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『世界の知識人』(講談社,1964年8月 20世紀を動かした人々・第1巻)pp.181-261. * 渡辺一衛(わたなべ・いちえ,1925〜?)氏:理論物理学専攻。執筆当時、東京医科歯科大学助教授 *「p.182:バートランド・ラッセル略譜」は省略します。 核武装反対運動とラッセル 現在英国の核武装反対運動の組織は二つに分れている。一つは核非式装委員会(Campaign for Nuclear Disarmament、略してCND)、もう一つは百人委員会(Comittee of 100)である。これらの運動は一九五八年、ごく少数のアナキストやビートスタイルの若者達によって始められたオルダーマストン行進(英国唯一の核兵器工場のあるオルダーマストンからロンドンのトラファルガー広場までの行進)から始まっている。行進の参加者は毎年増大し、一九六二年には十万人に達した。この行進を主催する団体がCNDであり、日本の場合でいえば原水協に相当する平和運動の中心団体である。一九六〇年迄ラッセルはCNDの会長であった。ラッセル等の主張は、米ソの核武装競争の悪循環を止めるためには、中立国が調停者の役割に立たなければならぬ。英国は現在やっているようにアメリカの核政策に協力するのをやめて、中立的な立場から、世界の核武装廃止と軍縮のために力を尽せというものである。一九六〇年十月の労働党大会は、このCND運動の影響によって、核武装を支持する右派の提案を否決し、英国は核武装を一方的に破棄すべきだという左派の決議案を通過させた。 第一次大戦中もラッセルはこれと同じ立場から反戦運動を行なった。 つまり法律は軽々しく破られてよいものではないが、市民としての良心に基づいて主張を表現するために、必要とあれば法律に違反しても行動するという立場である。 「諸国の政府は世界的な死の準備をしているのだが、それから民衆を救いだすには、非暴力的におこなう大規模な不服従運動しかない時代が到来した、あるいは到来しようとしている。」と百人委員会をつくったときラッセルは言っている。 このような'直接行動'と呼ばれる運動の中心になっているのは学生やその他の青年達で、それにアナキストのグループや独立マルクス主義者、前衛芸術家等のインテリ達がいる。合法主義をとるCNDは百人委員会の'直接行動'は精神的には支持するが政治的有効性はないと否定している。しかし百人委員会の指導者達は、この運動が直接には核武装廃止という目標以外の何らの政治的目的はないとしても、結果としては一般市民の政治的無関心状態をめざめさせ、沈滞してしまった革新運動の突破口となる彼割をも担っていることを自覚している。 これらの運動の思想的背景をつくってゆく役割を果たしてきたものに、ハンガリー事件の際に英国共産党を脱退した E.P.トムソン等の独立マルクス主義者達によって始められた『新左翼評論(New Left Review)』という雑誌がある。この誌上では現代英国の経済・文化等あらゆる問題がとり上げられるが、非暴力直接行動の戦術的意義や、この運動の世界の解放運動、たとえば米国の黒人差別反対運動との関連等が論議された。これらの模索状態にある新しい左翼インテリ達にとってラッセルの哲学はあまり役に立たないし、実際に運動の主力となっている'怒れる若者たち'にとっても、百人委員会会長としてのラッセルはいわば看板であった。しかしこれまでのところこれらの英国の青年達と九十歳の哲学者との間には、実際の運動において不思議なほどの行動の一致があった。一九六二年十月、アメリカのケネディ大統領がキューバ封鎖を突如宣言して、世界に第三次大戦の危機迫るかとみえたときに、時を逸せずアメリカ大使館に抗議のデモを行なったのは百人委員会の二千人の青年達である。一方ラッセルは直ちに電報で、ケネデイ大統領には、「あなたは絶望的な一歩を踏み出した・・・」とその暴挙を非難し、フルシチョフ首相には「キューバにおけるアメリカの正義にもとる行動に挑発されないようにお願いする・・・」と平和のために自重を求めたのであった。 咋年一月、新聞はラッセルの百人委員会からの脱退を報じた。公式な理由は、最近ロンドンから離れて百人委員会の行動に参加できないこと、他の仕事で手いっぱいであること、等があげられており、非暴力不服従運動が正しいという信念はかわらないと述べられている。しかしその詳しい事情は私達にはよく分らなかった。咋年四月のイースター行進ではデモ隊は百人委員会を先頭にCND指導者の制止にも拘らず正規のデモコースを外れて政府所在の官庁街に深くはいりこみ、警官隊との衝突で多数の負傷者や逮捕者を出した。このためCNDと百人委員会との間は非常に悪くなっていると伝えられた。またこの日、核戦争開始と共に政府機関を地下要塞に退避させるという計画を詳細に暴露した「平和のためのスパイ」のパンフレットが百人委員会の人々によって配布された。また百人委員会の一部のメンバーは東独内のソ連核基地反対をよびかけようと東ベルリンに入り、東ドイツ警察に逮捕されている。運動というものは同じ形態をくり返していればマンネリズムとなり、やがては頽廃に陥ってゆくものである。そのため常に新しい情勢に応じて、適切にアピールする新しい運動形態を発見してゆかなければならないのだが、百人委員会の場合はそれが、運動形態としてはよりはげしい形を追求し、丁度米国の黒人差別撒廃運動においても、非暴力運動の中に暴力的傾向が強く出て来たように、百人委員会のなかでも「暴力か非暴力か」の問題が激しく議論されはじめてきた。一方思想的にも、共産党員が多く参加しているCNDとはますます離れてゆく傾向にある。 一方今年になって、ラッセルとその周囲の人々が、「バートランド・ラッセル平和財団」の設立を提案したことが報道された。この財団は、普通のマスコミでは無視されるかまたは歪められてしまう重要なニュースを伝達するため、自分達のマスコミをつくるということを中心の目標にしている。たとえば、ヨーロッパ全土で聞くことのできるラジオ放送局の設立が考えられている。ラッセルはキューバ危機に際して、まだまだ自分達の力が弱いことを痛感したのである。百人委員会をやめてラッセルがやろうとしていたのはこういうことであった。ともかく情勢の発展に応じて、常に新しい運動の形態を発案し実行してゆく、ラッセル等英国の核武装反対運動の方法から、日本の私達は大いに学ばなければならないと思われる。 一九三七年にラッセルは自分が九十歳で死ぬとして、その生涯を回顧するという想定で、ユーモラスな自己批評の文章を発表している。その中で彼は次のように言う。 「ラッセルの生涯は、そのあらゆるふき奔放な所業にもかかわらず、ある種の時代錯誤的な首尾一貫性をもっていたのであり、それは十九世紀初期の貴族的反逆者たちの首尾一貰性を憶いおこさせる。・・・。ラッセルは逝ける時代の最後の生存者だったのだ。」既にラッセルは、自分で予期した年齢よりも長く生き延びてしまった。そしてたしかに彼は十九世紀の英国の最もよいものを受けついで来たけれども、その彼が現在、時代の最も若く新しい傾向、百人委員会の若者達と手を携えて進んでいる様子は印象ぶかい、こういう運動と共に進むラッセルは、他の老人達から見れば、恐らく'年甲斐'もなくはねあがってみえることであろう。この若さは何に由来するのであろうか。彼が英国進歩主義の伝統からうけついだものは何か。彼はどうやってそこから自分を作りあげて来たのだろうか。ともかく、彼の長い生涯を振返ってみることにしよう。 少年時代 祖母の子 ラッセルには七歳上の兄と四歳上の姉がいたが、彼が三歳のときジフテリアによって母と姉を同時に失ってしまった。そしてそのショックで、一年ののち父も三十三歳で病没し、当時十歳の兄フランクと三歳のバートランドとは祖父の邸に引きとられた。 ロンドンの近郊にあるリッチモンド公園にはラッセルの祖父ジョン・ラッセルの銅像があり、その近くに喫茶室があるが、これがラッセルがケンブリッジ大学に入学するまでの十五年間を過ごした祖父の邸、ペンブローク・ロッジの現在も残っている名残りである。ジョン・ラッセル卿はウイッグ党の政治家で二度首相をつとめ、ヴィクトリア朝の英国政治に重要な役割を果した。有名な一八三二年の選挙法改正案は若い進歩的貴族であったジョン・ラッセル卿の手によって議会に提出され、そこから彼の政治生活がはじまるのである。ペンブローク・ロッジの邸はヴィクトリア女王から贈られたもので、バートランドが引取られた頃は、祖父は八十三歳で既に引退していたが、一年ばかり前にはヴィクトリア女王の来訪もあり、貴族や政界の大立物がその後もしばしば来訪した。 若くして死んだラッセルの父も、このような母に育てられて当時の英国貴族の中でも最も急進的な目由思想家であった。ジョン・スチュアート・ミルの忠実な弟子で、ミルの主張の中でも当時非常に賛成する人の少なかった、婦人参政権や産児制限の主張をも支持していた。アンバーレー子爵は当時の英国貴族の習慣に従って議会に立候補し、最初は当選したが、二回目には落選した。彼の進歩思想は反対派によって、産児制限を支持しているということで、'嬰児殺し'と宜伝された。このような人であったからラッセルの父は、彼の死後、二人の息子をやはり自由思想家として育てたいと思い、遺言で二人の無神論者を後見人として指定していた。しかし祖父母、ジョン・ラッセル伯夫妻の要求によって遺言は破棄され、ラッセル兄弟はペンブローク・ロッジに引取られたのであった。 幼年時代のラッセルに最初に強い印象を与えたのは、厳格な清教徒である祖母の信仰教育であった。生涯にわたる彼の哲学者としての真理に対する探求心は、祖母の教えるキリスト教の教義との対決をとおして生まれたものである。幼くして父母の愛情から切り離されたラッセルには何としても孤独の影がさしていたことは否めない。当時のラッセル家の大きな邸のなかでは、'子供達はみんな幽霊のように部屋から出たり人ったりして'いたという。兄フランクは陽気なわんぱく小僧だったが、バートランドは内気なおとなしい少年だった。しかし彼は一方好奇心の強い子供でもあった。地球は丸いということがなっとくできず、地球の向う側にでられるかどうか実際たしかめてみよう、と庭に穴を掘ったり、「おまえが眠っているとき、天使はそばでいつもみまもっているんだよ」といわれると、 、眠ったふりをして、眼をパッとあけてベッドのまわりを見廻し、それがほんとかどうかたしかめようと試みたりしたという。 数学の魅力 パスカルにおける'幾何学の精神'、カントにおけるニュートン物理学のように、ラッセルが少年時代に数学の魅力に深くとらえられたということは、同時代の哲学者達のなかで彼を特徴づける一つの大きな手がかりとなっている。そして数学や物理学などによる自然科学的世界観の獲得が、ラッセルの場合、祖母によって教えられたキリスト教の信仰との対決という形で自分のものになって行ったところに特色があるのである。 