出来るだけ日記
ぬすびとはぎ。秋、野山を歩くといつのまにかズボンに半円形の種子がびっしり並んでくっついている。
その種子だけ知っていて、花は知らない人が多いだろう。秋に種子を動物にくっつけて遠くへ送り出した
あとは、枯れてしまう。真夏の暑い日に小さな雑草のような芽を出し、8月終わりぐらいには一気に伸びて
9月には花を咲かせる。群生した所ではけっこう「美しく」これが後で野山の散歩者を悩ませるものとは思
われない。美しいものは棘を隠している。
2006年11月
30日
教育の再生、いじめ自殺、登校停止、などなど連日けんけんがくがくである。そのなかでコミュニティーの崩壊がさかんに語られている。ところでコミュニティーは人工的に作れるものなのか。そのまえに私隣組の様子を紹介する。全部で12軒。それぞれの家族構成を見てみよう。
老婦人70歳台二世帯と80歳台後半一世帯。80歳台夫婦一世帯。60歳台夫婦二世帯。40歳台男性一人住まい一世帯。60歳台夫婦と未婚の30歳代息子と娘四人世帯、夫入院中の60歳台後半の婦人と30歳台未婚の娘、60歳台と現役の夫婦と30歳台未婚の息子、現役夫婦と高校生男子の三人世帯、夫婦と小学生二人、がそれぞれ一世帯。
60歳台以上は、仕事をしていてもアルバイトぐらいで基本的には年金、あるいは貯金の食いつぶしであろう。子弟からの仕送りだったら、むしろ同居するはずである。この隣組でどうやってコミュニケーションが成り立つのか?現役は土日以外は家にいないし、年金生活者は家に籠もるか、自分の趣味に埋没するかだけである。身体の弱った世帯には、困ったことがあったらいつでも言ってくれと言ってあるが、訪問ヘルパーが訪れるぐらいで、近所付き合いはない。例えば生協の宅配で買い物をすれば配達トラックが来た時集まるが、それも高齢者になると逆に難しい。むしろ少しでも歩くために、それぞれ近くのスーパーへ買い物に行く。見ていても私が一番出歩く。犬の散歩。カメラを持って季節の風景を撮りに言ったり、双眼鏡を持って、古墳の池に来る鳥を見に行ったり、護憲や人権関係の講演や討論会を聴きに行ったり、旧知を尋ねて世間話をしたり。近所の人をそうしたことに付き合わせるわけにもいかない。
家族共同体は子供が学齢期まで。町内会は年齢が近く、趣味が近い人がそれに会わせた企画を行なうだけ。それから外れた人は、大都会のロビンソン・クルーソーで十分やっていける。葬式は業者に頼めば、最近はけっこうリーズナブルに全てをやってくれる。コミュニティーを再生するには、もっと皆を貧乏にするしかないのではないの。わかった。だから富裕者や企業減税をし、消費税を上げて、貧乏人をもっと貧乏にするという安倍政権の目論見があるのだ!。
29日
夕張問題がクローズアップされている。産業を失った地方自治体は基本的にクローズするしかない。生産から消費関連産業まで、総合的な都市にまで膨らんだ地方自治体は、それなりに主要産業を変換しながら生き延びられるが、夕張のように一つの産業で成り立っていた都市は滅びて当然である。炭鉱が無くなったら、元の、過疎の農業地帯へと徐々に戻していくしかない。夕張メロンは全国ブランドとなり、農業化への中心作物を生み出し、そこまでは成功である。それから先が間違い。観光産業都市かしようとしたのが全くの間違い。。しかし全国には同じように観光で地域起しをしようとあとに続く自治体が多い。今のうちに気が付かないと、続々と夕張が生まれる。
観光産業とは何か。普通京都を思い出す。また最近では知床がアピールしている。つまり観光資源があって、それを目指して人が来る。そして金を落す。観光の要素として、史跡、風景、温泉がよく言われる。それに最近ではディズニーランドやディズニーシーなどのテーマパークが加えられる。温泉と風景は自然がもたらしたもの。史跡は今からでは間に合わない。したがってテーマパークをつくりたがる。日本で最初は阪急の宝塚である。鉄道の乗客を増やすために、レビューや遊園地をつくった。しかしそれだけでなく、京阪神のベッドタウンとして住宅地を開発したのが、本当はメインである。テーマパークだけでは成功しなかった。
全国の私鉄は同じように沿線にテーマパークをつくった。関西では阪神が阪神パーク、南海がみさき公園と狭山遊園、近鉄があやめ池、京阪が枚方パーク。宝塚、あやめ池、狭山、阪神パーク、ドリームランドはすでに閉鎖されている。そうした老舗でなくとも、レオマワールド、チボリ、ポートピアランド、セキアヒルズは閉鎖され、ハウステンボスやシーガイヤも一旦倒産し、UFJも経営見直しを行なった。ディズニーだけが一人勝ちである。勝つことで圧倒的な資本投下が可能になり、目先を変えることで中毒患者を、リーピーターとして引き付ける。
温泉にしても、巨大温泉地は供給過剰で苦境に陥っている。風景は只だから人が来るのであって、収入には直接結びつかない。結局、あそび金のある客でないと、テーマパークにはこない。したがって市場は小さい。史跡については、唯一京都だけが実績を上げている。ならも大きいと思われるが、近畿では和歌山についで観光客は少ない。明日香などは休日に行くと多くの人が来ていて、さぞ儲かっているだろうと思うが、実際は棚田トラストなど、体験型農業などで必死に村興しをやっている。
観光で収入を得て自治体財政が成り立つための観光要素は、のむ、うつ、かうである。のむはうつ、かうとセットになるので、むしろみやげ物と食い物が三要素にはいってくる。みやげ物は輸出であるから外貨を直接稼ぐ。しかも旅行の楽しみの最大は買い物である。買い物は海外旅行の楽しみだけでなく、国内観光客がみやげ物袋を両手にかかえて降り立つ姿を大都市ターミナル駅では多数みかける。うつは日本では禁止されている。かうは勿論女であるが、現在では女性の経済力も高く、ホストクラブ全盛である。女性が男を買うこともふつうのことになり、したがって買うはセックスと表現したほうが正しいかもしれない。
江戸時代まで国内最大の観光旅行はお伊勢参りであった。これだけは認められた。そしてここには、当時は温泉はなかったが、のむ、うつ、かうの三要素はそろっていた。
この三要素が満たされない限り、観光地域興ししを考えても無駄である。
夕張であるが、民間企業の破産と同じで、職員は一旦解雇。退職金も最小限。あとは裁判であらそう。農村としての再生のために投資し、土地を購入してやっていける人に格安で分譲し、その他は買い上げられた土地代をもって食いつなぐか出て行って再就職の道を探ってもらう。出て行く金も無い人は、失対事業で国が面倒をみるか生活保護をおこなう。勿論すべての借入金は、一定額の債権放棄と、金利なし、100年分割により返済、というあたりでどうだろうか。
25日
昨日の報道は、イラク・シーア派住民地区へのテロで200人を超す死者が出たことを伝えている。報道が正しいなら、イラクにおける宗派間の戦闘が確実に烈しくなっている。
普通の見方によれば、ブッシュのイラク政策は間違っており、アメリカ中間選挙をみても、アメリカ選挙民の批判は大きくなっている。そこで、ブッシュのもう一つの本音という観点から見てみよう。ブッシュは自らの闘いを十字軍に例えた。これは内部からも批判され、イスラム教徒たちの反感を買い、宗派間の対立を繰り返すイスラムを一つにまとめ、新たな脅威を作り出すともいわれた。なぜならイスラム過激派(原理主義)が、反キリスト教うんどうで主導権を取り、本格的宗教戦争を引き起こすだろうということで。
十字軍はイスラム国家から聖地エルサレムを奪い返すという名目で遠征されたが、結果としてローマ帝国は疲弊し、ヨーロッパは新たな独立国家群が生まれた。一方イスラム圏は、十字軍との戦争によって逆にオスマントルコ帝国に統一された。しかしこれもやがて分解し、特にバルカンでは両宗教徒が混在する世界が生まれた。いずれにしても、直接攻撃を行なうことは、自滅への道でもあった。
ブッシュが何故危機感を持ったかといえば、当然過激派によるテロであった。しかしそれを彼は、イスラム全体の脅威と考えた。したがって自分の闘いを十字軍になぞらえた。もしアメリカが、イスラム教徒への打撃を直接加え続けることを行なったら、全く十字軍の繰り返しで、アメリカ帝国は終焉を迎えたであろう。だがアメリカ野攻撃は、今のところイスラムの内紛を激化させた。これはローマ十字軍にはなかった高等戦術といえる。イスラム教徒は宗派間の戦闘を繰り返し、その間はキリスト教徒やユダヤ教徒に対する脅威は薄められる。ブッシュの戦争はうまくいっている。だからこそ、イスラム各宗派は、ブッシュの罠に落ちたことを自覚し、一国も早く宗派間の戦争を止めるべきである。
だがブッシュにも誤算はある。イスラム宗派間の戦争は、一旦日が付いたら燃え尽きるまで燃え続けるということはない。だから次から次へと火を付け続ける必要がある。したがってブッシュの軍隊は、イラクから撤退できない。
21日
地球に生命が生まれたのは40億年(地球は出来て46億年)前だと考えられている。地球科学で古生代に区分される最初のカンブリア紀は4億4500万年前から4000万年ほどの間で、化石などで確認されている。その間、すくなくとも有機物質は地球上に存在し続けた。進化を遂げ、環境変化に対応し続けながら存在できた。その間地球環境がどの程度変化したかは私の知識にはない。しかし多くの種がその間に絶滅したことを考えれば、かなり変化はしただろう。ただ一つの種が存在できる環境の変化の度合いがどの程度のものかについては、生命全体からすれば僅かなものだろう。だから生命全体が存続できても、一つの種が存続できるとは限らない。
