日清戦争 概説1 明治27年8月1日〜明治28年3月10日
西欧列強の東洋侵略の最中にあって、日清両国の角逐はかれらに漁夫の利を与えるに過ぎない。日清が善隣提携のためには朝鮮における日清両国の紛争を根絶させることが急務であった。そのため明治18年4月に「天津条約」が締結されたが、締結から約10年後に生起した日清戦争は、清国がこの条約に違反したことが原因となったものである。 即ち、宗主権を維持し朝鮮は属国であると主張し続ける清国と、朝鮮を独立させこれと提携して発展の道を開拓しようとする日本との国策の衝突であると同時に、自力で収拾できなかった朝鮮内部の混乱によるものである。かくして明治27年に勃発した日清戦争は新興国日本が始めて経験した対外戦争であった。しかも相手は老いたりとはいえ「眠れる獅子」 と恐れられ、人口・版図とも我の10倍はあろうかという超大国の清である。国民は不安に慄きながらも維新で築いたばかりの新生国家の命運を賭して上下・官民心を一つにして国難にあたり、連戦連勝のうちに戦争目的を完遂した。しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。宿年の想定敵国ロシアとは早晩戦わざるをえない運命が待っていたのである。 |
日清戦争1 | :日清戦争の背景 壬午・甲申の変 東学党の乱 開戦経緯 など |
日清戦争2 | :豊島沖海戦 成歓・牙山作戦 平壌作戦 黄海海戦 など |
日清戦争3 | :鴨緑江作戦 旅順攻略戦 威海衡作戦 下関講和条約 三国干渉 など |
「大韓国」の国号は、西暦1897年(明治30年・光武元年)10月12日の皇帝即位式挙行の日から起こる。それ以前は「朝鮮」である。 従って「征韓論」とか、明治9年2月調印の修交条規を「日韓修交条規」と呼ぶのは厳密には正しくない。本項では上記起源に基づき「朝鮮」「韓国」を区別して呼称する。
日本は幕末期に西洋11カ国と条約を結んでいながら、近隣の中国・朝鮮とは正式国交を締結してはいなかった。 明治維新ののち新政府は朝鮮との修交を図ろうとし、明治元年12月 対馬藩主・宋義達に命じて書を朝鮮に送ったが、時の摂政である大院君は鎖国主義を採って日本の要求を拒んだ。なおも政府は朝鮮との修交を望んで外交的交渉を重ねるも常に非協調的な態度で我に対した。このため朝鮮の無礼を許し難いとする征韓論が巻き起こり、のちの西南の役に繋がった。だが当面の日本にとっては半島問題よりも北方蝦夷地での対ロシア問題の方が重要であり、何より不平等条約の改正が国策として最重要課題であった。 明治4年11月 琉球の民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)のため虐殺され、3名は溺死、12名のみが辛うじて逃れ去った。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件が起こった。これを受けて政府は、外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させたところ清国は、台湾は清国の領域ではなく、化外の民であり関知するところではない、として我が抗議には応じなかった。そのため明治7年4月4日 政府は陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任じ、陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3658名を以って出征の軍を台湾に送った。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝き、相次いで敵を降しついに台湾全島を平定した。清国は日本の出兵を非難し両国の間は険悪となったが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認めた。我が国は台湾領有は意図せず、全軍を撤収後12月下旬に帝都に凱旋した。本戦役の日本軍の損害は、戦死12、戦傷17、戦病死531であった。 この台湾征討(征蕃の役)は拡大することもなく小戦争で終わったが、日清の衝突は既に明治初頭に遡って現れたのである。
