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[8616] 魔獣星記ギルま!(獣星記ギルステイン×魔法先生ネギま!)【第二部開始】
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2011/06/28 23:00
この作品は表題にもあるように、獣星記ギルステインと魔法先生ネギま!のクロスです。

ただし、(ニュアンスとしては正しいのか分かりませんけど)ギルステイン in ネギま! ではなく、ネギま! in ギルステインです。
原作ネギま!のような明るい雰囲気を求められている方はご注意を。

あとギルステインを読んだことの無い人も読めるように書いていくつもりです。

因みに、【ネタ】表記されてる本編ダイジェス……ト?はまあ、話半分に捉えてくださると有り難し。


※更新履歴

2011/06/28 第二部四ノ章、投稿。
2011/03/07 第二部三ノ章、投稿。
2010/09/29 第二部二ノ章、投稿。
2010/08/03 第二部一ノ章、投稿。第二部序ノ章、表記及び文章修正
2010/04/15 第二部序ノ章、投稿。第一部序ノ章及び間ノ章、修正。
2010/04/02 終ノ章、投稿。
2010/03/31 四ノ章後編、投稿。
2010/03/24 四ノ章前編、投稿。
2009/11/15 間ノ章、第二部のプロット変更に伴い本当に最後の方をほんの少し修正。三ノ章中編、および後編、投稿。
2009/11/05 三ノ章前編、投稿。
2009/11/04 二ノ章前編、及び後編(下)の人名修正(リリ→リン)
2009/10/12 二ノ章後編(下)、投稿。
2009/10/11 二ノ章後編(上)、投稿。表記に、第一部[PUPAL]を追加。
2009/09/24 二ノ章中編、投稿。
2009/09/23 二ノ章前編、修正。一ノ章中編、誤字修正。
2009/09/04 二ノ章前編、投稿。間ノ章、修正。
2009/08/21 間ノ章、投稿。序~一ノ章後編、修正。
2009/08/03 誤字修正。
2009/08/01 一章後編投稿。一章前編、人名修正(今関の名前を修正しました。原作を読み返していたら、名前がありまして。以後、気を付けます)。
2009/07/29 一章中編投稿。一章前編、修正。
2009/07/19 一章前編投稿。序章、微修正。その他版へ移動。



[8616] 第一部[PUPAL] 序ノ章[Girl=Queen]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/04/15 20:48



 我々が“彼女”を見つけたのは、押し只管に偶然だった。

 真実、其処に我々の意思は無く、我々の意図は無い筈である。

 少なくとも“彼女”を真っ先に見つけた彼等は、その存在を予期してはいなかったようだった。

 為らば、この偶然は正しくこの世界が我々に齎してくれたものと言えるのかもしれない。

 だが、この発見が我々にとって幸運だったのか、或いは不運だったのか。

 それは我々には、少なくとも私には定める事は出来ないだろう。

 “彼女”に魅入られるしかなかった私には、それはとても畏れ多い事だと思えるからだ。

 そして、“彼女”が我々に何を齎してくれるのか(或いは既にくれたかも知れないが)。

 それを知るには先ず知らねばならぬ事が我々には無数にあるだろうと思う。

 また、その過程で得られる事もまた数多いのではないかと、そんな予感めいた事すら私は感じる。

 しかし“彼女”が齎してくれたそれが善きものであるのか、悪しきものであるのか。

 それは分からない。私に分かるのは、ただただ“彼女”が途轍もない可能性に満ちているのではないか、という程度だ。

 ただ確かな事は、それは我々次第でもあるという事である。

 “彼女”が我々に齎してくれたものを善き事に用いる事が出来るか否か、悪しき事に用いてしまうか否かはきっと我々の意思一つであると思えるのだ。

 世に現れた技術の悉くがそうであるように。

 為らば、“彼女”が齎してくれたものを我々はきっと善き事に用いる事が出来ると、私は信ずる処である。

 例え、その過程で我々が過ちを犯し困難にぶつかるのだとしても、最後にはきっと正しき事を成せるだろうと信じるものである。

 しかし。

 ただ………ただ一つ、私には気に掛かる事があった。

 それは私が初めて“彼女”へのお目通りが叶った日に出会った一人の男――否、悪魔が残した言葉である。

 『ギルステイン』、そして『ギルステイエンヌ・クイーン』――それが指す意味とは一体、何なのだろうか。

 ギルステインとは一体、何を指し、どのような意味を持つのか。

 少なくとも私はその言葉を初めて聞いた。

 念の為、幾つかの言語に当たりを付け調べてもみたが、それに該当する語句は今の所、見付かっていない。

 そして、ギルステイエンヌ・クイーンとは“彼女”の何を指しているのか……。

 私には、“彼女”は只、可憐な少女にしか見えない。

 だというのに、あの悪魔を以ってして畏怖と共に呟かれたその名を持つ“彼女”は何者なのか。

 私自身、不謹慎だとは思うが……“彼女”への興味は此処に書き記している今でも増すばかりである。


                                         『カドケウスウィルス第一発見者、宇田島 圭介の最初期の手記より抜粋』









◇ 魔獣星記ギルま! 序ノ章 [Girl=Queen] ◇









 ――1985年、北極。


 其処は凍てつく風が吹き荒ぶ白銀の世界、生命が在る事を容易には許さない極寒の地。

「うわ~、これはすごい………」

 しかし、過酷な筈のそんな地でその素っ頓狂な声は聞こえてきたのだった。ただし、大地にも見紛う分厚い氷に空けられた空間の中で、ではあったが。

 その声は余韻の如く、氷の中を響いていく。

 そんな場違いな声を発したのは宇田島 圭介という名の日本人の青年だった。
 アメリカのある大学で準教授として勤めていた所を召喚され、無視する事も出来ず何事かと戦々恐々と出向いたのが運の尽きだったのか、誘拐とも言える様な強引さで此処まで連れて来られたのだ。

 乗り込むとは夢にも思わなかった潜水艦という、何とも特別な移動手段で。

 此処までの道中、自分は何をしたのかとか何かしてしまったのかとか自分は今後どうなるのかとか等々、妄想にも似た恐怖がグルグルと青年の頭の中を回っていた。
 その待遇は潜水艦の中という事を考慮すれば決して悪くは無い扱いではあったのだが、それに気付くだけの余裕は生憎と青年には無かった。

 更には、生涯無いだろうと思っていた深海である。

 未知への不安がその余裕の無さに更に拍車を掛けていた。思考がネガティブな方向に固定化されたのも致し方ない、かもしれない。
 しかし、いざ目的地とやらに着いて潜水艦から表に出てみれば、その視界に入ったのは氷の洞穴、人の手にて刳り貫かれ削られた場所だったのだ。

 先程まで胸中を占めていた不安の反動か、青年のその感嘆は一入だった。


 ――自身が此処で何を見る事になるのかなど、今の彼が知る由も無く。


「まさかパラマウントのセットか何かじゃないでしょうね!?」
「まさか。北極海に張り出した永久氷床をくり貫いて造った秘密基地です。どうぞ、基地司令がお待ちです」

 それこそまさか、と思わなくも無かったが青年は防寒具を着込んだ黒人の兵士に促され、潜水艦の上から氷の地面へと続くタラップを降りていく。

「こんな所でしかし、ぼくみたいな生物学者になんの用があるんですか?」
「当然、調べてもらいたいものがあるから来てもらったのだ」

 そんな宇田島のぼやきにも似た言葉に答えたのは、低く野太い男の声だった。
 黒人の兵士が、声の主へと敬礼を行なう。
 青年がそちらへと目を向ければ、くすんだ金髪を軍艦頭に刈り上げ、ムスタッシュを蓄えた壮年の白人が立っていた。

 青年はその堂々とした佇まいから、この人物がこの基地の司令だろうかと当たりを付ける。
 しかしこんな時、如何すれば良いのか。敬礼でも返せば良いのか、それとも他に何か相応しい応答があるのか。
 けれど分からず時間切れ。結局返せたのは返事としても、語句としても半端に過ぎる語一つ。

「は、はあ……」
「論文は読ませてもらった。君は古生物の分子構造解析では第一人者なんだそうだな。ウダジマ博士」

 しかし、司令のその賞賛に青年はうろたえてしまう。
 それは日本人らしい謙遜か、それとも軍人がそんな事を言い出したが故の虞[おそれ]か。

「いや、あれは半分趣味みたいなものでして、可能性を論じただけの……」

 青年はそれを誤魔化すように、身振り手振りを加えた大げさな仕草で話し始めるも、

「早速見てもらおう。この奥だ」
「……………………」

 司令にとって、青年のそんな言い訳は聞く意味や価値は無かったらしい。
 本人の心構えなどはどうでも良く、使えればそれで良いという事か。最後まで言わせず聞かず、司令は踵を返した。
 青年はその横柄な態度に一瞬固まり表情を引き攣らせるも、軍人らしいというべきなのか、てきぱきとした動作で歩いて行く司令の後ろに付いて歩き出した。
 相手は軍人、此処は秘密基地、ならば大人しく従っておこうという、半ば諦めの境地で。

「うう~、さむ……」

 防寒具に身を包んでも尚、感じる寒さを和らげようと身体を丸ませながら青年は歩いて行く。
 今後見る事があるかどうかは分からない、その氷の空間を見渡しながら。

 そして辿り着いたのは、視界一面に広がる、空間を仕切るように氷の天井から吊るされたシートの前だった。

「ライトを点けてやれ」
「Yes,Sir!」

 司令に続いて青年もシートを潜[くぐ]る。

「わ!?」

 瞬間、サーチライトの強烈な発光で視界の全てが覆われた。
 青年は腕で顔に影を作りながら、その光の先に一体何があるのかと目を眇め見て。


 ――そして、出会う。

 生物学者として己が抱えていた概念を根本から崩す、その存在と――


「あ………ああ……!」

 強烈なライトの光に照らされた物、それは美しい一人の“少女”だった。その“少女”を見て、しかし青年はただただ驚愕した。
 思考が追いつかず、声はまともな言葉にならなかった。己が何を言いたかったのか、それすら青年には分からなかった。

 ――その眼差しの先にあるのは、宙に浮かび、その真白く美しい裸身を晒す唯一人の“少女”。

 思春期に入ったばかりなのか、その身体には無駄な肉は付いておらず、けれど余計な筋肉もないようだった。
 トウヘッドの髪は空中に舞い上がった形で微動だにせず、閉じられた瞼も胸を覆うように交差された腕も、緩やかに伸ばされた胴も足もまた小揺るぎもしない。

 それは何とも幻想的で美しい“少女”だった。

 “彼女”を見たその瞬間、視線を釘付けにされた青年は直感した。ネス湖のネッシーやヒマラヤのイエティのような作り物などでは決してないと。
 いや、こんなにも美しい“彼女”が作り物であって欲しくなかった、という方が正しいかもしれない。

 青年はまるで誘われるかのようにふらふらと近付いていき、それを肩に置かれた司令の手で止められた。

「1,000mもの厚さに達する永久氷床の底の底、直ぐそこにあるように見えるだろうが、これでも30ヤード(約27メートル)は氷を残してある。
 マイナス50度の氷だ、素手で触るんじゃないぞ」

 しかし、青年はその手を振り払うかのように、勢い良く司令へと振り向いた。

「な……何なんですか司令! これは!?」
「……我々も北極にこんなものが眠っているとは思ってもいなかったよ………」

 司令はまるで苦虫を潰したかのような表情で苦々しく零すと、眼前に浮かんでいる少女へと目を向けた。

「まるで宙に浮かんでいるように見えるのは、気泡や不純物のないほとんど完全な単結晶の氷になっていて透明度が高いからだろう。
 ……これを見つけた海兵どもはもう“サラ”と名付けて喜んでおる。困ったものだ」

 それは当然だろうと、青年――宇田島 圭介には思えてならなかった。
 逆にこの奇跡のような、否、正[まさ]しく奇跡の少女を見て、冷静さを失わないこの基地司令こそ、青年の目には奇妙に映った。

 司令は青年のその思いを知ってか知らずか、こんな極寒の地の底で眠る不気味な少女に心奪われたように見える青年へと視線を向ける。
 何よりも己の任務と愛国心に、司令は忠実だった。
 眼前の青年が内心で何を思っていようと抱えていようと、兎に角使えれば良いのだと内心で割り切り、言葉を紡いだ。

「そこで君の使命だが、これが“Made in USSR[ソビエト社会主義共和国連邦製]”でないことを証明してみせろ! すべてはまずそれからだ」

 その言葉は青年の耳朶に、然も託宣のようにも響いていくのだった――









「止めておき給え、人間[ヒューマン]」









 しかしだ。その時、声が響いた。

 それは、アメリカ英語とはまた異なるクイーンズ・イングリッシュ──嘗て上流階級に於いて使われていた古い発音の英語である。

 その声が冷や水となったのか、青年ははっと我に返った。そして慌てて振り返れば、丁度シートと己の間に一人の男が佇んでいるのが見えた。
 その男を見て、青年が先ず思った事は寒くはないのだろうかという、やや間の抜けた事だった。
 男が身に着けているのはハードハットに裾の破けたトレンチコート、レザージャケットにニッカーボッカーズ。
 足にはロングブーツを履き、そして身に着けているそのどれもが黒い。そして、それだけだった。マイナス30度以下の低温に満たされたこの厚氷の空間の中にいながら、防寒具といった類の装備を男は一切身に付けていなかった。
 しかし、寒さに耐えているという素振りがある訳でもなく、彼は余りに自然体で立っていた。
 そして帽子の鍔から覗くその顔は少しばかり皺が刻まれていたが思いの外精悍で、二房に分けられた肩口に届くほどの長さの白髪や、顎や髭に蓄えられ丁寧に整えられた髭は彼の品性に華を添えるようだった。
 洒落者、とでも言えば良いのか、その佇まいは何処か洗練されているように青年には思えたのだ。

 しかしだからこそ──

 この極寒の地にあって、銃を携えた兵士が跋扈するこの氷の洞窟の中にあって、その初老の男は酷く不釣合いで、不似合いだった。

 そもそも、どの様にして此処に来たというのか。格好からして軍の者ではないだろう。だが青年は男とは共に来た覚えが無い。
 潜水艦の中は狭い。仮に男が青年と同じ“招待”された身分であるならば、一緒くたにされて運ばれるだろうという事は容易に想像が付く。
 しかし、青年は男を知らず……それは詰まり、男は青年と違い、“ゲスト”ではないという事。

 為らば残された可能性は部外者だが、ではどの様にして此処まで辿り着いたのか。

 その手段、そして何よりもその目的が見えてこない。作り掛けの秘密基地を見つけた何処かの国の諜報員なのだとしても、態々姿を晒す理由が分からない。

 しかし、この場にいた兵士達の反応は迅速だった。青年が疑問に眉を顰ませた時には、彼等は瞬く間に動いていた。
 思考など為す前に彼等は条件反射的に正体不明のその男を囲い、アサルトライフルの銃口を向ける──牽制し、威嚇する。
 そして、その中の2人が初老の男を拘束しようと駆け寄った、

「え………?」

 その瞬間――

 ドンッ! と、まるでサンドバックを思い切り殴りつけたかのような音が青年の耳に聞こえたのだった。

 ――兵士の尽くが吹き飛ばされる。その一人が青年を掠めていく。

 けれど、彼は一歩も動けなかった。

 兵士達が吹き飛んだ時も、その一人が此方に吹き飛んできた時も、傍らを掠めていった時も――

 彼は一歩も動けなかった。

 己の危機に青年が気付けたのは、その兵士がガラスのように透明な氷の壁にぶち当たった音が聞こえたからで。
 見れば、初老の男に近寄ろうとした兵士だけでなく、彼を囲っていた兵士も尽く氷壁に叩きつけられていた。
 生きているのか死んでいるのか、彼らは微動だにとすらしない。

 その余りの光景を前に青年は不様に立ち竦み、ただ呆けるしかなかった。

「未熟」

 その言い草から眼前のこの男が何かをしたらしい。けれど、肝心のその男は一体何をしたというのか。
 そもそも男は“全く”動いていなかった筈なのに、何故、兵士達の方が吹き飛ばされなければならないのか。
 青年は理不尽なその光景に打ちのめされ、ただ只管にそう思う。

「何者だ」

 その時男に向け誰何の声を投げ掛けたのは、流れるような動作で拳銃を構えた基地司令だった。

 己の部下が刹那の内に倒されるのを見て尚、それでも彼のその声音には芯があった。
 しかし、正体不明の男は答えず、ただ嘆息を零しただけだった。

「どうやら、貴公が彼らの将のようだな……。己の部下が尽く、私に打ちのめされたと言うのに、彼らの為に何もしてやらないのかね?
 貴公のその眼差しからは私への怒りが感じられない。何とも無情な事だ。それとも、私が恐ろしくて怒る気力さえないのかね?
 嘗ての将とは勇敢であり、蛮勇を勇敢足らしめる実力を持った者だった筈なのだが……」

 ――時代も変わったものだ……。

 男は呟きながら落胆の表情を隠すように帽子を押されば、その鍔で目元を隠した。
 男からすればそれは、今を憂う純粋な嘆きだった。しかしそれが所詮、懐古でしか無い事は呟いた本人が最も理解していた。
 それに昔には昔の、今には今の楽しみが有る。だから然程、男にとってその変化は辛いものではなかった。

 しかし、それを聞いた基地司令はその眼を一層鋭くし、眼前の男を睨[ね]め付ける。
 そして再度発せられたその声はずっと硬く低く、冷ややかなものへと姿を変えていたのだった。
 司令の傍らに居た青年が瞠目する程度には、少なくとも。

「何者か、と聞いている」
「何者か……などとはまた、何とも深遠な問い掛けをするものだ……」

 けれど男はその声に臆した様子など微塵も見せず、ただ肩を竦めただけだった。

「貴公はその問い掛けにどのような答えを以って答えとするのだね。
 味方、それとも敵と答えれば満足してくれるのかね? だが、納得するまい。
 人間であるならばこそ、私の如何なる答えも先ず疑って掛かろうとするのは目に見えている事だ」

 男は指で帽子の鍔を持ち上げれば、司令の視線を見返した。

「人間の本質とは、その暴虐性でも知性でも理性でもない………何者にも向けられる不信にこそある。そうは思わないかね?」

 瞬間、場の雰囲気が豹変する。張り詰め重苦しい空気に場が満たされる。
 青年がそれを殺気と気付くには、彼の今までの人生は余りに修羅場から遠かった。
 しかし司令は理解する。理解したからこそ、青年などとは比べ物にならないほど、その殺気を如実に感じ、表情を強張らせ、刹那、身を固くする。
 恐怖に強張る指、震える腕。けれど意思でそれを捻じ伏せ、司令は危機感に引き金を引いた。

 直ぐ傍で轟いた銃声に青年は思わず、耳を塞ぎ。

 ――その銃口からマズルフラッシュが幾重も瞬いた。

 銃声が青年の聴覚を殺す。殺していた筈なのに。

「勇ましいが、愚かな判断だ。無駄だよ………」

 青年は何故か、男のそんな呟きを聞いたような気がした。

 そして発砲と同時に、男の足元から沸き上がった半透明な粘体が壁のように男と司令の間を隔て。
 弾丸の尽くはその液体の壁の半ばで止まってしまう、止められてしまった。

「なッ?!」

 それは司令と青年、どちらの驚きだったのか。それとも二人ともの驚きだったのか。
 しかしそんな余りに非現実的な光景にか発砲は止まり、男に向ける銃口も動揺に揺れていた。

 その隙に粘体が蠢く。見る見る内に形を変え、そして──

「お、女の、子……?」

 三人の女の子へと変化したのだった。
 粘体から吐き出された銃弾が、氷の床に乾いた音を立てながら落ち、コロコロと転がった。

「な……なぁ?!」

 青年はただただ呆然と呟いた。余りの事に声がまともな言葉にならない。それが現実であると理解できなかった。
 未だ残る耳鳴りの所為か、それは何処か夢の中の出来事のようだった。

 全くの無傷の男はただ何かを諦めるかのように息を吐き、

「ご苦労」
「はいデス」
「ちくちくしたゼ」
「問答無用なんて酷いデス………」

 その人知を超えた光景を見て尚、構えを崩さず問い掛けた司令は勇将であると称えられるべきか、愚将で蔑められるべきか。

「何が、目的だ」

 ただそれに敬意を表してか、男はその再度の問い掛けに、今度は素直に答えたのだった。

「なに、我が主君、最愛なる皇女殿下より直々に御下命を賜ってね。それを果たしに赴いて来ただけだよ」

 男は帽子を取ると、己の顔を露にした。そして司令と青年の緊張を解そうとでも言うかのように、温和な笑みを浮かべた。
 その時だけを取れば、男のそれは人好きするかのような好々爺然とした雰囲気だった。
 ただ先程の殺気に未だ怯える青年からすれば、その笑みは不気味以外の何物でもなかったが。

「私はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。恐れ多くも伯爵の位を頂いている。
 まあ、伯爵とは言っても今となってはしがない没落貴族だがね。しかしだからこそ、こんな私を頼ってくれた殿下の御信頼に応えたいのだよ」

 分かってくれるかね、と男は誰へともなく問い掛けた。

「……………」
「……………」

 しかしどちらも何も応えなかった事に苦笑を零すと、男は出来の悪い教え子に優しく教え諭す教師のように、ゆっくりと囁くのだった。

「私は……警告をしに来たのだ」

 その言葉に思わず、司令は眉を顰め、

「警告……だと?」

 男は然りと頷けば、司令と青年の後ろに在る物を指差した。

「……貴公らが見つけた“ソレ”。ソレは『GUILSTEIN』、『GUILSTEIENNE Queen』――君達の手には到底、負えないパンドラの箱だ。
 まだ間に合う。手を引き給え。制御しようなどとは努々[ゆめゆめ]思わぬ事だ。貴公らの身には……到底余る。
 此処にあったものを見なかったことにするか、出来れば破壊した方が良いだろう」
「………貴様はあれの何を知っている」

 しかし、ヘルマンと名乗った男は困ったように微かに笑い、

「その正体を何と答えればよいのか……そうだな……同属殺しの鬼、とでも言っておこう」
「……貴様はこれをどうするつもりだ?」
「なに、私は何もしやしないさ。皇女殿下は君達自身の選択と決断をなによりも尊重される御方でね。
 直接、私が貴公らに何かをしてやる事は止められているのだよ、少なくとも今は。
 これ以上の事を貴公らにしてやれないのは、突然押しかけた身からすると申し訳なくも思うがね」
「……貴様の言う皇女殿下とやらは何故、我々に警告を寄越した」
「殿下は地球と呼ばれるこの星が、そしてこの星に住まう者達が好きなのだよ。好きな物が蹂躙されるのは君達も嫌だろう?
 それは私も同じだ。人間全てが居なくなるのは少々、寂しくも思う。それに私達の存在意義の一つが失われてしまうのも………厄介だ」

 茶化すように、けれど真摯に男は言葉を紡いでいく。
 ただはっきり言って青年は、その男の言葉を半分も理解出来ていなかった。
 言葉の一つ一つは殆どが理解出来る。しかし、それらの言葉が意味を成して繋がらないのだ。

「…………」

 そんな青年の心情に男が気付く事などある訳も無く、朗々と男の言葉は続いていく。

「まあ、自ら試練の道を歩むと言うのなら止めはしないがね。
 それにパンドラの箱の最後に残っていたのは、希望であったとも言う。私が見た事も無い光が、君達の下へと齎されるかもしれない。
 それはそれで楽しみではある。それが君達にとって救いとなるか更なる災厄となるかは……分からないがね」

 ヘルマンは帽子を被り直し。

「さて、これで用は済んだ。帰らせてもらうよ」
「此方としては是非、君達を客分として迎えたいのだがな」
「それは勘弁願おう。これから私は皇女殿下に報告をしなければならないのでね。
 ああ……だが、私から伝えられた殿下の警告により真実味を持たせたいというのならば……証でも残していこうか」

 そう男が言い終えた瞬間。

 ――変貌。

 それはそうとしか言えない変化だった。

 瞬[まばた]きにも満たない時の中で、男は全く別の物に変わっていたのだから、青年にはそうとしか言えなかった。

 それは正しく――

「あ、悪魔……………」

 卵のようなその貌には穴のように真ん丸い二つの目、ギザギザの口。頭にはねじれた角が生え。
 そして、固く節くれ立ったその体、その腕、その脚はまるで無骨な鎧の様。
 背には蝙蝠のような翼。臀部には見た事の無い、先が鏃のように尖った細長い尻尾。
 その全てが、何故か黒ずんだ硬い石のような質感だった。

 それは正しく――異形。

 生物学者である宇田島 圭介をして、異形としか言えない姿形。
 生物の系統樹から余りにも掛け離れた、それは姿だった。

 翼が広げられ、けれど全く羽ばたかず、“悪魔”は宙に浮かび上がっている。
 三人の半透明な少女達がその足元でゆらゆらと揺れ。

 男が、否、“悪魔”が嗤う。

「そう、青年、それは正しい認識だ。私は君達が悪魔と呼ぶ者。慄きたまえ、怖れたまえ。
 それこそが本来、君達人間が私達悪魔を見た時、唯一許されたものなのだよ!!」

 瞬間、その口腔がカッと煌いた。

「うわっ?!」

 青年は思わず腕で顔を覆い。
 そして光が収まった時、悪魔の姿も、そして少女達の姿も消えて無くなっていた。

「ゆめ……だった……?」

 信じられないとばかりに青年は呟いた。
 余りに常軌を逸した出来事に白昼夢でも見ていたのかと、彼は先ず己の正気を疑った。

「な、何だこれは……?」

 しかし、司令が呆然と呟いたその声に釣られ、指令の方へと顔を振り向かせれば。

 ──青年は目を見張った。

 その皺の刻まれた手に持っていた銃は、今となっては全くの物になっていたのだ。

 ――石へと、変わっていた。

「ひ、ぃ………」

 それが青年の限界だった。ただ腰を抜かし、へなへなと氷床にへたり込む。
 司令は手に持っていた石の拳銃を見てただただ顔を顰め。そして後ろを振り返り、氷の中に浮かぶ少女を見上げ呟いた。

「これが………一体、何だと言うのだ………」

 けれど、その問いに答える者は無く、この場に満つるのは唯、静寂のみ。



 ――それはまるで彼等の行く末を暗示するかのような、余りにも不気味な静寂だった。









◇ 序ノ章 了 ◇









◆後書き◆

まだプロットが固まり切ってないのに、つい書いてしまった……。
考えても思い浮かばないなら、書いていけば固まってくるんではないかと思ったので。

※『宇田島 圭介』
この宇田島 圭介、という名前は作者の捏造です。
彼の名前で分かっているのはただ「ウダジマ」というものだけです。しかも、博士という敬称付き。
本名は無いのかと色々探し、また原作を見直してみたのですが無かった為に、勝手に付けさせて貰ったものです。
……結構、重要な人の筈なんですけど、作中で一度も本名が出てこないのはなんでですか、田巻先生……orz

※『GUILSTEIENNE』
これも作者の捏造です。ご注意を。作中に出てくるのは、ギルステイエンヌという読みのみ。
正しいかどうかは分かりませんが、もともとGUILSTEINが造語でもあるので、確かめようが無し。
一先ずこの作品の中ではこういう表記をしていこうかと思います。



[8616] 一ノ章前編[Child=Monster]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/08/21 09:52



 日本は今、ある一つのカテゴリーに収められた事件の為に、揺れ動いていた。

 それが――15歳前後少年少女達が自分の父母兄弟姉妹を皆殺すという凶行だった。

 一度や二度に留まらず、そして未だに止まる気配を見せぬそれ。

 故に今、多くの大人達は、“子供”達を憂えていた。
 子供達の未熟さを危ぶみ、将来を案じていた。

 しかし、それは本来、何の関係性も無い事件である。
 ただ単に、犯人とされる人物が同年齢の少年少女であったというだけで、その犯人とされた子供同士が友誼を交わしていた訳でもなく、何処か同じ地域に住んでいたといった接点があった訳でもない。
 そして何よりもその事件は、北は北海道から南は沖縄に至るまで、日本全国で起こっているのだから。

 では何故、それは起こり得たのか。けれど確として答えられる者は無く。

 だからこそ、大人達は少年少女の“年齢”――詰まりは、“成長段階”に繋がりを求めた。

 決して“それ”で繋がってはいないそれらに、関連を持たせた。

 偶然に必然を求め、大人は子供にその事件の原因の何もかもを押し付けた。

 ――そう、“子供”という概念にその全ての原因を大人は押し付けのだ。

 だから、多くの親達にとってそれは他人事だった。

 ――まさか、うちの子供に限って。

 決して口には出されなかったが、けれどそれは子を持つ親達の共通した思いだった。
 誰もが、思っていた事だった。

 だから、無責任に大人は“子供”を憂い嘆き。

 だから、彼らは気付かない。


 ――子供達が上げる慟哭に。


 子供達を侵す、一人だけで抗うには余りに大きすぎる『力』と『闇』に――


 彼らは、気付けない。






 ――2002年12月23日、月曜日。

 季節は冬。風は肌寒く、息は白い。もう半刻も経てば日付も変わろうかという夜の刻となれば、それも一入[ひとしお]だった。
 更に月光は空を覆い尽くす分厚い雲に遮られ、辺りは余りに暗い夜闇で満たされば尚の事だろう。
 しかも時折、光という存在を思い出したかのように、ごろごろと唸りながら稲光が天空の棚雲で瞬いている。

 何か用事でもなければ外出を躊躇うかのような時間、その曇り空の下に、けれどその二つの人影は其処に在った。

 其処は埼玉県と東京都の県境に位置し、人里からは遠く、山の方が近い場所にある廃工場。
 森の中に埋もれる建物は薄汚れ、金属が使われている箇所は赤錆び、天井には所々、穴が開いている。
 錆びたのか、中が腐ったのか、風化したのか、壁の一部が崩れている所もあった。
 20年程前、別の場所へその工場の中にあった人や物が移されて以来、人里離れた辺鄙な場所にある事が災いしてか、結局、使われぬまま、今に至る場所である。
 少なくとも廃れて長い事は、その工場の詳しい経緯など知らなくとも、容易に分かるだろう。
 その朽ちた様は確かに遠ざけもし、そして呼び寄せもする。人も、人でないものも。

 そして今。

 その半ば朽ち、後は崩れていくだけで、人の気配などない筈の工場の周囲には人の気配に溢れていた。
 周囲の森にはカーキ色の軽装甲機動車が配置され、木々が密集し車両の入り込めない場所には完全武装を施した人影が構えていた。
 人が近付かないように、そして――『ギルステイン』――そう呼称される存在、人ならざる怪物を工場の外へ決して逃がさない為に、彼ら自衛隊特務部隊は全力を上げて警戒していた。

 その怪物と先ず接敵したのは、彼ら特務部隊だった。なるべく損傷を付けずに対処せよ、というのが司令部からの命令だったが、勝算は十分にある筈だった。
 怪物の為に調合された強力な麻酔弾を以ってすれば、然程労する事もなく対処する事が出来ると、突入前の彼らはそう考えていた。
 しかし配給された虎の子の麻酔弾は全く効かず、追い込もうとした彼らが逆にその怪物に追い込まれ。
 幸い死者は出なかったが、少なくない重傷者を出しながら彼らが成せた事は怪物を廃工場から逃がさない、出さないと言った不本意な結果だけだった。
 過酷な訓練を課せられ、そしてそれを完遂してきた彼らが為せた事は死なず、そして仲間を死なせないという事だけだった。

 だからこそ。

 その中にあって今、工場の入口から建物まで続く物資の搬入と搬出を兼ねた大きな空き地を通り歩いて行く、その人影は異様だった。
 怪物の潜む廃工場に全く臆する事無く、たった二人で近付いていっているのだから。
 そして何よりも片や無手、片や直刀という現代戦からは考えられないその装備。

 空で雷が鳴った。光り、そしてその二つの影を長く照らし出す。

 けれどその歩みを止める者は無く、二つの影は淡々と怪物が身を潜めている工場へと歩を進めていくのだった。




 影の一方、この暗闇の中でもサングラスを付け、鬚を蓄えたスーツ姿の壮年の男性、神多羅木 重蔵[かたらぎ じゅうぞう]は煙草を燻らせながら、その先に在る工場の入口を見据えていた。

「周囲は封鎖済み、戦闘を遠慮する必要は無いそうだ。まあ、こんな山奥だ、誰かに見られる事は無いだろう」

 もう一方、スカートスーツに身を包み、何処かキャリアウーマン然とした女性、葛葉 刀子[くずのは とうこ]は手に持った鞘の感触を確かめるように、握り直し。

「此処でしたら多少壊れても老朽化による崩落、という事に出来そうですね。ギルステインによる被害は?」
「今、周りに居る連中については死人は出ていない。たださっきの突入の際、真新しい血痕等を見つけたそうだ。
 誰の物かは特定出来ていないが、十中八九、自警団とやらの物だろうな」

 しかし、神多羅木がそう答えた途端、葛葉は不快に眉を顰めた。

「自警団……また彼らですか……」

 呟かれたその言葉は激昂したものではなかったが、大きな嫌悪感がその声には含まれているのが分かる。

「まあ……こっちが言っておいて何だが、まだそう決まった訳じゃない。そう腹を立てるな」
「それはそうですが……しかしでなければ、ここでギルステインが発生する理由が私には分かりません」

 その頑なな言葉に困ったかのように、神多羅木は煙草の煙を吐き出し。
 そして女の気を落ち着かせようと、話題を変えた。

「そう言えば先約があったんだろう? 大丈夫だったか?」

 最近、女の方が新たに交際を始めた事を知っていた男は案ずるように問い掛ける。
 その言葉に女は何を思い出してか、嬉しそうに僅かに笑みを零したのだった。

「いえ、彼には納得して頂いていますから問題ありません」
「……そうか」

 葛葉 刀子という女性にとって、それもまた、これとは異なる闘いなのだろう。
 先程、その目に湛えられていた嫌悪の色は瞬く間に消え去り、何処か爛々と輝いているようだった。
 それを見て神多羅木はふむ、と息を吐き出し。

 そんな風にして、彼らは歩いていった。

 これから人外の怪物、尋常の獣でなき獣と闘うかも知れないというのに、余りに彼らは自然だった。
 程好い緊張を保っている、とでも言えば良いのか。
 ともすれば、周りを囲む自衛隊員の方が余計な緊張を抱え込んでいるかも知れない。
 戦争を放棄した日本にあって、国防を司っている彼らの方が。