今地球温暖化が問題にされている。それが現存する全ての生命の種にたいして大きな影響を与えることは事実であろう。すでに研究解明されているだけでも、寒冷化と温暖化の反復で海面の下降・上昇が、地上海中の種に大きな影響を与えている。その温暖化について、人類主犯説が、学説としては有力である。大気中の温暖化物質の増加が温暖化をもたらしているというものである。人類は地中に冷凍保存されてきた温暖化物質を大気中に、大量に解放した。さらに、特にCO2を吸収する森林を破壊し、海洋汚染によって珊瑚の生存域を狭めている。その結果大気中のCO2の割合が増え、温暖化が進んでいる、というのである。
基本的に地球に降り注ぐエネルギーと、地球が放出するエネルギーのバランスが取れていれば、地球環境は安定する。おそらくそれが変化するということは、かなり劇的な環境変化をもたらすであろうから、この数億年間にはそれは起きなかったであろう。ただし火山爆発などの、地球自体におきた要因で、局地的(緯度とか高度とか)に大きな環境変化が起きたことは考えられる。人間が化石燃料を大気中に放出することは、ちりも積もればなんとやらで、富士山爆発以上の効果を持ってきたのかもしれない。
人間が温暖化物質を解放したから温暖化が起きたという説が主流だが、温暖化によって水蒸気や、海中のCO2やメタンガスが解放された、と言う説もある。どちらにしても、温暖化は共通認識のようである。そして人類主犯説に基づく対策が、はたして効果をもたらすのだろうか。気候変動が大きくなれば世界中でエアコンが普及する。製造エネルギーと運転エネルギーの消費が拡大する。仕方ないから原発を増やせば、安全な設備、核燃料の精製などでやはり多くの一般エネルギーが消費される。まして中国やインドで日本のようなマイカー時代が訪れたらどうなるか。あと10年もたてば答えはでるだろう。
温暖化とは直接関係ないかもしれないが、今年はいつまでも暖かい。台風もこなかったので近畿の山岳地帯では、ここに来て冷え込んで、普通であれば順番に紅葉していくのが、一斉に紅葉しはじめ、近年にない見事な景色をつくりだしている。これが平地まで及ぶのかと言えばそうともいえない。いつまでも青葉が残り、紅葉しないまま散っていく可能性が高い。紅葉は、木の葉が元気なうちに冷え込むからこそ見事になる。したがって平地では、北に行くほど紅葉はきれいで、九州には平地で紅葉の名所などない。一方京都は、盆地で急激に冷え込みが襲うので、紅葉が有名である。そのうえ、名所となる社寺は、その特徴をいかして、かえで類を沢山植えたと思われる。
17日
もしかしたら、郵政民営化選挙は日本の民主主義は派、人権派、平和憲法派にとって最期のチャンスだったかもしれない。反自公の得票数は自公をはるかに上回った。しかし政権交代可能な総選挙区制によって、与党の圧倒的勝利に終わった。そしてその瞬間から、自公の、無人の荒野を行くがごとき暴走が始まった。教育基本法改革は、教育の危機に対応するものでなく、左翼のみならず、自由主義者をも槍玉に上げる強制教育のためのものである。成果主義で評価し、免許を剥奪することで教員(教育)を完全支配し、永久政権の基盤を確立する条件は、郵政選挙で確立された。野党の抵抗も空しく見える。補欠選挙は北の核実験で与党に勝利をもたらした。タウンミーティングでのさくら、いじめ自殺、未履修問題。全て野党の言うとおり議論の不十分さを暴露したにも拘らず、与党はそれを教育基本法改革を急ぐ理由にしてしまった。そして大衆は黙したままである。客観情勢は、与党に有利に、有利に作用している。これを流れと言うのであろう。
如何に強制社会を作っても、一旦獲得した市民の自由主義的エゴを押さえ込んでしまうことは不可能である。そのため強制する側は武装を強化する。圧制の思想で武装された支配階級の安全は、思想的にも物理的にも、要塞都市に立て籠もるしかないであろう。
14日
一方で校長先生が生徒達に命の大切さを語り、他方で校長が自殺する。生徒に「苦しくても生きろ」というなら校長よ「苦しくても生きろ」。言わせてもらえば、上にゴマすり、教育実践を軽んじて昇進試験を受けて校長という名誉を得たつけが、今あんたらに回っていることに気付いたらどうだ。ゆとり教育と必須科目が無理な話なら、現場を分かった教師なら始めに食いつくはずだ。それが現場の最高責任者校長のやることだ。無理な作戦と知りながら上官の命令に従い、部下を無駄な戦死に追い込んでいる分隊長殿。あんたが生き残ることは許されない。もっと死ね!校長。
最近の教育現場の傾向として、ベテラン教師が行き詰っているらしい。生徒が変り、親が変っている。親はすぐに教育委員会に訴え、教育委員会は校長を、校長は教師を縛る。
昔リーダーズダイジェストという雑誌があり、そこにあったアメリカンジョーク。中学教師は小学教育を批判し、小学教師は母親を批判する。母親は父親を批判し、父親はただ、天に向かって「誰に言えばいいんだ」と嘆くだけだ、というのがあった。なんとのどかな光景だろう。今教師は誰に当ればいいのだ。生徒でもいじめるか!?
結局教員免許の更新制度導入の大合唱が起きている。
1、2ヶ月の訓練で取った運転免許。しかも運転を職業としていない者にとってその取り消しは生活には直接響かない。だが大学に4年通って取り、その免許が生活手段である教師の免許を剥奪することを運転免許と同じと見ていいのか。しかもベテランが行き詰っている現状では、ベテランの免許更新が行なわれない可能性もある。その場合、免許を取り消された元教師の生活はどうするのか?そうした不安を抱えた教師になり手があるのか?。ただでさえ1,2年で教師を断念する者が多い昨今である。教師をどう確保するのか考えたことはあるのか?
社会的要求が変り、親の要求が変り、そのしわ寄せを全て教師に負わせるということで解決出来るのか。さらに免許更新時の審査において、忠誠度が問われはしないかという問題がある。
私の出身高校は普通化200人の学校であったが、特別優秀な進学校でもなかった。しかし一流を入れて国公立に50人ぐらいは進んだ。その学校が今ではほとんど国公立には合格しない。なぜそうなたか?一部には日教組職員がそうしたという説が流布され、信用されている。だがそれは全くの間違いである。われわれの時代、福岡県は小学区制であった。したがって受験できる高校は、調整区以外は決まっていた。それが中学区制になり、進学崎を選択できるようになった。それが学校間の格差を生み、進学率の上がった高校に非組合員を集中させ、下がった学校に組合員を集中させるという人事が教育委員会によっておこなわれた。原因と結果を全く入れ替えたわけである。このような県と教育委員会の作為によって格差がつくられた。
今そうした格差作りが、小学校にまで及ぼうとしている。
13日
不正規雇用。アルバイト、パート、派遣労働、契約社員、偽装請負などは、賃金抑制、労働者の使い捨てが目的であることは言うまでも無い。
高度成長時代、企業は烈しい労働力確保競争をした。当時青田買いということばが、新卒採用競争において使われた。労働組合の闘争がなくても賃金や社会保障などの雇用条件は改善されていった。
プラザ合意による円高不況、バブルの崩壊の過程で、それらは逆流に転じた。かって社会主義の学校と位置づけられた労働(組合)運動はこの逆流に対し、獲得した既得権を守ることが出来なかった。リストラ、厚生年金からの脱退、社会保険からの脱退などの手段として不正規雇用が生まれた。
かって賃金水準は、親会社の正社員の基準内賃金より、子会社の残業を含めた賃金が上回るように設定されていた。親会社が労働組合との協定で残業が規制されるとき、子会社社員の無制限の残業で労働力不足が補われた。賃金格差の不満はそこで吸収された。
今、労働力市場は買い手市場である。そのことを逆手に、経営者は下請けの賃金が、残業を含めても親会社社員の給料を上回らないように設定できるようになった。全く同じ仕事をしながら、正社員と不正規雇用社員の給与と身分の安定度は雲泥の差がある。
このような場合、労働者の普遍的利益を求めるスローガンは、「同一労働同一賃金」である。不正規雇用労働者の身分保障を求め、労働組合の組織化や、親会社組合への加入を求める運動もある。しかし、企業にとっていつでも切り捨てることの出来る労働力の存在は、労働者の地位安定のための法整備があるていど進んだ今の社会では、きわめて有利である。したがって社会的に信用を確保した有名大企業でも、この不正規雇用に手を染める。実はどれだけ不正規雇用を行なっているかが企業競争力になっている。そして正社員労働者にとって、この身分の差が、リストラが起きた場合の自らの安全弁になっている。だから正社員労働者(労働組合)からは、身分の同一化や同一賃金の要求は出てこない。
「同一労働同一賃金」と言う理念は、いまでこそ労働者の社会的階層(階級)としての普遍化のための要求である。だかかって、それは経営側の狙いであった時期がる。
オイルショック、ニクソンショックで為替の変動相場制が導入され、円高が進み、日本経済がスタグフレーションに陥った(1970年代後半)。そのとき松下を始めとした関西家電(電機労連)は労使協同で同一労働同一賃金の導入をはかった。これは若年労働者には歓迎されたが、高齢労働者からは反対された。それまでの年功賃金からの移行は、当然高齢者の賃金を引き下げるからである。それだけでなく、若年者の側からも、将来の楽しみがなくなる、或いは子供が学齢期に達し、さらに住宅ローンを抱えるようになったとき、昇給がないと困る、などの意見が噴出し、実施に移された同一労働同一賃金は、基本給の抑制と手当てによる年功制の維持という中途半端なものであった。つまり、若年者の低賃金で、年齢給の上昇分をカバーするという本質は変らなかった。それが、リストラにおいては、ただでさえ元気な若年者に対して不利な高齢者を直撃する、という結果をもたらした。
