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[27372] ベースボール・ガールフレンド【完結】
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/29 22:13
 


 前書き.


 よーし完結させよう。
 感想・指摘よろしくお願いします。



 ベースボール・ガールフレンド


 「転校生の阿島 慶(あじま けい)です。どうぞよろしくお願いします」

 黒板に自分の名前を大きすぎず小さすぎず、震えそうになりながらも書ききった阿島慶は、新しいクラスメイト達に向き直り、お辞儀をする。

 「ええと、阿島君はこの春から皆さんと同じ屋根の下で勉学を共にする仲間です。仲良くしましょうね」

 阿島の緊張する面持ちを笑顔で眺めていた担任の安藤 咲(あんどう さき)は、教室を見回すと教室の端っこの誰も座っていない机を指差した。

 「阿島君は、夏目さんの隣の席に座ってもらえるかな?」
 「わ、分かりましたっ」

 阿島は、足元に置いていた黒色の地味めなリュックを左手で持ち上げると、指定された席へと座った。
 担任の安藤は、阿島が座るのを見届けると、今日のクラス予定について話し始めた。

 「……ところでさ、君」
 「え?」

 阿島の隣の席にいた少女は、ひそひそ声で話しかける。
 赤みのかかったサラサラな髪の毛を白のリボンで二つ分け、幼さ残る好奇心に満ちたその表情を、阿島は内心でビクつきながらも見る。

 「君、東京第一中学校にいたんだよねっ?」
 「あ、う、うん」

 阿島は、心臓に杭を打ち込まれ血液の流れが停止したかと錯覚した。

 「じゃあさ、野球部とかに所属していたりするのかなっ?」

 顔面の血の気が引き、青ざめる。

 「い、いや、野球は興味なかったからなぁ……」

 (おい、もう勘弁してくれよ野球とかっ)

 阿島は叫びたいという欲求を必死に封じ込め、愛想笑いをなんとか維持する。

 「えー本当?もったいないなぁ。せっかく野球の名門中学にいたのにさっ。ん、でも阿島君って他にスポーツやってたんじゃない?体つきがスポーツマンっぽいし」
 「そ、そうかな?運動は苦手なんだけどな」
 「ふふ、大丈夫だよー。阿島君ならすぐにウチの野球部でもレギュラーになれるよっ。どう?入部してみない?」

 少女の言葉は阿島を数センチずつ後退させていく。

 「ああ、一応……考えておくよ……」

 (考えとくだけだけどね)

 「うん、ちゃんと考えといてね。あ、自己紹介がまだだったね、私は夏目 美恵子(なつめ みえこ)っていうんだー」
 「あ、俺は……」
 「知ってるよっ」
 「え?」

 阿島の背に何か冷たいものが流れた。
 それが冷や汗だという事実に本人は気が付かない。

 「なんで隠すのかなー、君。東京第一中学校でエースピッチャーやってた阿島 慶君でしょ?私、毎月野球小僧読んでるから、そこで阿島君が紹介されているの知ってたんだよねー」

 ガタッ

 「なっ!?」

 阿島は椅子をひっくり返して転んだ。
 そのまま卒倒しそうになる阿島だが、実際にはそうならない。

 「ん、大丈夫かな、阿島君」

 担任の安藤先生の言葉は阿島に届かない。
 心配した安藤先生は、阿島のもとに近寄る。

 「あ……あ……ちょ、ちょっとトイレ行ってきますっ!」
 「うん?」

 夏目と安藤先生は首を傾げる。
 阿島はクラスの皆からの視線から目を背け、唇を強く噛みしめて教室の外へと出て行ってしまった。

 「あれ、ええと……」

 事態を把握できずにいた安藤先生は、口を開けたまま立ち尽くす。
 教室の生徒は、そんな安藤先生の反応にざわめきを立て始めようと口を開こうとして、しかし、それを止めた。

 「大丈夫ですっ、先生!」

夏目美恵子が、教室全体に響く嬉々とした声を発したからだ。

「大丈夫……って、何が?」

 安藤先生は、夏目美恵子の言葉の意味を推すことができない。
 そもそも、誰が聞いても彼女の意図を察することはできないはずだ。
 「我らが北原紅葉中学校野球部の、未来がですっ!」



[27372] 入部届け
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/18 20:48
 



「はぁ……なんてことだ……」

 阿島がトイレから帰還し、騒然とした教室が静けさを取り戻した頃には、阿島を興味本位で取り巻いていた人だかりは消えていた。

 (まさか雑誌で名前を憶えられていたなんてなあ)

 去年の夏休みのことを思い出す。
 先輩の投手が肩を壊して、阿島が代理登板をした去年の全国中学校体育大会。
 阿島は一年生ながら、地区・府・関東大会とエース投手として投げ続け、東京第一中学は最終的に全国大会ベスト16まで勝ち進んだ。
 雑誌の取材を受けたのはその時だったはずだ。
 まさか、それが原因で阿島の野球離れに障害が出現するとは、全くの予想外だった。
 阿島は、教室で騒ぎを起こしたことよりも、夏目が自分の身の上を知っていたという事実に心を波立たせていた。

 「おーい、阿島君聞こえてるかな?」
 「えっ、き、聞こえてるよっ?」

 体を跳ね上げて答える。

 「ええー、さっき皆が話しかけても何も答えてなかったじゃん」
 「え、あれ」

 (記憶がない!?)

 頭を抱えて記憶を弄ってみる。
 だが、彼の脳みそからは教室を出て行ってから後の記憶がすっぽり抜け落ちていた。

 「だめだなぁ。そんなんじゃあ、いつか電柱に頭ぶつけて昇天だね」
 「すごい言い草だっ!?」
 「まあね。それよりも、私は君に野球部に入部して欲しくて現在のところ勧誘中なわけなんだけど」

 ジト目で阿島に視線を突き刺す夏目の表情は、喰らいついたら離れないワニのそれとなっていた。

 「い……や、俺は野球部に入らないと決めているんだ」
 「どうしてー?」
 「それ、私も聞きたいね」
 「ってェ!佳奈!?」

 夏目に抱きつく形で阿島の前に現れたのは、青紫に近い薄色のショートカット髪の少女だ。身軽そうな彼女は、日焼けで茶色く焦げた腕を夏目に絡ませて頬ずりを始めた。

 「あ、あの……」
 「あん?」

 阿島は若干引きつつも彼女と夏目の質問に答える。

 「俺は、野球が好きじゃないから」

 きっぱりと言い放った。

 「……」
 「……」

 阿島は、自画自賛したくなるほどの決めゼリフに成功した感触を得る。

 「ん……っ!」
 「くっ……!」
 「え?」

 しかし、二人の反応は阿島の予想とは真逆のものであった。

 「わ、笑っちゃうよそんなこと言われたらぁっ!」
 「くっはははははっ!いくらなんでもねーぞぉその決め顔はっ!」
 「うっ……」

 悪い癖だ。
 阿島はむやみに格好つけようとしたことを悔いた。

 「はっはぁっ……いや、悪いねいきなり笑ってさ。私は三田 佳奈(みった かな)ていうんだ。どう?入部しなくてもいいから、試合の日だけ助っ人で来てくれないかっ?」
 「おお、良いアイデアだよ佳奈っ!それでいいよね阿島君!?」

 盛大な笑いを終えた二人は、阿島を囲んで妥協案を申し立てる。

 (な、なんでこうなるんだぁっ?)

 阿島は二人の勢いにたじろいでいた。

 「あ、いや……でも……」
 「良いよね阿島君っ!そうだ、どうせだから入部届けも書いてくれないかなぁっ?」
 「うん、そのほうが良いよミエ。部員が少ないと部費もおりないしな」

 ミエと呼ばれた夏目美恵子は、机の中から綺麗に折り畳まれた藁半紙の紙を取り出すと、阿島の机の上に置いた。

 『入部届け』

 という題目が書かれたその紙には、クラス番号、名前、入部する部活の名前を書く欄があり、それらの文言を突然に突きつけられた阿島は戦慄とした。

 「うん?阿島君が動かなくなっちゃったよ?」

 青ざめた表情で硬直してしまった阿島を夏目美恵子は不思議そうに眺める。

 「まあ、いきなり無理に勧誘されればそうなるだろうさ」
 「なんでっ?佳奈も共犯じゃないのっ?」
 「私はミエのやる気に合わせただけだってば」

 やれやれと、三田佳奈は両手を振ると、阿島の両目を覗き込んで言った。

 「まあ、放課後に私らが所属している野球部に来てみてくれよ。部の助っ人になるかを決めるのは、それからでも良いだろう?」

 青ざめていた阿島の顔が、嘘のようにひょっこり動いた。

 「私らが所属している?」
 「ああ、うちの中学野球部には女しかいないのさ」



 ◆◆◆



 ――――――ってェのには理由があんのコレ。
 昼休み、阿島は同じクラスの男子中学生二人組と閑談に興じていた。
 二人組はそれぞれ、銭形 一(ぜにがた はじめ)、剛田 武蔵(ごうだ むさし)と名乗り、阿島とは二限目の化学の実験で仲良くなっていた。

 「阿島、気にならないかぁこの違和感に」

 ギョロっとした大きな目で、背が低く、髪の毛をアフロのようなチリチリにさせている銭形一は、その甲高い声を出すお喋りな口を高速稼働させていた。

 「違和感?」

 阿島は興味を示して聞き返す。

 「そうさ、この違和感には大抵の野郎が敏感に反応するはずだ。ああ、間違いない。この学校に入学して初登校を果たした俺が、校門をくぐる前にもう気づいちまうほどこの違和感は強かったからな」
 「んー。僕は違和感なんて感じなかったけどなあ」

 早口に言葉を紡ぐ銭形とは対照的に、ゆっくり、かつ、どっしりと言葉を返すのは、中学生とは思えないほどの巨大な体躯を持つ優男、剛田武蔵だ。

 「お前はのんびりしすぎなんだよ。だが、そのくせやけに女とは仲が良いから気に食わねェ。ま、それは今の話には関係ないんだけどな。そう、この違和感はクラスの男女比のことなのさ」
 「男女比?」
 「ああ、男女比だ。阿島も夏目と三田の話を聞いていて違和感を感じなかったか?特に野球部の状況について、だ」

 男女比、夏目と三田との会話。
 阿島は連想して思い出す。そう、三田佳奈はなんと言っていたのか。

 「野球部には、女しかいない?」

 「そう、それだ」

 ビシッと銭形は阿島を指差す。

 「男くせえ部活の第一位である野球部、そこに女しかいねえだと?一体全体どんな天変地異を起こせばそんな珍事が巻き起こる。不祥事でもあって部員全員が自主退部でもしねえ限り嘘みたいな話だろうが。……だがな、実際の問題としてウチの学校の野球部には男が一人もいない。どうしてこんなことが起こると思う?」
 「実際に不祥事でも、あったんじゃないかなあ」
 「例えを真に受けるなよゴウ、阿島はどう考える」

 銭形一は阿島に答えを促す。

 「そりゃ、この中学が元女子中学で、男女共学になった今でも男子生徒の入学者数が少ないから、じゃないのか?」

 阿島は、分かりきったことだと言わんばかりに調子を抑えた声を返した。

 「へェ、他にも理由はあるが……まあいいさ、うん。半分正解だ。なんだ、お前知らずに転校してきたわけじゃあないんだな。てっきり俺はお前がそんなことも知らずに間抜けに転校してきたのかと思っていたぜ」

 阿島が仰天する顔を期待していたのか、銭形は意気消沈の様子で天井を見上げた。

 「寧ろ、調べた上で転校してきたんだけどな」
 「は?わざわざ調べてだと?」

 ボソッと口走った阿島の囁きに、銭形は逃さず反応する。

 「あ、いや口が滑った。忘れてくれ」

 慌てて訂正しようとするが、もう遅い。

 「……ふぅん、なるほどな。お前もそういう口か、いや、まいったなぁ」

 それまでのゆったりとした態勢を直し、銭形は阿島の肩に手を置いた。

 「そういうことには鈍な奴かと思っていたんだがな」
 「え?銭形お前何か勘違いしてっ……」
 「いいって、いいって。協力するぜ俺は、おっともう時間だ」

 昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴った。
 阿島の制止も効果なく、銭形はチャイムの音と共に自分の机へと戻っていく。

 「ちなみに僕はよく調べずに入学しちゃったんだ」

 会話中ほとんど無口だった剛田武蔵も、それだけ言うと阿島の元を離れた。

 「というか、半分正解ってなんだよ」

 てっきり、元女子中であることだけが理由だと思っていた阿島は、他にも理由があるという銭形の意味深な答えに多少の興味を惹かれたが、授業が始まってしまうと、そんな考えは思考の外へと消えてしまった。
 



 ◆◆◆




 帰りの会。
 保健室のベットから帰ってきた安藤先生の短い話が終わると、阿島のクラスメート達は放課後の部活動へと足を向ける。
 本来ならばそれらのクラスメート達とは反対方向に真っ直ぐ直帰する予定であった阿島だが、当然、それを夏目美恵子と三田佳奈の二人組が許すはずもなかった。

 「……で、ここが部室ですか」

 阿島の目には、クリーム色に塗装された木造三階建ての部室棟が映っている。
 それぞれの部屋の扉には、テニス部と書かれた木札がぶら下がっていたり、バスケ部と書かれたシールが貼られている。
 中学校舎から連絡通路で繋がれた部室棟の周辺にはいくつかのベンチが点在し、正面には広いグラウンドがあった。

 「はは、そっちは違う」

 三田佳奈は阿島の言葉を笑いながら否定し、部室棟の裏側へと歩を進める。
 しかし、部室棟の裏は定期的な草むしりがされていないせいか、雑草畑となっていた。

 「あの、ここを進むってこと?」

 阿島は腕を撫でる草の感触を気味悪く思いながら、夏目美恵子と三田佳奈の後をついていく。

 「そうだよー。道は悪いけどこっちに私達野球部の特製部室があるんだっ」

 夏目美恵子は、獣道のように草が押し倒されて出来た道を足で踏み広げて進む。
 そうして数十秒。

 「お、見えてきた。あれが私らの部室だ」
 「あれが……?」

 阿島は言われて部室を探すが、その姿を捉えることができずにいた。

 「いや、部室って……どこだよ」
 「え、もう着いてるじゃない。阿島君、ここだよ、ココ!」

 夏目美恵子の指差した先には、青色のビニールシートで張られたテントのような何かがあった。

 「これじゃ、ないよな?」

 いくらなんでも、と阿島は苦笑の表情で二人を振り返る。

 「いや、だから」
 「ココなのさ」
 「なんでだっ!?」

 ありえない。
 阿島は何か聞き間違えたのかと自分の聴力を疑ったが、二人の言っていることは事実らしかった。その証拠に、部室と思わしきそれには、いくつかの長テーブルが設置されており、テーブル上には野球部としての活動を支えるボール、バット、グローブなどの最低限の道具が揃えられていた。

 「心外だよっ、阿島君。ほら、こうやって色々と工夫して作ってあるのにっ」

 夏目美恵子は、トスバッティングという打撃練習に使われる移動可能なネットを柱にして、ビニールシートとネットを紐でくくりつけていることを必死にアピールする。

 「でも横が何もないだろっ!?」
 「まあねっ」

 (開き直ったっ!)

 阿島の言う通り、横からの風雨に全くのノーガードを決め込んでしまった部室は、ほどよく湿っていて、カビの繁殖には最適である。

 「このテーブル、裏面が腐り始めてないか……?」

 追い打ちをかけるように阿島は部室の不備を指摘する。

 「そ、それは気にしないでっ。野球の道具だけは他の部の部室に入れさせてもらってるんだから」
 「え、そうなんだ?」

 阿島は道具の扱いが意外としっかりしていた事になんとなく安堵する。

 「まあ、さすがにこんな所に道具を放置するほど私達も無知ではないさ」

 三田佳奈はテーブル上に置いてあったグローブを左手に嵌めると、右手に持ったボールをグローブに収めるように投げる。

 「だけど、ここにもう出されている道具は誰が出したんだ?」
 「ああ、私達の他に一年生で野球部の子がいてね。たぶん彼女でしょ」
 「……三田先輩、おはようございます」
 「うあァっ!?いつの間に!?」

 阿島の背後に現れたのは、片目を長めの髪の毛で隠した存在感の儚げな少女だった。

 「阿島君、すごい驚きようだねー。おはよう凛ちゃん」
 「……夏目先輩もおはようございます。こちらは?」

 凛、と呼ばれた少女は、見知らぬ人間であるだろう阿島を特に興味はないといった顔で見る。

 「彼は転校生の阿島慶君だよー。今日は野球部の見学に来てもらってるんだっ。彼、去年の総体(全国中学校体育大会)で全国ベスト16まで行ったエースピッチャーなんだー凄いよねー」
 「……そうですね」

 夏目美恵子の言葉に一瞬だけ目を大きくすると、少女は一度小さく息を吸って阿島へと体を向けなおす。

 「……私の名前は薄代 凛(うすしろ りん)です。ポジションはセカンドです。よろしくどうぞ」
 「こ、こちらこそよろしく」

 一度頭を下げると、薄代凛はバットケースを持ってグラウンドの方へと向かってしまった。

 「行っちゃったな」
 「彼女は無口だしな、でも礼儀正しいし運動神経も良い」
 「そうだよねー。阿島君も仲良くしてねっ」
 「……」

 (なんだか入部が決定事項になりつつある気がするな……)

 阿島は状況が自分を置いて先走ることに不安を抱く。

 「先に言っとくけど、野球部には入らないからな」

 (ここで一度はっきり言っておかないと、いつの間にか野球部の一員にされそうだ)

 「だーから、今日は見学だけでいいからさっ」
 「それだけで済む流れでは無い気が」
 「おいおい、これ以上は手間をかけさせないでくれよ、転校生」

 三田佳奈は溜息を吐き、一冊の雑誌を取り出す。

 『野球小僧』

 その冊子に見覚えがあった阿島には、これから先の展開が読めてしまった。

 「悪いことは言わない。ただ、助っ人にもなれないというのなら話は別だ。当然のこととして、私達野球部の報復は受けてもらうよ」

 目が据わっていた。
 阿島は三田佳奈の凶暴な死線に釘付けとなる。

 「そ、そんな雑誌で何をしようって?」
 「カ、カナっ、そういう脅しみたいなことは安藤先生だけにしておこうよっ」

 夏目美恵子はぎこちない笑みを浮かべながら三田佳奈を止める。
 すると、三田佳奈は表情を緩めた後、頬を膨らませた。
 阿島は彼女の豹変ぶりに戦慄する。

 「ええー、でも、先生を顧問にした時は野球部創設に必要なことだからやむなしって言ったじゃないかー」
 「でも、相手は同級生だしさっ」
 「はぁ、どうせだから雑誌の切り抜きで嘘っぱちの記事書いて、校内に学校新聞として阿島君のスキャンダル流したり、三年の先輩に阿島君の周辺をマークとかしてもらって、阿島君が先輩に弄り倒されて恐怖する様とかを観察とかしたかったのになぁ。ミエが言うなら仕方ないな」
 「子供のいたずらレベルでも、そんなことしたら阿島君が可哀そうだよっ」
 「そっかー」
 「……」

 阿島は無言で二人の会話を聞いていた。そして半ば諦めた。

 (この二人の言うことは何かおかしい……三田を止める夏目の言動もどこかズレてるしっ)

 「あ、私達も早くグラウンド行かなきゃだね」
 「そうだな、じゃあ阿島君。私達はここで練習着に着替えるから、君は先にグラウンドの方へと行って凛と軽くでいいからキャッチボールでもしていてくれないか?」
 「あ、あぁ……そうさせてもらうよ」

 着替えを始める二人を残して、阿島はテーブル上に置いてあったボロボロのグローブとボールケースを持つと、グラウンドへと向かう。
 阿島はその道中、自分の野球部入りを企てる二人の悪そうな顔を脳裏に浮かべることになるが、それはこの状況においては仕方がなかった。
 









[27372] シンカーとスローボール
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/02 19:54



 北原紅葉(きたはらこうよう)中学のグラウンドは狭い。
 それは放課後に校舎の屋上に上がるとよく分かる。
 まず、サッカー部は陸上部が駆け抜けるだろう一周三百メートルのトラックをボールを蹴りながら通過し、女子ソフトボールが打ち上げた打球は部室棟の屋根へと容易く突き刺さる。このような危険な環境下で、各部活の部員は他の部活の部員と共にお互い気を付け合って練習に臨んでいる。が、気を付けてはいても、この状況が長く続けば何らかの事故が起きてしまうのは明らかなことだ。