ラッセルに最初に科学への興味を抱かせたのは、ラッセル家の一員で内気で変りものであったロロ叔父さんという人だったらしい。彼は当時の通俗科学の知識をロマンチックにラッセルに伝えたけれども、彼自身(ラッセル)は科学を神の偉大さの証拠としてキリスト教の教義と調和させることができると考えていた。しかし少年バートランドは直ちに神学上の教理と自然科学によって得られた知識との矛盾に直面しなければならなかった。この疑いは当時の彼の家族の中では打明けることができないものであった。ちょっと口に出しただけでもはげしい冒涜の言葉のように非難された。 霊魂不滅の否定 十六歳の誕生日の前後に、彼はこの問題について考えたことを、人に見られても分らないように、ギリシア文字と発音通りの綴字を使って、日記に書きしるした。ラッセルは後に『私の哲学の発展』(一九五九年)の中にそのいくつかを引用している。 彼は先ず最初に'霊魂不滅'を信じなくなった。次に自由意志を信じなくなった。 一八世紀の終りに、思想の世界に、また社会変革に新しい大きな歩みをすすめたカントやロベスピエールはまだ、霊魂不滅、意志の自由、神の存在の三つを疑わなかった。しかしその時代とは違って、進化論が少年ラッセルにも既に深い印象を与えていることが、この文章からも分るであろう。このときはまだ彼は'神の存在'を信じていたが、それもまもなく信じられなくなった。このような孤独な探求は、まだ心情的には信仰を求めていたラッセル少年の心に、この世に生きる意義を見出せないあせりを感じさせた。家族にかくれてひとり秘密を持つという罪悪感もあった。彼は祖父の書斎に豊富に残されていた歴史書を読みあさり、また、バイロン、シェリー等の無神論的な詩人達を愛読することで自らを慰めていた。 J.S.ミルの影響 「四月二十日」、かくて私は原始的な道徳が常に'種の保存'の観念から生ずると考える。・・・。そして私の信ずるところによれば、良心は進化と教育との共同の産物であるにすぎないのだから、理性を捨てて良心に従うことは、馬鹿げている。・・・。」ここには人間の'感情'や'直観'ではなくて、あくまで'理性'に頼ってゆこうとする後のラッセルの原型をすでにみることができる。これらの文章を書いたとき彼が既にベンサムやミルの思想に触れていたかどうかは分らない、しかし触れていなかったとしても、彼のひとりで思索した結果は、やがて知るであろう J.S.ミルの思想にぴたりと重ね合せることができるようなものであった。後年のラッセルは J.S.ミルを思想家としてはそれ程高く評価してはいない。しかし彼の後の社会活動も、恋愛観も、すべて基本的にはミルの自由思想の延長上において、彼なりにそれを現代社会に適用させることであったといってもよいのである。 「ミルは進化論を肯定しているが、実際には理解していないように見える。それはダーウィンの『種の起源』が、ミルが大人になってから進化論を人々にひろめたからである。」とラッセルは述べ、次のように言っている。 「われわれの大部分は、外にむかってしゃべる議論よりも、信念に影響するこのような下意識的な前提をもって生活しているし、この前提はわれわれの大部分では二十五歳になるまでにすっかりできあがっている。」ラッセルがミルについて言ったことを、ラッセル自身についてもいうことができる。ラッセルの少年時代にその下意識をつくりあげたものは、第一に祖母の信仰のおしえに触発された真理への愛であり、第二に、これと抵抗しながらつくりあげられた自然科学的宇宙観、そして最後に、祖母の食卓における自由思想や、その延長上に得られた J.S.ミルの思想、経験主義と理性への信頼であった、といってよいであろう。 トリニティ学寮にて おしゃベり好き そのラッセルをケンブリッジの四年間は、おしゃべり好きで社交的な青年に変えてしまった。哲学上の疑間をうちあけても誰も相手にしてくれるもののなかった少年時代の生活から、彼は一挙に同年輩の知性のある青年達の仲間に投げこまれ、哲学・政治・宗教・芸術等、人生のすべてにわたって自由に議論し合う新しい生活に人ったのである。 ホワイトヘッドとの出会い ラッセルが入学したときからホワイトヘッドはラッセルに注目していた。静力学の講義のとき、ホワイトヘッドは学生たちに教科書のある場所を勉強するように命じ、ラッセルの方を向いて「君はもうよく知っているから、する必要はないよ」といった。ラッセルは入学前の奨学生試験のときその節を引用して答えていたのである。ケンブリッジを卒業するまでホワイトヘッドはラッセルにとって理解のあるよい教師であった。その後一九〇一年から約十年にわたる『数学原理』の著述の間、彼はラッセルの共同研究者だった。第一次大戦頃まで二人は親しい友人だったが、ラッセルの反戦運動や自由な恋愛観に対してホワイトヘッドは批判的であったので、この頃から二人の仲は疎遠になった。『数学原理』が二人の共同の努力の結果であるにも拘らず、ラッセルの名声ばかり上ったのも気まずくなる原因だったかもしれない。その頃からホワイトヘッドは独自の形而上学を展開し、ラッセルとは別の道を進み始め、晩年はアメリカに移り住んで、彼の哲学はアメリカ思想界に重要な位置を占めるようになる。 ソサエティ(The Society) ラッセルの後輩のリットン・ストレイチーや後のヴァージニア・ウルフの夫レオナルド・ウルフ等は卒業後も'ソサエティ'の延長として'ブルームズベリー・グループ'をつくり、そこで社会問題や芸術を論じ続けるのである。彼等はトリニティ学寮において、毎土曜の夜、会員のだれかの部屋に集って夜おそくまで語りあった。ペンブローク・ロッジで沈黙を強いられていた反動のように青年ラッセルはこれらの夜の討論に没入した。合理主義的な英国哲学の伝統は古いケンブリッジの中に生き続けていた。自由な討論の雰囲気の中で、後年の過激で辛辣な演説家としてのラッセルが形づくられつつあった。 G.E.ムーア このムーアとの出会いについてラッセルは次のように書いている。 「長い間、大学のどこかに、まだ会ったことはないが、会えばすぐ私より知能が優れていることがわかるような、真に頭のよい人がいるものと想像していたけれども、二年目のうちに私はもう大学内の頭のよい人を全部知っていることがわかった。このことは私を失望させた。しかし、三年目にG.E.ムーアに会った。彼は当時新人生だったが、数年間たつと私の'天才の理想'を実現した。当時彼はあたかも霊感を風貌にただよわせたような、美しい容貌と華奢な肉体をもち、スピノザのように深く情熱的な知性をもった男だった。」何についても口をはさみしゃべりまくるラッセルと違って、ムーアは普通はじっと黙っていたが、自分の語るべきときになるととうとうとしゃべり続けた。パイプに火をつけようとマッチをすって、マッチが指を焼くようになるまで話しつづけた。それからまた新しくマッチをすって同じことを繰返すのであった。 「これは明らかに彼の健康には幸いなことだった、なぜなら煙草を喫っていない時間を作ったから。」とラッセルは言っている。 これらのイギリスの青年達にとって世界はまだ希望に満ちていた。海外では英国植民政策はまだ矛盾にゆき当らず、英連邦は形をととのえつつあった。国内では自由党のグラッドストーン内閣は種々の民主的改革を推進していた。ヨーロッパは文化の面でも社会機構の上でも無限の進歩を続けるように思われた。何十年か後に相ついで起る二つの大戦によって、ヨーロッパ人同士が互いに憎悪と破壊をまきちらすことになるであろうなどとは、まだ誰一人として予想しない時代であった。 ラッセルは一八九四年、二十二歳でケンブリッジを卒業しフェロー(特別奨学研究員)になった。この頃から数年間、ラッセルは先輩であったマクタガートの影響によりへーゲル主義者となり、「数と量との関係」「物質の定義」等の沢山の物理学の哲学に関するへーゲル主義的覚え書きを書いている。この時代に書かれたものは、のちにラッセル自身も認めているように、彼の一生にわたって書いたもののなかで、最もくだらないものである。ただこの形式論理学の開拓者、イギリス経験主義の正統の弟子であるラッセルが、どんなふうにして二十代の前半、へーゲル哲学の虜になったかを知る資料にはなるであろう。 (その4) 「自由人の信仰」 ウェブ夫妻 翌年ラッセルは、アリスと共に、アメリカ及びドイツに旅行した。ドイツではドイツ社会民主党やマルクスの『資本論』について研究し、帰ってからフェビアン協会で講演した。その内容は一八九六年『ドイツ社会民主主義論』として出版された。これはラッセルの最初の著書であり、これらの講演や著述は彼の最初の政治参加になった。もともと英国の貴族の家系では政界に出ることは当然とされ、祖母の希望は、彼が祖父ジョン・ラッセル卿のあとをついで政治家になることであった。数学の魅力にも強く惹かれていたラッセルはどちらとも決めかねていたが、結局両方とも捨てずにやってゆくことになる。『ドイツ社会民主主義論』のなかに書かれている立場は、既にラッセルのその後に取ったマルクス主義に対する見方を基本的に示しているといってもよい。当時ラッセルは既に、イギリスにおける社会主義への道は、マルクス主義によらずにギルド社会主義によるべきだと考え、その方法も革命ではなく漸進的改良の方法であるべきだと考えていた。そしてこの考えは、その後、親しく交際したウェッブ夫妻等イギリス社会主義運動の主流の考えとも一致していた。 ラッセルは一九〇〇年ケンブリッジにおける講義をもとにして『ライプニッツの哲学』を出版する。そしてその後約十年間、ホワイトヘッドとの共著『数学原埋』の仕事に没頭することになる。この時代に彼が親しく交際をして影響を受けた人々の中にフェビアン協会の中心的な人々、シドニー及びベアトリス・ウェッブ夫妻、バーナード・ショーなどがいる。既に述べたようにラッセルはドイツから帰って、彼がドイツで見、また感じたことをフェビアン協会で報告した。彼の報告は好評ではなかった。それは当時フェビアン協会は自由党とは別の労働者の党をつくるべきだという主張に傾いていたが、ラッセルはドイツの社会主義者がマルクス教条主義で戦術的に偏狭であり過ぎると批判し、フェビアン協会は自由党を支持してゆくべきだ、と述べたからである。ラッセル自身は当時自由党支持でフェビアン協会より穏健な立場であったが、個人的にはウェッブ夫妻と親しく交際し、夫妻に家の一部を貸して一しょに住んでいたときもあった。 シドニー・ウェッブは厖大な資料を蒐集し、忍耐強く整理してゆく学者タイプで、頭のよい妻のベアトリスに助けられて、イギリス労働運動の理論的基礎を築いた。二人が若いとき書いた『労働組合運動史』はスイスに亡命していたレーニンが読んで感心し、ロシア語に翻訳して同志達に推薦した。ウェッブ夫妻は共にフェビアン協会や、のちの労働党の役員として活躍した。