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征韓論争が一段落したのちも日本政府はなお修好の希望を捨てなかった。明治8年 朝鮮国王李煕大王は23歳になり、自ら国政をみる立場となった。保守主義者で攘夷論者の李大王の生父・摂政大院君の影響力も低下し、これにより朝鮮の外交方針も一変、修好の意を通じるまでになった。両国の修好が始まるかに見えた矢先、隠遁していた大院君は京城にはいり、再び政治の実権を握ったので、外交方針は二転し、修好ができなくなったばかりではなく、不幸にして江華島事件が突発した。
明治8年5月20日 軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵から砲撃を受けた。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領、永宗城を焼き朝鮮兵30余名を倒し、火砲38門その他を奪って帰投した。この戦闘で損害は水兵1名戦死、2名が負傷した。明治9年1月 参議陸軍中将黒田清隆を特命全権として朝鮮に派遣、朝鮮と交渉を続けた。交渉は難航したが2月27日 朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて江華島条約12条を結び、ともかく修好は復活した。日鮮が修好を絶った文化8年(1811)から65年目のことであった。
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明治9年の江華島条約によって日本は朝鮮を自主独立の国家と認めた。朝鮮での条約締結の原動力であったのが開化党という近代化に意欲的な勢力である。これは日本にならって内政を改革し、近代国家への脱皮を図ろうとするもので、別枝隊と呼ばれる日本軍人の指導による新式軍隊の育成や日本への視察団などが積極的に行われ、大院君ら保守派を追い、王の舅家・閔氏一族と結んで政府の重要な地位を占め、実権を握りつつあった。 別枝隊が優遇される代わりに旧式軍隊が冷遇されるのは致し方がなかった。これに伴う彼らの不満の増長に加え、給与の不払い、糧食の不正事件が重なって、明治15年(1882)7月20日壬午の変(京城の変)が勃発した。200余名の朝鮮兵によるクーデターは暴民が加わり2000人以上の勢力となり王宮に乱入、王と王子を生け捕りにし、閔氏一族を虐殺した。大院君はこの機を逃さず日本人の追放を図り、派遣教官・堀本礼造工兵中尉をはじめ6人の日本人が殺害された。日本公使館も焼かれ、花房義質公使らは重囲を突破して仁川に逃れ、英国軍艦に収容されて辛うじて帰国することができた。 花房公使からの報告を受けた日本政府は、黒田清隆の強硬論と山縣有朋の慎重論がぶつかり、結局外交交渉を援護するため少数の兵力のみ派遣する慎重論を採った。8月20日京城に戻った花房公使は、公式謝罪、損害賠償、犯人関係者の処罰など6か条を要求した。再び実権を握った大院君は援兵を清国に求めており、回答は遅れた。また山中に逃れていた閔妃は、山中から密使を送りすみやかに清国に救済保護を請うように勧めた。閔氏一族は、大院君と対立したからこそ日本を背景とする開化党と提携したが、その勢力維持のためには日本よりも強大な清国の力に依存しようとした。言い換えれば、清国は大院君と閔氏一族を巧みにあやつり、実質上の属国としていたのである。 その清国は、朝鮮からの要請を受けて陸兵と軍艦6隻を派遣し、緊張が高まったが、8月30日 「済物捕(さいもつほ)条約」が調印され、日本は朝鮮から謝罪賠償の他に公使館護衛のための駐兵権を得た。交渉にあたり清国は、依然韓国は属国であると主張し兵を朝鮮に駐屯、大院君を抑留・引退させ、大いに朝鮮の内政に干渉した。この事件により、我が政府特に軍当局者は対外交渉の容易でないことを強く認識させられた。