 「うわ、狭いな」

 野球部の練習場へとやってきた阿島は、持ってきたグローブとボールケースをベンチの上に置くと、先にグラウンドに来てグラウンド整備をしていた薄代凛へと話しかけた。

 「……夏目先輩と三田先輩は着替えですか?」
 「ああ、俺は先にキャッチボールでもしてろって言われてな」
 「……そうですか、では、トンボを片づけてきます」
 「うん」

 薄代凛は、トンボという木製の桑のような形をした地面を平らにする道具をバックネットの後ろに立て掛けに小走りをし、戻ってきた。

 「……グラウンドを二周してから準備体操、それが終わってからキャッチボールで構いませんか?」
 「あ、ああ……」

 感情を宿さない瞳に阿島は内心ドキドキしつつも同意する。

 (なんか、気まずいっ。相手は後輩で女子だし……しかも久しぶりの野球か……。グラウンドを二周、そして準備体操。一週間ぶりだ)

 阿島は薄代凛を意識しないために、身体の動きが鈍っていないかを入念に確かめながら一連のウォームアップをこなす。
 足腰の動きは軽いが、心は重い。
 それが、阿島の率直な感想だった。

 「……準備体操はこれくらいでいいでしょう」
 「そ、そうだな」

 阿島はグローブをはめた。
 薄代凛は白球を握り、左足を上げる。
 重心を一度右足に集中させ、脇を閉めると、肘を背面下から前方へと捻じり込むように回転させる。指先には投球の直前まで力は加えず、体全体の重心を左足へと収束させた直後。目標へ向かって手首を返して投げる。
 阿島の目には真っ直ぐに縦回転を加えられた白球が映った。
 パンッ
 古いグローブからは薄っすらと茶色い埃が舞い、カサカサした感触は阿島に何かの懐かしさを与える。

 「ふぅ……」

 阿島は特にモーションを取ることもなく、軽く手首を返すだけで薄代凛へとボールを返す。
 山なりに放物線を描いたボールは、ゆらゆらとした軌道を描き、薄代凛のグローブへと収まった。
 薄代凛は、阿島からのボールをキャッチすると、一度ボールの縫い目を確かめてもう一度投球する。
 それを繰り返す。
 おおよそ十五分。
 距離を少しずつ離しながら、ときにはゴロやフライを交えていく。

 (羨ましいくらいに綺麗なフォームだな)

 阿島は薄代凛が野球選手として模範のようなプレーをするのを本当に感心して見ていた。
 比べて、阿島は投球フォームにしてもゴロやフライに対する構え方にしても、まるで初心者、とはいかないまでも不安定な体の動かし方をしていた。

 「……」

 薄代凛が片手を上げて合図をする。

 (ああ、上がりか)

 阿島は距離を詰めながらクイックモーションで投球する。
 グローブに右手を添えて、捕球と同時にグローブを内側に捻り、こぼれたボールを添えていた右手で捕まえて瞬時に投げ返す。
 この動作をいくらか繰り返して、最後に山なりのボールを薄代凛が受け取ってキャッチボールは終了した。

 「……ふざけているんですか?」
 「えっ?」

 気が付けば、薄代凛は阿島を睨んでいた。
 いや、それは阿島の気のせいかもしれない。
 なぜなら薄代凛の表情は希薄だ。
 しばし、阿島は自分が睨まれているのかどうかを考察して、言葉を返す。

 「俺は真面目にやってたが?」
 「……それにしてはフォームが無茶苦茶です。あなたは東京第一中学校のエースだったのでしょう?」
 「……まあ、な」

 言って、阿島は黙り込む。
 確かに阿島はエースピッチャーだった。
 だが、それは結果的にそうなってしまっただけで、本来ならばひとつ年上の先輩がその称号を得るはずだった。

 「俺は、みんなが期待しているような投げ方のピッチャーじゃないんだよ」
 「……投げ方?」
 「ああ、そうだ」
 「……それは、どういうっ……」
 「やあやあ、おまたせーっ!」

 薄代凛の言葉を打ち消して、夏目美恵子と三田佳奈がやってきた。

 「ああ、キャッチボールならもう終わった」
 「そう?じゃあ、阿島君の投球でも見せてもらいたいなー」
 「え……」

 いきなりの要望に、阿島は困惑する。

 「あんまり見て楽しいもんでもないぞ……?」
 「どうせ投げさせられることになるんだ、早くしたらどうだ?」

 三田佳奈の言葉に、阿島はすぐ投げますと即答をして、マウンドへと上がった。
 キャッチャーは薄代凛。
 膝にだけプロテクターを装着する。
 ボロボロなネットの裏では、夏目美恵子と三田佳奈が視線を阿島の投球へと向けていた。

 「んじゃ、いくぞ」

 阿島は左足を僅かに上げる。
 体をくの字のように曲げ、ボールをバッターから見えない脇腹に隠し続けながら重心を移動させる。

 「……っ!?」

 薄代凛は、ここまでの変則的な投げ方に、それまでのグローブを正面に構えたままフォームを崩して、体を斜めに、前傾姿勢に構えなおす。
 阿島は重心を右足に落とすと、右腕を鞭のように振るい、ボールに回転を出来るだけ込めてややサイドスロー気味に放つ。
 白球は回転音を放ちつつ、真っ直ぐ薄代凛へと向かう。
 薄代凛のグローブはなめらかに動きつつ、白球を捕えた。

 「ええー、今の変化球ーっ?」

 夏目美恵子の感嘆が聞こえる。
 阿島の予想通りだった。

 「いや、今のはストレート……」
 「ストレートっ?じゃあナチュラルで変化してるのー?」
 「まあ、そういうこと……」
 「意外だな、今のがストレートか」
 「ああ、ど、どうだろうか俺のストレート」

 阿島は、球の軌道変化を喜ぶ夏目美恵子をとりあえず放っておくことにして、訝しげな反応を示した三田佳奈へと感想を求める。

 「正直言っていいか?」
 「はい」
 「遅い」
 「……すいません」
 「それよりも、何故急に丁寧語口調?」
 「いや、なんとなく」

 (三田佳奈……こいつはただ純粋なだけなのだろうか。それにしても、やっぱり言われたか)

『遅い』

 阿島は何度も言われたこの言葉に胃を締め付けられるような衝撃を感じる。
 阿島の球速は非常に遅いのだ。
 それは球速に換算して、九十五キロ。
 並の中学生でピッチャーならば、普通は百五キロは出る。
 数値で見ると、大したことはないように思われる。
 だが。

 「全国大会では、こんな速度じゃまず通用しない」

 阿島は断言した。
 通用しない。
 その結果が、全国大会ベスト十六位。
 つまり、二回戦敗退。

 「……なら、そもそもどうやって全国大会まで勝ち進んだのですか?」

 薄代凛は質問する。

 「……キャッチャー、がな」
 「キャッチャー?」
 「俺の先輩で、キャッチャーでキャプテンの人がいたんだけどさ。……その人のリードが、悪魔みたいに上手かったんだ」

 阿島の記憶に居座る悪魔。
 あれは、リードというよりも、コントロールだった。
 球場のコントロール。
 打者はど真ん中のストレートを見送り、暴投に対してバットを振り、走者がいる場面は全てゲッツーで打ち取る。
 そんな、裏で賄賂でも使っているんじゃなかろうかと思わせるほどの、圧倒的センスと洞察力を持ったキャッチャーだった。

 「なーに馬鹿なことを言ってるのー?」
 「とは言っても、事実だからしょうがない。ここにいても、俺は役には立たない」

 並以下の投手だった阿島が、雑誌で取り上げられるほどになったのも、元を正せばそのキャッチャーのおかげだった。

 「だから、勘違いしないでよねっ」
 「は?だから、俺は球がおそ……」
 「私は、んなこと承知で阿島君を勧誘しているのよっ」
 「え?」
 「そうだったのか?私は知らなかったぞ」
 「……知りませんでした」

 承知?
 阿島は不審に思う。

 「だったら、こんなヘボいピッチャーを勧誘しないでくれよ」
 「ヘボかろうが、私は阿島君を必要としているのよっ。分かる?」
 「あ……へ?」

 阿島の思考はグルグルと回る。
 夏目美恵子。
 こいつは、何を言っているんだ?
 と、阿島は混乱する。
 ヘボかろうが、必要。
 訳が分からない。

 「だって、部員がまだ三人しかいないんだものっ」
 「なるほどなるほど……って、ようは誰でもいいってことだろうがっ!?」
 「……その通り」
 


 ◆◆◆



 「で、なんとなく納得しちゃって、しかも三田の脅迫が怖くて入部することにしたってェことか?」

 銭形一は、呆れ顔で教科書をパラパラめくる。

 「まあ、そういうことだな。つーか、お前も野球部入れよ」

 (どう考えても男一人の現状は辛いしな)

 阿島は、朝の会が始まる前のこの時間にグローブの手入れを始めていた。

 「野球部だ?馬鹿言ってんじゃねーぞ。誰が何を好き好んであんな芋どもが群がる部活なんぞに入らにゃいかんのだ」

 あれから数日が経った。
 阿島は野球部に入部し、粗雑な環境ながら、もう一度野球を始めていた。

 「無駄だよ、阿島君。ハジメは女子にしか興味がないからね、何かご褒美でもない限りは野球部には入らないよ」
 「褒美?」
 「そう」
 「例えば?」
 「うーん、なんだろうな。言われてみると分からないなあ」

 剛田武蔵は間の抜けた声で、平和調子で答える。

 「そりゃあ、大人の女性のメールアドレスだとかさ」

 銭形一は、腕を組んで思案した風を装う。

 「それなら、知ってるぜ?紹介しようか」

 阿島は、そういえばと。雑誌の取材で名刺をくれた女性記者を思い出す。

 「はっ?なんだって、それを早く言えよ阿島!どれ、その名刺見せてみろ」
 目の色が変わった銭形一に阿島は驚きつつも、阿島は一つの提案をする。
 「なら、交換条件だ」
 「あ?」
 「お前の入部と、このメールアドレス」

 阿島は、女性記者に対して心の底で申し訳ないと思いつつも、これしかないと、銭形一を誘惑する。

 「はっ、そんなのお安い御用だ。どうせ暇だしな!それに、どうせだから……ムサ!お前も入れ!」
 「ええっ、僕は運動苦手だし野球のルールなんて知らないよ」
 「はんっ、俺が教えてやるよ、そんくらい。ってことでいいだろ?阿島」
 「え、えーと。なんだか勢いで入部して後悔するなよ?」

 阿島は、銭形一の心変わりの様を見ていて、むしろ不安を掻き立てられ始めた。

 「まあ、元々ハジメは野球部だったしね」
 「るせェ、黙ってろムサ」
 「え、銭形お前……野球部だったのか?」
 「……まあな、つっても、一年の冬頃に辞めちまったんだけどよ」
 「なるほど」

 阿島は、銭形一の性格とその声のデカさなどから、銭形一の野球部員姿をはっきりと想像することができた。

 「よし、話が決まれば早いとこ俺も今日から部活に参加するぜ、ムサもな。まずは頭数がいるだろう?」
 「まあな、にしても……そもそも、お前なんで野球部辞めたんだ?」
 「ああ、それはな……ま、お前が気にすることもない些細なことさ」
 「は?」
 「だから、この話はここで終わりにすんぜ、解散だ」
 「おい、銭形ちょっとっ」

 呼び止めの声も虚しく、銭形は教室を出て行った。

 「はぁ……ったく、何があったんだか」

 阿島は、特に心配したり怒ったりすることもなく、野球部に何かあったのだという事実に、それが半分当たりの時の外れた半分の理由かと納得していた。




 ◆◆◆




 放課後の部室。
 部員数六名となった男女混合野球部では、早速の縄張り争いが行われることとなる。

 「だーから、ここはテメェらだけの部室じゃあないんだっつうの芋ども」
 「なんだ、銭形。今頃のこのこ戻ってきてどの口聞いてる」

 三田佳奈と銭形一。
 部室で顔を合わせた二人は、さっきからこの調子で口論を続けていた。

 「やあやあ、喧嘩はやめようよ。ほら、着替えの順番なんて、じゃんけんで決めれば良いじゃないか」

 二人を仲裁するために必死に言葉を尽くすのは剛田武蔵。

 「んー、いきなし人が増えたからねー。そろそろこの部室も増築が必要かも?」

 夏目美恵子は、窮屈になった部室を見回す。

 「増築って、ここ、勝手に広げていいのか?」

 阿島は、一応は学校に許可を貰った方がいいのではないかと考えた。

 「いやいやー。そもそも、この今の部室だって許可なく作ったものだしねっ」
 「おい」
 「……今までは特に問題なかった」
 「何も言われなきゃ広くしたってかまわねェんじゃねえか?」
 「僕はやめた方がいいと思うけどなぁ」
 「ムサはビビりすぎなんだっての」
 「……まあ、なんにせよ、現状の部室では狭すぎるな」

 四畳半ほどのスペースには、長テーブルが二台に折り畳みの椅子が三つ。
 とてもじゃないが、六人が一度に入ることのできる隙間はない。

 「仕方ないなー。じゃあ、私が今度増築に使えそうなものを貰ってくるからっ」

 夏目美恵子は、自信ありげだ。

 「大丈夫なのか?」

 阿島は口だけで終わりそうな話だと、当てにはできないと考える。

 「夏目がそう言うんなら、大丈夫じゃあねェの」
 「私も同感だ」
 「……異議なし」
 「え?」

 だが、阿島の予想に反して、部員達は存外に夏目美恵子の提案を容易く受け入れた。

 「ということで、今日の着替えはじゃんけんで決めて、とっとと練習しよー」
 阿島が何か言う間もなく、銭形一のパーは三田佳奈のチョキに敗北した。






[27372] 賭け試合
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/05/07 17:04



 「仕方ないなー。じゃあ、私が今度増築に使えそうなものを貰ってくるからっ」

 夏目美恵子は、自信ありげだ。

 「大丈夫なのか?」

 阿島は口だけで終わりそうな話だと、当てにはできないと考える。

 「夏目がそう言うんなら、大丈夫じゃあねェの」
 「私も同感だ」
 「……異議なし」
 「え?」

 だが、阿島の予想に反して、部員達は存外に夏目美恵子の提案を容易く受け入れた。

 「ということで、今日の着替えはじゃんけんで決めて、とっとと練習しよー」
 阿島が何か言う間もなく、銭形一のパーは三田佳奈のチョキに敗北した。








 ◆◆◆






 説明しよう。
 北原紅葉中学校野球部の練習は大きく分けて二種類ある。
 一つは通常練習。
 これは、ウォーミングアップに始まり、キャッチボール、トスバッティング、ノック、シートノック、素振り、筋トレ、ダウンという流れで行われる。
 もう一つは実践練習。
 こちらは、ウォーミングアップからノックまでの練習内容は通常練習と同じだが、その次から練習試合という項目が入ることとなる。
 現在の北原紅葉中学校野球部には、六人しか部員がいない。
 至極当たり前な話であるが、実戦練習を行うには圧倒的に人数不足だ。
 そこで、夏目美恵子は考えた。
 足りない部員は助っ人を呼んで補い。
 試合の相手は学内のソフトボール部にしようと。








 ◆◆◆




 「夏目サーン、試合勝利ノ条件は覚えてるヨネ?」
 「勿論だよー。グラウンドと一部備品の譲渡でしょー?」
 「イエスッ!私たちが勝ったら、野球部の使っているこのスペースを頂きマース」
 「それよりも、こっちの条件も覚えているよねっ?」

 阿島にはそこまでしか聞き取れなかった。
 なにやら遠くで外人さんと日本人とのハーフである滝本クリスと我らが部長夏目美恵子が密談をしているのだった。
 滝本クリスは、中学生とは思えないほどの豊満な肉体を持ち、かつ、金髪に碧眼。校内では知らぬ者のいないほどの有名人であり自信家だ。
 そんな彼女に、夏目美恵子は野球の練習試合をとりつけた。
 阿島達に知らされたのは、敗北したときの失うものだけだ。
 グラウンドと備品。
 特にグラウンドに関しては、野球部の存続に関わるほどに重要だ。

 (まったく、練習試合にここまで賭けるか普通……)

 いくら相手が野球の素人とはいえ、グラウンドを賭けのダシに使うとは、いくらなんでも無茶苦茶だと阿島は不安に思っていた。

 「たぁく、勝手に賭け試合なんて設定しやがって、夏目の奴は何考えてやがる」

 銭形一は、相手チームの様子を遠目に見つつ、準備運動を繰り返していた。

 「あのぅ……私達はどうすれば良いのでしょうか?」

 薄代凛と同じくらい、小柄な少女達は、あたりをキョロキョロと見回している。

 「そうだね、とりあえず三人は外野で守ってもらおうと思っているんだけど、確か、野球のルールは知らないんだっけか」

 彼女らには三田佳奈が対応している。
 しかし、なぜ野球のルールを知らない彼女らが練習試合が行われる休日のグラウンドに来ているのか。
 理由は簡単なもので、ようは頭数合わせだ。
 六人では野球はできない。
 彼女たちは、三田佳奈の知り合いということで、臨時にやってきた補充要員なのだった。

 「ったくよ、足利の野郎は一体どこで油売ってんだか」
 「足利君のことだからね、どこかで道草くってるんじゃないかなぁ」
 「足利ってどういう奴なんだ?」

 足利桂馬(あしかがけいま)も補充要員の一人だ。
 陸上部のエースであり、銭形一の何らかの交渉により休日の呼び出しに成功した唯一の男子。
 だが、彼はグラウンドに姿を見せていない。
 予定時刻はすっかり過ぎている。
 九時半。
 事前に知らされた集合時間は八時だ。
 既に野球部とソフトボール部の両者はウォーミングアップを済ませている。
 あとは、審判を務める野球部顧問の安藤先生が合図を出すのを待つだけだ。

 「集合っ」

 安藤先生のか細い声がグラウンドに響く。

 「両チーム整列、握手……礼っ」

 キャプテン同士の握手の後、両チームが礼をして、後攻の北原紅葉中学校野球部が守備位置へとバラける。
 ポジションは、投手・阿島慶、捕手・夏目美恵子、一塁手・剛田武蔵、二塁手・薄代凛、遊撃手・三田佳奈、三塁手・銭形一、外野には補充要員の少女達である。

 (やっぱり慣れない)

 マウンド上の阿島は、投球練習のために三球投げると、最後にクイックモーションで投げる。夏目美恵子は捕球後マスクを即外すと、二塁ベース向かって送球する。
 ピッチャーマウンドよりやや後ろでワンバウンドした球は、二塁ベースで構えていた薄代凛のグローブへと正確に捕球される。

 「ナイスボールっ!」

 補充要員の三人を除いた全員で声をだす。
 阿島は薄代凛からボールを受け取ると、腰をかがめて膝に手を置く。
 夏目美恵子は、マスクを外したまま息を大きく吸い込む。

 「一回表っ、しまってこー」
 「おうっ!」

 夏目美恵子の宣言に五人で呼応し、阿島はマウンドで構えを取る。
 バッターは名も知らぬ女子。

 「プ、プレイボール」

 安藤先生が宣言する。
 試合、開始。
 



[27372] 序盤
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/02 20:06
 第一球、阿島はインコースにストレートを投げ込む。

 「ストライクっ」

 安藤先生のマスクで籠った声が聞こえる。
 後日、三田佳奈から阿島は、安藤先生が元ソフトボールだったことを教えられる。

 「ふぅ……」

 阿島は改めて、打者の様子を観察する。右打ち、足が早そうだ。

 (ストライクの範囲をまずは確かめないとな)

 今度は外角から外へ逃げるカーブ。

 「ボール」

 想像よりも大きく逸れたカーブはワンバウンドで夏目美恵子に止められる。
 阿島はストレートに関して、外と内を投げ分けることができる程度のコントロールはあったが、カーブはストライクかボールかでしかコントロールできない。
 その些細なコントロールも、四球に一回は乱れる。

 (もう一回内角ストレート)

 夏目美恵子の出すサインに頷き、阿島はストレートを放る。
 先ほどよりも内に寄ったストレート、バッターは見逃す。

 「ストライクっ」

 ツーストライク、ワンボール。

 (外角にストレート)

 カッ

 阿島の投げたボールの僅かな変化に、芯を外した打球はサード真正面。
 ボテボテのサードゴロだ。

 「オーケイ」

 銭形一は足早く打球まで走ると、ランニングフォームのままファーストに送球。

 「アウトっ」

 本塁から安藤先生が判断して宣言する。

 (やっぱ、銭形上手いな……)

 一年生の冬で一度野球部を辞めたと言っていたが、実は隠れて練習していたんじゃないかと思うくらいに、銭形の野球技術は高かった。
 また、その銭形一の送球を捕った剛田武蔵も、こと守備に関してだけは、ファーストとして一定水準に達していた。
 その理由を、阿島は銭形一の練習に付き合わされた結果だと考える。

