こんにちは。「ピントフリーズ」の話題で
30分以上場をもたせることが出来るかのーです。
イベントの終了後はデスクワークに偏りがちで、書類から
目を上げた瞬間のピントの合わなさ加減に人生の無常を覚えます。
さて、現在編集中の社史「京阪百年のあゆみ」
の中で私が担当しているのは京阪電車の歴史の序盤、
創業前後からのおよそ20年間を重点的に見ております。
古文書や古記録に目を通したり、
ボスや課長と議論するうちに知ったのは、
当時の社章の形が現在のものと微妙に違うことです。
運転士、車掌が着用する制服の襟章や
車体にも採用されている社章の、現在のデザインです。
そしてこちらが、
京阪電車の第1回(明治39年上半期)営業報告書で確認できる社章です。
どこが違うか、お分かりになりましたか?
現在と昔の社章の比較では、中央の円と、6方向に伸びる
澪標(みおつくし)の軸部分が、他の線に比べて太く描かれているのです。
これについて、
京阪電車は京都と大阪を結ぶ電車なので、
大阪市章にもなっている澪標を6つ組み合わせて
京都市の「京」の字を描き、これを輪の内に収めて鉄輪を表した、
というのが公式見解(※)なのですが、実は重要な説明がすっぽり抜けています。
※社史「京阪七十年のあゆみ」所載の公式見解
※「HANDBOOK KEIHAN 2010」所載の公式見解
営業報告書の社章をもう一度見ていただくと、
「京」の字の点にあたる部分(頂点と左右下の3か所)が
ふっくらしたアーモンドのような形になっているのが分かります。
これには至極もっともな理由があり、
明治24年に制定された京都市の徽章(現在は略章)が
制定当初の当社社章デザインに取り込まれているからです。
※京都市の徽章(略章)
(提供:京都市)
営業報告書の社章は
時代を追うにつれて少しづつ変化しており、
第3回(明治40年下半期)では
長方形とアーモンド形の配置が入れ替わり、
(理由は分かりませんが、第4回で元に戻っています)
第5回(明治41年下半期)では線の太さが均一化し、
アーモンド形だった澪標の軸の先が錐状になり、
第7回(明治42年下半期)では
中央の円が小さくなり、すべての澪標の軸が長方形に揃えられ、
あわせて太くすることで、「京」の字がはっきり見えるようになりました。
昨年7月から9月まで運行した
「京阪ミュージアムトレイン」で、7月のご来場記念
スタンプとして復刻した社章のデザインは、これとほぼ同じです。
第9回(明治43年下半期)では
中央の円がさらに小さくなり、以降
しばらくの間はこのデザインで安定していたのですが、
第26回(大正8年上半期)に至って
すべての線が細く均一化され、中央に浮かんでいた
「京」の字が、澪標の軸と完全に同化してしまいました。
以降、阪神急行電鉄との
合併・分離新発足を経た現在まで、
線の太さが均一になった社章が使われています。
社章について冒頭で申し上げたような説明がないのは
ここまでの社章の変遷のなかで、京都市の徽章が入っていたことが
読み取れなくなり、いつの間にか忘れられてしまったからだと思われます。
・・・今回は京阪にまつわる豆知識を
お送りしましたが、次回以降は手探り状態です(汗)