東日本大震災で親や祖父母など保護者が死亡・行方不明になった「震災遺児」は、推計で2000人を超えると言われる。あどけない表情を見せながらも、両親と姉を失った寂しさと向き合う小学2年生の男の子。全国大会での活躍を天上の母に届けるため、拳に力を込める空手少女。遺児たちの話に耳を傾けるボランティアの中には、阪神大震災で同じ悲しみを経験した女子大学生の姿もあった。過酷な試練に見舞われた子供たちは今、懸命に未来を切り開こうとしている。
5月下旬、辺見佳祐(けいすけ)君(7)=宮城県石巻市立湊(みなと)小2年=はすねていた。友だちの都合がつかず遊べなくなってしまったのが理由だ。「最近は友だちと遊ぶのが楽しみで楽しみで……」。伯母の日野玲子さん(51)が、ほほ笑みながら話した。
本棚には辺見家の家族4人の写真が並ぶ。写真に写る佳祐君の父正紀(まさき)さん(当時42歳)、母みどりさん(同49歳)、小学4年の姉佳奈さん(同10歳)は、もう戻らない。3人と祖母、日野みや子さん(同75歳)は大津波で命を落とした。
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正紀さんとみどりさん夫婦は自動車整備会社を経営していた。店舗兼住宅の1階が工場と事務所、2階で家族5人が暮らしていた。帰宅すると、いつもパパとママの姿があった。
3月11日の大津波は1階を破壊したが、2階まで届かなかった。正紀さん、みどりさん、佳奈さんは自宅にいれば無事だったかもしれない。だが、3人の遺体が見つかったのは同市内の車の中。日野さんは「小学校にいた佳祐ちゃんを車で迎えにいこうとして、津波に襲われたんじゃないか……」と推測する。
佳祐君は地震後のことを、どうしても思い出したがらない。震災発生後から数日間、避難所になっている湊小で1人で過ごした。佳祐君が避難していることを知った親戚が迎えにきた。「パパ、ママと会わせてよ」と泣き続けていた佳祐君を傷付けたくない一心で、親戚は「まだ病院にいるから会えないよ」と言うしかなかった。
「どこに行けばパパとママと会えるの」。問い続ける佳祐君を見た日野さんは決めた。「このままパパとママに会えるのを楽しみにしている方が悲しい」。仙台市内のアパートの自室に佳祐君を連れていき、「4人は津波で亡くなったんだよ」と告げた。佳祐君はその後、徐々に落ち着きを取り戻した。
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佳祐君が「うちに戻りたい」とこぼした一言で、日野さんは5月上旬、石巻市の佳祐君の自宅に2人で移り住んだ。佳祐君は2年生になった。がれきや車が散乱する町を、送迎バスで通学する。「好きな授業は図工だよ」とはにかみながら話す。時には「お姉ちゃんの持っていた物、全部おれのものだ」とおどけることもある。その姿を見て、日野さんは思う。「少しずつ、気持ちを切り替えようとしているのかもしれない」
将来の不安はある。家族が参加する運動会、子供の会話で家族の話題が出た時……。寂しい思いをしないだろうか。家族でなければできないこともあるはず。心配は尽きない。
パパとお風呂に入っていた佳祐君は「1人は嫌だ」と言い張る。そのまま寝てしまっては大変と、何とか言い聞かせて入浴させる。
日野さんは、妹みどりさんの忘れ形見、佳祐君を育てることを決めた。正紀さんとみどりさんと一緒に働いていた従業員を呼び寄せ、車整備会社を再開させたいと考えている。「未成年後見人」にも選任された。
「こんな子になってほしい」と思いを巡らせる余裕は、今はない。「元気でさえいてくれれば」。そう話す日野さんの目の先に、あどけない表情の佳祐君がいた。【宇多川はるか】
午後7時過ぎ、岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町の空手道場に、和田早希(さき)さん(10)と兄一希(かずき)さん(12)が、父一之(かずゆき)さん(49)に連れられてやってきた。
自宅を流され、3人は一之さんの実家に身を寄せている。今春、中学生になった一希さんは、サッカー部に入部。帰りは遅い。早希さんは1人で早めの夕食を取り、兄と父の帰りを待つようになった。「寂しいだろうなと思う。母親を亡くして、ほんのちょっと甘えん坊になったかな」。一之さんはまだ、二人の変化を見極められずにいる。