 (バッティングは初心者レベルだったからな……)

 大きな身体のパワーに期待していた阿島だったが、まずは、バットがボールに当たらなければ話にならない。

 「しゃーワンナウトっ」

 意気揚々と銭形一は一本指を突き出す。
 第二バッター。
 左打ち、オープンスタンス。
 オープンスタンス、ようは身体の正面を投手側に見せるような構えだ。
 体が開いているので、思い切り打球を引っ張っることができる。

 (打順二番目がする構えでもないと思うが)

 そう思いつつ、阿島はアウトコースにストレート。

 「ボール」

 阿島は感触でストライクと思っていたから、意外な判定に一瞬だけ体の動きを止めた。

 (なるほど、外は狭くて内が広い)

 夏目美恵子は頷く。
 投手と捕手は、時折こうした以心伝心を行う。
 安藤先生のストライク基準は、ややバッターに寄った位置にある、と。
 審判のストライクに関する理解は、おおよそ統一されているが、所詮は判断を下すのは人間だ。
 どこかにその審判特有の癖や傾向のようなものが現れる。
 阿島の知る悪魔は、それを最大限に利用した配球をしていた。

 (今は、思い出す必要ないな)

 阿島は首を振ってから深呼吸を行い。
 夏目美恵子のサインを見る。
 インコースにストレート。

 「ストライクっ」

 今度はバッターが驚いたような顔をする。
 おそらくボールだと判断したのだろう。
 次は中から外ぎりぎりにカーブ。

 カンッ

 打球はスピンしながらセカンド方向。
 薄代凛は打球の変化を予想して二塁ベース寄りから打球に対応。
 足の遅い打球、打者の足は早い。
 タイミングは微妙に思われた。

 「おぅ?」

 剛田武蔵の意表を突かれたような声。
 薄代凛は、送球を手で行わず、グローブで打球を弾くようにファーストへと送った。

 「アウト」
 (曲芸かよっ)

 阿島の心の声は言葉にはならない。

 「……ツーアウト」

 薄代凛は小さいが、よく透る声で叫ぶ。
 第三バッター。
 身長が高い。左打ち。

 (やりずら……)

 阿島の苦手な左打ちである。
 なぜなら、左打ちは右投げ投手のボールの出どころを見やすい。これが、特に阿島にとっては問題だった。
 まず、阿島の投球は『誤魔化し』を基本に組み立てられる。

 投球の寸前までボールの出どころを掴ませないために体をくの字に折る。
 ストレートはナチュラルに変化する。
 サイドスロー。
 
 阿島が球の出どころを隠すのは、打者のボールに対する体感速度を僅かにでも上げるためであり、また、球のコースを読みづらくするためだ。
 また、阿島のナチュラルに変化するストレート。
 これは、シンカー気味に変化する。
 それも打者の手元で落ち込むような軌道を描いた変化だ。
 それらの阿島の特徴を最大に活かすのがサイドスローであり、右打ちのバッターにとっては、阿島の投げるインコースは自分の体に襲い掛かるような感覚を負わせ、ど真ん中のボールはそのシンカー気味の変化により突如としてインコース寄りに食らいつく。
 代わりにアウトコースが弱くなるが、阿島は一つだけ大きく変化する球を持っていた。
 カーブだ。
 最もポピュラーな変化球であり、多くの投手が決め球として用いる球。
 それを阿島はアウトコースに投げて空振りを獲る。
 地力のない阿島が、悪魔によって体に染みつけさせられた最終形。
 その最終形が最も苦手とするのが左打ち。
 何故ならば、左打ちは右打ちと違って右投げの手元が見やすく、阿島のフォームを持ってしてもボールを隠しずらい。
 さらに、阿島のナチュラルに変化するストレートは、インコースのストライクゾーンに投げようものならど真ん中に向かいやすくなる。
 かといって、無理にインコースを攻めすぎれば、変化が足りなくてデットボールになりかねない。
 結果的に、阿島は左打ちのバッターに対して、精神をすり減らしてギリギリのコースを狙う。
 インコースにストレート。

 (やべっ)

 阿島のボールは、インコースから変化してど真ん中へと向かう。

 カーンッ

 真芯で捕えられた打球。

 「ファール」

 ライン上で逸れた打球に、野球部の面々はほっと胸を撫で下ろす。

 (ソフトボール部って言っても、こいつら、小学校では男子に混じって少年野球やってた口だろっ)

 三番打者まで全員に、ボールをバットに当てられた阿島は若干焦りを感じていた。

 「阿島くーんっ、怖い顔してるよー?」
 「なっ」

 ゲーム中に夏目美恵子のそんな声を聞いた阿島は、恥ずかしくなりつつも、なんだか落ち着いた気分に戻った。
 (守備中の私語とか……いや、これは練習試合だ。それも小規模の……)

 「よし」

 阿島は夏目美恵子のグローブを見据えた。
 真ん中からインに入るカーブ。

 ガッ

 ピッチャー正面のゴロ。
 阿島は冷静にそれを捌く。

 「スリーアウト、チェンジっ」

 一回表、三者凡退。




 ◆◆◆



 一回裏。
 一番、三田佳奈。
 相手投手は滝本クリス。

 「見た感じ、ストレートは百キロで変化球はなしってところだな」

 阿島は自分よりも滝本クリスの球速の方が早そうなのは気にしないことにして、簡単に相手投手を分析していた。

 「百キロかー。私、バッティングセンターではいつも百五キロで打ってるから丁度いいかもねっ」
 「って、夏目。お前は二番だろうが、とっとと準備しやがれ」

 銭形一は、プロテクターをまだ脱いでいない夏目美恵子を急かして、ベンチにどっかりと座った。

 「ったく、あの自信家がストレートだけで投げてくれるもんかねェ」
 「でも、ハジメ、彼女はソフトボール部じゃないか。変化球なんて持っていないと思うけどなぁ」
 「馬鹿やろ、奴は帰国子女だぜ。アメリカのリトルで投手をやっていた過去があっても不思議じゃねえ」
 「本場の投手、かもしれないってことか」
 「ええっ、だとしたら私達には打てませんよぅ」

 三人少女は、自信なさげに言う。

 「まあ、三田に連れられてきたお前らには期待なんぞしちゃいねェから安心しろ。問題は、三田から四番の阿島、お前までに何点取れるかだ」

 カウント、ツーストライク・ツーボール。
 三田佳奈は、滝本クリスの余裕の表情に違和感を感じていた。

 (なんだ、何か隠し持っているのか……?)

 球威、球速は三田佳奈の見立て通り、コントロールはまだ計りきれないが、ざっと見ても並の投手なのには違いない。
 とはいうものの、女子にしては破格のボールだ。
 滝本クリスはサインに頷き、投げる。

 (絶好球っ!)

 三田佳奈は、ど真ん中にやってきた白球を真芯で捕えることを確信した。

 「ストライクっ、バッターアウト」
 「なっ!?」

 三田佳奈のバットは空を切った。

 「おい三田ぁ!キャッチャーこぼしてるぞ!」

 銭形一が叫ぶ。

 「え、あっ……」

 三田佳奈は我に返り、急いで走り出す。
 だが、キャッチャーがこぼしたのは自分の目の前だった。
 キャッチャーはこうなることをあらかじめ想定していたのか、冷静にボールを掴むと一塁へと送球する。

 「アウト」

 一塁ベースを駆け抜けた三田佳奈は、そこで滝本クリスの投げた球種を特定した。
 ストレートに似た軌道、手元で球が消えるような錯覚。

 (間違いない)

 「……フォークボールっ」

 


 ◆◆◆





 ベンチへと戻ってきた三田佳奈は、滝本クリスのフォークについてメンバーに伝える。

 「へェ、やっぱ楽には勝たせてもらえそうにねェな。……にしてもフォークか、もう打席に入っちまってる夏目は間に合わねえが、まあ、フォークにはある程度の対抗策があるぜ」

 銭形一は、ヘルメットを被り、ネクストバッターサークルに入る直前にそう言った。

 「ストライクっ、バッターアウト」

 夏目美恵子も三振に終わり、銭形一の打席がやってきた。

 「フォークへの対策……阿島君、何か心当たりはあるか?」

 四番である阿島のいるネクストバッターサークルへとやってきた三田佳奈は、銭形一の言う対策について阿島へと尋ねる。

 「フォークボール……。強いて言うなら。見逃し、くらいじゃないか?」
 「見逃し?」
 「そ、見逃し」

 阿島は、ほとんどバットを振らずにカウントを溜めさせていく銭形一を見て、推測する。
 カウントはツーストライク・ツーボール。
 三田佳奈がフォークを投げられた時と同じカウントだ。

 「ハー、これで三振デース」

 滝本クリスは振りかぶり、投げる。
 銭形一は、ど真ん中コースにやってきたボールに、しかし、耐える。
 落ちた。

 「ボール」
 「ハッ」

 ツーストライク・スリーボール。
 フルカウント。

 「やっぱりそうか」
 「やっぱり?」
 「ああ、滝本クリスのフォークボールは『落ち過ぎ』ている」

 阿島は、ストライクゾーンの真ん中から地面にワンバウンドするほどに変化するフォークボールに、弱点を見出した。

 「あれじゃ、バットを振りさえしなければ、ボールになる」
 「へえ、なるほどな。じゃあ、私の時も見逃しておけば三振を取られることもなかったってことかい?」
 「まあ、今回は」
 「今回は……?」

 フォークボールが落ち過ぎているのは、今日に限っては駄目なことかもしれない。
 だが、阿島は今日ではない。
 安藤先生が審判ではない他の誰かが審判をやった日を想像する。
 あのフォークをストライクと見る審判が、やってきた場合。
 この試合、負けていた。

 「けど、どうにも滝本クリスはフォークの変化量まではコントロールできていないらしい」
 「え、銭形っ……」

 カーンッ

 「シィットッ!」

 センター前へのクリーンヒット。
 フルカウントでストレートを投げざるを得なくなった滝本クリスのストレートを銭形一は綺麗に捉えていた。

 「おーら、大したことはねェ」

 得意げな銭形にベンチは湧く。

 「おおぅ、銭形君やるねっ」
 「……姑息ですね」
 「ひゃーヒット初めて見ました」

 野球の試合を見るのも初めてな少女達も、銭形の綺麗なヒットに感動した様子だった。

 (プレッシャーが)

 そんな盛り上がりの中、阿島にはヒットを打たなければいけないという言い知れない使命感が生まれていた。

 「俺が、銭形を本塁に返す……っ」



 ◆◆◆



 ツーアウト、一塁。
 四番、阿島慶。

 (何を狙う)

 阿島は、先ほどの流れからして、滝本クリスはカウントを悪くせずに早いところストライクを取りに来ると睨んでいた。

 (ランナーは銭形、一塁。ただのヒットじゃ本塁は無理)

 しかし、ツーベース以上を狙って打てるほどに阿島の打者としての技量は高くない。
 せいぜい、市内大会上位校の四番をやれるかどうか程度。
 それも、長打はなかなか打てないタイプ。
 故に、阿島は銭形一に進塁してもらう必要があった。
 そのための仕掛けは、阿島がネクストバッターサークルで三田佳奈に伝えてある。
 ここで、サインが出る。
 サインを送るのは夏目美恵子。

 (バント、待つ)

 つまり、バントのフリ。
 北原紅葉中学校のサインは非常にシンプルだった。
 帽子をキーという記号として、そのキーが挟んだものがサインとなる仕組み。
 例えば、バント、盗塁、キー、打つ、盗塁、キー、打つ、盗塁。
 このようにサインが並んだ場合、キー同士に挟まれている、打つ、盗塁が本命のサインとなり、組み合わせてエンドランとなる。

 (練習、か)

 ここでバントのフリをする理由はない。
 おそらくは、サインがちゃんと伝わっているかどうかを試すためのもの。
 滝本クリスが投球モーションに入った瞬間、阿島はバントの構えを見せる。

 「ハッ」

 滝本クリスは動じない。
 そのまま投げる。
 同時に内野の守備陣形が阿島の目の前まで迫る。

 「ストライク」

 バットは引いたが、ボールはしっかりとストライクゾーンに収まっていた。

 (ランナーが三塁にいるわけでもないし、さすがに外してはくれないか)

 夏目美恵子は次のサインを出す。
 キーに挟まれたサインはない。つまり、好きにしろということ。滝本クリスの投球。
 阿島はバットを大振りする。

 「ストライク」

 空振り。
 ツーストライク・ノーボール。
 今度は、阿島が夏目美恵子の代わりにサインを送る。

 「お、なんだ。阿島君からのサインか」

 三田佳奈は阿島の動きを見て察した。
 バットでスパイクを三回叩いて、ベンチを見る。
 この一連の動作は、阿島がバッターボックスに入る直前に三田佳奈に伝えた急造サインだった。

 「ミエ、阿島からのサインだよ。銭形を盗塁させてって」
 「ほー、盗塁?分かったよっ」

 夏目美恵子は銭形一と阿島に盗塁のサインを送る。
 それを見た銭形一は、心の中でニヤりと笑う。

 (ついに俺の俊足が火を吹く)

 とはいっても、実のところ、銭形一の足はさほど早くない。
 至って普通だ。
 まともに盗塁をした場合、滝本クリスの上手いクイックモーションと牽制によって、盗塁の成功率は相手がソフトボール部の捕手とはいえ五分五分になる。
 滝本クリスが構える。
 投球。

 (少し遅れたっ!?)

 銭形一は、盗塁のスタートが僅かに遅れたことに焦る。

 「セーフ」

 しかし、二塁ベースへと送球が届いたタイミングは余裕のセーフだった。

 「あり?」
 「ふぅー……」
 「少しマンネリな配球をしてしまいマシタ」

 滝本クリスは、この場面でフォークボールを投げていた。
 落ち過ぎるフォーク。
 キャッチャーが一度ボールをこぼすほどの変化量を持つフォークだ。
 阿島にとっては賭けだった。
 ツーストライク。
 遊び球としてフォークで三振を狙いに来ると阿島は読んでいた。
 当然、外れていれば見逃し三振。
 阿島にはフォークを打ち返す技量はない。
 そして、場面はランナー二塁、ツーアウト。
 ツーストライク・ワンボール。
 ここで、もう一度阿島は賭けを行う。
 滝本クリスがストレートを投げるか、フォークを投げるか。
 阿島はストレートと考える。
 真っ向勝負。
 この一回表と裏のやり取りで、阿島は滝本クリスの性格を理解していた。
 勝気で、負けず嫌い。
 それは阿島も同じことだった。

 (どちらにせよ、打つ)

 滝本クリスの投球。

 (ストレートッ!)

 カーンッ

 ライト線上深く。
 ソフトボール部のライトは大きく回り込んで打球を捕った。

 「ヘイッ!バックホーム!」

 滝本クリスが自ら送球の中継に入る。
 「銭形回れぇっ!」
 一塁ベースを蹴った阿島は銭形へと叫ぶ。
 言われた銭形は既にサードベースを踏んで本塁へと向かっていた。

 「刺スッ!」

 滝本クリスはライトの選手からボールを受け取り、本塁へとレーザービームの如き送球を行う。

 「なろっ!」

 ヘッドスライディング。
 キャッチャーのグローブから逃れるために銭形一はホームベースの隅の隅へと滑り込む。
 大きく土煙が舞い、僅かな沈黙が流れる。

 「セーフッ!」

 安藤先生の一際大きな宣言。

 「らしゃあっぁ!」

 銭形一は雄叫びを上げる。

 「おおおおぅ!」
 「……先取点」
 「オーマイガッ」

 一対〇。

 北原紅葉中学校野球部の初得点。
 











[27372] 終盤、そして決着
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/02 20:09
 ―――――――ゲームはそこから終盤へ。
部員六名の北原紅葉中学校野球部は、同じく北原紅葉中学校ソフトボール部との試合において終盤、熾烈な接戦を行っていた。
 点数は三対四。
 一点のビハインドで野球部が負けていた。
 六回裏。
 野球部の攻撃。
 バッターは三巡目、一番・三田佳奈。

 「フーッ、あと二回デース」

 滝本クリスは、額に滲んだ汗を拭って、バッター・三田佳奈を打ち取るための算段を立てる。

 「けっこう疲労が溜まってきているんじゃないかぁ」

 剛田武蔵は、球威の衰えてきた滝本クリスを見て、素直な感想を述べる。

 「当然だな。中学野球のルールで、七回でゲームが終わるといってもフルゲームを女が一人で投げ切るのは相当厳しいはずだぜ」
 「銭形の言う通りだな。フォークの変化量も大分減ってきているように見えるし、この終盤で一気に逆転できるぞ」

 言った阿島もそれなりに疲れてきていた。
 並の投手よりも場数だけはこなしてきたせいか、スタミナの配分具合はできていたが、体力の底は近い。延長戦は避けたいところだった。

 「にしても、最低限の守備ができる奴が欲しいところだぜ」

 銭形一は、ソフトボール部に取られた四点の数字をいまいましく見ていた。
 この三点は、基本的に外野を守る三人の少女へと打球が向かった際に発生した失点である。
 外野へと飛んだ打球を避けてしまう彼女達のおかげで、外野にライナーが飛ぼうものなら、それは即ランニングホームランや長打へと成り代わってしまっていた。

 「ともかく、この回が勝負だ」

 阿島は、ここで点数を取れなければ負けると考えていた。
 逆転には、二点が必要。
 打順は、一番・三田佳奈。二番・夏目美恵子。三番・銭形一。四番・阿島慶。五番・薄代凛。六番・剛田武蔵。七、八、九番を補充要員の少女達。
 滝本クリスとまともに勝負ができるのは、五番の薄代凛まで。
 この回を三者凡退で打ち取られれば、二点を取ることはできない。
 取る前に、勝負を決められてしまう。

 「フォアボール」
 「よしっ」

 三田佳奈はガッツポーズで一塁へと進む。
 ノーアウト・ランナー一塁。
 バッターは二番・夏目美恵子。

 「オーウ、少しコントロールが甘くなったようデスネ」

 滝本クリスは肩を回すと、味方の守備へと声を掛けて仕切りなおす。
 サインはキャプテンである夏目美恵子がバッターボックスから出す。

 (そうか、バントだね)

 三田佳奈は、帽子の先を掴んでサインが伝わったことを教え、一塁ベースからリードをとる。

 「ハン、何をしようと関係ありまセーン」

 滝本クリスの投球。
 夏目美恵子は一塁線上に綺麗にバントを決めた。
 ソフトボール部の一塁手が打球処理に向かい、滝本クリスが一塁ベースのカバーに入る。

 「アウト」

 これで、ワンアウト・ランナー二塁。
 バッターは銭形一。

 (ここは打つしかない。サインはない)

 阿島は、銭形一のバッティングに全てを委ねる。

 カキッ

 ぼてぼてのセカンドゴロ。
 二塁ランナーの三田佳奈は三塁ベースへ滑り込み、銭形一は一塁ベースを駆け抜ける。

 「アウト」

 ツーアウト・ランナー三塁。

 「くそっ!」

 銭形一は悔しそうにベンチへと戻ってくる。
 逆転は厳しくなった。
 せめて同点の場面。
 四番・阿島慶。

 「ヤッホウ!コレデ私達の勝ちでデース」
 「なっ」

 滝本クリスは宣言する。
 「あなた達の勝利は、ツーアウトでランナー一人、そして四番を迎えた時点で決まりマシタ!」
 (勝利が決まった……?いや、そんな馬鹿な……あっ、そ、そうか、まさか!?)

