2011年05月
2011年05月30日
東日本大震災の記―5月30日― 「ホットスポット」―皆さんどう考えますか?
最近、ネット上に「ホットスポット」なる情報が登場している。
福島原発の影響で避難を余儀なくされている地域以外の、遥か遠く離れた場所で、避難地域と同等程度の放射性物質が測定される地域が存在すると言うものである。
先日も「臨時ホットスポット情報―子供を守ってください」と題する、極めてセンセーショナルな文章がネット上に踊った。それによると「柏、松戸、流山、三郷」がその地域に該当すると言う。
汚染の濃度は、福島市、郡山市等よりは低く、いわき市や白河市と同等で、大人での被爆量は、1年に3.5ミリシーベルトになり、校庭で運動したり、地面の近くで遊ぶ子供たちは、1年で10ミリシーベルトぐらいの被爆になる可能性がある、とのことである。(法律での安全基準は1ミリシーベルト)。
これが、どの様な方法や、調査技術によってネット上に表記されているのかは知る術がないが、個名を述べられた地域の人々にとっては極めてやっかいな問題となる恐れがある。
単なる「風評」であることを祈りたい。
福島原発の影響で避難を余儀なくされている地域以外の、遥か遠く離れた場所で、避難地域と同等程度の放射性物質が測定される地域が存在すると言うものである。
先日も「臨時ホットスポット情報―子供を守ってください」と題する、極めてセンセーショナルな文章がネット上に踊った。それによると「柏、松戸、流山、三郷」がその地域に該当すると言う。
汚染の濃度は、福島市、郡山市等よりは低く、いわき市や白河市と同等で、大人での被爆量は、1年に3.5ミリシーベルトになり、校庭で運動したり、地面の近くで遊ぶ子供たちは、1年で10ミリシーベルトぐらいの被爆になる可能性がある、とのことである。(法律での安全基準は1ミリシーベルト)。
これが、どの様な方法や、調査技術によってネット上に表記されているのかは知る術がないが、個名を述べられた地域の人々にとっては極めてやっかいな問題となる恐れがある。
単なる「風評」であることを祈りたい。
2011年05月20日
東日本大震災の記―5月20日― ソウル市議会議長の突然の訪問―カムサハムニダ・チョンマネヨ!―
先週の11日(水)午後、突然の電話だった。明日12日(木)午後、ソウル市議会の許光泰(ホ・グァンテ)議長と3名の議員、随行の議会局職員の一行が、東日本大震災の見舞と、義援金を持参して都議会を訪問したい。ついては然るべく対応願いたいとのことである。
誠に突然のことであるが、これ程ありがたい申し出もない。都議会日韓議連の会長として、当日の午後の予定を全てキャンセルして迎えることとなった。
驚いたことに、議長一行のみの来訪と思っていたら、大型バス2台に分乗した、在日及び本国からのマスコミも大勢同道して、かなり大がかりな贈呈式となった。
それにしても、集まった義援金を一刻も早く届けたいとする許議長の真心に打たれるとともに、日韓、そしてソウルと東京の距離がいちだんと近くなったことを実感した一日であった。
(写真はソウル市議会議長と。クリックすると拡大します。)
2011年05月18日
青春の咆哮(ほうこう)最終回―美空ひばり論 ―三波センセイとのこの違いああ!―昭和48年11月記
このところ、日本歌謡界の女王・美空ひばりに関する世間の評価は、彼女にとって必ずしも満足のゆくものではないらしい。むしろ再三にわたってマスコミをにぎわす、ヤクザまがいの実弟の数々の行状と、それを、「美しきは肉親の愛情」という大義名分のもとに、ひたすら弁護のみに終始する、彼女と彼女の母親のかたくなな姿勢は、いつしか多くの大衆の気持を彼女から遠のけ、日本歌謡史上に燦(さん)然と輝く不滅の女王は今や“未曾有の難局”に直面しているといって過言でない。
しかし彼女は、彼女の人気の下降の真の原因が、実は彼女自身の本質的な性格のなかに内在しているという事実を、おそらく御存知であるまい。
