中国政府も「教育」しきれなかった「酒乱船長」後日談
フォーサイト 6月21日(火)17時8分配信
昨年9月に尖閣諸島周辺で起こった海上保安庁の巡視船と中国漁船の衝突事件。当時、船長は不起訴(起訴猶予)となり凱旋帰国したが、4月に那覇検察審査会は「起訴相当」と議決。一方、船長は5月に香港紙の取材に対し、「巡視船が突然ぶつかってきた」と“爆弾証言”した。事件の真相とその後の経緯を改めて振り返る。
*
「仕方ない。早速、煙草代を差し入れさせましたよ」――中国国務院(中央政府)の中堅幹部は、呆れ果てた口調で打ち明けた。昨年9月7日、海上保安庁の巡視船に衝突し翌8日未明に逮捕された中国漁船のセン其雄・船長は、既に伝えたように「習慣性酒精中毒(アルコール中毒)」であるばかりか【尖閣問題“燎原の火”を点けた「酒乱船長」の暴走】 、実は1日5箱(100本)吸う、重度の「尼古丁中毒(ニコチン中毒)」でもあった。
逮捕当日の8日午後、東京の大使館と福岡総領事館から現地入りした中国の大使館員らに、船長は「煙草を吸いたい」と訴えた。沖縄県警八重山署に身柄を移された船長は「署の規定で取り調べ中は午前と午後に1本ずつ、土日は1本も吸えないと言われ、いらだっていた」ため、大使館員は、署員に現金を手渡し、煙草購入を依頼したという。
■大使館をあわてさせた船長の一言
もちろん「不法に拘束された中国公民を保護」するためだけに、急いで煙草代を差し入れたわけではない。実は、8日午後の最初の面会の際、船長がふと漏らした一言が大使館員らを緊張させ、不安に陥れていたのだ。
「なんか、よく憶えていないけど紙にサインしたような……」
大使館は北京の外交部とも調整した上、面会前に船長への2つの指示を練り上げていた。「(1)釣魚島(尖閣諸島)は古来、中国の領土であり、船長が身柄を拘束された海域は中国の領海。中国漁船の操業になんら問題はなく、漁船の行動は完全に正常だった。巡視船の行為こそが違法である」。船長は、黙ってうなずいた。しかし続けて「(2)したがって日本側が求める事実確認には一切、同意してはならない。自らが過ちと認めないなら、サインや拇印捺印など、もってのほかだ」と伝えた瞬間だった。船長は今朝何かの紙にサインしたことを明かし、「だって船をぶち当てたのは事実だから」とつぶやいたのだ。
「一足遅かったか!」――大使館員らは声を荒らげ、船長に迫った。「領有権を巡っては、あくまで論争を棚上げしただけ。主権は明確に中国に属し、当該海域に日本の主権は及ばない。我が国は、絶対に日本の国内法の行使や司法管轄権を認めるわけにはいかない」。
ところが、日中間の論争など何も知らず、憔悴しきっている船長に、複雑で堅苦しい話は通じない。泥酔から覚め、緊張も重なって朦朧としていた。北京への報告によると、大使館は「(面会)以前の発言は、すべて無効だと主張せよ」「とにかく“釣魚島は中国の領土、我々は正常に操業していた”と繰り返せ」「ペンは握るな、机の上に指は出すな」と念押ししたそうだ。
■香港紙に突如掲載されたインタビュー
前原誠司国土交通相、岡田克也外務相ら事件当時の日本政府首脳は、当初から「国内法に基づいて粛々と処理する」方針を掲げていた。公務執行妨害容疑で逮捕された船長が、仮に調書に同意してサインし法廷で有罪が確定すれば、中国政府の立場は苦しくなる。大使館員らはアルコールとニコチンの二重中毒の禁断症状にいらだつ船長が何を言い出すか不安を強め、煙草を差し入れて落ち着かせたうえ、連日面会し、無知な船長への「教育」(先の中堅幹部)に全力を挙げたのである。
