日露戦争 概説2 明治37年2月9日〜明治38年9月5日
ロシア軍は正規軍とコサック軍の二種からなり、全ロシア陸軍の現役総兵力は207万、予備・後備役を含めた動員可能兵力を加えると、400万人とも500万人とも考えられていた。 野戦部隊は31個軍団に編成され、この他に狙撃兵旅団、鉄道兵旅団、要塞兵、大蔵大臣隷下の護境兵が存在し、当時自他共に「ヨーロッパ最大最強の陸軍」を誇っていた。
対する我が軍は、開戦時こそ極東配備のロシア軍の約2.3倍に相当したが、ロシア陸軍全体の歩兵大隊数で比較すると僅か約9%に過ぎなかった。 しかし、日本がほとんど全兵力を満州に投入したのに反し、ロシアは欧州方面の国際情勢と国内事情(いわゆる反体制革命勢力への対応)によって兵力使用に制限を受けたのも事実である。
ロシア全海軍は約80万トンと、日本側約26万トンと比較して約3倍であったが、ロシア艦隊は地勢上、バルチック艦隊(バルト海艦隊)、黒海艦隊、太平洋艦隊(東洋艦隊)、裏海艦隊(カスピ海艦隊)などに分散されており、裏海艦隊は湖上、河川での行動しかできず、黒海艦隊もモントルーの中立条約によって、トルコがダーダネルス海峡の通過を禁止するので、太平洋への回航は事実上不可能であった。 太平洋艦隊は、旅順基地を拠点とするいわゆる旅順艦隊と、ウラジオストク基地を根拠地とするウラジオ艦隊とで構成され、一部が仁川、上海を拠点としていた。 ロシア艦隊は全体では圧倒的に我が艦隊よりも優勢ではあったが、極東に限定するとやや劣勢であった。艦艇の形式も多種多様で、新型艦艇と旧式艦が混在していた。後述するように、バルチック艦隊の多くが外洋で作戦するバランスに欠け、練度は低く、実戦に対する準備が日本よりもはるかに悪かった。砲弾も質量ともに日本よりも劣り、砲の仰角の制約から射程も劣っていた。
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もともとロシアの作戦計画は欧州方面を主眼とされており、極東には具体的なものがなかった。これは駐日武官等からの誤った報告と、皇帝以下の「恫喝すれば東方の未開民族日本は屈従する」という日本蔑視の誤判断が大きく影響していた。日清戦争後の明治34年(1901)対日作戦計画の概要が作られ、明治36年(1903)はじめて統一的な作戦計画が策定された。
海軍
陸軍
ロシア軍総兵力は我の7倍から10倍にもあたるが、シベリア鉄道の輸送量から考えて極東に展開可能な兵力は25万内外であろうと判断し、少なくとも均衡兵力(実際にはこの見積は過小で、前述のように終戦時のロシア軍は全軍の3/7 約90万にも及んだ)をもって交戦できるものと考えた。日本軍の作戦計画の重点は早期決戦にあった。ロシアの在極東兵力に早期に決戦を強いて各個撃破し、次いで増援するロシア軍を逐次に各個撃破して講和の機会を待つことしか有利な戦争終末の見込はなかった。
@ 3個師団で敵に先立ち韓国を占領、制海権なき場合は1個師団で京城を占領。 開戦前に作成されていた作戦では、第一期を鴨緑河以南の作戦、第二期を満州作戦としたが、第二期については開戦まで具体的な計画はなされていなかった。これによっても当時の日本が、朝鮮半島の確保とする国是が侵害され、追い詰められて開戦に踏み切ったという状況を伺うことができよう。
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明治37年2月6日0900 行動を開始した我が聯合艦隊は、主力艦隊は旅順港に向かい、瓜生外吉少将指揮下の第4戦隊は仁川を目指した。瓜生艦隊の目的は陸軍第12師団の先遣隊(2200名)を護衛し無事に揚陸させることと、仁川在泊中のロシア巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コレーツ」の撃滅にあった。 2月8日 1600すぎ、瓜生艦隊が仁川港の入口にさしかかった時、出港してきた「コレーツ」に遭遇した。ただちに攻撃態勢をとった日本艦隊を見た「コレーツ」は、砲門を開きつつ急遽仁川港内へ反転した。日露両軍がはじめて砲火を交えたのは実にこのときである。機先を制した日本軍は、翌9日三隻の輸送船から陸軍部隊を上陸させることができた。瓜生司令官はロ艦を含む仁川港内の外国船に、ロ艦が1300までに出港することを要求、外国船の協力を要請した。ロシア艦艇は、仁川港は中立港だから保護して欲しいと頼んだが聞き入られなかった。やむなくロシアの両艦は、日本艦隊の待ち受ける港外へと出撃した。彼我の距離 約7000Mに接近した1220、猛然と戦闘の火蓋が切られた。 ロシア側もよく戦ったが、我が集中砲火を浴びて「ワリヤーク」は火災を起こし(命中弾は推定11発)、艦の後部を沈下させながら再び仁川港内に逃げ帰った。「コレーツ」もそれに従い、両艦は結局全乗組員を退去させたのちに自沈、商船「スンガリー」も自沈した。