それが生れつきのものであるか、あるいは後天的なものであるのかは知るすべもないが(おそらく後天的なものであろう)、ただ確実に言えることは、彼女が日本の女性のなかでは素晴らしく強い性格の持ち主であり、同時に、たいへんな「自信家」であるということである。
自信家は、その、“自信”が脅かされることを極端に嫌う習性があり、それゆえに、普段は極めてワンマンであるのが常である。彼女も、全くその例にもれない―。
というのも、先日ある光景を目撃したからに他ならない。ある食品会社の招待で、帝劇で開催されていた「美空ひばり特別公演」を観に行った私は、第二部のヒットパレードの最中に見せた、彼女のその“堂々たる”ふるまいに、しばしあ然とせざるを得なかったのである。
それは、曲と曲とのあい間、最前列に座っていた一人の老紳士が席を立って出口に向う後姿に「アラ、おじさま、もうお帰りですの?まるでモノをもらいに来たみたい、人の歌は最後まで聞くのがエチケットじゃないかしら、ネエ皆さん」と皮肉たっぷりにやってのけたのである。
さすがに客席もアッケにとられて同調の拍手もマバラで、何よりも、満座の中で恥をかかされたカッコウと相成った老紳士の胸中は察するにあまりある。
ひばりさん、「お客様は神様デス」とやる三波春夫センセイの爪のアカでもお飲みなさい!今のあなたは、美空“カラス”だ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「青春の咆哮」は今回をもって終了させて頂きます。何しろ、血気盛んな20代時代のエッセイで、生意気で、無分別な表現等も多々あったことかと御詫び申し上げます。
特に最終回となった「美空ひばり論」は、平成元年6月24日、52歳で亡くなられてから間もなく23年、歌謡界の女王としての不動の地位を今でも維持し続けておられます。敬服するばかりです。
私の拙文は、あくまでも、当時、思うがままに書きつづった若僧の勇み足としてご笑覧頂ければ幸いです。
長期間のご愛読、誠にありがとうございました。
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しかし彼女は、彼女の人気の下降の真の原因が、実は彼女自身の本質的な性格のなかに内在しているという事実を、おそらく御存知であるまい。
それが生れつきのものであるか、あるいは後天的なものであるのかは知るすべもないが(おそらく後天的なものであろう)、ただ確実に言えることは、彼女が日本の女性のなかでは素晴らしく強い性格の持ち主であり、同時に、たいへんな「自信家」であるということである。
自信家は、その、“自信”が脅かされることを極端に嫌う習性があり、それゆえに、普段は極めてワンマンであるのが常である。彼女も、全くその例にもれない―。
というのも、先日ある光景を目撃したからに他ならない。ある食品会社の招待で、帝劇で開催されていた「美空ひばり特別公演」を観に行った私は、第二部のヒットパレードの最中に見せた、彼女のその“堂々たる”ふるまいに、しばしあ然とせざるを得なかったのである。
それは、曲と曲とのあい間、最前列に座っていた一人の老紳士が席を立って出口に向う後姿に「アラ、おじさま、もうお帰りですの?まるでモノをもらいに来たみたい、人の歌は最後まで聞くのがエチケットじゃないかしら、ネエ皆さん」と皮肉たっぷりにやってのけたのである。
さすがに客席もアッケにとられて同調の拍手もマバラで、何よりも、満座の中で恥をかかされたカッコウと相成った老紳士の胸中は察するにあまりある。
ひばりさん、「お客様は神様デス」とやる三波春夫センセイの爪のアカでもお飲みなさい!今のあなたは、美空“カラス”だ。
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「青春の咆哮」は今回をもって終了させて頂きます。何しろ、血気盛んな20代時代のエッセイで、生意気で、無分別な表現等も多々あったことかと御詫び申し上げます。