もっとも、製鉄や造船、繊維などの古い産業では、現業部門の年齢給の割合は低く、「同一労働同一賃金」に近い体系であった。一方電機産業などの新興産業では、職制こそ管理部門と現場部門に違いがあるが、賃金体系は殆ど同じであった。
つまり、「同一労働同一賃金」という要求は、労働者の獲得レベルとしては、はるかに後退した地点にある。
それにしても、10年ほど前に荒れ狂ったリストラの嵐で早期退職をさせられた人たちの今の境遇はどうであろうか・・・・。
12日
ソニーのゲーム機PSの新機種発売に、全国の大手家電量販店に徹夜の行列が出来、売り切れが続出した。今日本で行列が出来、売り切れが出てプレミアムがつくのは、こうしたゲーム機や限定販売のいわゆる高級品だけである(一般消費材では、例外的に高速道路の給油所に一ヶ月限定で行列が出来た)。生活必需でない物を求めて消費者が狂奔する。このような状況は一体どう理解したらいいのか。景気は正に上々である。
一方いざなぎを越えた長期の景気上昇にもかかわらず、実感はないという。失業率こそ少しは下がったが、不正規雇用と賃金低下は止まらず、無貯蓄世帯は増え続けている。
今日本人は生きていくためでなく、遊ぶために働いている。食べることが労働の目的でなく、遊ぶことが目的ということは、人生とは遊ぶことなり、ということになる。ただし、遊ぶことによって環境破壊が低下すればいい。生活必需品生産の工業化(大量生産化)は環境破壊を劇的に進めた。しかし人類が平和に生きていくためには仕方ないことであった。今遊ぶための生産活動は、生活必需品生産以上に環境破壊を進めている。ソニーは企業理念が完全に変り、世界的環境破壊企業に変身した。
10日
貝塚市は、ゴミ焼却工場の操業を民間委託していた。その民間委託を5年ごとの入札制度に切り替えた。その結果来年4月から委託業者が変更になった。そのためそれまで受諾していた企業の労働者は全員解雇となった。市長は、新しい受諾業者に、前の会社の従業員を最大限雇用するよう要望した、というが、実際は次の業者は若いアルバイトやパート社員を雇用して人件費を最大限削ることで低い入札価格を提示しており、熟練者の多い前の企業の従業員が再雇用される可能性は極めて低い。しかも5年後には再度入札を実施する。となれば今回受注した企業従業員の年齢が上がっており、今度はその企業が破れ、その従業員が解雇されてしまう可能性は高い。小泉は議員は使い捨てと言ったが、労働者こそ使い捨てである。
市長は、民で出来ることは民で、ということで小泉改革に沿った改革だ、とうそぶく。もっともこうした業務を官が直接やると、奈良市職員のように有休、病休、休職などの制度を悪用し、5年間で8日しか出勤せず、通常近くの収入を得ていたというようなことが起きるから、民でやったほうが無駄が少ないというのもわからないではない。
この業務は、市所有の施設の運営である。したがって設備合理化で生産性が上がるわけではない。企業が収益を上げようと思えばどこかで手を抜くしかない。例えば燃料、水道、電気代の節約。しかし最大は労務費の削減である。賃金を下げ、人員削減をして労務費の総額を下げる。民間委託は結局そういうことである。その上入札制度を行なうということは、民同士を競争させ、労務費をさらに絞り込もうということである。
バブル崩壊以後行なわれた改革とは、すべては「労務費の削減」の一言に尽きる。
9日
フセインは、「アメリカは大量破壊兵器がなくても武力侵攻するつもりであるから、査察は拒否する」とした。たしかにそうなった。フセインの言ったことは正しかったことになる。だがそのことで彼は何を守ったのか?何も守らなかっただけでなく、破滅した。
金正日は、クリントン政権との合意を破って核開発を秘密裏に進めた(と言われている)。その理由を、北朝鮮は援助による原発建設の遅れとする。つまりアメリカは約束を守らなかったからわれわれも守らない。元来核独占を維持するため、核不保有国の核開発を認めないのは不公平である、と主張する。しかしまた、テロ支援国家に指定され、アメリカの攻撃を心底から恐れた結果、イラクは核を持たなかったから攻撃されたが、核保有国家は攻撃されたことはない。したがって核を持つことがアメリカ野攻撃にたいする唯一の保障である、と考えたらしい。
不思議なのは、北朝鮮の行動が、ブッシュ政権の描いたとおりであることである。フセインも、そういいながらそうなった。同じである。しかし、影でそうなるようにフセインや金正日をあやつる何者かが居て、あるいは陰謀があってそうなっているということはないだろう。しかし陰謀がないとすれば、そうなる必然性、法則があることになる。法則であれば不可抗力だ。そう語ることで日本の核武装を語り始める。安倍もそれを容認した。陰謀説なら、日本の核武装派がそう仕組んだことになる。法則説なら、核武装派こそが政治の法則をよく知っていることになる。
陰謀説派は、戦争をするため、あるいは戦争が出来る国家にするために・・・・という。しかし現実には、あたかも法則性をもって事態が進行しているように見え、人々は抵抗を諦める。実はそれが一番大きい問題だ。
フセインが国連の査察を受け入れていたらどうなっただろう。アメリカは、国連の査察努力を押しのけて攻撃を開始した。そのことを見る限フセインの言は正しかったように見える。しかしフセインが、駆け引きを止め、査察員を追い出さなかったらどうなっただろう?
金正日には、核問題以外に多くの問題がある。偽札、麻薬、拉致。核はアメリカの攻撃への防禦というより、問題そらしであろう。しかし核を持つことで、そらしが本論になってしまう。麻生や中川、そして安倍には拉致問題はもはや本論では無くなっている。特に中国との関係を悪化させたままでは、拉致問題は埒があかない。
5日
フセインに死刑判決が下りた。法廷の正当性など問題にしだしたらきりがない。もつれた糸はほぐしようがない。現実から出発してみよう。死刑判決の理由は、フセイン暗殺(未遂)事件が起きた地区のシーア派住民虐殺である。結局もつれた糸をほぐしだすと、何が正当で何が正当でないか収拾がつかないからであろう。一応、スンニ派も加わった選挙が行なわれ、現政権の正当性を確保することで、裁判の合法性を獲得した、という理屈である。国際法廷でなく国内法廷で裁かれることなども、裁判の合法性確保が最大の目的である。だからフセイン逮捕をもたらしたアメリカの侵攻の正当性が否定されても、裁判の正当性が否定されないように、巧みにしくまれている。
逮捕に至る経過はどうであれ、国内裁判でのフセイン有罪は当然である。だが、死刑によって、さらに国内が分裂し、内乱が永続する事態をさけるにはどうするか、が問題であろう。イラクでは、宗教や民族の対立を、フセインが武力による抑圧で国家的統一を成し遂げた。隣国イランが親米路線をとるのに対し、イラクは親ソ路線をとった。そこには、第二次大戦後の中東諸国家成立の経緯がからんでいるが、国家成立で民族や宗教の利害がむき出しになったことが、成立した諸国家間の関係を複雑にした。イランで反米ホメイニ革命が起きると、イラクとアメリカの利害が一致し、イラン・イラク戦争でアメリカはイラクに多大な支援を行なった。これがイラクを中東での軍事大国化したきっかけである。
フセインの重しが取れたイラクは、国家分裂の可能性を強く持っている。そしていまのところ、軍事的重石は多国籍軍が担っている。現在のイラク政権は、米軍が撤退すれば支配力を失う。イラクは分裂する。分裂して安定すれば問題ない。だが実際は一層収拾がつかなくなる。だから曲りなりに国家統一を維持しつつ、次第に安定を回復していこう、そのためには国際的軍事介入の当面の継続が必要である。しかも必要なパワーを持っているのは米軍だけであり、国連軍では内乱の勃発を抑えられない。
そのことにフセイン裁判がどう影響するか、という問題である。死刑判決は避けられない。もしそれより軽い判決なら、シーア派やクルド族が黙っていない。しかし現状では、スンニ派の了解はえられない。したがって道は一つ。死刑判決後、執行を無期限に延期し、身柄を外国に移して、軟禁なり牢獄に幽閉するなりして人質にするしかないだろう。いまさらぼたんの掛け違いがどこから始まったか詮索しても、何ら状況の改善の方法は見出せない。
3日
野次馬として見るなら、教育基本法をめぐる論争は、いじめと偽装履修問題でがぜん面白くなった。
与党は、荒廃した教育を立て直すには教育基本法を改訂するしかないという。国会論戦で、自民党の誰か忘れたが、日教組を壊滅することがこの改訂の目的だ、といわんばかりの論陣を張っていた。曰く。日教組は組織率30%を割った。しかし30数万人が居る。とかく自民党は、教育の荒廃の原因は日教組にある、とのみ主張している。だがこの理屈、よく考えてみよう。現在の教育を最も強く担うのは70数%の非日教組組合員だということである。ここにふたつのことがいえる。一つは20数%の教員の影響力が70数%の教員より大きい、ということを主張していることになる。また70数%の教員が今の教育を主に担っている、日教組教員は不要だということになれば、非日教組教員の教育が今日の荒廃をもたらした。つまり70数%の教員はアホばかりということになる。だったら日教組以外の教員を首にしてしまえ・・・ということになりはしないか?