 しかし、そんな事に二人が気を向ける事はなく。

「この先か?」

 神多羅木のその問い掛けに女はすっと目を細め。

「ええ……います」
「気を付けろ、葛葉」
「問題ありません。どちらかと言うなら、彼らとは相性が良いように思えますから」

 そして彼女は一旦、口を噤むも、躊躇いながら、けれど確信を持って言葉を続けた。

「それこそ……私たち、神鳴流の剣はまるで彼らの為に設えたと……思えるほどに」
「ほう」

 その言葉に神多羅木はサングラスの奥に隠れた目を細めながら感嘆の息を零した。
 そうして廃工場の巨大な鉄扉に辿り着くと、神多羅木は口に銜えていた煙草を懐から取り出した携帯用吸殻入れに入れた。
 けれど中には入らず半ば開けられたその錆だらけの鉄扉の隙間に、二人は立ち並ぶ。

 瞬間、鼻を突く異臭。二人は思わず眉を顰め、その耳に何かの音が聞こえて来た。
 グシャグシャ、ピチャピチャとそれは聞くに堪えない咀嚼音。
 生々しい血肉をその牙と歯で以って引き裂き磨り潰し、そして零れ出る血を飲み干す、それは音だった。

 束の間、雷光がその内を照らし出す。思いの外近いのか、雷鳴はその直ぐ後に聞こえて来た。

 そして稲光に照らされた床が、赤い液体でキラキラと光り輝き。

 けれど、その光はすぐさま暗闇が埋め尽くされる。

 故に二人のその視界には、ただ暗闇の中で動く巨大な何かの全容が垣間見える事も無く、輪郭が映るだけだった。
 しかし、その動きが唐突に、ぴくりと止まる。身動ぎ、二人へと頭を向けた。

 だから二人が感じたのは――

 ――敵意、害意、殺意を綯い交ぜ織り交ぜた、恐ろしく悍ましい眼差しだった。

 その眼差しから感じた感情に迷うように一瞬の沈黙の後、それでも葛葉 刀子は口を開いた。
 その紅のさされた口から発せられたのは微かな、在り得るかもしれない希望を信じた言葉だった。

「私の言葉が、分かりますか?」 
「………ィィイイィィ…………………」

 微かに聞こえて来たのは、ガラスの擦過音にも似て異様に甲高い唸り声。

「私は葛葉 刀子と申します。隣にいるのは神多羅木 重蔵。
 良ければ、あなたのお名前を教えてはくれませんか?」

 そう、葛葉は闇に呑まれた眼前の怪物に問い掛けたのだ。まるで人と話すかのように。
 或いは彼女のその声音は、何か善からぬ物に怯え泣き喚く幼子を宥め賺[すか]そうとするかのように優しかった。

「このような所にいて、怖かったでしょう? ですけれど、私達が来たからにはもう大丈夫ですよ」

 神多羅木はそれに何も言わず、ただ先を見据え。彼が何も言わなかったのは、こういう時は女性の声の方が良いだろう、と考えての事だった。
 しかし、男のその淡い期待に反し、その闇に慣れた視界の中で暗闇に在って尚、黒い巨大な影が一気に高くなった。
 その影の動きから、立ち上がったらしいと神多羅木は察し。しかし、そうなると先程までは座り込んでいたという事になる。
 それでも、影は十分な高さを、日本人男性として長身な神多羅木並にはあったのだ。それだけで相手の巨大さが分かろうというものだった。

「葛葉……」
「もう少しだけ、お願いします」

 葛葉も神多羅木も強烈な殺気に、条件反射的に戦闘態勢を取ろうとする己の身体を己の意思によって抑え込んでいた。
 此処で殺気や下手な反応を見せようものなら、次の瞬間には仕合いが始まろう事は明白なのだから。
 しかし本来ならば、説得などという段階は疾うに過ぎているのだろう。少なくとも、特務部隊はそんな選択肢など端から除外していた。
 それでも、二人は微かな、在り得るかも知れないし、在り得ないかもしれない希望を信じ、壊れかけた鉄扉の入口に立ち続けた。

 ――『ギルステイン』と呼称される異形の存在が、此方の言葉に応じてくれるという可能性を信じて、立ち続けるのだった。

 葛葉は言葉を掛け続け、男は何も言わず、ただそれに付き合い。

「……どうか安心してください。私達は敵ではありません、あなたの味方です。どうか落ち着いて――」
「キィィイヤアアアアアアアアアアアアアア゛アアアアアアアアアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ッ」

 しかし、女の言葉はその半ばで、文字通り耳を劈く獣の咆哮に掻き消された。
 空気が振るえる。廃工場の壁が、天井ががたがたと振るわせられるほどのそれは音量、衝撃だった。
 男はやはり無理だったかと舌打ち、そして女は望みが叶わなかった事に悲しそうに一瞬、目を伏せ。

 ――けれど次の瞬間には、二人の雰囲気は戦士のそれへと変わる。

「往きます」

 葛葉は余りにも静かに呟き。
 彼女は歩を進めながら、手に持った太刀を鞘より抜き放つ。

「ギィイッ!!」

 その二人へ向け、巨大な影が飛び掛かり強襲した。
 巨腕が振るわれ、長く太く鋭い爪が備わった掌が二人を切り裂き押し潰さんと迫り来る。
 しかし、神多羅木は一跳びで常人で考えられないほど大きく跳び退り、易々とそれを避け。
 一方、葛葉は敢えて懐に飛び込み、一瞬の内に背後へと回り込んだ。やはりそれも、尋常ならざる速度。

「はっ!」

 葛葉は手に持った太刀を逆袈裟に降り抜く。しかし響いたのはぎゃりぎゃりと金属を引っ掻いたような音。
 その影の体表は堅く、その刃はその表面を浅く切り裂いただけに留まり。

 けれど葛葉はその手応えに止まらない――

「ならっ」

 更に左手で逆手に持ったままの鞘をその背中に叩き付ける。
 その巨大な影を工場の外へと無理矢理、弾き飛ばす。女の体重の何倍も在るだろう、その巨体を。

「…………シッ!」

 そして、それが弾き飛ばされた先に待っていたのは神多羅木の放つ不可視の指弾、風の飛礫[つぶて]の雨霰。
 神多羅木は腕を振り続け、幾度も指を鳴らす。一発一発であったなら、銃撃に劣るだろう威力しかないその風の指弾を間断無く撃ち続け。

「ギィ、ィイィイヤアァ……」

 けれど、頑丈で人の膂力を優に数倍は超える怪物の動きを押さえ込む。
 立ち上がろうと手を着けばその手を弾き、膝を着けばその膝を弾く。
 頭を弾き、意識を逸らす。関節を穿ち、動きを殺した。
 神多羅木は飛礫を集中させ、怪物との間にある圧倒的な膂力の差を技で埋めたのだ。

 そこへ葛葉が太刀を大上段に振り被り、斬り掛かる。

 ――バヂリと、刀が鳴った。

「雷鳴剣ッ!」

 それは宣名――その名を呼ばい、『力』をこの世の事象へと変ずる言霊の儀。
 その意は、雷電纏う刃。それに応えるは、霊[たま]直ぐ刀。

 葛葉が踏み込み、刀を一気に斬り下ろす。

 落雷の如き峻烈な発光、轟音。衝撃が大地を抉る――

 技を放ち終えた葛葉は飛び退り、神多羅木の傍らに着地した。

「どうだ?」
「恐らくはまだ生きているでしょう。
 雷氣は通りましたが、刃そのものは体表の甲殻に弾かれました」

 葛葉の刃が振るわれた瞬間、怪物のその身体から体表の甲殻が迫り出し、弾いたのだ。
 それ伝いに雷は浴びせ掛けられたが、さてどの程度効いているのか、と彼女は思う。
 故に神多羅木の問い掛けに、葛葉は否定に頭[かぶり]を振ると刀を構え直したのだった。
 神多羅木もそれに倣うように親指と中指を合わせた片手を肩の高さに掲げ。

 そして二人が構えるのと同時に、巨大な影が瓦礫を押し退け立ち上がった。

 ――雷光が天に煌く。

 光が一瞬、その怪物を照らし出す。
 そして、二人にとってその全容を見るにはその一瞬で十分だった。

 それは二足で大地に立つ、一体の黒い巨獣――

 3mを優に超す体格。体躯はすらりと引き締まり、くびれていたが、それでも腕は葛葉の胴並みに太く、胴に至っては神多羅木の肩幅よりもあるだろう。
 その胸には乳房にも似た膨らみ、その膨らみの先には乳首にも似た突起。その腕は長く、立っていながら地面に葛葉の腕よりも太い爪が擦れていた。
 そして、下半身や背中、腕は鈍く光る黒い甲殻に覆われ。腰元まで伸びたその髪は色素を失ってしまったかのように病的に白い。
 激しい呼吸に僅かに開けられたその口から覗く歯は獣の牙にも似て鋭く。
 けれど、その顔だけは余りに厳つい身体は異なり、何処か人間的で、女性のようなしなやかさを残していた。

 そして、その額には小さな輝きが束の間、点り。けれど、それは雷光に紛れて二人の目には届かない。

 ただ、稲光に照らされ佇むその獣はある意味、美しかった。少なくとも、二人が眉を顰めてしまうほどには。

 獣は僅かに腰を落とし、そんな二人へその狂眼をギョロリと向ける。

「ィィイイィィィィ………」

 空が稲光る――

 獣のその体躯は夥[おびただ]しいまでの血肉に塗れ、殺意に目を爛々と輝かせていながら、けれど獣はただただ涙を流していた。

 歓喜の涙と言うには、獣の流すその涙は余りにも悲痛だった。
 けれど、悲哀の涙と言うには、口許を歪めているおぞましい笑みがそれを躊躇わせる。

「また、泣いているのか」

 だから、神多羅木は苦々しく呟いた。
 そう、また、である。神多羅木と葛葉はこの眼前の怪物と類する存在と今までにも数度闘い、尚且つ討ち倒して来た。
 討ち倒す以外の道を模索しながら、それでもそれ以外の事を未だに成せてはいなかった。
 そして獣は、皆が皆、その尽くが啼いていたのだ。滔々と涙を流し続けていた。
 何に啼いているのか。それは彼にも彼女にも、そして誰にも分からない。

 けれど二人は、少なくとも葛葉は信じたかった。

 その涙は、人の心が未だ尚残っている証なのだと言う事を――

「――――――」

 だから、その涙を見た葛葉はもう一度呼びかけようと口を開き掛け。

 ――獣の上半身がゆらりと揺れる。

「キャイィィィィイイイイイイッ!!!!」

 そして、寸分の間も無く突進を敢行。
 しかし直後、フィンガースナップの音が一度、一際大きく鳴り響き。不可視の衝撃波が獣を縫い止めた。
 頭が跳ね上がり、後ろへと弾かれる。上半身が仰け反り、踏鞴[たたら]を踏んだ。

 突進が、止められる。

「葛葉」

 静かな声音で呼び掛ける男の声に、女は口惜しそうに歯を食い縛り。

 しかし――

 獣がよろめき。しかし体勢を立て直そうと足を踏ん張り、腰に力を入れる。
 その一瞬に葛葉は近接。両手で握り締めた太刀を目の高さで水平に構え、コンクリートの地面を砕きながら踏み込み鋭く突き出した。

 ――過たず、その切っ先は鳩尾を貫き、鈍く光る刃はその半ばまで突き入れられる。

 けれど獣はその痛みに啼きながら、眼前の女を両の掌で押し潰そうと腕を振るう。
 けれど、女は退かず、それどころか更に刃を押し込め。

「ごめんなさい……」

 女のその言葉に被されるように、刃より迸る稲妻、雷鳴。

「ギ!!!!!!!」

 雷氣が獣の体躯の内外を問わず奔り、肉の尽くを焼いていく。
 肉の焼けた匂い、煙が黒い巨獣より立ち上り。

 そして――

 獣はドウッと仰向けに倒れ臥した。

 雷[いかずち]を放つ直前、彼女が呟いたのは誰の為だったのか。
 葛葉は獣の身体が一度びくりと大きく痙攣し、動かなくなったのを見届けてから、肺の中に溜まった息をゆっくりと吐き出し、その“獣”へと背を向け――


「葛葉っ!!」


 神多羅木のそれは悲鳴のようだった。否、正しくそれは悲鳴だった。瞬間、葛葉は左足を軸に反転、後ろを向き。
 そして彼女の目に映ったのは、眼前に迫り来る獣の巨大な黒爪。


 悶えながら――

 ――喘ぎながら。


 黒焦げの巨獣が尚、爪を振るう。

「キィイイィィイィ゛イィッィイイイ゛イ゛イ゛イ゛イ゛!!!」


 哂いながら――

 ――啼きながら。


 女染みた顔の獣が咆え哮る。


 それを葛葉が認識した瞬間、時の流れが遅滞する。

 ゆっくりと、ゆっくりとそれは迫り来る。

 葛葉は何とか回避しようと、首をねじり、身体を捻り、足を踏ん張り。腕に力を込め、大太刀を振り上げる。振り上げ、ようとする。
 神多羅木が再度、指を鳴らそうとするも、射線軸上にその獣は女と被り、そして隠れていた。横飛び、軸をずらし。
 しかし、そのどれもが余りに遅い、余りに鈍い。

 ――女がその爪を回避するには余りにも。男が獣を弾くには余りにも。

 その爪の切っ先が女のその目へと吸い込まれるように迫って行き。


 刹那、葛葉と神多羅木の頭上で余りに強大な『力』が畝[うね]る。
 ドンと圧倒的な何かが周囲の空気を押し退け、吹き散らす。


 次瞬。


 額が拉[ひしゃ]げ割れ、脳漿を撒き散らしながら潰れていく。
 首が押し潰れて、捥[も]げて行く。胸部が窪み、胸の膨らみごと削られていく。
 そして最後には、頭も首も胸も粉微塵と為って飛び散り。


 ――血が舞った。鳴り響くは大地を穿つ轟音。文字通り、粉砕される大地。

 そして――

 その全てが一瞬の内に起こり、終わり。

 上半身を文字通り吹き飛ばされた“それ”が、砕かれ凹んだ大地に倒れ込んだ。

 人の頭ほどもある瓦礫がまるで軽石の如く、幾つも宙を飛び、音を立てて落ちた。


 そして、“それ”の前に立っていたのは――


 人間の女――葛葉 刀子だった。

 彼女は腰を落とし、太刀を振り上げようとした体勢で固まっている。
 葛葉の顔面へと振り下ろされていた腕は見当外れの場所へと飛んで行き、今はその視界の向こうで地面に転がっていた。

「一体……」

 ――何があったのか。誰が行なったのか。

 葛葉は網膜に焼き付いた獣の上半身が消し飛ぶその壮絶な光景を刹那、思い出し、一瞬、微かに身が震え。

「申し訳ない、遅れました。葛葉先生、大丈夫ですか?」

 そして、ようやっと体勢を解した葛葉に掛けられたのは神多羅木の物とは違う、男の声だった。
 葛葉が振り返れば、神多羅木の傍らに灰っぽい髪をした白いスーツ姿の盛年が、両手をズボンに入れ佇んでいる。

 ――タカミチ・T・高畑。

 彼は葛葉 刀子と神多羅木 重蔵が所属する組織に於いて、その実力を第二位とする人物である。
 ただし、第一位にいる人物は組織を取り仕切る立場でもある為、実質的な第一位と考えて良いだろう。

 その姿を見て彼女は知らず、感嘆の息を零していた。

 ――彼だったなら、と納得したのだ。

 しかし、自衛隊からの要請が届く少し前に、自分達の組織の方で起こった警備上の案件に取り組んでいた彼は間に合わないだろうと考えていた二人にとっては、十二分に間に合っていた。
 だから、葛葉は否定に頭を振る。

「いいえ、お気に為さらずに、高畑先生。助かりました。彼らの生命力を……私はまだ見誤っていたようです」
「………今回のは少し、強い個体だったのかもしれませんね」

 タカミチは片手をポケットから出すと眼鏡の位置を直すようにブリッジを指で押し。

「ええ、そう……かもしれません」

 葛葉もまた、微かに頷いた。

「今度こそ、か」
「ええ……」

 神多羅木のその呟きにタカミチは肯き。

「茨城の方でも、出現したようだが、そっちはどうなった?」
「……………」

 その神多羅木の質問に同調するかのように葛葉もまたタカミチへと視線を向け。
 タカミチは二人の視線を受けると声を微かに落とした。

「そちらは自衛隊の方で対処したようです」

 その答えに、ただ二人は相槌を打つしかなく。
 タカミチは僅かに沈んだようにも思える場の雰囲気を取り繕おうとするかのように、わざとらしく明るい語調で話しかけたのだった。

「それでは我々は撤収しましょうか。明日は学校の終業式ですし。
 教師が寝坊しては生徒達に示しがつきませんからね」
「ああ」
「ええ」

 その気遣いを感じ取ってか、二人はしっかりと頷き返す。
 そして神多羅木が携帯で連絡を入れると、廃工場の周囲を取り囲んでいた自衛隊の車両が慌しく工場の敷地内に入ってきた。
 怪物の死骸の回収と事が此処で起こった事を隠す隠蔽作業を始めたのだ。生物・化学防護服で厳重に身を包んでいる。

 その内の一人が三人へと近付き。

「どうぞこちらへ。念の為、消毒を受けて下さい」

 そして示されたその先には、タンクを背負い、ノズル付きのホースを携えた自衛隊員が控えるテントだった。
 三人は素直にその誘導に従い。

「後は彼らの領分か」
「ええ、此処は麻帆良の外ですからね」
「…………」

 葛葉はその獣が特注の死体袋に入れられていくのをただ悲しそうに見詰め。

「うっ?」

 そして、誰かが尻餅を着く音が聞こえたのはその時だった。
 何があったのかと、そちらを見れば、怪物の腕が見る間に萎んでいくのが見え。

 そして――

 怪物の千切れた腕が在った其処に在ったのは、人間の少女の千切れた腕。

「……………クッ……」

 葛葉は歯を無念に噛み締めり。
 それは神多羅木とタカミチも同じだったのか、その雰囲気はやはり重い。
 神多羅木は然程、表情に出してはいなかったがタカミチに至っては、眉間に皺を寄せていた。

 しかし、彼らが出来る事はもう無い。
 それが分かっているからこそ、三人は誘導されたテントの中にさっさと入り。
 そして、簡易テントの中で消毒剤を頭の天辺から足の先まで吹き付けられた三人がテントの外へと出ると掛けられる声があった。

「みなさ~ん、お疲れ様です。お迎えに上がりましたー」

 三人が声のした方を見れば、工場の入り口で三人へと向け、手を振っている青年が見えた。
 その後ろには、フロントライトを付けっ放しにしたワゴン。
 因みに周りにいる隊員達から物凄く胡散臭げな視線を向けられている事に彼は気付いていないようだった。

「瀬流彦か」
「のようですね」

 神多羅木の疑問に葛葉が応じ。
 そして三人は指揮官に挨拶を残した後、瀬流彦を運転手とする車に乗り込むと自衛隊を残して、その場所を後にしたのだった。












「化け物か、あいつら」

 車が走り去り、砂利道を走行する音も聞こえなくなると、自衛隊の誰かが怯えるように、羨むように呟いたのが聞こえ。
 その言葉は現場の指揮官にも届き。彼がそちらへと見れば作業の手を止めている隊員の一人が見えた。
 それは最近、第一空挺団から引き抜かれた新人の青年だった。だからこそ、指揮官は今回だけは聞こえなかった事にすると。

「なに手を止めているか、瀧川ッ」
「は! 申し訳ありません!」

 指揮官から喝を浴びせ掛けられた隊員は、作業へと速やかに戻ったのだった。















◇ 魔獣星記ギルま! 一ノ章前編 [Child=Monster] ◇















 日本の埼玉県に、麻帆良という土地がある。

 そして其処には、麻帆良学園という学園都市があった。

 明治中期に創設され、広大な土地に幼等部から大学部に至る、あらゆる学術機関を内包する、その学園の特色は挙げようとするなら、枚挙に遑[いとま]が無いだろう。

 真っ先に挙げられるのは、学園の児童、生徒、学生の悉くが活力に溢れている事だろう。

 教師も教育熱心で子供想いな人物が多く、学生達の距離も良い意味で近い事も挙げられるかも知れない。

 学園の中心に子供達から世界樹と呼ばれる、樹高270mを誇る巨大な樹木が根差している事も挙げられるだろうか。

 朝の子供達の通学風景はまるで津波で起こったかのような光景を呈する事も特色といえば特色かもしれない。

 都市の中にある麻帆良湖に浮かび、図書館島と呼ばれる世界最大規模を誇る図書館も候補としては外せない。

 それとも、図書館島が地下深くまで続いている事が取り上げられるかもしれない。

 或いは、その内部を探険する事を目的とした図書館探検部なる部活動に始まり、他の学校で見られる物も見られない物も含め、多種多様な部活動が存在する事か。

 或いは22年に一度、世界樹が輝き、願いを必ず叶えてくれるという伝説も、他の学校には見られない、この学園だけの特色と言えば、そうかもしれない。

 それとも毎年、学園を挙げて行われる、学校行事の枠を飛び越え盛大に行われる麻帆良祭が挙げられるだろうか。


 それともそれとも――――


 けれど唯一つ、敢えて挙げるとするのならば。


 ――其処はまるで、奇跡のように優しい場所だと、誰しもが言うだろう。






◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 来年、いよいよ中学三年生という人生の一つの転機を迎える事になる瀧川 伊織[たきがわ いおり]の最近の悩みは夢見の悪さだった。
 いや、正確に言うなら、その夢を見た後、目を覚ました後に知る出来事に辟易している、と言うべきか。



 けれど、その意思を置いてけぼりにされて、今日も彼はまどろみにも似た心地の中で夢を見る。



 ―――― 目覚めよ ――――


 その始まりを告げるのは、何処か幼さを残して響き渡る、美しい少女の声。
 いつまでも聞いていたいと、初心な少年に何の臆面もなく思わせる、それは声。


 ―――― 汝、獣[けだもの]の裔なる者 ――――


 けれど見えるのは荒れ狂う海の中に浮かぶ、山のように大きな氷塊が一つ。
 絶えず波浪に曝されて尚、揺るぎもしない。けれど声の主は何処にも見当たらない。


 ―――― 遥か暗黒の深淵[アビス] ――――


 声に釣られ見上げれば其処には、己の頭上を覆う、暗く黒い空。


 ―――― 白熱のプラズマ ――――


 空にひっきりなしに轟くは雷鳴、海へと幾重も落ちる電光の龍。


 ―――― 汝、星辰のかけらより出[いで]し者也 ――――


 そして、その空の奥に渦巻くように点る無数の光。



 それはまるで誰かが何かを告げようとすかのような夢だった。 

 そしてふと気付けば、遠くに聳えていた巨大な氷塊が何時の間にか目前に迫り、ぶつかる! と、今日も伊織は目を覚ます。



 その直前に氷山の中で静かに眠る、トウヘッドの一人の少女を垣間見て――――



「わああダッ! タア~………」

 そんな叫びと共に少年が跳ね起きた、その直後、ダンッと盛大な音が部屋に響き渡った。
 少年――瀧川 伊織は、二段ベッドの下段の方で寝ていたのが災いして、跳ね起きた勢いそのままに上段のベッドの底に頭を強かに打ち付けのだ。
 その痛みには流石に身悶えるしかなく。良く言えば優しそうな、悪く言えば平凡なその顔を伊織は痛みに歪めながら額を両手で押さえ込み。

「……これまた盛大にぶつけたなあ、伊織」

 そう呆れたような声を掛けて来たのは伊織の同居人。
 ちらりと目を動かせば、ガキ大将のような雰囲気を纏った、やや逆立った髪の少年がにやにやと笑っているのが見えた。
 伊織のルームメイトにしてクラスメイトの今関 和彦[いまぜき かずひこ]。
 既に格好は麻帆良の制服に着替え、肩には学校指定のバッグを掛けている。
 未だ寝こけていた伊織を置いて既に出る準備は万端という事か。

「…………クゥ……」

 しかし、伊織はただ頭を抱えて痛みが去るのを耐えるしかなく。まだ痛みで動く気にはなれなかったのだ。
 すると今関の後ろから更なる声が聞こえて来た。玄関口から声を張り上げているのか、やや大きい。

「なんかでかい音したけど、なんかあったのかー? さっさと行かないと超包子[チャオバオジ]の肉まん、売れきれちまうぞ。
 早く伊織っち、起こせよな~、今関ー。朝飯なしは勘弁だぞー」
「て訳だ。痛かったのは分かるが、べそかくなよ伊織、男だろ。まあ起きたなら、丁度いいや、先行ってっから。
 伊織の分も買って置くけど、何個いる?」
「じゃあ……2個で」
「おう、りょ~かい。あと顔洗って、涙流してとけよ~」
「あ……うん……よろしく」

 そして今関はバタバタと慌しく駆けながら、部屋を出ると伊織は顔を前へと戻し、俯いた。
 何時の間にか零れていた涙を寝巻き代わりの無地のTシャツで拭う。
 確かに強かに打ちつけたその頭は痛かった。けれど、それは涙を流すほどでは少なくとも無い。
 まだ幼かった頃ならまだしも、この程度の痛みで涙を流してしまうほど、伊織は痛みに弱い訳ではない。

 けれど、あの夢を見た後、ただただ涙が零れるのだ。

 伊織はTシャツの胸元を掴みながら、物憂げに顔を伏せ。

(また……また、あの夢だった………。悲しいわけじゃないのに、涙が出る……。
 それに誰なんだろう、あの娘[こ]は……)

 そして、その夢を見た時はいつも――

 その思いを証すかのように、点けっぱなしのテレビからニュースを読み上げるキャスターの声が聞こえて来た。
 その声に思考に沈ませていた意識を浮かばせ、何時までも呆けていても仕方が無いと伊織はベッドから降りる。
 朝の時間は一秒が貴重なのだ。のそのそと起きて、勉強部屋も兼ねた寝室を出て、テレビのあるダイニング兼リビングを通り過ぎ、顔を洗う為に洗面所へと向かった。

『昨日深夜……町の郊外の廃工場…倒壊し……た。
 ……し、幸いに負傷者は無く、現在の所、事件せ……見られないとの事です。
 ……次のニュースです。昨夜、再び14歳少年………一家惨殺事件が…………した。
 既に8件目であり、事態が収束する兆しは……』

 伊織はそれを半ば聞き流しながら、洗面台で顔を洗う。水の冷たさに眠気の残っていた頭が冴えた。
 ついでに、赤くなった額を冷やすように何度も額を水に浸すも結局、赤みは取れないままだった。

 そして伊織が洗面台から居間の方に戻ってきても、テレビのキャスターは相変わらず、先程の15歳少年による一家惨殺事件について発言を続けていた。
 それどころか、専門家なのかコメンテーターなのかは分からなかったが、今は初老の男性を交えてコメントを続けている。
 その居た堪れなさそうな声音で二人が告げる言葉は次第に、今回の犯人であるとされる少年から15歳前後という年齢の少年少女全体への憂いへと形を変えていき。

「そんなの、ぼくたちには関係ないだろ……!」

 伊織はリモコンを手に取ると八つ当たりのように乱暴にスイッチを押し、テレビを消した。

「はあ……」

 けれど、その気分の悪さは凝[しこ]りのように胸の内に残ったまま。
 少年は己の境遇を、14歳という年齢を案じて、ただただ暗い溜め息を吐いたのだった。






◇◆◇◆◇






 麻帆良学園は全寮制である為、寮を多数擁しており、伊織が住んでいるのは、その男子寮の一つである。
 その寮から出て暫く歩いた所にある広場があり、周期的に、朝、「超包子」という出店が出ていた。
 商品は肉まんの唯一つ。しかし、安くて上手い、何よりも大きいという事で、「超包子」が出ている日は普段なら朝は人だかりの無いその広場に多くの学園生が通学途中で立ち寄り、朝食としているのは伊織にとってもう馴染んだ光景だった。

 けれど今日は少々、いつもと違い伊織が到着した頃には既に目的の出店は畳まれ、後片付けも終盤に入っていた。出るのが少し遅かったらしい。
 周囲には何人か制服姿の中学生や高校生が適当な所に腰を落ち着け、出店で買ったのだろう、肉まんを上手そうに頬張っている。
 その風景や広場に満ちた匂いに、伊織の腹が小さく鳴った。

「和彦たちはっと……あ、いたいた」

 その腹の鳴く音に後押しされたかのように、伊織は直ぐに探し人の顔を見付け、駆け寄った。
 近付いてくるその足音に気付いたのか、大口を開けて肉まんを頬張っていた今関と先程、寮の部屋の入り口で今関に声を掛けていた友人、菊池 勝[きくち まさる]が顔を上げ。

「おはようさん」
「うん、おはよう」
「遅かったな、伊織。先に食べちゃってるぜ。なんかあったのか?」
「あー良いよ、別に。そういう訳じゃなくて、ちょっと出るのに手間取ってただけ」

 しかし、その言葉にややパーマの入った髪を少し伸ばした、そばかす顔の菊池が首を傾げた。その拍子に髪が揺れ。

「手間取るって何にだよ、伊織っち。今日は終業式だけだろ。なんか持ってくもんあったっけ?」
「ああ、うん……」

 正直な所、ただ単に今日も見た夢について考えていたのだが、それを正直に言うのは躊躇われる。
 というよりも、態々そんな事を言うのは悩みを告げるようで、友人に話すには少々気恥ずかしい。
 伊織がさて何と言おうか迷っていると、

「お……?」

 菊池が伊織の後ろを見て、疑問に小さく声を上げた。
 なんだろうかと伊織が振り返れば、先程まで出店の片付けを行なっていた女子生徒の一人が此方へと近付いて来る所だった。
 髪を二つのシニヨンに纏めたその少女の名は、超 鈴音[チャオ リンシェン]。
 伊織達とは同じ学年だったが、なんと彼女は先程まで此処で肉まん販売の出店を出していた『超包子』のオーナーである。
 オーナーと言っても、彼女自身も店員として働いている兼業ではあるのだが。その証拠に腕には畳まれた「超包子」というロゴの入ったエプロンを抱えていた。

「今日は自棄に今関が多く買ってたかと思ったら伊織の分だったカ。お買い上げ、ありがとうネ、伊織」
「こちらこそ、美味しい肉まんを安く売ってくれてありがとう、かな」

 その言い様に超はクスクスと喉を鳴らすかのように微笑み。

「どう致しまして、何と言ってもはやり此処に来ると売り上げがいいヨ。男の子だからかナ、多めに持ってきてもまだ足りないぐらいネ……おや?」

 しかし、その可愛らしい笑みは直ぐに疑問に取って代わられ。
 じっと自分の顔のやや上を見てくる少女に伊織は首を傾げて、その理由を尋ねたのだった。

「ん、何?」
「そのおでこ、どうしたネ? 赤くなってるようダガ」
「あ、これは」

 自身の額を指差しながらの少女の問い掛けに伊織は口篭ってしまう。
 何といっても額の赤みは何か名誉の負傷という訳でなく、単純に夢から飛び起きた拍子にぶつけてしまっただけなのだ。
 少年らしい、未熟な自尊心がそれを言う事を躊躇わせる。超が美少女で有る事もそれに拍車を掛けた。

 伊織のその口篭る様子に超は不思議そうに首を傾げ。

「どうしたネ、何か人に言えないようなことでもあったのかネ?」
「うっ……」

 そして、何を思ったのか心配そう言われては、伊織としては堪らない。だから、素直に喋ろうと意を決した。
 その直後、今関がその葛藤を知ってか知らずか、声に笑みを含ませながら告げ口したのはまるで狙っていたかのようなタイミングの良さだった。

「そいつ、朝いきなり飛び起きてな、その拍子に上のベッドの底に頭ぶつけたんだよ。でこが赤いのはその跡」
「和彦!」
「何だよ、隠すことでもないだろ」

 確かにそうではあるが、これから自分で言おうとしたのだと伊織は言いたかった。
 まあ、躊躇った後に今更自分でその事を言うのも格好は付かないだろうが。
 ただ今関の場合、それを察していながら、敢えて口にした――詰まり、からかった可能性は大である。
 伊織と今関は小さい頃からの幼馴染だった。家族にも等しい程の時間を共に過ごして来たのだから、余計な気遣い、下手な遠慮は相手にはないだろう。
 いざとなれば、伊織もそんな事に気を掛ける気は毛頭無いから、ある意味でお互い様かもしれない。

「へえ、何か怖い夢でも見たのカネ?」
「いや、そういうのじゃないんだけど」
「フム………」
「ほい、肉まん二つ」
「ああ、ありがとう、和彦。はい、お金」
「あいよ」

 飛び起きた夢と言っても、はっきり言って不思議を通り越して、奇妙な夢である。
 どう説明すればいいのか。伊織は視線を逸らすように今関から受け取った肉まんへと口を付け。
 それを見て、いや、聞いてか、少女がすっと目を細め、口許を僅かに引き、笑った。

 その薄ら笑いを見て、偶々超へと視線を向けた菊池はぎょっと驚いた。
 まさかそんな笑みをこの少女が浮かべるとは思いも寄らなかったのだ。
 更に顔が整っている分、酷薄さが増し、恐ろしく見えたらしい。

 しかし、顔を伏せていた伊織には幸か不幸かその笑みは見られず。

「それとも……可愛い白人の女の子でも、出てきたのカネ?」
「っ?!」

 その言葉に伊織は肉まんを喉に詰まらせ掛けながら思わず、伊織は超の顔を見返した。
 けれど、見えたのはくすくすと可笑しそうに笑う少女の可愛らしい笑顔。

 それを見て、菊池は何故か顔を引き攣らせ。
 今度のそれは顔が整っている分、なんとも可愛らしいのだが、先ほどの笑顔の所為でどうにも真っ正直にその笑みを受け取る事が出来なかったらしい。
 先程の笑みとのギャップに菊池は、一つの恐ろしさを悟ったようだ。目を逸らし、己の食事に専念する事にしたのだった。

 そんな菊池に今関は、どうしたよ、と話し掛ければ、菊池は、ただ何でもないと返すだけ。
 ただ、その二人を置いて、伊織と超の会話は進む。

「あいや、伊織も男の子だったカ。だけど伊織の好みが白人の女の子とは……」
「ちょっと、鈴シェッグ!?」

 そして、今度こそ肉まんを咽喉に詰まらせ、白黒させていた顔を今度は青くした伊織に、超はかんらかんらと笑う。
 けれど、その笑みをどうのこうのと思っている暇は伊織には無かった。早く何とかしなければ、窒息死で死んでしまうと慌て。
 呆れたと言わんばかりの今関からお茶の入ったペットボトルを引っ手繰るとそれで肉まんを流し込んだのだった。

「ブハッ」
「アハハ、冗談ヨ。そう言えば、伊織。今日は学校が終わったらどうするネ?」
「え、学校が終わったら? ………特に何も考えてないかな」
「そうカ」
「何かオレに用事でも?」

 いままでそんな事を聞いて来た事の無い少女を不思議そうに伊織は見上げる。
 けれど、その視線に超はただたおやかな笑みを返しただけだった。

「いや、ただ少し気になっただけヨ」
「………」

 尚も問い掛けようとした時、今まで出店の片付けをしていた少女が何処か平坦な声を掛けて来た。

「超、片付けが終りました」
「うむ、分かったネ!」

 そして超は後ろを振り返り、それに返事をすれば、伊織は声を掛けるタイミングを逸してしまう。
 機を外された伊織はただ口を噤み、割り込んできたのは一体、どんな人だろうと其方を見遣ると、その声の主の少女はこれまた日本人離れした少女だった。

(留学生か何か?)