9月25日未明、中国政府が派遣したチャーター機に乗せ“凱旋帰国”を演出してから今にいたるまで船長を監視下に置き、外出を控えさせているのは無理もない。「自らの船より大きな巡視船に体当たりするなんて……酔えば何をしゃべりだし、しでかすか分かったもんじゃない」と関係幹部らは、いまだ警戒を解いていない。
ところが5月23、24と2日続けて香港の有力紙「明報」が船長の単独インタビューを掲載、「彼ら(巡視船)が突然、進路を変更、ぶつかってきた」との発言を伝えた。船長は日本から福建省の自宅に戻った際、母親に「(日本側から)暴力は受けていない」と答えていたが、その前言を「母を心配させたくなかったから」と翻し、「こん棒で殴られたり、蹴られたり」「早くサインしろ、拇印を捺せと夜も寝かせられないで取り調べられた」と新たな“爆弾証言”をした。取り調べの最終段階では、「もし銃に撃たれるか、サインするか選べと迫られても、サインするくらいなら撃たれた方がましだ」と言い放ち、断固として日本側の要求を突っぱねたという。言いたい放題である。
■現在も続く政府の監視
ただし、「政府は(私が)外出するのを嫌がる」と語り、現地当局から「村から一歩も出るな」と厳命されたという船長の証言は目を引く。船長はさらに「帰国後1カ月間は現地警察が24時間体制で監視、今でも毎日、見回りに来る」「ずっと(世間から)隔離されている」と嘆いている。そのおかげで収入は途絶え、今や借金暮らしだという。帰国の際、沿道にアドバルーンを上げ鼓笛隊も含め地元総出でパレードした“抗日英雄”らしからぬ実情をぶちまけたのである。
苦笑を禁じえなかったのは、いらいらして「酒を飲み、1日に4箱も煙草を吸うようになった」との発言。以前は1日に5箱も吸っていたのだから、むしろ節煙だろうと茶化したくなる。筆者は、中国当局も苦労しただろうと推察する。帰国から8カ月以上経っても、「気骨ある抗日英雄」を演じ切れるようには船長を「教育」できなかった。「明報」紙が指摘するように、船長は「認識的字不多(=あまり文字を知らない)」、つまりロクに字も読めないのだから「教育」は並大抵ではない。隔離せざるをえなかったのだ。
■日中首脳会談翌日というタイミングが意味するもの
妄言の中身より見逃せないのは、5月初めに行なわれたインタビューが、日中韓首脳会談のために来日した温家宝首相と菅直人首相が「海上での危機管理に向けた連絡メカニズム構築で一致」した翌日というタイミングで発表されたことである。
思い起こして欲しい。2008年12月8日、5日後に予定する初の日中韓首脳会談を狙い澄ましたかのように、中国国家海洋局の調査船が9時間半にわたり尖閣諸島沖の日本領海を「侵犯」した事実を。
当時、海軍元首脳の1人は筆者に豪語していた。「お国の出動態勢を見極めましたよ」。しつこく聞いても軍事機密だからと詳細は明かさなかったが、かたわらの秘書が一言だけ補足してくれた。「日本の海上警備体制のパターンを徹底分析し、“すき”を見定めた」ということらしい。勝ち誇ったように、「今後は以前より“順利(スムーズ)”にお邪魔しますよ」と大笑していたのだ。
厄介ごとを恐れる国務院が禁足令を敷き監視下に置く船長を、なぜ「明報」紙は現地で単独インタビューできたのか。海軍元首脳はじめ複数の軍幹部は「私は知らない」と口をそろえるなか、党中央の中堅幹部の1人が「中南海の噂レベルですけど……」と明かした。