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訪問介護ヘルパーだった母〓子(きょうこ)さん(当時42歳)はあの日の朝、出勤前の一之さんに「今日は大槌町へ入浴介助に行く」と告げた。午後2時15分から1時間の予定だったと、後日、事業所の同僚から聞かされた。
翌3月12日、軽自動車で〓子さんを捜しに出かけた一之さんは、トンネルを越えた瞬間、雪に覆われたがれきや燃え尽きた街並みに絶句した。絶望的な気持ちで、町内の避難所を捜し回った。
子供たちには、何もかも話そうと決めた。お母さんは仕事で大槌へ出かけていたこと。その大槌は、津波で壊滅的な被害を受けたこと。どの避難所にも、姿がなかったこと。遺体安置所には泥まみれの顔が並んでいたこと。お友達のお父さんやお母さんが何人も亡くなったこと……。二人は真剣に、父の言葉に耳を傾けた。
翌日も、その翌日も、見たこと聞いたことをすべて子供たちに告げた。介護で訪れたはずの家が流され、近くに車だけが残っていたことも。震災から何日もたち、恐らくお母さんは助かっていないであろうことも。二人は励まそうとする大人たちを前に、「もうやめよう」と耳をふさぐこともあったという。
遺体が見つかったのは半月後。一之さんは警察からの連絡を受け、遺体安置所でその姿を確認した。
母親と対面した子供たちは、静かにその顔を見つめていたという。「涙は流したけれど、大きな声を上げて泣いたりすることはありませんでした。友達の母親が何人も亡くなっていることを話していましたから、自分たちだけじゃないんだと、あの子たちなりに受け止めたんでしょうね」
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「ありがとうございました」。午後9時、練習を終えた生徒は、指導員らに深々と頭を下げた。早希さんは、幼い5年生の顔に戻り、母親のことを尋ねられると、天井に顔を向け、目を潤ませた。
道場が再開したのは、5月上旬。28人の生徒は全員無事だったが、親戚の元に身を寄せたり、遠くの仮設住宅に入居したり、さまざまな理由で10人程にまで減った。県大会で優勝を競ってきた早希さんのライバルも、県外への引っ越しが決まり、通えなくなった。「別々の県で代表になって一緒に全国大会に出ようって誓ったの」。空手の話になると、快活さを取り戻す。
「目標は、黒帯を取ること。それまでは続けようって、お母さんと約束したから」。潤んだ瞳をくるくると動かした。【市川明代】
浴衣姿の幼い娘に笑顔で寄り添う女性。夏祭りを写した1枚のスナップ写真を見ながら「母は、どんな人だったんだろう」と想像してみる。
兵庫県三田市の甲子園大学3年、福井友利(ゆり)さん(21)は4歳のとき、阪神大震災で母幸美(ゆきみ)さん(当時31歳)を亡くした。西宮市のアパートが全壊。父と姉、そして友利さんは奇跡的に助かったが、幸美さんは帰らぬ人に。遺品は数枚の写真だけ。思い出も、自転車の後ろに乗り、買い物に連れて行ってもらった記憶しかない。
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5月下旬、遺児を支援する「あしなが育英会」の活動で、宮城県石巻市を訪れた。避難所には、泥まみれのアルバムが並べられていた。「津波は人の命だけでなく、大切な思い出さえも奪ったんだ」。言葉を失った。
石巻市内の体育館で開かれた遺児と交流する「つどい」で、津波で母親を亡くした中学3年の女子生徒に寄り添った。「声優になりたい」。女子生徒は、将来の夢や進路を話してくれた。福井さんが「誰と一緒に住んでるん?」とかけた一言で、女子生徒の目に涙があふれた。福井さんは、背中をさすり続けた。「親の死を受け入れるには、時間がかかるんやろな。自分もこうだったのかな」
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物心がつくと強い寂しさを感じた。「こないだ、お母さんと買い物に行ってさ」。友人が普通に母親の話をする。週末にある陸上部の試合には自分の家族は誰も来ない。「学校の友達には、きっと話しても分からない」。寂しさを胸の中に閉じ込めた。
中学生のころ、阪神大震災の遺児のケアのために、あしなが育英会が設立した「神戸レインボーハウス」で同じ境遇の友人と出会った。自分の体験を話すと、一緒に涙を流してくれた。寂しさが薄らいでいった。
