私ネイビー通信代表田代は、本業は水玉白玉という会社経営者です。
ネイビー通信は今年の3月初旬に作りました。すると3月11日に大震災が起こりました。
ちなみに私はその時船橋市のサウナで休憩していました。2時46分そこを出ようとしたらロッカーでグラグラと。それで中でテレビを見たら、大津波警報。大震災。
大変な状況となりました。私はしばらくテレビを見ていましたがチェックアウト。街はまだまだ平常でした。JRは何時間かしたら動くだろうという感じで駅の中の店も営業していました。しかし街は何か薄暗い雰囲気にだんだんとなって行きました。
そして恐ろしい(とんでもない事をやるな)JRは店を閉鎖して、そして管理職らしき男の主導でシャッターを閉め、客を追い出すという愚行をはじめました。
そして客は街へ。私は御飯を食べながら、いつもと違う街を他の人達と過ごしていました。
しかしJRは動かず、それより前に京成電鉄も早々と終日運休を決定。駅前で警察官が(JRはいない)JRは今日は運休のようだ、と。私はああ、と思いました。その時は既にホテルやサウナネットカフェは船橋の街にいた人だけでもう埋まっているようでした。
私は仕方なくまた御飯を。でももうお腹いっぱいでした。しかし夜11時でも、もうJRもタクシーもありませんでした。私は仕事で都内に戻る必要がありましたので、都内へ歩きだしました、もうその時には逆の都内から歩いて帰宅している方々がずっと歩いて帰っていました。もう5時間歩いて帰宅している人たちばかりです。しかし皆根性ありで割と元気でした。しかもそれは一日だけのことだからですから。私は西船橋まで歩きました、そこのドンキホーテでテレビを見て少し休憩し、この悲惨な震災を悲しみました。ドン・キホーテでは、スニーカーなどが売り切れていました。わたしは仕方ないので更に都心へ、途中下総中山の西友でパンを配っていました。まともな人たちがいました。いい人たちがいました。更に都心へ、途中で東西線は妙典まで来ているという話でしたが、都営線も動かすという話で、私は都営線の東の終点の本八幡駅まで歩き、都営線で都内へ帰りました。
震災当日の私はこうです。東京の人間は翌日12時には完全に回復しました。
そして私はその後何故か東電に取材に来たのでした。それは3月14日です。
3階の大会見場では役員を含む記者会見が開かれていました。そこに私は途中から入り、計画停電について質問をしました。自宅はもともと引っ越しで中央区に。
その後私は、東電の中に寝泊りしたり、ビジネスホテル、サウナ、ネットカフェで寝たり、今日までもかなり詰めています。
本業の事等でも忙しかったので、なかなかupしませんでしたが、これまで画像もかなり撮ったり、いろいろ考えや論理がありますので、upしていきたいと存じます。
自分の画像ももちろんですが、自分が会見等に出ていても、撮り損ねたものもありますので、ニコニコ動画の画像等で補足します。
ところで先ほどNHKと読売の記者さんとお話した、自分のバリエーションとしての通信社(まあそんな大きくするわけではないが)のお話の中で実業だけでなく通信社もやっていた尊敬する武藤山治が時事通信の創設者というのは間違いでしたのでこの場を借りて訂正いたします。武藤山治は「時事新報」を作りました。しかしこの「時事新報」は「産経新聞」がまだ所有しているそうで復活の動きもあるそうです。是非復活させてくださいね。
時事通信も好きな方ですが(pressですし)。
ちなみに本日の会長会見は、私はもちろん自分の質問の映像を撮っていたはずなのですが、自分の質問の前に切っていました(他の与太質問?があり)。
ですが産経新聞では記事になっていましたので、それとユーストリームでの映像で御容赦ください。もう少し後で貼ります。
ユーストリーム↓54分:45秒から59:20秒までが私の質問と会長の応答です。
http://www.ustream.tv/recorded/14087403産経 私のやつは1ページの11行目から2ページの3行目までです。↓
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110417/biz11041717400007-n1.htm
posted by ネイビー通信 at 22:33|
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