なかなか頑張ってるじゃない、この子」
「気に入った?」
 答えの代りに彼女は微笑んで、
「これかけたら起きちゃうかしら」
「さあ、どうでしょう」
 穏やかな笑みを返す彼に書類を手渡し、彼女はソファーの背に掛かった毛布を手にして、まるで動物を捕まえる時のような足取りでリツの背後に回っていく。そして彼女は大胆に、既に書類に視線を落としていたジルが思わずもう一度顔を上げるほど、ばさりと音を立て、リツの上に投げ広げるように毛布を被せて、心なしか弾んだ足取りでジルの向かいに座る。
「あれで起きないなんて、相当ね」
 ジルの呟きは聞こえなかったようで、彼女は改めてサングラス姿のジルを見て、
「夜に読むときぐらいとったら? 寝てるんだし」
「用心」
 いくらか不思議そうな顔をするも彼女は頓着はせずに、
「こっちの本隊がもう出立したわ。行き先は間違いなく条関城、鹿林城への援軍はなし。まさにこの子の読み通り」
 ソファーにもたれる彼女はリツを眺める。
 しん、と音の無い夜に射す月明かりが眩しげに小さく目を細め、そのまますこしぼんやりと、
「ねえ、この子もこっち側へ来るのかしら?」
 文字を追うジルの視線が止まる。小さく彼女を窺い、彼の口元は柔らかな笑みになる。
「……さあ、どうでしょう」
 答えたジルに彼女は楽しそうに笑いかけ、ジルがもう一度口を開きかけたところで突然、ドアが差し迫った音で叩かれる。
「開けてっ」
 必死の声は少女、ジルはちらりと視線でシェイラと確認をとってから、
「開いてるわ」
 ドアの開く慌しい音に伏したままのリツの指が僅かに動く。駆け込むアリスは酷く狼狽した息の詰まるような顔で辺りを見回し、そして机の上のリツを見る。
「どうしたの?」
 落ち着いた声で尋ねるジルの顔にも僅かな緊張が漂う。
「カナトが、カナトがいないのっ……それにミオリまで――」
 ガタリと音がして、
「あら起きたの?」
「すぐに城内の閉鎖を」
 鋭く緊迫した声の先、ジルの眺めた先でリツが苛立ちを眉に潜めて立ち上がる。
「ギーゼラは、」
「いま兵が知らせに行ってる」
 リツは頷き、
「とにかくそっちに――」
 言葉を潰し、更に激しくドアが打ち鳴らされる。
「急事にございます!」
 叫ぶ声にアリスが答え、駆け込む兵士が転がるように膝を突く。彼は音を立てて息を継ぎ、
「ハイデン様謀反にございますっ……!」
 黒い獣のように言葉はアリスの首に喰らいつく。
「――嘘よ、」
 空気を求めるように開いた口が呟き、彼女の膝は落ちていく。血色を失った面は人形のようにカクリと俯き、服を握る力で手だけが震えアリスはもう一度、嘘、と消え入りそうに声にする。
 立ち尽くし、しかしリツの顔に既に表情はなく、ただただその瞳は暗く冷静さを増していく。



[21440] Ⅵ-1
Name: ---◆b6852166 ID:b4cc31c2
Date: 2011/06/12 20:53
「手紙を届けてほしい」
「手紙……?」
 繰り返すアイにクライトが深く頷く。
「条関城のハイデン様に、クライトからだと伝えれば叶うと思うが、必ず直にお会いしてご本人にお渡ししてほしい。頼む」
 落ち着いた口調で述べて、クライトは洗練された動作で頭を斜にし、また上げる。浅い月明かりで対峙する瞳の真摯な重みに、見上げるアイの眉間が細く皺を刻む。
 表情の薄くクライトは、慎重に勘考するように瞳だけを無機質に俯かせてから、
「それから、もし王城に行くことがあるのなら、ミオリにも、口頭でかまわないから一言伝えてもらえないか」
