6月の「こころの相談室(喪の悲しみを癒す)」放送終了後、視聴者の皆さまから番組あてに、100通近い体験記をお寄せいただきました。きょうはその体験記をご紹介しながら、死別のつらさや悲しさをどう乗り越えていくのか、そのヒントを再びみていきます。
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体験者からのメッセージ |
■ 東京都三鷹市 高塩秀雄さん(58歳)
12年前、妻の早苗さんをがんで亡くされた高塩さん。ご夫婦共に山が好きで、将来は山小屋を建てて暮らすのが夢でした。
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職場結婚から18年。お子さんはいらっしゃらず、がんと告知されてからわずか2週間で早苗さんは亡くなりました。38歳でした。
妻をがんで突然失った当時、荒れた生活が続きました。自らの死を望むような日々でした。会社へ出勤するようになってからは、あえて企業戦士のよろいで身を固めて突き進みました。悲しさは押し殺しているうちに消えてくれるに違いないと思いながら……。
その後、母も亡くなり「独りぼっち」という感情が一気に吹き上がってしまいました。家族を失った人たちが互いの悲しみを癒す「分かち合いの会」のドアに立ったのは、さらに数年たってからでした。しかし、直前になって出席をためらい、ドアを見ながら前の路地を行ったり来たりしたのを覚えています。「男のくせに」とか「見知らぬ人の前で泣き言を言って何になる」とか、口走りながらです。
しかし、いすに座ってからは思いが口をついて流れだし、初対面の人たちの前で涙があふれてどうしようもありません。「恥ずかしい」などどこかへ吹き飛び、なんとも心地いい感じが不思議なくらいでした。
「自分だけじゃないんだ。絶望的な思いで苦しみうめいているのは……」これだけのことがどれだけ大きな支えとなったことか。
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最初の一歩は、少しエネルギーを必要とするかもしれません。決して悲しみが癒されたというのではありませんが、残された人生をもう一度組み立て直したい。明日を見つめて生きていきたいという、スタートラインに立つことができたように今思っています。
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■ 神奈川県横浜市 大野令治さん(66歳)
昨年、妻のつや子さんを亡くされた大野さん。3年まえに定年退職を迎え、これからはご夫婦2人でゴルフをしたり、絵を描いたり、「趣味の世界を広げていこう」と話していた矢先の永遠の別れでした。
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去年4月、妻を亡くしました。脳しゅようでした。妻の後を追って私も死のうと思わなかったのは、なによりも妻の死をとおして命というものの貴重さを身にしみて実感したからです。
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妻はまだ57歳でした。どんなにか生きたかったことでしょう。それを思えば、生きられる命を捨てるなどということは許されません。とはいえ、私もまだ一人では完全に生きていけないと感じております。
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生前一緒に通っていた絵の会やゴルフ教室へ行くときは、いつも妻と一緒のつもりで「つやちゃん、さあ出かけようぜ」などと声をかけるという具合です。
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これから妻のために何ができるかと考えたとき、どこにいても声が聞こえて存在感があった――そんな妻の姿を残してやりたいと思いホームページを作り始めました。つやちゃんは今、インターネットを通じて変わらない笑顔で私を支えてくれています。
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奥さまを亡くされた男性二人の体験記でした。
男性の場合は、「悲しい」という気持ちを表に出しにくいところがあると思います。しかし、今回のシリーズでは、そうした気持ちを一人で抱えこまず、表現をすることが大切だとお伝えしました。そのためには、書いたり、話しをしたりすることが、そのきっかけになります。
最初にご紹介した高塩さんは、死別の悲しみを語り合う「分かち合いの会」への参加が支えになったということでした。
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また、大野さんは、「どうして自分が奥さんの病気に早く気づいてあげられなかったのか」と、自分を責めるとともに、ホームページでつや子さんのことを人に紹介しいく中で、少しずつ癒やされていくのではないかと、今考えていらっしゃるそうです。
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■ 兵庫県川西市 森明子さん(65歳)
今年、ご主人の茂俊さんをがんで亡くされた森さん。アパレル会社を経営し、仕事一筋のご主人でしたが、一線を退いたあとは、お2人でよく旅行に出かけられていたそうです。
