日露戦争 概説3   明治37年2月9日〜明治38年9月5日
 The Russo-Japanese War ,1904-05


===== 黄海海戦 =====

旅順のロシア艦隊は、旅順要塞の存在とともに艦隊保全を図り、来るべきバルチック艦隊の東洋回航を待って一挙に日本艦隊を撃滅することが作戦の基本とされていた。
世界的戦術家であり勇将で知られたマカロフ中将によって一時、攻勢に転じた時期もあったが、後任のウイトゲフト少将(臨時司令長官)は消極戦法を採用、日本艦隊との決戦を避けていた。極東総督アレクセーエフは、旅順要塞がいずれは陥落するものとみており、艦隊の将来のために早期にウラジオストックに脱出するよう厳命した。
8月10日0540 巡洋艦「ノーウィク」を先頭に、戦艦6、巡洋艦4を基幹とする旅順艦隊は出港、ウラジオ艦隊への合流を図った。

東郷司令長官は、この旅順艦隊を洋上に誘致して撃破しようと敵艦隊発見から4時間半後に敵に追いつき、1315射撃を開始した。我が艦隊は敵の先頭を抑えようと北東に進路をとり、一方のロシア艦隊は日本軍の後方から遁走を図った。ウイトゲフト少将には日本艦隊を撃破しようとする意志は全くなく、ただ皇帝命令に添ってウラジオストック回航の一念のみであった。追撃から約3時間、距離7000Mとなった1837 射弾一発が旗艦「ツエザレウィッチ」の艦橋に命中、ウイトゲフト少将以下幕僚は戦死、さらに機関員も倒れたため左旋回を始め、旅順艦隊の隊列は大混乱となった。主力は再び旅順へと逃げ帰り聯合艦隊は包囲態勢をとったが、日没を迎え、敵艦隊は四分五裂となって四散した。
2000 東郷司令長官は砲撃を打ち切り、水雷戦隊に夜襲を命じ遁走した敵艦隊の捜索を開始したが、ともに戦果を挙げることはなかった。

両軍の兵力
  日本軍 ロシア軍
戦艦 4隻 6隻
装甲巡洋艦 4隻  
巡洋艦 6隻 4隻
海防艦 3隻  
駆逐艦 18隻 8隻

ロシア艦隊中、旅順港まで戻ることができたのは、5隻の戦艦と1隻の巡洋艦だけで、損傷が激しい旗艦「ツエザレウィッチ」は膠州湾で武装解除された。その他巡洋艦2隻は上海とサイゴンで武装解除され、1隻は樺太まで落ち延びその場で座礁した。結局、旅順艦隊は1隻も目的地ウラジオに達したものはなく、残る艦隊もさんざんな目にあい、ロシアの作戦計画は挫折した。

日本艦隊も少なからず被害を被ったものの、戦死64名、戦傷161名に留まった。この黄海海戦は、のちの日本海海戦の前に、とかく軽んじられがちではある。しかしこの海戦によって旅順艦隊は事実上戦力を喪失し制海権を握ったわけで、その意義は決して小さなものではない。東郷長官が期した「敵撃滅」の戦果は及ばなかったが、このとき用いた「丁字戦法」や「敵前一斉回頭」は、のちの日本海海戦に生かされることとなるのである。

===== 蔚山沖海戦 =====

神出鬼没なウラジオ艦隊に悩まされていた上村艦隊は、8月10日以降対馬付近にあって敵艦隊の警戒にあたっていた。
黄海海戦の4日後、8月14日早朝 イエスセン少将率いるウラジオ艦隊の巡洋艦3隻を発見、我が第二戦隊の巡洋艦4隻との間にただちに砲戦が開始された。上村艦隊の攻撃は激しく交戦30分でロシア艦隊は被弾炎上し、特に「リューリック」は操舵機が故障、わが集中砲火を浴びた。旗艦「ロシア」と「グロムボイ」は、被弾したが機関は無事でウラジオに逃走した。わが4艦も全力で追撃したが、交戦5時間後、旗艦「出雲」の弾薬欠乏によって海戦は幕を閉じた。