そしてバーナード・ショーはフェビアン協会のスポークスマンであり、ウェッブ夫妻の理論の宣伝係であった。 勿論彼等が気ばらしをしなかったわけではない。ウェッブ夫妻らはよく休暇をつくり、田舎に家を借りて共同生活をしたが、ラッセル夫妻も、ウェッブ夫妻、ショー夫妻と一しょにそういう時を過した。ここでも彼等は午前中は各自自室で仕事をし、午後は散歩や会話に時をすごした。ショーが戯曲の登場人物の名前を書いた紙をチュスの盤上に動かしながら、作品の構想を練っているのを、ラッセルは感心して眺めていたという。 「自由人の信仰」 一八九九年から三年間続いた南阿のボーア戦争が始まった。そのとき自由党の一部の帝国主義に反対する党員は、反戦「親ボーア運動」を提唱した。当時ウェッブ夫妻は自由党の主流の、ホールデン、アスキス、グレイ卿等と親交があり、政府のとった態度を支持していたので、「親ボーア運動」へ参加するという提案がフェビアン協会に持ち込まれたとき、多数をひきいてこれを否決してしまう。そしてこのため、後の労働党首ラムゼイ・マクドナルド等、反戦派約四十名はフェビアン協会を脱会するのである。ラッセルは始めウェッブ夫妻らにならってボーア戦争を支持していたが、植民地戦争の実態が明らかになるにつれて、この誤りに気がついた。同時に、自然と人生に対して、一種の'回心'ともいうべき内省的体験をもった。それは一九〇二年、ラッセルの二十代の終りの頃で、その内容は後に『神秘主義と論理』の中に収められた「自由人の信仰」というエッセイの中に表されている。 「自由人の信仰」はメフィストフェレスがファウストに宇宙の歴史を説明する場面からはじまる混沌とした星雲の中から太陽系が生れ、惑星が生まれる。そして惑星の上に生れ出た生物、人間、そして人間の歴史のすぎさってゆく各時代のいとなみ。そしてやがて全生物の滅亡がやってくる。
「自制が必要であることは、悪が存在する証拠であるけれども、キリスト教は自制を説く点において、プロメテウスの叛逆の哲学にまさる知恵を示している。」ゲーテ的汎神論、二ーチェ的反抗、パスカルの'考える葦'、大きく円環をえがいて、ラッセルは、結局は、十六歳の誕生日の頃にひそかに日記に書きつけた、理性への信頼に戻ってくる。しかしそれは、いまは孤立の中に精神の価値を守り続けようという信念と、その孤独をつきぬける強い同胞への愛とを伴っていた。 「行進するにつれて万能の死の静かな命令によって、一人、また一人と、われわれの仲間は見失われて行く。われわれが彼らを助けたり、彼らの幸、不幸が決せられたりする時間は、ほんのつかの間である・・・。狭量な秤で彼らの長所、短所を量りなどしないで、彼らの必要とすること−−彼らの悲しみ、困難、おそらくは彼らの生活を惨めにしている盲目性−−に思いを致そうではないか。彼らは同じ闇の中で共に苦しむ仲間であり、われわれと同じ悲劇に登場する俳優であることを思いおこそうではないか。」このような心境の表明が「自由人の信仰」の内容であった。 若いラッセルがケンブリッジのトリニティ学寮で友人達と語り明かした頃、ヴィクトリア朝の英帝国主義はまだ壁にぶつかっていなかった。そして植民地では原住民に対する搾取が行なわれていたとしても、本国では進歩の側が着々と政治的な地歩を獲得し、人々は人類の進歩について明るい見透しを持つことができた。しかし二十万の大軍を動員し、ボーア人の農場を徹底的に破壊して、罪のないボーア人達を悲惨な収容所生活に追いこんだのち、ようやく勝利することができたボーア戦争。自分やウェッブ夫妻らフェビアニスト達をも巻込んだ、この帝国主義植民地戦争の興奮からさめていま、ラッセルは人間の愚かさを思い知らないわけにはいかない。 数年前ラッセルは当時英国哲学界で主流を占め、自分もとらえられていたへーゲル、ブラッドレーの観念論から解放され、少年時代の自然科学的宇宙観に立ち戻った。そして今までとは全く逆のやり方で数学的論理学の新しい探求を始めたのだった。それは希望に満ちた、やり甲斐のある仕事だったが、苦しい障碍も沢山ひかえていた。妻アリスとの性格的、思想的相違がはっきりしてきて、夫妻の間にも溝ができ始めていた。これらのことが重なり合って二十代の末期のラッセルの思想は大きな転回をしつつあったのである。その論理以前のむしろ心情的な原思想の表明が「自由人の信仰」であった。後のラッセルは主として明快な啓蒙家であって、その文章はウィットがききすぎて軽薄な感じになってしまう場合もしばしばあるが、このエッセイは全く調子が違っている。ラッセルは決して再びこういう調子では自己の信念を表明しないだろう。しかし、ここに確立された信念は、第一次大戦、ロシア革命、ナチスの台頭を経て強められても変えられることはなかった。 ラッセルのペシミズムを英帝国主義、またはヨーロッパ圏の没落を全人類に対するペシミズムヘと投影したものに過ぎないと言い切ってしまうことが出来るであろうか。彼がボーア戦争に際して始めて痛感した人類の愚かな殺戮ぶりは、第一次大戦、ボルシェヴィキ革命、ナチスの棍棒と強制収容所と、ますます大がかりに組織的になってゆくだろう。そして最後に原子爆弾である。最高の文化を持ったヨーロッパ諸国民が半世紀の間演じて来た愚行を見ているラッセルには、人類が自己の種族を滅亡に追い込むような原水爆戦争をも起しかねない程、充分愚かであるということがよく分っている。この危機感が彼をして現在のように平和運動に挺身せしめているのである。 (その5) 「新理論の開拓」 ペアノに触発されて ラッセルが実際に全力をあげて記号論理学の研究に没頭したのは一九〇〇年から約十年の間であるが、その端緒になったのは一九〇〇年七月パリで開かれた国際哲学会議においてイタリアの数学者ペアノの話を聞いたことであった。当時ラッセルは二十八歳。へーゲル哲学の影響を受けて数学や物理学の基礎づけをいろいろ試みたのち、その'空しさ'に気づき、全く別の方法によらなければならないと記号論理学に着目しつつあった。デデキント、カントル等の新しい'数学の基礎づけ'には既に大学卒業直後にドイツに行ったときに接していたし、(ラッセルによる)ライプニッツの講義に際して、ライプニッツの(→による)最初の論理の記号化についても知った。ブール、パース等その後の記号論理学の発展にも関心を向けた。しかしそれらの中で、ペアノの'表記法'や推論がきわだって明晰なのにラッセルは感心した。この学会ではペアノのお弟子達が盛んにこの表記法で議論していたのである。ラッセルはただちにペアノと会って教えを乞い、彼の著書全部を譲り受けて帰ってきた。帰ってすぐペアノ式記号の勉強にとりかかり九月にはその記号で書いた論文をペアノが主宰していた『数学評論』に投稿するという早さである。ペアノの印象がラッセルにとっていかに深いものであったかは次のような、言葉によっても分るであろう。晩年のラッセルはフレーゲ、ウィットゲンシュタイン等、彼に影響を与えた人々の思い出を語ったのち次のように言う。 「これらの人たちは、私に影響をおよぼした中のほんのわずかの人である。私はもっとも影響を受けた人を二人考えることができる。それはイタリア人のペアノと友人の G.E.ムーアであった。」 自然数の算術ができあがれば、それから無理数や虚数を含んだ代数学と解析学の全分野が展闘されるということは、既にデデキント等の解析学の基礎づけによって明らかだったから、結局全数学の基礎が五つの公理に還元されたことになる。これらの公理を表現するためにはペアノ式論理記号が用いられた。ラッセルはこれらの公理の中に含まれている数というコトバを更に論理記号だけで定義することはできないか、ということを考えた。この問題意識は、彼が少年時代にはじめて兄からユークリッド幾何を教えられたときの、「幾何の公理は更に証明できないか」という疑問の延長ともいえるものである。このことは結局、論理学の公理から出発して全数学をつくりあげる、ということを意味している。このような立場は数学基礎論において'論理主義'と呼ばれ、それに対して、数を更にさかのぼって定義する必要はないという数学者ヒルベルト等の立場は'形式主義'と呼ばれている。 フレーゲの業績 ラッセルは一九〇〇年の秋から暮にかけて、この問題と精力的にとりくみ、『数学の諸原理』の草稿を書きあげたのだが、翌年早々、彼のやったことが既にドイツのイエナ大学教授フレーゲによって十年以上も前に行なわれていたことに気がついた。即ち一八七九年に出版されたフレーゲ『概念文字』である。ラッセルはこの本を前にフレーゲから贈られていたのたが、フレーゲの記号は分りにくいものだったので、理解できなかった。そして自分で同じ仕事をやったあとになって、はじめて彼の業績を理解することができたのである。ラッセル、ホワイトヘッドの『数学原理』が有名なのでその後はもっぱらラッセル等の記号が使われているが、記号論理学の新しい展開のための独創的な仕事を最初に行なったのは、ラッセルではなくて実はフレーゲなのであった。このことはラッセルを落胆させたに違いない。しかしフレーゲの仕事はラッセルの注目するまで誰にも評価されていなかったので、彼は『数学の諸原理』の附録にフレーゲの論理学に対する解説をつけ加え、その後もフレーゲの業績を人々に紹介するため努力を惜しまなかった。 集含のパラドクス しかしラッセルの階型理論で問題が完全に解決したとはみられなかったので、フレーゲは結局数学の論理化を断念し、前から記号論理学に対して否定的だったポアンカレは、 「記号論理学は何も新しいものを生み出さないと私は前から主張してきた。しかしそれは誤りであった。それは'矛盾を生んだ'のである。」といって喜んだ。後に一九二〇年代になって、ラッセルの後輩であるウイットゲンシュタインやラムゼイ等によって、この問題はより明瞭な形で解決を与えられ、ラッセルもそれに賛成する。 『数学原理』の完成 一九一〇年頃からホワイトヘッドの関心は哲学の方に移り、やがて彼は独自の形而上学を建設しはじめる。このため、『数学原理』の第四巻、ホワイトヘッドが分担することになっていた幾何学の論理化はついに書かれずに終ってしまった。ラッセルの興味もその頃から社会問題の方に強く動いて行ったらしい。その後、ラッセルもホワイトヘッドも解説的な文章は沢山書いているが、記号論理学に新しい発展をもたらすような研究には携わらなかった。 しかし彼等は、彼等が記号論理学で用いた考え方を自分の哲学に適用した。そしてそれは、その後のヨーロッパやアメリカの哲学に大きな影響を与えることになった。記号論理学の発展とそれを背景にしたラッセルやウイットゲンシュタインの哲学の影響をうけて、一九二九年ウイーン大学のシュリック、カルナップ等を中心にして、論理実証主義という哲学の一潮流が生れた。これが現在、分析哲学と総称されている英米系の哲学の出発点となった。論理実証主義や分析哲学の特徴は、言葉の分析を重視し、また記号論理学の技術を用いる点にあるが、このような哲学や数学基礎論における記号論理の使用のほかに、電子計算機やそれによる自動翻訳の進歩は、実用的にも記号論理学や、記号論理学的な考え方が今後ますます必要になるであろうことを示している。 (その6) 「婦人参政権運動」 政治へ ラッセルは後に一九二〇年代に労働党から何回か立候補するがやはり落選し、兄フランクの死ののち、第三代ラッセル伯として上院に出ることになる。ラッセルの選挙演説は人気はあったが、スタンド・プレイのない潔癖さのために、たとえ当選しても政治家として成功することはむずかしかったろうというのが友人達の意見だった。一九〇七年の最初の選挙運動もなかなかはげしいもので、演説会場から帰るとき、保守派からアリス夫人の顔に卵が投げつけられるというような事件も起っている。日本からみると英国は議会制度や社会保障制度が、民主的な討論によって平和的にできあがってきた国であると思われやすい。しかし英国における議会制度や民主主義の発展は、保守派と進歩派のはげしいたたかいの中でようやくかちとられてきたものなのである。 英国の選挙制度が今日に近い形をとるのは、ラッセルの祖父ジョン・ラッセル卿の提出になる一八三二年の有名な選挙法改正(十ポンド以上の納税者に選挙権を与えるもの)のときからであるが、このときは各地にブルジョア階級や労働階級による改正期成同盟が結成された。上院の否決により、改正が危ぶまれたときは、このような自発的結社が一せいに生産サボタージュや商店の閉鎖を行ない、ロンドンではフランス革命の教訓にならって「公安委員会」が設置され、地方でもこのような組織によって地方行政の接収が行なわれ、武器を用意したり、軍事訓練が行なわれたりしたという。結局革命を恐れる保守派の譲歩によって改正案は成立した。 しかし、このようにして闘いとられた選挙法でブルジョア階級を助けた労働者達は殆ど恩恵に浴さなかったので、まもなく、成年男子の普通選挙権、秘密投票制度等の憲章(チャーター(チャーチストの名のおこり))の制定を要求して、一九三七年から三九年に至るチャーチストの運動がはじまる。この運動も最後に、穏健派と行動派の対立を来し、一八三九年暮、過激派の武装行動が軍隊によって鎮圧されたのち壊滅する。このチャーチスト運動の要求は五十年後にほぼ実現され、ラッセルの時代には争点は婦人参政権に移っていた。 婦人参政権運動 この運動は第一次大戦の勃発まで烈しく行なわれたが、大戦開始と共に、指導者パンカースト夫人を初めとして、大部分の女性活動家は国家に協力を誓ったので、政府は大赦令を発して婦人参政権運動家や労働運動家をすべて釈放した。そして戦争中出征した男子に代って、本国での女性の活躍が認められ、戦後の選挙法改正により、ようやく女性に選挙権が与えられることになった。 ラッセル一流の皮肉な表現によれば次のようになる。 「戦前、婦人参政権に反対する普通にいわれた反対惹見の一つは、女性は平和主義者になる傾きがあるというのであった。戦時中、女性はこの非難に対して、血なまぐさい仕事に果たした役割の故に、彼女たちに投票権があたえられた。」 ラッセル自身は婦人参政権の運動においてこのようなはげしい立場をとらず、合法的に運動をすすめるグループを支持していた。またここのパンカースト夫人の二人の娘のらち一人は第一次大戦中ラッセル等と共に反戦運動を続けるのである。 (その7) 「第一次大戦とラッセル」 一九一四年八月、第一次大戦は勃発し、ヨーロッパ諸国は戦火の中に突入した。当時ラッセルは、四十二歳で母校ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの論理学講師であり、春にはアメリカのハーバード大学に招聘され、記号論理学の講座を担当して帰ってきたところであった。 第一次大戦勃発当時のヨーロッパ平和主義者達の雰囲気については、マルタン・デュガールの小説『チボー家の人々』の最後の巻にいきいきと描き出されている。戦争の危険が深まると共に各国の社会党は戦争反対の意向を明らかにし、七月二十九日、ベルギーのブラッセルで第二インターナショナル主催の平和会議が開催された。そこでは戦争が勃発すれば、各国の労働者はゼネストによってこれを阻止するということが論議された。イギリス労働党もこの会議に代表を送った。また八月二日には労働党の指導によりイギリスの各地で戦争反対の集会が行なわれた。ロンドンのトラファルガー広場でも大デモンストレーションが行なわれ、参戦反対の決議が読み上げられた。 しかし八月三日ドイツ軍が中立国ベルギーを侵犯するや、一般の輿論(世論)は急変する。翌四日、イギリス政府は宣戦を布告し、国民は熱狂的にこれを支持するのである。労働党の内部でも大部分が政府の処置に賛成し、平和主義者は少数派になってしまった。そしてあくまで中立を主張する党首マクドナルドは労働党議員団の中心から退いてヘンダーソンがこれに代り、ヘンダーソンはのちに入閣して、保守党と共に挙国一致内閣をつくることになる。フランスでは社会党首ジャン・ジョレスが暗殺され、社会党は戦争支持に廻る。ドイツ社会民主党は、議会で軍事予算に賛成投票した。当時スイスに亡命していたレーニンがこの知らせをきいて、このニュースはドイツ参謀本部のでっちあげだといって信じなかったというのは有名な話である。 八月四日の夕方、ラッセルはトラファルガー広場で、宜戦布告に興奮して集まってくる群集を眺めていた。たった二日前にはこの広場で参戦反対の集会が行なわれたばかりなのであった。奇妙なことに民衆は寧ろ嬉しそうだった。この戦いはドイツ軍国主義との'正義の闘い'なのだ、人々の間では今年中には'簡単に片がつくだろう'というような、楽観的な見とおしがささやかれていた。そしてこのとき、ラッセルは戦争というものが普通思われているように、「専制的で陰謀に長けた政府によって、いやがる民衆に押しつけられる」ものではなくて、寧ろ民衆自身が望んで入ってゆくものなのだということを知ったのだった。 「戦争が始まったばかりの頃、私は政治と個人的心理の関連の重要性にうたれた。人間集団が一しょになってやることは、彼らが共通に感ずる情熱の結果として起るものであり、この情熱は大部分の政治理論家が強調したものとは異なっていることを私は突如として理解した。」 知識人の反戦思想 当時、オーストリアのウィーンに亡命していたレオン・トロツキーはラッセルと似たような体験を次のように語っている。 いずれも深い心理的洞察を伴っているという点では共通しているが、貴族の家に生れた英国の知識人ラッセルと、ロシアの革命的インテリ、トロツキーとの感じ方は勿論非常にちがう。ラッセルがペシミスティックに眺めていた民衆の情熱を、トロツキーはよりオプチミスチックに、革命の原動力としてとらえていた。一方、トロツキーがのちにロシア革命の中で体験し、自らも必要悪として推進していった無数の流血、その悲惨と不毛とをラッセルは既に予見していたといえる。ともかくその当時、戦争をラッセルやトロツキーのように国際的視野の下に見ることのできた人々は、ロマン・ロラン等、ごく少数の人々に過ぎなかった。 徴兵反対同盟 だがラッセルはこのように絶望ばかりしていたわけではない。かつて「自由人の信仰」の中に表明されたように、孤独の中で理性の立場を守りぬくという決意が、いまや具体的に実行に移されるべきときであった。このようにして第一次大戦はラッセルの全生涯にとって決定的な転回点となった。やがて彼は当時活動していた「徴兵反対同盟」(No Conscription Fellowship 略称 NCF)の人々と共に反戦活動に挺身しはじめる。第一次大戦前まで英国は志願兵制度であった。しかしそれでは兵隊の数がどうしても足りないので、徴兵制度の法案がしばしば議会に提出され、遂に一九一六年初めに制定されることになる。これは十八歳から四十一歳までの男子に対する徴兵制で、徴兵制の制定はクェーカー教徒など、宗教的信条等により戦争や殺人を拒む良心的反対者の問題をひき起した。良心的反対者の中にも、本国の勤務には必ずしも反対しないという条件的反対者と、いかなる戦争協力にも反対するという絶対的反対者とがあり、後者は多くの場合投獄された。NCF は徴兵制が制定されるまではこれに反対して運動し、制定されてからは良心的反対者の権利をまもるために活動した。 母校を追われて ラッセルは既に徴兵年齢を越えていたが、NCF の中心メンバーの一人で、ケンブリッジの卒業生によってつくられていたサークル、ブルームズベリー・グループとの連絡の役割をも受持っていた。毒舌家のラッセルはケンブリッジの食堂などでも遠慮なく戦争支持者達を批判し、人々にけむたがられたらしい。ケンブリッジの学者たちは、「もしも僕が『平和の王』だったら、あれほど挑発的でない大使を選ぶね。」などと批評し合った。ブルームズベリー・グループのインテリ達は、大てい穏健な平和主義者で、政府の批判はするが自分で危険なことは何一つしないという、サロンの平和主義者だったらしい。当時大蔵省に入って兵役を免除されていた経済学者ケインズに、ラッセルは、「君は良心的反対者に共鴫しているくせに、なぜ大蔵省に入って、できるだけ安上りに、沢山のドイツ人を殺そうなどという仕事に従事しているのだ。」と質問し、ケインズは答に窮したという。 やがてラッセルは官憲に眼をつけられ始め、ケンブリッジ内の主戦派の怒りをもひき起すようになった。ちょうどそのとき次のような事件が起った。良心的反対者の一人が重労働二年の刑を宣告さたことに抗議するパンフレットを、NCF のメンバーが配布していて逮捕された。この執筆者は誰かという官憲の詰問に対して、ラッセルは自ら執筆者として申し出て、裁判により百ポンドの罰金を渡された。一九一六年六月のことである。このときのラッセルの弁論ははげしいものだったので、この弁論をふくめて、裁判の経過をまとめた NCF のパンフレットはただちに発禁となった。機会をねらっていたトリニティ・コレッジの評議会はこの問題をとりあげ、満場一致でラッセルの解雇を決定した。かくしてラッセルは学生時代以来引続きフェローとなり、更に講師として七年間勤めてきたケンブリッジから追放されることになった。このときラッセルの解雇を最も強行に主張したのは、学生時代からの親しい先輩で、昔彼をへーゲル哲学に導いた、へーゲル哲学者として有名なマクタガート教授であった。教職を失うということもラッセルにとって打撃であったが、しかしそれよりも長年その中に住みなれた母校を追われ、親しく交際して心を打ち明け合って来た友人達からひとり突き放されたという思いは痛手だった。それに経済的にも彼の財産は底をついて、百ポンドの罰金を払うためには、蔵書を競売に付さなければならない状態だった。しかし当時彼は実際は自分で思っていた程、孤立していたわけではなかったともいわれる。というのは大戦終了後、ラッセルがトリニティに復帰したとき、マクタガートは戦争中のこの行為のために、大学内で非常に評判を落していたからである。 