日露戦争 概説4 明治37年2月9日〜明治38年9月5日
旅順にはかつて清国が構築した旧式の要塞があったが、日清戦争後ロシアが三国干渉の代償として大連とともにこれを租借してからは、画期的に強化された大要塞に改築する工事を進めていた。1901年になって当時のクロパトキン陸相による構築計画が決定し、1909年完成を目途として総工費159万ルーブルを投じて第1期工事が進められ、工期の途中で日露開戦を迎えていた。 当初ロシア国防委員会やゴルバッキー将軍によって提案されたものからは縮小され、主防御線は前面の高地から見下ろされ、主防御線の外側から市内、港内が砲撃可能であるなどの弱点はあったが、多数の近代的堡塁と砲台を中核とし、その間隙を臨時堡塁、囲壁、野戦陣地等で補い、鉄条網をめぐらせた堅固な近代要塞となるはずであり、特に海正面は多数の砲台が造られた。
関東軍軍司令官ステッセル中将、旅順要塞司令官スミルノフ少将以下守備兵力は東狙兵第4師団、同第7師団を中心に約47000名を数え、のちに海軍陸戦隊、義勇兵等が加わり、乃木第3軍を迎え撃つ態勢を固めていた。本国から救援のバルチック艦隊が来航するという連絡は既に伝えられており、守備隊の士気は極めて高かった。
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日本海軍の戦略的見地からすれば、ヨーロッパからの増援到着前に旅順にあるロシア太平洋艦隊を潰滅しておくことが絶対に必要だが、旅順要塞の庇護の下に健在を図ろうとするロシア太平洋艦隊を撃滅させるには、陸正面からの要塞陥落しか手段はなかった。 同時にそのことは、日本陸軍の戦略的見地からすると、極東ロシア軍との野戦決戦に勢力を集中するためには、要塞を攻撃するよりも陸上で封鎖監視に留める方が有利であり、 旅順要塞の攻略に大きな戦力を割くことは、極東ロシア軍の各個撃破のための戦力を弱めてしまうことになる。陸軍のみの戦略であれば、旅順要塞は、旅順に至る鉄道及び海上を遮断すれば袋の鼠であり、大きな犠牲を払ってまでも攻略する必要はなかったが、我が陸海軍統帥部としての作戦上はそれを許さなかった。 要塞戦を軽視してはならないという、田中義一中佐(後の大将)、佐藤鋼次郎中佐(後の中将)、由比光衛少佐(後の大将)らの進言は積極的に採用されなかった。容易に攻略できたという日清戦争での経験とロシア軍の厳しい機密保持と相まって、旅順が最新式大要塞に変身しつつあることを知らなかった日本軍は、近代的攻城戦法の認識が不十分のまま本作戦に臨むこととなった。
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開戦碧頭の旅順港外奇襲の戦果は少なく、3回にわたる閉塞作戦も、広瀬中佐等の奮戦にもかかわらず十分な成果に至らなかった。艦砲によるロシア艦隊への間接射撃も思わしくなく、直接的旅順港封鎖の長期継続は聯合艦隊にとって重い負担となっていた。さらにはウラジオストックのロシア別働艦隊は日本近海に出没し、聯合艦隊は艦隊を分遣せざるを得なくなった上に、4月末にはバルチック艦隊の東航決定が報じられた。この態勢でロシア増援艦隊を迎えれば日本は危機に立つ。かくして5月末、陸上からの旅順要塞への攻撃は決定された。 5月29日 以下のような戦闘序列が発令され、軍司令部は6月1日宇治港を出港、途中で聯合艦隊と打ち合わせを経て8日大連西北に到着した。
6月26日 剣山等の敵陣地を攻略して前哨戦を推進、要塞補強の時間を得ようとするロシア軍の奪回攻撃を撃退してこれを占領した。さらに第9師団などの増援部隊の到着後攻撃を再開、7月30日には要塞に対する攻囲線に進出した。陸軍の要請による海軍の陸戦重砲隊は、8月7日には旅順市街を砲撃して火災を発生させ、このため旅順艦隊は出港してウラジオに向かったが、途中で待ち受けた日本艦隊と黄海海戦を行い、その多くは旅順港に逃げ帰った。ロシア太平洋艦隊は再び出港することなく、水兵や砲の相当部分を揚陸して陸上防備を強化した。
