西南戦争 概説 明治10年2月15日〜明治10年9月24日
維新以来のあまたの内乱に比較し得ない最大にして最後のものであったのが西南の役である。それまでの「反乱」とは異なり「戦役」と称したことからも伺えよう。首将は維新の元勲にして参議の筆頭、軍部の最高権威で近衛都督を兼ねた信望随一の陸軍大将・西郷隆盛であり、これに従う薩摩軍は、島津の代から伝統の武勇に至厳の訓練を重ねた精鋭である。しかも兵器弾薬や軍需品は相当の供給力があり、明治新政府は総力を挙げて鎮圧に当たった。 西南戦争の結末は、政治的には最後の封建的武力を制圧して中央集権的近代国家完成の途に躍進させ、軍政的には徴兵制度を確立して国軍建設の礎石を意味した。それは時代の転機を示すものであり、明治維新はこの戦役を以って終期を迎え、政治的・経済的な近代的発展はここに第一歩を踏み出したのである。 |
西郷は単純に征韓論に立脚したものではない、とする研究は少なくない。そもそも征韓論の根底には、西洋諸国に対抗するための『日本・朝鮮・支那三国合縦連衝の思想』(勝海舟)があったのではあるが、本項では通説に従い、西南戦役の概略を記するにとどめた。
慶応3年(1867)12月9日 新政府は王政復古の大号令を発し、700年の封建制度はここに倒れて日本は近代国家の第一歩を踏み出した。明治維新とは、迫り来る「夷狄(白人)」を「攘=排斥の意」せんと(攘夷)、機敏に反応し、上下一体となって幕藩体制を清算、大改革を実施し西欧に対抗しうる体制を整えたことであるが、大きい動きには大きな反動が伴う。この反動として戊辰戦争が起こり、そののちにも大小の反動的反乱が次々と日本全土に起こった。反乱の理由は様々であるが、結局は近代国家の建設を急ぐ新政府の施策に対する保守反動的暴動であって、大義名分に乏しく組織的なものではなかった。
まず徴兵令に反対して起こった騒動はほとんど無数といってもよい。徴兵制は一面からみれば武士階級の否定であって、兵役を忌避する農民の心情に彼らの扇動が働いて血税騒動となり、徴兵令自体への反対に加えて反政府的意味を持つものも少なくなかった。多くの場合、発足したばかりの鎮台兵の出動を待たずに鎮圧された。
<佐賀の乱>
<神風連の乱>
<秋月の乱>
<萩の乱> これらは、維新の大業に中心的役割を果たした下級武士層が、新時代の建設において不遇をかこい現状に対する強い憤りが鬱積して騒擾に発展した点が共通していた。そして最大級のものが西南戦争であった。
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朝鮮との修好をはかろうとした明治政府に対し、鎖国主義を執る朝鮮は日本の要求を拒みつづけた。ここにおいて朝鮮の非礼は許し難い、とする征韓論がみなぎった。朝鮮もまた日本を軽んじ、応戦の構えを示したことで一層事態は紛糾し国論は二分した。この征韓論を唱える急先鋒は、西郷隆盛とその指導下にある薩摩出身者、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平らで、名目上の理由は朝鮮の非礼を糾すにあったが、その真意は、旧士族の不満を征韓によって解消するという旧態然とした政治意向があり、さらに一部には士族中心の政府を樹立しようという政権欲があったことも伺える。
一旦決定しかけた征韓の議は、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米視察から帰国すると廟議変更を強要、明治4年10月23日には御前会議において非征韓を上奏し御裁可を得た。近代国家完成のためには内治を治め、不平等条約の改正こそ最優先で、征韓などは問題に非ず、というものであった。
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西南の役の誘引としては西郷の下野を一因とするが、当時各地にみなぎっていた旧武士の反感や抵抗、鹿児島につくった私学校に対する政府の曲解、ひいてはその威を恐れながら放任黙過した政府の無力さもあった。明治10年1月 このような情勢の中で政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたが、私学校生徒はその機先を制し、1月末から2月初旬にかけてこれを奪取、占拠してしまった。さらに警視庁警部・中原尚雄らは大久保利通の密命を受けて西郷暗殺を企てているとの流言が広まり、私学校党は2月3日中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまった。このように私学校党の反政府熱が高まって西南の一隅には不穏な空気がただよい始めたのであった。 2月3日朝 桐野の命により辺見十郎太ら三人は、狩猟と入湯で大隈高山の別荘にいた西郷に事件を知らせた。西郷はその顛末を聞き終わるとしばらく瞑目していたが、やおら眼を開いて 「今更起こったことは致し方あるまい。」と、やおら立ち上がり別荘を後に鹿児島に向かった。