 朝の光の加減の所為か、遠目で見ていると何となしにその真っ直ぐに伸びた髪が翠色のようにも見える。

「それじゃあ三人とも、またのご贔屓を、ネ」
「うん」
「おーう」
「こちらこそ~」

 超は三人へと手を振りつつ、ぱちりとウィンクしてから、三人から離れていった。
 そして先程呼び掛けた女子生徒の下へと戻ると、広場を去って行き。
 その姿が見えなくなった途端、隣に座っていた今関が無理矢理、伊織の肩を組んできたのだった。

「おいおい、毎度毎度思うんだが、何であの子はああもお前を気に掛けるんだ?」
「確かに……。超 鈴音と言えば、麻帆良学園始まって以来の天才で美少女と来たもんだ。
 そんなあの子が何でお前みたいな、勉強が出来る訳でもない、運動が出来る訳でもない、容姿も取り立てていい訳でもない、まさしく普通なお前を気に掛けるんだっ!」

 菊池が納得できない、とばかりに今関の後を継いで言葉を連ね。それにうんうんと今関が頷いて、同意を示し。
 今関は結構本気で嘆いているようだったが、今関の方はからかっているのが丸見えなにやけた笑みをその顔に貼り付けている。
 しかし、何を思い出して、ん? と今関は首を傾げると、菊池へとその眼差しの先を向け。

「だけど、オレがここに来た時、菊池も超と話してなかったか」
「あれ? そうだっけ?」
「おおとも。てか、ついさっきの事だろ、覚えてないの?」
「ああ~……肉まんの注文の時じゃないか? 多分」
「そう、か? なんか注文って雰囲気じゃなかったけど」
「んー……、て言われてもなあ……」

 心底心当たりが無いのか、ただ菊池は首を傾げ。

「ま、いいじゃん、今は伊織っちのことだって、今関」
「……それもそうか。さ、伊織くん、包み隠さず話したまえ、彼女との馴れ初めを」
「馴れ初めを!」
「お前らな……」

 そんな幼馴染と友人にほとほと呆れた、とばかりに溜め息を吐きながら、伊織は食事を再開した。
 口に入れた肉まんの欠片は少し冷めていたが、それでも十二分に上手い。
 出来れば、温かい内に食べたかったが、それは出るのが遅かった自分が悪いのだろう。

(……まあ、ただ単に真面目なだけだと思うんだけど)

 伊織が彼女と初めて出会ったのは、中等部に入学したばかりの頃、今関と菊池と一緒に出歩いた時だった。
 自分達もそうだったが、彼女もまたその時はまだ麻帆良学園に訪れてそう日が経っておらず、道に迷っていた彼女を三人で何とか案内したのだ。

 その後、この「超包子」で客と店員として再会し、彼女とはそれ以来の仲だった。
 と言っても出会えば、挨拶をして擦れ違うか、少し話して分かれる程度の仲。態々、会おうとは思わない。

 そう、瀧川 伊織という少年にとって超 鈴音という少女は飽く迄、ただの友人の一人でしかなかった。
 女の子と言う事もあり、少しばかり距離のある、友人だった。

 だから、ただ単に少女が自分に声を掛けてくるのは、道案内をした時の事を未だに曳いているだけだろうと、伊織はそう考えていた。


 ――この時は、まだ。


 瀧川 伊織にとって、超 鈴音は少し変わった、女の子の友人だった。












◆後書き◆

 というか、この話の中で出てきた名称に関するオリ設定の説明をば。

※神多羅木 『重蔵』
 ・どうにも名前が無いようでしたので、勝手に付けさせていただきました。
  頭に真っ先に浮かんできたのがこれでした。

※今関 和彦
 ・原作では伊織は彼の下の名前を呼ばず。
  幼馴染だったら呼んだれや、という事でこの作中では伊織は彼を呼ぶ時は下の名前で呼ばせようかと思います。

※菊池 『勝』
 ・名無しその二。勝手に命名もその二。
  だけど、それだけな人です。


 今回のこれ。どうなのか、ありなのか、ありだと信じたいと思いながら書いてました。

・7/29追記
友人からタカミチが30越えてる事を指摘されちょいと修正。
ていうか、何故か勝手に20代なイメージを持っていました。
先入観は危ないな、と。

・8/1 人名を修正。



[8616] 一ノ章中編[Lady=Receive]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:891c474c
Date: 2009/09/23 23:46

 ――2002年12月24日、火曜日。

 伊織達が通っている麻帆良学園本校第六中学校(共学)の第二学期終業式も午前中で恙[つつが]無く終わり、通知表も返却され、冬休み期間中の諸注意を担任の先生から賜った後、下校となった。
 なった、のは良いのだが、制服から私服へと着替えた伊織は今、規則的な振動に身を委ねながら、流れ行く風景を見詰め、微かに溜め息を吐いていた。
 因みに伊織の通知表の評価は中の中ほどと言うべきか。大体の教科が可もなく不可もない成績だった。
 強いて言うのなら理系の教科が若干高く、文系の教科が、というか英語が若干低い。
 テストで高得点を取りたいとは思わないが、赤点が取りたい訳でもない伊織の、まあ何時も通りの成績である。

 それは兎も角。

 伊織は今、竹刀袋を担ぎ、これまた私服姿の今関と一緒に電車に揺られながら、麻帆良学園都市の外へと向かっていた。
 しかし、麻帆良学園は学園都市である。大概の用事は学園都市内に存在する施設で済むし、買いたい物がないといった事に関しても、余程性急な入用でもなければ、注文で事足りる。
 日常的に、麻帆良を出る必要など殆ど無いのである。
 ただ何時も同じ所で買うのも味気がないと、休みの日には遠出をする生徒や学生も多かったが。

 それは兎も角。

 伊織と今関が態々、外へと向かっているのは買い物といった何かプライベートの用事の為――ではなく、たった一人で麻帆良の外へ出かけた二人の共通の友人、菊池 勝と合流する為だった。
 本来なら、この日本において、一人での買い物が危険であると考える必要は殆ど無い。
 少なくとも、そう思えてしまうほどには、日本は平和だった。

 しかし。

 ――たった一人で。

 しかも、その人物が15歳前後の少年少女となれば、話は変わってくる。

 それは『サナギ狩り』と呼ばれる、少年少女達への集団暴行事件の所為だった。

 今も世間を騒がしている、少年少女達による一家惨殺という凶行が3件目に入った頃だろうか。
 此処、1,2年で一般的な家庭にも普及するようになったインターネットの或る掲示板に、或る言葉が書き込まれたのだ。

 今の少年少女達は『サナギ』――怪物へと羽化する繭である、と。

 実際に、それがどのような情報と共に書き記されたのか、そしてその言葉が本当にサナギ狩りという一連の事件の引き金となったかどうかは分からない。
 けれど実際問題、襲撃されたのだ。ただ、15歳であると言うだけで、一人の少年が集団で暴行されてしまったのだ。
 しかも、それを端に発したとでもいうかのように、俗にサナギ狩りと分類される事になるこの事件もまた少年少女一家惨殺事件同様、今尚、収束する兆しを一向に見せていない。

 そのサナギ狩り事件は一家惨殺事件がテレビや新聞で報じられた直後が、特に起こり易かった。
 そして今日の朝に、正に新たな事件が報道はされたばかり。ならば、少年少女達が不良集団を一段と警戒するに越した事は無いだろう。

 そんな時に、伊織と今関の幼馴染みの少女、円谷 久美[つぶらや くみ]が、友人達とのウィンドウ・ショッピングの帰りに二人より先に寮へと帰り私服姿で駅の方へと向かう菊池を見掛けたのも、その後、学校からの帰り道の途中にある商店街でだらだらと過ごしていた二人に出会ったのも、結局は偶然だった。
 最初、久美は菊池は後で伊織や今関と駅で合流すると思い込んでいたらしい。学校で彼とよくつるんでいたのが二人なのだから、そう思ってしまうのも当然かもしれない。
 けれど、そうではなく、そもそも二人は菊池が何処へ出掛けたか知らず、あまつさえ一人で麻帆良の外へ行ったかもしれないと知り。
 だから、久美が伊織と今関の二人に菊池と合流した方がいい、と言ったのは不安だからだった。
 ただ、その危惧はまだ、危ないかもしれないというだけでしかない。もしかしたら何事もなく終わるかもしれない。いや、きっと終わるだろう。そもそも、私服に着替えたからといって、学園都市の外に出たとは限らないではないか。
 そう思った伊織と今関は、最初は拒んだ。

 それに多少なりとも人気のある所だったなら、サナギ狩りの連中に襲われる事は無い。
 そして、菊池もその事を分かっている。仮に外へ行ったのだとしても態々、好き好んで人気の無い道を歩く事など無い。

 ――筈なのだから。

 しかしだ。

『最近、麻帆良の周りでもサナギ狩りの連中が出るってさっき学校で先生たちが言ってるの聞いちゃったの』

 そう心配そうに言われてしまっては、二人としては断る事も出来ず今に至る、という訳である。



 ――何よりも不安になってきたのだ。

 もしかしたら、と――



 今関は、身体を揺らす電車の振動を感じながら、携帯の液晶画面を見て、微かに唸っていた。
 そこには先程送られてきた菊池からの返信メールの文面が映し出されている。

「たく、あいつは」

 それは麻帆良学園都市の近くにある町で降りたという旨の内容だった。
 伊織はそんな風にして今関が幾許かの悪態を吐きながらも、遠く離れた菊池と移動しながら連絡を取り合っているのを見て、便利そうだなあ、とややのんびりした感想を抱いていた。
 因みに、伊織自身は携帯電話を持っていない。
 伊織自身必要ないと思っていたし、彼の両親も寮住まいである事もあってまだ必要ないだろうと考えていたからだった。
 ただ、こういう時に互いに持っていると便利かもしれないなとぼんやりと思いながら、伊織は今関が携帯を持つ様を見遣り。

 そして今関は携帯をポケットにしまうと、風景が流れていく車窓へと顔を向け、忌々しそうに舌打ちした。

「麻帆良らへんは、まだサナギ狩りの連中は来てないと思ってたのによ。ったく」

 麻帆良学園都市では、教員が学園広域指導員として見回っている為か、そういった事を行うような雰囲気を醸し出している連中はいなかった。
 勿論、柄の悪そうな連中が全くいない訳でもなかったが。
 それもあってか、麻帆良周辺もまだ大丈夫だと思っていたのだが、それも先ほどの少女の言葉で引っ繰り返され。

「まあ、取り越し苦労で終わると思うけど……なんで菊池はわざわざ麻帆良の外に行ったのかな」

 しかしそれはそれとて何故、菊池はわざわざ一人で出向いたのだろうか、と伊織が首を傾げていると今関が眉を顰め声を抑えながら口を開いた。
 まるでこの場では酷く言い難いとでも言うかのように。

「ああ~、……オーディオ・ビジュアル……………の新作を買いに行ったらしい。メールに書いてあった」

 伊織はその電車の騒音に紛れがちな声に耳を傾[かたむ]け。

「オーディオ・ビジュアル? そんなのに興味なんかあったけ? あいつって」

 そもそも、そんなお金があったっけ、と伊織が再び首を傾げていると、今関が隣で立っている伊織に聞こえるぐらいの声量でぼそりと呟いた。

「のイニシャル」
「……………ああ……」

 成る程。と伊織は嘆息を零し。これは益々どうしたものかと、伊織はただがっくしと肩を落とした。

「で、菊池が言った場所って大祐も行ったことあるのか?」
「いんや、ねえ。まあ、駅名とあと目的のショップの大まかな場所もさっきのメールでわかったし、駅に着いたら電話すればいいだろ」
「かな」

 伊織としては菊池の目的の物が麻帆良では買い難い、と思うのも分かる。外へ出向いた理由も分かる。
 分かるのだが、タイミングの悪いと思い、疲れた溜め息を吐き出すのを少年は堪え切れなかったのだった。
 そこら辺の危機感の無さが平和ボケと揶揄される原因なのかもしれないが。

 ただ――

 少年達は考えていた。

 さっさと合流して、さっさと帰ればそれで済むと。
 その時は文句の一つでも言って、何か奢って貰おう。後は買った物の中身でも見せて貰おうか。出来れば、それでからかってやろう。

 間に合わないなどとは、微塵も考えていなかった。

 けれど。

「菊池はなんだって?」
「………途中で待ってるから合流、その後、ここら辺、ぶらぶらしようだとさ」
「はぁ……じゃあ、さっさと行こうか。いつまで此処にいても仕方ないし」
「だな」

 彼らが電車を降り駅を出て、菊池が言っていた店へと道順を確かめながら向かうも、待ち合わせ場所には肝心の菊池が見当たらない。
 暫し待ってみても現れない、電話を掛けててみも繋がらない。この辺りで何かきな臭さを感じ取った二人は何かあったのかと、店へと向かうもしかし、ミイラ取りがミイラになってしまったが如く、道の途中で何処をどう間違えたか、迷ってしまう始末。

 だから。

 伊織と今関は、途方に暮れた。如何したものかと、頭を悩ませた。

 けれどそれでも。

 二人は菊池の安否を然程、気に留めていなかった。
 無事に決まっているのだから、そんな事、思いも寄らなかったのだ。



 だから。



 伊織と今関の二人が直面したものは、彼らにとって全くの予想外の出来事だった。



 先ほどまで電話で話していた友人が、不良が乗り込んだ車に弄ばれるように追いかけられ直走る様など、誰が想像出来るのだろうか――









◇ 魔獣星記ギルま! 一ノ章中編 [Lady=Receive] ◇









 その白く広闊[こうかつ]な、そして厳重に密閉された空間で行われているのは、ヒトの形をしていながら、けれど全く異なるもの――『ギルステイン』と呼ばれる怪物の腑分け作業――所謂、解剖だった。

 ――けれど、既に動かぬそれはギルステインであって、同時にギルステインでなくなっていく。

 放って置けばそれが生物である以上、腐って全く異なる物へと変質していくのだから。だからこそ、その中で迅速に行なわれるべき事は数多い。
 体表を切り裂き、内臓を取り出し、体液を吸い上げる。骨格や内臓の位置、筋肉の着き方といった内部構造は勿論、表皮、甲殻、骨や筋肉などの身体を構成する物質、ホルモンといった内部分泌物等々、情報として読み取れる全てを速やかに彼らは記録していった。

 それはこの空間で淡々と繰り返されてきた作業――

 防護服に身を包み、その作業を行っている彼らがその異形を見て何を思っているのか。
 けれど、機械的に行われていく作業の様からは窺い知る事は難しく。

「…………………」

 そして、その光景をガラス越しに見下ろす一人の女性が居た。
 自衛隊員2名を脇に従える彼女の名はヘレナ・L・マリエッタ。
 何処か冷ややかな眼差しで以って、その異形の怪物が解体されていく様を静かに見詰めている。

 その手には二つのファイル。その中に挟まれた、検体に関する資料にはそれぞれ一枚ずつ顔写真が貼られていた。
 其処に写されていたのは学校の制服に身を包んだ、何の変哲も無い、少年と少女の顔だった。

 眼前の怪物と、まだ幼さの残る少年少女の顔写真。

 一見すれば矛盾しかないそれに、けれど彼女は何の違和感も持っていないようだった。
 ともすれば、その冷めた表情はまるで張られてある事が当然とさえ言うかのようであった。

 しかしそれとは別に今、ヘレナの柳眉は微かに顰められている。
 その表情にか、脇に控えていた自衛隊員は何処か気まずそうだった。

 それも当然か。ギルステインの検体は数が絶対的に少なく、貴重である。
 しかし女性が見詰める先にある、その数少ない貴重な検体の二体が二体とも破損が激しいのだから、眉の一つも顰めたくなるだろう。
 その損傷といえば一方は左脇腹と左腕が内部から弾けたように抉られていたが、もう片方は更に酷い。
 何となれば、上半身――頭部、胸部に該当される部位は存在せず、その手術台に乗せられているのは下半身と左腕だけ。
 その脇に寄席られているキャスター台の上に乗せられている、無残に千切られた少女の右腕が酷く奇妙だった。

 ただヘレナ・L・マリエッタが科学者として言える事は唯一つ。
 両方とも、サンプルとしては落第点である。

 ヘレナの居る閲覧室の自動ドアが開いたのは、その時だった。

「失礼、Dr.へレナ・L・マリエッタはまだおりますかな?」

 その声に振り返れば、其処に居たのは野戦服に身を包んだ、泥だらけの男だった。
 彼女は信じられないとばかりにその鼻梁を歪め眉を顰め顔を顰め。
 それを誤魔化すようにファイルで顔半分を隠した。或いは、男から漂う泥臭さが気に入らなかったのか。

「あなたは……野上 雄一郎隊長ね? ここでは清潔を旨にしていただかないと」

 そして紡がれた文句は、流暢な日本語で行なわれ。その事から、彼女の高い知性が感じ取れる。

「おや……これは失敬。野戦訓練から直接参りましたものでね。いずれにせよ――」

 ヘレナからのその指摘を、しかし野上と呼ばれた男は然程、気に留ず、逆に揶揄するかのような笑みを口許に浮かべ。

「以後、よろしくお願いしますよ、ドクター」

 社交辞令とばかりに、泥で汚れた迷彩手袋を差し出した。
 しかし、ヘレナがその手を取る事はなく、ただその泥に汚れた厳つい顔を無感情な瞳で見返しただけだった。

 対ギルステインの役割を任ぜられた特務部隊の隊長である野上が、険悪な雰囲気の中でとは言え彼女と対面した理由。

 ――それは彼女は日本政府の要請を受け、アメリカの然る研究所から此方へと今日、正式に移って来たからだった。

 以前からも、データの解析やギルステインの対処法に関して、情報の提供や意見を求められていたが、自衛隊といった実働に関わる人物に会ったのは今日が初めてであったのだ。
 けれど、前々から会う機会が無かったにしても、互いが互いに思う所があったのだろう、二人の初の面会は良いとはとても言えないもので終ってしまったようだった。

 握り返される事の無かった手を野上は下げ。
 ヘレナはマナー知らずな上級自衛隊員から視線を逸らすと、再び眼下の光景へと戻した。

「24号の方はグレネードまで使ったようですね、25号の方は至近距離から戦車砲でもぶつけたのですか?
 これで7体目と8体目ですよ? 貴重な検体をメチャメチャにしたのは」

 2002年12月24日現在、ギルステインは18年前、初めて確認されてから今に至るまでに25個体が確認されている。
 しかも、それは全世界で発見された物を含めて25体という数である。サンプルとしては余りに少なすぎる。
 単純に年で総個体数割れば一個体、良くて二個体出るかどうかという頻度でしかない。

 しかし、此処で間違った認識が一つある。正確には年に一個体出るかどうかすら怪しかったのだ、今までは。
 ただ此処2年ほどでその頻度が確実な上昇傾向が見られ、そして此処一年、日本で何故かギルステインの発生件数が以上に高まっていた。
 情報操作によってぎりぎりの所で誤魔化されていたが、今、世間を騒がせている、少年少女達による一家惨殺事件の全てがギルステインによって齎した凶行である。
 その頻度は異常とも言えた。ヘレナが此処に移って来た理由も其処に在る。しかし、届けられる肝心のサンプルがこうも尽く破損されては彼女としては堪らない。
 これでは、自分が助言を与えた意味が無いではないか! 時として、そう思ってしまう程だった。

 そんな感情を持て余していた時に、この野上という男は研究所を清潔に保つ意味も考えないで、此処に来たのだ。
 この男は特務部隊の隊長。ならば検体の状態への文句を付けるなら、脇に控えている者達ではなく彼だろう。
 ヘレナはそう思い、野上へと問い掛けた。何よりも、あのギルステインがああも傷付けられた理由を彼女は聞きたかったからだった。

 しかし、ヘレナから指摘を受けた野上は、彼女が抱いていた気弱な日本人という印象を裏切って、真っ直ぐに見返し。
 物怖じせず主張をするという毅然とした態度にヘレナはほんの少しだけ男の印象を正の方へと改めた。
 ただし、この場合は同時に煩わしいものでもあったのだが。

「それは麻酔薬必要量の見積もりが低すぎた所為でもあるのですよ、あなた御自身のね!」

 野上もへレナと同じようにガラスの前に立つと、二体のギルステインを見下ろしながら憤りを抑えさるかのように低く唸った。

「おかげで、麻酔薬を何発撃ち込んでもぜんぜん効きやせん。
 その度にせっかく引き抜いたウチの隊員が、もう10人もやられている!!
 カドケウス・ウィルスの真っ当な症例検体が欲しければ、もっと対策をきっちり立てていただきたいもんですな………」

 ある意味で、彼の憤りは当然なのかもしれない。
 隊に支給された麻酔弾さえ有効であったなら出る事の無かった、そして決して少なくない数の部隊員が、自衛隊員としては再起不能に追いやられているのだから。
 中には死亡した者さえいる。現場の最高責任者として、彼は少なくない怒りを確かに抱えていた。
 それはギルステインに向けられたものだったのか、それとも無茶な事を言い出す上層部へ向けられてものだったのか、或いは傍らにいる女性科学者へ向けられたものだったのか。
 しかし、それらは同時に誰に向けられる類のものでない事も男は理解していた。
 ギルステインには強い嫌悪を感じるが、同時にギルステインに罪が無い事も、そして上層部と女性科学者がギルステインを為るべく無傷で捕獲しようとする理由も理解できるのだから。

 野上は一旦、言葉を区切り。

「それと」
「まだ何か?」
「25号の方は我々がしたものではない」
「それはどういう……――――」

 ヘレナは一瞬、男が顔を微かに顰めながら告げたその言葉の意味を図りかね首を傾げるも、直ぐにその表情をはっとさせた。

「…………まさか、“彼ら”?」

 野上達特務部隊で無いとすれば誰なのか、それに彼女は直ぐに行き当たったのだ。未だ半信半疑の“彼ら”の存在に。

 ――『魔法』などと言う、御伽噺の中にしかない筈の力を行使する“彼ら”の存在に。

 野上は重々しく、或いは苦々しく頷き。

「ええ、そのまさかですよ、ドクター」
「……………………」

 ヘレナは何かを確かめるように再び化け物の検体25号、より損傷の激しい方へと目を向け。

「失礼します!」

 その時、再び、しかし今度は野上が入ってきた方とは反対側の自動ドアが開けられたのだった。
 ドアが向こうに立っていたのは、女性の自衛隊員とその隊員に案内されて此処まで来たのだろう灰色に近い髪をしたスーツ姿の壮年の男だった。

「Dr.マリエッタにお客様です」
「どなたかしら?」

 しかしその女性隊員は戸惑うように、或いは躊躇うように口篭った後、意を決して口を開いた。

「“協力者[パートナー]”よりお越しの方です」
「………そう………」

 噂をすれば影が差すとはこの事を言うのだろうか。ヘレナは日本語の諺を実感しながら、女性隊員から、角張った細めの眼鏡を掛けた男へと視線を移した。
 逆立てた髪は短く、目元は何処と無く穏やかであるが顔立ちは精悍で整っているようだ。が、無精髭が少々それを損なっているようだった。
 人によっては、そういう無頓着な部分を好ましく思うかも知れないが、少なくともヘレナにとっては魅力的ではなかった。
 まあ、後ろの男と違い泥塗れ、土塗れで入ってこないだけ此方の方がまだましか、と思い。

「“協力者”の方が、わざわざこのような場所にどのような用件で?」

 青年はやや温度の低いヘレナの言葉に苦笑を小さく零した。
 ヘレナにとって協力関係にあるとは言えど、眼前のこの男は部外者であるのだ。
 機密保持という事もある。余り中を歩かれて施設の中を見られるのは歓迎できなかった。

 しかし彼女の思惑を知ってか知らずか、男はヘレナとは違い、人好きのする声音と共に言葉を紡いだ。

「始めまして、僕はタカミチ・T・高畑です。
 今日、ギルステイン研究主任であるあなたが来日すると聞いて、学……あ~、関東魔法協会会長、近衛 近右衛門の名代として挨拶に来た次第です。
 以後、お見知りおきを、Dr.マリエッタ」
(魔法……ね)

 実際に見た訳ではないが、映像として見た事のあるヘレナは、それでも科学者として未だ強く拒否感が残っているその言葉を胸中で零す。

「ヘレナでかまいません、Mr.高畑。わざわざご足労をかけてもらい、ありがとうございます」
「いえ」

 そして差し出された手を、ヘレナは今度は握り返したのだった。
 ヘレナは握り終えた手を離すと、タカミチと名乗った男の目を見詰める。
 その瞳に映る機微を見逃さぬ、とでもするかのように真っ直ぐに見詰めた。

「ところで、あなた方でよろしいですか? ……検体25号をあのようにしたのは」

 その表情、その声音は然も虚飾を見破ろうとするかのように鋭い。ともすれば荒事に場慣れした者でも怯むかもしれない、それは眼光だった。
 しかし、タカミチはその眼差しに動じた素振りを一切見せず、ただただ疑問に首を傾げ。

「検体25号、ですか?」
「ああ、これは失礼しました。昨日、あなた方が倒したモンスターのナンバーです」
「…………………」

 すると彼は一瞬、不快そうに眉を顰めた。
 そしてあたかも気を落ち着かせるかのように、一呼吸置き。

「………仲間の一人が危うい目に会いかけまして。とっさの事に、手加減をしそこねました。何か不都合が?」

 その物言いにヘレナは、この男もか、と一瞬、溜め息を吐きそうになるのを辛うじて堪えたのだった。

「……あれらは貴重なサンプルです。あれほど破壊されては、サンプルとしての信用性に欠けますわ。
 あれらを無傷で取り押さえることはあなた方であっても危険である事は、重々承知していますが、出来る限りそうして頂きたいのです」
「善処は、します。ただ、我々は生命を優先するという事をご理解ください」
「……………」

 ――善処する、善処して貰う。

 ヘレナとタカミチ。二人は異なる組織に属し、その組織も飽く迄、協力関係にあるだけで、どちらが上位で下位なのかという事もない。
 それに彼はこの場で組織全体の意思を決定出来る立場でも無いだろう。其処が此処で出来る互いの妥協点、取れる言質か、とヘレナは一先ず、それで自身を納得させた。

 タカミチの発した、生命という括りがどの程度まで掛かるのかが気にならないでもなかったが、あえてそれは流す事にしたのだった。

「分かりました。そうして頂けるよう、お願いしますわ」
「手加減……か」

 その時、野上が後ろでそう呟くのが微かに聞こえ来る。
 タカミチにそれが聞こえたかどうかは分からないが、野上がそう呟いたのも当然かもしれない。
 彼らは全力であの怪物と対峙し、ようやっとだ。勿論、わざわざ手加減をする理由も無いだろうが、それをする余地など無かった筈である。
 そしてそれはヘレナ・L・マリエッタの思いでもあった。

 彼らにとって、ギルステインという埒外の存在ですら、手加減を考慮できる存在だという事なのだから。

 溜め息の一つや二つも吐きたくなる。

「しかし、あなた方が持つその『力』……。そんな物がこの世に実在していたとは今でも信じられません、Mr.高畑。
 けれど、25号の有様を見てしまうと信じるしかないのでしょうね」

 ある意味で、検体25号とナンバリングされたギルステインの価値とは其処にあるのかもしれない。
 今まで、余り信じていなかったと言外に告げる女性へ、タカミチはただ笑んだ。

「それは、ありがとうございます。ただ正確に言うのなら、僕は体質的な問題で使えませんが」

 しかし、その言葉はヘレナはくすりと笑い。

「あら、そうなのですか。だとしたら、それが使えなくとも其処に属することのできるあなたはきっと、とても優秀なのでしょうね」
「はは、そう言っていただけるとありがたいですよ」

 けれど、女性は直ぐに表情を取り澄ます。

「……もう一度、確認させて頂きますが、そちらもやはり、分かってはいなのですか?」

 その問いにタカミチは表情を僅かに沈ませると重々しく頷いた。

「ええ……。我々の方も解明には全力を挙げていますが……彼らの治療法について、まだ成果らしい成果は出せていません。
 文献等から、彼らに関する記述が無いかも調べていますが、今のところはこちらも。そちらは何か進展は?」
「新しく提供できるような物は何も。依然、我々が取ることのできる全ての手段をもって解析している段階ですわ。
 出来れば生きた個体のデータも欲しいのですが、それはまだ」
「そう、ですか……」

 タカミチは視線を逸らすと、ガラスの前に立ち、眼下の光景を細めた目で見詰め。
 その哀しそうな眼差しに釣られ、ヘレナも視線を辿れば、其処にあったのは腹部の開けられたギルステインという解剖の光景だった。

「どうしました?」
「いえ、ただ……本当に彼らを救う術は無かったのだろうかと、少し」
「ありませんわ。何と言っても今、それを探しているのですから、我々は」
「ええ、それは承知しています」

 言葉で同意し、けれど頷きはしなかったタカミチをヘレナは見遣り。

「……けれど、それでも。僕は何時だって救える事を諦めたくはないんです。
 救える可能性が全くないと、決めてかかりたくないんです、Dr.ヘレナ」

 そう、臆面無く言われた言葉に、冷徹に――何処までも冷ややかに徹すると心に誓った女科学者はすっと目を細めた。
 そしてその青さを哂う様に、けれど何処か羨ましそうに呟いたのだった。

「対峙して尚、そう思えるのは、あなた達に『力』があるからでしょうね……」

 羨ましいですわ、と小さく、本当に小さくヘレナは呟く。
 だから、その呟きは誰にも聞こえなかった。少なくとも、その呟きに何か返される事はなく。
 ただ男は微かに笑い。

「そんなことはありませんよ。それに僕達のような『力』が無くとも、同じことを言う人はいると思います」
(そう思えるのも、やはり『力』を持っているから、なんでしょうね)

 ――或いは、人の倫理観を捻じ伏せるに足る力を持って尚、そう思える彼こそが彼らの中に在っても稀有なのか。

 それとも、彼は決して稀有ではないのか――

 事に当たってでしか接点のない相手の真意など、ヘレナには知りようも無いし、測りようも無い。
 ヘレナにとって、彼らとの接点は飽く迄、『ギルステイン』というファクターを通してでしかないのだから。
 だからこそ、その言葉はヘレナの胸の内で零されただけだった。
 その艶やかな唇はただ、そうですか、と当たり障りの無い言葉を紡ぎ。
 極端な事を言ってしまえば、ヘレナにとって使えればそれで良いのだ。己の目的に辿り着く為に。
 だからこそ、ここで態々、協力関係を拗[こじ]らせる必要も無い。

 沈黙が、部屋に満たされる。
 三人の視線はただ、眼下のギルステインへと向けられる。

 けれど、その沈黙は長くは続かなかった。壁に備え付けられた室内電話が鳴り。

「……Dr.ヘレナ。解析室からです。取得データの確認を、と」
「わかりました」

 それを取った自衛隊員がヘレナへそう告げれば、彼女はそれに頷き返す。

「それでは、私はこれで。Mr.高畑、あなたはどうしますか。ここでしたなら、もう少しいても構いませんが」
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
「分かりました。ただ出て行く際は先程の隊員に声を掛けて下さい。行きましょう、野上隊長」
「了解した」

 そして野上を伴い部屋を出たヘレナは管制室へ携帯を繋げる。

「彼の行動をつぶさに監視して下さい、些細な行動も見逃さないように」
「あの男がスパイ行為を働くと?」
「……念の為ですわ。それと野上隊長」
「何か?」

 ヘレナは解析室へと通じるドア――気密を保つ為に、幾つかの扉によって分けられた区画の前で立ち止まると、野上へと振り返った。

「あなたはその身体の汚れを取ってから、この先は来て下さい。
 この施設を清潔に保つことに従事している方々の事も考えていただければ幸いです」
「………そうさせていただきましょう。では」

 その冷淡な言葉に野上は今度こそ苦笑を零した。
 彼としても、情報の信憑性を自らの行いの所為で下げるのは望む所では無い。
 野上はへレナと別れ、別の道を進んでいく。そして、ヘレナはただ先を見据えて歩いていった。
 まるで、先に辿り着く為の事以外の全て振り払うかのように、真っ直ぐと。






 故に。






 誰も居なくなったその空間でタカミチは一人佇み、そして腑分けされていく怪物達を静かに見詰め。

「…………………ギルステイン、か………」

 僅かに揺れる目を伏せた。


 それは決して涙を流さぬように堪えているようにも――


 ――必死に涙を流そうとしているようにも、見えるのだった。












◆後書き◆

の前に先ず。

※『円谷』 久美
 なんか無いみたいだったので、勝手に命名。彼女の場合、苗字ですが。
 あだ名はあるのに、結構女の子に対して言うには凄いあだ名が。
 ただ問題は彼女の苗字が今後呼ばれる事があるのかどうか。

※野上 『雄一郎』
 一通り見直してみたのですが無いみたいだったので、やっぱり勝手に。
 ただ問題は、彼の名前が今後、使われる事があるn(ry

本当は一章前編の時には大体完成してたんですけど、推敲してたらなんか時間がかかった……。
だがきっと際立った不自然さは無い筈! 無いと……良いなあ……。



[8616] 一ノ章後編[Boy=Awaking]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:3b173183
Date: 2009/08/21 09:55



 ――サナギ狩り。

 それは、自警団と自称する不良集団による少年少女襲撃事件を指す言葉である。
 不幸中の幸いというべきか、今の所、死者までは出てはいなかったが、被害者が一時、意識不明の重体に陥る事態も間々有った。
 発生件数で言えば少年少女一家惨殺事件の優に倍以上。此方の方が余程、社会としては由々しき問題であると有識者達から懸念されている、それは案件だった。

 ――彼らが暴行を加えた子供達の殆どが、罪を犯していた訳でもなく、それを予感させるような態度を日頃見せていた訳では無いのだから。

 真実、サナギ狩りに会った少年少女達に何ら非は無く、徹頭徹尾、彼らは被害者であったのだから――

 けれど、その評価を彼らは鼻で笑う。
 世間の奴らは何も知らない、無知な馬鹿共だと、そう見下していた。

 何と言っても、怪物はサナギから出てくる前に殺すしかないのだから、とそう脅えていた――

 彼らにとって、サナギ狩りは害獣を退治するという正当な行為に等しい。
 時折、山から下りて人里を騒がせる熊や猪といった害獣を警察や猟友会の人々が退治・撃退すると言う行為に。