もっとも日教組がそこまで組織率を落としたのは、党派の勢力争いが、けっして反組合運動派ではない組合員が、嫌気が差し、組合を離れたからである。そして、新しく採用された教員は、その状況を見て、日教組に加入することにメリットを見出せず、最初から非組合員になった結果、組織率が30%をわることになった。したがって日教組を手放しで支持するわけにはいかない。
ところで公教育とはなにか。憲法は国民の権利と規定して、かつ国家の義務として小・中学校を規定している。それ以前は(江戸時代まで)は武士や町民が通う寺子屋が初等教育を担っていた。農民で読み書きが出来るものは極少数であった。つまりすべからく国民に教育を与える必要はなかった。
明治以後国民皆兵(徴兵制)がとられると、少なくとも将来兵士になる者に読み書きを教える必要がある。さらに、工業化が進むと、商人でなくても、工員になるには読み書きは必要である。こうして国家の側に公教育の必要性がうまれる。
反対に受益者(教育を受ける側)から見れば、労働力商品としての商品価値を高めるために教育を受ける。したがって進学のために教育を受ける、というのは必然の法則である。
教育を与える側と受ける側のミスマッチが、何時も教育を混乱させる。日本経済の、産業国家から金融国家への体質転換が進むにつれ、産業労働力としての商品需要は低下し、したがって商品価値はさがる。その結果は理系大学への進学希望が減少している。一方与える側は、最も大量の労働力を必要とする、労働集約型工業が海外に移転し、したがって従来型の義務教育の必要性が低下し、それは価値観の多様化という理由付けで、スポーツや芸能学科などの多様化が行なわれる。つまり国は、公教育にあまり金をかけたくない。出来るだけ受益者が自分で費用を負担して欲しい。そういうところから、学校間の競争を行なわせ、負けたところはリストラしていく。進学上位校に入れなかった者は、自費で予備校に特化した私立に行く。国家予算の教育に割かれる%は減少する。
公立の教員は生き残りのため、授業や生徒管理に精力を取られ、日教組運動など見向き出来ない。勝ち残った教員は、そのことの誇りで、私を捨てて働き、土曜日も出勤し、夜も遅くまで残業して、残って勉強する生徒の面倒を見、それでも残業代はつかず、わずかばかりの手当てで満足する。今の私学の教員と同じである。もっともそこに生き残った教員は、帰りに屋台に立ち寄る元気も残っておらず、週末に梯子酒などとんでもない。仕事は個人プレーになり、生徒たちの指導について話し合うこともなくなり、隣のクラスで非行がでても無関心。内心隣クラスの担任を軽蔑している。そしてそれでも金を使わないから、生活には不自由しない。だから奥さんに文句を言われることも無く、現状で命をすり減らしていく。
唯一残された日本の消費階級、教員と公務員のこのようなリストラが進むと、夜の街は不況に沈み、アウトローたちが、たまに通りかかるやや懐の暖かい消費階級をつかまえて身ぐるみ剥がしてしまう社会になる。東京オリンピック前まで、東京は日が沈んだら婦女子は街を歩けなかった。そういう状態が再び訪れる。ただそのころは、皆貧しかった。しかし今は、そうした街の様子と裏腹な要塞タウン、要塞タワーから軽蔑の眼差しで町を見下ろしている。
2日
一応今年のまとまったお金が必要な要件は、不測の事態を除いて終わったので、銀行に行き日常の支払い準備以外の金額を定期預金にした。100万円の半年、年利率0・17%。それでも普通においておくより少しはましということである。
そこで今の銀行預金の利息を調べた。最長10年定期で、年利0・7%から0・8%。そこで国民年金月額の最高6万円に相当する利息を受け取るためにはいくら定期預金をしておく必要があるか考えてみよう。
6万*12=72万。72万/0・008=9000万つまり9000万の定期預金をしているのと同じ計算となる。基礎年金の積み立て期間は40年まで。40年で9000万の貯金をためるには、金利を無視すれば9000万/480=187500(月)。それが月額15000円ほどの積み立てで出来るのだから大変得だということになる。
もっともここには問題がある。初めからそのように有利な蓄財が出来るわけがない。年金を定期預金と同じ考えでやれば、成り立つわけがない。年金の考え方の基本は世代間扶養である。そこに得する損するという考えを持ち込むからわけがわからなくなる。
も少し言えば、利息は20%の税金がかかる。年金は年額72万なら所得税はかからない。さらに年金は有利だということになる。だから年金をかけておくことは損ではない。しかし年金理念をそのように規定すると、年金は必ず破綻する。
1日
昨日は一日いじめ問題のニュースが流されない時間はなかった。どこぞの中学2年の女子生徒の自殺の原因がいじめにあるかどうか、学校長の記者会見の発表は二転三転した。最終結果はいじめによる自殺と考える、ということになった。そこでいくつか感想。
第一に驚いたこと。文科省はいじめを定義していて、それに当てはまらなければいじめと認可しない、ということ。切ったり張ったりの肉体的暴力は痕跡が残る。したがって認定し易い。しかし精神的痕跡は素人には見抜けない。つまりPTSD症候群は専門家でないと診断できない。だがいじめの最大の傷は、実は心の傷である。もしその判断をマニュアルでやろうとするなら、学校に専門家、精神科医や臨床心理士などを配置すべきである。いじめは普通にしていては見抜けない。
たまたま10月28日の約45年ぶりに会った当時の恩師を囲む会、でいじめなどの問題が話題になった。おもしろいことに、女性と身体の大きかった同級生は、母校で同じようなことがあったことを全く知らなかった。もっともチビの部類に居た私ともう一人はよく知っていた。ちなもに恩師に聞くと、知らないというが、これは立場上そういうのだろう。
元来子供は獣時代の人間の本性を多く残している。獣性に導かれて遊び、喧嘩して社会性を身につけていく。犬も猿も、社会を形成する動物はまず序列をつくる。その儀式がこどもの喧嘩や遊びである。犬の序列争いは、相手を死に至らしめることはほとんどないが、たまに大きな犬が自分の力を知らずに咬んで、相手を殺すことはない。人間は身体的能力のほか知的能力、つまり徒党を組んだり武器を使用したりする。したがって加減がわからなくなることも多いように思う。ようするに喧嘩の延長にいじめがあるのは自然である。しかし人間が知的な動物なら、加減がわからなければならない。そのためには、放任するのでなく、状況に応じて大人が介入する必要もある。
中二女子生徒は、苛められた子の側に立ってかばったらしい。それが自分が苛められることになった、という。こういう例は多い。いじめに加わらないからいじめられる。恐喝に加わらないから恐喝され、喝揚げされて、あげくは殺される、と言う事件もあった。なぜSOSを発しないのか。実際はほとんどSOSを発しない。自分で耐え、自分で解決して大人になっていく。しかし命が失われることはいけない。当事者もまわりも、加減を知るべきである。
私の娘は中学時代吹奏楽部の部長であった。ソロコンテストで金賞を取ったこともある。自分でも言う「私は内申書は最高だ」と。だが吹奏楽部の指導教師にも、やめるのは勿体無いといわれながら、高校にはいると一切音楽活動はやめた。中学最期の懇談では、担任教師から、大分苦労したようだと親は告げられた。クラブのリーダーでいい子だけに、嫌がらせは随分受けたらしい。しかし本人は親に一言もいわない。だが音楽活動だけは完全にやめてしまった。幸いなことに、彼女には最初から一緒にやる友達が数人いた。だから途中で止める事もなく部長で中学を卒業した。それなりの処世術を身に付ける余裕があったということであろう。
2006年10月
31日
いじめによる自殺の連鎖が始まった。おそらく最初の自殺は、疎外感と絶望によるものだろう。それが大きく報道され、苛めた側への社会的非難が集中する。そうすると、絶望ゆえの自殺でなく、報復(蜂の一刺し)の自殺が始まる。教育関係者がいじめや苛めによる自殺を隠したがるのは、この報復自殺の連鎖を恐れるからであり、真実を隠したこと事態、単なる自己保身ではない。だが隠すことでマスコミはさらに追求し、報道はセンセーショナルになる。そうすると報復は、苛めた側に対してだけでなく、それを正せなかった周辺にたいして向けられるという派生的要素を持つ。
報復のために自殺する苛めの被害者達に言いたいのは、一刺しによる報復の効果は一時的なものである。人を苛めて平気な者、したがって本当に報復されるべき者は、すぐに忘れて、のうのうとした人生を送る。一方、自らの弱さゆえに苛めに加担したり、傍観したものは心に傷を持った一生をおくる。つまり自殺による報復は、本来対象となるべき者でなく、そうでないものに打撃を与える。したがって自殺による報復は、方法論として間違っている。
それにしても、いじめや履修不足にたいする校長達の言い訳のお粗末さにはあきれはてる。これでは教育界は独立性もなにも守れない。これ幸いとばかりに権力の支配が強化されるだろうし、われわれが教育の独立性を擁護しようにも擁護できないことになる。教育基本法改革は、改憲への外堀を埋める戦術かと思っていたがそうでもない。何故外堀と思ったかと言えば、安倍は改憲派の頭目と目されながら、小泉に代わって最初にやったのが中韓との関係改善であった。それは小泉時代はと派の主張したところである。その矛先をかわし、教育基本法を当面の目標とする。だから教育基本法は外堀である。だが外堀の石垣はあちこち崩壊し、水は漏れてしまい、外堀はすでに埋まったも同然の状況であることが判明した。
政治は、良い独裁が一番いいと言われる。しかし、良い独裁者の生命は永遠ではない。良い独裁者でも、権力を行使することに変りはない。もし良い独裁者に代わって権力の座に就いた者が悪かったら、独裁は最悪の結果をもたらす。だから衆愚政治と揶揄されても、民主制のほうが復元力があり、良いとされる。
分権化が叫ばれる行革のながれに逆らい、教育は中央集権化が強化されようとしている。
30日
今朝犬の散歩中白いすずめがいた。先日飛んでいる鳥の中に色の変った鳥がいるな?と気付いてはいた。その正体が今日わかった。雀の群れと共に地上に下り、草の実をついばんでいた。嘴も白く、ほんとに雀だろうか?とも思った。羽の中に点々と三箇所ほど茶色があった。白いと一回り小さく見え、ほんとに雀だろうか?と言う気持ちは今でも少しはある。だが多分雀だろう。
