日清戦争 概説3 明治27年8月1日〜明治28年3月10日
平壌占領後、山縣有朋大将の指揮する第1軍は第3師団、第5師団を基幹として9月末までに集結を完了、ただちに北進することに決し、第2軍(大山巌大将)の遼東半島上陸と呼応して鴨緑江渡河作戦を実施する準備を整えた。一方清国軍は平壌の敗戦後、安洲・義州で日本軍の北進に反撃した後に、宋慶を総指揮官とし、約18000で九連城を中心に二里にわたって大小50もの堅固な陣地を占領、15キロ上流の水口鎮対岸付近に依克唐阿(いこくとうあ)の指揮する約5500を配備して鴨緑右岸を防御した。 10月25日払暁 第1軍主力は敵前進陣地の虎山に対する渡河作戦を開始した。前日夜半から密かに進出していた佐藤支隊など一部前衛部隊は、南側から虎山を攻撃、敵主力の側背に迫った。日本軍の夜間軍橋構築と渡河準備に気づかなかった清国軍は虎山付近を固守し、0800頃各陣地から日本軍に対して反撃を開始した。虎山の主将は馬玉崑で、大いに奮戦し頑強な抵抗を示して第6聯隊の一部が苦境に陥る程であったが、支えることができずに九連城方面に後退した。25日夜、第3師団は迂回して九連城攻撃の布陣で露営、第5師団は馬溝から虎山にわたる地域に露営して九連城攻撃を準備した。10月26日0600 歩兵第11聯隊が九連城北側台地に進出してみると敵の抵抗はなく、城内は閑散としていて人影はなかった。清国軍は虎山の戦闘に敗退すると、老将宋慶は25日夜半鳳凰城に退却し、これを知った清国軍諸部隊も例によって戦わずして九連城を放棄して遁走したのである。この作戦で日本軍ははじめて敵地清国領内に占領地を得た。そして国境の要衝九連城の勝報がもたらされると、明治天皇は第1軍に勅語を賜った。 なお第1軍は九連城の無血占領後、直ちに追撃し鳳凰城及び大東溝を占領、清国軍はほとんど抵抗を示さずに三方面に敗走した。敵将宋慶も主力とともに奉天方面に逃れた。
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黄海海戦で制海権を得た我が軍は、大山巌大将の指揮する第2軍を編成、旅順要塞を攻略するため10月24日から金州半島の花園口に上陸した。敵前上陸にもかかわらず清国軍の抵抗はほとんどなく、第1師団は11月6日には半日足らずの攻撃で金州城を占領、敵兵3500は旅順口及び大連湾方面に退却、我が死傷者は25名に留まった。敗走する清国軍を追撃する第1師団は11月8日までに大連湾諸砲台をすべて占領、戦意を失った清国軍はここでも旅順口まで敗走した。11月17日 第2軍は金州を出発、途中前衛の一部が清国部隊の反撃に苦戦した他は大きな抵抗もなく20日には旅順背面防御線に進出した。
旅順は清国北洋艦隊の最重要軍港であり、巨万の財と10数年の時日を費やして当時の新式砲台を構築した東洋一の要塞で、13の永久砲台と4つの臨時砲台には、カノン砲、山砲など各種約100門が配備されていた。李鴻章は増援に努めたが、我が陸海軍に阻まれて十分な増援ができず、要塞守備隊約8000と大連の敗残兵約4000が守備していた。このうち約9000は新規徴募兵であり、守備隊指揮系統は複雑で、実質的な総指揮官は文官であり守将の決意はなく力量に欠けた。配下の将兵たちも日本軍の大連占領に狼狽して逃亡するものが相次ぎ、造船所の官吏も貴重品を盗んで逃走し、旅順市街は大混乱と化していた。 11月21日未明 旅順口攻撃の火蓋が切られた。第1旅団、第12旅団が西方東方からそれぞれ牽制する中、第1師団は旅順の弱点である西北正面から、第2旅団は案子山砲台郡の攻略を開始した。0800には椅子山を占領、松樹山、二竜山の砲台も次々陥落、半日の戦闘で正面の砲台はことごとく日本側に帰した。日本軍が砲台群を攻略して旅順市街に迫るのを知ると、清国軍部隊は潰乱しある者は軍服を脱いで市民を装って逃走した。午後になり海岸砲台の攻撃に着手し、黄金山砲台に突入、吶喊攻撃によって難なくこれを占領した。こうして海正面防備の砲台群もことごとく我が掌中に陥り、1700には大勢は決した。東洋一の大要塞は世界の軍事専門家の予想を裏切りわずか一日で陥落したのである。
この快勝は旅順要塞の軽視となり、のちの日露戦争において旅順攻撃作戦の失敗に繋がるのであった。
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旅順陥落後も北洋艦隊は威海衛軍港内に引き篭り渤海湾口を防護して出撃の気配はなかった。これを海上から撃滅することも湾口を完全に封鎖することも困難であり、第2軍大山司令官と聯合艦隊伊東司令長官は連名にて山東作戦/威海衛攻略の意見具申を行った。即ち清国北洋艦隊を壊滅させ、直隷平野での決戦の前提をつくり清国に講和を請わしめる目的で実施した作戦であった。 威海衛は山東省の北岸にあって海峡をへだてて旅順口と相対する直隷湾再要の要塞である。旅順に匹敵する10年余の歳月と巨費を費やして構築された要塞で、24センチカノン砲以下161門の火砲・機関砲を備えていた。ここでも指揮官は文官であり、守備兵の多くは新規徴募の者が多く相次ぐ敗戦に士気は低下していた。