 阿島は銭形一の悔しそうな顔を見て思い至った。

 「確かに、これで負けが確定したかもしれない……っ!」




 ◆◆◆



 ―――――――ゲームはそこから終盤へ。
 部員六名の北原紅葉中学校野球部は、同じく北原紅葉中学校ソフトボール部との試合において終盤、熾烈な接戦を行っていた。
 点数は三対四。
 一点のビハインドで野球部が負けていた。
 六回裏。
 野球部の攻撃。
 バッターは三巡目、一番・三田佳奈。

 「フーッ、あと二回デース」

 滝本クリスは、額に滲んだ汗を拭って、バッター・三田佳奈を打ち取るための算段を立てる。

 「彼女、けっこう疲労が溜まってきているんじゃないかぁ」

 剛田武蔵は、球威の衰えてきた滝本クリスを見て、素直な感想を述べる。

 「当然だ。中学野球のルールで、七回でゲームが終わるといってもフルゲームを女が一人で投げ切るのは相当厳しいはずだぜ」
 「銭形の言う通りだな。フォークの変化量も大分減ってきているように見えるし、この終盤で一気に逆転できるぞ」

 言った阿島もそれなりに疲れてきていた。
 並の投手よりも場数だけはこなしてきたせいか、スタミナの配分具合はできていたが、体力の底は近い。延長戦は避けたいところだった。

 「にしても、最低限の守備ができる奴が欲しいところだぜ」

 銭形一は、ソフトボール部に取られた三点の数字をいまいましく見ていた。
 この三点は、基本的に外野を守る三人の少女へと打球が向かった際に発生した失点である。
 外野へと飛んだ打球を避けてしまう彼女達のおかげで、外野にライナーが飛ぼうものなら、それは即ランニングホームランや長打へと成り代わってしまっていた。

 「ともかく、この回が勝負だ」

 阿島は、ここで点数を取れなければ負けると考えていた。
 逆転には、二点が必要。
 打順は、一番・三田佳奈。二番・夏目美恵子。三番・銭形一。四番・阿島慶。五番・薄代凛。六番・剛田武蔵。七、八、九番を補充要員の少女達。
 滝本クリスとまともに勝負ができるのは、五番の薄代凛まで。
 この回を三者凡退で打ち取られれば、二点を取ることはできない。
 取る前に、勝負を決められてしまう。

 「フォアボール」
 「よしっ」

 三田佳奈はガッツポーズで一塁へと進む。
 ノーアウト・ランナー一塁。
 バッターは二番・夏目美恵子。

 「オーウ、少しコントロールが甘くなったようデスネ」

 滝本クリスは肩を回すと、味方の守備へと声を掛けて仕切りなおす。
 サインはキャプテンである夏目美恵子がバッターボックスから出す。

 (そうか、バントだね)

 三田佳奈は、帽子の先を掴んでサインが伝わったことを教え、一塁ベースからリードをとる。

 「ハン、何をしようと関係ありまセーン」

 滝本クリスの投球。
 夏目美恵子は一塁線上に綺麗にバントを決めた。
 ソフトボール部の一塁手が打球処理に向かい、滝本クリスが一塁ベースのカバーに入る。

 「アウト」

 これで、ワンアウト・ランナー二塁。
 バッターは銭形一。

 (ここは打つしかない。サインはない)

 阿島は、銭形一のバッティングに全てを委ねる。

 カキッ

 ぼてぼてのセカンドゴロ。
 二塁ランナーの三田佳奈は三塁ベースへ滑り込み、銭形一は一塁ベースを駆け抜ける。

 「アウト」

 ツーアウト・ランナー三塁。

 「くそっ!」

 銭形一は悔しそうにベンチへと戻ってくる。
 逆転は厳しくなった。
 せめて同点の場面。
 四番・阿島慶。

 「ヤッホウ!コレデ私達の勝ちでデース」
 「なっ」

 滝本クリスは宣言する。

 「あなた達の勝利は、ツーアウトでランナー一人、そして四番を迎えた時点で決まりマシタ!」
 (勝利が決まった……?いや、そんな馬鹿な……あっ、そ、そうか、まさか!?)

 阿島は銭形一の悔しそうな顔を見て思い至った。

 「確かに、これで負けが確定したかもしれない……っ!」

 滝本クリスは、そんな阿島のしてやられたという顔を見て、ワインドアップで投球モーションを行う。

 「なっ!」

 ワインドアップに入った時点で牽制球は投げられない。
 二塁にいた三田佳奈は三塁を目指して盗塁する。

 「ボール」

 三田佳奈は三塁へと進んだ。
 しかし、状況は完全に決していた。

 「け、敬遠……」

 阿島は茫然と立ち尽くすしかない。

 「ボール」
 「ボール」
 「ボール、フォアボール」

 そう、塁が二つ空いて、勝負できる打者が阿島と薄代凛しかいなくなった時点で勝負は決まっていたのだ。

 「フォアボール」

 満塁。

 「……納得いきません」

 薄代凛は今日の打席で二打数二安打。
 この打席でも、薄代凛はヒットを打つつもりだった。
 しかし、勝負ができなければ、ヒットも何もない。
 六番バッターは、剛田武蔵。
 二打数無安打、三振が二回の成績。

 (ここまで考えて……)

 阿島は、三田佳奈への四球からが滝本クリスの作戦の内だったのだと理解した。

 (バントを誘っての四球)

 万策尽きた。
 もう、あとは剛田武蔵の奇跡のヒットにしか頼るほかない。

 「ご、ごめん……」

 剛田武蔵は、謝りながら打席へ入ろうと………。

 「ちょっと待ったぁっっ!!!!」

 グラウンドの隅々までに響き渡るほどの絶叫。
 自転車に乗り、ボロボロになった姿で現れた一人の男。

 「てめェ!今頃来たのかよっ!」

 銭形一の心底驚いたような声。

 (あいつは……)

 彼が誰なのかを知らない阿島は、何がどうしたのか分からずに、塁上で男の言葉を待つ。

 「足利君っ!助かったっ!」

 剛田武蔵は、ヘルメットを脱ぎ、それを男に投げ渡した。
 男は受け取ったヘルメットを被ると、また大きな声で言い放った。

 「代打、足利桂馬だっ!」


 
 ◆◆◆



 「ゲームセットっ!五対四で野球部の勝利!」

 安藤先生の言葉により、野球部とソフトボール部の試合を幕を閉じる。
 試合の最終局面、突然にやってきた足利桂馬のツーベースヒットによって野球部は難局を乗り切ったのだった。
 足利桂馬。
 陸上部のエースであり、銭形一と剛田武蔵の知り合い。
 なによりも、銭形一と同じくして元野球部の部員。
 阿島は、試合が終わり、ダウンとグラウンド整備が終わってからも疑問を解消できずにいた。
 なぜ、北原紅葉中学校の野球部には男子部員がいなくなったのか。
 阿島は最初、それはただ単に北原紅葉中学校に男子が少ないせいだからだと思っていた。
 しかし、どうやらその認識は間違っている。
 現に、銭形一と足利桂馬という元野球部部員の男子がいる。
 彼らが部を抜けた理由とはなんだったのだろうか。
 何かがあった。
 それだけを阿島は知っていた。
 銭形一は言う。

 『ちょっとしたトラブルがあってな』

 何が起きたかは言わなかった。
 阿島も、追求はできなかった。
 重大なことがあったのを、雰囲気で察することしかできない。
 阿島は、もやもやとした気持ちを振り切るようにストレッチを行う。

 「ヘーイ、これからヨロシクネ」

 考え事をしていた阿島の目の前に、金髪の少女。
 滝本クリス。

 「お、おわっ!」

 ストレッチの最中だった阿島は、息が止まりそうになったが、なんとか態勢を立て直す。

 「賭けには負けたしネ、いいさ、条件はこちらの方が格段に有利ダッタシナ。私はこれから野球部ダ」
 「はぁっ!?」

 そばでゆっくりしていた銭形一は、滝本クリスの言葉に目を飛び出させるような表情をする。

 「何言ってんだテメェ、まさか、さっきの練習試合の見返りは、お前の入部だったってェのか?」
 「ソユコトー。話分かるネ」
 「……ったく、とんだ特典だぜ」
 「は、はは。何はともあれ、これで部員が七人になったな」

 阿島は、予想外の展開に戸惑いながらも、部員が増えたことには喜びを感じていた。

 「いいやっ!俺を忘れてもらっては困る!足利桂馬を入れて八人であろうが!」

 耳元で発せられた大声に、その場にいた阿島、滝本クリス、銭形一の三人は卒倒しそうになる。

 「足利っ!いきなり叫ぶなと何度言えば分かりやがるっ」
 「はっはっはっ!叫んでなどいない!それこそ何度言えば分かってくれるんだっ!」

 足利桂馬は快活に笑う。
 まさにスポーツマン。
 短く切り揃えられた髪型、大きく力強い瞳。
 何よりもその声のデカさ。
 阿島は、彼以上のスポーツマンを見たことがなかった。

 「はっ!お前が野球部にね。……へェ、もうほとぼりは冷めたってことか?」

 銭形一は足利桂馬に含みを持った言葉を投げる。

 「まぁなっ!お前が野球部に再入部したのも、そう考えてのことなんだろうっ!?」
 「……」

 ニコニコと笑う足利桂馬と、黙り込んだ銭形一の対比が印象的だった。
 阿島は、何かに決着をつけた二人の会話に入り込む余地を持たなかった。

 「ハーン?何の話をしているのか分かりまセーン。それよりも今日は疲れました。もう帰ってもよろしいデスカ?」
 「いいんじゃねェのか?ダウンは済ませたしな」
 「オーケー、シィーユーネクストデイッ!」

 滝本はそれだけ言い残すと、駐輪場の方へと向かってしまった。

 「ま、俺らも帰るか。にしても、足利、お前なんで遅れてきたんだよ」
 「いやっはっは、道中でネコが怪我しているのを見つけてなぁっ――――」

 阿島は二人の会話を聞き流しながら、転校生の自分が入り込めない壁があるのを感じていた。







 




[27372] 準備期間
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/02 20:18
 




 四月二十日。
 部員数八名となり、野球部は本格的な活動ができるようになった。
 特に大きく変わったのは、内野の守備練習をフルメンバーでしっかりと行えるようになったこと。
 ノックを行うのは足利桂馬。補助には滝本クリスと阿島が交代で入る。
 また、阿島の投手としての練習環境にも変化があった。
 滝本クリスがチームに加入したことによって、北原紅葉中学校野球部には投手が二人になったのだ。これにより、投球練習を行う際に夏目美恵子ともう一人の捕手が必要になったのである。
 これには、体格的に捕手に向いていた剛田武蔵が銭形一に推薦されるという形で決着がついた。


 ◆◆◆



 「うーん、そろそろボールが使えなくなってきたなあっ」
 「トスバッティングで使ってるやつ?」
 「ううん、いや、それもあるけど、キャッチボールとかの普通の練習で使うやつ」

 阿島は、夏目美恵子と部室において練習道具の購入について検討を始めていた。
 しかし、ソフトボール部との試合以降、メンバーの増えた野球部では、その部室の狭さを解消するために、野球部部員全員から徴収した僅かな部費でアウトドア用のテントを買っていたために部費の残高は雀の涙ほどしかなかった。

 「三千円しかないんだよっ、これじゃあ新球を七個も買ったら財布の底が破れるよっ」
 「破れはしないだろっ!ていうかテントに金使い過ぎたんじゃないか?毎月部費五千円は高いって」
 「そうかなぁ。スポーツドリンク代と休日の唐坂グラウンドのレンタル料で結構お金使っちゃうんだよっ?」
 「あれ、あのグラウンドってお金払って借りてるのか?」

 阿島は、休日に野球部が練習に使う近所の運動公園の野球用グラウンドを思い出す。

 「そうだよー。まあ、阿島君は入部したばっかりだし知らなかったのはしょうがないね。とりあえず、私は今から花田スポーツにボール買いに行くからー」
 「ああ、それなら俺も行くよ」
 「そう?じゃあいっぱい荷物持ってもらおうかなっ」
 「三千円で買える大荷物なんてあるのかよ」
 「まあ、楽しみにしておいてよっ」




 ◆◆◆



 阿島は両手で抱えていた大荷物を地面に下した。

 「はっ、はぁっ。いや、これは洒落にならないほど重いって!」

 花田スポーツ用品店から歩いて二キロ。
 部室へと到着した阿島は、大汗をタオルで拭き取り、自分が運んできた荷物を確認する。
 中古の公認球A号をビールケース丸々一杯と公認球B号を二個。
 さらに花田スポーツ用品店で廃棄予定であったダンボールをいくつか。

 「やー、お疲れ様だね阿島君っ。途中で代わってあげてもよかったのに、まさか変な意地を持って最後まで一人で運びきるとは意外だったよっ」
 「こんな重いもの、女子に持たせたらそれこそ意外な事態だろ。こういうのは、男子が一人で持つのが道理なんだよ」
 「ひゅー格好つけるなー大汗掻いて」
 「う……」

 返す言葉もない。
 今から始まる練習に影響が出るほど疲れ切るとは、阿島自身思ってもみなかった。

 (まさか、中古の擦り切れたボールがこんなに安いとは……)

 四十球ほどの中古ボールが二千円。
 擦り切れていて、しかもA号というマイナーな大きさがここまで値段を吊り下げてしまったのだろうか。しかし、たとえ擦り切れていようがトスバッティング用と考えれば使えないこともない。震えだしそうな両腕には、溜息しか出なかった。

 「ふむぅ……」

 そんな阿島を気遣ってのことなのか、それとも最初から規定事項だったのか。
 夏目美恵子は、阿島に運ばせたダンボールを手に持って一つの提案をする。

 「んーそうだねー、もう学校の決めた部活時間が半分過ぎちゃってるし、今日は工作でもして遊ぼうかっ」




 ◆◆◆



 「……なんですか、この散らかりようは」

 委員会活動により部活に遅れてやってきた薄代凛は、部室に残されたメモを頼りに阿島や夏目美恵子の所属する二年三組へとやってきて、その教室内がダンボールとガムテームによって無残に荒らされていたことに動揺していた。

 「あ、凛ちゃん。遅かったな、こっちだ」

 三田佳奈は戸惑う後輩に手招きをする。

 「……一体なんの遊びですか?」
 「遊びじゃないよ、ミエがこれでボールを作るんだってさ」
 「ボー……ル?」

 気が付けば、薄代凛の足元にはガムテープでぐるぐる巻きにされたダンボールの小さな塊が転がっていた。

 「……こんなのを練習に使うんですか?」
 「そうらしいぜェ、まあ、ウチのグラウンドは狭いしな。思いっきしモノホンのボールを打ってたら死者が出ても不思議じゃねえ。だから、こういう紙ボールをフリーバッティングやら室内練習やらに使うってことらしい。ほらよ、ムサ」
 「うわっ、痛いじゃないかハジメ」

 銭形一は、黙々と作業をしていた剛田武蔵にダンボール製ボールを投げつける。

 「……ほどほどに」

 二人の先輩男子二人に、薄代凛はボソッと注意をする。
 そんな四人の後ろでは、作業に飽きた者達が遊びに興じていた。

 「さあっ!来い転校生!俺が貴様のボールを打ち返してやろうっ!」
 「いや、割と真面目に危ない気がするんだが」

 足利桂馬は教室の掃除用具入れから持ってきた箒を構え、阿島が紙ボールを投げるのを待っていた。

 「オウ!阿島はビビりデシタカ?」
 「なっ」
 「へへっー、阿島君。これで引き下がったら、男じゃないよっ!?」
 「二人とも悪ノリっ!?ちょっと、ガ、ガラス割れてもしらないからなっ?」

 作業の手を止めていた滝本クリスと夏目美恵子の言葉に、阿島は投げないわけにはいかない状況に追い込まれていた。

 「はっはっは!場を整ったみたいだなっ!」
 「本当に知らないからな……っ」

 調子の良い足利桂馬の様子を羨ましく思いつつ、阿島は被害が最小限になるようにインコースぎりぎりを狙う。

 「これは打てないだろっ!」

 距離にして、マウンドからバッターボックスの半分。
 阿島の紙ボールによるストレート。

 「な、何ィ!?」
 「ありゃ?」

 だが、ボールは途中までは阿島のコントロール通りにインコースへ向かったのだが、急激に変化して足利にデットボールを食らわせることとなった。

 「フーム、紙ボールは簡単に変化が大きくなってしまうようデスネ」

 滝本クリスは冷静に分析する。

 「なんだ阿島っ!ちゃんとコントロールをしなければ駄目ではないかっ!もう一球だもう一球っ!」
 「はぁ……分かったよ……」

 阿島は床に転がっていた紙ボールを拾ってまた投球の構えを取る。
 そして、投げようとした瞬間。

 「ちょっと待ったぁっ!」

 バンッ!

 と、教室のドアが開け放たれる。
 同時に教室内の空気は静止した。
 その空気を破ったのは、やはり、北原紅葉中学校野球部部長・夏目美恵子。

 「おっとぅ、安藤先生じゃないですかー。どうしたんですか?」

 突然の出来事に阿島は紙ボールを投げ損なっていた。

 「その、ね。大変なのよっ!」
 「大変って、何が大変?」
 「大変なものは大変なのよっ!一大事よっ、これはっ!」」
 「そ、そんなに先生が動揺するなんて、大変って!何が大変なんですかぁっ先生っ!」

 安藤先生の珍しいハイテンションさに、夏目美恵子までもがその持ち味の妙なテンションを加速させる。

 「あのねっ!東京第一中学校から練習試合のオファーが来たのよっ!」
 「……っ!?」

 教室に訪れる束の間の静寂。
 だが、これを破ったのは、阿島慶の悲鳴に似た絶叫だった。

 「それは本当ですかァァっっっ!?」




 ◆◆◆



東京第一中学校。
 全国中学校体育大会でベスト十六に届くほどの野球実力校。
 だが、その内情は特殊だ。
 部員数十二名。その内、一年生四名、二年生三名、三年生五名。
 全国大会で名を轟かせるほどの野球部にしては、部員数は僅かであり、また練習設備も毎年全国大会に顔を出す野球部の中では貧弱な部類に入る。
 その野球部をまとめるのは部長の塚本 七瀬(つかもと ななせ)・ポジションはキャッチャーであり、三年生の先輩達がいるのにもかかわらず野球部の頂点に君臨するチームの頭脳。
 一般的な中学野球部の年功序列的な考えを否定したこうした体制から、東京第一中学校野球部は、甲子園に毎回出場する有名私立高校からも注目され、毎年全ての部員が特待生として輩出されていく。



 「どうして今更……」

 阿島は部屋に飾ってある全国大会ベスト十六を記念した写真付きのボードを眺めていた。
 塚本七瀬、練習試合の話を持ってきた人物は彼に間違いない。

 (一体何のために)

 阿島は塚本七瀬が無駄を嫌う人間だということをよく知っている。
 それ故に理解できない。
 こんな弱小野球部と練習試合をするメリットが東京第一中学校にはないし、すでにチームを抜けて逃げ出した阿島に何か言うことがあるのだとも思えない。
 練習試合は三週間後に近所の唐坂グラウンドで行われる。
 おそらく現状のままでは北原紅葉中学校野球部に勝機はない。
 阿島は、これが自分の過去に対してケジメを付ける最後のチャンスであるとと考えることにした。

 (俺は、昔とは違う)


 三週間の期間がある。
 
 阿島は、東京第一中学校に勝つための方法を模索し始めていた。
 



 ◆◆◆



 ―――――――――ってェか、あと一人足りなくねェ?