28日高校時代の恩師を迎えた、会、があった。九州出身で、大阪でやるのだから参加者は多いとは言えなかったが、東京九州からの参加者もあり、懐かしいひと時をおくった。
それぞれの近況報告。まだ現役もいるし、先生もまた、まだ世界史の教鞭を執っているとのことであった。しかし大半は現役生活を終えて、それぞれセカンドライフを過ごしているようだ。農業、自営業ならセカンドライフなどないわけだから、いずれも基本的には、ホワイトカラーであれ技術者、ブルーカラーであれ、一応年とともに用済みとなった、ということである。話を聞いて、リタイヤしてセカンドライフを探すというパターンが多いようだ。それは世間並みである。その中で新たな目標をみいだし、それなりに生きがいを持ってやっている、ということが、彼らの人生に対する満足感をもたらしているようである。
しかし、リタイヤしてから新たな目標を探すということは、現役時代その職業に打ち込んでいたということである。一つのことにうち込むことは、それなりに成功につながる。したがって尊いことだといわれている。しかし他の考え方もある。私はひとつのことにうち込まなかった。仕事は仕事として、生活のための最低限の努力はした。その結果、本当にやりたいことは出来なかったが、それでも不満は持っていない。定年をワクワクして迎えることが出来た。では退職後やりたいことが出来ているかと言えばそうでもないが、だからといってストレスは溜まらない。ただ現役時代から、やりたかったことは同じであり、その意味でセカンドライフというニュアンスはない。
二兎を追うものは一兎をも得ず、という諺がある。これは使用者にとっては非常に都合の良い諺であるが、被使用者にとってけっして好都合とはいえない。非使用者よ、何兎でも追え。そのほうがつぶしのきく人生が送れる。
29日、会の一行と明日香に行った。幹事は奈良、明日香したがって日本のその時代史について大変勉強しており大変楽しい見学会になった。
石舞台。三十数年前初めて訪れた時、それは棚田か畑のなかにあった。方墳の全容など想像も出来なかったが、生活空間の中に頭を出した土台石の上にのっかた大きな二つの石、それは全くの石舞台であった。そのとき古墳の中に入った覚えはない。
二度目は子供を連れて行き、中にもはいった。方墳の全容が復元されていたかどうかは記憶がない。石舞台下の広場では熱気球や植木の即売会が行なわれていた。アメリカはなみずきときりしまつつじの苗を買った。アメリカはなみずきは翌年はきれいな花をつけ、次の年はちょろちょろと花をつけ、次の年には枯れた。きりしまは今も生きている。聞けばきりしまは成長が遅く、仙酔郷のみやまきりしまは何百年も経っているという。
三度目の時は柵が設けられ入場料が取られていたのではいらなかった。そのご談山神社ハイキングなど何度も側を通ったが、石舞台にははいらなかった。おそらく20年ぶりぐらいである。方墳の全容が再現されている。それはそれで、その土木技術の規模を想像でき、それなりの感動はある。しかし感動の質は違うが、何気ない日常に顔を出す古代を目にした時のインパクトは、前のほうが感動的である。
今回まわった中で、藤原宮は田んぼに埋もれていた。山田寺は山崩れで埋まっていた。亀型遺跡も地中にあった。つまり古い時代の上に次の時代の営みがあった。そして土を深く掘り返す文明がなかったから、地中の遺跡は残された。今は人類の古い時代の営みに興味が持たれ、発掘が行なわれるからこうした発見がある。ちなみに今回集まったメンバーの出身高校は、かって吉田山と言われた丘陵の上を、自衛隊のブルドウザで平らにして建設された。周辺には九州最大の古墳や彩色古墳、竪穴住居跡などが多数あり、運動場を掃除すると黒曜石の矢尻などが、それこそゴロゴロ落ちていた。おそらく古墳や住居跡の二つや三つは潰された筈である。明日香でそうした開発が行われなかったことがさいわいであった。
ただ明日香を訪れる度に思うことは、「何故明日香だろう」ということである。平地と低い丘陵がある。それは故郷によく似た地形である。やや離れて高い山があり、そこを源にする川が流れている。元来都であれなんであれ、人が居を移すのは、その生産様式、生活様式によるものである。人類史では人は最初狩猟採取生活をしていたといわれるが、私は人類は人類になった瞬間から、ある程度の飼育、栽培を行なっていたと考えている。つまり一般にいわれる道具を作るということと飼育、栽培は相互発展的要因ではないかと思う。栽培の最初は焼畑方式。つぎが耕作。耕作が始まると、今で言う里山の麓に住宅、その前の平地に耕作地という原型が出来上がる。そして水田。日本の文明の進化の最大要因は米文化でなく、水稲栽培であると思う。
里山の麓、明日香に人が集まり始め、やがて土地や水を巡って争い、権力が生まれる。水稲栽培が主要生産方式となることで、住居(都)は低湿地へと移っていく。
というふうに考えると、明日香にはもっとはるか古い時代に人は住み始めたはずである。焼畑に似合うかどうかはわからないが、畑作には向いている。一説には琵琶湖は大昔奈良盆地にあったといい、かなり近い古代まで奈良盆地は湿原状態であったという。その周辺、つまり明日香のような山際に人は住み始めたらしい。縄文末期の温暖期にには大阪湾岸はマラリヤで人が住む環境にはなく、したがって大和盆地に人は多く住んでいた。また縄文末期には水田が始まり、弥生時代には大阪平野でも弥生遺跡が多い。
日本の権力闘争は弥生時代に始まったというのが定説のようである。つまり水田の始まりと共に人口の増大と集中が起き、そのなかでも特に明日香で大きな権力闘争が起き、それがさらに大きな人口集中を生むということであろう。そう考えると、明日香に明日香以前の痕跡が残されているはずであり、それが「何故明日香か」という疑問に答えてくれるだろう。
もう一つの可能性は、移民が入植して権力争いを始めた。どっちだろう。次に会ったとき聞いて見なきゃ。
25日
やっぱ教育界は腐っている。文部科学省、教育委員会、校長、現場教師全てである。大部分の教師は真面目に努力している、などというのはいいわけである。今、いじめ隠しがマスコミを賑わせているが、高岡南高校の履修もれ隠しと校長の言い訳ほどひどいものはない。日本史や地理のなかで世界史との関わりはあるから、必須科目の世界史は必要ないと思った、というのである。勿論現在のカリキュラムにも問題はあろう。だが、一応99・9%以上の高校は、たとえ無駄な時間と思っていても世界史の授業を行なっている。それを、受験に必要ないからと省いてしまった。しかも県教委への報告は世界史の履修は済ませたとして。これは隠しなどでなく虚偽である。学校ぐるみでズル、カンニングをしたということである。
報道によれば、国公立大学への進学率の高い、いわゆる進学校らしい。合理的な受験教育を追求したらそうなったのであろう。しかし、公立高校が進学予備校化したら、より高い知識と教養を身につけるための後期中等教育の目的は無くなってしまう。公立高校総予備校化である。
もっとも、公立高校の予備校機能が低下した、というより公立高校は元来予備校ではない。そこで予備校であることを自己目的化した私立、特に中高一貫校が急速に伸びている。と同時に親達の予備校化願望、気の狂った首長達の予備校化圧力によって、教育現場が急速に予備校化している現実がもたらした問題である。
教員は校長を、校長は教育委員会を、教育委員会は文部科学省を、そして文科省は予備校化を切望する親達を見ている。親の期待を担わされた子供達もその輪に組み込まれている。その結果、隠し、虚偽報告、はては学校ぐるみのカンニングである。結局生徒は、小学校から高校までおいてけぼりである。
そうした結果は、総合的な今の社会の反映である。だがそのかげで大きな犠牲が生まれている。不登校はまだいい、とでも言わざるをえないような、苛めによる自殺。教員の精神疾患の激増。それらは教師の能力不足と見なされ、教育改革が提起されている。ただしその方向は、必要な方向と180度逆向きである。その逆向き改革がめのかたきにするのが日教組である。
確かに日教組の責任は大きい。それは教育改革を提起する側の言う方向ではない。学校教育の全ての段階を予備校化しようという圧力にたいして、全く抵抗力を失い、教師の命を守れず、子供達を守らないことでもはや全く与党反動勢力の攻撃に無力となった日教組。日教組の責任は、教育の腐敗を生み出したのでなく、腐敗させた教育行政に抵抗できないそのことにある。
今回の高岡南の不正は、どうやら内部告発であかるみに出たようである。だが腐敗の構造の直接の責任が校長にあることは、福岡のいじめ自殺、今回の高岡の、校長の対応であきらかである。そしてそれを、事件が発覚するまで告発せず、あきらかになったら校長の責任の影で、自らの告発しなかったという犯罪行為ほっかむりする、現場の教師。それをリードできない日教組。ひのまる君が代だけ闘っておればいいのではない。
24日
二つの衆院補欠選挙と栗東市長選挙。すべて国会与党の勝利であった。衆院選挙は、北風と安倍丸呑み政権、連立枠組み死守で必死の公明の活動で、順当な結果である。だが非核三原則遵守、格差是正のハト派主張を丸呑みにし、北の核実験を追い風にして教育基本法などをいじろうとするそのマントの下は、実に大変な問題が隠されている。
今回は栗東市長選挙について考えてみる。
新幹線栗東新駅建設を巡り、滋賀県知事占拠で凍結派の嘉田氏が当選し、滋賀県は長野の後継注目自治体として全国区の知名度を獲得した。選挙は、新駅建設(自民・公明)凍結(民主・社民)中止(共産)の3候補で争われた。結果は推進派が当選。しかし凍結と中止派は60%の得票を獲得した。もし反推進派は統一候補を立てていたら当選し、栗東新駅は凍結、事実上限りない中止になっていたであろう。だが、凍結派と中止派は運動の統一が出来ず、推進派が勝利した。勿論県が凍結派知事であるし、地方債起債が裁判で違法との判決を受け、資金的にも建設が困難であることは変わりない。
推進派の主張は、便利であるということ以上に、沈下する地方地盤を、新駅を中心に盛り上げるというものである。それが合理的かどうかは経済地理学的視野で日本の現状を見れば、空論であることは明らかである。建設資金は起債と国からの借金、県の一部負担で賄われる。この県の負担に県民が反対した。それが凍結派知事の誕生である。おそらく再選挙してもこの結果は変らないだろう。栗東市にとってメリットが多くても、他地域、特に湖西、湖北地域にはほとんど関係ないからである。県の負担を求めず、栗東と周辺地区自治体だけでやる、といえば滋賀県民も反対はしないであろう。