「我が国には、領土主権を護持するためには、紛争の火種を絶やさず、必要ならば時に炎上させてもよいと主張する、決して小さくない力を持っている方々がいます」「しかも、彼らは温首相との折り合いが悪い。党中央軍事委員会主席として統帥権を握る胡錦濤総書記にはたてつけないけれど、温首相には領土紛争で妥協はありえないと圧力をかけ続けている。もちろん温さんだって、したたかだ。こと主権や領土に関わるテーマで弱腰と見なされれば、政治的な足場が揺らぐのは十分承知している。逆に強硬な姿勢を示した場合、外交交渉に多少のしわ寄せはあっても、自らの親民イメージは傷つかない。軍事力のみならず、総合国力が増大する我が国にとり、すぐに片付かない問題を当面、時間稼ぎして先送りするのは、極めて有効な対外戦術なのです」。温首相と強硬勢力は、結果的にもちつもたれつ、役割を分担している節もうかがえるという。「彼らは明報取材にも陰で協力したそうです。もっとも、訪日前にぶちあげたかったのが、離日翌日になったのは明報紙の賢明なる判断ですね」。
■「ダブル中毒」に振り回された両国
事件の余波は、日本でも収まらない。那覇検察審査会は4月18日、セン船長を不起訴(起訴猶予)としたことについて「(海保巡視船の)損傷は軽微とはいえず、人命を危険にさらす行為であったことは否定できない」とし、「起訴相当」と議決した。船長を釈放する際、那覇地方検察庁が「今後の日中関係を考慮した」と説明したように、釈放は司法の論理を超えた判断だった。遅ればせながらとはいえ、司法の論理に沿えば審査会の議決は当然だろう。
だが、忘れてはならない。日本政府は前原・前外相(事件当時は国交相)を筆頭に、「ダブル中毒」の果てに暴走した船長を血祭りに上げ、「国内法に基づいて粛々と処理する」とおうむ返しを続けたのだ。
「なぜ、あんな船長に国運をかけたのですか?」。国務院の別の幹部は最近、述懐した。「日本当局は、何を血迷ったのか――我が国に外交戦を挑むなら、もう少し政治的な背景や意図を探り、本気でお国(日本)の主権を蹂躙しようとする確信犯を捕らえるべきでしょう。日本の政治家は、あまりに幼稚だ」
事件解決に関わり自らも船長に振り回されただけに、実感がこもる。「あんな“流氓=チンピラ”船長を、英雄に祭り上げてしまった。外交に不可欠の一幕の劇だとは分かるけど、ほとほと辟易した」と吐露し、「事件の核心は、国内司法の問題ではなく国際政治の紛争という視点を、日本政府が一貫してわざと無視したことだ」と、日本政府への不信・不満を述べた。
「だからこそ」と続けた幹部は、やや感情的にまくし立てた。「船長は海上民兵とか現役の軍大佐だといった噂を放置し、挙げ句の果てに、海に転落した巡視船乗組員を漁船から銛でつこうとしたと、根拠のないネット上の戯言を、かつて運輸相(現・国土交通相、海保を管轄)を務めた石原都知事までが公然と会見で述べたり……船長と漁船の極悪非道ぶりを際立たせ、ひいては中国を悪魔化する方向へ日本政府は世論を誘導した」。日本が主張したように、国内司法の問題なら加害者被害者の立場は明白。だが、ことは国際政治の最前線で起きた。どちらが加害者か被害者か言い分は永久に交わらないし、双方が被害者に陥るケースだって珍しくない。今回の事件は、典型だろう。
■主導権を握ろうとする中国
かねて「両国ともに被害者であり、敗者だったかも知れない」と訴えていた前出の国務院中堅幹部も、嘆息する。「たった1人のダブル中毒に2大国が振り回された」「中日関係の基盤は、かくも脆いのですねぇ……」――。2人は一致して、「ことに、双方の国民感情が爆発してしまったら本当に厄介だ」と強調し、「あれだけは反省しなければならない」とある打ち明け話をした。