 東京第一中学校との練習試合を三週間後に控えた四月二十五日の朝。
 阿島は朝練で掻いた汗を部室で拭いていた。

 「確かにな。試合も近い……ソフトボール部との試合とはワケが違うんだし」

 銭形一に言葉を返した直後、阿島はすぐ隣のテント内に滝本クリスがいたことに気が付く。

 (……しまった)

 予想通りに、男達が着替えを行うブルーシートで作られた簡易テントの外から苛立ちを含んだ声が聞こえてくる。

 「ヘーイ、今ソフトボールを侮辱した者の声が聞こえた気がシマース。今すぐ出てくればバットな事にはなりまセーンヨ」
 「い、いやっ、今のはそういう意味ではなくてだな」
 「まんまの意味だってェの」
 「銭形お前は口を出さなくていいっ」
 「オーウ、どういうことだ阿島」
 「だからっ!」

 阿島は女子のいるアウウトドア用テントのチャックを思い切り下げた。
 「違うんだっってっ―――――――――


 緑色の薄暗いテント内の様子が阿島の視界に収まる。
 チャックが閉まっているのは女子が着替え中だからだ。
 そんな当たり前のことを忘れて阿島は行動を起こしてしまっていた。
 テントの入り口で声を上げていた滝本クリスの下着姿がまず現れる。
 ハーク特有の白い肌、ピンクの飾りがついた下着に、阿島は自分が違う世界の入り口に足を踏み込んでしまったことを知る。

 「ナっ!?」

 同学年で知らぬ者のいないほどの有名人である滝本クリス。
 彼女が有名なのは、その大人らしい体付きにも起因している。

 「間違えたっ!」

 阿島は咄嗟にチャックを上げてテントの入り口を閉じようとする。

 「逃がしまセーン」

 手を掴まれる。
 いやおうにもテント内の様子が目に映る。

 「おいやめっ」

 奥では夏目美恵子、三田佳奈、薄代凛の三人も着替えをしていたところだった。

 「ちょっとぅ、阿島君何してるのっ?」
 「悪趣味な奴だったか」
 「……信じられません」

 三人それぞれに罵声を飛ばされ、阿島は心拍数が跳ね上がるような感触を得る。

 「だ、だからっ。って、あ?」

 そこで阿島は、一人知らない人物がテント内に混じっているのに気が付いた。
 彼女は阿島がいきなり現れたことに怯えているのか、タオルに顔を埋めて隠れていた。

 「あ、あの、彼女は誰?」

 たまらず聞いてしまう。

 「今ここでその話題を出すのは言い訳を辞めるという意思表示で間違いアリマセンカ?」

 滝本クリスの蔑むような視線が阿島を刺す。

 「い、いや……」

 阿島は身体を硬直させる。
 だが、滝本クリスは律儀にも彼女の素性を明かしてから報復を開始させた。

 「ソフトボールの後輩、小川 瑞樹(おがわ みずき)デース。ところで阿島、話は変わりますが、あなた缶詰は好きデスカ?」

 阿島の目の前に一つの缶詰が置かれる。
 ラベルの表紙には英字でSurstromming(シュールストレミング)と書かれていた。

 「お、おいっ、まさか」
 「私の母親の国ではこれをパンと一緒に食べマース」

 阿島は手に一切れの食パンを持たされた。
 滝本クリスの後輩、小川瑞樹は気を取り直したのか、缶切りをバックから取り出した。

 「やめてくれぇっっっ!!!!」

 世界で一番臭いと称される食べ物を、阿島は奇しくも同年の女子に食べさせられることとなった。




 ◆◆◆



 放課後、北原紅葉中学校野球部の練習には新たに一人の部員が加わった。

 「お、小川瑞樹いいます。よろしくお願いいたしますぅ」

 関西出身なのか、彼女は大阪弁で自己紹介をする。

 「はぁん?地元は大阪かお前」

 銭形一は、東京の外れに位置する北原紅葉中学
校では珍しい口調に反応した。

 「そうやけど?中学に上がる時に親が仕事で引っ越すゆうてな、うちもこっちに越してきたん。まだ東京弁には慣れんけどよろしく」
 「ミズキは一年ですが守備がとても上手いデース。銭形も参考にするとイイネ」

 滝本クリスは後輩を誇らしげに、銭形一を挑発する。

 「はっ、まさか。試すか?」
 「いいけど、負けても落ち込まんといてなー」
 「……どうやら口だけは達者のようだな、ムサちょっとついてこい」

 銭形一は小川瑞樹と共にグラウンドに散り、剛田武蔵にノックを頼む。

 「なんだか結構気の強い子なんだな……」

 阿島は、滝本クリスが焚き付けたとはいえ、銭形一といきなり勝負を始める小川瑞樹に驚いていた。

 「ミズキ、そこまで気は強くナイネ。彼女は元々弱気なのデス。私がこちらでの生活に慣れさせるために無理やり矯正させているだけなのデース」

 滝本クリスは、銭形一と良い勝負を始めた小川瑞樹を見ながら言う。

 「そうなのか?」

 阿島は、信じられない、という表情で二人を眺めた。

 「まあでも、これで部員が九人になったし東京第一中学校とちゃんと試合できるねー」

 そんな阿島に夏目美恵子は嬉しそうに言う。

 「あ、ああ」
 (試合は、できるようになった、な。でも……)

 阿島は東京第一中学校とただ試合をするのではなく、勝ちたいと思っていた。
 それを考えると、九人集めただけではまだ足りない。

 「ちょっと、投球練習付き合って」
 「おぅ?いいよ。それにしても、なんだか阿島君最近やる気だしてるねっ」
 「ま、まあ」

 確かに、夏目美恵子の言う通りかもしれないと阿島は考える。

 (こんなに必死になってるのは久しぶりかもしれない)

 全国大会に向けて練習をしていた頃以来だろう。
 阿島は東京第一中学校との練習試合に向けて一つ球種を増やそうと考えていた。
 今のストレートとカーブだけでは、間違いなく東京第一中学校にはめった打ちにされる。

 「一球試してみていい?」

 阿島は夏目美恵子に握りを見せながら言う。

 「いいよー、なんでもこいっ」

 フォームはいつも通り。
 左足を僅かに上げ、体をくの字に曲げながら重心を後ろから前へ。ボールは打者から見えないように隠しながらも、力を溜めすぎないように気を付けて体全体の運動エネルギーをなめらかに右腕に収束させていく。左足を地面に落とす。瞬間に溜まっていたエネルギーを爆発させて投げる。
 ここで、いつもとは違う指先の扱いをする。
 意識的に真っ直ぐな縦回転をイメージ。
 それは野球部に連れて来られた日に、薄代凛が投げたような綺麗な回転だ。

 (ストレートッ)

 腕を振り切る。右足は地面を一度離れ、フォロースルー時にまた地面に着陸する。

 「今のなんだっ?」

 夏目美恵子は阿島のボールに驚いて捕球を失敗する。

 「どうだった?」

 阿島はまだ掴みきれていないその球種の軌道を夏目美恵子の言葉を頼りに確かめる。

 「ナチュラルな変化がない、普通のストレートみたいだったよっ!」
 「よしっ」

 普通のストレート。
 一般的な投手が持っていて、阿島が持っていない武器。
 阿島は、東京第一中学校との練習試合で、このストレートを決め球に投球を組立てようと考えていた。

 (俺のボールは慣れられているしな……)

 一年間だけではあったが、阿島は東京第一中学校にいた。
 その間に、少なくとも今の二年生と三年生の選手には阿島の変化するストレートは慣れられてしまっているはずだ。
 ならば、その阿島のストレートに対する『慣れ』を利用しようと阿島は決めた。
 東京第一中学校以外のチームには通用しない手。だが、裏を返せば東京第一中学校には通じる手。
 慣れというものは簡単には抜けない。東京第一中学校の打者は球の変化を見誤らざるをえない。
 しかし、慣れが抜けないのは阿島も同じことだった。

 「あれっ、今度はいつものナチュラルだね?」

 夏目美恵子は、サインで普通のストレートを要求したのにもかかわらす、阿島のボールがナチュラルにシンカーの変化をしたことを指摘する。

 (やっぱりすぐには完成しない、か)

 ならば、ひたすら慣れるだけだ。
 普通のストレートに。

 「だから、言っただろうが。キャリアが違ェんだよキャリアがっ!」
 「く、くそ。お、大人気なさすぎや先輩」
 「よくやりマシタミズキ。ヘイ、銭形も偉ぶるんじゃなくて少しは褒めるしたほうがイイネ」
 「はあぁぁっ?―――――


 銭形一が小川瑞樹に千本ノックでなんとか勝利を収め、なにやら言い合いを始めている。
 阿島は、それさえも意識に留めず、その日はひたすら投げ続けた。

 (普通のストレートッ)


 完成させなければ、二人のような良い勝負を東京第一中学校とはできない。
 三週間。
 阿島は普通のストレートを投げ続けた。






 
 



[27372] 東京第一中学
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/16 19:55



 試合当日。
 唐坂グラウンドに相手校の東京第一中学校よりも先に到着していた北原紅葉中学校野球部ナインは、試合のための準備を行っていた。

 「佳奈―っ、そこちょっと曲がってるー」
 「ああ、分かったー」

 夏目美恵子と三田佳奈はグラウンドの白線を引いている。
 メジャーを外野にあるフェンスまで引っ張り、そのメジャーの上から白線引きでラインを引く。
 唐坂グラウンドは普段、一般の運動公園として開放されているので、客席のようなものはなく、各チームが座るベンチも木製でオンボロな物となっている。
 故に、北原紅葉中学校野球部の面々は、各自が分担してグラウンドの小石を拾ったり、一塁から三塁までのベースを設置しているのだった。

 「ふぅ、やっと終わりやがったぜェ。そろそろ相手さんも到着する頃だろうし、アップすんぞ」
 「分かったよーっ、銭形君。じゃあ集合―」

 夏目美恵子の掛け声により、それぞれ散っていた部員は集まる。

 「まったく、面倒な作業デース」
 「先輩おつかれはん、スポーツドリンクいりますぅ?」
 「サンキューデース」

 小川瑞樹は従者のごとく滝本クリスにペットボトルを渡し、滝本クリスがそれを飲み終わるのを見届けると、そのペットボトルを受け取り自分のカバンへと戻しに走る。

 「……ちょうど良い涼しさですね」
 「そうだね、凛。四月の終わりは練習にも試合にも丁度良い感じだ」

 薄代凛と三田佳奈はのんびりと準備を整えたグラウンドを見回す。

 「はっはっはっ!今日は良い調子だっ!」
 「足利君は今日も元気だね、僕は緊張しちゃって駄目だよ」
 「ムサ、こんな練習試合でいちいち過剰な緊張アピールいらねェんだよ」
 「そう言う銭形も緊張してそうだなぁっ!はっは!」
 「んだと足利!」

 集合をかけてから部員が少し騒ぎ出したところで小川瑞樹が戻ってきた。
 一同はグラウンドに引いたラインに平行に整列している。阿島はみんなの準備ができたことを部長の夏目美恵子に伝える。

 「小川も戻ってきたし、みんな準備できたみたいだ。さっさと挨拶しよう」
 「オーケーっ」

 阿島の言葉に頷くと、夏目美恵子は、整列、黙想、礼。
 と、普段の練習前にも行っているグラウンドへの挨拶をみんなで行うために大きく声を上げる。
 それに続く形で部員が挨拶を行い、北原紅葉中学校野球部ナインはランニングから始まる準備運動を開始した。




 ◆◆◆




 キャッチボールを始めたところで、東京第一中学校の小型のレンタルバスが到着した。

 (来たか……)

 阿島は内心でビクつきつつも、彼らがバスから出てくるのを見届ける。
 東京第一中学校の赤と白のユニフォームを着たメンバーがすべて出揃う。
 真っ白な練習着そのままの北原紅葉中学校野球部ナインは、その場で東京第一中学校の方を向き、夏目美恵子の挨拶を合図にして、全員で挨拶と礼を行う。
 そういった作法のようなものを知らない剛田武蔵やソフトボール部出身の二人は、一瞬遅れて同じように挨拶を行う。
 これに東京第一中学校側も挨拶を返し、両チームはまたそれぞれ荷物を降ろしたり、キャッチボールを開始したりと行動を再開する。
 だが、一人。
 東京第一中学校の一人がグラウンドへと降り、真っ直ぐと阿島の方へと歩いてきた。

 「どうも、初めまして。僕は神童 要(しんどう かなめ)です。あなたが阿島慶ですか」
 「ああ、そうだけど」

 神童要と名乗ったのは、阿島よりも一回り体格の小さな、幼さの残る少年だ。

 「意外と大したことなさそうですね、先輩達の言っていた情報も当てにはならないようです」
 「な……お前、何様のつもりだ」
 「それはこっちのセリフでしょう。東京第一中学でエースをやりながら、仕事を半ばで放棄したあなたこそ、何様のつもりなんでしょうか」
 「……っ」

 阿島は何か言い返そうとして、結局は何も言えない。
 阿島の視線の先には、こちらを遠くから眺める東京第一中学校野球部部長の塚本七瀬の姿があった。

 「まあ、いいです。今日は僕の我儘でこの試合をセッティングしてもらったのですが、せいぜいその努力に釣り合う試合内容にはしてくださいね。いくらなんでも三回五点コールドではつまらない。ああ、練習試合にコールドはないんでしたっけっか」

 神童要は冷笑しつつ、阿島から離れて荷物を降ろすチームの元へと戻っていった。

 「なんやなんや、あの生意気そうなガキは」

 状況を把握できていなかった小川瑞樹は、喧嘩か、喧嘩ぁ!?といきりたちながら相手チームを睨みつける。

 「言っていませんでしたが、彼らは阿島の元チームメートデース」
 「そうなん?」
 「まったく、いきなり挑発を受けるなんて、阿島君は向こうでかなり苦労してたんじゃないか?」

 三田佳奈は阿島を慰めるように言う。

 「いや、彼は俺の知らないメンバーだった。たぶん、今年入部した一年生だろう」
 「はぁ?つーことはテメェ、一年坊に大したことない言われて、何も言い返せなかったっつぅのかこの野郎」
 「エースの役目を放棄したってことは、事実だし、言い返すことはできないさ。それよりも、この試合を組んだあいつの意図が分かっただけで満足だ」

 それは単に、あの神童要とかいう一年の投手に通過儀礼として、あの悪魔が前エースピッチャーを倒させるために設定した試合というだけのことだ。

 「いいさ、やってやる」

 阿島は、それまでの凍りついたような血液を激しく燃やしながら、キャッチボールを再開した。




 ◆◆◆



 「それでは、これより練習試合を開始します。両チーム、礼」

 審判である東京第一中学二年生の宮島の声に、両チームは互いに礼をし、グラウンドへと散っていく。北原紅葉中学は後攻。先発は阿島だ。打順と守備は、一番遊撃手・三田佳奈。二番二塁手・薄代凛。三番三塁手・銭形一。四番中堅手(センター)・足利桂馬。五番左翼手(レフト)・滝本クリス。六番投手・阿島慶。七番捕手・夏目美恵子。八番右翼手(ライト)・小川瑞樹。九番一塁手・剛田武蔵。阿島は、打撃が投球の負担にならないようにするため、打順をソフトボール部との試合の時よりも少し下げた。

 (宮島が主審か……あいつは雑用や審判の仕事に関しては一流だったな。おそらく、この場でも両チームに公平かつ正確な審判をするはずだ)

 阿島は、チームメイト達に説明した文言を思い出すと、第一バッターが誰になるのかを確認する。バッターは朝倉、左打ち右投げ、阿島とは顔見知りだ。阿島は記憶の中に眠っていた東京第一中学校野球部の面々の癖や特徴を揺すり起こしながら、夏目美恵子のサインを見る。

 (ええと、阿島君が言ってた配球は……っと、これかな?)

 外角低めにストレート。

 (うん)

 阿島は頷くと、モーションに入る。あらかじめ阿島が知っている限りのメンバーの情報を貰っていた夏目美恵子は的確なサインを阿島に伝えていた。腕を振り、投げる。

 見逃し。

 「ストライク」

 宮島の淡々とした審判。
 カウントはワンストライクノーボール。第二球は。

 (アウントコースから逸れるカーブだねっ)

 「ボール」

 バッターの朝倉は、阿島の投球フォームからボールの軌道までをじっとりと見ている。

 (嫌な感じだ)

 阿島は、普段のフリーバッティングと試合の時とでは雰囲気が一変する東京第一中学のメンバーの集中力に、緊張感を高めた。空を仰ぐ、快晴だ。阿島は、マウンドに映る自分の影を踏み潰して投げる。インコース低めに狙いをつける。

 (くっ……)

 若干指先が滑った。

 「ボール」

 球威が無い真ん中高めのストレート。絶好球とは言わないまでも、長打を打つには申し分ないコースだ。しかし、朝倉は見逃すのみ。

 (そうだな、朝倉は基本的に一打席目は様子見が主だった)

 阿島はストレートを外角低めに投げ込む。

 カーンッ

 「なっ!?」

 ライト前にライナーが襲う。守備をしているのは小川瑞樹、ワンバウンドでしっかりと捕球、そのまま一塁に送球。

 「セーフ」

 タイミングはギリギリ、本塁から宮島が審判した。

 (早いんなっ!)

 小川瑞樹は舌打ちをすると、グローブに拳を打ち込む。
 この展開に阿島は、しかし、内心ではかなり落ち着いていた。

 (気を弛ませておいて、その隙を突いてきたな)

 阿島の視線は、東京第一中学のベンチへと送られる。
 塚本七瀬がバッターとランナーへの指示を出していた。当然だが、サインは阿島がいた時とは全くの別物だ。キーを置いてるのかすら分からない。
 


 (走ってくるな)

 阿島は一塁ランナー朝倉の足なら、夏目美恵子の送球から逃れられると分かっていた。おそらく、塚本七瀬はそのことを投球練習の時、夏目美恵子が見せたただ一度の送球から読み取っているはずだ。この場面でバッターは二番、右打ちで小柄。阿島の知らない選手だ。

 (一年生か、まずは一球外そう)
 (分かったよっ)

 夏目美恵子のサインに二度首を振り、頷く。
 背中越しにランナーを威圧し、しばしの沈黙。そして投げる。出来うる限りで最速のクイックモーション!

 「走ったよっ!」

 剛田武蔵の叫びが聞こえた。
 夏目美恵子は立ち上がり、捕球。ワンバウンドの送球を返す。

 「セーフ」

 捕球時のタイミングが良い勝負だったが、送球がランナーに遠い位置にズレた。夏目美恵子の悔しそうな表情。ここからは二番バッターに集中するぞ、と、阿島は間を置かずにサインを促す。セオリー通りならバントをしてくるだろう。
 阿島は投げる。

 (やはりバントッ!)

 外角のストライクコースぎりぎりのボールをファースト方向に上手く転がしてきた。

 「阿島君っ!」

 夏目美恵子の指示が飛ぶ。
 その声に剛田武蔵は一塁ベースに留まり、阿島がバントの処理に向かう。
 一塁線上から少し内側、ボールはランナーと競争する形だ。捕球、だが。

 「セーフ」
 「くっ……」

 送球したが、間に合わなかった。これで、ランナー一塁、三塁。ピンチでノーアウト。
 こうなると、実質はランナー二塁、三塁と変わらない。それが、中学野球の通例。
 阿島はストレートをアウトコースへと投げる。
 一塁ランナーは盗塁を仕掛ける。夏目美恵子は二塁へ送球……と見せかけて、阿島にクイックで送球、捕球した阿島は三塁ランナーに向き直る。三塁ランナーは大きくリードをしていたが、刺してアウトにできるほどではない。
 なぜ、二塁へとそのまま送球しないのかというと、二塁へと送球する間に三塁ランナーが本塁へと駆け出した時、内野手が投げないといけない送球距離は投手が捕手へ、捕手が二塁へと送球する場合よりも投手から捕手までの距離分長くなるからだ。
 ヒット一発で二点失点の場面である。
 バッターは三番佐藤健太。阿島の知りうる限りで、最もヒットを量産してきた男だ。左打ち左投げ、長身で、腕も長い。おおよそ全てのコースが佐藤へのデンジャラスゾーンだ。

 (満塁策か、勝負か)

 阿島は、三塁へと一球だけ牽制球を投げ、策を考えるための時間を稼ぐ。

 (勝負だねっ)

 阿島は頷く。
 ここで逃げてもしょうがない。満塁で四番などあり得ない、そこで抑えられなければおしまいだ。最悪でも失点は二点までに留める。
 真っ向勝負だ。
 阿島は、サインを見る。

 (内角にストレートっ)

 頷く。阿島は渾身のストレートを投げ込む。

 カーンッ

 コース通り、そして初球打ち。真芯で捕えた打球は阿島を襲う。

 「アウト」

 (あ、あぶな……)

 抜けていたら、そのままセンターの足利すら捕えられず最低でもツーベースにはなっていた。肝が冷える、と、阿島は胸を撫で下ろしつつも、後ろを振り返りワンアウトを宣言する。
 だが、依然としてピンチであることには変わりない。打者は四番の塚本七瀬。腕はそれほど長くなく、あらゆるコースに対応できるというわけではないが、代わりに相手の配球を読みきる能力は一級品だ。
 久しぶりの対面。阿島は、塚本のギラギラとした細長い切れ長の眼に一度視線を逸らす。
 そして、小さな深呼吸の後に直視する。

 (まずは、外角低め)

 通常よりもゆったりと、力を込めてのクイックモーション。

 「ストライク」

 まずは、見逃し。
 今度は、外角から外へと逃げるカーブ。内角へと向かわないようにコントロールするため、明らかなボールとなると分かっていながら投げる。

 「ボール」

 カウント、ワンストライクワンボール。
 次は内角にストレート。
 阿島が最も精神を擦り減らすコースだ。ここ一番、投げ込む。

 「ストライク」

 (決まった……)

 このコースは決まりさえすれば、打者は手も足も出ないコース。どうやら塚本も感心したのか、それとも苛立ちを覚えたのか。ほう、などとマウンドにまでは聞こえないほどの音量で言葉にした。

 (ここだな)

 阿島は確信を持つ。
 使いどころは今であると。
 普通の、真っ直ぐ。
 一般的な意味でいう所のストレートという球種。
 今日までの練習で、不要な変化をしてしまう確率はかなり低くなった。
 成功率はおよそ八割。阿島は、全力をこの場面に注ぎ込む。
 コースは指定しない。まだコントロールしきれるほどではないからだ。
 構える。そして、投げる。
 ど真ん中。

 「なっ……」

 カーンッ

 ボールはセンターフライ。
 浅い位置だ。ランナーは足の速い朝倉、センターの足利は肩の強さはチーム随一だがコントロールに不安がある。微妙だ。

 「センターっ!」
 「オーケーだっ!」

 足利の頼もしい声。
 捕球、と同時にランナーは駆ける。

 「アウト」

 遅れて宮島のフライへの判定が宣言される。
 送球は、夏目美恵子へと一直線。完璧な送球、しかし、朝倉も早い。
 ヘッドスライディング。

 「……」

 捕手とランナーの攻防戦。審判の宮島もしばしの沈黙を見せ、判決を下す。

 「セーフ」

 (失点……っ!)