建設はゼネコンを潤す。建設業界は当然建設に賛成する。ゼネコン従業員も労働者も賛成する。しかしその資金は、県が一部負担しようとしまいと、借金として返済しなければならない。それがのちのち滋賀県や栗東市財政を圧迫する、というのが反対派の言い分である。
県外人として、そこいらの事情はどうでもよい。あとで苦しむのは滋賀県人である。そこで興味があるのは、やはり共産党の対応である。県知事選挙で推進派と中止派が落ちて、凍結派が当選した。凍結ということは中途半端で分かりにくいが、要するにこのまま進めても問題が多そうだし、だからといって中止してしまったばあい、ここまで進めて来たことの後始末にかかる負担が大きい。したがって一度立ち止まり、十分再検討しようというものであり、軸足は限りなく中止に近い。そういう状態で、一旦選挙に負けた中止派が、何故凍結派を支持しないで候補者を立て、推進派勝利の可能性を高めなければならないかという疑問が残る。
共産党は、建前として労働者階級の利益を代表する。とした場合、中止でなければならない理由とは何だろう。敗北する共産党が津法自治体の借金に責任を持つ必要はない。だから誰が当選しようと関係なく、党の主張を貫き通す、というのであろうか。だが結果として推進派が勝利し、建設が行なわれるとしたら、建設反対と主張したことと、現実に建設されることの矛盾には全く関係ないということであろうか。あるいは、建設が行なわれ、借金で地方自治体が火達磨になったときに、「それみろ!」というためのアリバイ作りであろうか。
目の前に、限りなく中止に持ち込めるチャンスがある。中止になってしまえば、自民、公明との対立を浮き彫りにしにくくなる。だから建設が進められる必要がある。このような論理になりはしないか。40年ほど前北九州市長選挙で、同じような理由で共産党は、現職社会党市長でなく、自民党系無所属候補への投票を呼びかけた。敵の敵は味方。そういう論理で常に敵を、共産党のその時の敵にしぼって戦い、つねに孤立無援の立場を作り出していく。それが共産党の運動論のようである。
個人的主張をすれば、琵琶湖盆地からすべての工場を排除し、滋賀県人口を削減し、近畿・中京圏の水瓶として再生すべきである。栗東を発展させるなどとんでもない。1970年代から琵琶湖、淀川水系から取水する地域の水はかび臭くて飲めなくなった。高度処理により、金をかけて改善されたが、琵琶湖・淀川の水質が改善されれば、処理に必要な費用も削減される。掃き溜めは、東京、名古屋、大阪だけに集中させればよい。
23日
教員免許更新制度化。確かに不適格な教員はいる。だが、精度として的確性を評価する基準はなにか?現下の教員に対する行政処分の最大は、君が代、日の丸ではないか。つまり免許更新を拒否されるのは君が代、日の丸を拒否する教員ということになりはしないか?いじめ隠しが問題となり、教育委員会を強化するという議論が出てきている。いじめ隠しは、教育委員会も共犯である。その教育委員会を強化すれば、隠しも強化されるということになりはしないか?。教育委員会がこの数年最も力を入れてきたのは君が代、日の丸である。結局形だけで繕おうとする体質は、学校現場にあるのでなく、教育委員会、校長という教育管理制度にあり、その頂点に文部科学省がある。粉飾だらけの統計で表面を繕うから、現場からぼろが出る。生徒を見ず、上ばかり見る教員が増え、上ばかり見る校長が増え、上ばかり見る教育委員会の強化が行なわれる。日教組は社会党系と共産党系に分裂し、公教育制度全般の反動化に全く抵抗力を持たない。
おりしも金正日に後押しされて、安倍政権は基盤を強化している。
ところで、教員免許を取得するのにどのくらいの期間と費用が必要か考えて見たことがあるか?そのうえ何度も受験して20歳代後半でようやく教員になる。だが例えば10年後に、不祥事を起さなくても不適格と評価され、免許剥奪された人は、その後の人生をどう選択すればいいのか。運転免許ならコースを走らせれば結果は明らかだ。しかし教員免許は、評価者の主観がはいる。レポートやテストで再評価すれば、そのための受験勉強で生徒指導がおろそかになる。要するに教員免許更新制は、評価者にたいするイエスマン教員をつくるための手段でしかない。
廃棄自転車や家電製品を山積みした船が日本の港から消えた。日本の不法投棄物の山の成長は加速されるであろう。中国の成長で鉄くずや古紙の価格が上がり、回収業で飯が食えるようになり、ホームレスが減り、北朝鮮でもまた、再生品とはいえ自転車や家電製品が買えるようになる。だから放置自転車の持って行き所が出来て、日本の経済的最底辺層もなんとか暮らしていけるようになってきた。それを一気に止めるのが制裁である。おそらく制裁で本当に痛手をくうのは日本かもしれない。そして、金正日の本当の狙いが、日本に打撃を与えることであれば、原爆を落とさなくてもその効果を十分上げたことになる。
20日
歩きながら考えた。かっては十分残された時間があったのに、区間、つまりある一定の時間内では、全く時間に余裕はなかった。今、残された時間は少なくなったのに、瞬間的には十分時間はある。かってのくせが残っていて、一寸した用足しでも自転車や、時にはこともあろうに車を使う。退職して4年。ようやくそのことに気が付いた。買い物や銀行、役場などの要件は全て歩くことにした。銀行は、勤めているとき便利な、通勤途中の駐車場の広い銀行を利用していた。銀行の統廃合で駐車場の不便なほうに統合された。銀行まで3kmある。夏までは自転車を使ったが、秋からは歩くことにした。らじおをでニュースを聞きながら、考えながら、秋の風情を楽しみながら歩ける。平地だから痛めた膝の負担も少ない。運動になる。歩いているとおならが出てきて快便にもなる。だが冬になって続くだろうか?
銀行に用があると言っても、2ヶ月に一度下りる年金を、郵便局で下ろして、諸費用の引き落とし口座に移し変えに行くのがほとんどである。したがってそれだけで運動不足の解消にはならない。だが、歩くだけの目的で歩くことは性分にあわない。
それにしても、景気はいざなぎ景気を超えて、景気上昇の最長記録を更新中だそうである。実感がないと言うと、緩やかだからさらに続くと言う。大企業や銀行は大変な高収益を上げている。昨年末ぐらいから、銀行は中小企業にも無担保融資をさかんにしている。利率が3%としても、定期預金金利が0・15〜0・3%だから大変な儲けである。日銀が0金利解除で引き締めにかかっても、金がジャブジャブある状況は変っていないようだ。したがって投資信託の販売実績は伸び続け、さらに証券会社などは1000万や2000万単位のファンドの販売拡大を目指しているようである(村上ファンドは10億単位、特別でも1億だそうである)。証券会社や銀行からセミナー参加の声がかかる。向こうはこちらがそれだけの金を持っており、出資意欲満々だと思って声をかけてくる。こちらはそのような単位で運用預託する金を持っていないから、話だけ聞いて、講演が終わり、個別相談が開始される間のごたごたのあいだに、パンフレットとボールペンなどの一寸した粗品をもらって退出する。雰囲気としては、半分以上は私と同じで退出するのだが、多くの社員が粗品を渡しながら、丁重に引きとめようとするので、若干引け目を感じるのも事実である。
18日
北の核実験のおかげで、政調会長の中川が日本の核保有について検討してよいのではないかといい、麻生も同意した。その結果非核三原則にのっとると語った安倍がハト派になってしまった。本当にハト派になったのでなく、ハト派ポーズで批判をかわし、仕方なかったとしてタカ派の政策を実行することが可能だ。安倍はついている。
ところで北朝鮮はどこまで本気だろうか。軍の力が増し、暴走気味だというが、本当に彼我の戦力の差について知らないということは考えられない。やはりアメリカを2国間交渉に引き出すための瀬戸際作戦と見るのが妥当な気はする。ただ、仲介を期待した日本、韓国を決定的に敵に回した意味は大きい。正に安倍に塩を送り、日本のタカ派を勇気づけた。だが、金政権は完全に生き残りの条件を放棄したとも言える。問題は、何時かということである。クーデターにしろストレスによる心臓発作にしろ、金正日が倒れた後に情勢は変る。ただ日本の改憲と核武装を置き土産にだけはしてほしくない。
おどろくべき話である。ここ数年、いじめによる自殺はゼロだそうである。苛めの件数も減っている。少年犯罪も減っている。統計はそう物語っている。日本の青少年教育は全くうまくいっている。ただし教員の資質は下がり、モラル意識も低下している。そして教育改革が必要だそうである。(少年犯罪が減っているにも拘らず、少年犯罪に対する刑罰は強化された)
17日
朝日新聞夕刊で16日から連載が始まったコラム「筑豊の夕焼け」。五木寛之の長編小説「青春の門」の出発はこの筑豊。私は福岡県生まれだが筑豊との触れ合いは少ない。何度も通過したことはある。最も印象に残っていることは日田線で小倉から夜明けまで行ったとき。駅が近づき速度が落ちると、一斉に行商人らしき一団が荷物を下ろしていく。後はどうなったかわからないが、駅でもないところで、速度が落ちると人が乗り降りする。
五木寛之は同じ福岡でも八女の出身。彼は八女にいい思い出を持っていないという話は有名。しかし出身高校の同窓会で講演したらしい。故郷は遠きに在りて思うもの、と歌ったのは犀星だが、犀星縁の金沢には、五木も関係が深い。故郷を嫌いながら、反面強い望郷の念を持っていたのかもしれない。
大都市近郊には雇用促進団地というものがある。エネルギー政策で多くの(今や全ての)炭鉱が閉山された時、炭鉱離職者の再就職(今流行の言葉で言えば再チャレンジ)先の住宅確保のためにつくられた。そこには主に筑豊出身者が居た。松原市の団地住民は、近隣農家から、けっこう差別を受けていた。知人にも、親が炭鉱に勤めていたという人が何人も居る。
16日
ボランティアで山の草刈と清掃をしてきた。おかげで体のあちこちが痛い。かって日本の里山は手入れされており、人々の生活と密接に結びついていた。しかし今農山村、里山は荒れている。植えられた杉が手入れされず、日光が根元に届かず、下草が生えず、土が流され、・・・などがいわれる。そうした農山村の手入れにボランティア募集がよく行なわれている。しかしもう一つ突っ込んで考えれば、かっての人類の生活は、そうしたことはボランティアではなく、生活の一部であった。