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「今度はニュージーランドに行こう」と話していたお2人。ご主人の入院中に38回目の結婚記念日を迎えられました。 |
夫がすい臓がんで逝ってから100日が経ちました。雑事が終わったころ、どんと落ち込み、睡眠がとれず、どうしようもない喪失感がのしかかり、悲しみを募らせました。
闘病中、夫が危篤状態からなんとか意識を取り戻したとき、私が「独りぽっちにしないで」と言うと、夫は「そのために頑張っているんやないか」と応えました。
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私が心ないことを言ったことで夫の苦しみを長引かせたのではないかと、今でも胸が痛む思いです。
そんな私を支えてくれたのが、夫を看病していたときに私が付けていた克明な日記でした。ともすれば、自分に対する責めと後悔で立ち直れなくなりそうな私を救ってくれました。
会話もままならなくなった夫が急に意識がクリアになり、私に何度も「ありがとう」と、言ってくれたことも記してありました。思ってもみなかった最後の言葉でした。
そうした日記を読むと、忘れていた当時の私たちの日常がはっきりと思いだされます。こんなにも自分はせいいっぱいやった。そして、夫は感謝をしてくれていたと、また生きる力がよみがえってきました。今は、少しずつ夫の死を受け入れようと努力しています。
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もともと日記や手紙を書くことがすきだった森さん。今回ほど、「書くことが好きでよかった」と実感したことはないそうです。
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克明な2人の会話の記録を読み返すことで、「してあげられなかったこと」も思い出すかもしれませんが、「あれもしてあげた」「こうして感謝してくれた」と、確認することができ、それが癒しにつながるのかもしれません。
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■ 埼玉県上尾市 木村ナヲコさん(69歳)
去年、夫の義明さん(当時81歳)をがんで亡くしたナヲコさん。一回り年上のご主人は大変やさしく、ナヲコさんは尊敬していらしたそうです。
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カメラや釣りなど、たくさんの趣味をお持ちの2人。いつも一緒に楽しんでおられました。
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去年末に夫を肺がんで亡くしました。今も共に歩いた道、共に見たもの、その都度思いだすと身が刻まれていくほど悲しいです。でも生きていかなければいけないと自分を励ましております。
幸いに私には書道の趣味があり、亡くなったあとにちょうど書道の昇段試験をむかえました。私には難しいので自信はありませんでしたが、悲しみを乗り越えるために集中し、泣き泣き2カ月ぐらい練習をしました。
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試験が落ちても受かってもどちらでもよくて、ただ乗り越えるために夢中でした。合格できたときはうれしくて、夫が後押しをしてくれたと思いました。
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また一方で、夫の姉が、自分も夫を亡くした身なので私の気持ちを受け止めてくれ「あなたは弟を本当によく看病してくれた。弟は幸せ者だ」と言ってくれたことが私には大きな力になりました。
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まだまだ悲しくて急に泣いたりすることもありますが、好きな書道や友達、子どもの家族に支えられてこれからも過ごしていきたいと思います。
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ゲストのご紹介 |
大泉道子さん
5年前に肺がんのため亡くなった、俳優・大泉滉さんの奥様です。
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■ 夫と交わした最後の会話
――ご主人が元気だったころのお2人の写真を見ますと、道子さん、おやせになりました?
主人の余命を告げられてから、どうしていいかわからなくて、ごはんが食べられなくなりました。
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主人も「家で」と言っていましたし、最期は家で一生懸命あの人の看病をさせてもらいました。夜も寝ているのか、起きているのかわからない、そんな状況で、こんなにスリムになってしまいました。
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――ご主人が亡くなったことに関して、何が一番つらかったですか?