「手紙ぐらい届ける。大切なことならそのほうがいい」
「いや、書くほどのことではないんだ」
 彼はすらりと視線を闇へ向かわせ、眉を難く黒い堅城を眺め見る。
「きっと彼女も理解している。ただ――、あいつとはずっと一緒に育ってきたせいか、感情が見え過ぎるときがある――」
 切り裂かれた風がアイをかすめ過ぎていく。蹄は軽やかにどんどんと地面を蹴り飛ばし行き、手綱を握り身を伏せて、揺れる馬上でアイは一人表情を深くする。
 まだ陽のないうちに出立し、ひたすら走って時はぐるりと回って、気付けば陽は沈みかけている。
 一面の田の真ん中を通る、高く積み上げられた広く平らな一本道を、まばらに歩く人を避け、馬は駆け抜ける。
「アイ! 見えてきた、条関城だ!」
 手前を駆けるミナキが顔だけで振り返り大声を上げ、また前に戻した彼の頭の向こうには、滲んだ陽を背に尖った城の天頂が山間の緑の中でくっきりと存在している。
「……何か変だ」
 静かなその森を眺め、顰めたまま表情でアイは呟く。横腹を蹴って更に速度を上げミナキに並び、
「急ごう、何かあるかもしれない」
「えっ、おいっ!」
 抜かし去り前に出たアイをミナキが慌てて追いかけて、勢いを落とすことなく二人は条関城大手門へと辿りつく。
 門は開け放されたまま、櫓にも人影はない。篝火が焚かれることもなく、広い馬出し場には荒廃した沈黙が横たわる。
「おかしいな……、俺の来たときはもっと人がいたんだけど……」
 戸惑いを眉に浮かべて二人は、馬を引いて更に進み入る。投げ出されたままの木片や武具や装備の残骸がところどころに残こり、紫色の空の光で長い影を引いている。
 足早に御殿の入り口へ壁づたいにぐるりと行き、それでも人の気配はなく、二つ目の角を曲がったところでようやく篝の火が向こうに現れ、
「あ! おーいちょっと!」
 馬屋の世話をしているのだろう、水桶を両手に提げて横切る兵士の姿を見つけミナキが途端に晴れやかに表情を変え、手綱を手放し駆け出す。
 驚いたように顔を向けた兵士はしかし、ミナキの軍装を確認し足を止める。ミナキに続いて歩いていくアイは、その様子を冷静な瞳のままで眺め見る。
「なんかあったのかこれ、なんでこんなに人がいないんだ」
 アイも追いつき、兵士は二人の格好をもう一度確認してから、聞いてないのか、と潜めた声で始める。
「昨晩ハイデン様が、兵を連れて城を出られたまま戻られていない……今王城じゃ大変な騒ぎになってるらしい」
「いない?」
 アイの表情にいくらか真剣みが増す。兵士も表情を硬く変え、
「謀反だよ。カナト様が攫われたんだ。ハイデン様がカナト様を擁して、謀反を起こしたんだ」
 アイの瞳が一気に開かれる。一瞬時の止まったように表情は固まり、彼はすぐにミナキを押しのけ兵士に詰め寄る。
「カナトが攫われた? 無事なのか、今どこにいる?」
 気迫に押されてたじろぐ兵士は一歩退き、波打つ跳ねた桶の水と一緒に縁に掛かかった雑巾が地面に落ちる。
「ハイデン様は、西方にご自身のお屋敷をお持ちだから、そちらじゃないか」
「それはどこにある。ミナキ、地図!」
 ミナキは懐から出し慌てて紙を開き、兵士が指差した西の山脈の手前に記された屋敷にアイは折り目をつけて自分の懐に仕舞う。
「助かった。行こう」
 言いながら彼は踵を返し、すぐに鐙に足を掛ける。
「ちょ、待てって」
 ありがと、とミナキは片手を上げて急ぎ足でアイを追い、馬に跨り去っていく二人の後ろ姿をぽかんとして見送った兵士は、機会的な動きで桶を置き、雑巾を拾い上げてその口元には薄っすらと暗い笑みが浮かぶ。