 例えそれが、彼らにとって同時に娯楽の意味もあったとしても。

 普段、疎まれている事を如実に感じ取っている彼らにとってそれは正義を偽れる格好の遊びだった。
 何よりも自分達は正しいことをしているのだと、酔い痴れる事が出来た。
 何よりも、自分達を殺す存在を、自分達が殺すと言う事は酷く愉悦に浸る事が出来たのだ。

 ――それがどれだけ罪深く、愚かで、浅ましい行為であるかなど、彼らは知ろうとも考えようともせず。

 ただ彼らにとって、それは考えるに値しない、至極どうでも良い事柄だった。

 だから、テレビで報じられた事件は何時も、彼らの欲に火を点ける。

 そして、そんな彼らを誰も諭さない、咎められない。

 普通の人は大抵、彼らを避けていた。諭そうとすれば、どんな目に合うか分からないのだから。
 下手をすれば、暴力が自分に向けられるかもしれないという恐怖は人を萎縮させるには十分だった。
 中にはいたが、けれどそれだけでは彼らは止まらない。
 警察もまた、“まだ”事件を起こしていない彼らを捕まえる事は出来なかった。
 どんなに歯痒くとも、彼らは事が起こってからでしか動けない。
 ただ罪を犯しそうという推定だけでは、どんなに粗暴な者も警察は捕まえる事は許されていない。
 それでも何とか行なっている職務質問程度では、なんの抑止力にもならなかった。

 或いは、いつも彼らを真っ先に糾弾していた警察が、それぐらいしか出来ない事に彼らは増長し――



 そんな不良達の目に、その町の大通りから少し外れた道を歩く“少年”の背が見えたのはその時だった。

 不思議な事にその通りには人は全く居らず、まるで休日の朝のように静か。然も其処だけぽっかりと人が失せたかのようだった。
 平日の昼間という事を考えれば、なんとも奇妙なその状況と光景に、しかし彼らは然して疑問は抱かず、ただこれで邪魔が入らないとほくそ笑んだだけだった。

 逆に、まるで自分達の為に舞台が整えられたかのようにすら思っていた。

 ――既に子供ではなく、けれど大人にもなれなかった未熟な者達の拙い欲が加速する。

 その上空で羽ばたく、翅の生えた金属球が在る事など誰も気付かず、気付けずに――









◇ 魔獣星記ギルま! 一ノ章後編 [Boy=Awaking] ◇









「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」

 菊池は必死に足を動かし、路地裏を駆けていく。疲労の溜まった足を尚動かし、必死に逃げていた。
 けれど、迷路のように広がるその道はまるで彼の命運を告げるかのようでもあった。

 ――彼が麻帆良に近いこの町に来たのは、何のことは無い、ちょっとした買い物の為だった。

 麻帆良学園都市から電車で二駅程離れたその町は、麻帆良学園都市の中では性質的にも心情的にも買い難いそれを買う際に菊池が何時も訪れる所だった。
 そして目的の物のジャンルがジャンルである為、人通りの少ない通りにあるショップで何時もの通りにの買い物をして、先程、電話のあった今関と伊織と合流する為に歩いていれば、“何時の間にか”道には人気が全く無くなっていた。
 平日の昼間とは思えないその静寂に、何となく一人、ぽつんと取り残されたかのような不安を抱きながら菊池が歩いていると、その連中は突如として轟音と歓声、そして罵声と共にやって来たのだ。

 驚き、振り返った先に見えたのは、ごてごてした装飾をフロントやバックに取り付けたオープンカー。
 その車には、あからさまなまでに不良然とした強面の男数人が乗り込んでおり。

 ――それが『サナギ狩り』の連中であると言う事に菊池が気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 そして彼らのその視線の先に自分が在る事にも――

 今に至る少年の遁走劇は、そうやって始まったのだった。

 けれど菊池は、車に追い立てられながらも、何時か誰かが助けてくれると始めはそう思っていた。
 直接、助けてはくれなくとも、誰かが警察を呼んでくれると、そう信じていた。
 けれど、どんなに走っても人と出会わない。誰も来ない。サイレンの音など一向に聞こえて来ない。
 進んで行けば行くほど、逆に人の気配から遠ざかっていくかのような“錯覚”を抱いてしまう。
 菊池の目に見えるのはただただコンクリート壁で挟まれた無人の路だけ。
 それで誰かには助けを求めようにも出来る訳がない。
 そして、その路は常に車が通れるだけの広さが保たれ、十字路やT字路で曲がっても直線で直ぐに追いつかれてしまう。
 自力で警察を呼ぼうにも、ポケットに入れていた携帯は先程、取り出そうとした時に誤って取り落としてしまった。

 その度重なる不運に少年は心を挫かれそうになりつつも、ここで立ち止まっては己がどうなるか分からない。
 菊池は暴力への恐怖に押され、ただ只管に足に力を込め、走り続け。

 けれど相手は車、菊池は生身――足である。どちらが優位で、どちらが劣位かなど明白だった。

 だから――

「うぉりゃっ!」
「がっ…………」

 追い立てる事に飽きた一人が、車のスピードを利用した、何ら躊躇のない跳び蹴りをその背に入れるのを前を向いて走るし無かった菊池には避けようにも無い事だった。
 その衝撃に溜まらず、菊池は倒れ込み。その余りの痛みに悶えていると、鳩尾に打ち込まれたのは容赦ない爪先の蹴り。

「ゴえ……!! ゴホッゴホッゴホッ!!」
「おいおい、もう終わりかあ? ナってねェよなァ、今年の中坊はよ!」

 男達は車から降りると、蹲る少年を取り囲みながら、ヘラヘラと笑う。口々に喚き始める。

「おめーらさァ、放っとくと、怪物になるんだってなァ」

 それは菊池へと向けられた物でなく、ただただ自己満足に浸る為の胴間声。
 菊池は痛みに呻きながらも、理不尽への怒りに、悔しさに拳を握り締めた。
 けれど彼らはそれに気付かない。ただ悶える様を嗤うだけだった。

「怪物ンなって家族やオレたちを食い殺すんだってナァ!!」

 何が可笑しいのか、菊池の頭を踏み躙りながら、男達は野太くも甲高い笑い声をただ上げる。

「もう40人も殺してんだぜ? おめーらよ! 害虫だよ、害虫!!
 社会の害虫は『サナギ』のうちに、プチッと潰していいことになってんだ」

 ――自分達がされてきたように。

 然も自身がそう言われ続けてきたかのようなその言葉は、けれど愉悦に塗れ。

「町の平和は、オレたち自身で守らねーとなんねーからな」

 けれど、彼らは気付いているのだろうか。

 ただ素行が悪いというだけで、全く顔も知らない名も分からない誰かの悪行を押し付けられ、すると決め付けられ、蔑まれた眼差しで見られ。
 そして、その事を憤り、反発し、恨み、そして彼ら自身決して気付かず、また認めなかっただろうが悲しんだのは誰だったのか。
 今、己らのその所業が、自分達がされてきた、正にその理不尽なレッテル貼りである事に、彼らは気付いているのだろうか。

 けれど、彼らはきっと気付かない。

 ――サナギ狩り。

 彼らは正しく、狩りをしているのだ。社会を騒がせる害獣を狩っている、何と言っても自分達は正しい、無償で社会の為に働いているのだと、そう彼らは思い込んでいた。そう信じ込んでいた。
 “これぐらいの充足感”ぐらいあって良いではないか。そんな風に思っていた。

 それがただ単なる私刑[リンチ]でしか無い事を自覚する者も、教える者も其処には居らず――

「ま、そーゆー訳だ。害虫は――」
「誰が害虫だ! 誰が!!」
「あ?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 けれど、その時、ひどく威勢の良い大声が響き渡った。
 次の瞬間には菊池を囲っていた不良達の頭へ振り下ろされたのは、竹刀による痛烈な一撃。
 上手く入ったのか、余程竹刀での一撃が重かったのか、数人が地面に尻餅を付き、意識を眩ませている。
 そして不良達の間を駆け抜けた、その人影は倒れ伏す菊池の前には竹刀を構え立ち。

 ――今関だった。

 少年は怒りも露に唯、吼える。

「なんだよ、さっきから言わせてりゃあ好き勝手抜かしやがって。
 良い歳してそんな脳味噌足んねえ事言ってから、あんたらはいつまでも愚図だってんだよ!
 群がんなきゃ、たった一人に喧嘩もしかけらんねえ意気地なしの癖に、知ったかぶってんじゃねえ!!」
「あ゛あ!?」

 真正面からぶつけられたその言葉に彼らは色めき立った。

「なんだ、本当の事言われて頭に来ちまったのか? 自覚、あったんだな」

 その反応が然も意外だとばかりに今関はしみじみと呟いた。
 その様に不良達の意識は瞬く間に沸騰する。

「てめー、そいつの仲間か?」
「だったら、どうするよ」
「ちょうどいい、てめーも『サナギ』だ、駆除してやらァっ!!」

 ナックルダスターに鉄バット、チェーンに警棒、果てはバタフライナイフ。彼等はそれぞれ手持ちの武器を構え、一斉に襲い掛かる。

 ――そして始まったのは、大立ち回り。

 今関がそれはそれは派手に大きく動き回る。腹の底から声を上げ、面を打ち、胴を打ち、小手を打ち。払い落とし、打ち落とし、巻き落とし。
 それはまるで不良達の目を引き、意識を引き付けようとするかのような闘いだった。事実、今関としては、彼らに勝つ積もりなど毛頭無い。

 “此方”に意識を向けさせれば、それで良いのだから――

 そして、徐々にその闘いは菊池から離れていく。
 そこへ、蹲る菊池に身を低くしながら、こそこそと駆け寄る一つの影。

「ヒッ」

 しかし直ぐ前で止まった足音に、菊池はビクリと恐怖に身を震わせ頭を抱え。

(菊池!)

 けれど掛けられたのは罵声でも暴力でも無く、日頃聞き知る友の声だった。

「いお……」
(し!)

 思わず声を上げそうになる菊池に、音を立てぬよう口の前に人差し指を立て注意したその影の主は伊織だった。

(立てる!? 今の内に逃げよう!)

 伊織はすぐさま菊池を助け起こし己の肩に腕を回させると走り出した。そして、その通りの直ぐ脇にあった路に入り込む。
 ただその直前、今関の竹刀の一撃に意識を朦朧とさせ、回復に努めていた不良の一人が伊織と菊池の逃亡に気付き。
 慌てて追いかけようとするのを別の不良に止められ、そして何を言われたのか頷き返すとその二人はその路に入らず、道を駆けていく。

 その二人に、けれど伊織が気付く余裕は無く。しかし、今関は辛うじてそれに気付き、

「いおっ……」
「オラァ」

 伊織達に呼び掛けようとするも、乱暴に振るわれた警棒で遮られた。
 今関は歯噛みをしながら身を躱[ひるがえ]して、何とかそれを避け。

(上手く逃げてくれよ、二人とも)

 結局、今関は迫り来る幾つもの武器を辛うじて捌きながら、そう願うのが精一杯だった。
 二人に合流する為に、不良達を突破しようにも数が違う。彼は学生剣道家としては強かったが、飽く迄、試合の中での話だった。
 先程、不良達の壁を抜けられたのも、単に不意を討てたからに他ならない。
 今関の振るう剣は飽く迄、剣道の竹刀に技。彼らを一気に倒すには武器は脆弱で、技はそれに不向きだった。

 だからこそ、今関はただただ友人二人の無事を祈り。

「おおりゃあああああっ!!」
「ぐえっ」

 一喝と共に不良の一人の咽喉を突けば、その不良は後ろに勢い良く倒れ込む。
 仲間が倒れる様に不良達はただ激し、一層苛烈に今関を攻め立てるのだった。

「ガキがっ!」
「テメェ!」

 故に今関には己の戦果をそれ以上目をくれる余裕は無く、その脇から振るわれたバッドを捌き。

 ――その頭にチェーンが掠った。

「ぐあっ!」

 けれどその衝撃は凄まじく、頭が吹き飛ばされるかのように弾かれた。
 今関は思わず体勢を崩す。其処へ、濁声を上げながら一気に群がってくる男達。



 ――何処か遠くから聞こえてくるのは、パトカーのサイレンとヘリの音。






◆◇◆◇◆






 狭い路地裏を伊織と菊池は進んで行く。
 けれど伊織は菊池に肩を貸し、菊池は痛みに足を引き摺らせている為、その進みはただ歩くよりも少しばかり早い程度。
 そして、その先の路地は曲がりくねっている為、何処に続いているのか、その先に何があるのか、伊織達からは分からなかった。

「もうすぐ………もうすぐ、通りに出るから……」

 だから、伊織のそれは只単なる気休めに過ぎなかった。伊織としてもこの町の造りはよく知らないのだから、自分達が何処へ向かっているのかなど知りようも無い。
 ただ、その頭の中にあったのは兎に角、あの場所を離れようという意識だけだった。

 その焦りに伊織は必死に歩を進め。

「わっ!!」

 しかし息が上がりかけているところを無理矢理喋ったからか、伊織は足を捻り体勢を崩してしまう。
 痛みに踏ん張れない菊池に肩を貸している事もあって、伊織と菊池は地面を転がってしまった。

「いっつ……。ゴメン、菊池……大丈夫か」

 伊織は痛みに微かに呻きつつも、直ぐに起き上がる。
 けれど菊池は身に響いた痛みに身悶え、呻いていた。嗚咽を、噛み殺していた。

「……でだよ……、なん…なんだよォ……!!」

 ――堰が崩れたように恨み辛みを、己を襲った理不尽への怒りを、まともに抗えなかった悔しさを吐き出していた。

「オレたち、14だぜ? 14年、普通に生きてきただけなんだぜ!?
 なのになんでこんな目に会わなきゃいけないんだよォ……!? 『サナギ』ってなんだよ? 虫かなんかかよ!!
 オレたちが怪物になるわけないだろがよォ……! そんなこともわかんねえのかよ、あいつら!! ちくしょお……!!」
「菊池……」

 伊織はそんな友に、どんな言葉を掛ければ良いのか思い付かなかった。
 痛かったろう、辛かったろう、怒ったろう、悲しかったろう。
 では、どう慰めれば良いのかが分からない。どう言えば、友のその蟠[わだかま]りを解せるのか、少年には分からなかった。

 ただ傍に居て、只黙って聞いてやるしか出来なかった。

「夢見が……悪かったのかな………。
 お……――オレさ、15歳の事件が起きる日にはさ………、い……いっつも同じ夢を見てたんだ……!!」

 だからこそ、小さく呟かれたその言葉に伊織はただただ驚愕するしかなかった。

「菊池!? それって……!」
「今朝も、今朝も……氷の中……女の子……」

 身悶えながら、それでも菊池は言葉を止めない。まるで熱に浮かされ譫言[うわごと]を口走るかのように、その声は揺れていた。
 ふと、伊織はその菊池の悶える様を何となく奇妙に思った。最初は痛みに呻いているのかと思っていたが、よくよく見れば何かを堪えているかのようだった。

 ――胸を押さえて悶える様は、まるで内から湧き上がる何かを必死に抑え込もうとしているかのようだった。

「菊池! 菊池!?」

 何故か、嫌な予感がした。何故か伊織には、菊池をこのままにしてはいけないような気がした。
 だから伊織は気を紛らわせようと、宥めようと、焦りに乱れる思考で必死に考え。だからずっと秘して誰にも言えていなかった事を友人へと告げようとした。

 せめてその苦しみが少しでも紛らせればと、そう考えて。

「しっかりしろ!! その夢、オレも……」

 告げようとして。
 けれど、それを遮ったのは嘲りを多分に滲ませた濁声――不良達。

「お待たせ~」
「………!」

 伊織は驚き、ばっと振り仰いだ。そして見えたのはヤニに黄ばんだ歯、下卑た笑み。

「迎えに来ちゃったよ~ん。来んのがおそいから、心配になっちゃってさ~!!」
「手間ァかけさせんじゃねえぞ、中坊がっ!!」
「いお……り……逃げ……」
「くっ!!」

 伊織は恐怖に身体を震わせながら、それでも友を庇うように不良と菊池の間に己の身体を割って入れた。
 しかし、その献身を彼らは嗤う。

「オイオイ、何、カッコつけちゃってるんでるんですか? お前。
 『サナギ』はさなぎらしく、おとなしくじっとしてりゃ……」
「あ?」

 それでも伊織は不良二人と対峙し、菊池を己の背に隠す。
 これから振るわれるだろう暴力への怖れに、目尻に涙を僅かに溜めながらもそれでも、菊池を置いて逃げようとはしなかった。



 だからこそ――



 菊池の異変を先に気付いたのは、彼らだった。

「に……! に、げ……っ……い、おりぃ……!!」


 だから――


 ニヤニヤと吐き気のするような下卑た笑みを浮かべていた不良達が行き成り、呆然となった事を訝っていた伊織が友人の異変に気付けたのは、服をびりびりと引き裂く音が聞こえてきたからだった。

「え……?」

 伊織が疑問の声を上げた直後、まるで象か何かが足を下ろしたかのような、ズンと酷く重量感のある音が聞こえ、地面が揺れ。

「なっ?!!!!」

 伊織が振り向けば、其処にいたのは仰ぎ見るほど巨大な一体の黒い怪物だった。
 黒い甲殻腕は丸太のように太く長く、立っていながら地面に着き、その巨大な身体を支えていた。
 上半身ははちきれんばかりの筋肉に盛り上がり、見上げる伊織にはまるでそれが大岩のようにも映る。
 けれど、それを支えている黒い甲殻に覆われた下半身は、それらと比べればずっと小さく。
 身体のバランスは何処かゴリラにも似ていて。禿頭[とくとう]の口は昆虫の顎にも似て。

 そして何よりも大きい、それは象にも匹敵する巨大さだった。見上げた伊織が思わず尻餅を着いてしまう程に、それは大きかった。
 けれど、その姿から感じる凶暴性はそれと比ぶるべくもない。


 ただ其処に、“菊池 勝”の姿は無く――


「オ゛アヴオオオッ!!!」

 怪物が動き出す。すぐ足元にいた伊織を通り過ぎ、ただただ真っ直ぐに無頼漢へと差し迫った。
 そして野獣よりも恐ろしく、おぞましく吼えながら、その伊織の腕よりも二回りも三回りも太く大きく鋭い鉤爪を振り上げた。

「ひ!!」
「あやおょおえ!!」
「ヴオオゥオオアア゛オオオオ!!!」

 そして響き渡ったのは、人の悲鳴と獣の咆哮。

 ――人が潰れる音、人が千切れる音、人が折れる音、何かが吹き出る音、何かが零れる音。

 グチャッビチャッゴキボキンップチュビキビキビキ………――

 そして怪物はその巨大で強大な腕[かいな]を振り上げ、疾うに息絶えた不良“だった”物を押し潰し。

 ――ブボッと。

 その中に詰まっていた“何もかも”を押し出した。

 コンクリートの地面に赤が広がっていく。鮮やかなまでに赤い物が転がっていく。何処か鉄錆にも似た匂いが拡がって行く。
 人だった物が原形を失くし地面の染みと化し、それでも尚、怪物は唸り続けた。その掌で、その拳で肌色をしたそれがへばり付いた地面を叩き付け続けた。

「ガウオオウ゛オオォォオオオオオ………!」

 伊織の耳に届くのは、獣染みた唸り声。
 けれど歓喜というには、余りに悲痛な涙を流しながら、獣はただただ低く唸り呻き。

「………………………………」

 伊織は目の前で起こったその何もかもから、目を逸らす事も耳を塞ぐ事も出来なかった。
 それは余りに常軌を逸した光景だったから、まともに考えられなかったから。逃げようという言葉すら、その脳裏には欠片も思い浮かばなかった。
 けれどそれでものろのろと腕が後ろへと動いたのは、生物としての本能が為した賜物か。

 ――だから。

 その手に、何かが当たった。
 伊織は思わず、それを掴み上げ、目の前に翳し。

 それは服の切れ端、千切れた襟だった。何処かで見たことのある物の名残があった。

「あぁ………」

 涙が、零れた。

 その服の切れ端を持つ手の向こうに見える、怪物の背を見て――

 ――涙が零れた。

 恐怖に潤み溜まっていた、けれど今の今まで零れる事の無かったその涙が目尻から零れ落ちた。

 ――その涙は、少年の理解の証。

 それは閃きにも似て――少年は唐突に理解してしまったのだ。

 姿の見えない“菊池 勝”が何処に居るのかを――

 目の前で、人の血肉を撒き散らす怪物が、一体誰なのかを――

 けれど少年にとってその理解は、その事実は、余りに哀しかった。

 だから――

 ただただ伊織は呟いた。

「きく……ち……」

 先程まで菊池が着ていた服の切れ端を力なく掴みながら、ポツリと呟いた。


 そして、まるで名を呼ばれたから、とでも言うかのように。


 ――黒い巨獣が、振り向いた。






◇ ◆ ◇ ◆ ◇






 一瞬の浮遊感。
 直後、足を思い切り引っ張られ、身体がそれに続き、そしてコンクリートの地面に伊織は叩きつけられた。
 ボギッと太股で何かが壊れた音が耳の内側に響く。激痛が脳を灼く。

「ガボッ」

 けれど上げようとした声は、逆流してきた胃液で遮られ。

「げはっへほ」

 伊織の身に何が起こったのか――

 それは至極単純。黒い巨獣がまるでおもちゃのように伊織を振り回し、無造作に地面へと叩き付けたのだ。

「ガァウ゛オオウ……! ゴオァウ゛ォ!!」
(ああ、死ぬな……これは……)

 伊織はけれど、起き上がる事も、身悶える事も出来ず、ただただ不様に転がっているしかなかった。
 己が身に確実に迫っている死を、何処か遠くに感じる事しか出来なかった。

 ――けれど、それでも。

 瀧川 伊織は生きていた。

 肋骨は折れ、腕は折れ、足は今さっき折れた。
 もしかしたら、背骨の骨も折れているかも知れない。骨が内臓に突き刺さっているかもしれない。

 ――けれど、それでも。

 伊織はまだ生きていた。けれど、それが少年にとって良かったのか悪かったのか。
 そして何よりも何故、人の身体をまだ為しているのか。先程の不良達は瞬く間に肉塊へと変えられたと言うのに。
 猫が鼠を嬲るように遊んでいるからか、それともまだ躊躇いは残っているのか。

「ウ゛アウ!!」
(……やるなら一思いにやってくれ……いたいよ……菊池)

 ただ、そのどちらだとしても、痛いのも苦しいのも、もう十分だった。
 だから、伊織はただただ思う。楽にしてくれと、殺してくれと。

 せめて、友達であるなら、友達であったなら――

(違う!!)
「アウ゛オオオ」
(違う!! 助けてくれ!!)
(え……?)

 けれどその時、声が響いた――獣が啼いた。
 脳裏に聞こえて来たそれは菊池 勝という友の声だった。耳朶に響き渡るのは巨獣の声だった。

 ――それは、友が助けを求める声だった。

 けれど、眼前の巨獣は伊織をその巨大な両手で掴み上げると、ギリギリと握り潰しに掛かり。

 ゴキ、ポキと骨が鳴る音が耳の裏側に聞こえて来た。身体を締め付けられて、まともに呼吸が出来ない。
 ヒューヒューと喉から空気が掠れる音がする。

 しかし、その音を打ち消すかのように友の絶叫が伊織の“意識”に響いたのだった。

(助けてくれ! 伊織!! オレはもう自分を抑えられない! だけど……わかるんだ!!
 お前ならオレを止められる! 助けてくれ、伊織!! 助けてくれ! オレはもう、殺したくないんだ!!
 お前を、殺したくないんだ!!! だから! オレを止めてくれ!! 伊織ィッ!!!!)
(ばか……いうな、よ……そんなことできるわけ………)

 ――どうやって?

 食道から何かが迫り上がる。それを堪える事など出来ず、ゴポッと溢れた。
 視界の隅に映ったその色は赤く、首筋を、胸元をしとどに染める。

(ああチか……)

 それを見ても、まるで他人事のように伊織は思うしかなかった。
 こんな風に血反吐を吐くしかない自分に何が出来るのか、こんな風に握り潰されかかっている自分に何が出来ると言うのか。

 ――本当に?

(な、にもでき……るわけない、だろ)

 しかし。

 けれどそれでも。

 そう思ってしまっても。

 助けて上げられるのなら、伊織は菊池を助けてあげたかった。
 だけれど、何を如何すれば良いと言うのか。

 ――本当に、僕は、瀧川 伊織は何も出来ないのか?

 心の何処かで幻聴の如く聞こえるのは、己を問う己が声。

(ぼ、くは……)

 伊織は足掻く。

 身体は、余りにボロボロで脆弱に過ぎ。
 心は一度、死に折れ、縁[よすが]とするには余りに儚く心許ない。


 ――しかし。

 涙を流しながら――

 ――けれどそれでも

 必死に――


(ぼくは…………!!)

 伊織は、足掻く。握り潰されつつあるその身体は無様でも、一度は折れたその心は微弱でも。

 諦められなかった、諦めたくなかった。

 ――何となれば。

 菊池が化け物になっても、化け物になって人を殺しても、化け物になった菊池に殺されかけても。




 “瀧川 伊織”にとって、“菊池 勝”はかけがえの無い友であるのだから――――




 ―――― 目覚めよ ――――




 小鳥が囀[さえず]るかのような、少女の美しい声が聞こえて来たのは、そんな時。

「ッ!」

 ドクンッと一際大きく――心ノ臓が、高鳴った。




 ―――― 汝、獣[けだもの]の裔[すえ]なる者 ――――




 伊織を締め付ける音が、止まる。その内に響くのは、先程とは比べ物に為らないほど力強い鼓動、脈動。
 その髪から色素が抜けていき、余りにも真白いそれへと変わっていく。
 ざわりざわりと、その内から滲み出るかのように少年の身体が黒く、黒く染まっていく。




 ―――― 遥か暗黒の深淵[アビス]、白熱のプラズマ ――――




 あまつさえ、巨獣と較ぶれば余りに小さく、非力で、脆かった筈の身体に力が溢れ、巨獣の膂力に抗っていく。
 その身体が膨れ上がるかのように、服が内側から引き千切れていく。伊織を握り締める獣の十指が徐々に、徐々に押し返されていく。


 ――少年が、変わって行く。


 髪は透き通るように白け、異様なまでに長く伸びた腕には鋭い鉤爪が具わり、顔の上半分を除く全身が黒い甲殻で覆われた異形の姿へと――


 ――“瀧川 伊織”は、変わって行く。


「ヴォッ?!!」

 そしてその黒い巨獣の掌握を、只単純に己の膂力で以って伊織は引き剥がす。
 巨獣の目がまるで驚きでもしたかのように見開かれるた。

 そして黒い巨獣と相対し、その瞳に映るのもまた――漆黒の異形。




 ―――― 汝、星辰のかけらより出[いで]し者也 ――――



 伊織は少女の声に後押されるかのように己の爪を振り上げ、眼前の怪物へと一気に突き込んだ。
 そしてただ確信を以って、己の渾身の力で以ってして突き出されるは黒い鋭い鉤爪。

 その爪は一切の容赦無く、一瞬の躊躇無く、巨獣の甲殻を、皮膚を、筋肉を、内腑を、骨を断ち切り突き破る――

 故に。

 その鉤爪は、その巨大な手は、その漆黒の腕は――“瀧川 伊織”は過たず、その巨獣の――“菊池 勝”の命を刈り取ったのだった。






(あん……がと、な……………)

 そして、薄れ行く意識の中で伊織が聞いたのは、何とも穏やかな友の声。

(ぃ……………)

 ――けれど、その声に何かを思うよりも早く、伊織の意識は暗闇へと引き摺り込まれ。

 その直前、暗闇に映ったのはしなやかな微笑みを浮かべる少女の姿だった――















◆ ◇ ◆ ◇ ◆















 身体を漆黒の躯殻で覆われた一体の巨獣の身体を、その大きく鋭い爪は易々と突き破り――

 コンクリートの壁を打ち砕きながら、二体の獣はその壁の向こう側にあった、整備されコンクリートによって均された河川敷へと転がり落ちていく。
 そして胴を両断された躯殻獣は腹の傷から夥しいまでの血を撒き散らしながら、一度大きく身体を仰け反ればゆっくりと身体を弛緩させ、息絶えた。
 もう一体もまた力尽きたかのように、河川敷にうつ伏せに倒れこんだまま、ぴくりとも動かない。

 その傍を流れる大きな河川の流れは何とも静かで――

 ――まるで直ぐ側に怪物が倒れ込んでいる事など、幻であるかのように穏やかだった。

 その周囲から次第に近付いて来るのは、パトカーのサイレンとヘリコプターの騒音。そして、OD色の車両。

 その光景を町の中では頭一つか二つ高いビルの屋上の縁に立ち、伸縮式のテレスコープ越しに見詰める一つの人影があった。
 背は見た所、余り高くはない。ただそれは頭にはフード、身体にはコートのような物を身に纏った人影だった。

 けれど、屋上を覆う金網を乗り越え、後一歩前に踏み出せば真っ逆様に落ちてしまうだろう場所に立つその人影に誰も気付かない。

 まるで、最初から其処には誰もいないとでも言うかのように――

 その人影に気付く事の出来る者は居なかった。

 そして、その人影が見守る中でと二体の躯殻獣の身体が小さく萎み始め、見る見るうちに“人”の姿を取り戻していく。

 ――それは“菊池 勝”だった物と、“瀧川 伊織”という名の少年。

 人影は笑う。猫が咽喉を鳴らすかのように、クスクスと。思いの外、その声は高く軽やかで、ともすれば少女の様だった。
 その表情はフードの陰に隠れて見えないが、その笑みがその人影の感情を如実に伝えていた。

 それは――歓喜。

 二人の少年が“ギルステイン”へと姿を変え殺し合った事、ではなく。
 何よりも二人が二人とも、“人”の姿を取り戻した、その光景に。

 その人影は笑っていた――

「やはり、彼で正しかったか……」

 呟かれたその言葉は、日本ではない異国の言葉。けれど、誰も聞いた事の無い言葉。

 ――今はまだ、この世界にない言葉だった。

 そして、息をゆっくりと吐き出し――それはまるで己の知識が確かだった事に、安堵するかのようであり。

「ご機嫌如何かな? マドモアゼル」

 老人の声が傍らから掛けられたのは、その時だった。
 人影はテレスコープから眼を外すも、特段、慌てた様子も無く隣を見遣る。

 その瞬間、上空に吹いた風に一瞬、フードが煽られた。

「とと」

 その人影は慌ててフードを押さえるも、束の間、見えたその顔は正しく――超 鈴音のものだった。

 そしてその視線の先に居たのは、ハードハットを目深に被り、トレンチコートを着込んだ初老の男。
 軽く帽子を上げ、会釈をした男は、とても日本人とは思えない彫りの深い顔立ちをしているが、先程、聞こえてきたのは流暢な日本語だった。
 だからか、彼女もその男に合わせるかのように未だ少々拙い日本語で返したのだった。

「あなたカ、伯爵。しかしマドモアゼルというのは、フランス語ヨ。
 あなたはクイーンズ・イングリッシュを好んでいたのではなかったカ?
 しかも何故、わざわざ日本語で?」

 屋上の縁、しかも転落防止の金網の向こう側という危険な場所で聞くには余りに軽いその内容に、その男は面白そうにかかと笑う。

「なに、最近、日本語の魅力に目覚めてね」
「それはまた何故?」

 その言葉に超は風で乱れたフードの被り心地を整えながら、微かに首を傾げ。

「単純に興味深いと思うからだよ。まるでパズルのような印象を受ける。
 しかも、使い手によって自由に形を変えることのできるパズルのね。
 何よりも、新しいもの、触れたことのないものを貪欲に吸収していく、その様はなんとも素晴らしい」
「新しいものが好きなだけだと思うがネ」
「だが、同時に懐古の一面も垣間見せる。面白いとは……思わないかな、ミス?」

 然も孫娘に自分の好きな物を理解してもらおうとでも言うかのような熱心さと楽しげなその男の表情に、超はくすりと笑い。
 超のその笑みに満足したのか、男も微笑を浮かべるも直ぐに表情を引き締め、視線を前へと戻した。
 彼が此の地に来たのも超の言葉を確かめる為だった。すっと眼を細め、先ほどまで、超がテレスコープ越しに覗いていた場所を見遣る。
 しかし男は裸眼で十分だとでも言うかのように、超のように何か道具を用いるでもなく只見詰め。

 ――そして、確かに彼にはその場所がつぶさに見えていた。

「彼が、君の言っていた少年かね」
「うむ」

 初老の男は帽子の被り心地を正すかのように、帽子に手を置いた。

「大丈夫なのかね? 過度の干渉は翻って君に返ってくる可能性もあるのだろう?」
「なに、それそのものは一向に構わないヨ、覚悟の上ね。
 それに今回のは少々お膳立てしただけダ。私が“今”、“ここ”にいるという事実がどんな揺らぎを生み出すか、分からなかったのでネ」
「………………ふむ……」
「今日、ここで起こった事に何ら変わりは無い。だからこそ、何もかもはここからダヨ、伯爵」
「……彼らは君のご学友なのだろう? 良かったのかね? 君ならば、助けられた筈だ」
「………………」

 しかしその問い掛けに彼女は笑みを引っ込めると、答えを拒むかのように数瞬、押し黙り。
 そして、ポツリと呟いた。

「……それは、今更ネ。それにこれは、彼の決意は後々に欠かせぬ物になる。私の都合が入り込む余地はないヨ………」
「そうか、それは少々不躾なことを聞いてしまったようだ」

 その声、言葉に何を読み取ったのか、男は視線を前へと戻すと表情を隠そうとするかのように、帽子の鍔で目元を隠した。
 しかし、その口許は何に悦んでか、微かな笑みを象り。
 超は再び手に持ったテレスコープを覗き込み、先程まで見ていた方へと向け直した。

(そうだ。私が成すべきは、彼らを“今”、救うことではない………)

 けれど、そう決意を固めていても、僅かに心がざわめいていると感じるのは、思いの外、彼らに情が移っていたからか。


 ――そう、超 鈴音には彼らを救う術があった。


 何と言っても、片や『第一段階[ファーストウム]』にすら至れなかった、個体としては最弱の部類――準ギルステイン。ギルステインの為り損ない。
 精々、群体を構成する時の素材となるか、上位個体の支配を受けるかしかない、番外の個体。
 その限りでないなら、暴走したカドケウス・ウィルスによって無理矢理高められた生存本能、防衛本能、そして破壊衝動に振り回され暴れ狂う獣[けだもの]でしかない。
 所詮、牙や爪を振るうしか能の無い獣。“ギルステイン”の本当の『力』を制御するに至るなど、余りに遠い。
 そして片や『第三段階[ティルティウム]』の可能性を秘めているとは言えど、まだ『発現』にも、『力』の制御にも至れていない覚醒直後の個体。
 ギルステインとしては赤ん坊にも等しい。