主人は最期、息を引き取る前に夢を見ていたようなんです。ぱっと目を開けて、にこっと笑って、「僕ね、今ね、旅に出ておいしいものを食べていたんだ」と。
でも苦しんでほしくなかったから、「あ、そう。じゃあ旅の続きみたら」と言ったんです。そうしたら、「うん」と言って目をつむって……またぱっと目を開けて「見られなかった」と。「あ、そう。じゃあ違う夢、見たら」と私が言ったら、「うん、そうする」と言ったんですよ。
にこっと笑って目をつむって……それで終わりです。あまりにもあっけなかった。もっといっぱい、いろんな話をしたかったです。
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――そのときに、「眠ったら」と言ってしまったことが悔やまれるのですか。
そうです。何であのとき「どこに行ってたの」「誰と」「何を食べていたの」と聞かなかったのかと、いまだにそれが私の苦しみです。後悔。
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今、道子さんがどのように気持ちを整理しようとしているのか。ご自宅におじゃまをしまして見せていただきました。
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■ 腕時計
道子さんは、毎朝滉さんの遺影に手を合わせたあと、滉さんが病室で亡くなる間際まではめていた愛用の腕時計が動いているかどうかを必ず確かめます。
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![仏前の花に手を伸ばす道子さん](/contents/061/313/704.mime4) ![ご主人の形見の時計](/contents/061/313/705.mime4)
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電池を年に1回取り替えて、せめて時計ぐらいは生きていてほしい……。(道子さん)
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■ ノート
滉さんを失った悲しみを癒すため、道子さんはあることを始めました。 滉さんが使っていた大学ノート。その残りのページに、道子さんの身の回りで起きた日々の出来事を、天国の滉さんに話しかけるようにつづっています。そして書き終ると必ずのりで封をします。
これは道子さんにとって、滉さんへのラブレター。誰にも見せず、また自分も読み返すことはせず、滉さんへの思いをノートにとじ込めます。
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これは、あくまでも私が主人に書いている手紙ですから、誰の目にも触れさせたくない。私も1回出したものですから、2度と見ないように、のりをはるんです。
「そっちのほうはどうですか」「誰に会いましたか?」「何を食べましたか?」「どこに行きましたか?」、最初にそういうことを書いています。
書いて正解です。もやもやしているものが、書くことで救われますよ。(道子さん)
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■ 家庭菜園
自宅の庭には滉さんがつくった小さな家庭菜園があります。ここは道子さにとって一番の癒しの場所。トマト、キュウリ、インゲン、滉さんが精根込めて育てていた野菜を、滉さんと同じやり方で育てています。滉さんが亡くなってから5年、今年の夏も滉さんが大好きだった甘いトマトが実りました。
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天国の夫に思いを綴る |
――あのノートには、具体的にどのようなことを、どのような形で書いていらっしゃるのですか。
最初のころは、何で、あなたが旅に行ったことについて聞かなかったのか、そういう後悔のことを書きました。そしてだんだんと「孫ができました」とか。
書き出しは「元気ですか」と書いています。そして、「そちらのほうはいかがですか」「誰に会いましたか」「今日は何していますか」と。
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いろいろ悔しいこと、悲しいこと、全部書きます。だから、お話ですね。それで、最後は「おやすみなさい。また明日」
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――「また明日」。そのお言葉、いいですね。でも、どうして封をされるのですか。
これはラブレターですから、私も二度と見ることはございません。2人だけの秘密です。
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夫が愛した家庭菜園 |
――野菜がたくさんみのっていらっしゃった家庭菜園。どうしてあそこが癒しの場になるのですか。
私、虫が大嫌いなもので、主人がやっていたときはずいぶんけんかをしました。でも、主人はこうしていつも座っていたんです。やはり癒しの場所だったのでしょうね。
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今、私が朝起きると、パジャマのまま同じことをやっています。何かあるとそこに座って……やはり、これが主人と私の場所なんです。主人と話しをしながら野菜を育てる……。だから、あの場所は私と主人だけのもの。
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――ご主人と気持ちのつながりを感じることのできる、場所やものに囲まれているのですね。
そうですね、幸せです
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体験者からのメッセージ |
■ 神奈川県相模原市 西田敦子さん