 一対0になる。北原紅葉中学は先取点を許してしまった。

 「ドンマイドンマイ」

 チームの皆の声、阿島はなんとか自分を奮い立たせる。
 (二点までは、いい。いいんだ)
 顔を上げて、次の打者を観察する。
 状況はランナー二塁ツーアウト。
 ふと、東京第一中学のベンチを見ると、塚本七瀬が早速阿島の新しい真っ直ぐを知らせているようだ。

 (ここからは解禁だ)

 阿島は新たな真っ直ぐを惜しげもなく、投げることにした。
 バッターは五番の熊川、右打ち、鈍重な体形だが、当たった時の長打はデカい。

 (真っ直ぐっ!)

 阿島は、今までのストレートは現行の名称でいき、新たなストレートは真っ直ぐと言うことにしていた。

 「ストライク」

 当然、初めて見るボール。熊川はじっくり見てきた。

 (ストレート)

 変化のある早いボール。

 「ストライク」

 リズムで押し切るため、阿島はすぐに構える。

 (真っ直ぐ)

 カスッ

 キャッチャーフライだ。
 夏目美恵子はがっちりとそれを捕球する。

 「アウト、スリーアウトチェンジ」

 (なんとか、一点か)



 ◆◆◆



 そして、一回裏の北原紅葉中学の攻撃。一番、三田佳奈は投球練習をバッターボックスのすぐ横で眺めていた。投手の神童要は両腕を大きく振りかぶり、足を踏み出す。

 (はや……っ)

 細身で小柄の割には、その球速は百二十キロほどは出ていた。三田佳奈だけでなく、北原紅葉中学ベンチも驚きを隠せない。軟式の野球ボールにおいての球速は、硬式野球においては十キロは加算されると呼ばれているからだ。この様子を嘲笑うかのように、神童要はテンポ良く投球練習の最後の一球を投げ、塚本七瀬が鋭く的確な送球を二塁へと行う。
 ボールが神童要へと戻ると、整然とした掛け声が起こり、審判の宮島がゲーム再開の宣言をする。

 「プレイ」

 三田佳奈は、速球に対する多少の恐怖心を抱きつつもバッターボックスへと入った。

 (まずは、見る……!)

 阿島も知らないという新人である。三田佳奈は、相手投手の持ち球、癖、配球の傾向を探るために、球数を稼ぎやすいようバットを普段よりも拳一つ分短く持った。
 サインに頷いた神童要は振りかぶる。左足を上げ、振り下ろす。

 (ストレートッ)

 三田佳奈は見送る。コースはど真ん中、まさしく絶好球だ。
 ミットに収まったボールに目を向けた三田佳奈の視線は、捕手の塚本七瀬とぶつかる。

 「なっ……」

 (笑ってる……!)

 塚本七瀬の見透かしたような瞳が、三田佳奈に自分の底の浅い考えを痛感させる。
 塚本七瀬は確信していたのだ。一番バッターは必ず見送る。間違いなく球数を稼いで様子を見ようとする、と。

 (まー、こんなもんだろ。女ばっかのチームだ所詮。監督も野球に似たようなスポーツをやっていそうな感じだが、野球に関してはズブの素人に見える。あーこんな練習試合組まなきゃ良かった、ダリー)

 塚本七瀬は、ボールを投げ返すと、すぐにサインを送る。

 (もう一球ど真ん中放れ)

 投げやりなサインに、神童要は何か言いたげな表情を見せる。が、首を横に振ることはせず、注文通りのボールを投げる。

 「ストライク」

 宮島の宣言がグラウンドに虚しく響く。守備の掛け声は今のところまるでない。回の初めに放たれた統率された掛け声が嘘のように、グラウンドは沈黙に包まれていた。グラウンドは。

 「佳奈―っ、打てるよ打てるよっ!」
 「打て三田この野郎っ!」
 「かっ飛ばせ!かっ飛ばせ!かっ飛ばせ!」
 「速さに、速さに惑わされるなっ」
 「打つのデースっ」

 ベンチからの声は勢い衰えることを知らず、止まらぬヒートアップをしていた。ツーストライクノーボール。サインが決まる。
 神童要は、三度目のど真ん中ストレートを放る。

 カキッ

 「ファール」

 ボールは捕手の背後に立つバックネットへと高速回転で衝突する。バックネットの高さ限界ほどから自由落下運動を始めたボールを塚本七瀬はアウトを取れるわけでもないのにボールの落下地点で待ち構え捕える。そして、神童要へ投げる。

 「もう少し真面目にやれ一年」

 強い怒気を含んだ声が発せられる。北原紅葉中学のベンチにすら聞こえるほどの低く唸るような喝は、確かに神童要を射抜いていた。

 「は、はい」

 僅かだが神童要はたじろいだ。何度味わったかしれない唐突な喝、阿島も心臓がドクンと一際大きく鳴った気がした。
  ボールを返された神童要の表情からは、相手を試すような笑みは消え失せていた。

 (もう少し真面目にって何さ)

 塚本七瀬の言葉に、三田佳奈は自分が馬鹿にされているかのような気分になる。
 神童要は構える。サインには一度で頷き、振りかぶり、投げる。

 (なっ)

 「ストライク、バッターアウト」

 (早くなった……?)

 阿島は見るからに上がった球速に、神童要が力をセーブして投げていたと確信した。
 五キロは早い。同じコース、ど真ん中だが、三田佳奈は完全に振り遅れていた。

 「手を抜いきてたとはね……」

 やりきれない表情で三田佳奈がベンチへと戻る。

 「かっ、あんな球ただ早ェだけじゃねーか」
 「早いだけじゃない、コントロールもある」
 「あ?」
 「しかーし、俺ならば打つがな!」
 「打てるもんならな。ま、今日の初ヒットは俺が頂くぜ」

 銭形一は、意気揚々と素振りを始めた足利桂馬とベンチのメンバーにニヤリと笑みを見せると、そのままネクストバッターサークルへと向かう。

 「ファール」

 ボールがバットに掠る音。ベンチからの視線は一斉にバッターボックスへと向けられた。バッターは薄代凛。左打ち、右投げ。華奢で小柄、グリップの端ギリギリを握っている。短くではなく、長く。薄代凛は、長打を打とうとしていた。

 (こいつ、なんだ?)

 塚本七瀬は不可思議な構えを取る少女に首を傾げていた。こんな身体で、いくらなんでもツーベース、スリーベースヒットは無理だからだ。他の市内大会で上位にも来れないチーム相手なら打てるかもしれないが、ここの場面、東京第一中学の守備に限ってはそんな外野の合間を抜かせるようなことはない。

 「……」

 (しかし、だ)

 塚本七瀬は考えていた。初球から、本気の神童のボールに当ててくるということは、やりようによっては、もしかしたら打ってくるかもしれない。

 (長打……狙い)

 「はっ……」

 塚本七瀬はサインを待つ神童要を見て微かに笑った。

 (やめだやめ、ど真ん中ストレート中止―)
 (え?)

 塚本七瀬は神童要にサインを出す。

 「……」

 神童要は、そのサインに塚本七瀬が本気になり出したと感じた。
 振りかぶる、そして、投げる。

 (もらった……)

 相変わらずのど真ん中真っ直ぐ。薄代凛は、タイミングさえ合わせれば、正確なコントロールゆえに当てることができるだろうこのボールを、真芯で捉えて打ち返すつもりだった。真芯に当たりさえすれば、非力な自分でも、外野の頭を超えることができると思ったからだ。事実、中学野球で使われる金属バットは、特に力を加えずに振ったとしてもよく飛ぶ。それに、相手投手である振動要のボールは早い。反発力で打球の飛距離も底上げされるはず。
 しかし、その読みは裏切られることとなる。

 (変化球っ……!)

 ストレートだと信じたボールは、手元で僅かに曲がったのだ。

 カッ

 芯を外したボールは、セカンドの頭上へとフライとなって飛んでいく。

 「アウト」

 ツーアウト。
 薄代凛は、一塁を駆け抜けるとバッターボックスを見る。
 バッターは銭形一。銭形一は、薄代凛の視線に気付き頷いた。

 (今のは変化球だったってことだろ?)

 薄代凛は無言で頷き返す。

 「さて……」

 ランナーなしのこの場面、長打を狙うしかない。
 神童要が変化球を投球に混ぜてくるというのなら、カウントに余裕があるうちに打ちにいくのがベターだ。
 神童要がサインに頷き、振りかぶる。
 投球。
 銭形一は初球、真ん中にやってきたボールに手を出す。

 カッ

 「ファール」

 「ち……」

 初球からの変化球。
 今度はシュート気味に逸れた。
 しかし、銭形一にはそのボールがシュートであるようには感じられなかった。いまいち納得に欠ける。

 (今のは……シュートだよな……?)

 銭形一は疑念を消すことができないままに二球目を迎える。

 (今度はスライダーッ!?)

 外へと僅かにズレていくようなキレのある変化を見せたボールに銭形一のバットは空を切る。

 「ストライク」

 ツーストライクノーボール。
 後はない。これまでの傾向からして遊び球もないだろう。
 三球目。

 (また同じコースッ)

 銭形一は、最後をシュートと決め込んでバットを振る。

 カーンッ

 (捕えた!)

 真芯で捉えたボールは地を這いながら左中間方向へ―――――

 「アウト」

 「なっ……」

 しかし、ショートの守備が追いついた。横っ跳びでボールを捕球をしていた。間違いなくファインプレー、並みの守備ならば外野へと抜けていただろう。
 
 「スリーアウト、チェンジ」







 








[27372] それから
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/19 12:29
 


 二回表、東京第一中学の攻撃。打者は六番の西野、左打ち右投げ。おおよそ平均的な体格だが、肉付きは良い。クリーンナップほどの力は無いが、当てればしっかりと飛ばしてきそうだ。阿島の知らない選手である。

 (外角低めにストレートだねっ)

 阿島はサインに頷き、構える。
 まだ疲れはない。阿島は後半のことを考慮しつつも、コントロールを重視して投球する。

 カッ

 初球打ち。だが、打球は詰まってフライ気味にセンター前へと向かう。

 「オーケー」

 ショートの三田佳奈が背面走りで外野方向へと上がる。

 「センターセンター!」

 大声でセンターの足利桂馬も打球の落下地点へと走る。

 「オーライッ……」

 薄代凛もが精一杯の声を出していた。

 (まずいっ)

 阿島は咄嗟に何かを言おうとして、結局は最悪の事態を回避することしかできないだろう叫びを上げた。

 「危ないっ!」

 時を同じくして、夏目美恵子も同様に叫ぶ。

 「あっ」

 「おわっ!!」

 「……!?」

 三竦みだ。お見合いとも言う。三人は互いにぶつかりそうになったところで急ブレーキをかけた。
 打球はそのまま落下する。ワンバウンド、ランナーは一塁を大きくリードして、センターの足利桂馬がすぐに反応したのを確認すると、二塁は攻めずに一塁へと戻った。

 「み、みんなもっと声出しあってっ!」

 夏目美恵子は、危なく衝突事故を起こしそうになった三人に注意を促す。

 (……でも、今のはしょうがないかもしれない)

 阿島は、このようにポジション同士の境界地点で、ぶつかることを避けてヒットを許してしまう場面を何度も経験してきていたために、この事態を仕方のないものとして消化した。
 しかし、チーム結成間もない北原紅葉中学ナインにそんなことは分からない。

 「足利、私が下がったんだからちゃんと捕球に向かいなよ」

 「いやァ!?俺は三田か薄代が捕球しに行くのが視界に入ったからカバーに入ろうとだなァ!」

 「……私もカバーです」

 ギスギスした口喧嘩が始まりかけたところで、審判の宮島が声を掛けた。

 「ゲームを進行したいので、守備に戻ってください」
 「……すいません」
 「あー、はい!」
 「……」

 三人が定位置に戻ったところで、ゲームが再開される。
 バッターは七番の梶間(かじま)、右打ち右投げ。身体は細身で長身、力はあまり強くないが、ボールを芯で捉えることは上手かった。阿島が居た頃はベンチメンバーだった選手だ。

 (……なんかすごい投げづらい雰囲気)

 阿島は、ノーアウトランナー一塁のこの場面で、なんとも言えない険悪なムードになってしまったチームを心配しつつも、サインに頷いて投球する。

 (外角高めに真っ直ぐっ!)

 盗塁にも対応しやすいコースだ。
 実際には走ってこないだろうと思いつつも、阿島はしっかりとクイックをかけて投球する。

 「ランナー走ったっ!」

 剛田武蔵の声。

 (えっ?)

 虚を突かれた阿島だが、ボールを投げ切るまでは何もできない。
 そして、バッターへとボールを投げた時に、相手の策を理解することとなる。

 (エンドランッ)

 盗塁中のランナーがいるのにも関わらずにバッターが打ってくるという状況に、実戦経験の薄い北原紅葉中学野球部は完全に死角を突かれていた。来たるべき状況を想定しての実践用の守備練習よりも、単純に個々の守備能力を向上させる練習に傾倒していたしっぺ返しがやってきた。

 カーンッ

 打球は右中間になだらかな山なりで勢い良く飛んでいく。
 大きくワンバウンド。一塁ランナーは二塁を回る。センター足利とライト小川が捕球に向かうが、抜かれた。

 (しまった……)

 阿島は自分自身の気の緩みを痛感していた。チーム内での口論に気を取られ、この場面でヒットエンドランの可能性を考慮することを忘れていた。
 一つのエラーからの大量失点、その最悪の展開が阿島の脳裏を掠める。
 阿島は、本塁の夏目美恵子のカバーへと向かう。
 一塁ランナーは悠々と生還。打者は三塁へとスライディング。
 ノーアウトランナー三塁。

 「こりゃ、まずい」

 阿島は気安く真っ直ぐを投げたことを悔やんだ。そうだ、相手は阿島が居た頃にはいなかったバッターだったのだ。本来の意味でのただのストレートが、彼らに通用するはずもなかった。阿島は、自分の思考停止具合にうんざりしつつも、気を取り直そうと一際大きく声を上げる。

 「ノーアウトッ、外野!タッチアップあるよ!」

 マウンドへと戻り、次の打者を確認する。
 八番磯崎(いそざき)、右打ち右投げ。小柄な打者だ。阿島の知っているメンバーで、守備力を買われてのレギュラー入りをしていた。

 (スクイズ……一塁と二塁が空いているし、タッチアップを狙って普通に打ってくることも考えられる)

 阿島は思考を回す。

 (外の低めにストレート、でいいかなっ?)
 (いや……)

 阿島は首を振る。

 (じゃあ、敬遠?)
 (それも違う)
 (なら、内角で勝負?)

 阿島はそこで頷いた。
 ここは勝負、内野は前進守備。外野も定位置よりも前に守備を取る。

 (ストレートッ)

 バッターはバントの構え、内野は本塁へと突撃する。

 「ストライク」

 しかし、バッターの磯崎はバットを引いて見逃す。

 (匂わせてはくるが……)

 阿島は、今度は外へ逃げるカーブを夏目美恵子に求める。
 (外角に逃げるカーブだねっ)
 頷く。そして構え、投げる。
 またしてもバントの構えからバットを引いての見逃し。

 「ボール」

 三球目、阿島はバントのしづらい外角低めをボール気味に外す。

 「ボール」

 想定よりも大きく外へ外れたボールを同じくバッター磯崎はバントの構えから引いて見逃す。

 (これで遊び球は無い)

 四球目、コースは内角へとストレート。僅かに変化させて打ち取りでもバント失敗でもどちらも誘える攻めだ。
 力を溜めた形でのクイックモーションで投げる。

 「スクイズッ!」

 四球目、やはり磯崎はスクイズをかけてきた。三塁ランナーを本塁へと牙を剥く。バントは成功する。打球はマウントの正面に転がった。

 (ボールの勢いが丁度よく殺されているッ、本塁は無理か……!)

 阿島はボール捕球すると迷わず一塁へと送球する。

 「アウト」

 三対0になった。点差は広がり、未だにワンアウト。
 打者は九番神童要。
 ここでの九番には安心感はない。下位打線に並んでいるとは言っても、投手である神童要は、投球を優先しての打順だ。

 (打撃も上手いのか……?)

 阿島は構え、投球する。

 (外角低め)

 「ストライク」

 神童要は、まるで打ちそうな素振りを見せることもなく、ひたすら棒立ちだ。

 (まさか)

 その様子に、阿島は神童要に打つ気がないことを悟った。

 (真ん中にストレート)

 「ストライク」

 ツーストライクノーボール。
 しかし、神童要は欠伸でもするかのようだ。
 三球目。

 「ストライク、バッターアウト」

 (やっぱり)

 神童要はわざと三振しにきた。おそらく、点差と今後の投球を考慮してのことだろう。
 こういった行為はしばしばプロ野球の舞台でも行われることだ。

 「それにしても……」

 普通は相手チームへの礼儀としてバットを軽く振るくらいはするものである。神童要はそれすらしなかった。完全に阿島達を見下しているのだ。

 「ツーアウトッ!」

 夏目美恵子が叫ぶ。その声に阿島は気を取り直す。

 (まずは目の前のバッターを打ち取ってスリーアウトを取ることを考えよう)

 一巡回ってバッターは一番朝倉、左打ちだ。

 (さて……)

 初球、ストレートを低めに。

 「ストライク」

 ツーアウトの場面、打者は打つ気満々だ。初球は見逃してきたが、次にストライクゾーンを攻めれば確実に打ってくる。足の速い朝倉を塁に出し、盗塁されるという展開は避けなければならない。

 (一球カーブで外そうっ)

 頷き、二球目を投げる。

 「ボール」

 朝倉はボールが変化するとみると、しっかりと踏みとどまってボールを見逃した。
 三球目、真っ直ぐを内角に投げて打ち取る。
 そう決めての渾身の一球。阿島は思い切り投げる。

 (しまったっ……)

 大事なこの場面で、しかし、ボールは真っ直ぐにはならず阿島流ストレートに変化した。
 数週間の準備期間があったとはいえ、まだ完成には到達していないのだ。

 カキッ

 打球はサードフライ。

 「助かった……」

 阿島は安堵するが、ふとある考えに至る。

 (寧ろ、真っ直ぐを読み切っての打撃だったのかも)

 可能性としては大いにある。
 朝倉がフライを上げるのはほとんどありえないからだ。彼は、それほどに一番という打者の役割を理解している。

 「アウト、チェンジ」

 だとすれば、阿島の配球は、やはり塚本七瀬に読まれているのだろうか。
 阿島は攻撃時、ランナーがいない場面でも打者にサインを送り続ける男に視線を向けた。




 ◆◆◆




 二回裏、北原紅葉中学の攻撃。
 バッターは四番足利桂馬。

 「さぁ来い!」

 威勢の良い声。足利桂馬には、神童要に対する細かい戦略的な色々は何も無かった。

 (こいつが四番ねぇ……)

 塚本七瀬は、目の前で自信満々な様子を見せていた足利桂馬に流し目を送りつつ、神童要へとサインを送る。

 (真ん中、同じボールな)

 神童要は頷き、構え投げる。

 「初球打ちィ!」

 足利桂馬は真ん中へとやってきたそのボールに、喰らいつく。

 カキンッ

 多少詰まった感のある打球。レフト前へと上がったボールをショートが追う。

 「おおっ!」

 北原紅葉中学のベンチで誰かの声が上がった。打球は伸びる、伸びる。
 ショートはジャンプで捕球しようとする。が、ワンバウンド。

 「ナイスバッチー!」

 ベンチにいた全員で声を送る。
 一塁ベースで意気揚々と腕を振り上げる足利桂馬は、どうだ!と叫ぶ。

 「ちっ……運のいい奴」

 神童要はマウンドのプレートに乗っかった土を蹴飛ばすと、ワインドアップからクイックモーションの構えに投球の型を変える。
 バッターは滝本クリス。

 「ヘイ、カモンッ」

 (外国の女か、にしても飽きねぇくらい変わった連中が多いな。さっきヒット打ちやがった奴といい、声がデカかったり外国人だったり)

 「頑張ってなー先輩―」

 (大阪弁の奴がいたりな)

 塚本七瀬は、ランナーが出た場面にも関わらず全くと言っていいほどに危機感を抱いていなかった。足利桂馬のようなヒットは二度も続かない。そういった確信があったからだ。根拠はない。塚本七瀬は足利桂馬が神童要の球にしっかりと反応した上でのヒットを打ったと理解していてもなおそう考えていた。
 塁上の足利桂馬も考えを巡らす。

 (バットを振る直前、俺はなんとか球の変化に対応できたが……!クリス、お前はどうだ!?)