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明治10年2月15日 13000名の薩摩健児は「政府に尋問の廉これあり」として進撃を開始した。前日から南国薩摩には珍しく大雪が降りしきり、尺余の降雪をけって熊本を経て東上した。全軍は二隊に分かれ、一隊は篠原が率いて西目街道を伊集院から阿久根・水俣と北上、主力は東目街道を加治木から横川、加久藤越を経て人吉に入り八代に向かった。2月下旬 薩軍は相次いで川尻に進出、2月21日の軍議で全軍が熊本城を強襲することになった。一方2月19日には征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせた。 熊本城は加藤清正が築いた天下の名城である。政府軍(官軍)はこれを配するに名将・谷干城をもってこれにあたった。谷のとった決心は約4000の兵力をもって守城するにあった。前年熊本に起こった神風連は、創設間もない新国軍に大きな打撃を与え、その傷跡を回復するのに多大な努力を傾注しつつあった。その状況において、天下の強兵薩摩隼人とこれに呼応する不平士族の多数を考慮すると、城外に出でて決戦を挑むことなど夢にも考えられなかった。加えて兵員の大部分は徴兵によるもので、兵の資質は薩軍と比するまでもなく、専守防御に徹する他はなかった。また西郷に対し親愛の情を持つ谷としては、自ら進んで西郷を討ちたくない、とする心理もあったとされる。
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2月21日から4日間にわたり4倍の兵力をもってした熊本城の攻撃はことごとく失敗していた。士族精鋭の薩軍にとって徴兵による官軍などは「土百姓の人形兵」であり、「只一蹴して過ぎるのみで方策を要せず」として、精強を過信するあまりひたすら力攻で臨んだ。しかし、にわかにこれを陥れることはできず、長期戦と化した。篭城は50日を数え、小倉からの援軍・第14聯隊の聯隊長心得・乃木希祐少佐は軍旗を薩摩軍に奪われるという一幕もあった。この間筑紫方面から続々南下してくる官軍に対し、薩軍は高瀬の平原に遭遇戦を展開していた。兵力は其々1万名を数え、官軍は薩軍に両翼を包囲されその司令部も蹴散らされようとしたほどであったが装備、兵站の欠陥、用兵の不手際からこの戦闘にも失敗、薩軍は西郷の末弟、西郷小兵衛を失った。 それから薩軍は菊地川南方、吉次峠から田原坂を経て山鹿に至る要線に後退の上陣地を占領、史上名高い田原坂の死闘が繰り広げられた。この要線は歴史的には加藤清正によって北方に対する熊本城防衛の第一線とされていたところであった。穏やかな火山噴出台地は段丘崖を形成し、路外にはいたるところに竹林が密生し昼なお暗く、凹道が連なり機動・展望・射撃を著しく妨げていた。3月4日から始まった田原坂の戦闘は20日まで及んだ。この間官軍は、退くを知らない積極果敢な薩軍に対し、徒に正面攻撃の正攻法のみでは勝算の見込みなし、として薩軍背後への上陸作戦を実施していた。3月19日に上陸に成功した官軍は、黒田清隆の指揮によって順調に進撃し、4月15日には熊本城を包囲していた薩軍を破って熊本に入城した。
よく奮闘した薩軍主力も遂に城東地区に後退を余儀なくされ、南方に連なる要害の地、吉次峠の近傍では副将・篠原国幹が戦死した。最大時には2万余を数えた薩軍もこの頃には8千位に減じていた。