中国が船長の無条件釈放を求め矢継ぎ早に打ち出した対日対抗策のなかに、温首相自身が提案した日本の青年1000人の上海万博招待の延期も含まれていたが、それに対し即座に中堅若手幹部を中心に反対の声が広がったのだという。「せっかく中国のファンになってくれる可能性の高い若者なのに……」「対日強硬の世論に押されて、やや程度を踏み外してしまった。重要な教訓だ」とまで語ったのである。こうした声を受けたのだろう。温首相も、船長釈放後は対日対抗措置から真っ先に青年招待を外して早急に再調整するよう命じ、やや規模は縮小されたが青年訪中団は10月28日、閉幕間際の万博会場に足を運べたのだった。
「国民感情を制御できないのは、貴国も我が国も同じですよ」と幹部らは苦笑いする。しかしながら筆者は、本来なら領海侵犯に歯止めをかけるために対中攻勢に出ていたはずの日本政府が一転、対日強硬措置に慌てて受身の姿勢に退いた事実に注目したい。国交回復以来、最低に陥った両国関係もその後の関係改善も、中国側は一貫して主導権を握ろうとしていたのである。
5月21日、来日した温首相は、東日本大震災で被災した宮城県、福島県を訪れ、膝を突いて被災者を励ました。温首相は「訪問は自ら決定した」と述べ、日本政府の意向とは無関係であることを強調、国内政局の得点稼ぎに利用しようとした菅首相らの思惑には乗らない姿勢を打ち出し、得意の「親民」ポーズを振りまいた。米中関係に比べ、もともと危機からの復元力が乏しいといわれる日中関係だ。今後も中国は対日主導権を強化しようと、折を見て揺さぶりをかけてくるだろう。振り上げた拳を下ろせないまま、最後には検察当局に丸投げした日本政府の逃げ腰は、中国向け一辺倒だった日本国民の不満の矛先を、自らの政府にまで向かわせた。しかも、その日本政府首脳の口から「反省」や「教訓」を語る声が聞こえない。危惧を覚えるのは、筆者だけだろうか。
ジャーナリスト・藤田洋毅 Fujita Hiroki
Foresight(フォーサイト)|国際情報サイト
http://www.fsight.jp/
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「仕方ない。早速、煙草代を差し入れさせましたよ」――中国国務院(中央政府)の中堅幹部は、呆れ果てた口調で打ち明けた。昨年9月7日、海上保安庁の巡視船に衝突し翌8日未明に逮捕された中国漁船のセン其雄・船長は、既に伝えたように「習慣性酒精中毒(アルコール中毒)」であるばかりか【尖閣問題“燎原の火”を点けた「酒乱船長」の暴走】 、実は1日5箱(100本)吸う、重度の「尼古丁中毒(ニコチン中毒)」でもあった。
逮捕当日の8日午後、東京の大使館と福岡総領事館から現地入りした中国の大使館員らに、船長は「煙草を吸いたい」と訴えた。沖縄県警八重山署に身柄を移された船長は「署の規定で取り調べ中は午前と午後に1本ずつ、土日は1本も吸えないと言われ、いらだっていた」ため、大使館員は、署員に現金を手渡し、煙草購入を依頼したという。
■大使館をあわてさせた船長の一言
もちろん「不法に拘束された中国公民を保護」するためだけに、急いで煙草代を差し入れたわけではない。実は、8日午後の最初の面会の際、船長がふと漏らした一言が大使館員らを緊張させ、不安に陥れていたのだ。
「なんか、よく憶えていないけど紙にサインしたような……」
大使館は北京の外交部とも調整した上、面会前に船長への2つの指示を練り上げていた。「(1)釣魚島(尖閣諸島)は古来、中国の領土であり、船長が身柄を拘束された海域は中国の領海。中国漁船の操業になんら問題はなく、漁船の行動は完全に正常だった。巡視船の行為こそが違法である」。船長は、黙ってうなずいた。しかし続けて「(2)したがって日本側が求める事実確認には一切、同意してはならない。自らが過ちと認めないなら、サインや拇印捺印など、もってのほかだ」と伝えた瞬間だった。船長は今朝何かの紙にサインしたことを明かし、「だって船をぶち当てたのは事実だから」とつぶやいたのだ。
