トップ
|
ログイン
世に倦む日日
critic5.exblog.jp
本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
今日
昨日
since 2004.9.1
ご意見・ご感想
最新のコメント
NHK以外の日本のTVを..
by nyckingyo at 02:43
>佐々木毅はヘラヘラと笑..
by ゆたか at 22:11
昨日、佐賀県知事と玄界..
by カプリコン at 20:11
報ステの原発特集が始まっ..
by 本 at 19:02
若者のためにはなっていな..
by ゴンザレス at 09:41
岩手県民の私としては,..
by カプリコン at 21:26
知人とのやりとりを振り返..
by 33 at 23:45
知人の米国人から、日本で..
by 33 at 22:50
世代のこと(その2) ..
by ABCD at 02:56
最新のトラックバック
街かどでOne Shot..
from NY金魚
以前の記事
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
more...
since 2004.9.1
XML
|
ATOM
skin by
thessalonike5
広瀬隆の「自然エネルギー」批判 - 脱原発の二つの道
昨夜(6/30)の報ステの原発シリーズに
広瀬隆
が出演した。テレビに出るのは何十年ぶりだろう。このシリーズは、すでに10名ほどの発言を紹介しているが、広瀬隆についてだけは、前夜に古館伊知郎から特別に登板が予告された。視聴率が取れるからだ。広瀬隆がテレビに出ていたのは、今から20年以上も前、チェルノブイリ事故後に原発論議が盛り上がった頃である。そこから政治の流れがあり、広瀬隆は異端となり、時代から追放され、「トンデモ」のレッテルを左右から貼られて中傷と迫害を受け、マスコミと商業論壇から半ば忘れられた存在となった。今年、福島の事故があり、ネットの動画を検索する私の前に広瀬隆が姿を現したが、往年の印象とは全く違って、別人のような白髪の老人になっていた。無理もない。あれから20年以上も経っているのだ。人は年をとる。この番組の原発特集は、通常は発言者をスタジオに招いて撮影するのだが、広瀬隆の回だけは、自宅にカメラマンを呼んで、書斎の壁にパワーポイントをプロジェクターで投射したのを撮らせる手法で映像を作っていた。照明を落とした広い書斎が紹介され、庭の緑と夏の強い光が本人のバックに配置され、効果的で印象的な空間が演出されていた。広瀬隆らしいプレゼンテーションの企画であり、同時に、この特集制作に携わっているスタッフの映像のセンスがいい。映像の要素がこの特集の価値を上げている。
脱原発の論客は数多くいるが、やはり、広瀬隆の議論が最も説得力があり、その主張と提案が最も明快で切れ味がある。事故から3か月半、夥しい原発論議に接してきたが、私の目からは、エネルギー政策で広瀬隆を超える理論家は見当たらない。分析がクリアでシャープであり、ソリューションの論理がパーフェクトである。飯田哲也や金子勝と広瀬隆を分けるのは、何より、自家発電のGTCC(ガスタービン)への着目であり、脱原発までの時間工程の差である。自然エネルギーで原発を代替することを脱原発と定義する飯田哲也や金子勝の場合、脱原発の終点に到着するまで何年もかかる。電力全体の3割を自然エネルギーでカバーできるまで、原発への依存を続けなければならない選択となる。この方向は、実際には、経産省や大越健介と大差ない結果に導かれるのだ。広瀬隆は違う。まず原発を全基即停止すること。定期検査で止めた原発を再稼働させないこと。来年2月までに54基を全て止め、運転再開を許さず、そのまま廃炉させること。不足分の電力は、いま直ちに供給できる自家発電の火力(GT)で置き換えること。つまり、広瀬隆の脱原発は半年後に実現する政策である。自然エネルギー派(飯田哲也・金子勝)のスローで妥協的な脱原発とはその点が決定的に違うのであり、ラディカルでアグレッシブでストレートな脱原発だ。しかも、最もフィージビリティのある脱原発である。
