北清事変(義和団の乱) 概説 明治33年5月〜明治33年9月
北清事変は我が国が始めて経験した先進諸外国との連合作戦である。義和団の乱に際して日本は、列強の共同軍事行動の作戦には消極的で、特に陸軍部隊の増加派遣については極めて慎重な態度を執ったが、度重なる英国等の出兵要請を受けて第5師団の派遣を決定した。我が海軍陸戦隊は太沽砲台奪還の戦闘で奮戦、陸軍部隊も北京公使館救援作戦で勇敢さと軍紀の厳正さを示し、列国のみならず敵側の清国からも賞賛を得た。本作戦は東洋の一小国日本の強さを世界に認識させる結果となり、のちの日英同盟成立にもこの成果は大きく貢献した。 なお清国は、日清戦争、北清事変の相次ぐ敗北によって多額の賠償負担や長期に渡る外国軍の駐留権を承認することになり、弱体を極めた清朝は大正元年(1912)に268年に及ぶ支那支配の幕を閉じたのである。 |
清朝末期の政治は、女性化した宦官による堕落腐敗の極にあった。アヘン、賄賂、汚職、賭博、一夫多妻の乱脈政治である。その清国は19世紀後半、欧米列強の東方侵略により事あるごとに威信を失墜し、人心は動揺し守旧、進歩の二派に分かれ抗争していた。日清戦争に敗れて弱点を暴露してから列強の威圧は更に厳しくなり、さながら利権獲得競争の場と化していた。そこでこれに対応するため「変法自彊」運動を唱え、西欧の文物や政治運動までとりいれ近代化を進めようとする康有為・梁啓張らの進歩派が力を得てきた。 第11代皇帝光緒帝(徳宗王)は、変法自彊策をとりあげ改革の勅令を次から次に発布したが、明治31年(1898)8月16日 守旧派の西太后は突如クーデターを起こし、帝病む、と称して徳宗王を監禁、摂政の座に復権し、改革令をすべて取り消し、康有為一派を追放した。この「戊戌の政変」のため新政は覆され、保守、反動、排外攘夷の前近代化政策がとられるようになり、清国民衆の排外気風も高まっていった。
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列強進出による排外気勢と生活不安に乗じ、清国内では「仇教滅洋」「扶清滅洋」などのスローガンを掲げた排外攘夷の気運が高まり、白蓮教に属し、八卦拳、離卦拳の流れをくむ義和団と称する暴徒によって、キリスト協会が襲撃され、宣教師や信者、一般の外国人までもが襲撃されるという事件が続発した。この動きは明治30年(1897)頃から山東省を中心に活発化し、1900年春には直隷省(北京、天津地方)にも波及してきた。 これに対し、清国に利権を有する列強各国の公使は共同して清国政府に鎮圧するように再三要求したが、清国宮廷内が派閥争いで二分していた。即ち、義和団は救国の義民であるとしてこれに同調する守旧派=西太后一派と、暴民でありあくまでも鎮圧すべしと主張する開明派の対立である。この宮廷内の派閥争いによって清国政府の態度は統一性に欠き鎮圧の効果ははなはだ不十分であった。
明治33年(1900)4月5日 在北京公使館付海軍武官・森義太郎中佐は、軍令部総長伊藤祐亨大将宛に、「義和団党天津北京ニ侵入セリ」と打電した。これが北清事変の第一報と言われており、既に各国共同の動きを知らせるものでもあった。
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事件を重視した北京の各国公使は、5月20日 日本を含む11カ国の代表による第1回公使会議を開き、清国政府に対して義和団を鎮圧するように共同勧告をおこなった。だがその効果もなく、5月27日夜半から北京郊外の操車場が義和団によって襲撃され破壊された。ここにおいて各国公使は武力による自衛の策をとらざるを得なくなり、28日の第4回公使会議で護衛兵を北京公使館区域に招致することを決議し、清国政府に通告した。 清国も兵員を制限した上で承認したので英・米・日・露・独・仏・伊・墺の8カ国の水兵394名(442名?)うち日本からも軍艦「愛宕」から24名(25名?)の陸戦隊が、各公使の要請を受けて5月31日に北京公使館区域に入城した。だが6月3日には停車場と橋梁が破壊されたため、北京・天津間の鉄道は不通となり、北京は孤立状態となった。
6月6日 孤立状態となりつつあった北京において第6回公使会議が開かれ、清帝と西太后に対し、清国政府が義和団を鎮圧できなければ列国は自ら武力をもってあたる旨、奏聞することを提議した。この提議は清国政府にとって衝撃的なことで、実行に移されると清国と列国との関係は決定的に悪化する恐れがあった。
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6月10日 英国東洋艦隊司令長官シーモア中将は8カ国連合陸戦隊約2000名(日本軍52名)を指揮して北京救援に向かった。天津を出発して6月12日郎坊付近にさしかかったとき、北京方面から来た清国兵と武装蜂起した義和団(団匪と呼ばれた)のため包囲され目的を達せずに6月26日天津に退却の止む無きに至った。このシーモア隊の動向は清国政府を刺激させ、西太后ら強硬派の態度を硬化させた。義和団を鎮圧するどころか清国軍と併せて列国軍を一掃しようと画策したのである。 6月17日 タークー砲台の大小177門が一斉に砲門を開き、列国軍艦を砲撃した。列国軍艦はこれに応戦すること約4時間ついにタークー砲台を沈黙させた。同じ頃、英、独、露、日の連合陸戦隊850は砲台占領に向かって進撃し、国名のABC順に右から展開し攻撃態勢に入った。日本海軍陸戦隊328名(長 服部雄吉中佐)は白石葭江大尉の指揮のもとに一気に西北砲台を占領して列国軍を驚かした。その後他の3砲台も占領、交戦5時間でタークー砲台を完全に占領した。これをもって清国政府は列国の宣戦と解し、清国と列国との間は事実上戦争状態となった。同日午後 天津にあった団匪3万、清国兵18600が各国居留地に向かって砲撃を開始した。このとき天津の連合軍はわずか3000名に過ぎず、状況は極めて憂慮すべき状況であった。 日本政府は清国を刺激しないよう海軍力だけの対応を考えていた。しかし情勢悪化に伴い海軍だけの事態収拾は困難と判断し、6月15日の閣議において第1次臨時派遣隊として参謀本部第2部長 福島安正少将を指揮官とする1288名の陸兵派遣を決めた。派遣目的を明確に平時における自衛作戦に限定した軍事行動であった。