「俺はこのままその屋敷に向かう。ミナキはまっすぐ城に戻ってくれ」
「あ、ああ」
「屋敷にいなければ俺も城に戻る。なんとしてもカナトは守る」
 大手門を勢い良く駆け抜け、アイはすぐに西へと折れる。
 陽はもうなくなり、地平線沿いに薄っすらと紫の弧が残るのみ、ごく稀にすれ違う灯りを手にした人は皆、駆ける黒い影に目を丸くして振り返る。
 気付けば今夜は月がなく、漠然とした濃淡ばかりの行き先を彼は鋭く見定め、すっと瞼を細めたとき、その先にぼやりと、そしてすぐに燦燦と眩しく灯りが現れる。道の先は山間へと続く。その入り口、いくらか狭くなった場所には照る篝火と数人の兵士、奥には縦に連ねられた丸太が門となり壁のように行く手を塞ぐ。
 アイはひとつ舌打ちをする。
 ハ、と短い彼の掛け声で馬は更に速度を増し、響く蹄に兵士達の顔は序所に彼に向けられていく。いよいよその顔がはっきりと見えだす頃合に、アイを過ぎる風きり音には叫ぶ声がしきりに混じって、兵士の手にある槍はぎらぎらと光りながら次々に倒され切っ先が彼を捉える。
「おい、止まれ! 止まらないか! 手向かい致せば容赦は――」
 口々に叫ばれるのに目も呉れず、アイは一層頭を屈めて馬の背に張り付き、そして一気に身を起こす。
 兵士達の叫ぶ口がみるみる開かれていく。蹄鉄の叩く音はぱっと軽やかに途切れ、馬は悠々と泳ぐように彼らの頭上を過ぎていく。
 消失していた音がどっと押し寄せたのは馬が着地をしたのと同時、アイは見事に門を飛び越え、駆ける音は止まらない。
 彼の起こす風で流れるように葉が鳴り、視界の端で黒塗りの木々が捉える間も無くはけ続ける。
 音が放たれ風は一斉に弾けて、四方の開けた視界には小さく町の明かり、そしてその奥で重厚に構えた一際赤い篝火が屋敷城を囲む。ひっそりと人の無い町並みをアイは一心に進み、やがて町並みは退き、まるで線で引いたように判然と、暗く開らかれた向こう側には物々しく沈黙が敷き詰められている。斬り払うように、彼は身を低くしたまま一線を蹴り抜け、登る緩い丘陵で迎えるのは無数の篝火。大門を控えその手前、仮作りの土塁に並び設けられた木戸へアイは軽い音でもって馬をとめて飛び降りる。
「どこの者か?」
 詰める兵士は二人、その一方が疑念の覗く顔だけを向けて言う。
 粗暴な光の混じる瞳で、ぴりぴりと肌を掠める緊張感に対峙しアイは、
「ここにカナトとハイデンさんがいると聞いて来た。二人に会いたい、通してくれ」
「……どこの者かと聞いている」
「俺はどこの者でもない。だがカナトはアリスに、ハイデンさんはクライトに、大切なことを頼まれている」
 段々と早口になっていくアイの、クライトという単語を拾い兵士がぴくりと眉間をきつくする。
「どのような用件か」
「直接会うよう言われている」
 通してくれ、ともう一度言う口調は鋭く、険悪に睨み合った兵士の唇は攻撃的に引き結ばれたがそれは弧に結びつけられ、
「申し訳ないがそれでは通すことは出来ない。用件を告げる気がないのなら、直ちにお引取り願おう」
「通してくれと言っている」
 煮え立つような沈黙がぶつかり合う。もう一方の兵士は詰め所を振り返り、潜めた声で一言二言告げている。時を同じくして遠くアイの背後に忙しく複数の蹄の音が威圧的に迫り始め、兵士は彼から視線を外し打ち見ると、
「どうやら、お引取り願わずともよさそうだ」
 アイもそちらに耳をそばだて、大人しく傍らで佇んでいた駿馬を押し放つ。険悪に緊張感は高まり、荒々しい攻撃的な気性を纏い彼は苦々しくした表情で腰に手をやる、が、手は空を掴み思わず見やれば懐は丸腰、兵士は鼻で笑い、