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「今度は自分が、子供たちの寂しさを受け止めてあげたい」と、東日本大震災後、「東北レインボーハウス(仮称)」の建設に向けて募金活動をしたり、被災地の遺児と触れ合う活動に参加している。
「母はいないけれど、その代わりにたくさんの人に支えられてきた。私は、被災地の子たちと共に生きていきたい」。友利さんの思いは強い。【大沢瑞季】
遺児になった未就学の子供たちにとって、保育園などで日常的に接する保育士の存在は大きい。だが、親をなくした幼い子にどう接していくべきか悩む保育士も多い。日本ユニセフ協会と日本プレイセラピー協会は、被災地を巡回する保育士向けの研修会を開き、玩具を使って子供たちの精神的苦痛を和らげる「遊戯療法」や子供たちへの接し方を伝えている。
6月14日、宮城県石巻市の「ふたば保育所」で開かれた研修会には、市内の保育士約50人が集まった。講師を務める日本プレイセラピー協会の菊地菜穂さんは「親の死をタブーにしないこと。子供も気持ちの中できちんと別れの儀式をしないと悼むことができず、楽しかった思い出も封じ込めることになるんです」と保育士に話す。
同じく講師で臨床心理士の久保千晶さんは「悲しみは大人と同じ。でも未就学児は言葉が発達途上のため、体の動きや表情で示す」。子供の「遊び」は、大人の「言葉」と同様に、悲しみを表現するうえで重要な役割を果たすのだという。
会場にはたくさんの玩具が並ぶ。講師が、具体的な遊びの場面を示しながら説明する。中には、兵士や怪獣の人形もある。被災後の子供にとって刺激が強いと思いがちだが、兵士から自衛隊を連想して守ってもらえると安心したり、怪獣同士をぶつけ合って泣きたいつらさを表現するのに役立つのだという。
菊地さんは「『親は遠くに行った』『眠っている』といった表現は子供が混乱する。子供のそばにいる肉親や親戚と連携し、保育士も子供の親の死に正直に向きあうことが大切なんです」と話す。【鈴木梢】
厚生労働省は、「震災遺児」の全容を把握していないが、あしなが育英会の推計によると、2000人を超えるとみられる。同会の遺児を対象とした一時金への申請数はすでに1400人を超え、同会が把握する阪神大震災(95年)の遺児数573人を大きく上回っている。里親や支援金制度などの支援策が打ち出されているが、避難生活の混乱などから、申請されていないケースも多いとみられる。
厚労省は、東日本大震災で両親や一人親が死亡・行方不明となった18歳未満の子供を「震災孤児」、親など保護者のいずれかが死亡・行方不明となった子供を「震災遺児」と定義づけている。6月29日現在の震災孤児は218人で、県別では岩手県88人、宮城県111人、福島県19人。大半が親類の家で生活しており、厚労省ではおじやおばなど3親等以内の親族による「親族里親」制度の活用を呼びかけている。震災遺児は、「各県で調査をしているが、とりまとめのメドすら立っていない」(厚労省担当者)という。
一方、あしなが育英会によると、今回の震災で親が死亡・行方不明となった0歳~大学院生までを対象とする同会の特別一時金給付制度について、6月22日時点の申請は1443人。内訳は、死亡・行方不明となったのが「両親とも」が88人▽「父親(一人親の場合を含む)」が804人▽「母親(同)」が551人だった。同会の小河光治理事(46)は「父子家庭となった場合や、行方不明の場合で、声を上げていないケースがたくさんあると推測される。遠慮なく申請してほしい」と呼びかけている。【福田隆】
毎日新聞社会事業団(東京・大阪・西部)に集まった寄付金をもとに創設。東日本大震災で保護者(父や母など)が死亡・行方不明となり、経済的に困窮している生徒・学生の修学を支援する。対象は義務教育を終えた高校生、高等専門学校生、短大生、大学生、専修学校生で、給付枠は計50人程度。月額2万円を、11年度から、在学する学校の正規の最短卒業年度まで給付し、返還の義務はない。ほかの奨学金との重複受給もできる。受給者には、生活の様子を報告してもらい、毎日新聞などで紹介することもある。次年度以降は、卒業などにより空いた給付枠の分を募集し、現在中学生以下の遺児も高校進学時などに申請できる。寄金の総額に応じて、次年度以降、給付枠の人数や給付額の拡充も検討する。
毎日新聞 2011年7月1日 東京朝刊