今でも、地域の人は県道であろうと村道であろうと、皆で話し合って道路の草刈をする。健康や仕事の都合で参加出来ない人は何がしかのお金を出す。作業に従事したからといって報酬はない。また生活道路でなく、自然公園なんかでは、お年寄りが、わずかな日当で、時間の空いたときに草刈などの手入れをして、孫に買ってやるおやつ代の足しにしている。これなども、報酬が目的の労働ではない。TDLなどの、ゴミ一つないようにしている労働とは全く質が違う。しかし地方の道路や公園などは、こうした労働によって支えられている。もしそれがボランティアというなら、資金を提供して、TDLの掃除のように出来るかどうか考えてみればいい。それが出来ないからボランティアなのではなく、生活の様式そのものである。その生活の様式を破壊するからボランティアになる。とかいで数十年生活してきて、ボランティアをしてきたなどといい気に成っていることが恥ずかしい。
最近熊の被害が話題になる。人が生活環境を破壊したから出てくるのだ。人が悪い、と言う考え方が正しいと誰もが思っているようだ。私は少し違う考え方を持っている。人は確かに一部の野生を絶滅させ、危機に追い込んでいる。だが最近、人が食わなくなった、或いは採算に合わなくて捕えなくなった野生は増えている。人という生物の繁栄で繁栄する野生が増えている。都市部で見かけることが増えたいのししやたぬきは勿論、きつねも増えている。これは戦後の食糧難時代だったら、人里にあらわれれば皆目の色を変えておっかけていた。どぶ川に住む鯉もそうだ。からすやねずみやごきぶりなども、人類の繁栄なしに今日の繁栄はなかった。
13日PM
北朝鮮がアメリカに怯える理由はわからないでもない。しかし北朝鮮はイラクとは違う。もしアメリカが軍事攻撃をしたら、中国が警戒し、ロシアも警戒する。一気に世界戦争の危機が高まる。そんなことは、ブッシュが気違いで無い限りしない。金正日が、本当は怯えていないにも拘らず、怯えた振りをしてミサイルや核実験をするとしたら、その効果について判断できないバカだということになる。南北合意、日朝合意を破って核実験をした、と声明したのだから、制裁を受けても仕方ないが、日本が北朝鮮の核に怯えることはない。もし単なる殺人鬼なら、最後にぶっぱなすであろう。それは防ぎようがない。如何なる殺人鬼も、殺人を犯さねば逮捕されないのと同じである。識者達が、北朝鮮の暴発がこわい、というがそんなことは当たり前だ。暴発する変質者は、暴発するから変質者であり、暴発しなければ普通の人だ。つまり暴発して露見する。したがって、こわいけど防ぎようがない。変質者が怖ければ、どこかに隠れて出てこないことだ。
一方テロは防げる。テロリストは政治的主張を持っている。それを聞いて、話し合いの舞台に引き出せば、テロは防げる。それを変質者と決め付け、殺すことでテロを防ごうとするから、防げなくなる。
金正日に関して言えば、彼が考えて瀬戸際政策を行なっているのであれば、制裁も効果があるであろう。だが判断できないところがある。かってそれは、外貨を稼ぐためといわれた偽札や麻薬、ミサイル。しかし核を持たないという南北合意にも関わらず、ひそかに核開発を進めた。表向きと、秘めた野望のギャップが、彼が変質者であることを示しているのかもしれない。
いずれにしても、変質者なら、つまり暴発する人物なら、制裁は全く効果がない。
13日
愛犬まめ太郎が宿敵太郎とついに一戦をまみえた。50mほど離れたところに太郎が居ることはわかっていた。だからまめ太郎は引っ張っても動こうとしない。強く引っ張ったとたんまめが首を振ると首輪がスポット抜けた。こうなったら手に負えない。元来まめは自由が好きで、首輪が抜けると大喜びで逃げ回る。しかし車に撥ねられて以後、長距離ははしれないから、追い詰めればつかまえられる。しかし、50mでしかも目標があれば一気に突っ走る。
太郎はジャックラッセルテリア系のミックス。気性が荒いことで近隣ではまめとともに有名。まめが15kg超であるのにたいし、おそらく10kg前後。しかし後ろ足の太ももはいかにも大きく、俊足でジャンプ力もすごい。闘えばまめより強いと思っていた。太郎が5歳半、まめが4歳半。2匹はまめが6ヶ月ぐらいの時から出会えば牙を剥く間柄である。
一合のあと瞬間にらみ合った時に、リードで思いっきりまめの背中を叩いた。もしかしたら痛さで落ち着くかもしれないと思ったから。しかし関係なかった。気合だ!とばかりまた襲い掛かった。あおむけになった太郎をかみつこうと上から押さえ込んだまめを背中から抱いて一気に抱え上げた。そして見えないところまで持って行き、しばらく逃げないように落ち着くまでかかえていた。
この次期もうすぐ狩猟がはじまる。銃猟はチームを組んで行なう。猟師がそれぞれ飼っていた犬は、猟師の親方のところで、初めてや一年ぶりに出合う。そこで猛烈な喧嘩がおきる。犬の喧嘩を他所に、猟師たちは焚き火を囲んで身体を温めている。やがて序列が決まり、血だらけになって落ち着いた犬を連れて猟が始まる。もしこの喧嘩がなければ、犬達は猟に出て、獲物そっちのけで喧嘩してしまう。
今の犬はそうした喧嘩もさせられない。怪我をしたら、自分で舐めて治すのが犬だが、今は獣医に行く。勝った犬の飼い主は相手の治療代を払わされる。今の犬は喧嘩をしてはいけない。全く犬の面を被った人間として飼われている。
今の犬の社会は、平等である。犬にならないように育てられ、気の弱い、喧嘩をしない犬ほど賢く、その飼い主は飼いかたが上手と褒められる。犬界の金正日=まめ太郎は、いつもリードで縛っておく必要がある。
今都会の犬にあるのは民主主義である。というより、人間社会の民主主義を、都会の犬の世界は映している。
縛られた犬は自分の実力がわからない。だからいつまでも牙を剥く。問題は人間社会で喧嘩を仕込まれた犬である。そういう犬は相手をかみ殺す訓練をされている。したがってかみ殺せば褒められる。序列をつけるための争いでない。
11日
横田さんが、北朝鮮への制裁を求め始めた時から、その心底には二つの相反する理由が存在しているとみなしてきた。一つはおそらく世間が考えているように、圧力で金正日を屈服させることが出来るし、それがつまりは拉致問題解決の唯一の手段だ、と考えたこと。二つは、北朝鮮の発表どおり、残る拉致被害者の生存に関して、かなり悲観的考えに至り、救出される人が最小限にとどまるとした場合、それでも北朝鮮の行為は許さない、という意思表示としてのパフォーマンス。
北の核実験成功の声明を受けて、日米、国連の制裁決議に対する注文として、核実験に加えて拉致問題を制裁の要因に加えるよう横田さんは要求した。このことは、国際社会は基より、日本政府の北朝鮮に対する交渉軸の中心が、拉致でなく核に移っていることを、横田さんが認識していることを証明している。
日朝国交正常化交渉の中心軸は拉致問題であった。その線で交渉が進展しそうになったときにアメリカは突然来たの核開発疑惑を持ち出し、対北朝鮮問題の軸は拉致でなく核だ、と路線変更を迫った。おそらく北朝鮮の核開発疑惑は、イラク大量破壊兵器疑惑以上に明確な情報をアメリカは持っていたはずである。それはもちろん、イラクに大量破壊兵器がなかったことが証明されて、はじめてあきらかになったことであるが。問題は、クリントン政権時代に米朝合意で核開発をしないと約束したはずの北朝鮮が、何故秘密裏に核開発を続けたのか?その答えはそのうちあきらかになるだろう。
北朝鮮の核保有が何故問題なのか。
アメリカが問題にするのは、一つには言われているように、テロリストに渡ること。二つ目は、国連を牛耳るアメリカが、核拡散防止条約でアメリカの軍事的優位性を恒久的なものにしようという企みが崩れるからである。アメリカはアメリカへの直接攻撃の可能性を全く問題にはしていない。したがってもし北朝鮮が暴発したとしても、最初に被害を受けるのは、韓国と日本である。ただし日本に向けて発射するとしたら、最初は米軍基地を狙う。ただしその自信がない場合は都市攻撃もありうる。とはいえそれは、本当にやけくそになった場合であろう。やはり90%以上は、脅威は韓国にある。きたの政府にとっての悲願は韓半島統一である。しかし統一後に来たの政権が生き残るには、平和的統一ではなく軍事的制圧しかない。それが無理なら、現状維持である。北朝鮮にはこの二つの選択肢しかない。そしてそれを保障する最大の勢力はアメリカである。アメリカと中国の利害が韓半島で均衡する時にのみ、きたの政府は生き残る道がある。
核保有は、実際的にはやけくそになって攻撃する可能性があるから、日米韓が攻撃を控えるから、日、韓がアメリカを押さえる、という意味で抑止力になると考える人は、恐怖心におののく。だが実際はアメリカにとってそれは抑止力ではない。上陸してきた米軍が北の核で殲滅されてしまうから抑止力でもない。各施設の破壊が死の灰を拡散させるから抑止力かといえば、そうでもない。アメリカは日本より遠くの太平洋上や海底から、北朝鮮の各施設を殲滅できる。
北東アジアにおいて、現在のバランスを崩さないためには、その最大の危機要因北朝鮮(この規定は関係諸国において共通認識である)の政権打倒は、中国の限定的軍事介入という結論が出てくる。おそらく中国は、その条件の成熟を待っているのかもしれない。とすれば、北朝鮮政府は、中国の介入を防ぐために核を保有し、そのことでアメリカの介入を招き、ステップアップした危機のバランスに生き残りを賭けているのかもしれない。
10日
世間は北朝鮮の核実験で大騒ぎである。北朝鮮はそのパフォーマンスで世界の関心の中心に立つことが出来た。勿論私は北朝鮮の核実験に反対である。絶対支持しない。しかしその上で、さらに深くこの問題をどう見るかは、長文にならざるをえないので、ここでは保留しよう。
にしても、核実験をしたからとして大騒ぎを私はしない。なぜなら、核保有を北朝鮮は公言していたからである。それでも注目されないから実験したようなものである。銀行強盗がピストルを取り出したが、モデルガンだろうと相手にされなかったので、天井に一発発射したようなものである。核兵器(本物のピストル)を持っていたという事実に変りはない。しかも発射してみせるからには、後何発かは持っているはずである。もしもたなければ、発射したとたん丸腰になるからである。したがって今後は、あと何発かの核兵器を保有しているということが前提となる。