特に最終回となった「美空ひばり論」は、平成元年6月24日、52歳で亡くなられてから間もなく23年、歌謡界の女王としての不動の地位を今でも維持し続けておられます。敬服するばかりです。
私の拙文は、あくまでも、当時、思うがままに書きつづった若僧の勇み足としてご笑覧頂ければ幸いです。
長期間のご愛読、誠にありがとうございました。
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2011年05月16日
「心友」鴨下みのる君のこと―足立区議選最高点万歳!―
彼とは同期生ということのみならず、学籍番号が一番違いということで、以来45年に及んで、親友を通り越して「心友」の関係を自他共に認め合う間柄でもある。
そんな彼と私の決定的な違いは、私が20代で政治を志ざした、根っからの「政治小僧」であるのに対して、彼が初めて区議選に挑戦したのが50歳を過ぎた52歳であったことである。
それまでは安定した一流企業の管理職であったのに、敢えてそれを捨ててまで、下町の区議選に挑戦したのは何故か。
当時、いきなり相談を受けた私も驚いた記憶があるが、男として「一世一代」の大決断である。一にも二にもなく、後押しを約束した。その結果、12年前の初挑戦は二位、再選は三位、三選目は二位と、毎回上位に名を連ねる常連となった。
「おじさん世代」から初めて議員になって、これ程、選挙に強い男を私は他に知らない。何故か。先程の「何故」かの答えでもあるが、学生時代からの「世話好き」、「面倒見好き」、そして何よりも異常なまでの「人間好き」が、自らの天職として「議員」の道を選択したということであろうか。
そんな議員を神様は絶対に裏切らない。私自身も胆に銘じたい。
(写真は、鴨下みのる個人演説会にて。クリックすると拡大します。)
togikai at 16:16 
2011年05月12日
―青木区長、就任一年半の報告会開催―
あいにくの雨模様のなか、区長を支援する区内外の有力者が大勢出席しての盛大な会合となった。
私も、都議を代表しての挨拶に立ち「この一年半の活躍には目を見張るものがあり、特に、3月11日の東日本大震災の発生当日、帰宅困難者のために、区内の全小中学校73校を開放した瞬時の決断と判断には頭がさがる。これからも、その意気ごみでがんばって頂きたい」とのエールを送らせて頂いた。
変化球を一切使わない、直球一本のこの区長に、御世辞や「よいしょ」は一切必要ない。私の発言も本音の中の本音である。
今後もこの区長と二人三脚で、45万区民のために真剣に取り組みたい。
(写真は、都議を代表しての挨拶。クリックすると拡大します。)
togikai at 13:44 
2011年05月09日
母の日(5月8日)によせて―親孝行したい時には親はなし―
母は一昨年九月、九十八歳の天寿を全うして逝ったのだが、昭和五十五年に夫である父を見送ってから三十年も長生きすることがどうにも不思議だった様で、何故お迎えが来ないのか、が晩年の口癖となっていた。
従って亡くなった時は「永い人生にようやくピリオドを打つことが出来た」という安堵と、三十年ぶりに最愛の夫と逢えることへの喜びが交錯した、まさしく安らかで静かな大往生であった。
母が生れた明治四十四年は、日本が世界の列強と肩を並べ、近代国家として大きく飛躍を始めた只中にあり、そんな時代背景もあって、当時の女性としては極めて稀な青春時代を送った。
札幌の藤高女(現藤女子大)と東京家政学院を卒業後すぐにバンクーバーの日本総領事館に赴任し、外交のかたわら、習いごとで始めた洋風料理の習得に情熱を傾けて四年後に帰国した。
当時は「洋行帰り」の女性は珍しく、どこへ行っても好奇の目にさらされたらしい。その後、縁あって海軍士官だった父と結婚。一転して軍人の妻として、戦中、戦後をたどった。
終戦後、公職追放となった父を助けたのが、バンクーバー時代に培った料理技術だった。私が生れた翌年に始めた料理学校は、現在では私の家内が引き継ぎ、創立六十二年という、国内でも最も古い料理教室(樺山料理学園)として存続中である。