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8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促した。しかし敗戦を重ねていた薩軍の大勢を変えるには至らず、8月14日には延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退した。連敗の薩軍は弾薬も食糧も払底しており、士気の低下を憂慮した西郷は自ら陣頭に立って雌雄を決しようと言い出した程であったが、諸将は未だその時機ではない、と諌めて延岡奪回を企図した。 薩軍は長尾山から無鹿山にかけて拠点を占領、ここで官軍に打撃を与え、頃合を見て一挙に延岡を奪還する作戦であった。8月15日 薩軍は攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れた。戦況は一進一退のうちに、午後になるとさしもの薩軍も態勢は崩れ始め長尾山から熊田に敗退するの止む無きに至った。官軍は三方から北川の渓谷長井村に薩摩軍を追い詰め、袋の鼠となった薩軍は夜にかけて一部で延岡に進撃を図ったが、かえって官軍の反撃を浴び、中には降伏する部隊も現れた。西郷は「我軍の窮迫此処に至る。この際諸隊にして降らんとする者は降り、死せんとする者は死し」と布告、自らは陸軍大将の制服をはじめ重要書類を焼却、負傷した長男菊次郎には従者を付けて降伏するように指示した。このいわば「解散令」によって、熊本隊の600人を筆頭に九州各地から馳せ参じた諸隊は相次いで官軍に降伏、一部は西郷に決別を告げて自刃した。
後退を決意した薩軍主力は3隊に分かれ、断崖を這うようにして可愛岳南岸の崖下を6時間かけて西進した。包囲警戒していた官軍もその方面の警戒は不十分であった。薩軍は集結すると歓声をあげ、一挙に官軍本営に突入した。第1旅団(野津鎮雄少将)、第2旅団(三好重臣少将)合同の出張本営は不意を衝かれて大混乱に陥り、その付近にあった食糧、弾薬多数は薩軍の手中に落ちた。
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官軍主力は9月6日頃鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲した。鹿児島の城は郷ごとに一つの城を設け、これらの城はすべて山に拠ったので城山と称していた。官軍は西郷以下一兵たりとも逃すまいと城山を十重二十重に包囲した。薩軍はこの防御に有利な城山に堡塁20余箇所を構え、守備を固めた。其々平均20人、総計500名と役夫が200名であった。官軍は包囲網の中で各旅団から選抜の1500名が攻撃するという方法を採った。西郷とは縁戚にあたる攻城砲隊司令官・大山巌少将は全砲兵を挙げてこの突撃を支援することになった。攻撃開始は9月24日とされた。 薩軍は、官軍の重囲に精彩を欠き、弾薬糧食ともに欠乏し始め、500を数えた兵員も城外に散るものが多く、総勢372名に減じ、そのうち銃を持つものは150名内外に過ぎなかった。西郷始め将兵は敵弾を避けるため洞窟を本営にしていた。その頃諸将の一部には西郷の死を惜しみ、助命のため降伏の議が持ち上がった。だが軍使を派遣するも時既に遅く、寛容な処置を期待することはできなかった。9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開いた。月は煌々と沖天にかかり今生の名残を惜しむに相応しい夜であった。 9月24日 払暁とともに号砲が鳴り響き、官軍諸隊は一斉に攻撃前進をはじめ、ここに城山総攻撃の火蓋がきって落とされた。まず小倉荘九郎は大勢既に迫り来るを見て自刃してたおれ、桂四郎はじめ多くの諸将も銃弾に倒れた。西郷は着物に兵児帯をしめ裾をはしより草履姿で洞窟を出ると、飛来した弾丸により負傷した後、遥か東天を伏し拝み別府晋介の介錯によって自刃した。時に桜島の山頂を朝日が染めた7時過ぎ、隆盛51歳であった。西郷の死を見届けた桐野、村田、別府、池上、辺見らの諸将も後を追い、枕を並べて討ち死にした。 こうして九州の山野に戦うこと7ヶ月、明治10年9月24日 薩摩軍は城山において全滅した。
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西郷が自刃する4ヶ月前の5月26日 木戸孝允が西郷の行く末を案じながら京都で病死した。そして翌明治11年5月14日 大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われて死亡した。木戸45歳、西郷51歳、大久保49歳であった。 「維新の三傑」と呼ばれた木戸、西郷、大久保は、三人三様の性格ながら手を握って国家統一を実現させ、明治新政府樹立の中心にたってきた功労者である、その突然の死は、必然的に最高指導者の交代を現し、新しい時代の幕開けを意味した。 |