それにしても不思議なことは核開発という言葉である。正式には核兵器生産という言葉を使うべきではないだろうか。北朝鮮だけをみればたしかにこれまで実験していない。したがって表面上は開発のように見えるが、その技術はすでにパキスタンで開発されたものを移入したにすぎない。したがって正確には、北朝鮮は開発する必要はなく、生産すればいいだけである。開発というと、いかにも北朝鮮の科学技術力が優れているように見える。北朝鮮がそのように虚勢を張りたがるのは理解できるが。
それにしても北朝鮮の声明はしょぼいではないか。わたしに原稿をつくらせてくれれば「われわれの優れた科学技術力で、アメリカの傀儡である韓国の支配者達を打倒し、韓半島の統一を成し遂げる力強い第一歩が踏み出された」ということになる。それは、金日成が38度戦を超えて韓国に攻め入った時の、つまり今の北朝鮮の国家戦略の基本のはずである。それにくらべ、分裂を維持し、生き延びることに必死な今の北朝鮮の本音を正直に吐露した声明である。アメリカの侵略を阻止するための戦力でしかない。
朝鮮総連に申し上げたい。直ちに北朝鮮政府、金正日に対する抗議声明を出しなさい。でないと日本の民族主義勢力が、尤も弱い朝鮮学校生徒に対し、牙を剥くだろう。そして日本の人権派は、その牙から朝鮮学校生徒を守る力をもっていない。日本の治安当局は、日本人に対しても、犠牲が出てからしか対応意出来ない制度である。朝鮮学校生徒だから無視しているのではない。そしてその声明は、もっとも弱い弱者、朝鮮学校生徒という弱者を守るためだけではない。やはり北朝鮮政府のやっていることは間違いだ。そのうえ、民族主義が高揚することで、事態が本質からはなれ、社会が不毛な混乱に陥ることを防ぐためには、朝鮮総連の批判声明が最も有効だからである。とはいえ、そのような知恵は生まれないだろう。
そんなことよりみなさん!時にはボケよう。この数日の好天気は、何年かに一度ぐらいしかないすばらしいものですよ。
6日、中秋の名月。私の住む大阪南部は夕方まで曇りが続いた。名月が顔を見せ始めたのはpm9・00ごろ。低空の雲がものすごい速度で飛んでいく。その切れ間から眩しい月が顔を見せる。雲の切れ間から見える上空は、上層の雲が月に白く照らされている。その上空の雲の切れ間に月があるのだが、他の切れ間からは、真っ黒な空が見え、星が輝いている。実はこのときほどくっきりと輝く北極星を見たのは、記憶にない。満天の星空であれば、北極星は2等星だからこうは目立たない。また空気が濁っていても目立たない。夕方まで降った雨で空気が洗われ、本当に澄み切った空が生まれたのであろう。
宇宙に出て空を見れば、どんなに太陽が明るくても、地上から見るよりはるかに多くの星が見える。つまり地上から見える星が少ないのは、都市の明かりが明るいからでなく、空気が濁っているからだ、ということをあらためて思った。
8日、所用で東京に向かった。前日までの東日本の嵐がすぎ、風は強かったが、空はあくまで澄み切っていた。真上の空は青空と言うより黒ずんで見えた。私はこのようなとき、スペースシャトルから見る空はこのような色だろうと想像する。
新幹線から見る御嶽山は、頭を雲に突っ込んでいた。富士山は下から頂上まで、雲ひとつない空に立っていた。頂上は、かって見えたレーダードームはない。冠雪と強風で、地吹雪が、山頂付近でたなびいている。五合目駐車場あたりの施設が見えたのは初めてだった。そして富士の手前に広がる山や茶畑の緑も、奥の方まで青ずむことなく緑だった。富士山高度がすみきっていても、低高度では空気が濁り、ここまで奥深く緑が見えることはない。
前の席の親子四人連れは、カーテンを下ろし、親はうたたね、子はゲームに夢中である。「ぼく、富士山が見えるよ」というとカーテンをあげて「おー」と見ていた。しかし2〜3分もしないうちにカーテンを下ろしてゲームを始めた。とにかく子供は視野が狭い。想像力も乏しい。やはり人間は経験が必要だ。何回もここを通りながら、それでもこの時のような風景に遭遇すると、何か見たことの無いものがありはしないかと眺め続けるこの老人の、好奇心の旺盛なこと。年をとるごとに好奇心が広まり、想像力が豊かになる。これが人間の本当の姿であると私は考えている。ただその精神の働きは、ごく一部を記録として残すことはできても、遺伝子として子孫の脳に組み込むことは出来ない。だから世代が変ると人間は馬鹿なことをしでかす。
6日
結局北朝鮮が今何を一番困っているのだろうか、ということが問題であろう。フセインは一貫して大量破壊兵器の存在、アルカイダとの関わりを否定し続けた。しかし、アメリカはそれがなくても攻撃するつもりだ、として国連の査察を拒否した。そしてシナリオは、フセインの言うとおりに進んだ。誰が得したかではない。イラク市民に多くの犠牲者が出た。まるでイラク市民を虐殺するためのブッシュ・フセイン同盟でもあるかのように。
いっぽう北朝鮮は、なくてもアメリカは攻撃するから、備えなければ成らない、と言う前提に立っている。だからミサイル実験も核実験もやる。それをやめさせようとする中国ですら、おそらく北朝鮮は、外堀を埋めさせようとするスパイとしか思えなくなっているのであろう。
中国はアメリカと仲良くしたがっているから安心できない。日本はアメリカと仲がいいから、日本と仲良くすればアメリカの攻撃は避けられる。したがって日朝国交正常化がしたかった。だから拉致も認めた。しかし日本はそれで満足しなかった。全てを認めれば、北朝鮮の現政権の命取りになる。その限界まで認めたのに日本は納得しない。当然だが日本はそれを認めれば、日本の政権が倒れる。
北朝鮮が中国にとっての重要なカードであるかぎり、アメリカは手出しが出来ない。この前提を認識すれば、北朝鮮は中国との関係を良好に保つべきだが、それがわかっていない。というより、北が強行である間が中国にとってのカードである。しかし物には限度がある。全く手に負えないということになれば、切り捨てざるをえなくなる。その限界がどこにあるのか、については今のところ予想はつかない。ただアメリカも日本も、北への直接圧力はもはや限界である。対中、対ロをどうもって行くかが今後の課題である。安倍はアメリカより先に中韓を訪問するという。彼の知恵かどうかはわからないが、バカには出来ない。しかも予算委員会での管との討論で、歴史観についてこれまでとは微妙に軌道修正を始めた。マヌーバーかもしれないが、圧倒的な観測であった短命内閣の可能性が少し減らされた。
2日
安倍内閣の支持率72%。しかし解説者は言う。調査は質問の仕方で変る。世論調査が必ずしも正しいとはいえない。しかしまた、世論調査の数字は一人歩きする。だから支持率が上がるような設問、世論操作が行なわれる。さらにまた、「長いものに巻かれろ」ではないが、普通人は強い者を支持する。その下につきたがる。支持率の高いものに従うことで安心感を持ちたがる。小泉の高い支持率も本質はそのようなものだ。しかし民主主義下では、支持率は万能である。
政治家になれば、特に政権に就けば、強い者に付き従うという心理はかなり大きく作用するようである。武力、財力、情報力に依存しなければ安心できない。だから日本の権力者は日米同盟主義となる。
安倍等若手保守主義者は本当の世界政治がわかっていない。したがって核保有や敵基地攻撃の権利を主張する。日本が核を保有すると言うことは、財力と科学技術力の問題ではない。日本が核を持とうと思えば、核不拡散条約から離脱する必要がある。問題は北朝鮮の離脱と日本の離脱は全く意味が違うということである。だが若手保守派はそのことが理解できない。世界にとって北朝鮮の核と日本の核では、脅威度が何百倍も違う。
可能性として、安倍は政権に就くことで成長するかもしれない。中韓外交の意味を知り、靖国不参拝を決意するかもしれない。しかしまた小泉に習い、「明言しない」という中間戦術で乗り切ろうとするかもしれない。幹事長中川あたりの認識は、日本との関係悪化で困るのは中韓だから、明言しなければ首脳会談は継続される、ぐらいの認識である。
中国では最近、戦争責任は軍部など一部指導者の責任である、国民もまた被害者だ、という周恩来認識は間違っていたのではないか、タカ派への高い支持率は、日本人の本質的好戦性を示しているのではないか、という考え方が台頭しつつある。
1日
9月30日は、堺市の「国民保護計画」堺市民公聴会に行ってきた。主催は「九条署名推進堺共同センター」、「いま、九条とわたしたち、非戦の市民講座」「無防備地域条例を実現する堺市民の会」の共催であった。経過はこれら団体が、堺市危機管理室と堺市国民保護計画作成について質問したり要望したりするなかで、公聴会をひらくことになったらしい。したがって基調報告は危機管理室参事による(概案)の説明であった。そのうえで主宰者側から、そもそも国民保護計画とは、という批判的講演が行なわれた。次に質疑応答の時間が設定されていたが、時間の都合で退出した。詳しくは別の機会に考えるとして、批判者は「誰でも守られるわけではない、保護対象には明確に階級がある」「日本に対する攻撃を想定しているが、一体誰がどのような目的で」が意図的に隠されている。それを明確にすべきだ・・・というようなことであった。
階級があることは事実である。だがそのことでは批判にはならないだろう。計画自体が憲法が大前提である。けんぽう条文は、国民は皆平等で階級的前提はない。したがって計画もまた、階級性をそこに盛り込むことは出来ない。
誰が攻撃を仕掛けると想定するかについて、政府は絶対に言わないと批判するが、それもまた当然である。あきらかに想定は北朝鮮であるが、それを口にすれば、敵国と規定することになる。だから策定者は口が裂けてもいえない。つまり言わずもがなであり、国民保護計画は、戦時対応計画である。だから言えない。
中曽根となべつねの時事放談。元々読売は中曽根内閣の機関紙である。したがってこの両者が対談すれば「そうだそうだ、尤もだ」になる。中曽根は、分祀分霊をしなければ、靖国は参拝しない、という。したがって読売もなべつねも首相の靖国参拝に反対である。そのうえで、安倍が靖国参拝はしないと明言しないかぎり中韓との関係改善は無理だろう、という。
中韓との関係如何に関わらず、現在のところ、中曽根の靖国対応は妥当な線である。しかし年配者達が、戦後日本の国是に基づいてその政策を語るのにたいし、若い部分は全く違う。だから靖国参拝は個人の問題であり、国内問題ですらない。つまり小泉の個人の意思の貫徹を尊敬し、それを批判する者に対し、批判の内容の如何を問わず、小泉の毅然とした態度を支持する。
ワイマールドイツと九条日本の市民心理の類似性に注目する必要があるようだ。
9月へ