 為らばきっと、超 鈴音は彼らを救えた筈である。
 少なくとも、ギルステインから解き放つ事は出来ただろう。

 その為の手段が――“今”、必死に模索されているそれが、少女の手の内には確かに有るのだから。

 しかして、少女はその手段を用いはしなかった。

 何故なら少女にとって、菊池 勝が今、此処でギルステインと化すのには他には無い、重要な意味があったのだから。
 欠かす事の出来ない意義があったのだから。何物にも代え難い価値が、其処には在ったのだから。

 ――それが、瀧川 伊織をギルステインを覚醒を“今”、至らせる『時』にあり。

 そして、“此処”からヘレナ・L・マリエッタの『許』へと運ばれる事にある――

 その運び手となる自衛隊の車両やヘリは既に集まりつつあった。
 然[しか]る後、瀧川 伊織は彼女の許へと運ばれていく事だろう。

 麻帆良へ、ではなく、山中奥深くにあるあそこへと。


 ――麻帆良の地では、駄目なのだ。


 『瀧川 伊織』同様、欠かす事の出来ないもう一つのファクター、『ネギ・スプリングフィールド』の為にあの地に住んで、超はそう確信していた。
 あそこは何よりも、優しい土地柄である。しかも善良で、個人でギルステインに対抗できるだけの『力』を持った者が多すぎる。
 それでは瀧川 伊織が戦う必要性が無くなってしまう、生半の所で救われてしまう。ともすれば、覚醒にすら至らないかもしれない。

 それは少女が最も忌避すべき可能性だった。

 そして彼らは彼らの矜持に従い、彼らなりに少年を救おうとするだろう。

 ―――今も、あの地で囲われている少年少女達の様に。

 それでは、駄目なのだ――

 何よりも、あの地には扉を開く為の大切な『鍵』が無い。
 瀧川 伊織を導き、そしてその道を開く為の鍵が――“少女”が居ない。

(だが…………)

 超が空を見れば、上空をヘリがハゲタカの様に旋回している。


 ――伊織と菊池が倒れるその場所に武装した自衛隊員が集まっていく。

 けれど、其処に麻帆良の地の者の姿も気配も無く――


 もう十分だろうと、超は身に纏ったコートの裾を翻しながら、金網を乗り越えた。
 その手には何時の間にか、鈍色の金属球が収められている。

「もう、良いのかね?」

 超は足を止めるでなく、その声に頷き返し。

「うむ。それに、そろそろ戻らないと時間が迫っていてネ」
「確か、君は学生の身分だと記憶していたが」

 言外に時間はあるだろうと告げるその初老の男に、超は微かに笑った。
 そして何処か声を弾ませながら、言葉を紡ぐ。

「中学生は中学生なりに忙しいのだヨ、伯爵」
「それは失礼………。では貴族の身でありながら、麗しきお嬢さんに礼を失した代わりにあなたを麻帆良まで送って差し上げよう」

 そして、そう言い終えるのが早いか否か、男は少女の傍らに佇んでいた。
 少女がそちらへと顔を向ければ、左手を胸に上半身を僅かに傾げ、右手を超へと差し出していた。
 まるで貴族の令嬢をエスコートでもしようというかのように。
 しかしだ、その誘いは超として少々、不安になる類のものだった。
 麻帆良の地を囲う物を考えれば、それも当然だろうが。

「大丈夫なのかネ? あそこには中々強力な結界が張られているが」

 けれど、男はその懸念を軽やかに笑い飛ばす。

「なに、あの地のあれの本質は悪意を抱いているかいないかにある、問題はないだろう。
 何せ、こんなところに一人でいる不良なお嬢さんを送って差し上げるのだから」
「……それは確かに」

 そう豪語するのなら、この眼前の男にとって麻帆良の結界は然したる障害ではないのだろうと思えた。
 少女は男から言われた言葉にクスクスと笑い。その笑みに何を見てか、初老の男は目を細め。

「……では、お手を、マドモアゼル」
「良しなに、ヘルマン卿」

 そして少女がヘルマンと呼んだ初老の男の手を取ると足元の地面が突如、幾何学模様に輝いた。
 その輝きの中で超は伊織と菊池が倒れる場所の方へと、伊織へと顔を向ける。

 ――然も堪えきれないとでも言うかのように、くすくすと鈴を転がすように笑みを零した。

 それは風に乗り、偶々届いたのか、自衛隊の誰かが大空を振り仰ぐも、その瞬間には、光が一際強くなり、直後、二人の姿は掻き消える。
 その誰かは何も見当たらない事に首を傾げれば、作業へと戻っていった。

 そうして。

 その場に残されたのは、ただ少女の笑い声だった。


 まるで、この世を慈しみ愛でる聖女のように――――


 ――――この世を自侭に弄ぶ魔女のように。


 少女が――笑う声だった。






◇ 一ノ章 了 ◇









◆後書き◆

の前に。

※『第一段階[ファーストウム]』
 ・一応、何度か見直しましたが見当たらなかったので、勝手に付けさせてもらいました。ギルステインの作中であったのは、飽く迄第二段階以降の筈。
 ・しかし、ティルティウムって一体、何の言葉から作り出したのかが良く分からない……。


と言う事で、序章を書き終わった後に思い浮かんだ物をぶち込んで書いてみた一章でした。読んで頂き、ありがとうございます。
本当は一つにまとめて投稿しようかと思ってましたけれど、なんか書いていくうちに内容的に三つに分けた方が良さそうな気がしたので。ついでに、三つに分けても量的に十分かなあと。
後編は文章がなんかくどい? と思いつつ。

しかし、ノープロットな状態で書き始めたこれ。何だかんだで、書きたい場面が思い浮かべられたので、後は整理すればいける筈。

ただ、もう暫くはギルステインにネギまを添える、という形が続きそうな予感がする……。



[8616] 間ノ章[Everyone=Ignorance]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/04/15 20:50



 ――2002年12月24日、火曜日。

 陽は沈み、空からは陽の残滓すら消え失せた頃。奇しくも世間では12月24日が、クリスマス・イブと呼ばれる特別な日へと変わった頃。

 クスノキの街路樹に囲われ、人の気配の希薄なその広場の隅に少女が一人、公園灯の光で照らされた長椅子に所在無さ気に座っていた。
 前髪を髪留めで留め、髪を首の辺りで切り揃え、麻帆良学園中等部の制服であるエンジのブレザーにベスト、赤いチェックのスカートに身を包んだその少女の名は、円谷 久美と言った。
 伊織と同じ学校に通う、伊織と今関二人の幼馴染みである。
 その性格を言い表すとするなら、勝気と言えるだろう元気の良い少女だった。

 しかし今、その丸く大きな瞳は不安に彩られ、表情は何処か沈み。
 その視線は膝の上に広げられた文庫本へと落とされていたが、先ほどから頁は遅々と進んでいない。
 正しく、心此処に在らず。読書の為に此処に居るわけではない事は、誰の目から見ても一目瞭然だった。

 彼女が今居るその広場は伊織と今関、そして菊池が住んでいる麻帆良学園男子寮の近くにあった。
 つまり寮を一望できる場所であり、超が超包子の出店を開く場所でもある。

 男子寮が近い事、そして女子寮から離れている事も在ってか、普段、女子がいる事が余り無い其処に彼女がいるのは、どうしても気に為ったからだった。
 あの後――伊織と今関に菊池を見掛けた事を告げた後、久美は二人には付いて行かず(今関に付いて来るな、と言われた事もあり)帰路に付いていたが、その途中で、まるで虫の知らせとでも言うかのように、言い知れない不安がふっと湧いたからだった。

 そうして3時頃から、彼女は此処で待ち続けている。

「全然、帰ってこないな……」

 久美は最初、三人は直ぐに帰ってくるだろうと思っていた。
 だから、伊織達が帰って来た時に直ぐ分かるように、寮の入口と入口に通じる歩道が見える此処で待っていたのだ。
 けれど4時になり5時になっても、伊織達は帰って来ず。
 そう言えばと、今関が携帯を持っていた事を思い出して近くにあった公衆電話から掛けてみるも繋がらない。
 返って来たのは、無機質な録音音声の返答――『現在、お掛けになった番号は電源が入っていないか、電波の届かない場所にある為、繋がりません』という物だった。

 その時になって漸く久美の胸中に占めていた漠然とした不安は、明確な心配へと変わった。
 自分はもしかして幼馴染み二人にとんでもない事を話してしまったのではないかとすら、思えてしまう。

 そして時間は今や6時半を回り掛けている。
 女子寮の門限が7時である事と此処から歩いて掛かる時間を考えれば、此処に居られるのも精々、後五分程だろう。

「…………………」

 久美は俯かせていた顔を上げ、外から見える伊織と今関の部屋の窓を見た。もう何度、その動作を行ったか分からない。
 しかし、その窓は暗いまま。もしかしたら、という淡い期待は今度も裏切られた。

 そして、残りの五分は瞬く間に過ぎていく――

「はあ………」

 久美は腕時計を見て時間切れであることを確認すると、本を学校指定のバッグの中にしまい椅子から立ち上がった。
 夜にでもまた電話を掛けてみようと思いながら、すごすごと歩き出す。すると久美の視線の先で一台の乗用車――シルバーのセダンが、寮の前で止まったのだった。

(なんだろう?)

 少女は首を傾げた。

 寮の前で、セダンのような日用車が止まるというのは少々珍しい。
 そもそも学生寮。しかも麻帆良学園では18歳以下で、バイクや車の免許を取る事は校則で原則禁じているのだから、それは当然だろう。

(管理人さんか誰かかな?)

 歩きながらぼんやりと、本当に何となく見ていると助手席の扉を開けて寮の入り口を照らす電灯の光の下に出来たのは――

「え、和っ! ひ、こ……」

 少女が長く見知った少年の、幼馴染みの片割れだった。しかし、そのぼろぼろの姿を見て、暫し絶句してしまう。
 真新しい包帯の巻かれた頭や右腕も然る事ながら、首に掛けた包帯で吊るされ、ギブスの嵌められた左腕は見るのも痛々しい。
 そして、包帯が巻かれていた無い場所にも湿布が当てられ、当てられていない場所も内出血かなにかなのか青くなっていたり、擦れて赤くなっている。
 何か赤い線のような跡が奔っている箇所もあった。服に隠れた部分はどうなっているのかなど知りたくも無い。
 しかしそれは正しく、大怪我だった。ただ、此処に居るということは命には別状はないと言う事なのだろう。
 それだけが幸いだった。或いは不幸中の幸い、というべきか。
 そして少女は、他にも誰か、有体に言うならば、伊織と菊池も出てこないのかと見ていると。

「先生……?」

 その車の運転席から出てきたのは、自分達の担任教師だった。
 そろそろ五十半ばになろうかという女性で、教科は生物を担当、真面目だが朗らかな女性である。
 教師としての長年の経験か、授業の仕方や生徒達への接し方も手馴れた事もあって久美達が通っている学校の中では人気のある先生だった。
 そして、久美も彼女の事を好ましく思っている一人だった。

 しかし、運転席から出てきた彼女の暗い表情は、今まで見た事の無いほど、痛ましげなもので――

 少女の未だ幼い心を不安で乱すには、その表情は十分だった。
 追い立てるかのようにその歩みを駆け足に変えるには十分だった。

「あの! 先生!?」
「あら、円谷さん?」

 どうしてこんな時間にこの子が男子寮の前にいるのだろうか?
 女性のその怪訝そうな表情と声は久美にそう告げるようであった。

 けれど、久美はそんな事に気付かず、気を留めてなどいられなかった。

「先生! な、なにがあったんですか? それに、なんで和彦が、今関くんがこんな怪我………あと、そのじゃなくて滝川君と菊池君は?!」

 久美の息急くように、畳み掛けるように担任の女性へと問い掛ける。
 その勢いに女性が戸惑っている事に、彼女は気付けない程、焦っていた。

「円谷さん、落ち着いて」
「伊織も、それに菊池も和彦と一緒にいたはずなんです。二人は、二人はどこにいるんですか!?」

 けれど正真正銘、彼女は気が動転していたのだ。そんな人の機微に気付けというのも酷だろう。
 今関はそんな久美の反応を見て、何処かばつが悪そうに顔を歪ませ、視線をずらしていた。

「落ち着きなさい!」

 しかし、ただ混乱するばかりの少女を女性は一喝した。
 それが功を奏してか、久美ははっと我に返り。

「あ……その……すみませんでした、先生」

 そして、頭を下げ俯いた少女を見て、女性は苦笑する。

「良いのよ、円谷さん。それで、なんでここにいるのかしら。
 それに瀧川君や菊池君の事を言っていたけれど、二人に何があったか、あなたは知っていて?」
「それは、その……」

 どう答えたものか、少女は迷う。実際の所、久美はその答えを持っていなかった。

 そもそも彼女のあの時の言葉は事の切っ掛けではあったが、切っ掛けでしかない。
 だからこそ、少女の不安も心配も、結局の所、予想、憶測の域を出るものでは無い。
 だから少女は何も答えられない。言葉できるだけの物がなかった。
 久美が返答に窮していると、今関が割って入ってきた。

「あの、浅石先生。よかったら、円谷にはオレから説明しときますけど。
 オレたちが菊池と合流しようとしたの、確かに円谷が言ってたからってのもありますけど――」
(私が言ったから……?)

 その言葉に久美が身体が小さく震えた。けれど、少女から視線を外していた女性と今関はそれに気付けず。

「だけど、彼女はさっきオレが話した以上の事は知らないと思いますし」
「………分かりました」

 今関のその言葉に、浅石と呼ばれた女性は久美を垣間見れば数瞬、間を置いて頷いた。
 今関の言う通り、教え子である久美の戸惑う様子からは、何かを知っているとは思えなかったのだ。
 ただ何か良からぬ事が起こったとは、漠然と察しているようではあるが。
 だからこそ浅石は、彼女の慌てようをただ不安に怯えているだけなのだろうと考えたのだった。

「ただし、教えるのは彼女だけです。此方もまだ状況を把握し切れていないから、言い触らさないように。
 既に事は終わっていますから、不必要に他の子たちを不安にさせることもないでしょう」
「うす」
「それと今関くん、さっき此処に来る途中でも言ったことだけれど、明日10時に学園長室に来てちょうだいね。
 学園長先生が貴方に話を聞きたいそうなの。怪我してるのに申し訳ないけれど」
「いえ、大丈夫です。ここまで送ってくれてありがとうございました、先生」

 そう言うと、今関は左腕を庇いながら、浅石へと頭は下げた。

「部屋までは歩いていける? 辛いなら、手伝うのだけれど」
「いえ、大丈夫っす。大した荷物もないですし」

 気遣う女性に今関は首を振り、肩に掛けた竹刀袋を抱え直した。
 しかし、その袋に入れられた竹刀は半ばで折れている為、上部がくにゃりと折れている。
 ただその様子を見て、大丈夫だろうと考えた浅石は微かに頷き。

「そう、じゃあ私は学校に戻らせてもらうわね。……今関君」
「はい」
「あまり気に病まないでね。貴方のせいでは、ないのだから」
「はい……」
「円谷さんも今関君の話しを聞き終えたら、真っ直ぐに寮に帰りなさい。
 時間は……無理そうね、寮の管理人さんには電話をしておくけれどなるべく早くね」
「わざわざ、すみません」
「いいのよ、これぐらい。二人とも、それじゃあね」

 そして、浅石は微かに苦笑を浮かべた。
 彼女のそれは、これぐらいしか出来ない事を苦く思うが故に知らず出た笑みだった。
 けれど、若い二人はその笑みを謙遜と捉え、ただ頷き返す。

「うす」
「はい、先生。さようなら」

 二人は担任の女性教師を乗せた車を見送り。
 そして、車の走行音が小さくなった頃、久美は今関へと視線を移した。

 ――何があったの?

 少女の不安に揺れる瞳は、少年にそう問い掛ける。
 今関は眉間に皺を寄せ、ぐっと奥歯を噛み締めると、搾り出すように呟いたのだった。

「わりい、久美ブー」
「え、なにが?」
「守れなかった……」
「え……………」

 久美はその言葉の意味を図り損ね、言葉を途切れさせる事しか出来なかった。






 今関と久美の二人は人の気配から遠ざかるように、寮の近くにある広場へと行き、先程まで少女が文庫本を広げながら座っていた長椅子へと腰を下ろしていた。
 公園灯の明かりが二人を照らす中で、しかし二人の間で交わされた言葉は無く。

 けれど、久美の脳裏には一つの言葉が繰り返し響いていた。

 ――守れなかった。

 それは今も尚、ガキ大将のような性分を多分に残している幼馴染みが漏らした、苦渋に満ち満ちた声だった。

 一体全体、守れなかったとはどういう事か――目的語の抜けたその言葉は、言語としては只、意味の通じない言葉でしかない。

 けれど、その答えを久美は直感と共に紡ぎ出していた。言葉に出来なくとも、感覚で理解していた。
 今関の足らぬ言葉を補えるぐらい、少年の幼馴染みである少女には容易い事だった。
 物心ついてから今日に至るまでの凡そ10年、彼女は伊織や今関達と共にいたのだから。

 しかし少女は少年の言葉を待った。それが少年の為だろうと、そう思えたから。

 そして押し黙っていた今関はぽつりと零す。

「オレの方は、大丈夫。まあ、身体中、いてえけどさ、どっか折れてる訳でもないし……」

 訥々と言葉を紡ぐ。

「ねえ、なにがあったの……?」
「わかんねえ……」
「分かんないってそんな。だったら何で、和彦はそんな怪我してるのよ!?
 階段で転んだとか、事故にあったていうことなの? 違うでしょ?
 だって浅石先生のあんな暗い顔、私、初めて見たんだよ!?」
「……サナギ狩り………」
「っ!!」

 呟かれたその言葉に、少女は今度こそ絶句した。

「オレと伊織さ、お前に言われた後、菊池と合流しようとしたんだよ。
 携帯ってこういう時にはお互い持ってると便利だよな。どこにいても連絡取れんだから。
 んで、学園の外にある駅、あ~……なんて言ったかな、忘れちまった。メールは、ああ、携帯はぶっ壊されちまったんだった。
 機種変えたばっかだってのに……」

 もったいねえなあ。そう呟きながら、はは、と今関は笑う。
 その掠れた笑い声は余りに空虚で、久美は思わず眉を顰めてしまった。

「んで、いざ、合流しようとして携帯に掛けても繋がんなくて、さっきまで繋がってたのに、電源が入っていないか、電波の届かない所に、とかいうだぜ?
 だから、だからさ、オレたち、嫌な予感がしてよ。探し回ったんだ、菊池を。そしたらアイツ、不良に囲まれて、ぼろぼろになって、泣いてて。
 警察を呼んでも、中々来なくて。だからオレと伊織は、菊池を助けようと思ったんだ。オレが囮になって、その間に伊織が菊池を逃がすって事にしたんだ。
 んで、菊池を逃がしたまでは良かったんだけどよ。やっぱ数には勝てなくて、オレはボコボコにされた。
 そこを警官のおっさんらに助けられて、傷の手当てされて、事情を軽く聞かれて、今に至るって訳だよ」 
「………じゃ、じゃあ、伊織と菊池くんは? 二人も無事なんでしょ? そうでしょ?!」

 そうであって欲しい。そう言って欲しい。せめて、病院でまだ治療を受けているだけで明日になれば帰って来ると言って欲しい。
 少女の心中は、そんな想いで埋め尽くされた。

 しかし今関はただ首を振り、そして零された言葉は久美のその想いを肯定も否定も出来ないものだった。

「分かんねえ。警察のおっさんらは教えてくんなかった。
 安心しろ、我々が保護した、君は友達を助けようと頑張った、それは素晴らしいことだ、だが後は大人に任せろって言われただけだった」
「………そんな……」

 そして、今関は俯かせた顔を動く右の掌で覆い、

「ちくしょう……………………………………守れなかった……………………」

 その指の隙間から零れ出たのは、掠れ震えた声だった。

「……………和彦……」

 そんな幼馴染の姿を見て、少女はようやっと理解した。
 今、この時において、最も辛いのは誰なのかを。自分などと比べものにならない程、悔しく思っているのは誰なのかを。
 だから少女は、必死に歯を食い縛り泣くのを堪える少年の頭に優しく撫でたのだった。
 
「和彦の、せいじゃないよ」
「すまねえ…………」

 それは一体誰への謝罪だったのだろう、そんな事を少女は思う。
 自分に向けられたもののようでもあるし、或いは助けられなかったという友人二人へ向けられたものだろうか。

(きっと……伊織達に、なんだろうな)

 だから、少女は思う。その言葉は友人二人へと向けられたものなのだろう。
 この少年は中学生にもなった未だガキ大将のような表情を見せる、けれど優しい少年なのだから。

 身体中に刻まれたこの傷はきっと、それを証明するものなのだから。

 それは友を守る為に戦った名誉の傷であり、友を守りきる事の出来なかった不名誉の傷であるのだから。

 だから、円谷 久美はそれ以上、何も言わなかった。何も、言えなかった。



 二人の間に沈黙が降りる。



「…………久美ブー……お前はもう、帰れ。
 もう話せるような事はないし、もう大分暗くなっちまってるしよ……。
 人通りが無くならない内に、さっさと帰れ」
「……だけど………」
「頼む、一人にさせてくれ」

 そして暫しの沈黙の後、久美はわかった、と呟き腰を上げた。

「何か分かったら、教えてね、和彦。
 私もその、あるかどうかは分かんないけど、何か分かったら教えるから……」
「…………ああ」
「じゃあね、元気出してね」
「…………ああ」

 そうして久美は後ろ髪引かれる思いをしながら、広場を今度こそ後にした。
 女子寮までの道をとぼとぼと歩いていく。時間は、寮の門限に差し迫ろうかという所だった。
 しかしどうせ歩こうが走ろうが、既に間に合わない時間だ。となると慌てるのも馬鹿らしかった。
 それに先生が管理人には連絡してくれている筈。だから特段、咎められる事は無いだろう。何か嫌味の一つでも言われるかもしれなかったが。
 ただ今の気分では、先生の取り成しがなくとも急ごうとは思えない。

「私が菊池を見なかったら、こんな事にならなかったのかな……」

 呟けば、涙が零れた。それを指で拭い。

(私が言わなければ、伊織と和彦は菊池くんが麻帆良の外に出たことなんて知らなかった。
 だけど言ってなくちゃ、菊池くんがどうなっているかも分からない。
 二人に告げたからこそきっと保護、されたんだ………)

 そう思おうとするも、しかし。

 ――もしかしたら、告げなくとも結果は変わらなかったもしれない。

 二人が行かなくても、菊池はきちんと保護されたかもしれない。

 そうも思えてしまう。

 なら。

(だったら、私はただ伊織と和彦を巻き込ませただけ、なの……?)

 二人に告げなければ、今もきっと二人は今も寮の部屋にいたのだろう。
 もしかしたら、何かの伝手で菊池が何時までも帰って来ない事を知って心配するかもしれないが、それでも今もきっと寮の部屋で傷一つ無く、何時も通りに過ごしていただろう。

 けれど、少女が二人に告げたから――

 帰って来たのは、今関だけだった。

 その今関も無事にと言うわけでもなく、身体中に大小様々な怪我を負って帰ってきた。

 もし自分が菊池を見なかったなら、もし自分が二人に言わなかったなら――

 けれどもう、その事実は変えられない。既に過程は過ぎ去り、後に残されたのは何処までも無情な結果だけ。

(なにがあったの……なんで今関は傷だらけで帰って来て、菊池と伊織は帰って来なくて。
 サナギ狩りに襲われたっていうんだったら、何で二人も今関みたいに傷だらけで帰ってこないのよ、訳分かんない、訳分かんないよ……。
 本当は何があったの!? ――誰か……誰か教えてよぉ!!)

 何時の間にか、久美は足を止めて泣いていた。声を押し殺して、泣いていた。

 けれど、答えの見出せない煩悶は少女の胸中で蟠[わだかま]る。

 涙を拭うと何とか足を動かすもその歩みは重く引き摺るかのようだった。

 街路灯の光は点々、人が道を見失わぬように夜道を彩っている。
 けれど、暗闇の中に浮かぶ、ただただ何処までも続くように見えるその道は、久美の不安を駆り立てるだけだった。












 こつこつと鳴らしながら、久美の革靴の足音が次第に小さくなっていく。

 そして先程、久美がしていたように今関も男子寮を見上げ、己と伊織が住む部屋へと目を向けた。
 けれど、やはり其処には明かりは点っておらず、暗闇が窓から覗くだけだった。

「ちくしょう……」

 座っているだけでも時折、鈍く痛みが走る。
 けれど、自分は五体満足で帰ってきて、逃がそうとした菊池もそれに手を貸してくれた伊織も、まだ帰ってこない。
 自分の不甲斐無さに酷く腹が立った。

 ――そして何よりも、当事者である筈なのに、何も分からない自分に酷く腹が立った。

 何か出来る事はないだろうか、あっただろうか。そんな思考が今関の意識を埋め尽くす。

(そうだ……)

 だから今関はふと、ある事を思い出す。

 己の父の職業とその地位、そして今年の夏休みに帰った時にあった部下からの電話に出た時の父親の言葉とその剣幕。
 その翌朝にあったのは、少年少女一家惨殺事件の報道だった。

「家に、帰ってみるか……」

 ただ待っているのは嫌だった。意味が無くとも、何かをしていかった。身体を動かしていたかった。
 そうと決まれば今関は直ぐに腰を上げ。

「いちち……」

 そして痛む身体を押して歩き出す。
 その足元は何処か覚束ない物だったが、その眼差しは先ほどと較べてずっと確りしたものに変わっていた。

 ――まるで、己が成すべき事を見出したかのように。

 その眼差しは真っ直ぐだった。

 







◇ 魔獣星記ギルま! 間ノ章 [Everyone=Ignorance] ◇









 ――検体[サンプル]ナンバー026、瀧川伊織。

 ――抗体反応は陰性[ネガティブ]。CT(Computed Tomography、コンピューター断層撮影)、MRI(Magnetic Resonance Imaging、核磁気共鳴画像法)共に組織の変性は確認出来ず。

 ――以上の結果から、カドケウス・ウィルスは潜伏期と同じく休眠状態へ移行したものと思われる。



 それが今、ヘレナ・L・マリエッタが手に持つ資料に書かれている事の概要であると同時に、全てだった。つまりは、何の異常も見当たらないと言う事。
 いや、正確に言い表すならば、少年少女達を異形の怪物へと変じせしめるギルステイン症、その病原体たるカドケウス・ウィルスが、瀧川 伊織という少年の体内で現在何の活動もしていないという事は分かる。
 しかし、それだけであったなら世界中にいる子供達、そして大人達と何ら変わらないだろう。

 既に、カドケウス・ウィルスは世界中に蔓延し、老若男女、須らく感染している筈なのだから。

 ただ、それが発症してないというだけで――

 ただ、それが公表されていないというだけで――

 けれど。

「これが、観測ヘリからの映像だ」

 自衛隊によって撮影された映像が、ヘレナが持つその資料の意味を反転させ、価値を何倍にも引き上げた。

 ――そこに先ず映し出されていたのは、整備された大きな河川とコンクリートによって均[なら]された河川敷だった。

 洪水対策なのか、両岸は分厚いコンクリートの壁によって遮断されてはいたが、両岸とも工場やビルが建てられている。
 しかし高いコンクリート壁と岸から河川敷に高低差がある為、河で何が起こっているのかがどうにも分かりづらい構造になっていた。
 ただそのお陰で、昼間であったにも拘らず、今回の隠蔽作業は然程苦労しなかったのだが。

 映像が数秒過ぎた所で行き成り、そのコンクリート壁の片側で爆発でも起きたかのように打ち崩された。灰色にも近い白煙が舞い上がる。

 その煙を突き破って現れたのは異形の怪物、ギルステインだった。

 しかも一体だけでなく、二体。
 ならば今、映像の中で上がっている煙はギルステイン同士が戦った為だろうとヘレナは考え、見続ける。

(ギルステインには同属意識は無いということかしら。2体同時に発生すると、互いに敵対行為なり示威行為なりを働く?)

 しかし、ヘレナは己のその思考が酷く拙いものだという事を直ぐに理解させられた。

 何故なら、その画像の真価はそんな物ではなく――

 画像を流し、或いは止めながら、自衛隊の制服に身を包んだ野上がその画像に映し出された物について説明してゆく。

「当初、2体とも躯殻獣化していたのが確認できる。だが、問題はこの先だ。
 何らかの事情で2体が争い、同士討ちになった後――ここからだ。第2次変態が、いやこの場合は復元というべきか、それが始まる」

 そして、拡大された映像の中で、地面に倒れ込み微動だにしない異形の怪物が徐々に人の姿を取り戻していく。

「2体同時にギルステインが発現した事もそうだが、今回初めて確認された事例だ。
 今までも個体の死後、体組織の一部が復元する事例もあるにはあったが――外形が、これほど完全に人間形態に復元された事例は見たことも聞いたこともない」

 そう重々しく告げる野上の言葉をしかし、ヘレナはまともに聞いてはいなかった。
 その細められた目は画像を凝視し、その意識はその画像に映る一人の少年へと向けられている。

(とうとう見つけたのね、究極の……『ギルステイン』を!)