講演旅行 平和主義者はドイツの潜水艦と通信する恐れがある、という理由で、ラッセルの講演旅行は内陸の都市でだけ、陸軍省から許可された。講演の様子をラッセルは次のように語っている。 「私は平和主義者の多くの会合で演説し、大抵無事にすんだが、すごかったことが一度あった。それはケレンスキー革命(いわゆる二月革命)を支持したときで、会合は南門通りの友愛教会で行なわれた。この地区には極貧者が集まっているが、愛国主義の新聞は、近くのあらゆる居酒屋に、われわれがドイツと連絡があって、ドイツの飛行機にどこへ爆弾を投下したらよいか合図しているとのべたビラをばらまいた。この事は全くその付近でわれわれを不人気にし、やがて暴徒が教会を包囲した。われわれの大多数は、あるものは全く無抵抗者であり、またあるものは包囲している貧民に抵抗するには数が少なすぎることがはっきりわかったので、抵抗は悪いことか不得策なことと信じた。フランシス・メーネルを含めたわずかの人が抵抗を試み、彼が顔に血を流して戸口から戻ってきたのを覚えている。暴徒たちは若干の士官にひきいられてあばれ込んだ。士官以外のものは多少とも酔っていた。一番荒れていたのはさびた釘をいっぱい打った木板をふるった女丈夫連中だった。 士官たちは、われわれの中の婦人を最初に退避させて、彼らがどれも臆病者だと想像していた平和主義者に相当な扱いをしようとした。スノーデン夫人はこのとき、感嘆すべき立派な態度をとった。彼女は、即座に、男たちが同時に立去ることをゆるされないかぎり、ホールから出ることを拒絶したので、居合わせた他の婦人たちも彼女にならった。彼らは婦人達を襲うことをべつに望んでいなかったので、このことは暴徒たちに責任をもっている士官たちをたいへん当惑させた。その頃には暴徒は彼らの熱血を消耗しつくしてしまって、大混乱はしずまった。だれも警官が静かにみている間に、できるだけ逃げなければならなかった。酔っ払った二人の女丈夫が釘をいっぱい打った板をもって私に襲いかかってきた。こんなふうな攻撃をどう防いだらよいのかまよっているうちに、われわれの方の婦人の一人が警官のところへいって私を護るようにもとめたが、警官は肩をすくめただけだった。『だがあの人はすぐれた哲学者です』と婦人はいったが、警官はやはり肩をすくめた。『だが、あの人は世界中で学者として知られています』と彼女は言いつづけたが、警官は動かなかった。『だが彼は伯爵の弟です』と最後にさけんだ。これをきいて、警官は私を助けに走ってきた。しかしながら、彼らは何かの役に立つには遅すぎた。私は見知らぬ若い婦人のおかげで命拾いしたのだ。彼女は私が逃げられる時間、私と女丈夫の間にはさまってくれたのだ。さいわいなことに、警官のおかげで彼女は襲われなかったが、数人の婦人を含めて多くの人たちが、建物を出るときには着物の背をむしりとられていた。」一方で官憲の弾圧の危険も感じられた。NCF は第二指導部をつくって弾圧に備えた。 入獄 平和への新年 比較的快適に仕事ができたとはいえ、隔離された獄中生活はラッセルの神経を大分弱らせた。戦争の終結を目前にひかえて、九月出獄したラッセルは、すべての人々から自分が嫌われているかのような印象にとらえられていた。この頃ラッセルは相続した財産はすべて使い果たしてしまっていたので、チャールズ・サンガー、トレベリアン兄弗、ケインズ等の友人達は、彼のために金を集めて、彼が当面の生活を支え、著述によって返済してゆけるような基金をつくった。これからのち、ラッセルは主として著述や講演で生活してゆくことになる。十一月十一日ドイツの降伏によって第一次世界大戦は終った。 「午前十一時、休戦が発表されたとき、私はトッテンハム・コート・ロードにいた。二分以内に、店や事務所のすべての人が街にあらわれ、彼らはバスを徴発して、好きなように引き廻した。私は、おたがいにまったく見知らぬ男女が道の真ん中で出会い、過ぎ去るときキスするのを見た。群集はよろこび、私もよろこんだ。しかし、私は前と同じく孤独だった。」英国首相ロイド・ジョージは、はじめフランスをなだめて、ドイツに対して寛大な講和を結ぶ考えであった。しかし終戦直後の選挙に勝つためには、民衆の興奮に妥協して、ドイツをこらしめ、ドイツから多額の賠償金をとることを約束しなければならなかった。その結果フランスの要求を押えることができす、ドイツに対して過酷な条件を押しつけたヴェルサイユ条約が成立する。平和の使徒として期待されたアメリカ大統領ウィルソンは孤立無援の空しい努力ののち失意を抱いて帰国しなければならなかった。ラッセルも一時はウィルソンの平和主義に期待したが、それも空しいことにすぐ気がついた。平和は勝利者の敗者に対する復讐の形で終った。苛酷な賠償はドイツを疲弊させ、後にナチスの台頭を招いて、第二次大戦の原因をつくりだすだろう。憎悪や殺戮によっては真の平和は得られないというラッセルの信念は、このような経過によって、ますます強い確信となるばかりであった。 (その8) 「ロシア革命とマルクス主義」 ソビエト旅行 「一九二〇年のロシア訪問は、私にとって人生の転回点だった。」(『自伝的回想』) イギリスに帰って、他の大部分の人達が新生ソビエト・ロシアを讃美したのに、ラッセルと二、三の人々だけが辛らつな批判を下した。反戦運動の中で大部分の友人と立場を異にしていたラッセルは、残る少数の同志達、反戦運動を共にした左翼社会主義者達の間でも孤立することになった。 『ボルシェヴィズムの実践と理論』に描かれたラッセルのソビエト旅行は次のようなものである。 一行は、スローガンを一ぱい書き連ねた豪華列車に乗せられて、先ずペトログラードに着いた。駅には多数の出迎えと軍楽隊によるインターナショナルの吹奏、そして宴会とごちそう攻めが続いた。一行はペトログラードに数日滞在し、次の一週間をモスクワで過し、レーニン、トロツキー等の政府の要人達に会い、またメンシェヴィキやアナキスト等多くの党派の人々にも会った。 レーニンを訪ねて 「農業における社会主義について私が質問すると、彼はうれしそうに、かつて自分が貧農を煽動して富農に反抗させた経験を語った。『そしたら貧農どもは富農の奴らを早速手近かな木にぶら下げて絞首刑にしおった。ハ、ハ、ハ』 虐殺された人々に言及して哄笑(こうしょう)する彼に、私は血の気がひいてゆくのを覚えるのだった。」(『反俗評論集』)農業問題は、レーニンの政権にとって一番痛いところだった。レーニンはわざと英国のヒューマニストの社会主義者達のどぎもを抜くような話をして、問題をごまかしたのかもしれない。しかし、レーニンの心の底には狂信的で蒙古的な残忍さがあるとラッセルは感じた。 ゴーリキーと 地方をまわり実情を知るにつれて、ラッセル達はますます暗い気持になっていった。彼等はまたゴーリキーにも会った。彼はちょうど病気でベッドに横たわったまま苦しそうに話した。ロシアの知識人達は、ゴーリキーが彼等のために、またロシア文化の保護のために、如何に努力してくれたかを口々にラッセル等に話していたのだった。 「彼は−−もし私がロシア人だったら、そうしたであろうように、現在の政府を支持する。だが、それは、現在の政府に欠陥がないと思うからではなく、これに代るべきものがなおさら悪いからである。彼のなかにはロシア人民への愛が感じられた。その愛の目から見れば、彼らの現在の苦難はほとんど耐えがたいものであり、純粋のマルクス主義を支えている信仰は寧ろ妨げであった。私の会ったすべてのロシア人のうちで彼こそ最も愛すべき、最も共鳴を感じる人物だと私は感じた。」ゴーリキーは、ロシアの知的および芸術的生命を保持するために、人としてできるだけのことをした。おそらく彼は死ぬだろう。そしてたぶん、ロシアの知的および芸術的生命も死ぬだろう。この二つのことで自分の予想が当らなければよいがとラッセルは思った。 ソビエトの評価 ラッセルは、マルクスやレーニンを決して過小評価してはいない。彼は青年時代の『ドイツ社会民主主義論』のなかで、『共産党宣言』を古来の政治文献中最もすぐれたものの一つと言っている。彼は歴史的文書としての『共産党宣言』を非常に高く評価するが、暴力革命やプロレタリア独裁の理論には反対である。そして彼がそれらに対して危惧していた点を、彼のソ連旅行は確認することになってしまったのである。ラッセル自身も、英国流の議会主義の限界を知りすぎる程よく知っている。はじめラッセルは議会的民主主義とは異る新しい代議政体、プロレタリア民主主義の実験を見られるという大きな期待をもってロシアに出かけていったのであった。 「われわれが研究したいと思ったことの一つは、ソビエト制度がこの点において真に議会制度より優れているかどうかという問題であった。」しかし'ソビエト制度'は死滅しつつあった。疲弊した戦時共産制下のソ連で、少数のボルシェヴィキは権力を握るために、強制とごまかしで選挙を管理していたのである。 マルクス主義者は「合憲的運動においての労働指導者の裏切りを重視するが、革命にさいしての共産主義者の指導者の裏切りの可能性を考えていない。」「少数者独裁に通じる暴力革命の方法は、専制政治の習慣を醸成するのにとくに適したものであって、これをもたらした危機が去ってもなお存続するのである。共産党の政治家は、他の政党の政治家と、全く似たりよったりになりそうだ」 それを防ぐためには民衆自身が指導者を批判し、いかさまを見抜けるように教育され、また民主主義のルールが維持されていなければならないだろう。結局のところラッセルは民主的な社会主義に到達するためには、やはり議会民主主義をとおして以外にはないと考える。「望ましい形の社会主義建設に迅速な方法は存在しない・・・。」 ラッセルのプロレタリア独裁批判は、マルクスに対するバクーニンの批判や、レーニンに対する初期のトロツキー、ローザ・ルクセンブルグ等の批判と共に、一つの真実を衝いている。その意味で、『ボルシェヴィズムの実践と理論』は現在に至るも有効性を保っているといえよう。 ラッセルがマルクス主義について論じたものは、既にあげた初期の二冊の他に、一九三四年『自由と細織』等の著作や、『西洋哲学史』のマルクスの章、その他短いエッセイでは無数にある。ラッセルがマルクス主義に対して抱く理論以前の直接的な不満は、それが科学的知識ではなくて信仰になってしまっているということであろう。彼は若いときドイツに旅行して、ドイツ社会民主党の中にそのような熱狂があるのを感じて納得できなかったのだったが、それはレーニンのロシア革命から、スターリンの時代になってますますはげしいものになった。そしてそれは往々にして自然科学にまで及ぶ。 「ロシアが最近うみ出したもっともすぐれた遺伝学者であるヴァヴィロフは、獲得形質の遺伝についてのスターリンの無知な信仰に従わなかったということで、北極地方に追放されて悲惨な死に方をした。」(『自伝的同想』)それと同様に、ラッセルのような自由思想家は、たとえその政冶体制を承認したとしても、スターリンのロシアに生きてゆくことはできなかっただろう。