陸上戦闘
海上戦闘 こうして威海衛は陥落北洋艦隊は全滅し、制海権はすべて日本に帰し、遼東半島の直隷作戦を準備した。
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我が軍は陸海に全勝を収め、遼東半島内の敵を撃破し大連方面に転進した第1軍は、3月5日 牛荘を占領、9日からは田庄台付近の敵を包囲攻撃しこれを占領、満州内作戦を終了した。また3月26日には陸軍の比志島支隊によって澎湖島を占領、支那海方面における海軍根拠地とする目的を達成していた。
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日清開戦以来連戦連敗の清国は、明治27年初冬から一日も早い戦争終結を望んでいた。だが大国の体面を気にする清国は敗戦国として戦勝国たる日本に和を講じようとするほどの決意もなく、密かに欧米各国に対し仲裁の労をとって欲しいと懇願したが西欧各国はいずれもこれに応じようとはしなかった。 12月17日 天津海税務司のデトリングというドイツ人が李鴻章から伊藤博文首相への照会書を持って神戸に現れた。これは日本政府の考えている講和条件を探るためと思われ、その資格にも不審な点があったので日本政府は面会を謝絶した。清国政府はその後も数度にわたり米国公使を通じて講和を申し込んできたが、講和提議についてその誠意に疑問を持った日本政府は、清国政府に日本の意図を知らしめるため、米国公使を通じて、 2月18日 清国政府は米国公使を通じて李鴻章を全権大臣に任命したので会合場所を指示されたい、とする申し入れを行った。3月14日 李鴻章は天津を出発して下関に向かい3月20日から春帆楼で第1回会合を開いた。清国全権は講和会議の前に即時休戦を要請、日本側全権とは休戦条件で難航していたところ、3月24日 日本中を震撼させた小山六之助(豊太郎)による李鴻章狙撃事件が発生した。この事件により日本の講和外交は一気に苦境に陥り、明治天皇の聖旨によって直ちに全6条からなる休戦条約が締結され休戦が成立した。言わば李鴻章遭難事件の代償として休戦が成立したのである。その後も講和条約について協議を重ね、清国側全権の誠意のない駆け引きに対し、日本側全権が憤激して脅迫的言辞で応酬する一幕もあったが、4月17日には日清講和条約及び付属議定書の調印を終えた。 明治28年4月17日調印の講和条約の主な内容は以下のとおり。
・朝鮮独立の確認
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日清の講和が成立し、全国民が戦勝に酔っていたとき、急転直下、全国民をして色を失わしめたのは、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉である。4月23日 在京の三国公使は外務省に外務次官を訪ね、『日本が遼東半島を所有することは、東洋永遠の平和に害があるから速やかにこれを放棄すべきである』と勧告した。ついで清国政府もこの干渉を口実に講和条約の批准延期を要求してきた。
西欧列強が干渉にでることは以前からある程度予想されたことで、必ずしも唐突の出来事ではなかった。極東への東侵政策をとっていたロシアはかねてより日清問題には関心を示し、暫定的現状維持政策から戦争中は一応静観の立場をとっていた。ところが予想に反し日本が大勝を博すると見るや、大陸割譲は現状変更になることからロシアの態度は積極的となり、侵略的意図を剥き出しにしてきたのである。 中でも公然と干渉の度を強めたのはロシアであった。日本に停泊中の艦船に出港準備を命じたり予備兵を召集するなどといった対日恫喝を具体化させており、三国干渉の張本人がロシアであることは明白であった。 4月24日 広島大本営で三国干渉のことを議する御前会議が開かれた。伊藤博文首相は採るべき案として3案を提示した。
1 たとえ新たに敵国が増加するも三国の勧告を断固拒絶する
以上3案について討議を尽くしたが、1案は、陸海軍の戦力上到底勝ち目はない。2案は、列国会議がかえって新たな干渉を導く危険性があり、結局三国の勧告を容れざるを得なかった。日本外交の敗北であった。明治28年5月10日 遼東半島還付の詔勅が下り、全国民は万斛の涙を呑んで三国の武力干渉の前に屈した。
やがて、ロシア撃つべしとの声が期せずして沸き起こり、「臥薪嘗胆」は全国民の合言葉となって富国強兵に努めることとなった。 なお大東亜戦争の動因の一つは、支那事変に対する列国の蒋介石への援助−いわゆる援蒋−の排除にあったが、支那大陸に対する我が勢力の拡大を阻止し、妨害しようとする列強の動きは、既にその45年前において見られたのである。
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