「余計な真似はしない方が身のためだ。まあ、出来るものならな」
 アイは舌打ちで踏み出し、見計らったように兵士が槍を振るうのを、身を屈めてやり過ごす。更に踏み込もうとするアイに応じ、兵士は手元をすばやく戻して一瞬のうちにアイを捉え次打は襲い来る。速度と速度は一直線に真正面で迫り、切っ先が鼻先を掠める寸前、アイはひょいとかわし、握りこんだ拳で敵の懐を一突きし、怯んだ兵士の槍に手を掛けて彼を払いのけるように柄で打ち払い奪い取る。そのまま引き寄せ両手で掴み、振り下ろされた次の刀を左右の間で受け止める。食い込む刀の勢いは削がれ、しかし敵はなおも押し込みアイは飛び退き、彼の両手には真二つに斬り分けられた槍が残る。
 間髪入れず、アイは敵に視線を残したまま穂のついた一方は後ろへ投げつけ、鋭く地面に突き刺さった先では追撃の騎馬がけたたましく前足を上げる。
 目前の敵の一刀一刀を余すところなくかわし、アイはもう木片と変わりない柄で払い、打ち、ちらりとあっと言う間にぐるりと辺りを囲んだ兵士達を見やり苛立ちを噛み潰す。視界を開けるかのように一人を打ち負かし、屋敷へ向けて大声で、
「カナト無事なのか! ここにいるのか!」
 叫ぶ声は聳える壁を越え響き、壁の向こう側、外の廊下を行く一人の足がふと止まる。
 先を行っていた老婆も音に気付き振り返り、
「……なんでしょう、騒がしいですね」
 足は動くことなく、老婆に応じる言葉もない。小さく首を傾げながら老婆はもう一度、
「姫様? どうかなさいましたか?」
 だが彼女は、老婆に視線を戻すことなく、
「……この声――」
 小さく言う瞳は揺れる。息を押し詰めるように彼女は震える唇を静かに合わせ、しかしすと振り返った足は駆け出していく。
「カナト――」
「大人しくしろっ!」
 背後に振り下ろされた一太刀をかわし、アイは手にある刀よりも短い木片に合わせ深く踏み込み、咽喉を突き、乱雑に太刀を払い腕を打つ。左からの太刀を払い、前方を塞ぐ一人を倒し進める足はすぐに止まり、視界は再び塞がれる。
 振り回す腕は益々乱雑に、荒々しく奥歯を合わせた彼はかわしたその一刀の小手を難なく打ち、更に透かさず次打を入れて刀を地に叩き落とすと、当の敵は蹴り飛ばしのす。
 途切れずに襲い来る次の敵が、アイの投げつけた木片を打ち払う僅かなうち、彼は器用に蹴り上げて落ちた刀を手にし、構る瞳に冷たい光がすらりと入る。
 一瞬で単調な、ただただ殺伐ばかりの荒廃した緊張感が駆け巡り、だが攻撃の手は止まず敵の太刀筋を冷静に眺め、アイは鋭く刀を握り込む。
「お止めください!」
 ぱっとアイの瞳は開かれる。声に動作はぷつりと途切れ、彼は単純にぱちくりと瞬きをして退いていく兵士の中心を見、
「……ミオリ!」
「……なぜ、あなたが……」
 目の当たりにした戦闘の跡に絶句する彼女の表情は凍りつくようで、アイの眉間は深くなる。
「頼まれてきた。カナトがここにいるなら、俺はその無事を確認しなければならないし、ハイデンさんにも会わなければならない。それに、ミオリにも伝言を預かっている……」
 姫様、と兵士が警戒の声を上げるのを制止し、彼女は表情に重暗く冷静さを取り戻して、
「……アルディス様からですか?」
「クライトからだ」
 ミオリが小さく眉を寄せる。
 アイは刀を下ろして彼女に向き直り、
「ここを通してくれ。俺は約束を守りたい」
 塞ぐように伏せた瞳に重く影がのしかかる。



[21440] Ⅵ-2