8月9日には東正面の前衛陣地を攻略、攻城砲兵と弾薬は、我が軍によって修復した鉄道にて展開を終えた。
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8月16日 乃木大将は軍使を使って「非戦闘員の避難と開城勧告」を送付。敵将ステッセル中将はもちろんこの勧告を拒否した。 8月19日 0600 我が攻城砲の砲撃とこれに続く突撃によって旅順総攻撃が開始された。
8月21日 第11師団が東鶏冠山第2堡塁を占領するも集中砲火を浴びて奪回された。22日には盤竜山東堡塁の斜面に張り付いていた姫野工兵軍曹ほか数名が、堡塁近くの機関銃座を爆破して守兵が少ないことを報告、これに乗じて歩兵第7聯隊の残存部隊が突撃して同堡塁西北突角を占領した。ロシア軍の再三に渡る逆襲に対して、日本軍も増援を送り、遂には西堡塁も占領した。24日も盤竜山東、西堡塁を確保するとともに戦果の拡大に努めたが、弾薬不足のため沈黙させられてしまった。
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第1回総攻撃の戦訓に鑑み、強襲に替えて正攻法による作戦を採るに至った。即ち、堡塁方向に壕を掘り進み、その先端に第2攻撃陣地を構築、防御側の有効射程に入ってからの前進、突撃準備等のすべてを攻撃側の築城による援護下に行うことによって、時間はかかるが犠牲を少なくより確実に突入できる方法である。 第3軍は主防御線の堡塁に接近する壕を掘削して第2回総攻撃の準備をすすめつつ、前方に残る前衛陣地の攻略に努めた。9月20日 激戦ののちに竜眼北方堡塁、水師営堡塁などを攻略したが、ロシア軍の集中砲火によって我が損害も少なくなく、かの203高地も一旦占領ののちに奪還されてしまった。
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10月1日から28センチ榴弾砲6門の最初の砲撃が行われた。内地の海岸要塞から取り外して輸送してきたもので旧式ゆえに不発弾も多かったが、予期以上の命中精度と威力を発揮し、重火器不足に悩む日本軍にとっては有効的であった。日本軍が壕の掘削によって堡塁に近接するのに対して,ロシア軍は砲火の集中によって妨害した。夜間作業に切り替えると探照灯をつかって妨害、遂に日本軍は地下坑道を掘り進んで堡塁に接近した。 10月26日 北東正面に対する第2回総攻撃が開始された。今回の主目標は要塞北側主要3堡塁である。同日盤竜山北堡塁を奪取し、砲撃と坑道作業を続けた後に、30日歩兵突撃を敢行、通称一戸堡塁と東鶏冠山北堡塁の一部を占領した。しかし松樹山、二竜山、東鶏冠山の3堡塁に対する坑道作業の完成には時間がかかるため、総攻撃を中止、3堡塁への坑道作業への進捗に努力を継続した。
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バルチック艦隊の東航が刻々と迫り、海軍としては艦艇の整備・修理のため少なくとも2ヶ月間の準備を必要とする。したがって11月末(バ艦隊到着は明年1月と予測していた)には海上封鎖を緩めて内地に帰港しなくてはならない。早期攻略のためにも攻撃目標を203高地に移し、ここを占領して観測所を設け、砲撃によって旅順港内の敵太平洋艦隊を撃破されたい、と陸軍に申し入れた。しかし現地の満州軍総司令部と第3軍司令部は、203高地を攻略しても旅順要塞が陥落したことにはならない、として、非戦略的な主攻転換には反対であった。 乃木軍司令官に対する批判が高まる中、11月23日には、とくに第3軍に対し激励の勅語を賜った。また山県参謀総長からも攻撃成功を祈る漢詩が送られた。全国民の感情もまた激しく、「乃木将軍よ腹を切れ」との轟々たる非難、或いは激励する電報が引きも切らず第3軍司令部へ殺到していた。
