日清戦争 概説2 明治27年8月1日〜明治28年3月10日
日本軍
清国軍
これらに代わって清国軍の実戦力となったのは勇軍と練軍である。
日本軍
清国軍 この中で「定遠」と「鎮遠」は、東洋一の堅艦としてその威容を誇っていたが、艦齢は10数年が経過していた。他の艦も日本艦隊と比較して一般に速力も遅く、新式速射砲を備えた軍艦はなかった。これは清国の内政が乱れ近代化を維持できなかったためで、本来は海軍力拡張に充てられるべき予算が、西太后の還暦祝いのため万寿山の大庭園の建設費用に流用されたためといわれている。
|
||||||||||||||||||||||||
大帝国たる清国はかねてより日本を弱小国視しており、明治維新後の日本については、軽佻浮薄、みだりに西洋文明のまねごとをした一小国夷と嘲り、優勢な陸海軍をもってすれば戦わずして屈服しうるか、戦ったとしても一撃のもとに粉砕しうるものと信じられていた。それ以前に、日本の政争から和戦国論の一致が得られず、たとえ戦うも内部崩壊の危険をはらむ脆弱な国家であると判断していた。世界各国も、同様に国土面積・経済力その他あらゆる面から見て清国の勝利は始めから疑う余地がないとする観測が支配的であった。 そうした中で日本軍の作戦計画は、『陸軍の主力を山海関付近に上陸せしめ、直隷平野において清国野戦軍と決戦するにあり、これが為先ず第5師団を朝鮮方面に進め海軍をして速やかに黄海及び渤海湾の制海権を収めしむ』 と戦争終末の状況を想定し、制海権掌握後の敵野戦軍主力撃滅を作戦の主眼に置いた。
|
||||||||||||||||||||||||
旅順西海岸の制海の大本営訓令を受けた聯合艦隊は、7月23日1100佐世保を出港、朝鮮全羅道西北端の郡山沖へ向かった。第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将)の「吉野」「浪速」「秋津島」の三隻は、25日豊島沖で清国軍艦「済遠」「広乙」と会合した。 開戦前であったため礼砲準備をしていたところ、0750 距離3000Mにて「済遠」が突如砲火を開いた。日本の3艦は直ちに応戦、交戦数分後「済遠」は西方に遁走を開始、「吉野」「浪速」はこれを追撃中、清国軍艦「操江」と英国商船旗を掲げた汽船「高陞号」と遭遇した。「高陞号」は西方に退避したが同商船は清国兵約1200名を搭載していたので、遊撃隊司令官は「浪速」艦長・東郷平八郎大佐に英船の処置を命じた。東郷艦長は英船に停船を命じ、臨検後船員に退去を命じ警告信号の後にこれを撃沈、清国兵を捕虜とした。中立国である英国船舶を撃沈したことで国際問題となりかけたが、東郷艦長の処置は適切であると、世界的国際法学者ホーランド・ウェストレーキ両博士からも評価されたため英国世論は沈静化した。牙山への増援部隊を乗せた「高陞号」の撃沈は、この後の陸軍による成歓・牙山作戦に大きく貢献し、この勇断は東郷の名を国際的にも有名にした。 なおこの海戦で日本側に死傷者はなく、「済遠」に大損害を与え、早々に降伏した「操江」は我が「秋津島」に捕獲され、「広乙」は座礁したのち火薬庫が爆発し残骸を残すのみとなった。この海戦は、戦力的に日本は清国側に数倍し、勝敗は始めから明らかであったが、緒戦の快勝は海軍のみならず陸軍、そして国民にも自信を与え士気を高揚した。
|
||||||||||||||||||||||||
朝鮮政府救援を名目として出兵した清国軍は6月9日 葉志超を総指揮官として2465名と砲8門の部隊が京城南方約100KMの牙山に上陸、その後も増援を繰り返し7月23日に牙山にある清国軍は4165名を数えた。しかし前述のように「高陞号」に乗艦していた1200名と砲12門の増援部隊は豊島沖で撃沈されていた。牙山に集結した清国軍北上の情報がしばしば伝えられ、平壌付近に集結しつつある清国軍主力(約10000)とともに京城付近の日本軍が挟撃される恐れがあり、戦略上からは清国軍主力の平壌集中・南下に先立ち機先を制して牙山付近の清国軍を撃破することが望ましかった。7月25日 朝鮮政府から牙山の清国軍撃退の要請を依頼された大鳥公使は、翌26日 第9歩兵旅団長・大島義昌少将にその旨を通達した。そのころ豊島沖海戦勝利の報が伝わり、全軍みな勇躍、士気は大いに上がった。 大島旅団長は清国軍の主力約3000余が成歓北方に陣地を占領して防戦準備をしていることを知り、これを目標として29日早暁から攻撃を開始することとした。7月29日0200 左右両翼に別れて全軍は一斉に行動を開始した。右翼隊は満潮にあたり道路と水田の区別ができず行軍は困難であったところ、前衛中隊が安城川を渡った辺りで突如敵襲を受け、第12中隊長松崎直臣大尉戦死のほか数名の死傷者を出した。これが日清戦争最初の犠牲者であった。激戦30分ののち敵を撃退、成歓を目指して行軍を続行した。0520 旅団長直率の主力左翼隊は、成歓の東北高地に到着、ただちに敵陣に向かって攻撃を開始した。両軍の小銃・砲兵火力の応酬は激烈を極めたが右翼隊もやがて到着、敵堡塁を続けて陥れた。0700敵主力は退却を始めたので旅団は敵陣に突入、激戦2時間で成歓の敵陣地を占領した。 