 しかし、ヘレナはその興奮をおくびにも出さず、昂ぶった意識をすぐさま鎮めた。
 だからか、それに気付かず、野上は問い掛ける。

「いかがです、Dr.ヘレナ? 残念ながら個体の一方は死亡していたが、念のため、どちらも研究所の中央チェンバーに収容しておいた」
「素晴らしい記録だわ、野上隊長! この記録でFBT(Frustule Beast Transformation、躯殻獣化)の可塑性が証明されました。
 これでカドケウス・ウィルスの無能化だけでなく、利用にも光明が見えて来たということね」
「利用――ですと?」
「たとえば、FBTで強化した兵士たちの部隊とか……自衛隊“でも”お考えでしょう?」
「…………………」

 野上はその問い掛けに是とも否とも応えなかった。ただ微かに唇の端を歪ませ。

「いずれにせよ、第2次変態は未知の領域。
 カドケウス・ウィルスが人体にどう作用していうのか、それを確かめるにはこのプロセスを再現してやらねばなりません。
 『虫カゴ』に――移しましょう」

 そう言い、ヘレナは笑う。その整った美しい顔には微かな笑みが浮かべられているだけだったが、その心は歓喜に包まれていた。
 何といっても、両親を事故で亡くしてから唯一の家族だった弟をギルステイン症で失って以来、歩んできた地獄のような道を終えられるのかもしれないのだから。

 ――喜ばない筈が無い。

 しかし一人の少年にとって、それは余りに無情な始まりの宣言でもあった。












◆ ◇ ◆ ◇ ◆












 ――2002年12月25日、水曜日。



「失礼しました」
「うむ、今日はありがとの、今関君」

 昨日あった事の顛末を学園長に話し終えた今関はそんな声に送り出されるように、学園長室を退出する。

「おっと……」
「あ、すんません」

 と、丁度誰かが居たのだろう、扉の向こうから声が聞こえて来た。

「おや、話は終わったのかな?」
「あ、はい、今、終わったっすけど」
「そうか、それは丁度良かった。それと、今日はわざわざありがとう、今関君」
「いえ……。それじゃあ、オレはこれで……」
「うん、ご苦労様」

 そして、そんな会話が終えられると同時に、灰色の短髪を逆立てた壮年の男──タカミチ・T・高畑が学園長室の扉を開けた。
 先程扉を挟んで聞こえて来たにこやかな声が幻であったかのように、その表情は引き締められている。

「失礼します、学園長」

 その部屋の主である老人――作務衣にも似た白い装束に身を包んだ近衛 近右衛門は閉じられた扉を、その向こうを見透かすかのように静かに扉を見詰めていた。
 その老人は少々特異的な外見──後頭部が後ろに伸びているのだが、一々それを気に掛ける者は幸いにも居なかった。

「学園長、資料の方、出来上がりましたのでお持ちしました」
「うむ」

 タカミチは、学園長が座る執務机の前に立つと、手に持っていた書類を差し出した。
 老人はおや? と片眉を微かに上げるも、その資料を受け取った。
 老人としてはてっきり、これを持って来るのは、資料の作成を頼んだ事務員か誰かが持ってくるだろうと思っていたのだが。

「今関君の話から、何か新しく分かったことはありましたか?」

 しかし、次いで発せられたその問い掛けで、眼前の男が態々資料を持ってきた理由を察したのだった。
 此処を訪れる理由として、資料の配達を買って出たのだろう。

「……………………」

 しかし学園長は直ぐには答えず、沈黙を取り繕うかのように顎に蓄えられた長く白い髭をその皺だらけの手で梳いた。
 そうしながら、机の上へと視線を移す。其処に置かれていたのは先程受け取った書類――それぞれ、伊織と菊池に関して記された物だった。
 その内容は麻帆良学園に通信簿や定期試験、体力測定の成績、また担任による普段の素行の記述というもの。
 しかしその中身は善く言えば何の変哲も無い、悪く言えば特段目を引く所の無い一介の学生の領分を出るものではなかった。

 だからこそ──

 ――こんな、常軌を逸した『力』を持っていない、普通の子供ですらギルステインになってしまう。

 その書類は、老人にそう教えるかのようだった。
 老人は資料から上げた視線をタカミチへと向け、

「さほど真新しい何かがあった訳ではないが、しかし……やはり実際に事に行き逢った者の話は生々しいのう……」

 豊かな眉根を悲しげに下げた。
 その言葉を聞き、タカミチはクシャリとその顔を歪め、

「そう、ですか。となると、やはり……」
「……昨日、観測された二つのギルステインの反応は瀧川君と菊池君である公算が高まった、ということじゃの」
「警察の方からの連絡では、彼らは青少年保護センターで保護されているのでしたね?」
「うむ、場所を尋ねたら、奥秩父にあるとのことだったからのう」

 ――厄介だわい。

「………」

 そう呟かれた老人の言葉に、タカミチは微かに表情を沈ませた。

 ――青少年保護センター。

 少し探せば何処にでもありそうなその施設には確かにその名の通り、とある事情を抱え込む事になった少年少女達が保護されている。
 そして其処は、タカミチが関東魔法協会会長の名代として赴きヘレナという女性と出会った場所でもある。

 ――詰まり、其処はギルステイン症の病原体であるカドケウス・ウィルスを解明しようと日夜、研究が為されている場所であり。

 そしてギルステインに成る、その一歩手前で踏み止まる事の出来た、或いは踏み止まってしまった子供達が収容されている場所であった――

 其処に伊織と菊池の二人が送られたと言う事は部分的にギルステインと変化してしまったか、最低でもギルステインと接触してしまったと考えるべきだろう。
 或いは完全にギルステインと化して、敵性体として対処され屍――検体として運び込まれたか。

「奥秩父の青少年保護センター。そして、昨日の昼間、観測された二つのギルステインの反応……」

 老人は唸るように呟いた。

「…………」
「タカミチ君、確か、1回目の反応は……」
「ええ、従来のパターンと酷似していました」

 ギルステインに対処する上で重要な事は、如何にして迅速にギルステインの発生を知るか、にある。
 一分でも一秒でも早く知る事は、それだけ速く動けるという事に繋がるからだ。
 そして関東魔法協会は自衛隊特務部隊とは異なる、ある意味で魔法使いらしい方法を取っていた。

 それが、『精霊』の存在率を観測、検出するという方法である。

 『魔力』が此の世を満たしているように、精霊は此の世に遍く存在する。
 大気にあっては大気の、大地にあっては大地の、海にあっては海の、光にあっては光の、闇にあっては闇の精霊が此の世には存在するのである。

 それは東洋の、八百万[やおよろず]の神――全ての物に神は宿るという思想、概念に近いのかもしれない。

 だからこそ、場所場所によって精霊は違えど、全ての場所に等しく精霊は存在する。
 だからこそ、魔法使いは場所を選らばず、詠唱を行なえ、魔法を行使できる。精霊はそれに応えてくれる。

 けれど、『ギルステイン』が生じた時、その存在率が酷く歪むのだ。

 まるで尽く喰われでもしたかのように、まるでその尽くが逃げ果[おお]せるかのように、精霊の存在率が瞬間的に低下する、其処に存在する精霊が薄くなる。
 そして、その空虚な場所に呼び寄せられるかのように集まるのは決まって、憤怒を司り、悲哀を司り、憎悪を司り、絶望を司り、ヒトの心――感情を顕す精霊だった。

 その変化が極端な事もあってその精度は高かったが、難点としては範囲が狭い事――すぐさま感知できるのは精々、麻帆良と麻帆良周辺であるという事に尽きるだろう。
 そして、その範囲は現在でも中々、広がっていない。簡単には広げられない、と言うのが現状だった。
 技術的、物質的な問題――精霊探査の為の魔法式を刻み込んだ、魔力伝導率の高い霊石を如何に用意し、如何に設置し、そしてその情報を如何に麻帆良へと伝えるのかという問題もあったが、魔法使いに課せられた『魔法の秘匿』という法が、何よりもその方法の拡大の動きを阻害していた。

 また自衛隊が取っている方法とは、警察、或いは消防、救急へと繋がれた通報の盗聴である。
 その中から、悲鳴や破壊音だけでなく動物か何かの唸り声や吼え声が聞こえるだのといったギルステインの物と思しきものを選別し、その公算が高いと判断されれば、特務部隊が実働に移る、というものだった。
 ただし、これは外れである可能性も多分に含んだ方法である。
 実際に出向いたは良いが、結局、ギルステインは見られなかったという方が圧倒的に多いと思っていいだろう。
 勿論、時間や回数を重ねていく内にロスや無駄は削られ、修正されてはいたがそれでも実用的というには未だ不十分な域でしかなかった。
 しかし、ギルステイン症が未だ秘されている以上、彼らが出来る事に限りがあるのは致し方ない。
 範囲は日本国中という利点は確かに在るのだが、それでもまだデメリットの方が良く目に付く方法だった。

 けれど一つ、魔法使いの方法にも自衛隊の方法にも共通した、そしてどのように克服すべきか難しい問題があった。

 ――それが、魔法使いも自衛隊も所詮、知る事が出来るのはギルステインが発生して“から”でしかないという、如何ともし難い制限がある事。

 予防は不可。既に全世界に広まり、全人類が感染していると考えていいだろう。
 ギルステイン化する前の探知は未だにその方法すら見えてきていない。
 そもそも、ギルステイン化するプロセスや理由を必死に解明しようとしているのが現段階であるのだから。

「しかし、その直後に発生した2回目は、初めて観測されたというよりも観測データとしては異常だったようです」

 けれど、昨日、観測されたもう一つの反応は今までと異なり、精霊とは異なる“何か”が映り込んだのだという。
 精霊を映し出す為の物に、精霊では無い“何か”が、映ったのだという。ただ余りに突発的で、余りに一瞬の出来事であったらしい。

 しかし――

 それが一体、何を意味するのか。それを解析するには、データが少なすぎる。

 だからこそ、これに応えられる者はいなかった。

 だからこそ、関東魔法協会会長であり麻帆良学園学園長でもある老人が出来たのは、そうかの、とその豊かな眉尻を微かに下げる事だけだった。

「位置と時間が、悪かったかのう……。気付くに遅く、動くに難く。
 何も出来なかったわい。不甲斐無い事、この上ないの」

 麻帆良学園都市の中で起こった出来事であったなら、何かしらの手は打てただろうか。それとも、何も手も打てなかったのだろうか。

 そんな事を考えてしまう。

 そして、老人の脳裏に過ぎるのは一抹の不安だった。

「………………ふむ」

 老人は微かに唸る。その唸る様を何事かと思い、タカミチは言葉を投げ掛けた。

「どうしました、学園長?」
「いやなに、嫌な予感が、どうにもしてのう」
「予感、ですか」

 うむ、と学園長は微かに頷き、タカミチは眉間に微かに皺を寄せた。

「時にタカミチ君、昨日は聞きそびれてしまったがマリエッタ女史とは、どのような御仁じゃったかな?」

 そして何でもないように尋ねたそれこそが麻帆良学園学園長にして、関東魔法協会会長たる近衛 近右衛門が不安を抱く事柄だった。
 タカミチも、老人の言葉の端から何と無しにそれを感じ取ったのだろう。表情を神妙な物へと変える。
 そして言葉を纏めるかのように暫し黙考した後、口を開いた。

「……そう、ですね。科学者としては申し分ないのでしょうが、少々、冷淡に過ぎる女性、という印象があります」

 タカミチがヘレナに抱いた第一印象は何と冷たい瞳をした人なのだろう、という物だった。
 ただ同時に、その冷たさは世を嘲るが故のものでなく、観測者足ろうとするが故に、と思えたのだ。

「ふむ……」
「ただ………」
「ただ、なにかの?」

 ――だからこそ、だろう。

 タカミチがその瞳から、重い覚悟を感じ取ったのは――

「ただ同時に、その目からは、決意を感じ取れました。
 何物に代えても事を成し遂げようとする人特有の、そしてなによりもその光に翳りを、狂気を感じませんでした。
 あれほどの清廉な決意の光を見るのは久しぶりでしたよ」

 タカミチのその言葉はまるで、彼女という人柄を称えてるかのようだった。

「……なるほど、のう」

 けれど老人は一度、言葉を区切る。

「ならばますます、不安が募るのう………」

 そして椅子の背凭れに身体を預け、嘆息するかのように言葉を吐き出した。
 しかし、それにタカミチは微かに首を傾げる。その仕草を見た老人はその理由を言葉にした。

「タカミチ君、そういう外道非道と知っていながら己の意思でその道を歩む事を決めた者はの、躊躇わぬのじゃよ……」
「躊躇わない、ですか?」

 その反芻に学園長は然りと頷き、

「狂人なら兎も角、常ならば誰もが思わず躊躇してしまうようなことでも……その先が目的に通ずるならば非道も外道も突き進む。
 誰もが躊躇うだろうことを、行なえば誰もが蔑み糾弾するだろうことを、決して躊躇わず、ただ己の覚悟だけを供として、の」
「………………しかし、まだそうなると決まった訳ではないと思います、学園長」
「ふむ……」

 顔を顰めて唸る学園長に、タカミチは眼鏡の位置を調整しながら、憂うように零したのだった。

「……暗中模索とはまさに、こういう事を言うのかもしれませんね……」
「ふぉふぉ、そうじゃの、タカミチ君。なんとも難しいのう」

 そして今度こそ、二人の間に沈黙が落ちた。
 その中でタカミチは一瞬目を閉じ、気を落ち着かせるかのように息を吐くと、前々から考えていた事を告げるのだった。

「学園長、今からでもあの子の来日を取りやめる事は?
 事態が収束するまで待つか、出来るなら修行地の変更も視野に入れるべきです。
 今の日本のこの状況は、彼の修行の地としては不適当に思えます。
 少なくとも、長年慣れ親しんだ土地で――」
「それはならぬ」

 しかし老人は手と言葉によって、タカミチの進言を止めたのだった。
 その言動は、これに一切変更はないのだとタカミチに強く告げていた。

「何故です、学園長?」

 タカミチは声こそ荒げなかったが、その眼差しは多分に怪訝そうであり、そして遠い異国にある少年を気遣う優しさが滲んでいた。
 その光に当てられたかのように、老人は豊かな眉で隠された目を微かに細め。

「タカミチ君、魔法学校出でないおぬしには実感は得られぬだろうが、どのような修行を行なうのかという卒業証書のあの言葉はの、“あのお方”の言葉でもある。
 それは重く、そしてそれだけの意味があるのじゃよ」
「…………」

 しかし、タカミチは是とも非とも、うんともすんとも言わず、眉間の皺を深くした。
 タカミチは老人の言葉の真意を図りかねているのだろう。しかし、それも致し方ないか、と老人は胸中で嘆息した。

「ま、あの時のあの言葉がどれ程価値在る物だったかを知るには時間が掛かる事なのじゃがの、フォッフォッフォッ」

 ――斯く言うわしもその一人じゃったことだしのう。

 そう、学園長は快い笑い声を上げながら、豊かな髭を手櫛で梳き。
 そしてそれ以上、その事に関して何も言おうとしない老人を見て、タカミチは一瞬瞑目すれば、溜め息を誤魔化すように言葉を紡いだ。

「学園長のご判断は分かりました……。それでは、僕もそろそろ」
「うむ、資料の方、態々すまんかったの」
「いえ、僕もちょうど学園長に会う理由が欲しかっただけですから」
「ふぉふぉふぉ、やはりそうじゃったか」
「ええ、では」

 タカミチは苦笑いを浮かべながらそう告げると、部屋を出ていき、扉で見えなくなるその背を学園長は見送った。
 そして、机に広げられていた書類を整え脇に寄せると、引き出しから新たな書類を1枚取り出し置いたのだった。
 ただし、今度のそれは日本語で書かれたものでなく、英語で書かれたもの。
 その書類には、Nameと分類された欄には達筆な草書体でこう書かれていた。

 ――Negi Springfieldと。

 書類に張られた顔写真には、何処か緊張した赤毛の少年が映し出されている。
 それを見て、老人はふっと息を零し、

(あれから5年か……大きくなったもんじゃのう)

 豊かな眉毛に隠れたその眼差しが物悲しそうなものへと取って代わられた。

 ――或いはそれは、少年と会う事を何処か脅えているかのようでもあった。

(……わしに己の罪と向き合え、という事なのですか?)

 けれど、その問い掛けの答えは分かりきっている。誰に尋ねる必要など無いものだった。

 何故なら、彼[か]の言葉は何処までもネギ・スプリングフィールドの為のものでしかない。
 其処に老人へと向けられ篭められた意図も意味も、そして想いもまた無い。

 だからこそ――

 近衛 近右衛門のその問いは何処までも、自責の念に駆られたものでしかなかった。









◇ 間ノ章 了 ◇









◆後書き◆

の前に。

※FBT(『Frustule Beast Transformation』、躯殻獣化)
・FBTと躯殻獣化というのはあったのですけど、FBTの綴りがこれかどうかは確証無し。ついでに、躯殻獣化がFBTの和訳かどうかも分かりませんけど、多分、間違ってない、筈。

※精霊
・ネギまでは、特に記述は無かった筈。単純に呪文からそういうものかな~、と考えさしてもらいました。


 しかし、今回の話、大した内容ではない筈なのに、時間が掛かった。ついでに思ってたよりも量が……。
 それはさておき、最初は二ノ章として書いてましたが、書いてると全く主人公が登場しなかったので流石になんだかなあと思い、ちょい変更。
 いやまあ、まだ一ノ章しか出てないのに良いのかなあとも思いますけど。

 しかし、もう一人の主人公であるネギが登場するまでが遠い……orz
 そういえば、ネギまのイベントの時系列確認する為に、ネギまを読み直したら、「そうか、惚れ薬騒動って原作第2話だったのか……」と思った今日この頃。






 ………どうしよ……………。





[8616] 二ノ章前編[Boy=Encounter]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/11/04 23:29



 扇形のコンソールが中央に設けられたその薄暗い部屋は、お世辞にも綺麗とは言い難かたかった。
 床は、コンソールから伸びた太さや色の異なる無数のコードによって、ごちゃごちゃと覆れ、その両横、壁に沿ってあるのは何かの資料だか書類だか、とにかく分厚い紙の束が寸分の隙間なく詰め込まれたステンレス製の無骨な本棚。
 そして、部屋の片隅には積み重ねられた段ボール箱やら木箱やら正方形の金属箱やらがあり。

 普段使われていない事もあって何処か埃っぽいその部屋は、如何にも雑然とした印象を見る者に与えてしまう、そんな場所だった。

 しかし其処には今、三つの人影があった。

 その一つは中央のコンソールと向き合う、人間離れした姿の少女のもの。
 真っ直ぐに伸ばされたその髪の色は翠緑色。背は少女にしては高く、本来耳が在るはずの場所からは後ろに伸びた長方形の物体が覗いていた。
 それだけでも尋常ではないと言うのに、その物体の側面からはそれぞれ数本ずつコードが伸び、コンソールの端子と繋がっている。

 そして少女は瞑目しながらコンソールの前にある椅子に行儀良くただ座り。

 ──まるで微動だにともしないその姿は、どこか等身大の人形の様だった。

 そんな少女の前には20インチ程のディスプレイが幾つも埋め込まれた壁があり、然も横長の巨大なディスプレイの様相を呈していた。
 この部屋をぼんやりと照らしている、そのディスプレイ群はマルチモニター──一つ一つのモニターに異なる画像、映像を映し出す事も出来れば、ミラーリング──複数のディスプレイが連動して一つの画像、映像を映し出す事も可能とした物だった。

 そして其処には今、ある映像がミラーリングされた状態で映し出されている。
 それは数十人の少年少女達が何をするでもなく、何処かのロビーで過ごしている様子が俯瞰する形で映し出された物だった。

 しかし、唐突に──

 ガシャン! とガラスが盛大に割れる音が響いたと思いきや、そのロビーに居た子供達が皆、何の脈絡も前兆もなく荒々しい喧騒に包まれたのだ。
 入り口のガラスドアを突き破り突っ込んできたのは数台のジープ。ぐるぐるとロビーの形をなぞるように旋回する様は獲物を狙う肉食獣の様。
 粗野な笑い声を上げながら、ジープに乗る人影のその格好は酷くラフだった。
 サングラスやTシャツにジーンズ、或いは何かの作業服のような格好は、一見、不良のようにも、同時にそう装っているようにも見える。
 けれどただその手には、どうやって手に入れたのか、アサルトライフルといった銃火器が握られ、中にはロケットランチャーを手に持った者もいる。

 そんな彼らを見て、子供達は訳も分からず、戸惑い、怯えていた。

 そして、一斉に向けられる銃口に砲口。


 ──何故、子供達は銃口を向けられねばならないのか。何故、彼らは子供達へと銃口を向けるのか。

 けれど、事態はそんな疑問を置いて進み行く──


 そして始まったのは、暴戻なる所業。その始まりを告げたのは幾重もの弾丸の炸裂音。

 銃弾が空を飛び、弾丸がフロアを穿つ。噴射炎が宙を奔り、爆風が吹き散らされる。

 哄笑と悲鳴が響き渡る。

 それら全てに追い立てられて子供達は狂走し、狂騒していた──

 ──泣き叫び、助けを乞うていた。

 幾つものディスプレイが一丸となってに映し出していのは、そんな余りに惨[むご]い光景だった。

 けれど、それを見詰める二つの人影が纏うその雰囲気はただただ何処までも冷たい。
 耳を塞ぐ訳でも、目を閉じる訳でも、何か呟く訳でもなく。
 まるで何かを見極め、見届けようとしているかの如く、只静かに見詰めていた。

 そんな影の一つはこの部屋の持ち主である、超 鈴音[チャオ リンシェン]。そしてもうもう一つは──

「ふん……」
「おや、どうしたネ? エヴァンジェリンさん」

 超にエヴァンジェリンと呼ばれた、前髪を切り揃え美しい金髪を長く真っ直ぐに伸ばした可愛らしい少女のものだった。
 黒のワンピースでその幼い肢体を包み、その上には黒のカーディガンを羽織っている。
 そして椅子に、身を沈みこませるかのように腰を下ろし、その細く白い足を組ませていた。
 けれど超に敬称を付けられ呼ばわれた、その少女は超と較べて更に幼い。
 十に届くか否か、ともすればそんな幼さすら感じさせる少女だった。

 しかし少女は見掛けから察せられる年齢からは考えられぬ程、その表情を高慢に澄まし、その目を尊大に眇めながら、不遜も露に鼻で笑う──

「ああ…………不愉快だな、超 鈴音。
 是非見せたい、面白い物があると言うから来てみれば、私の主義に反する物を見せられたのだ。
 この不快感、どうしてくれる?」

 そう不愉快そうに横目で睨まれ、しかし超は怯えるでもなく、困ったように頬を掻きながら苦笑を浮かべるだけだった。

「アイヤ~……、それは申し訳ない。だけど、私もまさかこんな事だとは思っていなかったのダ。
 許して欲しいネ。……と、ほら、始まるヨ、エヴァンジュリンさん。私が見せたかったのは、ここからダ」

 言われ、エヴァンジェリンがディスプレイへと視線を戻せば、哄笑が、銃声が、ジープの走行音と共に遠ざかり、小さくなっていく。

 そして転じて、ロビーは静寂に包まれた。だからこそ、マイクから微かに聞こえてきたのは少年少女のくぐもったうめき声、しゃくり上げる声。

 泣いていた──恐怖で、憎悪で、憤怒で、絶望で染まった声音で、子供達は啼いていた。


 だからこそ──

 ──子供達の内に潜んでいたものが彼らの絶望に応え、憤怒を力とし、憎悪に形を与え、恐怖に浸った心を喰らい。

 “異形の怪物[ギルステイン]”へと変えていく──


 その少年少女が変態し、変貌していく様に不快気にその娥眉[がび]を顰めながらも、エヴァンジェリンは感心したように息を零した。

「…………ほう、ギルステインか……。久々に見る、しかしこれほどの数をいっぺんに見るのは初めてだな」

 けれど、子供達の成れの果て、異形の怪物共は最後に現れた鉤爪を全身に帯びた赤の怪物によって、瞬く間に屠られて行く。

 ──文字通り、両断されていく。

 血飛沫が宙に飛び散り、血がフロアを瞬く間に染めていく。銃弾に、そして爆発に穿たれ開けられた穴に溜まっていく。

「あれは少々、毛並みが違う、か……」
「ふふ、その言葉は少々早いと思うがネ」

 そして、赤い怪物が己以外の異形を全て討ち倒した時、“それ”は現れた。

「……………」
「目覚めたカ……」

 それは黒の異形──漆黒の全身鎧を纏ったかのような、黒の巨人。

「ううん、まだ。あれは引きずられただけ、不完全。それにまだまだぜんぜん未熟だって、ルルンが言ってる」

 しかし、その姿を見て零された超の言葉は、幼い少女の声によって否定されたのだった。
 思わぬ闖入者から扉の開閉音と共に発せられた発言だったが、何処か少年のようにも聞こえるその声は超にとって聞き知った物だった。

「リン……、どうしてここにいるのカネ?」

 超が振り向いた先に居たのは、片腕に白い子猫を抱いた一人の少女だった。
 背の高さは隣に居るエヴァンジェリンと同じほどか、やや低い。
 背中の中ほどまである後ろ髪は三つ編みにされ、前髪は両側に長く伸ばされていた。
 リリと呼ばれたその少女はそんな、大きな瞳の可愛らしい少女だった。
 動きやすさを重視してか、黄色の短パンを穿[は]き、青のジャンパーを着込んだ少女──リンは音を立てないようにゆっくりと扉を閉めると、笑みを浮かべながら、超に示すかのように両手で子猫を持ち上げ。

「ルルンが、教えてくれたの」

 それに応えるように、にゃお、と子猫──ルルンは小さく鳴いた。

「……ルルン……」

 超は白い毛玉のように丸い子猫を見る。
 その視線をルルンは真っ直ぐと見返すとまた小さく鳴き。
 それを見て、ルルンの無邪気な鳴き声を聞いて、ルルンに文句を言ってもしょうがないか、と超は諦めたように息を吐いたのだった。
 ルルンは主人であるリリの願いに応えただけなのだろう、と。それに此処でこの少女を追い出すのも間が悪い。
 何よりも、リンに今更隠すにしても意味が無い。
 超が今日、この事を教えなかったのは、リリには余り関係がないからと言うだけで、ばれたらばれたで然程の問題ではなかった。

「まあ……来てしまったものはしょうがない。ただし、ここのことは誰にも言っていないカネ、リン?」
「うん。ルルンに教えてもらいながらだったから、誰にも行き先言ってないよ」
「ならばヨイ。こっちにおいで、リン。だけど、ルルンは抱っこしたままにネ。
 変な物に触ったら危ないからネ」
「うん、超ねえ。そうだ、エヴァおねえちゃん。エヴァおねえちゃんも、あの人がまだ本気じゃないって、完全じゃないってわかるでしょ?」
「ふん、さあな……。だがリン、あれはギルステイン、だ。あの人などと、まるで人間のように言うのはよせ」
「……あの人はあの人だもん。人間だもん。エヴァおねえちゃんのいじわる」
「だが、事実だ」
「むぅ~、本当は分かってるくせに……」

 己の言葉を受け入れてもらえない不満に頬を膨らませたリンのその顔は、頬袋に木の実を詰め込んだリスのようだった。
 正しく子供の反応にエヴァンジェリンは小さく息を零すと、逐一、相手をして入られないとばかりに大画面へと意識を向け直す。
 リリもエヴァンジェリンから視線を逸らされ、益々、ぶすっとするも、超に手招きされると足元のコードに気を付けながら、超とエヴァの方にとことこと歩み寄り。
 部屋の中央にあるコンソールの前で、じっと目を閉じている少女へとリリは話しかけた。

「丸ねえ、何してるの?」
「茶々丸は今、お仕事中だから邪魔しちゃダメヨ、リン」
「ハァイ……」

 超に諌められたリンは、素直に二人の傍らにあった椅子に座り。
 ルルンを腕に抱えながら、眼前のディスプレイへと目を向けた。

 其処に映し出されていたのは、相対する黒と赤の躯殻獣[ギルステイン]──

 しかし次の瞬間、赤の怪物が黒の巨人へと一足飛び襲い掛かる。
 黒の巨人はそれを迎え撃ち、否、まるで取り押さえようとするかのように、赤の獣の突進を受け止め──ようとした。

 けれど、赤の怪物のその力は凄まじく、もつれ合いながら、黒と赤は諸共に吹き飛んでいく。
 建物の区画と区画、階層と階層を隔てる壁など無いかのように分厚い壁をぶち抜いて行く。

 周りにある物も者も巻き込みながら──

 映像の場面が次々と切り替わっていく。カメラが戦闘によって回線ごと破壊されていっているのだ。
 コンソールの前に座る少女──茶々丸が無事な回線へと瞬時に切り替え、辛うじて追ってはいたが、カメラが捉え切れなくなるのも時間の問題だろう。

 そして、赤の怪物と黒の巨人の闘いは再び始まりのロビーへと戻り。


 ──そこで。


 黒の巨人は、人を殺し喰らい嗤う赤の怪物を目の当たりにする。

 刹那の静寂。その中で再度、黒の巨人と赤の怪物は向かい合い。

『オ゛ア゛ガオオ!!!!!!』

 次瞬、響いたのは空を震わせる黒の巨人の咆哮だった。
 まるで何かを振り払おうとするかのような、何かを決意したかのような、それは雄叫びだった。

 ──白い子猫がごろごろと咽喉を鳴らす。

「超ねえ、今……」
「己の意思で成った、カ?」
「うん」

 そして、少女が頷くのと同時に黒の巨人は赤の怪物へと吶喊する。
 それは先の赤の怪物が行なった突撃とは比べ物にならないほどの速度、衝撃を伴う破壊の突進。



 直後、ディスプレイの映像はブツリと途絶えたのだった──















◇ 魔獣星記ギルま! 二ノ章前編 [Boy=Encounter] ◇















 ──えーんえーん。

 声だ、声がする。

 誰かの、か細い泣き声が聞こえた、気がした。

「だれか、ないてるの?」

 えーんえーん、くすんっくすんっ、ひっくひっく。
 遠くから聞こえて来たと思ったら直ぐ近くから。近くから聞こえてきたと思ったら遠くから。

 どこにいるんだろうと、キョロキョロ、周りを見た。ぐるぐる回って見渡した。
 すると、何処かぼやけた景色の中にある、やっぱり輪郭のぼやけた公園のその中央にその子はいた。
 頭を膝に埋もれさせるようにしゃがみ込んでいる、一人の女の子だった。

「ねえ、なんでないてるの?」

 近寄ってそう問い掛けると、女の子は驚いたように顔を上げ。

(びっくりさせちゃったのかな?)

 そしてやっぱり、その女の子もぼやけていて、良く分からなかった。
 顔も手も足も服も、滲むようにぼやけていて、どんな子なのか、良く分からなかった。

 だからはっきりと分かったのは、髪の毛は綺麗な金色、肌は白磁のような白、瞳が綺麗な青色という事だけ。

 ただ──

 ただそれでも──

(かわいい……)

 ──その女の子を見て、そう思った。

「         」
「え、な、なに?」

 女の子が首を傾げながら口を開いたけれど、聞こえて来たのは今まで聞いた事の無い言葉だった。
 だから──分からないから、もう一度、さっきの問いを繰り返した。

「え……と、なんでないてるの?」
「…………………」

 けれど、女の子は何も答えない。ただ、じっと此方を見てくるだけだった。
 訝るような眼差しをじっと向けられて慌ててしまう。
 あうあうと口をもごもごとさせ、その視線から逃れるように顔を俯かせてしまう。
 その仕草が可笑しかったか、女の子はくすくすと笑い、顔を綻ばせ。
 その笑い声に恥ずかしさを覚え、顔が瞬く間に熱くなった。
 すると微かな衣擦れの音が聞こえてきて。
 釣られて上目遣いに見れば、少女は涙を拭い、立ち上がった所だった。

 そして、お腹の前で絡ませていた手を女の子はその色白な両手で取り。

「アリがとウ」
「え……? あ、どう……いたしまし、て?」

 女の子は微笑み、拙いながらも日本語で礼を言ってきたのだった。
 反射的に返したけれど、内心では首を傾げるばかり。何でお礼を言われたのかはよく分からなかった。

 ──ただ、声を掛けただけなのに。

(なんでだろ? ……よくわかんないや)
「  !   !!」

 その時、後ろから少年の、やっぱりこれも何を言っているかは分からなかったが何処か切羽詰った声が響いた。
 後ろを振り返ってみると、金色の髪に白い肌をした少年がいた。
 相変わらず何処かぼやけていて、年は分からなかったが、自分よりも頭一つ以上、背の高い少年だった。

 少年は何かを探すように顔を忙しなく周囲へと向け、声を上げ、歩いている。

「   !」

 女の子はその少年の姿を認めると、途端、喜びと安堵を満面に浮かべ、少年の下へと駆けて行った。
 少年も探し者はその女の子だったのか、駆け寄ってきた女の子を優しく抱き締めた。
 そして、少年はその小さな手を取ると歩いてきた方へと足を向け。
 けれど女の子はその前に、此方に態々戻って来たではないか。

(なんだろう)

 そう思いながら見ていると、女の子は駆け寄ってきた勢いのまま、ちゅっと頬に口付け。
 頬をくすぐるこそばゆさと同時に背筋に奔ったのは言い知れない、けれど何処か気持ちの良い感覚。

 それに驚いて、思わず頬を押さえて、けれど出来た事と言えば呆然と女の子を見返しただけだった。

 少女も微かに頬を紅くさせながら、照れ隠しのように可愛らしい笑みを浮かべた後、少年の下へと走っていく。
 時折、振り返っては手を振りながら、今度こそ少年と共に。

 暫くしても晴れない衝撃に、ぼうっとその方向を見ていると。

「いおり~」
「いおり!!」

 声が聞こえて来た。

 友達の声だった。

(そうだ、かずひこやくみブーとあそぶやくそくをしてたんだ)

 ──なんでそんなたいせつなことをわすれていたんだろう。

 そして、振り返ったその先に在ったのは──






「伊織……」






 助けを求める友の──菊池の声、そのそばかすの顔を恐怖に歪め、涙で汚しながら助けを求める必死の形相。

「え?」
「助けてくれ! 伊織!! オレを……オレを止めてくれ」
「え、菊池?」

 しかし、友達は暗がりへと瞬く間に飲み込まれ、引き摺り込まれ。
 友達を呑み込んだ、その暗がりは怪物だった。

 ──見たことも無い、現実にいるとは到底思えない、怪物だった。

 けれど、己はその怪物に些かも臆する事無く差し迫り。その身体を己の黒く鋭い鉤爪で引き裂いていく。
 そして己の意識に伝わるのは、指先の爪が何かを裂いて行く感触──断ち切り、爪が何かを貫き切り裂く感触──突き破り、掌が何かを押し潰す感触──押し込み、腕がやけに生暖かい何かの中を突き進んでいく感触──

 裂いて行く、切り裂いていく、切断していく、両断していく。


 ──怪物の身体を、“友達”の身体を、真っ二つに。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



 目が、覚めた──






◇ ◆ ◇ ◆ ◇






「うわああっ!!」

 伊織は自分の上げた声に飛び起き、目を覚ました──余りに生々しい夢見に飛び起きた。
 それを証すかのように、激しい動悸が伊織の胸を打つ。
 それを鎮めようと深呼吸を繰り返しながら、無意識に伊織は左の小手を右手で擦っていた。
 まるで左腕に残った何かの感触を払い落とし拭い取るかのように、何度も何度も──擦っていた。

「はー、はぁ……」

 そうやって何度も何度も拭い、何度も何度も深呼吸を繰り返して、鼓動を、そして息を落ち着かせていく。
 落ち着いてくれば、余裕が出てくる。余裕が出てきてようやっと伊織は、右手で左の小手を擦っている事に気が付いた。

 伊織は左手を眼前に掲げ。

 ──気付けば盛大に、安堵の息を吐き出していた。

(──元に──元に戻ってる……?)

 試しに掌や手の甲、そして腕をつねったり引っ掻いてみたりして、その感触を確かめた。
 指先に伝わってくるのは慣れ親しむ、というものを越えた、在って当然の“人”の肉の感触。

 その感触に、伊織はただただ安堵した。

 ──ああ、あれはユメだったんだ、心底、安心したのだ。

 それでも何か見落としたものはないかと腕を見回していると、肘の内側にテープで貼り付けられた小さなガーゼ。

(なんだ?)

 と思い、剥がしてみればガーゼが貼り付けられていた腕の部分にはかかさぶたで出来た小さな赤い点。
 ガーゼに少しばかりの血が染み込んでいる。

 それは針が肌を貫いた痕の様で──

(寝てる間に注射とか点滴とかされたのか、な)

 そして今更ながら、服が白の半袖のTシャツに白の短パンと、目が覚める前に己が来ていた私服とは全く違うものに変わっている事に伊織は気付く。
 左の二の腕にも、何かが巻き付いている違和感を感じ。左袖を捲り上げてみると、二の腕に平べったい台形状の機械がベルトによって腕に巻き付かされていた。

(なんだ、これ? ………え、取れない!?)

 外そうと弄[いじ]くっても、継ぎ目を引っ張っても取れない。力尽くで取ろうとするもびくともしない。
 暫く、外せないかと弄くり続けたが結局、びくともせず。片手では無理だと判断した伊織は、一先ずそれを置いておき、今度は己の周りを見渡した。
 見えるのは白いベッド、そのベッドを取り囲む何かの機器。心電図が、ドラマで見た事のあるので辛うじて判別出来た程度。
 ベッドの傍らにある台車に乗せられたトレーの上には何かの薬剤やら薬液やらがあり。

 そして、窓から見える空は暗い。日が沈んで既に大分経っている様だった。

(どこだ、ここ? それに今って何時なんだ?)

 ただ、部屋に満ちている雰囲気や消毒液臭さから何となく伊織は場所を連想する。

(この臭いは──病院? なんで?)

 ──何故、己は此処にいるのか。

 身体には傷など、一つも見当たらないというのに──

(それに、さっきの夢は……何だったんだ?)

