本と映画と政治の批評
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ヘラヘラ笑う石川迪夫、酒光一章、斑目春樹、佐々木毅
今年も半年が過ぎ、暑苦しい夏の季節になった。夜、コンビニで飲料水を買おうとして玄関のドアを開けると、外のコンクリートの上を小さなゴキブリが這っていて、すぐにサンダルで踏みつぶした。今年初めて見る一匹だが、このところ、本当にこの昆虫の姿を見かける機会がない。そして、ここ数年、目撃するゴキブリの体が小さくなって、体長1センチほどしかないのだ。体が小さくなっただけでなく、動きがとても鈍く、逃げ足が遅いのである。体がハエほどに小さく、ヨロヨロとのろまなので、だから簡単に踏みつぶせる。そう言えば、この3年ほどハエが飛ぶのを見たことがない。少し歩くと、今度は小さな蛾がコンクリートの上に落ちて、ヨタヨタと死にかかっていた。蛾も小さい。2センチほどしかない。蛾もゴキブリも小さく孤独に生きている。と言うより、夏が始まったばかりだというのに、もう死にかかっている。生命力がない。個体量が少ない。蚊もほとんど見なくなった。そして同じく、偶に見つけても、とても弱々しく、小さく、逃げるスピードが遅い。居住する環境が清潔になっていることは結構なことだけれど、自然が周辺から消え、生きものが死に絶えているのだ。ゴキブリも、蛾も、蚊も、息絶え絶えに、か細く、か弱く、申し訳なさそうにひっそり生きていて、絶滅寸前といった姿を見せている。夏の害虫たちの今の状態が、日本の社会の姿と重なる。


昔、ゴキブリは恐怖の存在だった。大きな2本の触角を不気味に動かされると、こちらが威圧されるようで怯まされ、駆除する身に勇気を奮わせなければならなかった。中には空中を飛んで襲いかかって来るのもいて、そのときは、こちらが泡を吹いて部屋の中を逃げ回ったものだ。そういう体験を、この都会に住む子供たちや若者たちは、おそらく持っていないだろうし、今後も二度と経験することがないだろう。10年くらい前までは、この季節、夜になると近くの田圃から小さなカエルが訪れてきて、照明を求めてペタッとサッシのガラスに張り付く光景があった。それは、何十年も前の子供の頃から見ていたもので、少し目障りでもあり、身近な風物詩でもあったが、生息地の田圃が宅地に造成され、その姿も絶えて見なくなってしまった。失った後で思い返せば、緑色のアマガエルは健気で可憐な存在だった。生きものが消えてなくなっていることを、ここ数年は特に気づかされ、暗然とした気分にさせられる。周辺から自然が消え、生命力が失われていることと、日本人が生きる活力を失っていることとは、決して無関係ではないのではないかと、そう強く思わされる。人が生きる環境から自然が失われていることと、われわれの想像力が衰え、創作力が萎み、自制心や倫理感が失われていることとも、実は重大な因果関係があるのだろうと、最近はそう確信させられる。

昨夜(6/29)、NHKのBSで向田邦子の特集を放送していた。こうした番組は一服の清涼剤でありがたい。今さらながら、30年前の天才の死は惜しいと痛切に思う。今の日本に何が欠落していて、私は不満に感じているのか、いろいろあるけれど、その一つは向田邦子の文化がないことだ。向田邦子の世界を内側にストックして、それを大事にしている若い女性がいない。向田邦子にコミットし、向田邦子の思想を足場にして生きている人が少ない。環境がすっかり違う中を育ってきた若い世代に、向田邦子に共感しろと言うのは無理かもしれないが、彼女の世界に意味を感じて響き合う心がないと、それが絶対多数だという安定感がないと、日本が日本として社会が成り立たないのではないかと、そんな不安を覚えさせられる。今の若者たちにとって、向田邦子の作品はどのような評価の対象なのだろうか。それは普遍的な古典になるものだろうか。誰にも家族はあり、生い立ちと境遇がある。向田邦子が描く世界の内実は経験として持ちつつも、言葉や文化として落ち着くところがないのだろうか。もし、向田邦子が生きていたら、瀬戸内寂聴と共に、否、それ以上に、この国を支える大きな柱になっていてくれたことだろう。文化勲章を受章していただろう。時事の局面での向田邦子の発言が、人の心に届き、特に女性たちに指導的影響を与え、国の政治の堕落や劣化を歯止めする力として機能していただろう。

昨日(6/29)の記事の続きで、先週の朝日の紙面に載った佐々木毅の政治時評について考えよう。この中で、佐々木毅が共同代表を務めている「21世紀臨調」が、6/16に『現下の政治に対する緊急提言』を出し、「日本の政治はもはや先進国の政治とは呼ぶに値しない有り様になった」と嘆いているという情報が出ている。無論、こう断じたのは佐々木毅である。しかし、こうした厳しい批判を現実政治に対して与えながら、朝日の紙面での佐々木毅は悠長なもので、「政治改革」以来のペーパー的な一般論を繰り返し、政党に政権交代の学習が足りないという一点で結論を逃げている。自らの反省というところには寸毫も言及がない上に、とにかく言葉に危機感が全くない。佐々木毅の議論で印象が際立つのは、危機感のなさであり、現状を何も深刻に感じていないという問題である。このことは、対談相手の若い宇野重規も強く感じたに違いない。紙面の顔写真を見ても、佐々木毅はヘラヘラと笑っている。宇野重規の方は、多少とも政治の危機を論じようとする顔つきだ。私は、このヘラヘラ笑う官僚の顔が、この国の問題の本質だと直観する。昨夜の報ステの原発特集のシリーズで、日本原子力技術協会の最高顧問の石川迪夫が出演した。77歳。原子力村の首領。ネットではよく論じられているが、実物をテレビで見たのは初めて。発言そのものも重大な問題を含む内容だったが、何より、あのヘラヘラした面構えと物言いである。