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タークー砲台占領を契機に、天津の外国人居留地は義和団及び交戦状態になった清国軍とによって包囲され砲撃を受けていた。 6月21日 清国政府は正式に開戦を決定、北清事変は清国対列国の戦争となった。6月23日以降ロシア軍を筆頭に各連合軍は次々居留地に到着、29日には福島少将指揮の第一陣約900名が到着、対する清国側は義和団を含み約25000名を数えた。7月2日シーモア中将中心に列国軍指揮官会議を開き、福島少将の主張で天津城攻撃の作戦が定められた。司法省通訳から選抜され軍職に就き、単騎シベリア横断の壮挙をもって知られる福島は、英・独・仏・露・支那語を自在に駆使し指揮官会議を終始リードした。福島少将の語学の堪能さに各国指揮官は唖然としたという。
攻撃は列国軍/特にロシア軍の足並みが揃わずしばしば延期された。福島少将は第二次派遣隊を加え日本独力で天津城攻略は可能と判断、日英仏米の4軍で総攻撃を実施、14日払暁には天津城を占領した。
この間北京の11ヶ国公使ら外交官・家族一行及び各国護衛兵8カ国394名(442名?)は、まったくの孤立無援、弾薬食糧は尽きていた。その各国大使館区域を守り抜いた実質的な主将は、大使館付陸軍武官・柴五郎中佐である。柴中佐は参謀本部の命により北京城とその周辺の兵要地誌を調べ上げており、陸軍屈指の支那通の将校であった。清国についての広範な知識を持ち、多くの清国人諜者を使っての情報収集など柴中佐なしには篭城作戦は不可能であった。この活躍は世界各国から賞賛され、事変後は各国政府から勲章を授与された。コロネル・シバの名は世界的に知られることになり、映画「北京の55日」でもその活躍は窺い知ることができる。 なおこの事変中、混乱に乗じた略奪や暴行は目に余るものがあり、紫禁城を略奪から防ぐため日本軍は東華門、神武門、西華門を米軍は南門の守備にあたり、規律厳正な日本軍管轄区域には、保護を求めて各地から大勢の支那人が集まった。
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北京占領後、連合軍は各地の団匪を討伐し、北京政情の安定をまって清国政府との折衝を開始した。一方で9月27日にはドイツのワルデルゼー元帥が連合軍総司令官として着任した。救出作戦が終了した段階でその指揮を受ける必要はないという意見が各国に強く、米、仏2国はその指揮下には入らなかったがロシアは就任を推挙してドイツの好意を買った。その頃清帝は遠く西安に逃れ、義和団も四散し、元帥が手腕を発揮できる余地は殆ど残されていなかった。 清国政府も和を請うことに決し、10月15日から正式に講和交渉に入った。多数国による共同和議のため、一国の利己的要求が他国の干渉を受けやすく相互に抑制される傾向を生じ、要求内容は緩和されたものとなった反面、各国の調整に長時間要した。辛丑条約として講和の成立を見たのは明治34年(1901)9月7日であり、実に事変勃発から1年3ヶ月後であった。作戦行動に比して事変処理はあまりに長い月日を要したのである。同床異夢の武力集団による連合作戦の弱点の一端を現したものといえるが、東洋の小国日本は、勇敢で軍紀厳正なことを世界に示し、列強諸国と肩を並べて国際的地位向上の大きな契機となった。
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北清事変最中である明治33年6月1日 清国兵がロシア領ブラゴエシチェンスクを襲撃したことに端を発して、ロシアは同地の清国人を捕縛の上、老若男女5000人あまりを黒竜江(アムール河)にて虐殺した。この惨劇は清国人のみならず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行為を糾弾する声が高まった。さらにロシアは東清鉄道の防衛を口実にして大軍を送り込み、ついには満州全土を占領した。ついで明治33年11月 極東総督アレキシーフは清国に迫りロシアに有利な密約を結び、さらに翌明治34年には列国の反対にもかかわらず第2の露清条約を結ぼうとしたが、これは日英両国の反対によってロシアは要求を撤回するに至った。
義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは笑みを浮かべて「満州を占領する口実ができた。満州を第二のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもりだ」とウィッテ蔵相に豪語し、さらに皇帝ニコライ二世は、満州を占領後は更に朝鮮も占領することを欲しており、ロシアの侵略的野心は止むことはなかった。かくして北清事変後に乗じてロシアは虎視眈々としていた満州を軍事占領、その矛先は朝鮮に及び、極東の緊張は一層たかまっていったのである。 |