残る「リューリック」に対して上村長官は、来援してきた「浪速」「高千穂」に処分を任せたが、同時に「溺れる敵兵を救助せよ」と命令、当時ウラジオ艦隊を憎悪していた我が将兵に異様の感を抱かせながらも乗員600余名が救助された。
旗艦「ロシア」と「グロムボイ」は、使用可能な主砲は3門のみとなり、戦闘力を喪失、ふたたび出撃する力はなかった。ロシア艦隊3隻に対し日本艦隊は4隻、それゆえロシアは基本的に逃走を企図するも、戦闘局面においては極めて勇敢であった。むしろ上村艦隊の戦術指揮は慎重で、勝機を逸する場面すら見られたが最終的には敵艦1を撃沈、2隻に大損害を与え、日本艦隊に沈没艦はなく勝利の海戦となったのである。

戦果と損害
  日本軍 ロシア軍
巡洋艦 4隻 3隻
総トン数 39,111t 36,254t
20cm主砲 16 12
15cm副砲 64 48
戦死 44名 約320名
戦傷 64名 不明
捕虜   626名
 

黄海海戦と、続くこの蔚山沖海戦によって、ロシア太平洋艦隊は実質的に無力化してしまったのである。

===== 遼陽会戦 =====

日本軍は8月初め遼陽会戦の準備態勢についたが、遼陽付近に集中しているロシア軍は既に我の1倍半に近く、さらに増援が引き続き到着中であることを知り、速やかに会戦の態勢にうつることとともに、後続部隊の到着ともに全軍を挙げての決戦を開始することとした。作戦計画は、第4軍、第2軍で海城〜遼陽道に沿い攻撃し、第1軍主力は太子河右岸に渡って敵の東翼を包囲する計画である。ロシア軍も、近日中に増援が到着することとなったので、当初の予定を変更、8月21日 浪子山〜鞍山站の線で決戦することとした。

豪雨が続いたため前進開始が遅れていた第1軍は8月23日夕から行動を開始、ロシア東部兵団を攻撃した。激戦ののち26日までに第12師団、第2師団とも拠点を占領、さらに攻勢を続行したためロシア第10軍団は翌日から退却を開始、ロシア軍の左翼に破綻が生じた。また第4軍も鞍山站の敵陣に迫った。クロパトキンは黒木軍の迅速なる進出によって東部兵団左翼が危険となったので、再び計画を変更、鞍山站の線での決戦を中止し、遼陽南側の陣地に総退却を命じた。度重なる計画変更と退却はロシア軍を混乱させ、士気を低下させることとなる。

退却するロシア軍を追って前進した日本軍は、8月30日から遼陽南側の露軍陣地に対し、総攻撃を開始するも、頑強に抵抗するロシア軍の銃砲火によって損害が続出した。北大山の争奪戦では、歩兵第34聯隊第1大隊が勇戦し、人格高潔で文武に秀でた大隊長橘周太少佐は戦死後は軍神と謳われた。優勢なロシア軍砲撃の前に第2軍、第4軍は苦境に陥り日本軍は危機に立った。しかし、31日未明から太子河右岸に進出した第1軍主力はロシア軍の東翼を攻撃、9月2日には饅頭山を占領した。予備隊を使い果たしていたクロパトキンは、防御戦を後退させた後に兵力の集中を企図したが、夜間の突然の後退命令によりロシア軍の混乱は一層深まった。9月2日から饅頭山を巡って激しい争奪戦が続いたが、第2師団の岡崎旅団は、数倍の敵を撃破して山頂を再占領した。

9月3日朝クロパトキンは全軍の総退却に移った。連日の戦闘に疲労の極にあった日本軍は、弾薬も欠乏し追撃の余力はなかった。遼陽の占領までが限界で、ロシア軍退却に乗じることはできなかった。