 ベンチからのサインは『打て』だけ。バントをして堅実に一点を取りにいくよりも、大量点を狙うためだ。

 (このピッチャー、前の回から変化球ばかりデース。おそらく、阿島と同じの癖球持ちか、変化球型の配球を捕手に迫られているとのデショウ。来ると分かっている変化球ほど打ちやすいボールはナッシングッ!)

 滝本クリスは相手の持ち球をこれまでの仲間の報告からスライダーとシュートの横変化に絞って、相手の配球を読む。
 そして、クイックモーションからの神童要の投球。

 (スライダー読みネ!)

 ボールの球種を決めつけてのフルスイング。

 「ストライク」

 ボールは狙いとは反対のシュートだった。
 カウントワンストライクノーボール。ランナーは一塁。
 二球目、ここでも滝本クリスは神童要の球種を決めつけて打つ。

 (スライダーッ!)

 「ストライク」

 追い込まれた。
 間髪入れずに三球目。

 (シュートッ!)

 だが、違う。ここで球種はストレート。

 ガッ

 バットの根本にボールが当たった。シュートの変化に対応しようとしてバットをアウトコースに持っていったのが、読みを外されても打てた要因だろう。
 ピッチャーマウンド前を転がるボール。ピッチャーの神童要が対応し、捕手の塚本七瀬からの指示で一塁へと送球を送る。
 ワンナウト。ランナー二塁。バッターは阿島だ。
 
 (スライダーとシュート……でも)

 阿島は神童要の投げる変化球の性質が、ストレートにあまりに似通っていることに違和感を感じていた。通常の変化球ならば、それがスライダーやシュートなどのわりとストレートに近い速度の球であっても、投手の投げ方やボールの回転の僅かな違いからそのボールが変化球であると察知でき、ある程度の対応ができる。しかし、薄代凛はそういった疑念を抱きもしないほどに、神童要のボールの球筋がストレートであると確信させられていた。なぜか。阿島は、神童要のボールから事実を読み解くため、集中を高める。

 (何をやろうが攻略法なんざありゃしないんだっつーの)

 塚本七瀬は、神童要に意識を向ける阿島を横目に見つつ、サインを送る。
 サインを受け取った神童要は頷くと、構え、投げる。

 (見るっ)

 阿島は球の回転、速さ、変化のタイミングを計る。

 「ストライク」

 見逃し、ど真ん中ストライク。
 普段ならもったいないと思うくらいの絶好球、しかし、そのボールの球筋はやはり、微細な変化を生じさせていた。横にブレるというか、滑るような。

 「まさか」

 阿島の脳裏の一つの答えが現れる。
 日本のプロ野球でもダルビッシュ有などのエース級の投手しか投げることができず、高校野球やアマチュアではほぼ投げる人間のいない球。海外のメジャーリーグではイチローや松井が苦しめ、打ち取った。ストレートとほぼ同じ軌道、球速。しかし、手元で変化する。多くの投手が会得を目指すも、コントロールの難しさや投げづらさから実戦ではあまり使われない球種。

 (ツーシーム……っ)

 阿島は投手向けの教本で見たその変化球の名を胸の内で反芻する。ボールの縫い目に指を縦に二本おき、風の抵抗を縫い目に集めることで球の軌道を不規則に変化させる。ダルビッシュ有投手の場合は、指を縫い目に一本だけ置くという自己流の形をとっているが、おおよその原理は同じだ。ちなみに、普通の投手の投げるストレートはフォーシームと呼ばれる。つまりは、ストレートにも色々あるということ。

 (どうやって打つ)

 ボールの正体は分かった。今度は、どうやって攻略するかを考えなければならない。

 (だけど……)

 阿島の思考はある結論にすぐさま行き着いた。

 「ツーストライク」

 二度目の見逃し、後はない。
 三球目を投げるために、神童要は足を上げ、重心をマウンドからホームベースの方向へと下す。
 阿島は全力のフルスイング、ボールの来る位置は分かっている。ならば、バットを振るしかない。内野の隙間を抜き、外野の頭を超える。

 (外角低め……ッ!?)

 阿島の考えを見越したかのような配球、阿島のバットはボールからかなり離れた位置で空を切った。ど真ん中ではない。塚本七瀬は、試合をたたみに来たのだ。

 「ストライク、バッターアウト」

 (これじゃ、ボールのコースも考えなくちゃいけない……完敗だ……)

 阿島は敗北を覚悟した。この神童要が投げるボールは、いわば阿島の上位互換と言っていい。阿島の誤魔化しの球は、遅いストレートからシンカー気味にズレる。しかし、神童要の球は、速いストレートかた左右のどちらかにズレる。これだけで決定的だ。北原紅葉中学の負けは動かない。それは阿島の投球だけが原因ではない。チーム全体の技量が違い過ぎた。不完全な守備とファインプレーを軽々と行う守備。空白地帯のある打線と九番以外のすべての打者が脅威となる打線。
 ゲームは阿島の空振り三振を皮切りに、そういった事実を証明していった。




 ◆◆◆




 「ゲームセット」

 七対0の五回コールド負け。
 最後の打席をライトフライで終えた阿島は、下を向いて両チームの整列に加わる。

 「まあ、ただ逃げたわけじゃなかったみたいだな」

 塚本七瀬の慰めとも、励ましともとれる言葉が阿島に言いようの知れない感情を沸かせた。

 「また、総体で会いましょう」

 しかし、神童要のスカした声が鼻にかかり、阿島は悔しさを覚えた。負けて当然の試合だったかもしれない。だが、コールドで終わらせてしまった。阿島はそのことだけは、本当にチームのみんなに罪悪感を覚えずにはいられなかった。
 両チームが礼をして、解散する。
 ベンチで荷物の片づけとグラウンドの手入れをし、東京第一中学がバスで帰る頃には、時刻はお昼になったところだった。一試合しかやらなかったのだから、あたりまえのことだが、阿島にはあんなに長い時間に感じられた試合がこれほどまでに短時間で決着がついていた事実が衝撃的だった。

 「負けた、ね」

 夏目美恵子が帰り道に、自転車上で呟いた。
 隣にいた阿島はその言葉に頷く。

 「完敗だった」
 「でも、これは練習試合だし、総体では勝とう」
 「そうだな」

 自転車は、背の高い木々がそれぞれ好き勝手に生い茂っている山の舗装された傾斜の大きな坂道を下っていく。遠くに白い車が見えた。安藤先生の乗用車だろう、トランクにはいっぱいに積まれた荷物がある。阿島は学校に着いてから荷物を部室まで運ばなければならないことを思い出し、小さな溜息をついた。
 「なに?疲れた?」


 夏目美恵子は薄く笑って自転車を漕ぐ。どうにも、チームのみんなのテンションは不思議な調子だった。特に阿島はそんなみんなよりもおかしな調子だった。目に見える風景すべてがぼんやりと見えていた。それは、客観的に見れば泣くという行為だ。

 夏目美恵子は、そんな阿島の顔をわざと見ない。これは通過儀礼なのだ。と彼女ははっきりと見えない阿島の心に無言で呟く。心の声というやつだ。それからは、みんながただただ無言だった。誰もが言葉を口にせず、自転車を漕いでいた。一人だけが泣いていた。次の日から、阿島の表情が何かが吹っ切れた後のように晴れやかになっていたことには、安藤先生をも含めて誰もが気づいていた。阿島は、過去の色々を清算したのだ。コールド負けという事実が、阿島の心境を変化させたのではない。それはただ単に阿島自身に己の実力の不足を痛感させたにすぎない。本当に大切なことは、塚本七瀬と面と向かって話をしたことだった。相手は悪魔じゃない、同じ人間だ。阿島が勝手に抱いていた幻影は、塚本七瀬とまともに会話をできなかったことによって膨らんだ想像でしかない。何も言わずに逃げ出した阿島に、塚本七瀬は何を思うのか、何を言うのか、それが阿島の恐れていたことだったが、そんなものはなかった。他人は他人、というか、阿島が思うほどに塚本七瀬は阿島を責めようとは思っていなかった。そもそも、去る者は追わずが塚本七瀬のスタイルだ。阿島は、てっきりぶん殴られるくらいはすると覚悟していたが、それも実際にはあり得ないことであり、これもまた、阿島の妄想にすぎなかった。

 こうして、さまざまな内部環境の整理を阿島は終えたわけだったが、しかし、ここからは外部環境の問題が北原紅葉中学を襲うこととなる。それは、夏目美恵子が職員室で総体への参加書類を安藤先生へと依頼するときにやってきた。












[27372] 総体出場
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/29 21:05
 





 五月の中旬、総体の地区予選を二か月後に控えた北原紅葉中学校の職員室に、夏目美恵子はやってきていた。赤みのかかったサラサラな髪の毛を白のリボンで二つ分け。試合後の彼女には目立った変化はない。職員室にやってきたのは、総体の申し込みを安藤先生へと依頼するためである。

 「先生―、総体の申し込みなんですけどっ」
 「あ、夏目さん……」

 安藤先生は夏目美恵子の姿が見えると、一瞬だけ表情を曇らせ、周囲の様子を見回した。

 「どうしたの先生?」
 「あー……ちょっと、こっち来て」
 「え、あ、はいっ」

 安藤先生は夏目美恵子を廊下に連れ出そうとする。
 しかし。

 「待ちたまえ安藤君」

 廊下へと向かおうとする二人の背に誰かの言葉が投げられた。

 「あ、教頭先生……」

 安藤先生は、しまった、といった感じの低姿勢を始める。

 「今年の総体の件かね?」
 「まあ、そうです……ね」
 「やはり、ですか。まさか、あれから一年で新入部員がこれだけ集まるとは思ってもみませんでしたよ。きっと、野球部の子達の情熱もすごいのでしょうな」
 「え、ええ、みんなやる気を出して頑張ってます」

 そこで、教頭先生は一度口を止めた。
 何かを考えているようだった。言いづらいことを宣告するのを躊躇しているような、そんな表情。

 (まさか……ね)

 夏目美恵子は血の流れが淀むような嫌な予感に、口を閉じて教頭先生を見つめるだけだ。

 「辞退……できませんかね?」
 「……っ!?」

 教頭先生は、白髪の混じった細長い頭をのっぺりと塔のように立てて言う。

 「じ、辞退ってどういうことですかっ?」

 夏目美恵子は、たまらず職員室で発するには一段階ほど高い音量の声を出した。職員室にいた人間の視線が集まる。夏目美恵子は視界の端に見える人々の動きが固まったことに気が付いていた。

 「非常に残念なことと思いますが、野球部の生徒のみなさんには、昨年度野球部が起こした問題がそれだけ重大なことだったと、私は認識していただきたいと思っています」
 「で、でもあれは、相手チームが先に手を出したのが原因じゃ……」
 「結果的にはどちらも同じようなことをしたんですよ、安藤先生。それに、遠目に見ればこちらが悪いと思われてもおかしくはない状況でした。少なくとも、一年は公式大会への出場は自粛するのが筋であると、私は思います。うるさく文句を言ってくる輩もいるので」
 「……っ」

 安藤先生は何も言い返すことができない。

 「も、もう少しだけ決定は待ってくださいっ」

 夏目美恵子は必死に訴える。

 「……待つ、だけならばね」

 教頭先生はそう言い残すと、二人を置いて校長室へと行ってしまった。

 (どうすれば……)

 夏目美恵子は、この事態をどうすれば解決できるのか、まったく方策を見出せずに立ち尽くすしかなかった。



 ◆◆◆




 「暴力沙汰っ!?」

 阿島はあまりに突飛な話題に、開いた口が塞がらなかった。

 「え、なにそれどこのヤンキー漫画っ!?てか、俺が北原紅葉中学について調べた時にはそんな情報どこにも……」
 「そりゃあ、そうだろう。ウチは私立中学だし、エスカレーター式に高校まである。金がそこそこあるってェことだよ。それに、暴力沙汰といっても、そこまで大乱闘な感じに誰これ二十人ほどが怪我しましたってほどでもなし、ちょっと数人が殴り合った程度ってもんだ」
 「そういうもんか?ちなみに、その暴力っていうのは、どんな状況で起こったんだ。もっと詳細を教えてくれっ」

 部活開始前の部室で、銭形一と阿島、その他野球部員達は集まって話し合いをしていた。
 議題は野球部の総体出場についてだ。

 「簡単に言うとね」

 三田佳奈は、制服姿のままパイプ椅子でゆったりと座ったままに言う。

 「私が試合中にセクシャルハラスメントを受けたのだ」
 「はっ!?」
 「だから、私はしあ……」
 「いや繰り返さなくていいっ!え、なんだそれ、どういうことっ?」

 想定外の話に阿島はどういう反応を返せば良いのか分からなくなった。

 「オウ、猛獣阿島の再来デスカ」

 滝本クリスは先日の阿島の墓穴を掘り返す。

 「それは蒸し返さんでいいっ!おい、銭形お前が説明してくれ!」
 「あぁん?」

 銭形一は面倒臭そうに、考えた素振りを見せ答えた。

 「なんつったらいいんだろうな、まあ……去年の総体でな、三田は今と同様にショートを守っていたんだわ。んで、一回戦の相手に聖アリエンヌ中学が当たったんだがよ。そこで、相手チームの一人が三田の昔の舎弟だったわけだが……」
 「舎弟なんてもんが今の関東に存在するん?」

 たまらず小川瑞樹は突っ込みを入れる。

 「実際にいるんだから仕方ねェだろうが。んで、そいつが試合中に、初めは気が付かなかったらしいんだが、ヒットを打って二塁に進塁した、そこで事件が発生すんだわな」
 「……その前に、電光掲示板やチーム表で三田先輩の名前を見て気が付いたりはしなかったのですか?」

 薄代凛は的確な質問をする。

 「ああ、あの時は市民球場じゃなくて、唐坂グラウンドみたいな野球専用じゃないところで試合したからな。それに、三田の容姿は昔と今とでは随分と変わったらしくてな」
 「女は変わるってことだねっ」
 「お前ェはちったぁ成長しろ、そんでだ。そいつは気が付いてしまったわけだ。三田の存在に、で、男は久しぶりの兄貴(姉貴)との再会に心を震わせて飛びついちまったんだ」
 「そして、私がその場でぼこぼこにして全治三か月の怪我を負わせてしまったというわけだ」

 呆れたように語る銭形一と、平然かつ堂々と話す三田佳奈。二人の話を混乱しながら聞く阿島。

 「いくらなんでも……抱きつかれたくらいで……」
 「だわな、三田はそこんとこ過剰反応し過ぎなんだっつーの」

 阿島と銭形一の言葉に、三田佳奈は少し動揺した表情を見せる。

 「わ、私だって今思い返すと我ながら馬鹿なことをしたとは思っているっ!」
 「みんな、喧嘩は辞めよう!」

 明るく叫んだのは足利桂馬。

 「馬鹿は黙ってろっての」
 「なんだと銭形!」
 「お、落ち着こうよ、みんな」

 いきなり掴み合いになった二人を剛田武蔵が体格に見合った腕力で引きはがし、場を収める。

 「……しかし、そのくらいで翌年の総体出場が中止になったりするのか?」

 阿島は、想像よりも話がチープなくだらないものだったことに驚いていた。
 セクハラと聞くと、社会的な抹殺をされるようなイメージを思い浮かべるが、事が起きたのは中学生同士での話であるし、経緯と動機も別に不純異性交遊のごとくブラックな側面のない、ただの事故だ。
 なのに、何故こうも大袈裟な対応を学校側は求めてきているのだろうか。
 
 「たぶん、それはその試合を見ていた一人の観客のせいよ」
 「ん、安藤先生」

 阿島は唐突に現れた安藤先生に、軽いお辞儀を示す。

 「一人の観客?先生、それってどういうことですか?」

 剛田武蔵は、安藤先生の言葉の意味を察することができずに首を曲げる。

 「あの後、教頭先生に張り付いて聞いていたのよ。どうにかみんなを大会に出場させてもらえないかって。そしたらね、理由は分からないけど、その試合を見ていた谷口幸作さんって人がこの暴力事件に怒っちゃったのよ。しかも、彼は総体運営の偉い人だったらしくてね。なんだか、今年の大会への出場を辞退させるように学校側に要請しているみたいなのよ」
 「はぁ?なんだぁそりゃ。無茶苦茶言いやがる奴だな」

 安藤先生の話に、銭形一は怒りを露にする。

 「頭の固いジャパニじじいデース。一度首根っこ掴んでやりたいネ」
 「ああ、滝本さん。その人、おじいさんっていう年齢でもないのよ」
 「オウ?」

 安藤先生の意外な返答に、滝本クリスは目を丸くする。

 「実は、二十七歳のプロ野球選手……なのよ」
 「プ、プロ野球やて……。ほんまかいな?」
 「んなもん関係ないだろうが、要はそいつを説得してウチの出場を認めさせればいい話じゃねェか。なぁ」
 「そうだな!銭形の言う通りだ。よし、今からでも彼に会いに行こうではないか!ええと、なんていったか」
 「……谷口幸作」
 「そう、谷口氏の家にな!」
 「いきなり押しかけたら迷惑じゃないかな」
 「ムサ、プロ野球選手がんなこと気にするかよ。引いたら負けだぜ」
 「んーしかしどうだろうね」

 三田佳奈は、そこである問題点に気が付いた。

 「佳奈、どうしたのっ?」
 「うん、私の思うに、その人がプロ野球選手ということは、試合の度にあちこち移動するわけじゃない。ということは……ミエ、総体申請の期間っていつまで?」
 「えっと、たしか……」

 夏目美恵子は、スカートのポケットからクシャクシャになった一枚の藁半紙を取り出した。

 「今から一週間後……五月の下旬、わぁ!あんまり時間ないよっ!」
 「なら、急いだほうがよさそうだ。その谷口って人、今どの球団にいるんだ?」

 阿島の問いに、安藤先生がすかさず答えた。

 「巨人ね。私も気になったからここに来る前に調べておいたの」
 「なるほどな。つーことは、この時期だとセパ交流戦の最中か。一番近い日にちにある試合調べんぞ」
 「よっしゃ」

 銭形一は部室を飛び出すとコンピュータ室へと走った。それに小川瑞樹がついていく。

 「携帯があればすぐに調べられるのだが!」
 「だ、だめよ足利君。学校内での携帯の持ち込みは禁止なんだから、先生だって職員室内でしか使えないのよ」

 田舎の中学のくせに、高校までエスカレーター式に繋がっているせいか、そういう細かなところで北原紅葉中学の校則は厳しいのだ。

 「ん?でも、普通に電話じゃだめなのか?」

 阿島は、ようよく考えれば、と疑問を口にする。

 「電話で説得できる相手だとは思えないのよねぇ……」
 安藤先生は、がっくりとした調子で答えた。

 「なら、やっぱり直接対決だねっ」
 「やってやりマース」
 「み、みんな勝負とかそういうことじゃないんだから……」
 「……説得しましょう」

 それぞれが考えを一つに、そして、銭形一は数十分後にコンピュータ室から戻ってきて言った。

 「よっしゃあ!学校が休みの二日後土曜日。東京ドーム巨人中日戦に乗り込むぜェ!」
 


◆◆◆




 「――――っで、どうしてこうなるんだ?」

 上野駅から山手線に、乗り換えて総武線で水道橋駅に到着したのは夏目美恵子と阿島慶の二人のみ。三十分後、二人の姿はドーム前のベンチにあった。

 「どうにもこうにもっ!野球観戦ってお金凄いかかるんだよっ」
 「外野の自由席ならもっとおてごろ価格で買えたんじゃ……?」
 「それじゃ近くで見れないじゃないっ。どうせなら、一番近いところで試合を観戦するのが、谷口さんへの精一杯の誠意じゃないのかなぁ」

 熱弁する夏目美恵子は、東京ドーム周辺のショップで買ってきたメガホンをポカポカ鳴らしながら開場の時を待っていた。

 「それにしても、あと三時間か……あそこで飯にしないか?」

 阿島は、夏目美恵子をベンチのすぐ近くにあったステーキレストランへと誘う。

 「おっ、いいね。腹が減っては戦はできぬよっ」
 「見るだけだぜ?」
 「野球の試合観戦は想像以上にハードなのっ」
 「それには同意しとく」

 阿島と夏目美恵子は昼過ぎの客足もまばらになった店へと入っていく。

 (く……にしても緊張する)