娘の空未ちゃんを亡くされた西田さん。「空未」という名前は、大空のように心を解き放して自分らしく生きていってほしいという願いをこめてつけたそうです。その名前のとおり、おおらかなお子さんだったそうです。
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2年半前、結婚9年目でようやく生まれた一人娘を9歳で亡くしました。公園の箱ぶらんこで遊んでいて転落し、その日息を引き取りました。
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娘が元気なころ、私は仕事に夢中で、娘の気持ちを理解しようと思う余裕もありませんでした。母親としての私は失敗だらけ、間違いだらけで後悔の自責の念に苦しみ続けました。
「私も死にたい」泣いて眠れない日々が半年続きました。娘の友達やそのお母さんたち、いろいろな多くの人が励ましてくれました。そんな中でカウンセリング講座を受けたことも大きな支えとなりました。
私は講師の方の「人生すべてむだなことはない、失敗や間違いはあっていい」という言葉を聞いた途端、涙があふれ出ました。
だめだと思っていた私を受け入れてくれたのです。そして、苦しみや悲しみもむだではない。人生に意味を持っているのだと思えてくるようになりました。 |
今では見えないけれど、娘の存在を感じ、娘の愛に支えられながら力強く生きています。
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お父さまの西田修也さんからも体験記をいただいています。
修也さんは、敦子さんが度々口にする、「空未はいつも自分たちのそばにいてくれて私たちを見守ってくれている」という言葉に対して、「ふ〜ん、そんなものかな」程度にしか感じていなかったそうです。
ところがある日、二人でよく遊んだ原っぱで行われた紙飛行機大会で、空未ちゃんが好きだったキャラクターを紙飛行機に描いて飛ばしたところ、見事入賞。
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そのとき、「空未はいつも自分たちのそばにいて力を貸していてくれるんだ」ということを実感されたそうです。
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■ 千葉県君津市の小川伊津子さん(28歳)
結婚1年目の初めてのお産の途中で赤ちゃんの心臓の音が止まり、パニック状態の中、自然分娩で出産しました。生まれたお子さんは女の子だったそうです。
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3年前、初めての妊娠で死産を経験しました。お腹の赤ちゃんのSOSのサインに気づいてあげられるのは、私しかいなかったのにと自分を責めました。周りは「早く忘れてまた頑張れば」と言ってくれましたが、早く忘れてと言われても娘への想いは募るばかり。誰にも話せない雰囲気で精神的に不安定になりました。
そんなとき、同じ体験をした人たちのホームページに出会いました。家族ではタブーになっている戸籍にも載らない子どもの話をできたこと。ほかの経験者さんの心の中では、一人の人間として覚えていてもらえることがうれしくて「娘のところへ行きたい」と思っていた私に生きるエネルギーを与えてくれました。
哀しい気持ちに変わりはないけれど、悲しみの形を変えて天国の娘の存在を大切に想っていけるようにもなりました。
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そんな中、また妊娠18週という短い期間で息子を天国に送ることになってしまいました。しかし、パソコンの電源を入れればみんながいる。そのことが私を支えてくれました。
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その後、私も自分のホームページに、亡くなった二人の赤ちゃんのことを載せました。同じ経験をした人が一人じゃないと感じ、気持ちを吐き出せる場所になれたらと思っています。
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最初は同じ体験をされた方のホームページを見て、大変励まされた小川さん。今はご自身がほかの方をホームページで励ますということをしていらっしゃいます。
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――お子さんを亡くされた二人のお母さんの体験記でしたが、大泉さんはどのようにお聞きになりました?
それをプラスに持っていく。皆さん、えらいですよ。感心します。
――皆さん、つながりをつくってらっしゃいますね。
それは絶対に必要です。何も、閉じこもることはないです。
――大泉さんは、今後、どのように過ごしていこうとお考えですか?
主人が病床で、「君には涙は似合わない、いつも笑顔で笑って皆さんに喜んでもらいなさい」と言ったので、これを守りながら。
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おかげさまで、私も新しいお友達もたくさん増えましたので、あとは主人と一緒に畑をやりながら、楽しく、一日一日を大事に過ごしていきたいと思います。
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――ご主人とのつながりを感じるものに囲まれて、楽しんでいらっしゃるようにみえるのが印象的でした。
そうですか。私もそれはとても幸せだと思います。畑にしても、時計にしても、ノート、手紙にしましても……。やはりあの人がすべてなんですかね。24時間頭にあります。
――天国へのご主人へのラブレターは……。
もちろん続けます!
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