自らの使命を自覚した人は強く、使命に生きる人は美しい。
『新・人間革命』旭日の章
*******
その人を信頼できるかどうか。
十人十色の判断基準があると思う。
僕は、その人がぎりぎりのところで、「自分のため」を選ぶのか、「友のため」を選ぶのかを考える。
その人が好きかどうか。
基準なんかなくていい。
僕は、その人が、「使命に生きているかどうか」、または「使命に生きようとしているかどうか」で好きになる。
使命に生きている人はカッコいい。
使命に生きている人はまぶしい。
使命に生きている人は楽しい。
だから、好きになってしまう。
創価高校、創価大学、創価大学法科大学院、学生部等を通じて、そんな人たちとたくさん出会うことができた。
使命に生きる人には、まわりに強い影響を与えずにはおかないパワーがある。
そのパワーのお陰で、今の僕がある。
池田先生に感謝。
諸先輩方、同期・後輩のみんなに感謝。
ただし、影響には良い影響も悪い影響もある。
使命に生き抜くといっても、信じる対象が誤っていれば、悪い影響を撒き散らし、自身も崩れていく。
提婆達多にも、やはり使命があったと思う。宿命ともいえる。
ごく簡単に言えば、釈尊の弟子でありながら敵対し、釈尊の正しさを浮かび上がらせるという役割を演じたようにも見える。
彼は師との敵対に邁進した。だからこそ始め、彼に付いてゆく弟子もいたのかもしれない。
もっとも、「困難は、逃げれば宿命に終わる。攻めれば使命に変わる」との御指導通り、結果として、彼は宿命に埋もれていった。
ひるがえって、ネット上に目を向けてみると、「これ、わが使命なり」と息巻いて、池田先生を批判し、学会を攻撃し、破和合僧の大罪を犯し尽くす人間がいる。
彼らはどこで道を違えてしまったのかと考える。
僕がそうなるかもしれないからだ。
一つ、浮かび上がってきた御指導は、『法華経の智慧』に書かれた、「日興上人と五老僧の違い」だった。
根本の一念が、「師の教え通りに、縁する人すべてを励まし、共に幸福になってゆくんだ!」となっていれば、善知識となって人間革命の波動を広げていける。
根本の一念が、「法華経を上手く使って、人を惑わし不幸にしてもいいから、自分の人生を楽しく生きるんだ!」となると、悪知識となって破和合僧を侵食させる。
「人の身の五尺六尺のたましひも一尺の面にあらはれ一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候」
(御書1402㌻)
そもそも、生命が宿る顔も目も見えないネット上では、字面からその人の一念を見抜くのは困難。
言葉遣い、論理、そして何より目的、これらを総合して、「使命に生きる人」なのか、「宿命に泣く人」なのかを峻厳に見抜いていかなければ、知らず知らずのうちに生命が蝕まれていく。
「一の暴論には、十の正論で言い返せ」
言い返すといっても、何も相手の土俵でやることだけに限られない。
そもそも広宣流布の前進は、現実の生活のなかにしかない。
「宿命に泣く人」に取り入る魔が、最も嫌がるのは、ネット上で反論されることではなく、僕らが着実に学会活動に励み、人間革命の輪を広げゆくことだと確信する。
最後に、はっきり言いますが、魔の目的は、信心に、学会活動に動執生疑を起こさせて、池田先生との師弟の絆を断ち切り、幸せになるのを一人でも多く妨げることにある。
絶対に惑わされない。
池田先生の御指導を徹して学んでみればいい。
疑問があれば、なんでも所属する組織の幹部に指導を受けることができる。
一人に指導を受けて、納得できなければ、もっと上に指導を仰げばいい。
学会本部の本部相談室(創価旭日会館)に行くのもいい。
そんなこんなで、僕は、みなさんと一緒に、「広宣流布の使命」に生き抜きたい。
日興上人と五老僧
http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1553167.html
『新・人間革命』旭日の章
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その人を信頼できるかどうか。
十人十色の判断基準があると思う。
僕は、その人がぎりぎりのところで、「自分のため」を選ぶのか、「友のため」を選ぶのかを考える。
その人が好きかどうか。
基準なんかなくていい。