そしてそのことは、ただスターリンだけのせいではない。マルクス主義全体のなかに、そのような科学的でない、宗教に似た雰囲気が存在するのだ。 「他の人びとの学説と同様、マルクスの学説は、部分的には正しく、部分的にはまちがっている。・・・。他の学説の創始者と同様、彼はいろいろな点で校訂を必要とする。そしてマルクスが宗教的な畏敬の念で扱われれば、その結果は不幸な結果を生じることに在るだろう。しかし、彼もまた誤りやすいものとして扱われれば、マルクスはなお依然として、もっとも重大な真理の多くをふくむものとして、見られるであろう。」(『自由と組織』) (その9) 「自由恋愛の旗手」 揺れる恋愛観 「男女の平等にたいする要求は、さいしょから政治的な面だけでなく、性倫理にも関係していた。メアリー・ウルスタンクラフトの態度は徹底して現代的であったが、その後の女権運動のパイオニアたちはこの点で、彼女のあとを追うものがなかった。逆に、彼女たちの大部分が非常におかたい道徳家であり、その目的はじゅうらい女性のみが耐えてきた道徳の足かせを男性にもさせようとすることだった。しかしながら一九一四年以後、若い女性たちは、たいして空論をもてあそばずに、ちがった道をあゆみはじめた。」性や恋愛に関するモラルの変革は一つの社会の中でいくつもの層をなして進行するものである。一方には十九世紀のヴィクトリア風な厳格主義がまだ非常に大きな力を占め、他方では上流階級や芸術家達の一部で、オルダス・ハックスレイの小説『恋愛対位法』の中にみられるような自由な、頽廃(退廃)に近い生活があったというのが第一次大戦後のイギリスであった。 性の解放 ラッセルの恋愛観のなかで最も大胆な主張として、後に非難も集中したのは、姦通の白由ということと、青年達の試験的結婚のすすめである。ラッセルは「解放された文明人というものは、男女ともに、本来本能的には一夫多婦または一婦多夫的なものである。」という前提から出発する。愛のような自然な欲求を束縛する貞操という考えは、男性に対しても女性に対してもばかげたものだとラッセルは考える。 「わたくしがすすめる制度では、男性は夫婦の貞操の義務から自由であることはたしかだが、しかしそのかわりに嫉妬をコントロールする義務をもつ。自制なしによい生活はできないが、しかし、愛のような寛大な、おおらかな情緒よりも、むしろ嫉妬のような拘束的な、敵対的な情熱をコントロールするほうがよい。因習的道徳は、自制をもとめることにおいてではなく、もとめるべきでないところにそれをもとめることにおいて、あやまっていた。」また、青年達にとって将来の結婚生活が、ほんとうに自分に適した相手と結ばれて、安定したものになるためには、男性にとっても女性にとっても性の経験があることがのぞましい。経済的な理由で結婚できない若い人達は契約結婚をすべきだとラッセルは考える。売春婦などによって、罪悪感の伴った性体験をするよりも、自分と対等な人格どうしの自由な性を楽しむ方がどれほどよいかわからない、と彼はいう。 ラッセルは政冶に対しても、また恋愛のような個人のモラルに関しても、主張を単に主張にとどめて、現実の生活においては中庸を守るというようなタイプではなかったから、彼は自分の生活においてもこのとおりに実行した。これまでもしばしばそこから引用しているのだが、アラン・ウッッドの優れた伝記『情熱の懐疑家−バートランド・ラッセル』(みすず書房)によって知り得る範囲で、彼の結婚や恋愛についてみることにしよう。 四人の妻 二人は結婚後、直ちにアメリカやドイツに旅行をして、ラッセルはドイツではマルクスの『資本論』とドイツ社会民主党について勉強をした。当時のラッセルはまだ非常に純情であって、後年の自由な主張に比べればずっと厳格でピューリタン的な恋愛観をもっていたという。ウェッブ夫人の日記によると、ラッセルとアリスの仲がうまくゆかなくなったのは一九〇二年の春頃かららしい。ちょうどラッセルがボーア戦争を契機として、一種の回心を経験し、「自由人の信仰」を書いた頃である。彼はその頃、既に恋愛についても、のちの自由な考えに変りつつあった。一方アリスは依然としてコチコチのピューリタンで、ウィットや毒舌でめまぐるしくしゃべりまくるラッセルとは既に調子が合わなくなっていたのである。 ラッセルとアリスの関係は冷却しつつあったが、その後十年間続いた。そしてこの十年間こそ、ラッセルが『数学原理』の研究に全力を傾けた時代で、彼の生涯のなかでも最もみのりの多い年月であった。アリスとの安定した家庭生活が、こういった研究のために好適な環境を与えていたことはたしかであろう。ラッセル自身このことをよく認めていたことは、彼が『西洋哲学史』のカントの章で次のように書いているのをみてもわかる。 「『大英百科辞典』は、『彼(カント)は一度も結婚しなかったために、勉学に熱心な青年時代の習慣を、老齢にいたるまで持ちつづけた』と評しているが、わたしはこの項目を書いたひとが、独身だったのか、既婚者だったのかいぶかるものである。」 第一次大戦後数年間、ラッセルは、反戦運動とボルシェヴィズム批判のために二重に孤立していたが、しかし少数の親しい友人を持たないわけではなかった。そしてこの頃ラッセルには特に親しい女友達が二人あった。若いクリフォード・アレンはラッセルと田舎に出かけているとき、二人の女性が顔を合せないように、一人が到着する前に他の一人を停車場に送って行き、汽車で送りだすという仕事を引受けなければならなかった。このうちの一人がラッセルの二番目の妻となったドーラ・ブラックであった。彼女は当時まだ若くて活発な、その頃のイギリスとしては風変りなほど先進的な女性で、ラッセルとは別にソ連に行き、ボルシェヴィズムの熱狂的な讃美者となった。ラッセルは一九二〇年ソビエト旅行から帰ってのち、ドーラを伴って支那に行き、北京大学で講義をもつ。当時北京では陳独秀、胡適らが雑誌『新青年』によって思想解放運動を推進し、前年の一九一九年には北京大学生を中心として有名な排日運動、五・四運動が起ったあとであった。この北京滞在中ラッセルは急性肺炎にかかり、一時危険な状態にまで達する。これは生涯健康で通した彼の一生の中で唯一つの大病で、日本の新聞社を通じてイギリスにラッセル死亡のニュースが伝えられた程である。ドーラはつきっきりで献身的な看護をした。そしてこの間にラッセルの初めての子供をみごもった。古い文化の伝統を維持しながら、新しいよみがえりの方向を模索している中国はラッセルに好感を与えた。それに反し帰途立ち寄った日本は彼によい感じを与えなかった。日本に滞在中、あるとき、カメラマンが二人の近くまできてフラッシュをたき写真をとった。身重のドーラは驚いてよろめき、危うく倒れそうになった。ラッセルは烈しく怒ってステッキをふりまわしてカメラマン達を追い払ったという。 帰国後ラッセルはアリスと正式に離婚し、ドーラと結婚する。一九二一年、ラッセル四十八歳である。ドーラとの結婚は十三年続くが、この間ラッセルの見解は特に自由で古い道徳に対して攻撃的であった。ラッセルは一九二二年、二三年の二回、労働党から下院選挙に立候補するがどちらも落選した。一九二四年にはドーラが代って立候補し、保守党から家の中にトマトが投げ込まれたりした。 このようにラッセルは、九十年の生涯の間に四人の女性と結婚生活を送り、その他にも何人かの女性達と恋愛関係をもった。ラッセルの恋愛観は、既に述べたように結婚外恋愛の承認や青年達の試験結婚の奨励等、はなはだ自由なものであったが、しかし単なる肉体万能の恋愛観ではなく、愛情の意義を正しく認めた恋愛観である。 「愛には、たんなる性交の欲求をはるかにこえた、なにものかをふくんでいる。それは人生の大部分をつうじて、たいていの男女が苦しむ、孤独というものからぬけだす、おもな手段である。・・・。自然は人間を孤独にたえられるようにはつくらなかった・・・。さらに文明人は、愛の媒介なしに性的本能をじゅうぶんに満足させることができないようになっている。」結婚と子供 第二次大戦後に、多くの資料を駆使して、女性の束縛された条件を歴史的に、また現実のヨーロッパ社会の中に探ったボーボワールの『第二の性』は有名である。女性の立場から書かれたこの『第二の性』に対して、ラッセルの『結婚論』や、フランス社会党首で人民戦線内閣の首相であったレオン・ブルムの『結婚論』等、男性知織人の側からの恋愛論は、人間の一夫多婦的傾向を前提として、それに対する合理的な恋愛のルールを提案するが、一般にそれらは現実の重みをあまり考えない楽観主義の傾向が強い。ブルムの『結婚論』は一九〇七年初版が出て、ラッセルも読んで賛成していたが、一九三七年、人民戦線内閣首班中に再販され、百万部に近い売れ行きを示した。このため保守的な中産階級や農民層の間で、社会党の支持が大きく減少したといわれるものである。 ともかくラッセルやブルムの男性の側からの恋愛論が理想主義的なのに対して、女性の側からするボーボワールの議論の方が現実の条件の困難さを正しくみつめているといえよう。しかし一方ボーボワールが、女性が母という名のもとに社会によって振り当てられる従属的な役割の、マイナス面を強調するのに対して、男性の側からの結婚観であるラッセルの立場は、結婚の子供を育てる役割を非常に重視するという点に特徴がある。ラッセルは、「結婚のほんとうの目的は、牲交にあるのではなく、むしろ子供をうむことである。だから、子供をつくれる見込みがたつまでは、結婚(松下注:法制度としての)は不完全なものとみなさなければならない。」とまで極限する。 彼は結婚外恋愛や、若い人達の試験結婚を認めるが、そこでは子供は作るべきではないと考える。そういう彼の観点からすれば、ラッセルと結婚している間に、ドーラが別に愛人をつくるのは自由であるが、子供をつくったのはルール違反であったということになる。 幼児教育の重要性 このような子供に対する配慮はラッセルの結婚観をソビエト国家の結婚観と近いものにしている。事実ラッセルは、ソ連の独裁政治を烈しく嫌い、ヒトラーのナチスと並べて「前門の虎、後門の狼」などと当時述べているが、ソビエト政府のとった離婚制度、売春や私生児に対する処置には全面的に讃辞を惜しまなかった。 よい夫婦関係が子供の成長の上に必要であることは精神分析学によっても明らかにされているが、ラッセルは更に子供の存在が両親にとって必要であることを強調する。 「こんにちにおいては、他のいかなる理由よりも、家族は両親に親としての感情を提供しているという点で、重要性をもっている。男女にかぎらず、とにかく、親としての感情は、なにものにもましてつよい影響力を行為のうえに及ぼすものである。」ラッセルは、子供を育てるという仕事が父親の手からだんだん国家の手に移されてゆくことを自然の勢いとして認めるが、しかしそれは男性にとって非常に大きな損失であると考える。 ラッセルが主張するような、性についての大らかな考えを人々が持つようになるためには、幼年時代の教育が重要である。