本会戦は日露両軍の主力がはじめて行った野戦決戦であり、優秀なロシア軍を破った我が軍に対し、国民の士気は上がり黒木軍の名声は海外に轟いた。しかし期待した敵野戦軍主力の撃滅はできず、死傷者も日本軍の方が多かった。敵将クロパトキンは「退却は予定の行動」と公報、引き続く第1回旅順総攻撃の失敗とともに我が軍首脳の憂慮は深まった。

戦果と損害
  日本軍 ロシア軍
参加兵力 134,500 224,600
歩兵大隊 123 195.5
騎兵中隊 37.5 144.5
火砲 門 474 652
工兵中隊 24.3 25.5
戦死 5,557 20,000
戦傷 17,976  
23,533  

(ロシアでは、自軍の死傷を15890名と公報)

===== 沙河会戦 =====

日本軍は遼陽を占領し第一期の作戦目標を達成したが、将兵の損害と疲労が大きく、弾薬も欠乏したため追撃する余力なく、遼陽の北方にて停止し戦力の回復に努めていた。一方ロシア軍は逐次欧州からの増援部隊が到着しており、戦局の前途は楽観できる状況になかった。大本営では人馬、弾薬の補充に努めるとともに兵備の緊急増設に着手したが、満州軍の人馬、弾薬補充は10月上旬まで、創設師団の編成は10月末までかかる見込みであり、爾後の北進には慎重なる配慮が要請された。満州軍総司令部では、国力の限界を考慮し、今後は戦略拠点の占領よりも、小さい損害でより多い敵兵力撃滅を図ることを主眼とし、作戦の工夫と北進準備に努めたが、攻勢開始時期を定められないまま児玉総参謀長は旅順攻略戦の作戦指導に出発することとなった。

ロシア満州軍総司令官クロパトキン大将は、遼陽会戦後一挙に鉄嶺までの後退を企図したが、極東総督の合意が得られず日本軍の停止もあって沙河付近に停止した。9月下旬には第1軍団、シベリア第6軍団等の増援も到着して日本軍よりも著しく優勢な兵力となったのでロシア宮廷の意向も考慮して攻勢を計画し、10月5日から行動を開始した。

日本軍は各種情報からロシア軍の攻勢が近いことは察知できたが、@現陣地で迎撃して損害を与えたのちに攻勢に点ずるか?Aあるいは機先を制して攻勢をとるか?の両論が対立し、結論はでなかった。最右翼前方に突出していた梅沢旅団正面への敵兵が増加してきたので、第1軍司令官は10月7日夜、梅沢旅団を後退させるとともに第1軍主力を右側に寄せて態勢を整えた。8日からロシア軍は本溪湖等に猛攻を開始し、右翼にて激戦がはじまった。

沙 河 会 戦 要 図

児玉総参謀長は6日旅順より戻ったが攻勢転移に関する満州軍総司令部の議論はなかなか決せず、各軍参謀長の意見を聞き、9日夜半攻勢転移の命令が発せられた。10日から第2軍、第4軍が、11日から全軍が攻勢を開始し、中央及び左翼からロシア軍両翼に向かって主攻が指向されたが戦局は進捗せず、この間我が方右翼方面では苦戦が続いた。 激闘が続く間に12日を迎えた。第4軍の三塊石山の夜襲とこれに連携する第2軍の攻撃が成功し、ロシア軍東部兵団の総攻撃失敗とともに転機が訪れた。同日、満州軍総司令部は沙河左岸に向かう追撃を命令したが、ロシア軍の抵抗は頑強で、なお戦線は波乱と激闘が続いた。

満州軍司令部の幕僚は、引き続き北方に向かう攻勢の続行を主張したが、山縣有朋参謀総長から「国力の限界から戦線拡大を避ける」旨連絡を受けていた総司令部首脳によって制止された。18日沙河左岸に陣地を占領することに決し、ロシア軍と付近に対陣したままで冬営の準備に入った。沙河の対陣は明くる春まで続いた。