脱原発はなぜ必要なのか。その目的と意味が広瀬隆と金子勝は違う。広瀬隆がそれを急ぐのは、次の大地震が確実に襲来するからであり、福島と同じ事故が全国の原発で再現するからだ。それを防ぐためだ。地震の揺れによる配管破断によって、どれほど予備電源の準備をしていても、原子炉の冷却材喪失事故は防げず、福島と同じ炉心溶融と水素爆発が起こるリスクは消えない。地震は安全対策の時間を待ってはくれず、次にどこで発生するかを国は予知できない。であるなら、すぐに全原子炉の運転を止め、核燃料棒を引き抜いてプールに保管する必要がある。金子勝の場合、その脱原発は事故回避ではなく自然エネルギーへの転換が主な動機になっている。自然エネルギー(風力と太陽光)を拡大普及させることが狙いで、事故回避は二の次という論理的順序になっている。すなわち、始めに自然エネルギーありきの脱原発だ。だから、原発の即時全基停止を求めず、5年10年の移行期間を認めてしまうのである。われわれは、どちらの脱原発が適当なのか判断する必要があり、自然エネルギー重視のスローな脱原発にするのか、自家発電火力で代替するラディカルな脱原発にするのか、二者択一の政策的立場の選択をしなければならない。私は後者の立場に立つ。その理由は、政策で最も重視されなければならないのは、国民の生命と財産の安全であり、国民の生活と権利を守ることだからだ。
自然エネルギーについての広瀬隆の評価は面白く、参考になる論点が多い。その説明を受けると、今日、自然エネルギーがあまりに物神崇拝されて一人歩きしている思想状況を考えさせられる。広瀬隆の自然エネルギー批判は、集英社新書『
二酸化炭素温暖化説の崩壊
』の「あとがき」の部分(P.216-222)で短く要約されている。前にも紹介したが、あらためてその議論を整理してみたい。自然エネルギーの相対化へと啓発される主張が三点ある。第一に、水力の問題である。自然エネルギーというのは、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマスによる発電であり、菅直人の
再生エネルギー法案
にもそう規定され列挙されている。水力が入っている点に注目する必要がある。水力発電は自然エネルギーなのだ。ここで、われわれは違和感を覚えるだろう。善玉である「自然エネルギー」の中に、悪玉である「水力」が入っている。水力発電とは、まさに八ッ場ダムと河辺川ダムであり、環境破壊の無駄な公共工事のシンボルであり、われわれは「脱ダム」と「コンクリートから人へ」の政策転換によって止揚したはずの過去のエネルギー政策だったはずだ。その欺瞞(表象と意味の二重性)を広瀬隆は鋭く衝いている(P.216)。暴露している。この指摘は重大だ。水力は再生可能な自然エネルギーなのである。しかし、同時に自然破壊の公共事業でもあるのだ。水力は善なのか悪なのか。この問題は、第二の論点である風力批判と視角が繋がる。
風力は水力と同じく自然破壊の公共事業ではないか。これが広瀬隆の自然エネルギー批判の第二である。風力は巨大な設備であり、しかも、それは海岸線や山の稜線に林立させられる。その結果、自然の景観が損なわれ、騒音被害が発生し、低周波振動が原因で住民に健康被害が出るという公害問題まで報告されている。現在、自然エネルギーが礼讃され、その普及が国是のようになって過熱する状況の中で、風力のこうした否定的側面は無視され、科学的に評価検討されていない。風力の装置が林立することによって、間違いなくその土地の自然環境は壊される。現在は、風力が一面的なプラスシンボルとなっているために、人の意識が自然破壊を自然破壊として認めていないだけだ。さらに、広瀬隆は、風力発電が「地産地消」でない点も問題視している。同感だ。現在、風力が設置され動いている場所は、ほぼ例外なく都会から離れた過疎地であり、町おこしで半実験的に事業している。そうした僻地で電力を生産し、長い送電線でロスを出しながら都会の消費地に送っている。これは、原発と同じであり、水力と同じだ。「地産地消」の考え方から選べば、最も整合的な電力は火力(ガスタービン)だろう。猪瀬直樹ですらそう言っていた。「自然エネルギー」という言葉に惑溺する前に、「地産地消」をエネルギー政策の指針として考えるべきで、風力の設備を置くなら、景観を壊さない海の上、例えば犬吠埼沖の洋上に限定するべきだろう。
第三に、太陽光についてだが、太陽光で原発1基分の電力を生産しようとすると、山手線の内側の面積にソーラーパネルを敷き詰める必要があると言われている。太陽光は効率とコストがネックだ。孫正義は、全国の休耕田40万ヘクタールにメガソーラーを設置する「