Name: ---◆b6852166 ID:b4cc31c2
Date: 2011/06/12 20:56
 灯りを持つミオリの先は暗闇が隔て、直線を行く二人に靴はなくひっそりと、廊下を守る沈黙を破ることもない。
 落とした視線のうちで、彼女の影がぼんやりと浮き、また時折堅い板張りが冷淡な白で反射している。アイは一歩、また一歩、ゆっくりとそれを追いかけていく。
 暗闇の靄が薄っすらと肌を過ぎていくままに、彼の内で結ぶように馴染んでいくのを意識の端で冷静に感じながら、アイは徐に口を開く。
「入れてもらえそうになかったから、助かった」
「いえ」
 口だけで答える彼女の背は、無言で進む。
「カナトは無事で、ここにいるのか」
「はい」
「誘拐されたと聞いた」
「ご承知の通り、この国は三方に国境線を持っています。幾度も争われ、図られ、そしてようやく保たれいるのが今の勢力均衡の形です」
「うん」
「しかしその均衡も、東のフィオレダ国が台頭を始めた今、緊張の中にあり、私たちはまずこの国を守らなくてはなりません。国内で争うときではないのです、やむを得ません」
 同じ形のままの彼女の影を眺め、アイの瞳は暗い靄を負って小さく落ちていく。滔々と足だけがゆっくりと彼を運ぶ。
「君が、この戦いを望んでいなかったのは知っている。君の行っていた通りだった、あんな戦いに意味なんて何もない。だから俺はまた、何も言えない。……ただ――」
 胸の内は暗澹とするばかりで、重く息苦しい。迎合しかける目の前の暗闇を眺めたまま、ゆっくりと行く足はぽつりと途絶え、彼は俯き立ち止まる。
「君が変わってしまったようで悲しい」
 ミオリは振り返ることはしない。数歩先を行ったところで彼女は静かに足を止め、しかしアイを見やることなく、瞳は伏せたまま左方を示し、
「こちらへ」
 アイは無言で足を進め、彼女に従い部屋へと入る。
 踏み入れた先は幾らか柔らかく、藁の編まれた厚い敷物が床一面を占めている。広く横長の片一方の真ん中近いところへ彼は座り、入り口を閉めたその近く、彼よりも少し後ろにミオリは座る。
 床と壁と、そこに柱に埋まった柱の三色と、ほかになにもない殺風景な部屋を隅まで十分に、黙々と照らす灯りが二人の沈黙を許し、そして僅か時は過ぎる。
 つと、向こうの端の扉が開き、男性が一人、部屋のもう片一方へアイに対して腰を下ろす。
「待たせた。私がハイデンだ。手紙を預かっていると聞いているが」
 ハイデンは冷静な面持ちでアイをすらりと見定めてから、抑揚なく述べる。アイは取り出した手紙を膝の前に改め置き、
「クライトから、あなたに渡すようにと」
 進み出たミオリが受け取り、ハイデンの手に渡る。
 読み進める彼の表情に起伏は無い。最後まで読み終えると、また元のように畳み、側に控えるミオリに、
「クライトに何か伝えたのか」
 彼女が不意に、驚きの様相で眉を潜める。
「いいえ、何も」
 視線を宙に、ハイデンは飲み込むようなため息で口を結ぶ。彼を見るミオリは明らかな不安の色で顔を硬くし、薄く漂い始めた緊張にアイは僅かに表情を曇らせる。
 無言の焦燥で彼女が次を待つのに、ハイデンが表情難く口を開く。
「己の首を差し出すと言っている。王軍の解散と総督の首で、収束が成るよう取りなして欲しいと」
「――お父様……!」
 ミオリの表情は凍る。
「落ち着きなさい」
 窘めるハイデンは平静を崩すことなく言い、思考を働かすように視線を手前へ落とす。
「すべてを総督クライトの二心ありきのこととして、彼の処断である程度を反故にすることは出来る。勝利はなくとも完全な敗北もなくなる。彼は我々と、自身の価値を良く理解している」