「一足遅かったか!」――大使館員らは声を荒らげ、船長に迫った。「領有権を巡っては、あくまで論争を棚上げしただけ。主権は明確に中国に属し、当該海域に日本の主権は及ばない。我が国は、絶対に日本の国内法の行使や司法管轄権を認めるわけにはいかない」。
ところが、日中間の論争など何も知らず、憔悴しきっている船長に、複雑で堅苦しい話は通じない。泥酔から覚め、緊張も重なって朦朧としていた。北京への報告によると、大使館は「(面会)以前の発言は、すべて無効だと主張せよ」「とにかく“釣魚島は中国の領土、我々は正常に操業していた”と繰り返せ」「ペンは握るな、机の上に指は出すな」と念押ししたそうだ。
■香港紙に突如掲載されたインタビュー
前原誠司国土交通相、岡田克也外務相ら事件当時の日本政府首脳は、当初から「国内法に基づいて粛々と処理する」方針を掲げていた。公務執行妨害容疑で逮捕された船長が、仮に調書に同意してサインし法廷で有罪が確定すれば、中国政府の立場は苦しくなる。大使館員らはアルコールとニコチンの二重中毒の禁断症状にいらだつ船長が何を言い出すか不安を強め、煙草を差し入れて落ち着かせたうえ、連日面会し、無知な船長への「教育」(先の中堅幹部)に全力を挙げたのである。
9月25日未明、中国政府が派遣したチャーター機に乗せ“凱旋帰国”を演出してから今にいたるまで船長を監視下に置き、外出を控えさせているのは無理もない。「自らの船より大きな巡視船に体当たりするなんて……酔えば何をしゃべりだし、しでかすか分かったもんじゃない」と関係幹部らは、いまだ警戒を解いていない。
ところが5月23、24と2日続けて香港の有力紙「明報」が船長の単独インタビューを掲載、「彼ら(巡視船)が突然、進路を変更、ぶつかってきた」との発言を伝えた。船長は日本から福建省の自宅に戻った際、母親に「(日本側から)暴力は受けていない」と答えていたが、その前言を「母を心配させたくなかったから」と翻し、「こん棒で殴られたり、蹴られたり」「早くサインしろ、拇印を捺せと夜も寝かせられないで取り調べられた」と新たな“爆弾証言”をした。取り調べの最終段階では、「もし銃に撃たれるか、サインするか選べと迫られても、サインするくらいなら撃たれた方がましだ」と言い放ち、断固として日本側の要求を突っぱねたという。言いたい放題である。
■現在も続く政府の監視
ただし、「政府は(私が)外出するのを嫌がる」と語り、現地当局から「村から一歩も出るな」と厳命されたという船長の証言は目を引く。船長はさらに「帰国後1カ月間は現地警察が24時間体制で監視、今でも毎日、見回りに来る」「ずっと(世間から)隔離されている」と嘆いている。そのおかげで収入は途絶え、今や借金暮らしだという。帰国の際、沿道にアドバルーンを上げ鼓笛隊も含め地元総出でパレードした“抗日英雄”らしからぬ実情をぶちまけたのである。
苦笑を禁じえなかったのは、いらいらして「酒を飲み、1日に4箱も煙草を吸うようになった」との発言。以前は1日に5箱も吸っていたのだから、むしろ節煙だろうと茶化したくなる。筆者は、中国当局も苦労しただろうと推察する。帰国から8カ月以上経っても、「気骨ある抗日英雄」を演じ切れるようには船長を「教育」できなかった。「明報」紙が指摘するように、船長は「認識的字不多(=あまり文字を知らない)」、つまりロクに字も読めないのだから「教育」は並大抵ではない。隔離せざるをえなかったのだ。