 こうした男女の二人歩きを始めて経験する阿島は、こんな時に何を話せばいいのかイマイチ分からなかった。今までは東京ドームすげェとか、谷口氏といつコンタクトを取るかなどとオーバーリアクションや打ち合わせで会話を埋めることができた。しかし、食事中にそのような話は野暮ったいし、阿島自身も違う話題を交わしたかった。そもそも、なぜ阿島がこの谷口氏への直談判へと夏目美恵子と二人で向かったのかというと、これは至極簡単な理由があった。
 部長とエースだ。
 それに、男子メンバーと女子メンバーそれぞれの中心メンバーであるということもある。
 そういった諸々が重なった結果の人選が、北原紅葉中学野球部会議で決定されたのである。

 「ねぇ、阿島君。私はオレンジジュースとステーキAセットだからっ」
 「オッケー、じゃあ俺は……」

 と言葉を止めて、阿島はメニューに目を通す。

 「そうだな、じゃあ同じステーキAセットにコーラ」

 メニューを決めると、近くにやってきた店員へと声をかけ、注文を伝える。

 (なんとか、堂々やりきった……)

 このメニューを決め、注文をするという極々普通の対応にも気をつかう。
 阿島は、普段とは違った夏目美恵子との対面にかなり緊張していた。

 「ど、どうっ?阿島君は初めてなんだよね、東京ドーム」
 「そうだな、結構歩き回ったけど、やっぱドームは人の数がすごい」
 「私はね、今日は初めてなことが多くて凄い楽しいよっ!」
 「んん?ドームは前にもきたことがあるって、電車の中で言ってなかったっけ?」
 「そうだよっ!でもさ、こうして男子と二人でお店回ったりするのは初めてだし、緊張しっぱなしだよっ……って、いらないこと言っちゃったかなぁ!?」

 顔を真っ赤にしてはにかむ姿が可愛らしい。つい、目線を逸らしてしまった阿島は、ぼそりと呟く。

 「俺もだ」
 「へへっ」

 と、夏目美恵子が笑う。

 「お飲物お持ちいたしました」

 丁度のタイミングでウェイターが注文していた飲み物を持ってきた。東京ドームに着いてから随分と歩き回っていたせいか、それとも緊張していたことを打ち明け合ったせいだろうか。二人は最初の一口で、コップの半分まで飲み物を飲みきってしまった。

 「ぷはっ。ともかくねっ、一息ついたし、もう一度確認しよっ」
 「オーケー」

 ステーキが到着するまでの間に、二人は谷口氏との交渉への流れを確かめる。
 まず、谷口氏との対談にあたってのアポは安藤先生がなんとかしてくれた。おそらく、谷口氏も何か思うことがあるのだろう。安藤先生と谷口氏との対話はすぐに終わったと後日先生は言った。
 待ち合わせ場所は、東京ドームの選手入場口の前だ。試合後に、立ち入り禁止の文言を記したシールが貼られた扉の前に来いということらしい。そこで、阿島と夏目美恵子がなんとか説得する。

 「これっぽっちの作戦でいいのか?」

 失敗する未来しか感じ得ないあまりに適当な作戦内容に、阿島はうなだれつつも、これに代わる代案を見出せずに頭を抱えた。

 「大丈夫たってー。必死に頼めば許してくれるよっ」
 「だと、いいけどなぁ」

 そうした不安を残し、空は次第に茜色に染まる。
 二人は、店を出てからまたしばらく東京ドーム周辺を漂い、そして、その時を迎えた。





 


 









[27372] ベースボール・ガールフレンド
Name: 茨城の住人◆7cb90403 ID:751ff757
Date: 2011/06/29 22:12





 東京ドーム、巨人中日戦。
 阿島と夏目美恵子は、内野三塁側下段から八列の席に座っていた。試合開始前のグラウンドには、巨人側の練習風景を見ることができる。

 「えっと、谷口さんはー」

 夏目美恵子は谷口幸作の顔写真が写っている選手表のような紙を片手に望遠鏡を覗き込んでいる。一方、阿島は付近のコンビニで買ってきた菓子をつまみつつ、じっと選手達の練習の様子を見つめていた。

 (やっぱ、プロの遠投はすげぇな……)

 初めて見るプロ野球選手の生の練習は、阿島にとってかなり衝撃的だった。グラウンドを広い視野から俯瞰することによる言いようのない高揚感と、プロ選手を目の前にしているという感動が合わさった何かは、言葉では決して表しきれない。

 「あっ、阿島君あの人だよっ!背番号三十五番、谷口幸作さん。うん、守備位置はライトで、練習位置も外野だよっ」

 はい、と夏目美恵子に望遠鏡を渡された阿島は、望遠鏡の倍率調節ネジをじりじり回して、言われた方向に目を凝らす。

 「あー、あの人か」

 確かに写真の通りの顔だ。面長で、爽やかな短髪。下半身がすらっと長くて長身。次期レギュラー候補の一人である彼は、ファンからも結構な人気があるらしい。

 「それにしても、なんであんな良い人そうな人が学校に文句垂れるクレーマー化するんだ?」

 阿島は、見た目とは裏腹な行動をしている谷口選手に疑念を抱かずにはいられない。

 「まあ、あんな感じの人なら直接怒ってくれるなりして、颯爽と去っていくくらいはしそうなもんだよね」

 夏目美恵子も阿島に同意見なのか、首を捻って唸り出していた。
 と、ひと段落したところで試合前の練習が終わった。それからはチアリーダーのダンスやマスコットキャラのパフォーマンスといったお決まりのサービスが続き、そして本番となる。
 


 ◆◆◆



 試合は序盤、巨人軍の劣勢だった。先発の投手が初回からフォアボールを連発、そこからスリーランホームランを打たれ三対0。中盤に助っ人外国人選手の短発ホームランで一点を返すも、そのままずるずると試合は後半へと進み、最終回。もう、だめだ。というところで、中日守備がツーアウトからがエラーを出し、さらにフォアボール。ランナー一二塁で、一発逆転の場面。そこで、代打のコール。バッターは、奇しくも北原紅葉中学と因縁ある谷口幸作。ツーストライクワンボールから、ファールで二回粘り、打った。打球はバックスクリーンへと伸びて、伸びてホームラン。その日のヒーローインタビューに現れた彼は、晴れやかな顔で観客に声をかけていた。
 
 試合後、観客がある程度いなくなってから、阿島と夏目美恵子は待ち合わせ場所に指定された選手出入口へとやってきていた。

 「ここ、だよねっ」
 「そうだな……」

 一般人の立ち入りを禁止すると書かれたシールの貼られた扉、間違いない。
 だが、そんな二人よりも早くにそこには先客がいた。

 「やぁ、君たちが谷口と待ち合わせをしたっていう子達だね?」

 声をかけてきたのは、中年の太った男だ。色黒で、気の優しそうな彼は、扉を開けると二人についてくるよう言った。

 「あの、あなたは?」

 阿島は、唐突に現れた男に不信感を抱きつつも、関係者しか入れないはずの扉を開けてひょうひょうと歩を進めていく男に不思議とついてきていた。

 「俺はコーチだよ。打撃のね、つっても二軍のだけどもさ。谷口とは奴が入団したときから知り合いで、今日はあいつがどうしてもっていうから一軍の視察もかねてここへやってきたというわけ。まさか、君らの案内のためにパシらされるとは思ってもみなかったけどもね」
 「あ、そうだったんですかっ。わざわざすいません!」

 夏目美恵子は反射のごとく素早くお礼を言う。つられて阿島も礼を男に向ける。

 「いやいや、大した仕事でもないし別に礼を言われるほどじゃあない。ほれ、あそこにいるのが谷口だ」

 色黒で太り気味の中年が指差した先はグラウンドだ。
 大体の照明が落とされて少々薄暗くなったグラウンドには、谷口幸作が立っていた。

 「来たか」

 グラウンドへと上がると、谷口幸作はボールとグローブを夏目美恵子へと投げ渡した。

 「え、ええっ!?」

 いきなり道具を渡された夏目美恵子は困惑した表情で、あたふたとする。

 「君らは俺と交渉しにきたんだろ?」
 「そ、そうですけど」
 「でも、なんでグローブっ?」

 阿島と夏目美恵子はなお混乱する。

 「それは後で話す。ま、それよりも君らの学校に文句を言った件だが、俺がそんな行動に出たのは、俺自身が野球に女が参加することをあまり快く思っていないからなんだ」
 「え?」

 谷口幸作は、そう言うと持っていたバットを弄びながら話始めた。

 「だって、そうだろ。グラウンドは神聖な場所だ。昔の偉大な選手達が互いに競い合い、力と技、知恵と技量をぶつけてきた場所だ。俺も君らの試合を見るまでは気が付かなかった。ここに女が介入することになんの抵抗もありはしなかったし、今は女子プロなんてもんも設立されてる。時流なんだとも思う。けどな、そんなグラウンドに、女だから、男だからとか言って、過剰に騒ぎ立てるような事件が起こっちまうのは気にいらね。ここが穢されたような気分になった。だからさ、俺は思うわけだ。男女別々にやるのは、いい。結構なことだと思う。だが、男女混合でお遊びのノリで野球をやられるのは辞めてもらいたい。そう思ったから、俺はお前らの学校に電話を一本プロ野球選手の名前を添えてかけたのさ」

 谷口幸作は、そこで言葉を止めるとバットを構え、一度素振りをした。

 「ったく、お前はつくづくガキだな」

 そばで話を聞いていた中年太り気味の男は、呆れたように手を振った。

 「こういう性分なんで仕方ないんすよ。ただ」

 谷口幸作は阿島と夏目美恵子に向き直ると、口を開いた。

 「俺と勝負しろ。そんで勝ったら話を聞いてやる。勝負は一打席勝負だ。二人いるんだし、そうだな、チャンスは二回やる」

 (なんて無茶苦茶な)

 阿島は、あまりに自分勝手な話に、プロ野球選手はみんなこういう奴なのかと叫びたくなった。しかし、それをやると勝負すらさせてもらずに総体への出場停止を宣告されそうだから言葉にはしない。

 「そんなっ!プロ野球選手ってみんなこんななんですかっ!?」

 (お、い!)

 思ったそばから叫びだした夏目美恵子に、阿島は頭を抱えつつも、夏目らしいとも思っていた。なんだか、胸が、すかっとするような感覚に阿島は内心で笑っってしまった。

 「言ってくれるな、んなことは分かってる」

 苦笑いを返す谷口幸作は、しかし、バットを夏目美恵子と阿島の前に放り投げると早速マウンドへと上がった。

 「え、谷口さんって野手じゃないんですか?」

 夏目美恵子は率直に疑問を口にする。

 「ああ、あいつは元は投手だからな。プロに入ってから野手に転向したのさ」

 中年の巨人二軍コーチをそう説明してくれる。

 「ちょっと、久しぶりなんで受けてもらえますかー?」
 「仕方ねえな」

 コーチは、夏目美恵子からグローブを貰うと、それを手にはめてキャッチャー兼審判を務めることとなる。

 「いきまっせー」
 「オーケー」

 谷口幸作が構え、投げる。
 ボールは夏目美恵子と阿島に合わせてくれたのか、硬球ではなく軟球。
 しかし、久しぶりに投げたとは思えないほどに正確なコントロール。球速も余裕で百三十は出ているように見えた。

 「好調、好調―」
 「あんまりガチに投げ過ぎんなよ、肩壊すぞ」

 コーチの声に応えつつも、谷口幸作は数球の投球練習を行う。変化球は混ぜない。そこは、コーチの言葉に従ってのことだろうか。

 「準備できたぜ、さぁどっちからだ?」
 「私がいきます!」

 答えたのは夏目美恵子。阿島がどうするか考え出すよりも早かった。

 「へえ、意気込みは充分だな。ま、いくぜ」

 振りかぶって、投げる。
 速球。とてもじゃないが打てるものではない。

 「ストライク」

 中年のコーチは気の抜けた声でそう言うと、ボールを谷口幸作へと返す。

 「グラウンドは神聖な場所だって言いましたよね」
 「あ?」

 夏目美恵子は呟く。

 「でも、私はグラウンドはみんなで野球を楽しむための場所だと思います!自信を持ってそう思います!」

 それは呟きではなく、叫びだ。
 夏目美恵子は、ふたたびバットを構えなおす。

 「だからって、馬鹿騒ぎすんな!」

 二球目、谷口幸作はそう言いながら投球。

 「ストライク」

 二度の空振り。
 後はない。

 「その馬鹿騒ぎぐらいに騒ぎすぎなのはあなたですっ!」
 「ストライク、バッターアウト」

 息を荒げて夏目美恵子はバットを握る。
 と、それを今度はマウンド上の谷口幸作へ向かって転がした。

 「攻守交代ですっ!ピッチャー、阿島君!」

 むすっとした表情で、夏目美恵子はキャッチャー兼審判の中年コーチからボールを受け取ると、それを阿島にパスした。

 「まあ、いいぜ。勝負は一打席勝負ってのは変わらないしな」

 谷口幸作はその案を受け入れたことの意思表示か、マウンドを降りるとグローブを阿島へと渡した。

 「こっちが、今度は投げるってことか」

 阿島はボールとグローブをそれぞれ両者から受け取ると、それらを一度強く握り締めてからマウンドへと登った。

 「サインは特に決めなくてもいいから」

 中年のコーチはそう言うと、グローブを構えた。

 「はい」

 阿島は、その日初めての投球だからある程度しっかりと球数をもらって投球練習を行う。
 数十球投げたところで、準備がやっと完了した。

 「ふぃー捕りづらいな」

 中年のコーチはそう呟き、谷口幸作にバッターボックスへと入るよう促す。

 「待ってましたあ!」

 (よし)

 阿島は、ワインドアップからボールを投げる。球種はストレート。

 カキーンッ

 鋭い打球。

 「ファール」

 大きく逸れたが、ボールはスタンドへと吸い込まれていった。
 谷口幸作は首を傾げると、無言でもう一度打席へと入りなおす。

 二球目。
 ここもストレート。
 阿島はこのボールでしか谷口幸作を打ち取れはしないと確信していた。
 相手はプロだ。並みのボールでは通用しない。癖のあるボールの方がまだ分があるし、阿島は自分のストレートがプロ相手にどれだけ通用するかということにも興味があった。
 コースは外角低め。

 「ストライク」

 見逃し。

 おそらくは阿島のストレートの球筋を見極めるための見逃しだろう。下手に打って凡打になるいことは避けたいと考えたのだと、阿島は谷口幸作の思考を読む。

 三球目。
 これが泣いても笑っても最後の一球だと阿島は力を込める。

 (ストレートッ)

 カキーンッ

 鋭い打球。
 打球は阿島に向かって一直線に襲い掛かる。

 「く、あああっ!!!」

 打球の恐怖に負けずに阿島は打球に向かってグローブを突き出す。打球は阿島を吹き飛ばそうとグローブの中で暴れ回る。
 打球を受け止めた阿島は、背中から地面へと倒れた。

 「だ、大丈夫っ!?」

 夏目美恵子は倒れ込んだ阿島に向かって叫ぶ。
 しかし、阿島は起き上がらない。僅かな沈黙。中年のコーチが立ち寄ろうとした時だった。

 「……と、捕った!」

 阿島は、グローブの中に収まったボールを天井へと向けた。背中を打って起き上がるのが困難だったが、阿島はしっかりとそのグローブの中にボールを収めていた。

 「よ、っしゃあああっ!」

 夏目美恵子は嬉しそうな叫び声を上げる。阿島は、その歓声に大きな達成感を抱いて起き上がった。その姿を見ていた谷口幸作は、捨て台詞のように二人に向かって呟いた。

 「あー、やめだ。今日は調子が悪いみてーだ」

 そう言うと、グラウンドから立ち去ろうとする。

 「ちょ、ちょっと約束は忘れないでよっ!?」
 「お前らの本気さは分かったさ」

 それだけ言うと、振り向きもせずベンチの奥へと消えてしまった。

 「な、まてっ……」
 「追いかけなくとも、大丈夫さ。奴は一度結んだ約束は守る」

 と、夏目美恵子が谷口幸作を追いかけようとすると、中年のコーチは薄っすらと笑みを浮かべて言った。
 


 ◆◆◆


 「やー、疲れたねっ」

 帰り道。地元の駅にやっとの思いで辿り着いた二人は、自転車を押しながら夜の町を歩いていた。なぜ、自転車をわざわざ押して歩いているのかというと、それは朝来るときに、夏目美恵子が遅刻ぎりぎりだったために車でやってきていたからだ。阿島は、そんな彼女を気遣って一緒に帰ろうと誘ったわけだった。

 「にしても、ああいう考えの奴も世の中にはいるもんなんだな」

 阿島は、谷口幸作の言っていた長話を思い出していた。

 「まったく、グラウンドが穢されるってのは言い過ぎよっ」

 夏目美恵子は、未だに怒っているのか拳を握りしめていた。

 「だけどさ」

 阿島は今日の一打席勝負を思い出す。

 「なんで、俺勝てたんだ?」

 阿島は勝負がついた今でも、まだ自分が勝てたのか理解できていなかった。球種は全てストレート、初球はギリギリでファール。二球目は見逃しでストライクを稼がせてもらったとはいえ、最後の打球を捕ってアウトにできるというのはいくらなんでも出来過ぎだ。

 「どうして勝てたか分からない?」
 「ああ、全然。相手はプロだったんだぜ?いくらなんでも中学生二年のボールぐらい軽くホームランにするだろ」

 阿島は本当にそう思っていた。谷口幸作の気が変わってわざとアウトをくれたのかとも考えはしたが、それにしては最後の打球は強烈過ぎた。

 「抜けてたら確実にフェンス直撃くらいはしてたぞ」
 「ううん。あれでも、プロながらに頑張った結果だと思うよっ」

 ビシッ、と阿島に指を突き立てた夏目美恵子は、得意げに説明する。

 「なんで、私があの時阿島君にピッチャーをやるように言ったか分かる?」
 「ん?そりゃ俺が投手だからだろ」
 「ブッブー、それは違うよ。あの時、私は最初空振り三振をしたんじゃない?その時に気が付いたのよ。ボールが見えないってねっ」
 「ボールが、見えない?」
 「そうっ!勝負の時って球場の照明とか大分落ちてたよね」
 「あっ」

 そういえば、と阿島は思い出す。
 試合中は眩しいくらいに明るかった球場は、勝負の時にはキャッチボールくらいならばできるが、打撃には影響がでるほどには薄暗かった。

 「それで、俺でもプロが打ち取れたのか」

 ただでさえ癖のある阿島の球が、薄暗さというオプションによって限定的に強化されていたと考えれば、阿島はなるほどと納得できた。

 「まーこれで、総体出場は安泰だろ。でも、この東京ドーム遠征って、本来は三田が来るべきじゃなかったのか?」

 阿島は事件の張本人である三田佳奈ではなく、阿島が出張ることになったことが気になった。

 「そ、それは、私が佳奈に頼んだっていうかっ」

 夏目美恵子は急に顔を赤らめると、絞り出すように言葉を出した。

 「私が、阿島君と一緒にドーム観戦に行きたかったからというかっ、ねっ」

 いきなりの告白に、阿島は戸惑いながらも言葉を返す。

 「な、なんだよそれ。それじゃまるで、夏目が俺のこと好きで野球観戦を一緒にしたかったって言ってみるみたいじゃないか」
 「そうなんだよっ!私は阿島君が好きなんだっ!」






 「なっ」





 思わず、阿島は自転車を押す行為を止めた。



 「お返事を聞かせてよっ!阿島君!」



 開き直ったのか、夏目美恵子はぐいぐいと阿島に詰め寄る。

 「お、おれも」



 阿島が今度は言葉を振り絞る。



 「夏目と野球観戦できて楽しかった。俺も、夏目のこと好きだ」






 (なんとうことだ……これが青春か……)

 阿島は高鳴り過ぎて破裂しそうな心臓を押さえつつも、夏目美恵子を見る。





 「そっか!じゃあ、私は阿島君のベースボール・ガールフレンドとして認められたってことだねっ?」
 「え?は?ベ、ベースボール・ガールフレンド?」

 喜んでいた阿島に刺すひどく嫌な予感。それは阿島にかつて体験したことないほどの異常なまでの寒気を起こさせた。






 「そうだよ、直訳してつまり、阿島君の野球の女友達だよっ!」
 「と、友達っ!?」
 「そう、これで晴れて私は真に阿島君と同じ野球部の友達になれたんだよっ!」

 にこやかにそう言い切る夏目美恵子に、阿島は絶叫のごとく言葉を放つ。














 「ベースボール・ガールフレンドってなんだよそれええええええええええええっっ!!!!!!!!!!!」




                          







                             おわり















 


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