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壬午の変後の朝鮮は、京城内では日本兵と清国兵が相対峙しており、政府内では保守派と改革派の対立が続いていた。保守派は、開化党とむすんで大院君を追放した閔氏一族を中心とする事大党で、壬午の変で清国の援助で政権に回復するとますます大国に依存する必要を感じ、守旧派に転じていた。表面上は清国の支持を仰ぎ、裏面では清国のみに依存することが保身には不利なことを悟り、進んでロシア以外の列強と通じようとすらしていた。改革派は金玉均、朴泳孝らを中心とする独立党と呼ばれる明治維新に範をとる開明的少壮集団である。閔氏一族と結んで大院君を追放したが、今度は改革をめぐって閔氏と対立し、日本との連携を強めようと考えていた。 閔氏一族を中心とする事大党は朝鮮内部で勢力を拡大してはいたが、悪政ぶりがひどく人心は閔氏一族から離反しつつあった。朝鮮国王の心境にも変化が見られたが、国政を一新するだけの決意はなく、優柔不断な態度に終始していた。こうした国王の態度に、独立党は一挙に国政改革を断行することに決し、明治17年(1884)12月4日 京城郵便局開設の祝宴に各国公使と政府高官が一堂に会した夜、独立党の洪英植、朴泳孝、徐広範、金玉均らによって事大党の高官閔泳翊を傷つけ王宮に迫った。翌12月5日 国王を擁した独立党は大政一新を布告、王宮守備のため日本公使・竹添新一郎に援軍を要請した。竹添公使は100名余の兵によって王宮を護衛、政権は独立党に帰し、クーデターは一応成功した。 ところがこの甲申の変(漢城の変)が起こると閔氏一族は直ちに清国兵に救援を求め、袁世凱は清国兵2000をもって軍事介入し王宮に迫り、王宮内の朝鮮兵と救援の日本兵に向かって攻撃を開始した。国内二派の政争が一転して日清両国兵の戦闘になったのである。日本軍は数が少なく非常な苦戦に陥った。しかも国王は劣勢の日本軍を見限り、密かに王宮を逃れて清国軍に身を投じてしまった。こうして成功したかにみえた独立党政権は一夜の天下で潰え、日本軍は護るべき王を失ったうえに在留邦人を含む40名を越す死者を出し 京城を撤収、仁川に逃れた。邦人犠牲者の中には暴虐なる清国兵によって犠牲となった婦女子もあった。 日本政府は、朝鮮に対しては謝罪賠償を、清国に対しては国王を護衛していた我が兵を攻撃した罪を糾し、再び問罪使を送った。明治18年1月9日 日鮮間に「京城条約」が調印された。また伊藤博文らを天津におくって清国と談判し、4月18日に至り、日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知の必要を決めた「天津条約」を締結した。
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二度の京城の変を重ね、清国との関係は年とともに悪化した。そして我が政府特に軍当局の対外観念を大きく刺激し、対清軍備を急速に高める決意をさせた。しかし日本は清国に対して戦争を欲してはいなかった、当時の日本は列強との不平等条約の改正に努力中で、日英条約の更改こそ条約改正の基礎になるとみて英国に働きかけていた。その英国は対露仏の国際関係から日清戦争には反対し、それどころか英清同盟説さえも噂された程であった。従って日清の開戦は起動にのってきた不平等条約改正を水泡に帰さないとも限らない。時の外相陸奥宗光は非常な苦悩があり対清外交方針は著しく協調的・平和的ですらあった。 この政府当局の平和主義的協調方針に対して、主戦論を展開したのは軍部であった。陸軍は諸般の形勢から日清は早晩戦わねばならぬものと判断し、一意対清戦争の決意を固めていた。だが海軍は主動的な立場から開戦を論じたものはなく陸軍の意見に追従するという形であった。これには海軍軍備が遅れて対清海戦に自信がなかったことも一因であるとされている。このように国論は二分し、対清政策は容易に一致しえない状況にあった。
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明治17年の甲申の変の敗北によって亡命を余儀なくされた朝鮮独立党幹部は、日本やアメリカに在って再起の機会を待った。その中でも日本にきた金玉均や朴泳孝は、守旧派による朝鮮政府から最もマークされていた危険人物であった。日本は国事犯亡命者として保護していたが、やがて外交上の問題となるのを恐れ国外退去を命じ、実行されないと見るや保護を理由に小笠原や北海道などの遠隔地に移した。その間金玉均は祖国改革の大望を忘れることはなく、日本人の支援者も福沢諭吉、中江兆民、後藤象二郎ら多数にのぼっていた。そのような状況の中で明治27年3月27日 朝鮮政府は刺客洪鐘宇を日本におくりこみ、最終的には上海にて金を射殺、遺体を朝鮮軍艦で輸送した上に四肢を寸断、頭と胴はさらしものにするといった暴挙に出たのである。 この残虐な事件が報じられると日本の国民は朝鮮の残虐ぶりと日本政府の軟弱さをなじり、事件の背後に暗躍する清国の悪辣さに激怒した。世論は強硬外交方針へと移り、日本国内には反朝抗清気運が盛り上がっていた。