■日中首脳会談翌日というタイミングが意味するもの
妄言の中身より見逃せないのは、5月初めに行なわれたインタビューが、日中韓首脳会談のために来日した温家宝首相と菅直人首相が「海上での危機管理に向けた連絡メカニズム構築で一致」した翌日というタイミングで発表されたことである。
思い起こして欲しい。2008年12月8日、5日後に予定する初の日中韓首脳会談を狙い澄ましたかのように、中国国家海洋局の調査船が9時間半にわたり尖閣諸島沖の日本領海を「侵犯」した事実を。
当時、海軍元首脳の1人は筆者に豪語していた。「お国の出動態勢を見極めましたよ」。しつこく聞いても軍事機密だからと詳細は明かさなかったが、かたわらの秘書が一言だけ補足してくれた。「日本の海上警備体制のパターンを徹底分析し、“すき”を見定めた」ということらしい。勝ち誇ったように、「今後は以前より“順利(スムーズ)”にお邪魔しますよ」と大笑していたのだ。
厄介ごとを恐れる国務院が禁足令を敷き監視下に置く船長を、なぜ「明報」紙は現地で単独インタビューできたのか。海軍元首脳はじめ複数の軍幹部は「私は知らない」と口をそろえるなか、党中央の中堅幹部の1人が「中南海の噂レベルですけど……」と明かした。
「我が国には、領土主権を護持するためには、紛争の火種を絶やさず、必要ならば時に炎上させてもよいと主張する、決して小さくない力を持っている方々がいます」「しかも、彼らは温首相との折り合いが悪い。党中央軍事委員会主席として統帥権を握る胡錦濤総書記にはたてつけないけれど、温首相には領土紛争で妥協はありえないと圧力をかけ続けている。もちろん温さんだって、したたかだ。こと主権や領土に関わるテーマで弱腰と見なされれば、政治的な足場が揺らぐのは十分承知している。逆に強硬な姿勢を示した場合、外交交渉に多少のしわ寄せはあっても、自らの親民イメージは傷つかない。軍事力のみならず、総合国力が増大する我が国にとり、すぐに片付かない問題を当面、時間稼ぎして先送りするのは、極めて有効な対外戦術なのです」。温首相と強硬勢力は、結果的にもちつもたれつ、役割を分担している節もうかがえるという。「彼らは明報取材にも陰で協力したそうです。もっとも、訪日前にぶちあげたかったのが、離日翌日になったのは明報紙の賢明なる判断ですね」。
■「ダブル中毒」に振り回された両国
事件の余波は、日本でも収まらない。那覇検察審査会は4月18日、セン船長を不起訴(起訴猶予)としたことについて「(海保巡視船の)損傷は軽微とはいえず、人命を危険にさらす行為であったことは否定できない」とし、「起訴相当」と議決した。船長を釈放する際、那覇地方検察庁が「今後の日中関係を考慮した」と説明したように、釈放は司法の論理を超えた判断だった。遅ればせながらとはいえ、司法の論理に沿えば審査会の議決は当然だろう。
だが、忘れてはならない。日本政府は前原・前外相(事件当時は国交相)を筆頭に、「ダブル中毒」の果てに暴走した船長を血祭りに上げ、「国内法に基づいて粛々と処理する」とおうむ返しを続けたのだ。
「なぜ、あんな船長に国運をかけたのですか?」。国務院の別の幹部は最近、述懐した。「日本当局は、何を血迷ったのか――我が国に外交戦を挑むなら、もう少し政治的な背景や意図を探り、本気でお国(日本)の主権を蹂躙しようとする確信犯を捕らえるべきでしょう。日本の政治家は、あまりに幼稚だ」