僕は、その人が、「使命に生きているかどうか」、または「使命に生きようとしているかどうか」で好きになる。
使命に生きている人はカッコいい。
使命に生きている人はまぶしい。
使命に生きている人は楽しい。
だから、好きになってしまう。
創価高校、創価大学、創価大学法科大学院、学生部等を通じて、そんな人たちとたくさん出会うことができた。
使命に生きる人には、まわりに強い影響を与えずにはおかないパワーがある。
そのパワーのお陰で、今の僕がある。
池田先生に感謝。
諸先輩方、同期・後輩のみんなに感謝。
ただし、影響には良い影響も悪い影響もある。
使命に生き抜くといっても、信じる対象が誤っていれば、悪い影響を撒き散らし、自身も崩れていく。
提婆達多にも、やはり使命があったと思う。宿命ともいえる。
ごく簡単に言えば、釈尊の弟子でありながら敵対し、釈尊の正しさを浮かび上がらせるという役割を演じたようにも見える。
彼は師との敵対に邁進した。だからこそ始め、彼に付いてゆく弟子もいたのかもしれない。
もっとも、「困難は、逃げれば宿命に終わる。攻めれば使命に変わる」との御指導通り、結果として、彼は宿命に埋もれていった。
ひるがえって、ネット上に目を向けてみると、「これ、わが使命なり」と息巻いて、池田先生を批判し、学会を攻撃し、破和合僧の大罪を犯し尽くす人間がいる。
彼らはどこで道を違えてしまったのかと考える。
僕がそうなるかもしれないからだ。
一つ、浮かび上がってきた御指導は、『法華経の智慧』に書かれた、「日興上人と五老僧の違い」だった。
根本の一念が、「師の教え通りに、縁する人すべてを励まし、共に幸福になってゆくんだ!」となっていれば、善知識となって人間革命の波動を広げていける。
根本の一念が、「法華経を上手く使って、人を惑わし不幸にしてもいいから、自分の人生を楽しく生きるんだ!」となると、悪知識となって破和合僧を侵食させる。
「人の身の五尺六尺のたましひも一尺の面にあらはれ一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候」
(御書1402㌻)
そもそも、生命が宿る顔も目も見えないネット上では、字面からその人の一念を見抜くのは困難。
言葉遣い、論理、そして何より目的、これらを総合して、「使命に生きる人」なのか、「宿命に泣く人」なのかを峻厳に見抜いていかなければ、知らず知らずのうちに生命が蝕まれていく。
「一の暴論には、十の正論で言い返せ」
言い返すといっても、何も相手の土俵でやることだけに限られない。
そもそも広宣流布の前進は、現実の生活のなかにしかない。
「宿命に泣く人」に取り入る魔が、最も嫌がるのは、ネット上で反論されることではなく、僕らが着実に学会活動に励み、人間革命の輪を広げゆくことだと確信する。
最後に、はっきり言いますが、魔の目的は、信心に、学会活動に動執生疑を起こさせて、池田先生との師弟の絆を断ち切り、幸せになるのを一人でも多く妨げることにある。
絶対に惑わされない。
池田先生の御指導を徹して学んでみればいい。
疑問があれば、なんでも所属する組織の幹部に指導を受けることができる。
一人に指導を受けて、納得できなければ、もっと上に指導を仰げばいい。
学会本部の本部相談室(創価旭日会館)に行くのもいい。
そんなこんなで、僕は、みなさんと一緒に、「広宣流布の使命」に生き抜きたい。
日興上人と五老僧
http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1553167.html
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言葉遣い、論理、そして何より目的、これらを総合して、「使命に生きる人」なのか、「宿命に泣く人」なのかを峻厳に見抜いていかなければ、知らず知らずのうちに生命が蝕まれていく。
大河さんのおっしゃるとおりですね。
でも「ネット」でなくてもリアルにおいて「他人の一念」が解るようになるには「更に話し込む」か「任せてみる」以外にはないと思います。
要するにコミュニケーション力ですね(笑)
これがないとネットでも現場でも苦労します。
私の経験でお話させてもらえば
「宿命に泣く」人ほどものすごい人材に化けます。
本当に腹が減っていたら好き嫌いなんて言っていられませんよね。
本気で宿命に立ち向かう「勇気」があるかないかの「差」だと思います。