電田プロジェクト
」構想を打ち上げているが、こうした大規模な太陽光発電の国土計画について、広瀬隆は、「
一体、日本の電力をまかなうのにどれほど広大な自然界の土地を、太陽電池が占領することになるだろうと想像すると、ぞっとする
」(P.218)と言っている。同感する。東京に電力を供給するために、何で地方の自然を破壊し、農業する土地を電力の工場に変えなければならないのか。休耕田は飼料米の生産に使うべきで、日本の農業と農家を再建する基盤として必須である。東京で消費する電力は東京で生産するべきで、リスクも東京が引き受けるべきで、エネルギーに開しては、地方に頼ったり押しつけたりするべきではない。こうした国家プロジェクトが始まると、間違いなく公共事業で利権が絡み、原子力村の二の舞になるのは目に見えている。私は、太陽光は基幹的なエネルギーとして位置づけるよりも、むしろ補助的なエネルギーの役割を担わせるべきで、小規模分散の発電・蓄電の汎用装置を開発し、小口需要者による自給自足的な利用形態を考えるべきだと思う。メガソーラーを商用発電の主力にするという政策は、無理に拙速に推進しなくていいのではないか。太陽光発電のカギはパネルのエネルギー効率の技術革新だろう。それには時間がかかる。それまでは、ガスタービンの性能向上を徹底追求し、送配電開放と競争で電力コストを下げることを考えるべきだ。
by
thessalonike5
|
2011-07-01 23:30
|
東日本大震災
|
Trackback
|
Comments(
0
)
トラックバックURL :
http://critic5.exblog.jp/tb/15865593
トラックバックする(会員専用)
[
ヘルプ
]
名前 :
URL :
非公開コメント
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード
< 前のページ
昔のIndexに戻る
次のページ >
ブログパーツ
世に倦む日日
Google検索ランキング
下記のキーワード検索で
ブログの記事が上位に 出ます
NHKスペシャル 激論2009
竜馬がゆく
花神
世に棲む日日
翔ぶが如く
燃えよ剣
王城の護衛者
この国のかたち
源氏物語黄金絵巻
セーフティネット・クライシス
本田由紀
竹中平蔵
皇太子
江川紹子
G20サミット
新ブレトンウッズ
スティグリッツ
田中宇
金子勝
吉川洋
岩井克人
神野直彦
吉川元忠
三部会
テニスコートの誓い
影の銀行システム
マネー敗戦
八重洲書房
湯浅誠
加藤智大
八王子通り魔事件
ワーキングプアⅢ
反貧困フェスタ2008
サーカシビリ
衛藤征士郎
青山繁晴
張景子
朱建栄
田中優子
三田村雅子
小熊英二
小尻記者
本村洋
安田好弘
足立修一
人権派弁護士
道義的責任
古館伊知郎
国谷裕子
田勢康弘
田岡俊次
佐古忠彦
末延吉正
村上世彰
カーボンチャンス
舩渡健
秋山直紀
宮崎元伸
守屋武昌
苅田港毒ガス弾
浜四津代表代行
ガソリン国会
大田弘子
山本有二
永岡洋治
平沢勝栄
偽メール事件
玄葉光一郎
野田佳彦
馬渕澄夫
江田五月
宮内義彦
蓮池薫
横田滋
横田早紀江
関岡英之
山口二郎
村田昭治
梅原猛
秦郁彦
水野祐
ジョン・ダワー
ハーバート・ノーマン
アテネ民主政治
可能性の芸術
理念型
ボナパルティズム
オポチュニズム
エバンジェリズム
鎮護国家
B層
安晋会
護憲派
創共協定
二段階革命論
小泉劇場
政治改革
二大政党制
大連立協議
全野党共闘
民主党の憲法提言
小泉靖国参拝
敵基地攻撃論
六カ国協議
日米構造協議
国際司法裁判所
ユネスコ憲章
平和に対する罪
昭和天皇の戦争責任
広田弘毅
レイテ決戦
日中共同声明
中曽根書簡
鄧小平
国民の歴史
網野史学
女系天皇
呪術の園
執拗低音
政事の構造
悔恨共同体
政治思想史
日本政治思想史研究
民主主義の永久革命
ダニエル・デフォー
ケネー経済表
価値形態
ヴェラ・ザスーリッチ
李朝文化
阿修羅像
松林図屏風
奈良紀行
菜の花忌
アフターダーク
イエリネク
グッバイ、レーニン
ブラザーフッド
岡崎栄
悲しみのアンジー
愛は傷つきやすく
トルシエ
仰木彬
滝鼻卓雄
山口母子殺害事件
ネット市民社会