人を小バカにしたようでもあり、何か無理にユーモアを演出しているようでもあり、不自然に、不気味に最初からヘラヘラと笑って、その独特のコードとプロトコルの上で言葉を繰り出す。正常な責任的態度で相手(カメラ)に向かって話をしない。ヘラヘラと笑い流す軽薄な波長に相手を乗せ、引き込み、その関係性の上で話を聞かせようとする。冗談を言っているのだよと言わんばかりに、そして、そんなにムキになって真剣に聞くなよとはぐらかすように。お前と俺とでは、最初から立場と身分が違うんだから、お前のような下賤の者が俺と対等に関係して、真面目な話が聞けるとでも思っているのかとでも言いたげな、そんな浮薄きわまる表情だ。原子力は国策で、国民が放射能を浴びるのは義務みたいなもんだから、大袈裟に騒ぐなよとでも言いたげな、そんな毒蛇の真意がヘラヘラした面相の奥にある。俺がお前をバカにしてやっているのだから、正直にバカにされて悔しがれよと言っているような、そういう卑劣で嗜虐的な意思の棘がある。つまり、これが官僚なのだ。現代官僚の思想と行動なのだ。すぐに連想したのは、前にNHKスペシャルで湯浅誠の特集に登場した、厚労官僚の酒光一章である。あの男もヘラヘラと笑っていた。湯浅誠の提案は、悪いが現行の法律と制度で葬らせてもらうよという官僚の本音を吐くときに、嬉しそうにヘラヘラ笑っていた顔を思い出す。この国の支配者が誰か分かったかと、そう伝えられて本懐を遂げたかのように。

ヘラヘラした笑い方が同じだ。精神構造が同じで、動機と態度が同じだから、表情と視線と声色が同じパターンになる。もう一人いる。原子力安全委員長の斑目春樹。この事故の最高責任者にもかかわらず、どうしてこれほどと思うほど、常にヘラヘラと薄笑いを浮かべて調子よく人前で口を開く。恐縮するとか、畏まって神妙にするとか、重大な過失責任に震えているという素振りを見せない。恰も自分を芸人のようにして振る舞っている。そう、この10年ほどの日本の官僚は、芸人のような態度が特徴だ。大学教授もそうである。特権身分の官僚たちは、髭をはやし、ズラでなければ長髪にして、カジュアルで、うわずった声で喋り、いつも自分が相手を笑わせる芸人の自覚で、周囲が自分に媚びへつらって愛想笑いをするように関係を仕向ける。こうした類型は、ウェーバーが歴史から探せば、いろいろな古代や中世の滅亡前の国家の貴族から事例を引っ張って来そうだが、現在の日本のそれは、狂気とか奇態といった表現を超えて、範疇として歴史を突き破った観がある。狂人である斑目春樹は、幼稚で未熟な疑似芸能人のように振る舞いながら、実際には、事故発生直後に被爆許容量を年間20ミリシーベルトに上げたり、情報を隠蔽する工作をしたりと、あの薬害エイズ事件の帝京大の阿部英を彷彿とさせるような、悪魔の仕業を素早く平然とやっている。放射能事故から政府と電力会社を守り、災禍と責任を国民に押しつける専門家の早業には驚かされる。恐るべき狂人の二重人格。これが日本の官僚だ。

「政治改革」の帰結とは、官僚天国の権力体制である。そして、当の佐々木毅も含めて、官僚たちは脳を蝕まれて病んでいる。無責任と不誠実の病が高じて、全身の細胞が犯されて、治癒しがたい異常人格になって暴走している。もう一度、山口二郎と佐々木毅に質問するが、政権交代の学習が政党に足りないのが政治の劣化の原因だと言うのなら、あと半年、あと1年、政権交代の政治を二つの政党に学習させれば、劣化に歯止めがかかり、日本の民主主義と議会政治は正常に戻ると言うのだろうか。山口二郎と佐々木毅の主張には根本的な論理矛盾がある。彼らは二人とも、今の政治を劣化だと言い、地に落ちたと言い、先進国の政治ではないと批判している。であれば、日本にも先進国の政治が実在した時代があったはずだ。堕落する前があり、劣化する前があったはずだ。それはいつだったのか。その過去の時間と空間を特定すれば、答えを科学的に出せば、自ずから堕落と劣化の原因も明確になるだろう。宇野重規は、その答えを探り当てているからこそ、「政治改革」に話題を向けるのだろう。明らかに、「政治改革」の前の時代の方が、今よりも政治に緊張感と使命感があり、弱者の救済に敏感で、国民の生活と権利にナーバスだった。有能な政治家がいたし、国民と政治家が繋がっていた。選挙の投票率も高かった。官僚はここまで強大で超越的な権力を持たず、放埒不遜な貴族階級ではなく、法案と予算を私物化することはできなかった。佐々木毅は政治の権力の弱体化を言うが、それと裏腹の関係で官僚の権力が肥大化している事実は言わない。

官僚権力の問題は批判しない。それは、自分自身が官僚貴族だからだ。この官僚天国の人間の狂気を正気に戻すのは何だろうか。狂気化し、お笑い化し、マンガ化した日本を元に戻す政治の力は何だろうか。テロリズムだろうか。クーデターだろうか。革命だろうか。戦争だろうか。



by thessalonike5 | 2011-06-30 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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