 ハイデンはゆるりと目を閉じて、口元は幾らか弧を描く。瞬きと共にそれが消失すると、彼はアイに視線を据え、
「名はなんと言ったか」
「アイと言います」
 答える彼の背負うだだ広い奥行きが、ぐっと彼を浮き上がらせる。ほんの一息、クライトはアイを改めて見定めてから、
「君に、一筆頂きたい。私の名では届くものも届かないから、差出人は君と言うことにして欲しい。ミオリ、」
 彼は軽く目配せだけでミオリに指示をし、彼女が小さく頭を下げる。
「書面はすぐに上げる。少し待っていてくれ給え」
 アイが困惑を眉に乗せながら、頷いたのを見届けてから、
「こんなことで死ぬようでは困る」
 生真面目に言って、ハイデンは席を立つ。
 ミオリに促されるまま、彼女の後についてアイは再び暗い廊下を行く。つい先程までは、ただまっすぐだと思っていた廊下に、唐突に灯した光はぶつかり、道は折れる。
 それから数歩行った、先程よりは随分手近な、それでも二人で座るには広い、遠い壁際に飾られた花が鮮やかに咲く部屋に彼らは座った。
 案内を終えると彼女はすぐにまた、
「こちらで少しお待ちください。書面が出来上がり次第、お持ちいたしますので。今、御飲み物を」
 彼の斜むこうで終始顔を浅く伏せ、会釈でミオリは背を向ける。
 血の気のない首筋が目に痛く、アイは緩く、沈むように首を振る。
「君はもう休んだ方がいい。もう遅いし、書状なら……、うん、お手本だけもらえらえれば、ちゃんと書けるから」
 硬い微笑で彼が言う。床を擦る音が途切れ、しん、と沈黙に落ち、彼女は入り口に向かい立ち止まる。
「……クライトは私になんと」
 控えめな声は僅か震えている。
 アイの重く引いた唇はなかなか動かない。落とした視線は、澄んだまま難しく影がかかる。
「……かの人に従え、必ずお前を守ってくれるから」
 音も無く、彼女が呼吸を張り詰める。徐に開いた唇が、泡沫のように儚く浮き上がる彼女の声を連れてくる。
「クライトは、どれほどの覚悟であなたに託したのでしょう」
 上げかけていた手が、ドアに沿ってゆっくりと下りていく。
「いいえ、クライトだけではありません。父もまた、この国を守るために命を投げ出そうとなさっている――、この反逆は決して憎悪などではないのです、」
「わかってる。会えば、敵意であるかどうかなんてすぐにわかる。君だってそうだ」
 アイの声音が強くなる。
「本当にそうでしょうか?」
 肌を過ぎる冷たさが募るほどに、彼女の言葉を囲むようにはっきりとさせていく。
「私は、アルディス様を裏切りました。そこに覚悟なんてありはしなかったのです。何の覚悟を持つこともなく、ただただわがままに望みばかりを口にして……、どうして、守ることが出来たというのでしょう」
 抑えられた震えが、かすかに声を揺らす。しかし崩れることはなく、アイは思わず上げた顔を静かに戻す。
「辛いときは、泣いたほうがいい」
「許したくありません」
 彼女は緩やかに、はっきりと左右に首をやり、短い音で息を吸う。
「カナト様はもうお休みになっているので、後ほどご案内いたします。御飲み物と、もう出来上がっていると思いますので、御手紙を、取に行ってまいります」
 アイが、あっ、と彼女を見上げたのは既に遅く、入り口は塞がれる。
小さく持ち上がった左手がうらめしく、膝に戻して彼は一人拳を作った。


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