旅団は態勢を整えふたたび左右両翼に別れて追撃に移り、南北から牙山を衝こうとした。もともと牙山は清国軍がその本拠として長く布陣していた所なので、成歓の敗兵はすべてここに集結し頑強に抵抗するものと考えられ、日本軍は激戦を覚悟して進撃した。ところが夕刻、右翼前衛がその地に到着すると敵は退散した後で清国兵の姿はどこにもなかった。無血のうちに牙山を占領したのである。その後少数の夜襲を受けたがこれを撃退、戦利品は軍旗、銃砲、弾薬その他多数にのぼり作戦は日本軍の快勝に終わった。こののちしばしば見られたように清国兵はあまりにも弱く、逃げ足だけは速かったのである。成歓の敗残兵2000余は多数の小集団に分かれ、多くは変装して山野を踏破し、敵将・葉志超以下は300マイルも果ての平壌まで敗走したという。
なお安城渡の戦闘で第21聯隊第9中隊の喇叭手白神源次郎一等卒が、胸部を敵弾に撃たれたにもかかわらずラッパを口から放さず吹きつづけた、という忠勇美談が当時の国民の士気を鼓舞した。近代日本の忠勇談1号であった。(のちに第5師団は当該喇叭手を第12中隊の木口小平二等卒である、と訂正、修身教科書にも木口の名前で掲載された。)
|
||||||||||||||||||||||||
豊島沖海戦、成歓・牙山作戦で事実上戦争状態に入ってはいたが、明治27年8月1日 明治天皇は宣戦の詔勅を煥発し、政府は開戦を各国に告げた。清国駐在代理公使・小村寿太郎は公使館員や居留民とともに北京を引き揚げ、帰国の途についた。同じ日に清国皇帝も宣戦を布告、これを受けて西欧諸国は局外中立を宣言した。日本政府の勧告を容れて諸政刷新を断行した朝鮮新政府は、8月26日 日鮮両国同盟条約に調印し、日本と攻守同盟を結んだ。 |
||||||||||||||||||||||||
8月下旬 平壌付近に集中した清国軍は12000名、野山砲32門、機関砲6門に達し、成歓の敗将葉志超の指揮下に、敗残兵3000が加わり京城を威圧する勢を示した。8月19日 京城に到着した第5師団長野津道貫中将は、師団全力の到着とともに北進を決意して平壌に向かう前進を命じた。
@ 混成第9旅団(長・大島少将 3600名) 義州街道に沿って北進、敵を牽制
各部隊は後方からの追送補給の不足を自らの糧秣収集や担送などで補いつつ前進、9月15日早朝から一斉に攻撃を開始した。 ところがこれは清国軍の謀略であった。2100 敵は約束を違え風雨と夜陰に紛れて大挙して逃走していき、射撃をすると抵抗することなく遁走していった。これを見た日本軍は15日2400から城内に突撃したが既に敵のほとんどは敗走しており、ほとんど抵抗なく平壌城内を掃討し占領した。成歓・牙山の敗将葉志超は不戦退却案を持っていたと云われ、かかる弱将のもとでは攻撃精神は期待できなかった。
この戦闘で清国軍は朝鮮半島から駆逐され、爾後の作戦は清国領への進攻へと移った。
|
||||||||||||||||||||||||
9月16日 聯合艦隊は豊島沖を出港、途中清国艦隊を捜索しつつ海洋島に向かった。翌17日1030 海洋島北東に煤煙を確認、清国艦隊であった。明治27年9月17日1250 距離5700Mで敵旗艦「定遠」が攻撃を開始、日清戦争における最大の海戦の幕は開かれた。
日本側兵力は聯合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。清国艦隊は輸送船5隻を護衛し鴨緑江に停泊中であったが、こちらも日本艦隊の煤煙を認めて南下してきたのである。清国艦隊の陣形は、中央に「定遠」「鎮遠」を配し、左右に各艦を配する後翼単梯陣形(三角隊形)で日本艦隊の側面に衝突するように航進してきた。これに対し日本艦隊は、第1遊撃隊・本隊の順に単縦陣・一列縦隊で臨んだ。これは運動の自由があり、速度に勝る日本艦隊は旋回しつつ距離3000Mに近接してから猛烈なる砲撃を浴びせた。 戦闘開始直後から敵の陣形は乱れ始め、旗艦「定遠」は操舵通信機能を損壊し、艦隊の指揮をとれなくなり各艦ごとの攻撃になった。右翼の「揚威」「超勇」は早々に火災を起こしており、日本艦隊は勢いに乗じて接近して猛撃を加えた。戦闘は日没まで続き、激戦5時間、敵艦「超勇」「致遠」「経遠」を撃沈、「揚威」「広甲」を擱座させ、他の艦にも大損害を与えた。一方の日本艦隊にも相当の損害があり、旗艦「松島」は死傷者90名に及び勇敢なる水兵こと三浦虎次郎三等水兵も戦死した。本隊最後尾の「比叡」は、「定遠」「鎮遠」らに包囲され集中砲火を浴び死傷者50名を出し、ほとんど原型をとどめないまで破壊された。速力の遅い「赤城」も同様で、艦長坂元八郎太少佐は戦死した。 清国海軍の顧問武官として「鎮遠」に乗り込んでいたマッギフィン米少佐は、「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する。」と日本海軍の一糸乱れぬ操艦を高く評価した。このように殲滅させることはできなかったが清国艦隊に大打撃を与え、その後は威海衛に閉じ込め黄海・朝鮮の制海権をほぼ掌中に入れることができた。爾後我が陸海軍の作戦は極めて有利となり、戦局の前途に明るい兆しが見えた。
|