日本軍は、一発の損害を受けることなく完勝した。
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2月9日0030 第1駆逐隊(司令浅井正次郎大佐)以下の駆逐艦10隻は、旅順港に停泊する16隻からなるロシア太平洋艦隊対し魚雷20を発射、うち三本が命中、戦艦「ツェザレウィッチ」「レトヴィザン」巡洋艦「パルラーダ」に大損害を与えた。 やがて夜が明けたが、ロシア艦隊は夜襲の混乱のまま港外に停泊していた。1155 聯合艦隊主力は攻撃を開始、ロシア側もすぐさま応戦、これに旅順要塞の砲台も参加して猛烈な砲撃戦となった。我が戦艦「三笠」「富士」「敷島」などにも被弾し、結局は戦機を逸するも、旅順要塞の援護下を動かないロシア艦隊に比べ、聯合艦隊の積極果敢な攻撃は際立っていた。
2月14日 スタルク中将に代わってマカロフ中将が太平洋艦隊司令長官に任命された。水雷戦の権威で勇将として知られるマカロフ中将は、「損傷した軍艦が復旧するまでは、機雷敷設等により艦隊の強化と遼東半島の制海権を獲得し、日本軍の海上交通路を脅かし、日本陸軍の上陸を阻止する」方針で臨み、艦隊の士気、戦闘能力の向上に努めた。
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旅順港で大型船舶が航行可能なのは幅91メートルの部分に過ぎない。この狭い海路に老朽の商船を沈め、港口を塞ごうという閉塞作戦が企図された。しかし敵艦隊と要塞砲台の目前での作戦は生還は期し難く、決死の作戦を意味した。 2月24日 第一回閉塞作戦(指揮官有馬良橘中佐)が敢行された。下士、兵を募集したところ、56名に対したちどころに2千余名が応募したという。全乗組員77名からなる5隻は、翌25日未明0415一気に港内へと突入した。しかし先頭を進んだ「天津丸」が砲火と探照灯によって航路を誤り擱座してそのまま爆沈、「武洲丸」は航行不能となり予定位置に行き着かず爆沈、それを見た「武陽丸」は予定位置を誤認して失敗、猛火をついてほぼ予定位置まで達したのは「報国丸」「仁川丸」のみであった。
この結果を不十分とみた聯合艦隊司令部では直ちに第二次作戦実施を決意、3月27日夜半に実施された。指揮官は前回と同じであったが、乗組員は再度の参加は許されなかった。 その後、5月3日に第三次閉塞作戦(指揮官林三子雄中佐)が企図されたが、暴風雨のため損害が大きく作戦そのものも失敗に終わった。結果は乗員158名中、収容されたのは67名(内20名負傷5名戦死)、捕虜17名、行方不明74名であった。
こうして旅順港閉塞作戦は成功しなかったとはいえ、日本軍の決死の敢闘精神はロシア艦隊を圧倒、艦隊将士の士気は高まった。ロシア側はますます旅順港内に引き篭ることとなり、黄海の制海権はほとんど日本軍の掌中に帰した。なおこれには、勇将マカロフ中将の戦死も働いた。4月13日マカロフ中将は旗艦である戦艦「ペトロパウロスク」に乗り、我が第3戦隊への追撃戦の途中で反転したところ触雷して爆沈、部下650名と共に戦死した。その後を襲ったウィトゲフト少将は艦隊の保全を第一とし、以降の攻勢は巡洋艦と水雷戦隊による威力偵察に限定することとなった。 広瀬少佐の勇戦は海軍軍人の亀鑑となり、その後の海軍を支える精神的支柱となったことの意義は極めて大きかった。大東亜戦争における特殊潜航艇による真珠湾奇襲攻撃、さらには海上特攻の精神は、明治海軍においてその先例を見ることができるのである。
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海軍の活躍によってロシア海軍の脅威はなくなり、陸軍の朝鮮展開は容易となった。 第12師団(井上光中将)は2月16日仁川に上陸して北上を開始、黒木為髑蜿ォ指揮の第一軍(近衛、第2師団基幹)は、3月11日鎮南浦に上陸した。この第一軍主力は、4月29日には早くも鴨緑江渡河作戦を開始した。