戦果と損害
  日本軍 ロシア軍
参加兵力 120,800 221,600
歩兵大隊 123 249
騎兵中隊 46 137
火砲 門 488 750
機関銃 12 32
工兵 24中隊 9大隊
戦死 4,099 5,084
戦傷 16,398 30,394
行方不明   5,868
20,497 41,346

===== 黒溝台会戦 =====

沙河会戦後日露両軍は、沙河をはさんで陣地構築と戦闘力の回復に努めながら、攻勢の機会をうかがっていた。翌年の解氷期までにロシア軍は30個師団以上の兵力を極東に集中するものと予想していた日本軍は、ロシアの攻撃を撃退する態勢を整えながら、旅順陥落、第3軍の北上を待ちながら越冬することにした。ロシア軍が攻勢に出る場合、堅固な我が正面を避け、両翼を衝くものと予想し、これに対応するため第8師団(師団長立見尚文中将)及び第5師団を予備として控置した。
明治38年1月 旅順は陥落、待望の第3軍は北進を開始、到着は2月17日と予想された。また大本営は韓国を防衛し且つ満州軍の東側に展開させるため、新たに鴨緑江軍を編成した。

10月26日極東軍総督アレキセーエフ海軍大将は解任され、クロパトキンが極東陸海軍総司令官となり、ロシア満州軍は第1〜第3軍に再編成された。
第1軍司令官 リネウィッチ大将(11/8奉天着)、第2軍司令官 グリッペンベルグ大将(12/8奉天着)、第3軍司令官 カウリバルス大将(12/15奉天着)である。クロパトキンは当初、本国からの増援到着をまって一大攻勢を行う予定であったが、旅順陥落によって第3軍が北上することを知り第3軍到着前に攻勢をとることにした。1月25日 ロシア軍は攻撃を開始、第1、第3軍で日本軍を正面に拘束、第2軍で日本軍の西翼を包囲攻撃する作戦である。日本軍は日増しに増大するロシア軍に圧迫されていたが、24日夜から最左翼の騎兵第2旅団や第2軍兵站諸部隊は撃退され、黒溝台も占領された。
新司令官として着任したグリッペンベルグ大将指揮のロシア第2軍の攻勢によって我が西翼に危機が訪れた。

黒 溝 台 会 戦 要 図

大山総司令官は25日 第8師団長に黒溝台方面の敵撃滅を命じ、26日夜以降さらに第5、第2、第3師団の主力をも第8師団長に配属して臨時立見軍として反撃させた。一方ロシア軍は黒溝台占領後、沈旦堡を重点として秋山支隊の正面に猛攻を加えたが、秋山支隊は奮闘しこれを守り抜いた。またロシア軍は、臨時立見軍の攻撃も阻止し、黒溝台周辺で厳寒の地に連続三昼夜にわたって激戦が展開された。

28日夜になりクロパトキンは、沈旦堡攻撃の成功の見込みがなく、逆に日本軍が大攻勢をとり極めて危険な態勢となることを恐れ、攻勢の中止を命じてロシア第2軍を渾河右岸に後退させた。功を急いだグリッペンベルグ大将がクロパトキン大将の意見を無視して強行する局面が背景にあったともされている。二人は大将昇進は同期であったが、10歳年長のグリッペンベルグの方が宮中での発言権も大きかった。

ロシア軍が厳寒期に大規模な作戦をするはずがないと思い込み、不意を突かれた日本軍は指揮も支離滅裂となり、混乱したが、この危機は兵士の勇戦とクロパトキンとグリッペンベルグ両大将の不和によって辛うじて救われた。ロシア第2軍司令官グリッペンベルグ大将は、会戦後病気と称して帰国してしまった。

戦果と損害
  日本軍 ロシア軍
参加兵力 53,800 105,100
歩兵大隊 54 118
騎兵中隊 29 89
火砲 門 160 428
工兵中隊 6 16
戦死 1,848 641
戦傷 7,241 8,989
行方不明 227 2,102
9,316 11,732


        日露戦争4/旅順攻略戦