しかし、二十代より始めた私の政治「道楽」は、母のスネをかじれるだけかじってしまい、家業にはいささかの貢献をすることもなく見送るハメになってしまったことが悔まれる。
(以上は「都政研究」5月号に掲載された拙稿です。)
従って亡くなった時は「永い人生にようやくピリオドを打つことが出来た」という安堵と、三十年ぶりに最愛の夫と逢えることへの喜びが交錯した、まさしく安らかで静かな大往生であった。
母が生れた明治四十四年は、日本が世界の列強と肩を並べ、近代国家として大きく飛躍を始めた只中にあり、そんな時代背景もあって、当時の女性としては極めて稀な青春時代を送った。
札幌の藤高女(現藤女子大)と東京家政学院を卒業後すぐにバンクーバーの日本総領事館に赴任し、外交のかたわら、習いごとで始めた洋風料理の習得に情熱を傾けて四年後に帰国した。
当時は「洋行帰り」の女性は珍しく、どこへ行っても好奇の目にさらされたらしい。その後、縁あって海軍士官だった父と結婚。一転して軍人の妻として、戦中、戦後をたどった。
終戦後、公職追放となった父を助けたのが、バンクーバー時代に培った料理技術だった。私が生れた翌年に始めた料理学校は、現在では私の家内が引き継ぎ、創立六十二年という、国内でも最も古い料理教室(樺山料理学園)として存続中である。
しかし、二十代より始めた私の政治「道楽」は、母のスネをかじれるだけかじってしまい、家業にはいささかの貢献をすることもなく見送るハメになってしまったことが悔まれる。
(以上は「都政研究」5月号に掲載された拙稿です。)
togikai at 10:31 
2011年05月02日
「こどもの日」に思うこと―かつて子供だった私―懐しかったあの頃
「団塊世代」のど真中に生れた私は、仲間(人数)の多いある意味で熾烈な競争社会に生きることを余儀なくされた。同年の競争相手が多い社会は、ボーッとしていると取り残される可能性があり、従って、いつでも「前へ進む」という意欲が必要とされた。
その意味からすれば私は、前へ進むことが好きな「目立つ」子供だった。勉強は苦手で嫌いだったが、それ以外ではひと通り何でもこなし、いつもその先頭に居た。ただ、いわゆる「ガキ大将」とはちょっと違って、少くとも、力まかせにグループをたばねる粗野なボスではなかった。つまり、仲間の特性や個性を認めて、それを褒めることが好きな子供だった気がする。
人数が多い分、とにかく周りには個性の強烈な今では考えられない様な子供がわんさかと居た。教室で教科書は広げず「モルモン教の教典」の暗記に没頭するA。自らを「恋の天才少年」と呼び、恋愛ごっこにうつつをぬかすB(小学生である)。算数だけはいつも 5 なのに、それ以外はオール1という不思議な少年C。越境通学で、弁当は上野駅の駅弁だったD(当時、給食は週3回だった)。
そして小学校の3年生まで在学していた杉並区立第三小学校(杉三)のクラスメートに、後に大作家となる赤川次郎がいた。当時の赤川は体があまり丈夫でなく、学校で会えるのは稀という少年であった。
今はどうなのか分からないが、当時の教師には、ほぼ全員に「あだ名」が付いていた。思い出しながら記すが、「おかめ」、「カマキリ」、「きゅうり」、「ガンジー」、「ザンバ」、「宣教師」、「ターザン」、「珍念」、「ジュード―」、「モンロー」、「母ちゃん」、「ブラジル」Etc・・・・・・・・。羅列すればキリがないが、その全てが、当時のイメージとピッタリで、懐しさを通り越して、今想い出すだけでも吹き出してしまう。
どういう由来か、誰が付けたか不明だが、当時の子供たちと、教師との間が極めて身近な関係だったことを物語る一面でもある。
ゲーム機も無い。ケータイも無い。もちろんパソコンも無いそんな時代。子供なりの独創性と純粋性だけが勝負だったあの時代。やたら懐しい。まさに「三丁目の夕日」である。
自分が生きた時代をやたらに懐しがる「おじさんシンドローム」になってしまっている自分。歳をとったのかな。ま、いいや、石原慎太郎じゃないが「老いてこそ人生」!だ。
togikai at 12:01 