ロシア軍の鴨緑江北岸の防衛はザスリーチ中将指揮の東部支隊で、安東地区と九連城地区に防御戦を敷いていた。ロシア軍にとって守るには有利な地形ではあったが、お粗末な塹壕が9個中隊分設けられていただけで、砲兵は歩兵と同一線上のむきだしの陣地に配置され偽装も交通壕も準備されず、部隊間の連絡も充分ではなかった。このようにロシア軍の防御準備に大きな欠陥があった上に、偵察が充分におこなわれず、ザスリーチ中将は日本軍の主攻撃は安東地区に加えられるものと誤判断し、九連城への増援を怠った。 日本軍は右翼の第12師団を渡河させ、靉河上流から包囲させるとともに、第2師団、近衛師団で九連城陣地を攻撃させることとした。九連城付近では日本軍は兵力で5倍、砲兵で3倍の優勢を持つこととなった。対岸の敵情捜索のほか渡河点の調査、野戦重砲の推進、工兵による架橋、海軍の砲艦の進出などの準備ののち、5月1日払暁3個師団は砲兵の援護射撃の下に一斉に攻撃を開始した。日本軍の野砲はむきだしのロシア軍砲兵を圧倒し、第3艦隊の砲艦による艦砲射撃も手伝って、1400頃には九連城西方高地を確保、2000までには九連城陣地を占領した。日本軍はわずか1日で困難な渡河作戦を行った上に国境の敵陣を突破して満州に橋頭堡を確立した。
本会戦は日露陸戦の本格的緒戦であり、士気、練度に勝り、周到な準備と砲兵力が優勢な日本軍が快勝した。緒戦の勝利によって軍及び国民の士気は高揚し、制海権の確保と相俟って爾後の南満州作戦が有利に展開されることとなった。
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第1軍が順調に朝鮮半島を北上して鴨緑江渡河の時期が近づくとともに、牽制効果を収めるよう同時期に遼東半島に上陸させるため、第2軍が編成された。両軍呼応して敵を包囲殲滅させようと計画したのである。
黄海の制海権確保に伴い、第2軍は予定を変更して5月5日から遼東半島の大沙河河口付近に上陸した。敵将クロパトキン大将は第2軍の上陸を阻止するように命じたが、この命令は実行されなかった。予備兵力を含めると9個師団もの大軍を日本軍が上陸させたという事態を迎えて、妨害の部隊は途中から引き返したのである。揚陸は5月13日までに終わり、兵站部隊の揚陸後は態勢を整えて5月16日には第4師団をもって金州と遼陽との遮断に成功、5月23日 3個師団を併列して南山の攻撃を開始した。
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南山攻略には二つの戦術的効果があった。まず遼東半島の先端に旅順要塞があり、南山を攻略して遮断してしまえば旅順は孤立する。さらに南山・旅順をおさせてしまえば、決戦地点と予想される遼陽への北進に背後を脅かされる心配はなくなるのである。 第1師団が正面、第3師団が左翼、第4師団が右翼(同師団の半分は金州城攻撃)という布陣で、まず砲兵隊の攻撃から開始、砲撃のあとは歩兵の突撃である。しかし我が砲兵には重火器が不足しており、効果不十分のまま歩兵の突撃となった。加えてロシア軍の前面は平坦地で身を隠すところはない。突撃する歩兵はさながら標的のようにバタバタと倒れた。 掩蓋機関銃を有する堅固な陣地と旅順から出撃したロシア艦隊の艦砲射撃により、第2軍は苦境に陥った。たとえば第1師団の第1聯隊では、連隊長小原正恒大佐自ら突撃隊を率いて突進、重傷を負ったほどである。 この状況に対し我が聯合艦隊は、「赤城」以下4隻の軍艦と2隻の水雷艇が金州湾にはいり、艦砲による支援攻撃を実施、奥軍司令官の強固な意志により、全滅覚悟の夕刻突撃も成功、1830第4師団の一部が敵陣を突破して一角を占領、1930頃にはロシア軍は旅順方面へ敗走、ようやくこれを占領した。
ロシア軍の正面わずか300メートルを2個師団半の兵力で攻撃して14時間かかり、死傷者は4400名にも及んだ。この南山の作戦は、日清戦争とは全く異なる新しい戦闘、ことにこの後の旅順攻囲戦を示唆したものであった。ところが残念なことに日本軍はこの教訓の活用が十分とはいえなかった。
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ロシア軍は遅まきながら小反撃に転じた。シベリア第1軍団(シタケリベルグ中将)は旅順に向かう日本軍の動きを牽制するために南下し、得利寺に布陣したが、6月14、15日 第2軍の先制攻撃を受けて敗退した。また東部兵団(ザスリッチ中将のちケルレル中将)も第1軍、第10師団の正面に牽制攻撃を試みたが撃退された。 ロシア軍の不徹底な小反撃は敗退を繰り返すだけであった。
こうして8月上旬、日本軍は3方面より遼陽を包囲する形となった。一方ロシア軍は敗退を続けたとはいえ退却は概ね計画的に実施され、日本軍に勝る大軍を遼陽に集結することができた。 |