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金玉均の暗殺に呼応するかのように勃発したのが東学党の乱である。東学とは西欧の学問に対抗するという意味で、本来キリスト教を排斥する新興宗教であったが、広く朝鮮民衆に浸透するとともに政治的色彩を帯び、政府の失政、地方政治の悪政に抗して内政改革を標榜し、ついには乱を起こすに至ったものである。 明治27年(1894)4月 全羅北道の一隅に起こった東学党の乱はたちまち朝鮮全土に波及、6月には全洲以南がすべて反乱勢力の手中に陥り、さながら革命前夜の状態となった。朝鮮政府は自力解決は困難と判断、6月3日に清国に救援を求めた。清国は直ちにこれに応じ、6月7日には清国軍第1陣約1000名の牙山上陸を開始した。日本に送った通知には「属邦保護のための出兵」とあり、明らかに天津条約違反であった。清国からの通知を受けた日本政府は、「朝鮮を貴国の属邦と認めることはできない」旨を回答し、「居留民保護のため朝鮮に派兵する」と通知、6月9日には第5師団の一部を宇品から出港させた。 日本は清国に対し、協同して朝鮮の内乱を鎮圧し内政改革をすすめようと申し込んだが清国はこれを拒絶した。宗属関係の強化を目指すことが清国の基本方針であったためである。甲申の変後朝鮮の改革派が壊滅状態になっていたため朝鮮側からの改革は事実上不可能であった。そうなると日本軍が朝鮮王宮、政府を抑えたのちに上から改革を指導する他なく、そのためには清国の宋主権の排除が避けられなくなった。英米ロ三国は、それぞれの立場から調停を斡旋しようとしたが清国は、日本の撤兵後でなければ何事の協議にも応じないという態度を固持したためいずれも失敗し、各国ともに傍観の立場をとるに至った。 7月12日 日本政府は第二次絶交書といわれる宣言を発し、戦争も辞さない決意を示した。7月19日には大島公使が朝鮮政府に清国軍の撤去要求を求める「最後通牒」を手交した。6月中旬以来武力をもって京城を抑えていた日本は、閔氏一族に代わるものとして隠棲中の大院君に出馬を促し改革に着手した。7月23日 大院君は日本兵に護られて王宮に入り閔氏一族を一掃して政権を握り、対日協力の態度を明らかにした。ここにおいて朝鮮における日本の立場は一挙に好転するとともに、清国との戦争はいよいよ避けがたいものとなったのである。
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朝鮮は長い伝統を有する中華思想に基づく朝貢体勢に組み込まれ、清国を主君、朝鮮を臣下とする主従関係を結び、清国を宗主国と仰ぐ属国の立場を守っていた。自ら中華と称し4000年の文化を誇る清国は、新興国日本を中華秩序の破壊者としてとらえ、中華世界の防衛を軍備強化の目的とした。これに対し日本は、清国を欧米列強の前に放置された前近代国家と位置付け、阿片戦争以来自国の独立すら危うい半植民地国家が隣国朝鮮の保護をまっとうできるとは思えず、もしこれが破綻すれば朝鮮もまた西欧列強の草刈場となり、日本の存立も脅かされることは必定であった。
当の李氏朝鮮側からすれば、どちらか一方につけば必ず他方の反発を招き、大国清国と新興国日本の間で後進国として混迷を続けていた。日本は朝鮮に対し自由な独立国となることを期待したが、自力救済能力がなく他国に依存を続ける他力本願的政策をとる国は往々にして失敗し、国家を危険な立場に立たせることは史上に例が少なくない。この場合の朝鮮はまさにこれであった。
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