子供の時に性に関することがらを不潔であると思わせたり、かくしたりすることが、大人になってから罪悪感なしに性について考えることができないようにしてしまうのだと彼は考える。 ラッセルが幼年時代の教育を重視する、より大きなもう一つの理由は、既に述べたように戦争をなくすためには子供の教育から変えてゆくことが必要だという彼の考えにあった。第一次大戦に際して、イギリス国民の熱狂的なショーヴィニズムに直面したラッセルは、このことを痛感した。よい教育によってのみ全世界に平和を好む民主的な政治をゆきわたらせることが可能となるだろう。反戦的で民主的な考え方と正しい性教育、この二つのためにラッセルは幼児教育の実験学校を始めるのである。 (その10) 「ビーコン・ヒル・スクール」 実験教育 ラッセルはフロイトの精神分析学には随分馬鹿げた部分もあるとして、全面的にはあまりよく言わないが、その基本的な考え方はうけいれて、彼の教育観や恋愛観に採用した。 彼の学佼にあずけられた四歳の女の子のことを父親にしらせる手紙で、彼は子供が便所に行くのを嫌がるので、説得によって自信をつけさせて便秘を治したことを報告し、それから子供が何事につけても積極的になったと、フロイト理論を援用して述べている。 ビーコン・ヒル・スクールの運営上、ラッセルとドーラが最も困ったのは、適当な保母がなかなかみつからないことであった。彼女達は大ていの場合、古い教育方針をよいものだと思っていたし、そうでない場合でも性や排泄について普通より進んだ考えをもっているわけではなかった。あるときドーラは訪問客に、今一人の保母を解雇したばかりだ、と語った。その理由は彼女が「便器をみんなのみている前で使ってはいけません」といって子供たちに'WCコンプレックス'をうえつけたからだという。 不成功に終った児童教育 子供達は木のシゲミに火をつけること(火事の危険がある)以外は大ていのことは放任された。食堂の天井は子供達がプディングの投げっこをして、それがくっついた跡でよごれていた。手がまわらないので家の中は何となく黒ずんできたなかった。ビーコン・ヒル・スクールの財政ははじめから赤字だったが、その上兄のラッセル伯(フランク)が、何回も離婚し、最後には重婚の罪で投獄されるなど、訴訟事件がたえず、また事業の失敗もあり、破産に瀕していたので、ビーコン・ヒル・スクールの家具もやがて取りはらって持って行ってしまう。ラッセルの兄フランクも個性のある人物だったらしく、スペイン生れの哲学者サンタヤナの回想記では、一章がフランクのために割かれているというが、このような失敗のために、一九三一年、彼は失意のうちに死に、ラッセルは第三代ラッセル伯を継承することになる。ラッセルは原稿書きや講演で馬車馬的に働いて学校の費用をつくったが追いつかなかった。この時代はラッセルの文筆活動が最も盛んであった時代である。それは社会が全体として比較的平穏な時代であり、ラッセルも落着いて著作に専念できたということもあるが、学校経営のための必要もまた彼を著作にかりたてたようだ。 このいそがしい生活は、一九三五年、ドーラと離婚するまで約八年間続く。そしてラッセルは離婚と共に学校経営から手を引くが、ドーラはその後第二次世界大戦まで学校を続けるのである。 ビーコン・ヒル・スクールは、新しい性教育という噂で評判にあり、多数の参観者を集めたが、結局のところ失敗であった。それは結果として、公立学校に入れないような問題児を集めることになったからだといわれる。この新しい試みは、ラッセルの初め意図したような成果は生まれなかった。しかし、この事業は、彼が単に書斎の哲学者として物を考えていなかったということを示す意味でも重要である。実験学校は、ラッセルにとって、社会や政治の問題と直結していた。彼は、この試みに、彼の哲学や論理学の研究、社会的活動等と全く同等の情熱をそそいだのである。 (その11) 「アメリカにおけるラッセル」 ラッセル事件 ラッセルは、一九四〇年秋に、ハーバード大学でウィリアム・ジェームズ記念講演をやるように招かれていた。ハーバード大学にはかつての共同研究者のホワイトヘッドが哲学教授をしていた。しかしその前に、二月から六月までの契約でニューヨーク市立大学の哲学科教授に招聘された。ラツセルはこれを承諾して、カリフォルニア大学をやめることにしたが、この任命が発表されると、ニューヨーク教会関係から、この任命に反対する猛烈な運動が起った。これがいわゆる'バートランド・ラッセル事件'である。その発端になったのはマニングというプロテスタントの牧師の新聞への投書で、彼はニューヨークのあらゆる新聞に、ラッセルは宗教と道徳に対する挑戦者であり、特に姦通の弁護者である。そういう人間をニューヨーク市は市立大学の哲学科教授にすることはできない。」という投書をした。この主張はカトリック、プロテスタントを共に含んだすべての宗教界の支持を得、保守系の新聞がこれに同調して、ラッセルを任命した大学当局とニューヨーク市高等教育委員会を非難し始めた。これに対してアメリカの哲学関係の学会、大学教授連盟やシドニー・フックを委員長とする文化白由委員会等は、ラッセルを弁護し、ホワイトヘッド、デューイ、アインシュタイン等も、ラッセルの任命を支持する談話を発表した。 ニューヨーク市高等教育委員会は、十一対七でラッセルの任命を支持する結果を出したが、反対派は更に一歯科医の妻の名で、ニューヨーク州最高裁判所に、猥褻な本の著者ラッセルの任命はニューヨーク市民への侮辱(ぶじょく)であるとして、高等教育委員会を訴えるという戦法に出、この結果、最高裁判所は三月三十日、ラッセルを任命した高等教育委員会の決定を撤回せよという判決を下し、反対派の勝利となった。この事件は、第二次大戦中の米国における保守的層の進歩派に対する一つのキャンペィンであったともみられるが、ともかく、かくしてラッセルは、彼が『結婚論』の中で非難したアメリカ社会のブロテスタント的道徳主義からの復讐を身をもって受けることになったわけである。 篤志家の出現 ハーバード大学では、しかしホワイトヘッドを初めとして、教授連は輿論に動揺しなかった。ラッセルは無事、ウィリアム・ジェームズ記念講演を終えたが、しかしこの講演が終ると、ニューヨーク州における事件がたたって、全米国の大学はどこも彼に地位を提供しようとするところがなく、ラッセルは全く失業してしまった。第二次大戦の勃発以来、戦時の統制のために英国からの印税の送金は制限されていたので、彼は齢七十にして、妻子をかかえ路頭に迷うことになった。 四面楚歌のラッセルを招いて一時彼を救ったバーンズ博士という人は、相当な変り者であったといわれているが、彼がラッセルに哲学史(の講義)を依頼したおかげで、私達はいまラッセルの『西洋哲学史』を持つことができる。パトリシア夫人はこの講義のために、いろいろな哲学者の完全な全集を探してアメリカ各地を旅行して廻り大変な努力をした。 『西洋哲学史』の生彩 『西洋哲学史』は、ラッセル的なウィットに満ちた描写で面白く読ませる、個性的・独創的な哲学史である。ギリシア時代の前ソクラテス期の哲学者達や、中世の神学者達の論理学に対する貢献など、ラッセルらしい眼で評価されている。古代中世に対するラッセルの博学は全く驚くべきであるが、それに比べて、私達に身近な近世が手うすに思われるのはバーンズ財団を突然解雇されたためであろうか。 ラッセルの哲学史の一つの特徴は従来の哲学史では扱われなかった浪漫派の詩人や文学者達、ルソーやバイロンのために各一章が割かれている点である。またマルクス、ショペンハワー、ニーチェ等にも各一章が割かれている。そしてラッセルはこれらの(マルクスを除いて)感性的思想家に非常に否定的なのであるが、それにも拘らず、『西洋哲学史』の面白さは、一つにはこのような場違いな哲人達を数多く登場させているということにもあるように思われる。 危険な才能 ラッセルは第一次大戦中、同じ反戦思想に導かれて D.H.ロレンスと親しくなった。しばらくの間ラッセルは、ロレンスの天才的な風貌に敬服して、彼をケインズなど、ブルームズベリー・グループのメンバーに紹介したりしたが、ロレンスはこれらの紳士達と全くうちとけようとはしなかった。そしてやがてラッセルとロレンスとの間も、互いの気質の相違が明らかになり、こわれることになる。これは二十世紀のボルテール、ラッセルと二十世紀のルソー、ロレンスとの訣別であったといってもよいだろう。「私は民主主義の確固たる信者だったが、彼は政治家たちが気づく前に、ファシズムの全哲学を展開していた。・・・。もっとも当時はこの考えが直接アウシュヴィッツに導くことは知らなかったが」と晩年のラッセルはいっている。 第二次大戦中のラッセルは、大戦をひき起したナチズムの狂気に直面して、特に感性的思想の危険性を痛感していたようだ。『西洋哲学史』におけるラッセルは、あらゆる反抗の情熱に皮肉に反対しているように見えることさえある。 「わたしとしては、ルソーに派生する情緒的な非論理性よりも、本体論的証明や宇宙論的証明、その他の旧套的な諸論理の方を好んでいる。少なくとも昔の議論は'正直'であって、もしそれが妥当なものであれば論点は証明されたわけで、たとえ妥当ではないとしても、その非妥当性を証明することはどの批判者にも自由にできたのである。しかし新しい心情の神学は、議論というものをなしにすませてしまう。・・・。もしわたしがトマス・アクィナスとルソーとのいずれかを選ばなければならないとすれば、わたしはちゅうちょすることなく聖徒の方を選ぶであろう。」ラッセルはもともと天才的、直観的な才能に惹かれるたちであった。そのようにして彼はバイロンやウィットゲンシュタインやロレンスに魅惑されたのだったが、それが危険な才能であることを痛感させるような方向にヨーロッパの歴史は進行していた。 一九三〇年に書かれた『幸福論』には「バイロン風の不幸」という一章があって、バイロンは不幸を誇りとしている否定的な典型としてあげられているが、そのバイロンのために彼がわざわざ『西洋哲学史』の一章を割き、それがまたこの本の魅力を増しているという理由について、ラッセルはまだ充分明快な解答を与えていないようにおもわれる。 (その12) 「非論証的推論」 この結果は、一九四八年に出版された『人間の知識』の最後の章にまとめられている。この研究はラッセルの哲学的探求心が、七十歳を過ぎてもなお衰えず盛んなことを、示しているが、そればかりではなく、これはラッセルの生涯にわたる哲学的著作の中でも、多分最も価値の多いものである。 一九二七年にラッセルは、既にしばしば言及したエッセイ、「自由人の信仰」をふりかえって次のように語っている。 「根本的には、宇宙における人間の立場(地位)についてのわたしの見解は、今も同じである。・・・。しかし、もしわたしが今日書いているのだとしたら多少の修正をしたいと思う二つの点がある。