 夢──今まで見た事の無い化け物を己が殺す夢。

 余りにも荒唐無稽で、脈絡の無い夢。

 しかし、未だ左腕に残る感触は余りに生々しく。

 それに、飛び起きる羽目になった夢の前にも何かを見ていたような気がするが、どうしても思い出せない。
 思い出せない事に咽喉元に何かが引っ掛かったかのような不快感を覚えるも、やはり一度忘れてしまった夢は思い出せず、それを誤魔化すように伊織は頭をがりがりと掻いた。
 そして此処が何処なのか確かめに外へ出ようと思い、ベッドから立ち上がろうとした時、胴に違和感。

 服を捲り上げて見てみると、コードの伸びた吸盤が胸や脇腹に貼り付けられていた。

「いてて。ったく、なんでこんなのが」

 確りとくっ付けられた吸盤を外すと、伊織は今度こそ部屋の外へ出た。
 部屋の外は、カーブを描きながら続く廊下に等間隔に設けられた部屋のドア。しかし、やはり人の気配は皆無だった。
 病院であったら、看護士や医師の気配が有っても良い筈なのに、それすらいそうになかった。

(変な病院だな……なんで誰もいないんだ? ──だけど、ここに菊池も──)

 そう思った瞬間──友人の名を思い浮かべた瞬間、伊織はまるで泉が湧き出るかのように、まざまざと思い出す。

 あの時の痛みを、心と身体の痛みを。

「あ……菊池、は──」


 ──サナギ狩りに遭っていた友人を助けようとして、けれどその友人が怪物へと変わって、不良達を殺して、自分も殺されかけて。

 そして、己のこの手で殺した、という事を──


 その左の指先に残ったそのおぞましい感触がその想起を肯定する。


 ──そんな訳が無い、そんな事が在る筈が無い。


 けれど、左腕に残ったその感触がその逃避を否定する。

(菊池は……ぼくが……)

 伊織は思わず左の手首を掴んだ。
 まるで握り潰そうとするかのようにギリギリと、力の限り。

 ──伊織の心が恐怖に泡立つ。

 すると然も心を読み取りでもしたかのように、左手が見る間に変わっていった。
 ミシミシと、微かに音を立てながら黒くなり硬くなり。

 そして爪が、獣の爪すら上回るような鋭さをもって伸びていく。

 それはさっきの夢に出てきたものと──とても良く似ていて。

 伊織はただただ慄いた。

 さっきの夢は、己の拙い妄想などではなく、事実起こった出来事だった、という事に──

 ──伊織は戦[おのの]いた。

(ぼくが……──ぼくがこの手で──)

 この爪で──

 ──その体表を引き裂いて、その内腑を切り裂いて。

 怪物になってしまった菊池の身体を──

 ──この真っ黒な爪を真っ赤に染めて。

(ぼくが──)










 殺
 し
 た
  。









「──ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!! う゛ぇ………っ!?」

 気付けば吼えていた。息の続く限り、有らん限りに伊織は吼え、そして嘔吐[えず]いた。一度、嘔吐けば直ぐに吐いた。
 膝から力が抜けた。蹲って尚吐いた。けれど腹の中に出てきたのは酸っぱい胃液だけだった。

「あう゛っ!! あ゛う゛っ!! あぐうぅっ!!」


 そしてそれが収まれば、その口から出てきたのはまた──


「うぅう……あああああああああああああああああああああああ……──!!!」


 ──慟哭だった。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









 伊織が己の悲鳴から逃れるように廊下を駆け抜け目に付いた階段を駆け下りていくと辿り着いたのは広いロビーだった。
 椅子やソファー、ベンチ、テーブルが幾つも設けられ、観葉植物がその白い空間を僅かと言えど彩っており、広めの踊り場のよう他より高い造りの場所もある、そんな場所だった。

 しかし、一気に数階分の階段を降りてきたのが堪えたのか、足がふら付き、伊織は肩から壁に寄り掛かる。
 そして、見えたのは伊織とそう年の変わらないだろう少年少女達が各々、寛[くつろ]いでいる姿だった。
 特にやる事がある訳ではないのか、その多くが雑談に興じているようで、ざわざわとささやかな喧騒にロビーは満ちていた。

(なんだ、この人たち?)

 そして皆が皆、伊織と同じ格好をしている。白い無地のTシャツにこれまた白い短パン。まるで支給されたかのように一様に。
 その中で伊織の比較的近くにいた数人が伊織の存在に気付き、視線を向けて来た。
 けれどその視線は直ぐに伊織の顔から、その黒い左手へ移り。

「っ……!」

 彼らが自分の何処を見ているのか、そして恐れとも驚きともつかない彼彼女らのその表情を見た伊織は慌てて左手を服の中に隠した。
 そして疑問、不審に視線をさ迷わせていると不意に、まるで吸い寄せられたかようにある一点で縫い止められた。


「さ、もう時間ですよ」
「え、もうそんな時間!? しょうがないわね。じゃ、また明日ね、サラ」
「うん、また明日、香奈」


 それは白の肌に金の髪、そして青い瞳の、絵に描いたような白人の可愛らしい少女だった。
 何処か身体が悪いのか車椅子に座りながら、同じテーブルに着いている日本人の少女と雑談を興じ、楽しげな笑みを浮かべている。

 そんな彼女に伊織の視線が引き寄せられたのは、その少女が何かと他とは違うからだろう。
 白いTシャツに白い短パンと言う中で、ロングスカートという服装。黒髪の中で唯一の金髪。そして目に見えて白い事が分かる、その肌の色。

 伊織は愕然とした。

 その少女の顔を見て――ただただ驚いた。

「あ……あの娘は……!!」

 同じテーブルに着き、その白人の少女と言葉を交わしている少女など目に入らなかった。

「どうして………?!」

 何故ならその少女は、あの一家惨殺事件が起こる度に毎夜見る、あの“夢”の中に出てきた少女と瓜二つなのだから──

 その夢は己が殺してしまった、怪物と成ってしまった菊池もまた見ていた“夢”なのだから──

 我を忘れぬ筈が無い。驚かぬ筈が無い。


「香奈……!」
「ん? なに? サラ」
「あの子………」


 そして伊織の視線に気付いてか、その少女も伊織を一瞥し。
 ただその表情は怯えるようだった。助けを求めるかのように、或いは伊織のの存在を教えるかのように、己の前に座っている少女に呼び掛けている。

(あの夢の──夢の中のあの娘……!? あ!!)

 そして、車椅子に座るその少女は職員だろう、水色の簡素な服に身を包んだ男性二人に付き添われ、その場を離れて行った。

(追いかけなきゃ!)

 ──話が聞きたかった。

 兎に角、伊織は彼女の話を聞きたかった。
 その行為に意味があるのかとか、今がそういう時なのかとかなど伊織の意識の片隅にもなかった。

「きゃ!」
「お!」
(会って、会って聞かなきゃ!!)
「なんだなんだ!?」

 ──あの“夢”の意味を知れば、きっと何かが分かると、そう思っていたのだから。

 伊織は己の進路上に偶々、居合わせていた少年や少女を押し退けながら、ロビーを直進する。けれど、それでも人がいる中で出せた速度は早足程度。
 だから、伊織が目指す白人の少女との距離は一向に縮まらない。逆に、徐々に人が壁となって、見えなくなっていく。
 伊織は人ごみを疎ましく思いながらも、回りから向けられる奇異の視線に気付かぬまま、無理矢理退けられた子供達の思いなどなんら考慮に入れず、ただ真っ直ぐに進んでいく。
 けれどそこへ、一人の少女が伊織の前に立ち塞がった。彼女は先程、白人の少女からから香奈と呼ばれていた少女だった。
 前髪をピンで留め、肩口まで伸ばされた髪を外側にカールさせたその少女は伊織を、ともすれば冷ややかとも言えるような眼差しで見遣り。

「見ない顔、新入りね?」
「うるさい! どけ!!」

 しかし伊織は構わず、進もうとする。
 けれど、すれ違うその一瞬、首に腕を回され、束の間、押し留められた。

 その瞬間、少女──香奈は伊織の耳元で囁いた。

(夢を見たんでしょ? その中にあの娘が出てきた)
「っ!!?」

 その言葉は思わず伊織は足を止め、香奈を振り返った。

「あ……………」

 そして、はっと気付いた時には、白人の少女は職員と共に、閉じるエレベーターの扉の向こうへと消えていき。

「くそっ!」
「あ! ちょっと!!」

 伊織は少女の腕を振り払うと、急いでエレベーターのボタンを押すも全く反応しない。
 その脇には一筋のスリット。
 専用のカードキーが無ければ使用できないようになっているのだから、伊織にそれが使える筈も無く。

「ちくしょお!!」

 何度押しても全く反応しないボタンに苛立った伊織は、ボタンを掌で打ち付け、それでもやはりボタンは何の反応も示さない。

「ちょっと、君ってば!」

 そして追い掛けて来たのだろう、先程の少女が再び、声を掛けて来た。
 その声音は何故か切羽詰ったものだったが、その機微に気付くには、伊織の心は少しばかり揺れすぎていた。
 だからその声を聞いても、伊織の中に沸き起こったのは怒りだけだった。

「うるさい!!」

 伊織は壁を思い切り殴りつけ、振り返れば目の前にいた少女へと怒鳴る。

「お願い、静かにして……!」
「なんで邪魔すんだ!? もしかしたら何か分かったかもしれないのに、なんで! ちくしょう、なんで君っ──」
「聞いてってば!! もうっ!」

 怒鳴りつけられて尚、少女は激昂する伊織を落ち着かせようとしていたが、それに応じられるだけの余裕が伊織には無く。

 そして、何時までも激して此方の言葉に耳を傾けようとしない伊織に業を煮やしてか、意を決してか──

「ぃっ!?!?」

 ──香奈は強引に掴んだ伊織の右手を己の右胸に押し付ける。

 伊織は行き成りのその行動、感触に驚き。
 そして指先に僅かに感じた、服の上からでも分かるその硬い感触は“今”の己の左手の物と良く似ていて。

 すっと、頭が冷えた。

「あ……」

 伊織は驚き、戸惑いながらも、少女――香奈を見遣る。
 見れば、香奈は涙ぐんでいた。

「き……君は……? いや、君“も”……!?」
「お願い!! ここはあなた“だけ”じゃないの!! こんな所で騒ぎを大きくしないで……!!」









◇ ◆ ◇ ◆ ◇









 エレベーターの前で行なわれていた伊織と香奈の諍いは幾つもの監視カメラが捉えられ、ある場所へ送られていた。

 其処は管制室、コントロール・ルームと呼ばれる場所。
 コンソールが幾つも列を成し、その前の壁に備え付けられた幾つものディスプレイが連動して、それは映し出されている。
 そして幾人もが、コンソールと向かい合い、この施設に収容している少年少女達を監視し、この施設の設備と同じように制御[コントロール]する場所であった。

 その中の一人が伊織の身体データを読み上げる。

「検体[サンプル]026、アドレナリン値、上昇止まりました。鎮静剤の投与は必要ないと思われます。
 ………ただ今度は心拍数が上がりましたが」
「初心ねえ……」

 偶々、その言葉が聞こえたのだろう、何人かが、束の間、忍び笑いを零した。

 そんな中で誰よりも一心にその映像を見詰めていたのは、黒のスーツスカートに身を包んだ、この場所の長でもある一人の美しい女性──ヘレナ・L・マリエッタであった。
 ヘレナは普段からデータの解析室や自身の研究室に篭っている事が多い。
 そんな彼女がこの時間、何時も此処に居るのは、ロビーへと降りるサラの容態の変化に備えるため為だった。
 ヘレナが自身が日本に研究の拠点を移す際、共に連れて来た彼女は虚弱体質の気があり、ちょっとした事で体調を崩しかねず、またちょっとした不注意で悪化させてしまうかも分からない。
 けれど、同年代との接触は彼女の精神にプラスに働くと考え、ヘレナは余程、体調が崩れていなければ極力、下へ降りる事を許していた。
 何よりも、日本の諺にも『病は気から』という言葉がある。その気──精神の構築に役立つと踏んでの事だった。
 事実、此処に来てから彼女の精神は、アメリカにいた時には考えられないほど良くなっていた。向上した、と言い換えても良い。
 そういった意味で、ヘレナはサラと良く話をしてくれる少女には感謝していた。

 しかし、そんな時に瀧川 伊織の意識が覚醒したと言う報告を聞き、そして彼は此処まで降りてきたのだった。

 ──昨日までは全く覚醒の兆しを見せなかったのに、余りにもあっさりと。

「収容してから、丁度10日。ようやくお目覚めね。このまま目を覚まさないかと思ったわ」
「確かにそうですね。もう一度、検査しようかと思った矢先ですから。良かったですね、ドクター」
「ええ……そうね」

 その傍らに控えていた秘書であり助手でもある女性からの返しにヘレナは頷き。

「──………それに、準備も無駄にならずに済んだわ」
「準備、ですか?」
「ああ、こちらの話よ。気にしないで」
「はあ……」
「ところで今、026を止めたのは香奈、でいいのかしら……? この映像からだとイマイチ顔が見えづらいのだけれど」
「はい、止めに入ったのは患者[ペイシェント]019、七瀬 香奈です」

 それにはモニターに向かい合い、子供達を監視していた一人がそれに答え。

「流石は学級委員長ってとこですね」

 更に別の一人が、その人となりを補足した。

「026……瀧川 伊織クンも『サラ』に引っかかりがあるようね……。一種の共通記憶のようなものかしら……」
「やはり、彼も夢で見たのでしょうか?」
「さあ、それはまだ分からないわ」

 しかし、助手のその問い掛けにヘレナは肩を竦めるだけだった。

「それを確かめる為にも、サラに会わせてみるのも良いでしょう。それでサラの体調は?」

 その問い掛けに、助手はサラにも付けられている簡易型の計測機器から送られてきたデータを確認し。

「若干、熱があるようですが許容範囲以内かと思います」
「そう、なら良いわ。明日が楽しみね」

 ヘレナは再び、伊織と香奈が映っているディスプレイへと視線を戻した。
 その口許に、艶然と微かな笑みを浮かべながら。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









 伊織と香奈の二人は、ロビーの片隅にあり、周囲に人の居ないベンチへと腰を下ろしていた。
 自分達が起こした騒ぎで集めた衆人環視の中に居るのが居た堪れなかった、というのも勿論あるが、人目を避けるという意味合いも大きい。
 香奈としては、伊織の左手も勿論そうだが、これから伊織へと見せる物が他の誰かに見られる事を出来るだけ避けたかったのだ。

「ほら!」

 そして、香奈は左の襟を指で広げ、伊織に己の身体の肩を覆う物を晒す。

 ──それはイボのように生えた真っ赤な甲殻だった。

 少なくとも、人の身体には本来無いものだった。伊織の左手と同じように。
 しかし伊織としては、少女の素肌を直視するのはどうにも気恥ずかしさが先立ち、横目で見るに留まっていたが。
 それに先程の胸の触感が右手に残っているようで、どうにも顔の赤さが抜け切ってはいなかった。

 香奈は服を元に戻し、服の縒れを整える。
 彼女も出会ったばかりの男子に自分の身体を見せるのは若干恥ずかしいのか、顔をやや赤らめつつも、しかしなんでもないように言葉を続けた。

「ね? あたしのは背中からこっちの方を回って胸まで。胸のトゲなんてもうブラの上からでも分かったでしょ?
 おかげで2サイズ上よ! 全く、やになっちゃう」
「……………」

 未だに顔が赤い事を伊織は自覚しつつも、どう返したものかと中空を見上げつつ考えていると。
 その目の前に、香奈の右手が差し出された。

「出しなさい、左手。あなたの左手、私と同じなんでしょ?
 包帯巻いたげるから。いつまでもシャツの中じゃ不便だし、それにいつまでもそんな風にしてる方が目立つわよ」

 其処まで察しているのならばと、伊織はおずおずとシャツの中から出した左手を香奈へと差し出した。
 香奈は少し驚き小さく目を見開くも直ぐに気を取り直したのか、その手を取り、包帯を巻き始め。

 しかし、伊織も香奈が短パンのポケットから取り出した包帯を見て、何とはなしに思う。

(なんでタイミングよく包帯を持っているんだろう)

 それが伊織の顔に出ていたのか、香奈はその理由を口にした。

「あたしもね、これがいつ、服の外に拡がるかわかんないからね、いつも用意してるの。
 ん~……、この爪だと拳にして巻いた方がいいわね」
「……うん」

 けれど、その理由に伊織は何か気の利いた言葉を告げられず、その間にもこなれた手付きで香奈は伊織の左手に包帯を巻いていった。

(もしかして、こういうことやって上げたことあるのかな)

 伊織にそう思わせるぐらいには、少女が包帯を巻く手際には無駄が無かった。

「巻くの、上手いね……」
「………あたし、将来、看護士になりたくて……その練習というか、真似事というか……そんなことをしてたら、ね」
「看護士……」

 特に意図無く言ったのだろう、その言葉はしかし伊織に己の幼馴染の事を想起させる言葉だった。
 同じように看護学校に進み、将来は看護士になりたいと言っていた幼馴染の少女を。そして、幼馴染みの少年を。

(……久美はどうしてるかな、やっぱり心配させてるよな……それに和彦は大丈夫だったのかな。ここにはいないみたいだけど)

 そうやって、ぼうっと己の左手が包帯で巻かれていくのを見ていると、ポツリと香奈は零した。

「──ここに飛び込んできたあなた、あたしにそっくりだった……」
「え?」
「見たんでしょ? あの──夢」
「…………うん」

 少しの躊躇の後、伊織は小さく頷くと、香奈は何を思い出してか、くすりと微かに笑う。

「わたしも同じ。あたしも氷の中のサラを何度も夢に見てたから、真っ先にサラにつめ寄ったわ!
 あなたは夢に出てくるあの娘なの!? って………!」
「……………」
「──でも、ダメ! あの娘、記憶をなくしてるし」

 その時の事を思い出したのだろう、香奈は僅かに表情を曇らせた。

「記憶を?」
「うん、あと何となくなんだけれど、ここのサラと夢の中のサラ、何か違うような気がするのよ」
「そう、なんだ……」

 その言葉に伊織は落胆する。何も分からない中、何か分かるんじゃないかと思っていただけに、それは一入[ひとしお]だった。

「ま、でも今はいい友達よ。サラって名前もあたしがつけてあげたの。いい名前でしょ?」
「う、ん……かわいい名前……なんじゃないか、な?」

 しかし、伊織はその言葉に咄嗟に頷き損ねた伊織を見て、香奈は苦笑を零したのだった。

「そう言うことはもっとバシッと言わないと」
「はは。だけど……何でサラって?」

 伊織がそう尋ねたのは単純に興味からだった。
 外国の名前にも色々とある。メアリー、パトリシア、リンダ、バーバラ、エリザベス、ジェニファー、マリアなどなど。
 その中から何故、サラにしたのだろうかと何となく、本当に何となくそう思ったからだった。
 単純に思いついたのがサラだったと言われてしまえば、それまでなのだが。

「ん…………何となく、かな? 何となく、頭に思い浮かんだの」

 しかし何故か、香奈は困ったように微かに顔を顰めた。

「へえ」
「変……かな? あ、ちょっとそのままね」

 彼女自身、己のサラの命名には何か引っ掛かった物を感じ取っているのだろう。
 若干、不安そうに伊織へとそう聞き返してきた。
 しかし、香奈の不安が何によって生まれているのか分からない伊織は、ただ自分の思いに従い首を振り。

「いや、変じゃないと思うよ」
「ん、ありがと。そうだ、折角だしあなたにも明日、紹介してあげるわ」
「……だけど、彼女のこと、怖がらせちゃったと思うんだけど」
「そういう時はちゃんと謝ればいいの。大丈夫、サラだって分かってくれるわ」
「うん………ありがとう」

 その言葉は伊織にとっても、有り難かった。一つ凝[しこ]りが無くなった様にすら思えた。
 けれど、香奈はその礼の言葉に被せるように、言葉を続けた。
 まるで、伊織の礼の言葉が己の耳に届かぬように。

「そうそう、知ってる?」
「え?」
「あたしたちのこの病気、FBT症候群[シンドローム]って言うんだって」
「FBT……?」
「Frustule Beast Transformation」
「フ、フラ?」
「FrustuleのF、BeastのB、TransformationのTから取ってFBTだってさ」

 香奈の口から発せられた行き成りの英語に、伊織は面食らい。

「なんでもここ2,3年で発見された、カドケウス・ウィルスっていう新種の細菌てーのの感染症だそうよ。ここに来て初めて知ったわ」
「へぇ~……」
「で、ここは、そのFBT症候群の研究治療センターってとこね。
 あたしの場合、病院の皮膚科に行ったら即入院、翌日にはここに移されたってわけ。
 あなたも訳もわからず連れて来られたみたいだけど、ま、大丈夫よ」
「いや、それは……」

 ──どうなのだろうかと、伊織は思う。

 その視線は白い包帯が巻かれていく左手へと落とされていた。

(菊池は化け物になった、その菊池をぼくも化け物になって……。だけど、だったら何でぼくは元に戻ってるんだ?
 元に戻れたんだったら、何で左手は元に戻らないんだ……? それに……菊池は……なんであの事を……)

 思い出す。あの時、起こった事を。菊池が言った言葉を。

 あの夢のような記憶だけなら、伊織はきっとそれを否定していただろう。とてもリアルな夢と片付けていただろう。
 しかし“今”の己の左手が伊織にその否定の逃避を許してはくれない。

「…………あ」

 思考の海に沈みかけた意識が、香奈のその呟きで現実へと引き戻される。

「え、なに?」
「そう言えば、まだ自己紹介してなかったわね。あたしは七瀬 香奈。香奈って呼んでね。あなたは?」
「──瀧川 伊織………」
「伊織クンね。はい、これで終わり」

 そして、香奈は包帯の端を噛み切ると、それを綺麗に結び。

「あ、ありがと! わー、蝶結び……」

 己の左手に綺麗な巻かれた包帯、その端を結ぶこれまた綺麗な蝶結びに伊織は感嘆したように息を零し。
 そんな伊織に香奈は笑い掛けた。けれど、それは先程向けられていた物と比べればずっと空しい笑みだった。

 それを見て、思わず眉を顰めた伊織に何も言わせぬかのように香奈は言葉を紡ぐ。

「ようこそ、伊織クン、ロスト・ガーデンへ!」

 それは歓迎の言葉である筈なのに、しかしその声は酷く揺れていた。

「ロスト……ガーデン?」
「そ! ロスト・ガーデン………希望を“Lost”した、あたしたちの“Garden”………」

 そして其処が七瀬 香奈という少女の限界だった。
 その空しい笑みは涙を堪える表情へと変わっていく。

「──大人たちはここをね、『虫カゴ』って呼んでるみたいだけどね…………」
「それは……どういう、意味?」

 少女はふふっと小さく笑う。否、嗤った。
 その笑みはまるで人の顔が崩れて出来たかのような笑みだった。

 ──見る者に怖気を感じさせる笑みだった。

「伊織クン、もしかして虫取りとかしたことないの?
 駄目よ、男の子なんだから天気が良い時は外で遊ばないと。
 あ、だけど、もうそんな年でもないか……」
「香奈……」
「虫カゴっていうのは、虫を入れるカゴのこと。捕まえた虫をその中に全部入れたりとか観察したりとかするかな。
 まあ、流石にその中で虫を飼うにはちょっと小さすぎるからもっと大きな──」
「香奈ッ………!!」

 香奈は伊織の眼差しから逃れるように、顔を俯かせ。

「………わからない、わからないわ。だけど、怖いの。もしかしたらここは…………あたしたちを、ただ、ただ観察するだけの場所なんじゃないかって……!!
 助けるつもりなんかなくて、今だって、あたしの身体を覆ってるあれが全身に回るのを待ってるんじゃないかって!!」

 己の右胸に手を置いた。

「これが体全部に出てきたらあたし、どうなっちゃうのかな……。
 やっぱり、化け物みたいなのに、怪物になっちゃうのかな」
「怪物……」

 言われ、思い出すのは菊池が変じたあの怪物の姿、そして――その瞳に映った己の異形の姿。
 そして思う。少女の身体に出ているそれは、記憶の中に在る怪物を覆っていた物と似てはいなかったか、と。

「そんなこと……」

 その記憶に呑まれ、伊織は香奈の言葉を止めてやる事が出来なかった。

 だから──

 彼女の積もり積もっていた不安の吐露は続く。

「怪物になったら、あたしたち、どうなっちゃうんだろう……。やっぱり心も怪物になっちゃうのかな……。
 やっぱりそれを、ここの人たちは見たいのかな」
「そんなことは……!」

 それを否定しようとする伊織に香奈は左腕の服の裾を持ち上げ、己の二の腕にある物を伊織へと晒した。
 其処には伊織と同様に、代形状の機械が付けられたベルトが巻かれていた。

 ──その機械をモニターベルトと彼女は呼んだ。

「……この機械で、あたしたちの身体の様子をモニターされてる……! 暴れだしたら鎮静剤! 就寝時間を過ぎたら睡眠薬!
 あたしたちの意思なんてお構いなしよ!? だけど……それでも……痛くても辛くても、治療の手がかりになるのならどんな恥ずかしい検査も平気……。
 治るなら……ここから出られるなら、家に帰れるなら、なんだってガマンできるわ……!
 ──だけど! だけど!! 怖い………あたし怖い! 怪物になんか、なりたくない………!!」

 そして彼女は俯かせていた顔を両手で覆う。零れそうになる涙を堪えるように。
 けれど身体の震えも、指の隙間から零れた嗚咽も誤魔化せはせず。

 伊織は思わず口を開き、しかしなんと言って良いのか、分からなかった。
 そんな己に落胆し、伊織は表情を沈ませ、口を閉じる。

(ぼくは……)

 ──如何すればいいのか、如何したいのか。

 けれど、その言葉の先を伊織は見出せず、ただ怯え身体を震わせる少女の傍に居てやるしかなかったのだった。






 ──夜が、暗く更けていく。














◆後書き

の前に。

※『リン&ルルン』
 ・ギルステイン一巻巻末にある設定資料ファイルより。そこにラフがあるだけで本編に出てこなかった。
  設定も特に無いので、勝手に設定付けさせてもらいましたが……問題はその設定が日の目を浴びる日が来るのかという。
  ギルステインとネギまのすり合わせ役になってくれたらなあとねが(ry。

※『患者[ペイシェント]』
 ・ギルステイン原作では、香奈も検体[サンプル]と呼ばれていたのですが、数が合わないなあという事で変更させてもらいました。




 何か見直すたびに量が増えていきました。
 という事で、ギルステインでは設定しか出なかったリリとルルン、登場!
 ぶっちゃけ、顔出し程度でしかないですけど!
 彼女の存在がどんな風に物語に関わってくるのか、それは私にもわか(ry
 ま、まあ、空気にならないようにしたいとです。


 しかし、これを読んでくれている人は大体、ギルステインを知ってる人だろうし、この後の展開は大体原作通りだから、ダイジェストみたいな感じでカットしちゃっても良いかなあ、とか思ったのですが、個人的に重要な話じゃないかと思い、また個人的にも書きたいと思ったので、カットせずに行きたいと思います。
 多分に私の都合ですが、お付き合い頂けたらこれ幸い。



[8616] ニノ章中編[Lady=Forward]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/09/24 00:04

 ――2003年1月4日。

 東から上った陽が天頂と稜線の中程まで昇った頃。

 奥秩父の奥深い森の中に走る林道の脇に一台のバイクが止められていた。
 今関 和彦は、その隣で転落防止用のガードレールに腰掛けながら望遠鏡を覗き込んでいた。

 その視線の先にあるのは、山奥の山林を切り開いて作られた広大な土地に聳える四つの建物
 その中で一際、目立つのが土地の中央にある棟だった。
 他のものと比べて高さが2倍近くあり、窓らしき物が見当たらない酷く奇妙な建物だった。

(まるででっけえ墓石だな、ありゃあ)

 青少年保護センターと呼ばれる其処は、今関が聞いた所ではバブル崩壊で捨てられたリゾートホテルを改修した場所の筈だった。
 そして今関が知る限り、伊織と菊池は此処に運び込まれている筈なのだ。
 しかし、青少年保護センターと括られた其処を見れば見るほど、今関の眉間の皺は不審と不安と疑問に深くなっていく。

 彼の抱いていたイメージはどんなに悪くとも少年院のようなという物だった。

 しかし、いざその場所を見てみれば――

「……あそこに行く為の道には二重のゲート……周りには高い鉄柵に……監視哨……。
 けっ、鉄柵の上にご丁寧に有刺鉄線まで巻いてあらあ。
 なーにが青少年保護センターだ、刑務所並みの構えじゃねえか!!」

 ――それとも青少年保護センターに入っている“青少年”とやらはそれほど、凶暴だとでも言うつもりなのか。

 そう思ってしまうと、今関の中にふつふつと怒りが沸いてくる。

(ざけんな、あの二人は……少なくともあの二人はそんな奴らじゃねえ)

 今関はそんな憤りの中でつい先日交わした己の父との遣り取りを思い出す。
 その中で、父は言っていたではないか。

 ――瀧川君も菊池君も国が保護した、と。

 我々、大人に任せておけ、と――

 だと言うのに。

(何が“保護した”だ! こんなんじゃあ、収容したの間違いじゃねえのかよ!? クソ親父!!)

 今関の父は埼玉県警本部長の役職に就いていた。
 彼が傷だらけの身体を押してまで麻帆良から実家に態々帰ったのは、その父ならば伊織と菊池の行く先を知っていて、どんな待遇となっているのか、把握しているのではないかと考えたからだった。
 そして何故、二人が其処に入れられなければならなかったのかを知っているのではないかと思ったからだった。

 と言っても、何か緊急の用件があったらしく、今関の父は年末年始返上で働き、話を聞けたのは昨日、1月3日、三箇日の終わりになってようやっとだった。
 その間に今関は何もしなかった訳ではない。己の出来うる限りで情報を集めてはいた。
 何度か、タイミングを窺っては父の書斎に無断で入りもした。
 けれど結局、それらを合わせて分かったのは『青少年保護センター』という名称の施設とその場所が『奥秩父』の何処其処にあるということだけ。

 そして頼みの綱だった彼の父は『公私混同は出来ん』と、取り合ってすらもらえず。

 其処から二人に会わせろ、駄目だ、という水掛け論、押し問答がが口論となるのに、そう時間は掛からなかった。

 一度、決めれば頑固一徹、むざむざと退く事を良しと出来ない性分の今関は父とよく似ていた。
 しかし結局、先に父親に見切りを付けた今関は家を飛び出し、そんな彼を、彼の父はただ見送っただけだった。
 まだまだ子供だ、何ができる訳でもあるまいと、止める事も無く見送ったのだった。

 ――今関のその怒りを、子供の癇癪と敢えて見過ごしたのだ。

 そうして今関は伊織の兄である瀧川 克己から、彼が自衛隊に入隊した時に譲り受けたバイクを駆り、今、此処に居る。
 けれど、その場所に辿り着いてみれば驚くしかなく。

「あんな所に連れてかれたってのか……伊織……菊池……!!」

 今関の心の中はただ友を案ずる思いで占められていた。

 本当に伊織と菊池が無事なのか、今関 和彦という少年はただそれだけが知りたかった。



 ――彼が此処にいるのは、たったそれだけの為だった。












◇ 魔獣星記ギルま! ニノ章中編 [Lady=Forward] ◇












 起床は朝、6時30分。就寝は夜の11時までに行う。
 起床後、また就寝前の夜9時に点呼を行なう為、部屋の前で待機。
 朝の7時、昼の12時、夜の7時30分に食事を開始し、最低でも一時間以内に摂り終える。
 そして、その日の行動は毎日、朝食後に配られる時間割に従い、行動する。

 ――それが昨日、皆が部屋に戻っていく中で職員が伊織に言い渡した此処、ロスト・ガーデンでの生活の大まかなタイムスケジュールだった。

 ただ、伊織の今日の目覚めは、兎にも角にも最悪だった。

 昨日の夜は香奈から聞いた聞かされた話を鬱々と考えていた為か、消灯時間になり、自身に割り当てられた部屋のベッドに入っても中々眠気が来なかった。
 と思った矢先に、ちくりと二の腕の違和感を感じ、気付けば朝となっていたのだ。

 朝になった――それはいい。億劫な考え事を朝までせずに済んだのから、それはいい。

 けれど、その朝が怒号と共に訪れたとなれば堪らない。
 起床時間10前と5分前にラッパが吹かれていたらしいのだが、そんな記憶は伊織は全く無かった。

 しかし、他の子達は既に慣れているのか、自分と同じような目に会っている者はいなかった。
 ただ、気の毒そうな眼差しをくれるか、或いは興味が無いのか、前を向いているか。

 そして朝食の時間となり、伊織はロスト・ガーデン一階にある食堂で、他の少年少女と同じように朝食を受け取るべく、食器を載せるトレイを持って列に並んでいた。
 しかし、どうにも朝、たたき起こされたのが効いているようだった。

 そんな事もあって、伊織は昨日、香奈に告げられた言葉をまざまざと実感していた。

(時間通りに眠れなかったら睡眠薬………時間のラッパに起きなかったら思いっきり怒鳴られて起こされて……)

 まあ、寝起きまで薬でないのはまだマシと思うべきなのかもしれない。
 しかし確かに、此方の意思も都合も考慮していないらしい。

 ――或いは、それは既存のパラダイムから逸脱し掛けた子供達を必死に、ルールという枠に収めようとしている様でもあり。

「さいあくだ……」

 けれど、まだ少年の伊織にそんな事まで考えられる視野など持てる訳も無く、ただ恨めしげに呟くだけだった。

「おはよう、伊織クン」
「あ、香奈……おはよう……」

 そしてカウンター越しに施設職員から朝食が盛られた食器を受け取り終え列を離れた所で香奈に声を掛けられ。
 伊織は呻くように呟いた。

「うう……、ホントに時間どおりに眠らされて起こされたよ……。どういう所なんだ? ここは……!!」
「だから言ったでしょ、伊織クン」

 しかし香奈はもう慣れたと言わんばかりに素っ気無く答えると、しっかりとした足取りで伊織の先を歩く。
 伊織も香奈の後ろに着いて歩いていく。

「信じるしかないのよ、あたしたちは。ここは怪物になるかもしれないあたしたちの病気を、治すための施設だって」
「それは、そうかもしれないけど……」
「……ここにはカドケウス・ウィルスに感染したらしいって患者が、手当たりしだいに集められてる。
 多分……だけど、大体みんな14歳とか15歳ぐらいだと思うわ。
 ただロスト・ガーデンにいる全員があたしたちみたいに病状が表に出てるわけじゃないの。
 例の――サラの夢も見てたり見てなかったりでまちまちみたいだし」
「そうなのか……。だけど何なんだあの夢……」
「……………あの夢……ね……」

 香奈は胸の凝[しこ]りを解すかのように溜め息を吐き。

「きっと何か意味があるとは思うんだけど……まだよく分かってないってのが本当かな。
 ここの先生たちは一種の共通記憶かも、とは言ってたけど」

 けれど香奈はすたすたと歩きながら、何やかやで伊織の疑問に答えていく。
 昨日の事もあって伊織は、ただただ感嘆の息を吐いたのだった。

「昨日もそうだけど、君は色んなことを知ってるね……」

 その伊織の賞賛に香奈はクスリと笑う。
 しかし、思わず零れたのだろうその笑みは後ろを歩く伊織からは見えなかったが、苦笑いのようでもあり、自嘲のようでもあるようだった。

「まあ、何だかんだでここにいる子たちのまとめ役やってたら、ね。なんか話聞く機会が増えちゃって。
 ああ、そうだ。昨日言い忘れてたけど、ここを警備してんのは自衛隊よ。それに医者も食堂の人たちも全員ね。
 だから、逆らうと怖いわよ。例え、女の人でもね」

 まるで実際にその怖い所を見たかのような言葉に、知らず伊織は周囲に視線を走らせていた。
 そして確かに食堂の壁際に等間隔で立つ此処の施設の職員と思っていた者達の顔や首、そして腕は引き締まり、服に隠れた身体にも余分な肉など付いていないようだった。

 何よりも壁際に真っ直ぐと力強く立つその姿が、香奈のその言葉を肯定しているようだった。

(ここの人たち、全員が……)

 為らば如何して、そんな人達が、と考えれば。

(ぼくたちを逃がさないため?)