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11月に入り、第3軍には第7師団と工兵3個中隊が増加された。焦燥の色が濃い第3軍は、あくまで初期の計画を貫徹すべく、要塞正面からの攻撃を開始した。開始に先立ち乃木軍司令官は「軍司令官自ら、軍予備の第7師団を率いて突進しよう」とまで述べ、その覚悟の程がうかがわれた。 11月26日1300 各隊は多大なる損害にもかかわらず突撃を反復して敵陣の一角に突入したが、ロシア軍の猛烈な砲火と逆襲の反復によりこれを確保することができず、戦況は一進一退であった。 水師営の谷の中から敵の防御線の一角を分断して要塞内に突入し内部を攪乱すれば、敵の指揮系統に混乱を生じる。そう考えた歩兵第二旅団長中村覚少将は、乃木軍司令官に直訴して決死隊を編成した。各部隊より選抜された特別支隊6個大隊3千百余名は、夜襲に臨み総員白いたすきをかけた。有名な白襷隊である。11月26日夕刻、乃木大将の見送りを受け中村少将を先頭に出発した白襷隊だったが、途中で地雷に接触してからはロシア軍のサーチライトに照り付けられ砲火が集中、旅団副官以下多数の死傷者をだし、中村少将自身重傷を負った。かくして窮余の一策として、戦術常識としては無謀に近い夜間の奇襲戦法は失敗に終わった。
11月27日 窮地に追い込まれた軍司令官は、主攻をついに203高地に変更、支援砲撃に続いて同夜より第1師団による203高地に対する攻撃が開始された。 戦況を憂慮した大山総司令官は、児玉総参謀長を作戦指導のために派遣、児玉大将は直接第3軍参謀を統括するに至った。12月3日から攻撃が再開され、12月5日にはついに203高地を占領確保した。既にロシア軍も逆襲のための予備隊を消耗し尽くしており、203高地はまさに全山ことごとく日本軍将兵の屍をもって埋め尽くすことになった。
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203高地陥落後、ロシア軍は急速に戦意を失いはじめた。いっぽう日本軍は、引き続き坑道作業による堡塁攻撃を続け、12月18日から28日まで、旅順要塞の堡塁砲台の中心であった3大堡塁を占領した。明治38年1月1日午後には、要塞線直後の中核陣地である望台頂上付近(185高地)を占領した。まさに市街に突入しようとした1530 ステッセル中将は開城のための軍使を派遣、ロシア軍は降伏した。 12月15日には作戦指導中のコンドラチェンコ少将が日本軍の28サンチ砲弾で戦死したことも、ロシア軍将兵の士気の低下に繋がった。1月2日午後 水師営にて開城規約を調印、明治38年1月5日正午には我が衛生隊本部に充てられていた民家にて、両軍司令官の劇的な会見が行われた。その日は朝から美しく晴れ渡り、数日前までの激戦が嘘のような穏かな日和であった。こうしてロシア軍の開城と武装解除により旅順攻略戦は終了した。 なおこの時明治天皇は、ステッセル中将が祖国のために尽くした忠節を重んじ、武士の名誉を保たしめるように、と希望された。天皇の聖旨は乃木大将に伝えられ、さらにはステッセル中将にも伝達された。我が国が武士道精神を発揮した一例である。
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明治37年7月31日前進陣地を占領してから155日の日数を要し、後方部隊を含めて延べ約13万人、戦闘参加最大人員6万4千(第3回総攻撃時)の兵力に及んだ。 野戦においては敗戦−予定の退却−を続けたロシア軍も、専守防御に徹したステッセル中将以下は、「世界最強のロシア陸軍」の名を辱めることなく、その伝統を遺憾なく発揮した。そのため旅順要塞の攻略戦は、強襲につぐ強襲を繰り返す未曾有の大激戦となり、まさに玉砕と精神的性格を同じくする戦闘であった。
旅順の陥落によって、聯合艦隊はバルチック艦隊に備えて整備、訓練を行う余裕を得、満州軍は次の奉天会戦に第3軍を使用することができることになり、外債募集にも好影響を与えた。そしてこの戦いは、将来戦における科学技術の重要性に関する一大警鐘となった。
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