これらのうち第一は唯物論に関するものであって、第二は善悪の概念の範囲に関するものである。ラッセルの哲学に関する著作やエッセイは数えあげられない程厖大な数であるし、その主張も長い生涯のうちに少しずつ変化している。今彼のたどってきた道を大ざっぱに概観すれば次のようになるであろう。 数学と論理学は、当時まだ、ラッセルにとって、最も普遍的な'真理'を追求する学問なのであった。しかしその後、先ずウィットゲンシュタインが論理学はトートロジー(同義語反復)から成ると主張し、その後、今では大部分の数学者や論理学者が認めているように、数学や論理学のような演繹的論理はすべてトートロジーであるということが明らかになって、ラッセルもこれを認めないわけにはゆかなくなった。また倫理学においてはムーアの立揚を支持していたラッセルはサンタヤナの批判により、倫理的価値は結局各個人の好みにほかならず、どちらかが正しいという絶対的な規準はないという考え方(情緒説)に変った(『宗教と科学』一九三五年)。しかし独裁を嫌い、自由と平和のために闘ってきたラッセルにとって、倫理的価値の相対説には心情において満足できないものがあるはずである。こういう点について、ほんとうに説得力のある解答は、晩年の『倫理と政治における人間社会』(一九五四年/邦訳書名は『ヒューマン・ソサエティ』)でも得られていないように思われる。ウッドのラッセル伝には次のようなエピソードが書かれている。あるとき、ラッセルは一人の友人に善も悪も客観的な妥当性をもたないという自分の説を説明していた。それから間もなく、ラッセルの嫌いなある人物のことが話題になり、ラッセルが「あいつは悪党だ!」と確信にみちたはげしい語調で断言したので、その友人は笑い出してしまったというのである。(松下注:ラッセルは「客観的・論理的」に正しいと言っているわけではないので、ラッセルの価値情緒説と矛盾するわけではない。) ともかくこうして、ラッセルにとってイデアの世界はなくなり、物質と精神の世界だけか残ることになる。そして次に第一次大戦後に出版された『精神の分析』(一九二一年)で、ラッセルはデカルト的物心平行論から物質と精神とは結局は一つものから構成されるという中性一元論に移るのである。そしてこの考えは基本的には、その後ずっと変っていない。 「私自身の信ずるところでは、心的なものと物質的なものとの区別は両者の内的性格に存するのではなくて、両者についての知識をわれわれが得る仕方に存するのである。」これは主観でも客観でもない、主客未分の感覚経験から出発するマッハの実証主義と基本的には立場を等しくする。ラッセルは古い経験論者がよりどころにしてきた「感覚」ではなくて、ホワイトヘッドのいう「出来事」を中心にすえるとか、その他新しい物理学の進歩をとりいれて、考察を進めているが、基本的にはそれは古い実証主義の書きかえといえよう。しかし精神には、そのように感覚から構成される要素以外に、信念・欲望・記憶等のはたらきがある。ラッセルは行動心理学の方法を借りてこれらを説明しようとしたが、これは彼自身も後に認めているように、成功したとはいえなかった。 さて、数学や論理学のように演繹的な推論がすべてトートロジーにすぎないとすれば、内容のある知識は経験による知識以外にはないことになる。ロック以来、経験主義哲学はそう主張してきたのだが、これにはヒュームによる哲学史上有名な反論が提出されている。これに対してカントはカテゴリーと呼ばれる普遍概念を導入して、それによって科学的知識の正当性を確立しようとした。これが『純粋理性批判』である。しかしカントが導入した十二のカテゴリーは、ちょうどニュートン物理学の自然観を真理として認めるにつごうのよいようなものであったから、量子力学や相対性理論によって、古典物理学が近似的にしか成り立たないということが分っている現在では、彼の基礎づけが適当でなかったことは既に明らかである。ラッセルは『西洋哲学史』においてこの事清を次のように書いている。 「ヒュームは、因果関係という概念に対する批判によって、カントをその独断的なまどろみから眼覚めさせた−−と少なくともカントが述懐しているのだが、その覚醒は一時的なものにすぎなかったのであり、間もなく彼は催眠剤を発明して再び眠りにつくことができたのである。」現在に至るまで多くの哲学者がヒュームの提出した問題に答えようといろいろな努力をして来た。ラッセルと比較的近い立場におる哲学者、J.S.ミルやホワイトヘッド等もそれぞれこの問題にとりくんでいるが、ラッセルはこれらに満足していない。そして筆者の見るところでは、ラッセルはカント以来もっとも正しく、ヒュームの提出した問題の意味を受けとめ、そして彼の持つ論理的分析力の全力を駆使して、これに答えるべく「非論証的推論」の研究をすすめたと言える。しかし、残念ながらそれは結果としては、カントの先験的総合判断を現代風に書きかえることで終ったのであった。『人間の知識』においてラッセルは、認識において帰納法は従来考えられて来たほど重要な役割を果してはいないと言う。「科学的推論は、論証不可能な、論理外の諸原理を必要とするが、帰納法はそういう原理のひとつではない。」 そしてそのような原理をラッセルは五つ列挙するが、これらはたとえば時間空間(時空)の連続性とか、因果の線の要請とかいったもので、これは結局カントのカテゴリーを現代物理学に調和し得るように、やわらげたものだといってよいであろう。彼自身の言葉をかりるならば、ラッセルはカントのに代る新しい眠り薬を現代人向きに処方してみせたに過ぎなかったわけである。従ってアラン・ウッドが発端だけ書いて死んでしまった『ラッセルの哲学その発展についての一研究」において、初期の「実念論」から『人間の知識』に至るラッセル哲学の変遷を「カントからカントヘ」と要約したのは必ずしも不当ではない。またラッセルとは異なる確率論の基礎づけの上に、帰納法の問題にたちむかったハンス・ライヘンバッハが、 「数学から先天的総合的なものを駆除することに、あのような多大な貢献をされたバートランド・ラッセルが、確率及び帰納理論においては、明らかに先夫的なものの擁護者となられたことは、極めて残念なことと言うべきである。」(『科学哲学の形成』みすず書房)と述べているのも正当であるといえよう。 七十歳を越えたラッセルの認識論に対する考察は、結論はあまりかんばしくないが、ヒューム以来の歴史的懸案に正面から答えようとした重要な仕事であった。筆者自身はライヘンバッハの解答が最も正しいと考えているが、勿論問題はすべて解決されているわけではない。ラッセルやライヘンバッハの仕事を足がかりにして、同じ問題が更に追究されるべきであろう。そしてこのことは本来唯物論哲学によってなされなければならない仕事なのである。ラッセルの非難するように、現代の唯物論であるマルクス主義哲学は、唯物論をドグマとして定立してしまって、その妥当性の根拠を問うことをしない。ラッセルやライヘンバッハは自分を経験論者だと思っていたし、事実そうなのであるが、しかし彼等の追究していた科学的認識の基礎づけは、実は唯物論者の追究すべき問題、唯物論の基礎づけにほかならないといってもよいものなのである。 (その13) 「第二次大戦後の平和運動」 今日の時点で アインシュタインは四月十一日、声明文の署名をすませて、二日後に再起不能になったのだった。その後ラッセルは更に、フランスのジョリオ・キュリー、アメリカのポーリング、日本の湯川、ポーランドのインフェルト等、九人の科学者の署名を得て、この声明を発表した。彼のこのときの講演はロンドンのカクストン・ホールで二百人の記者を前にして行なわれ、テレビでも中継された。この訴えはその後ポーリング等によって行なわれた科学者の署名運動などのさきがけをなすものであった。ラッセル声明(ラッセル=アインシュタイン声明)に署名した科学者を中心として一九五七年、カナダのパグウォッシュで戦争防止のための科学者会議が開かれた。これが第一回パグウォッシュ会議である。 しかしその現れ方には屈折があった。それは第一次大戦と第二次大戦、また現在私達の直面している世界核戦争の危機がそれぞれの特徴を持ち、性格を異にしているからである。そしてそれらの相違に対処するのにラッセルは必ずしもいつも見透しがよかったとはいえない。これが現在でもラッセルは首尾一貫していないといって非難されるもとになっている。 ラッセルはもともといかなる戦争もいけないと考える絶対平和主義者ではない。 この点においてラッセルは他の人々よりも先見の明があったとはいえなかった。むしろ第一次大戦時からの平和に対する信念は慣性となって、他の人々よりも考えを変えるのに時間がかかったのであった。そしてそのことに気づいてのちこんどは逆の慣性によって、戦後のラッセルはダレス流の力の政策を支持することになる。 第二次大戦はともかくも連合国側の勝利に終ったが、戦争の被害の大きさや、残虐行為の事実などは、独裁政権の危険性をますます深く、ラッセルに印象づけた。ナチスのような独裁的権力に対しては理性的な話し合いは不可能だと痛感したラッセルは、スターリンの共産主義に対しても同じ危険を感じるのである。第二次大戦の直後、戦争中最も大きなドイツ軍の被害を受け、また最もよく闘ったソ連に対して、イギリスの民衆は一般に好意的であった。しかしもともと共産主義に対して批判的であったラッセルは、更にスターリンの独裁制がそのままソ連占領下の東欧諸国に輸入されてゆくのをみて、独裁者スターリンに対しても、独裁者ヒトラーに対すると同じく話し合いは無駄であって、力の政策によらなければならないという信念を強くした。 戦後、ラッセルがヨーロッパの各地を講演して廻った戦後再建案は、基本的にはこのような立場に立っていたから、左翼からは予防戦争の提唱者として非難された。一方、第一次大戦中ラッセルにアメリカ行きの旅券の発行を拒否した英国外務省は、こんどはラッセルにヨーロッパ各地での講演を依頼したのである。ノルウェーで飛行機事故に会い、七十六歳のラッセルが数分間(真冬の)北海の海を泳いで救助されたというのは、この頃の話である。一九五〇年、朝鮮戦争の勃発の際もラッセルはこのような見地からしかうけとめることができず、スターリンは信頼できないという思いをますます強くした。 ラッセルが力の政策を捨ててはっきりと中立平和政策を提唱するのは、既に述べたBBC放送の頃からである。それは阿よりも水爆の出現によって次の戦争の破滅的な性格が大きくなってきたというこによっている。そして多分スターリンの死によって、ソ連社会が民主化へ向う見透しがひらけてきたことも、ラッセルの心の中に無意識に影響を与えていたのであろう。ともかくこの頃から、「第三次大戦以上」の惨禍としてはクレムリンの世界制覇が考えられるだけである。」という意見から、「世界戦争よりはクレムリンの世界制覇の方がまだよい。」というふうにラッセルの意見は変り、力の政策の主張は中立国による米ソの調停という考えに変化した。(終) |