事件解決に関わり自らも船長に振り回されただけに、実感がこもる。「あんな“流氓=チンピラ”船長を、英雄に祭り上げてしまった。外交に不可欠の一幕の劇だとは分かるけど、ほとほと辟易した」と吐露し、「事件の核心は、国内司法の問題ではなく国際政治の紛争という視点を、日本政府が一貫してわざと無視したことだ」と、日本政府への不信・不満を述べた。
「だからこそ」と続けた幹部は、やや感情的にまくし立てた。「船長は海上民兵とか現役の軍大佐だといった噂を放置し、挙げ句の果てに、海に転落した巡視船乗組員を漁船から銛でつこうとしたと、根拠のないネット上の戯言を、かつて運輸相(現・国土交通相、海保を管轄)を務めた石原都知事までが公然と会見で述べたり……船長と漁船の極悪非道ぶりを際立たせ、ひいては中国を悪魔化する方向へ日本政府は世論を誘導した」。日本が主張したように、国内司法の問題なら加害者被害者の立場は明白。だが、ことは国際政治の最前線で起きた。どちらが加害者か被害者か言い分は永久に交わらないし、双方が被害者に陥るケースだって珍しくない。今回の事件は、典型だろう。
■主導権を握ろうとする中国
かねて「両国ともに被害者であり、敗者だったかも知れない」と訴えていた前出の国務院中堅幹部も、嘆息する。「たった1人のダブル中毒に2大国が振り回された」「中日関係の基盤は、かくも脆いのですねぇ……」――。2人は一致して、「ことに、双方の国民感情が爆発してしまったら本当に厄介だ」と強調し、「あれだけは反省しなければならない」とある打ち明け話をした。
中国が船長の無条件釈放を求め矢継ぎ早に打ち出した対日対抗策のなかに、温首相自身が提案した日本の青年1000人の上海万博招待の延期も含まれていたが、それに対し即座に中堅若手幹部を中心に反対の声が広がったのだという。「せっかく中国のファンになってくれる可能性の高い若者なのに……」「対日強硬の世論に押されて、やや程度を踏み外してしまった。重要な教訓だ」とまで語ったのである。こうした声を受けたのだろう。温首相も、船長釈放後は対日対抗措置から真っ先に青年招待を外して早急に再調整するよう命じ、やや規模は縮小されたが青年訪中団は10月28日、閉幕間際の万博会場に足を運べたのだった。
「国民感情を制御できないのは、貴国も我が国も同じですよ」と幹部らは苦笑いする。しかしながら筆者は、本来なら領海侵犯に歯止めをかけるために対中攻勢に出ていたはずの日本政府が一転、対日強硬措置に慌てて受身の姿勢に退いた事実に注目したい。国交回復以来、最低に陥った両国関係もその後の関係改善も、中国側は一貫して主導権を握ろうとしていたのである。
5月21日、来日した温首相は、東日本大震災で被災した宮城県、福島県を訪れ、膝を突いて被災者を励ました。温首相は「訪問は自ら決定した」と述べ、日本政府の意向とは無関係であることを強調、国内政局の得点稼ぎに利用しようとした菅首相らの思惑には乗らない姿勢を打ち出し、得意の「親民」ポーズを振りまいた。米中関係に比べ、もともと危機からの復元力が乏しいといわれる日中関係だ。今後も中国は対日主導権を強化しようと、折を見て揺さぶりをかけてくるだろう。振り上げた拳を下ろせないまま、最後には検察当局に丸投げした日本政府の逃げ腰は、中国向け一辺倒だった日本国民の不満の矛先を、自らの政府にまで向かわせた。しかも、その日本政府首脳の口から「反省」や「教訓」を語る声が聞こえない。危惧を覚えるのは、筆者だけだろうか。
ジャーナリスト・藤田洋毅 Fujita Hiroki
Foresight(フォーサイト)|国際情報サイト
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最終更新:6月21日(火)17時8分