 そんな馬鹿な、とも思う。けれど何処か否定しきれないのもまた事実。
 しかし、伊織は頭を振って、その可能性を必死に打ち消そうとした。

(香奈も言ってたじゃないか、信じるしかないんだって)

 伊織は昨日、香奈が巻いてくれた包帯の中で左手を意識せず、ぎゅっと握り込んだ。
 そんな伊織に香奈が再び声を掛けて来る。

「――夕べ、約束したわよね」
「え?」
「紹介するって」

 誰を? と問う必要は無かった。
 言葉に釣られ伊織は思わず、香奈へと向けた視界に、あの“夢”の中に出てきた少女と瓜二つの少女が映っていたのだから。
 白人の少女――サラは昨日と同じように、車椅子でテーブルに着きながら、香奈へと気安げに手を振っている。

 ただ、その姿を見て、鼓動が緊張と期待と不安が綯い交ぜになって高鳴るのを伊織は自覚するのだった。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









「――検体[サンプル]026、心拍上昇を確認。ですが、日常レベルの範囲内です」
「…………そう」

 ――管制室。

 重く張り詰めるような緊張感に包まれていた空間の中に、ヘレナは居た。
 その傍らには常と違い、彼女の助手である秘書である女性でなく、自衛隊の制服に身を包んだ野上が控えていた。
 
 そしてその場にいる誰もが何時も以上に無駄口を叩かず、ただコンソールと向かい合い、己の職務を果たす事に没頭していた。

 ――今日、これから自分達が関わり、引き起こすかもしれない事を考えれば、軽々しく口を開く事など考えられなかった。

 だからか、野上 雄一郎の声は其処に良く響いた。

「こちらも準備は終えた。ドロナワ式で進めた面もある為、多少、粗もあるが、実行性を欠くレベルではないかと。
 ですが、Dr.ヘレナ、本当に……よろしいのですね? 本当に!!」

 その言葉に管制室の空気がはっきりと変わる。
 遂にその時が来たと、慄く気配に瞬く間に満ちていった。

 ヘレナは場の雰囲気の変容を肌で感じつつも、泰然と椅子に背を預けながらその声を聞く。

 是か否か――野上のその問いにヘレナが許された答えはそのたった二つだけ。
 それ以外の言葉は、どんな美辞麗句を並べ立てたとて、只、取り繕うだけのもの。不様でしかない。

 ただ、此処で否と答え、踏み止まり引き返しても、誰も彼女を間違っていると咎める事は出来ないだろう。
 例え、立場ゆえの責任を問えたとしても、詰[なじ]る事は誰しも二の足を踏むだろう。
 或いはこのままこの道を歩き続ける方が、ヘレナが被る罪も責任も大きくなる事は目に見えていた。

 何故なら、それは常人からすれば狂気の沙汰としか言えない代物なのだから。


 ――この事態を知る者ならば、誰もが思い浮かべ、そして真っ先に否定するだろう手法なのだから。


 その方法は倫理観、社会観念に余りに悖る。
 そして何よりも、何の罪も無い少年少女を犠牲にして、それは行なわれる。
 作り物などではない、確かに今生きている彼らを使って、それは行なわれる。

 ――それは子供達を救う為に子供達を犠牲にするものだった。

 否、ただそのきっかけを掴めるかもしれないという程度の期待値しかない再現実験だった。

 そんな実験に何か確信を抱いているのは、これを提唱した女性、只一人――ヘレナ・L・マリエッタだけに過ぎず。
 
 しかしだからこそ、ヘレナの内に“否”を選ぶという選択肢は元より無かった。

 何故なら、カドケウス・ウィルスもギルステインも全くの未知の存在。
 その真実に至る道もまた未知であり、今、分かっている事と言えば、それらが尋常ならざる、埒外の存在であるという事だけ。

 為らばこそ――

 彼女は疾[と]うの昔に、“是”を選び続ける事を決めていた。
 己の目的に至る為なら、どんな外道も非道も進んでみせると。

 だからこそ――

「ええ、もちろんよ」

 ヘレナ・L・マリエッタは確りと頷いた。

 ――その最後の一線は、そんな風にしてあっさりと踏み越えられたのだった。









◇ ◆ ◇ ◆ ◇









 サラの隣に座った香奈に促され、伊織はサラの前の座席に腰を下ろした。
 そして、香奈は掌で伊織を示し。

「サラ、紹介するわね。この子は瀧川 伊織クン」
「はじめまして」

 サラは伊織に小さく会釈する。

「で、伊織クン、改めて言うけれどこの子がサラ。可愛い子でしょ?」
「は、はじめまして……その、昨日はごめん。いきなり詰め寄ろうとして」

 サラは恐縮するように頭を下げる伊織へと改めて眼差しを向ければ、微かに首を傾げ問い掛けたのだった。

「……昨日はどうして?」
「ぅ……その、あの時は……少し、動揺してて」

 伊織はサラの問い掛けに思わず、言葉を詰まらせた。
 まさか夢に君と瓜二つの少女が出てきたから、などと他人からすれば疑りに眉を顰めるだろう事を、しかもその本人に真正面から言う事も出来ず。
 けれど、どう言ったものかと迷う伊織に代わり、香奈がさらりとその理由を告げてしまうのだった。

「あれね、あたしがサラに詰め寄った時と同じ理由だって」

 言われ、けれどサラはただ申し訳無さそうに微笑んだだけだった。
 まるで何度もこの遣り取りを繰り返してきたかのように、戸惑うでもなく。

「そう……あなたも夢で……私と会ったのね。他にもそういう人はいたけれど……」

 そして、サラは隣に座る香奈を束の間、見遣り、香奈もそれに気付いてか、苦笑のような笑みを浮かべ。

「そ、例えばあたしとかね」
「だけど……ご免なさい、私……」

 白人の少女は目を伏せ、表情を沈ませ、口を噤んだ。
 その様子に伊織は一瞬、口を開く事を躊躇したが結局堪え切れず、サラへと聞いてしまった。

「……その、記憶がないっていうのは……本当なの?」

 ――何よりも、伊織は少女のその口からその言葉を聞きたかったから。

 サラは数瞬間を置くも、最後には頷き。

「ええ…………」
「そう……なんだ……」

 その言葉に思わず、伊織は肩を落としてしまう。
 一晩寝て目覚めが最悪だったとしても、少し冷静になった頭で考えてみれば、あの“夢”の事が分かって一体何になるのかと思う。
 それでも、有るか無いかすら朧げな、己と菊池の身に起こった事への手掛かりを失ったようで、気落ちしてしまうの避けられなかった。
 それを誤魔化すように伊織は食事を進めようと箸を手に取った時、何を思ってか、テーブルの上に置かれた左手にサラがそっと手を添えた。

 何だろうと思い、伊織は下げていた視線を再び上げ。

 ――小さく、息を呑んだ。

「でも………――」

 綺麗な青色の、あまりに澄んだその瞳に伊織の意識は吸い込まれるようだった。
 サラの表情からは先程まで浮かべられていた憂いは取り払われ、とても静かなものへと変わっていた。
 そして、伊織の何もかもを見透かすかのように真っ直ぐと見詰め。
 その瞳に縫い止められ、伊織は視線を逸らせず、ただただ少女の瞳を見返した。

 少女の花のような唇が、言葉を紡いでいく。

「――あなたは、大丈夫だわ」
「え……?」

 突然のその言葉に伊織はただ訝り。
 サラは構わず、包帯で捲られた伊織の左手を手に取った。


「――――あなたの形は未来を切り拓くもの――――」


 そして囁くように、ただただ呟いた。


「――――あなたなら、大丈夫だわ。そう……あなたならきっと……きっと大丈夫――――」


 それは預言を告げるかのように、余りに静かなものだった。

 伊織は突然の言葉に戸惑い。香奈も今まで見た事の無いサラの様子に驚き。
 そして、サラはそれ以上、口を開こうとはせず。

 ――三人の間に沈黙が落ちる。

「………」
「………」
「………」

 その沈黙を破ったのは、伊織の物でも、香奈の物でも、ましてやサラの物でもない、第三者の男の声だった。

「さ、そろそろ時間ですよ」

 その言葉に我に返ったのか、まるで『サラ』というものを思い出したかのように、サラはその表情をはっとさせ、途端、少女のその表情に人間らしい表情が戻る。
 すると直ぐに伊織も我を取り戻した。その視界に、サラの後ろから歩み寄ってくる二人の男性職員が見え。

 ただし、彼らはサラの異変には後ろから近付いて来た事もあってか、気付いていないようだった。

 サラは後ろへと顔を向け。

「え? まだ時間は……」
「今日は検査が混んでますからね」

 二人はサラに有無を言わせず車椅子を動かしてゆく。
 ともすれば連れ去られるような強引さでサラは男性職員二人に付き添われ、食堂を後にしたのだった。
 サラは肩越しに振り返り、香奈と伊織の方へと別れの挨拶代わりに手を振りながら遠ざかっていった。
 その背を見送りながら、伊織は戸惑ったように呟いた。

「な……何が大丈夫なんだ……!?」

 それに何よりも――

(それに何で大丈夫、だなんて言えるんだ? 何も憶えてないって言ってたのに……)
「……初めてよ、サラがあんなこと、口にしたのは……」

 香奈もそれは同様だったのだろう。その声音はやはり小さく、怪訝そうだった。
 その香奈の様子を見て、伊織の中の、一度は萎んだ筈の疑念、疑問が再び膨らみ。
 やはり、彼女は何か知っているのではないかとすら思ってしまう。

 ――友である香奈にすら隠している何かを。

 そして――

「彼女も……その……ぼくらと同じ、“患者”なのか?」

 ――サラと言う少女は本当に自分達と同じなのか。

 その伊織の問いに、香奈から返されたのは。

「……わからないわ……」

 不明、不可解、不得要領――それらに共通して含まれる意味の言葉、たった一つだけだった。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









『周囲状況はクリア』
『入所者全員、センター・ホールロビーに入りました』
『総員、配置完了!』

 まるでカウントダウンのように、次々と報告が管制室に響き、ヘレナへと伝えられていく。
 ヘレナはデスクに両肘を付き、指を絡ませ手を組みながら、それを聞く。

 その眼差しの先にあるのは、ロビーに集められ、何をするでもなく思い思いに過ごしている少年少女達を俯瞰した形で捉えた映像だった。
 それは子供達にとって何時も通りの事だった。昼間、何も無ければ大抵、此処に集められるのだから。

 自分達が今いる其処で、これから何が行なわれようとしているのかなど、知らされている筈も無く。

 ――ただ、その映像を捉えるカメラは離れているからか、ディスプレイに映る子供達の姿は小さく、まるで虫のようにさえ見える。

 正しく、虫かごの中で蠢く虫の様にさえ――

(……蟲毒[こどく]……)

 そんな彼らを見て、ヘレナはふと思う。

(まるで蟲毒の術ね。古来、毒蟲を一つの壷に集め、戦わせ、最後に残った一匹の毒をもって呪いとなした、という。
 ………同じことを私はしようとしているのでしょうね)

 それは誰へともなく告げられた言葉だった。
 それは今、己が成そうとしている事のおぞましさを言い表した言葉だった。
 だから、胸の内にだけ零された言葉だった。

 そして、野上に全ての用意が滞りなく整った事が伝えられ。

「――では、Dr.ヘレナ」
「ええ。始めてください」

 そうして、ただ確信に繋がる確証を得る為だけに行なわれる再現実験の幕は余りにもあっさりと今、切って落とされたのだった。


















◇ ◆ ◇ ◆ ◇


















 検査だと言われサラが連れてこられたのはしかし、己に宛がわれ、普段から使っている部屋だった。

「……検査があるんじゃなかったの?」

 不思議に思い、サラは己を此処まで連れて来た二人にそう問い掛けた。

 しかし、返ってきた答えは。

「君のではない」
「じゃあ……」
「今日は一日、この部屋にいてもらう。決して外には出ないようにね」
「…………」

 まるで会話する事を拒むかのように素っ気無く返すと二人はそのまま踵を返し、退室してしまう。
 次いでドアに内からは開ける事の出来ない鍵ががちゃりと掛けられ、サラが居る部屋は密室へと変わり果て。


 ――そして、サラもまた変わっていた。


 その外見がギルステイン症を引き起こしてしまった子供達のように変化した訳ではない。
 ただ、その扉を見るサラのその表情、雰囲気が先程、香奈や伊織と話していた時と比べ、余りにも無機質な物へと変わっていたのだ。
 本当に同じ人物なのかとさえ思えてしまう程に、人間味の無い物だった。


 そして無音の部屋の中、『サラ』という少女は呟いた――


「……香奈や伊織クンたちに、何かある……」


 ――ただただ確信を持って、そう呟いたのだった。


















◆後書き◆

今回は特にオリ設定は特になし。

という事で、今回は次回の為の御話のようなものでした。
た、退屈でしたら御免なさい。精進します。
しかし、次章は一応、形は出来てます。
此処から膨らましていくので、時間は掛かりそうですけど。
余り間を置かないよう、頑張りたいです。



[8616] 二ノ章後編(上)[Children=Transformation]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/10/11 10:48



 奥秩父の森林を形作る木々の根元には見事に藪が生い茂り、密生していた。
 その枝葉をガサリガサリと掻き分けながら進む一つの人影。

「ちくしょお、藪のおかげで歩きにくいったらねえなあ!!」

 ――それは今関 和彦の物だった。

 今関は只管[ひたすら]に藪を掻き分けながら、一路、未だ前方遠くに見える青少年保護センターへと徒歩で突き進む。
 バイクはセンターを囲う柵の手前で止めてある。
 ただ彼が藪の枝葉を押し退けながら森の中を進むのは考えていた以上にしんどく、大して進んでもいないのに体力の消耗が激しかった。
 今関は足を止めると休憩がてら、未だ遠い目的地を見据え。

「遠いな~。ダメかな、こっちは」

 ――ガサッ。

 枝葉が擦れ合う音。

「ん?」

 そして気付いた時には、今関は大の男二人掛かりでうつ伏せに引き摺り倒され、腐葉土が敷き詰められた森の地面に押さえ付けられていた。
 思わず出かけた悲鳴は口を覆った手で妨げられ、腕は後ろ手に拘束、更に何処の誰かは分からないが背中に乗られてはまともに動ける筈も無い。

(何だ? 誰だ?!)

 そう思っていると、一人が今関から離れ脇に立った。

「P・7よりC・1、侵入者を確保。単独行の模様、これより警務隊に引き渡します」

 痛みに呻きつつも今関は顔を動かし目を動かし、見えたその格好と装備に目を見張った。

(野戦服? じ……自衛隊……?!)
「お前さん、こんな所に何の用だ? 迷ったハイカーって訳じゃないよな~。
 何たって此処に来るまでに鉄柵があるんだからな?」

 しかし今関は己を拘束するその男の問い掛けに応えず、ただ視界の中に辛うじて見える建物を睨み付けた。

(刑務所どころの話じゃねえってことかよ、あそこは……!!)

 内から込み上げて来る、言い知れない危機感に呻きながら。












◇ 魔獣星記ギルま! 二ノ章後編(上) [Children=Transformation] ◇













 ――『ギルステイン第二次変態再現実験』。

 それはヘレナ・L・マリエッタにより検体[サンプル]026、瀧川 伊織が『虫カゴ』に収容されてから3日目に提案され、そして今、将に実行されようとしている物だった。
 その方法は酷く単純である。


 ――対象、および準対象に対し、威嚇攻撃を行なう。


 詰まり、対象である瀧川 伊織と準対象であるロストガーデンに収容されている少年少女達を強烈な外的ストレスに晒す。
 言葉で表せば、たったそれだけだった。
 そして、この実験の要はその中で瀧川 伊織という少年がどう動き、どうなるのか、それを確かめる事こそにある。


 何故なら彼だけがギルステインと成りながらも、唯一生きて人に戻り――

 ――そして唯一、彼に殺されたギルステインだけが完全な人の姿を取り戻したのだから。


 何故、子供達は変わってしまうのか、どの様な過程を経て変わってしまうのか。
 そして何故、彼はギルステインから人に還り、彼に殺されたギルステインが人の姿へと還る事が出来たのか。

 ――それらは未だ取っ掛かりすらも見出せていない。

 見出せないからこそ、カドケウス・ウィルスによる被害が起こってから事に当たると言う、対症療法的な対処しか未だ出来ていない。

 それでは何時まで経っても、この事態は根本的な解決を見る事は無い。
 そしてこのままではFBT症候群、ギルステイン症が人々に知られてしまうかもしれない。
 実際、サナギ狩りという襲撃事件が起こっている事を考えればギルステインという存在を示唆する何かが外に有る事は明らかだった。

 情報が漏れているのか、それとも隠し切れず広まっているのか。それは定かではない。

 ただ何もしなければ事態はずるずると最悪の方向へと向かい、人間社会の崩壊という取り返しのつかない事になるかもしれない。
 だからこそ、無辜の子供達を使ったこの人体実験は、今、停滞しつつある事態、状況に一石を投じる為のものだった。

 ――少なくとも、此処に居る大人達の多くはそう信じ、そう己に言い聞かせていた。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









 食事を終え、伊織達が集められたのは、昨日と同じロスト・ガーデン一階にあるロビー。
 そして、昨日と同じように子供達は時間になるまで思い思いに過ごしていた。
 そんな中、伊織は一人、集団から外れた場所にあるベンチに座っていた。
 あの中に居ると一人だけ場違いのような、部外者のような気がして、どうにも落ち着かないのだ。
 だから伊織は何をするでもなく、太股に頬杖をつきながらロビーを囲う巨大なガラス窓から見える外の景色をぼんやりと見ていた。
 景色、といっても、見えるのは一面の青空と森林、そして鉄柵だけで面白みのあるものではなかったけれど。

 その隣に誰かが腰を下ろしたのはその時だった。

「どうしたの、伊織クン? こんな所で一人で」
「香奈……」

 見れば、それは香奈だった。

「特に何も……かな。ここで何すれば良いのか良く分からないし……」
「あ~、そうか、まだ来たばっかりだもんね。ん~……」

 香奈は頤に指を当てながら、考えを纏めるように暫し唸る。 

「昨日、ここの人たちから説明されたと思うけど……」
「あ、それはされたけど」
「じゃ、復習ね。ここではその日に割り当てられた時間割りに従う事になってるの」
「うん」
「まあ、今は学校で言えば冬休みみたいな状態だけど、普段は大抵、午前は授業、午後は授業か検査って感じね。
 授業だけの時もあれば、検査で一日潰れる時もあるけど」
「え?」

 思わぬ言葉に思わず、伊織は間抜けた声を零してしまった。

「今ここって冬休み、なのか? それに検査はともかく、授業って……」

 香奈はそんな伊織の反応が面白かったのか、笑みを向けながらそうよ、と頷き。

「何たって私含めここにいる人たちはみんな学生だもの。
 病気は治ったけど復学して授業についていけません、なんて、全然笑えないしね。
 ま、検査もあるから進み具合は良いとは言えないけど」
「ふ~ん………」

 意外と言えば意外な事に、伊織が返せたのは疑[うたぐ]るかのような生返事だった。

 てっきり人体実験ばりの検査がずっと続いているのではないかと、昨日の香奈の様子からは思っていたのだが――

(案外、そうでもないのかな?)

 しかし、来たばかりの伊織には分からない。

「ねえ、香奈」
「ん、何?」
「だったら何で……昨日は、あんなに取り乱してたんだ?
 ここの生活、そんなに悪くは無いみたいだけど……」
「……………それは……」

 数瞬の沈黙の後、観念したように少女は伊織に向けていた顔を微かに俯かせ、とつとつと話し始めた。

「最初は怯えて、少し慣れて、ここでの生活もそんなに悪くないかなって思ったのは……本当よ。
 だけど……毎日毎日がおんなじ、繰り返し。
 検査授業検査授業検査……だけどどんなに時間が経っても何か成果がありましたとか、治療法が見つかったとか聞かないの。
 だけど検査は相変わらず繰り返されて………だから……怖くなっちゃった、もしかしたらって……。
 一度、そう思っちゃうと止められなくて…………」
「そう」
「その、ごめんなさい」
「え?」
「昨日は、その、取り乱しちゃって、それにあなたを不安にさせるようなこと言っちゃって」
「……………いいよ、気にしないで。ぼくは気にしてないから」
「………うん、ありがとう………」

 そして香奈は一転、少し沈んでしまった場の空気を取り繕うかのように笑みを浮かべる。

「だけど残念だったわね。あと一日、来るのが早かったら食事でおせちとか出てきたんだけど。
 それとも家の方で食べてきた?」
「へ……?」

 伊織はまた首を傾げた。

「おせちって、あのおせち料理……?」
「え? ええ、お正月だし、そうだけど?」
(……お正月、だって?)

 香奈の言葉を反芻するかのように心の中で繰り返し、けれどその意味など考える必要も無かった。
 ただ、伊織には信じられなかった、というだけで。

「ちょっと待って香奈、お正月ってどういうことだ?」
「はい?」
「今って、何月の何日なんだ?」
「1月4日だけど……」

 え? と伊織は香奈をまじまじと見詰めた。
 けれど少女は突然、己を凝視し始めた伊織に戸惑う表情を見せるだけだった。
 その目にも、瞳にも嘘やからかいは見出せず。

 ――目は口ほどに物を言う、という。

 だから、伊織はポツリと呟いた。

「ぼくはずっと、12月かとばっかり思ってた……」

 ――それは一体、どういう意味なのだろう。

 ただ此処に来て、香奈はようやっと思い至る。
 てっきり自分と似たような過程で此処に来たのだろうと思っていた少年は、その実、そうではないかもしれないという可能性に。

「……ねえ、伊織クン、ここに来る前、何かあったの?
 私みたいに病院に行って、とかじゃないの?」

 その問い掛けに、今度は伊織が逡巡し、押し黙る番だった。

 ――言った方が良いのか、言わない方が良いのか。

「………………うん………」

 けれどその迷いは始めの一瞬の内、伊織は香奈に言おうと思った。

 そう思えた理由は色々とある。

 彼女は見ず知らずの自分に何かと親切にしてくれた事もそう。
 化け物のもののように変わってしまった左手に包帯を巻いてくれた事もそう。
 伊織では、こうは上手く巻けなかっただろう。
 そうでなかったら、今でも人目に怯えていたかも知れない。
 そして、あの“夢”に出てきた少女と瓜二つの白人の少女――サラとの間を取り持ってくれた。

 ――何よりもあの時、此処で目を覚ました直後の、訳も分からず周りに当り散らすように喚いていた自分に物怖じせずに彼女が話し掛けて来てくれたから、自分は今、こうやって落ち着いていられるのだと思ったから。

 だから、そんな彼女に言いたくないからと口を閉ざすのは、伊織にはどうにも彼女へ不義理を働いているように思えてしまうのだ。 

 ただ――

(あのことも言うべきなのか?)

 ――あの時、菊池と己がサナギ狩りに襲われた時、彼が、そして恐らく自分も怪物に変わった事も言うべきか。

 いや、と伊織は内心で首を振る。昨日の香奈の様子を思い出せば、言うべきではないのは目に見えていた。
 それにもしかしたら、もうあんな事は起きないかもしれないのだから。
 ただ、それを隠しながら上手く説明できるかが不安だったが、兎にも角にも伊織は口を開いた。


 ――此処に来る前、何があったのか。

 それを彼女に伝える為に――


「友達が……サナギ狩りにあったんだ」
「サナギ狩り……ってあの……?!」

 驚きに開けられた口を香奈は手で覆い、伊織はうんと頷いた。

「……サナギ狩りにあった友達をぼくと和彦……もう一人の友達と一緒に助けようとして……――」


 ――その時だった。


「きゃあっ!!」
「うわああ!」
「な、なんだ?!」

 数台のジープがロビーを囲うように張られた分厚いガラス窓を突き破って来たのは――



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ジープに乗り込むのは十数人のサナギ狩り、己等こそが正義であると嘯く無頼の輩――それを装った自衛隊員達だった。

「ヒャッホォー!」
「オラオラァ!!」

 その手に握られているのはアサルトライフルにロケットランチャー、そして拳銃。
 それらを振りかざしながら彼等は笑う――心の其処から、彼等は己の眼前にいる少年少女達を嘲おうとしていた。

 不良が彼等に対し、そうするように。

「お前らみんな怪物の『サナギ』だ!!」
「駆除してやるぜ!!」
「サナギ狩りだああっ!!」

 そして一斉にその銃口、砲口を子供達へと向ける。
 常の訓練の賜物か、その狙いは驚くほどぶれず。


 ただ、それは子供達の方を向いていながら、彼等には当たらないよう狙い定められ――

 ――そして彼等は、その引き金を引いた。


 少年少女達にとって害意の固まり以外の何物でもないそれが彼等へと降り注ぐ。

「ひぃ!!」

 ある少年は周りを押し退け、我先に逃げ出した。

「きゃっ!!」

 ある少女はその場に頭を抱えて蹲った。


 ――皆が皆、突然の暴力の顕れに我を忘れてき叫ぶ。

 けれど、そんな中で――


「みんな、逃げろ!! 隠れるんだ!!」

 伊織は香奈を守るように寄り添いながら、必死に声を張り上げていた。
 自身でも驚くほど、この騒乱の中で己を保ちながら。
 少なくとも、状況を見て、且つ他の子供達に呼び掛けられる程度には。
 香奈を守ろうと思える程には。

「うわっ?!」
「きゃあ!!」

 しかし、それも束の間、直ぐ間近で起こった爆発に巻き込まれ、伊織は香奈共々、吹き飛ばされた。

「うう……。か、香奈、大丈夫か!?」

 伊織は節々に奔る痛みを無視して素早く身体を起こすと、まだ倒れ込んだままの香奈へと駆け寄った。
 けれど香奈は伊織に縋るようにしがみ付くだけで、一向に立とうとしない。

 ――その間にも、悲鳴も銃声も止む事無く鳴り響く。

 その音に負けじと伊織は声を張り上げた。

「香奈、早く立って! でないとサナギ狩りの――」
「違う……」
「え……?!」

 香奈の声は周囲の音に紛れてはっきりと聞こえなかった。
 だから、伊織は反射的に聞き返していた。

「ち……違うわ……!! あの人たちは自衛隊……、ここを警備していた人たちよ!!
 さもなきゃあんな銃やロケットなんて……!!」
「………それは……」

 その言葉に伊織は何も言い返せなかった。

 どうやってあんな物を手に入れ、尚且つ使いこなし、そして此処まで来たのか――

 幾ら不良と言えど、一般人で在る事には変わりは無い。
 それは酷く困難な事であるように思えた。

 ならば不良を装う“彼等”は何者なのか。

「捨てられたのよ、あたしたち!!! ひとまとめに駆除するために!!
 もうどうにも出来ないから見捨てられたのよ!!」

 少女は言い放つ。

 まるで今まで溜め込んでいた昏い感情全てを吐き出すように。
 まるで溜め込んでいた物に耐え切れなくなったかのように。

「――………あ……………!」

 少女の中で“何か”がトクンと蠢く。

「う……」

 その何かに吸い取られたかのように香奈の身体からは力が抜け、その場にへたり込んだ。
 伊織にはそれが、立つ事すら諦めたように見えたのだった。

「だ……だめだ、香奈!! あきらめちゃだめだ!!」

 だから伊織は少女の細い肩を握り締め、必死に励ましの言葉を投げ掛ける。

 しかし――

「ヴう……ヴあ゛ア゛!!」

 行き成り、何の前触れも無く聞こえて来たそれは悲鳴でも呻き声でもない、獣のような唸り声だった。
 ギギッと何かが軋む音だった。

「っ!?」

 思わず振り返った伊織が見たのは、ゆっくりと立ち上がる巨大な人の形をした影。

「ギル、ステイン……」

 一つの頭に一つの胴体、一対の腕に一対の脚。

 ――ギルステイン。

 それは、人のソレを持ちえながら、人のソレから外れた黒い異形の怪物だった。

「あ、ああ」

 変わっていく。
 呻き悶えながら子供達が変わっていく。


 彼らの内に在るものが――

 ――彼らの意思を置き去りにして。

 彼等をただ怪物へと変えていく――


「あ……」

 そして、伊織の腕の中で絶望と怒りに震えていた少女もまた。
 少女の細い身体が文字通り、ざわめいた――ミシリと軋んだ。

「か……香奈?」
「ああ、あ………あぁ………」

 香奈は何も応えない、応えられない。ただただその身を悶えさせ、その指を伊織の身体に食い込ませるだけだった。
 彼女は必死に縋り付くだけだった、伊織に――“人”に。

「伊織……クン……助け……て………伊織……クン……!!」

 その香奈を見て伊織は思い出す。あの時、菊池が“怪物[ギルステイン]”へと変わった時の事を。

 ――あの時の彼も、こうではなかったか? 何かに耐え、何かを堪えるかのようではなかったか?

 そう思った瞬間、気付けば伊織は香奈の身体を力一杯抱き締めていた。

「ダ……ダメだ、香奈!! 変わっちゃダメだ!!」

 周囲は静かだった。
 何時の間にか、銃声も野太い笑い声もジープのエンジン音も、そして唸り声も軋む音も聞こえなくなっている。

 だから聞こえてくるのは少年少女の掠れた泣き声だけだった。
 伊織の後ろから、怪物[ギルステイン]が此方へ歩んで迫って来る足音が聞こえて来るだけだった。

 子供達の泣き声、ギルステインのその足音、その呼吸音、ガシャリガシャリと何かが噛み合う音、誰かの悲鳴――後ろ聞こえてくるどれもこれもが伊織にとって酷く恐ろしい。
 今直ぐ逃げ出したい。足の震えも身体の震えも止まらない。聞けば聞くほど、それは大きくなっていくばかり。
 けれど、腕の中にいる少女を置いて逃げるなど、見捨てるなど、伊織には到底出来なかった。

 ――友達をもう失いたくない。

 伊織が少女を置いて逃げ出さない理由など、それだけで十分だった。

 けれど、少女の身体は伊織の腕の中で膨れ上がっていく。

「だめだダメだ駄目だ香奈!!」

 伊織は腕に力を籠め、必死にそれを押し止めようとする。
 けれど少年の力なぞ、何の楔にもならなかった。

 結局、伊織は一気に大きさを増した少女の身体に弾き飛ばされ――

「うわっ!!」

 ――そして背中から倒れ込んだ伊織は見る。

「く……香……奈……」

 香奈と思い、見上げたその先に在った余りに赤い全身鎧のような甲殻で全身を纏った女型の巨人の姿を――

 それは腕に、脚に、肩に鎌にも似た爪を帯び、その五指に具わった鉤爪もまた鋭く、研ぎ澄まされた刃を思わせる鋭利な身なりだった。
 その顔は上半面は兜のような甲殻が覆う。その兜の両脇からは鎌を具えた一対の腕節が伸びる。

 そして下半面だけ見る事の出来る女の顔に流れ落ちる一筋の水滴。
 まるで涙のようにそれは頬を伝う。

 ――ただ、伊織は怖かった。

 殺されるかもしれない――いざ目の前で再びギルステインと対峙すれば恐怖の余り、涙が滲んだ。

 けれど赤の巨人の頬を伝った物を見て、そして向こうに見えるギルステイン達の眼から流れるものを見て、伊織はハッとした。
 まるで冷や水を浴びせ掛けられたようだった。

(あの時と……菊池と同じ……?)

 しかしその瞬間、ギルステイン達は一斉に香奈へと、赤の巨人へと躍り掛かり、襲い掛かった。

「香奈! 危な……」
「ハァーッ!」

 けれどいざ始まったのは余りに一方的な、赤の巨人による虐殺だった。
 たった一体のギルステインが、赤の女型の巨人が、次々とギルステインを屠っていく。

 切り刻み、その身体を寸断していく。

 あの優しい少女が、次々と、何の躊躇も無く。

(同じ……同じだ……あの時と……)

 ――同じだと思った。

 菊池が不良とは言え、襲われたとは言え、彼等を一瞬の内に惨殺した時と――

 ――全く同じだと思った。

「ぼくは……」

 それを自分はただ見ているしかない事も、何もかもが――

「あ、あああ、ぼくは……ぼくは……また何もできないのか……!!」

 だから、伊織は叫んだ。
 繰り広げられる惨劇に拳を握り締め、ただ叫ぶしかなかった。

 ――それだけしか出来ない己が余りに惨めで情けなかった。

「ちくしょおお!! 香奈……!!」

 歯を食い縛り伊織は左の拳を、香奈に包帯を巻いてもらった左の拳を怒りに任せて床に叩き付け。


『いいえ』


「え?」

 突如、聞こえたその声に伊織は目を見開いた。


『あなたなら大丈夫』


 ――声。

 それは心に直接響くかのような不思議な声だった。
 誘われるかのように伊織は面を上げ、その視線の先に居たのは――一人の白人の少女、“サラ”。

 ――声が聞こえる。


『あなたなら未来を切り拓ける。さあ、恐れずに』


 そして伊織に目覚めよと告げる、何かの――誰かの声が脳裏に響く。

 それは何処かで聞いた事のある声だった。
 “サラ”であって“サラ”でない、それはそんな声だった。
 あの“夢”の中で響いた声だった。



 少年の内が『力』で満たされる――















◆ ◇ ◆ ◇ ◆















「――015、カドケウス・ウィルス活性反応……!」
「009、021に活性反応。010にも活性反応、発生……!!」
「患者[ペイシェント]009、015、021、010は以降、検体[サンプル]028、029、030、031に変更!」

 ――それは唐突に始まった。

 一斉に鳴り響き、その空間を満たす警告音。
 管制室の壁に設けられた巨大なディスプレイ群に映し出されるのは、子供達が異形の怪物へと変わっていくという、余りに常軌を逸した、そして見るに耐えない光景。


 そしてその直後、赤いギルステインによって繰り広げられた虐殺劇もまた――


 ――けれど、それは紛れも無く、此処に居る彼等が引き起こした事だった。

 彼等は黙々と目の前のモニターやディスプレイに映し出された数値、画像を記録していく。
 条件反射ともいえるように、その手は正確に動かされ、その目は画面を流れていく数値を追っていく。

 それはまるで何かから目を背ける様でもあり、その光景をただ只管に見詰める様でもあった。


 だからこそ――

『あ、あ…あ、ぼくは………くは……ま…何もできないのか……!! ちくしょお……! ………な』

 ――管制室に一人の少年のその言葉は響いたのだった。


 それはマイクが偶々拾った声だった。壊れかけているのか、所々飛んでいる。
 けれどその声は怪物が迫り来る中でも尚、誰かを想う言葉を紡いだ物だった。
 己の目の前で怪物へ変わってしまった誰かへ向けられた言葉であり、そして己の無力を嘆き怒る言葉だった。

 だからこそ、其処は一瞬の静寂に包まれたのだ。
 未熟な、けれどそれ故に遜色などありはしない少年の言葉がその場所の音の全て飲み込んだかのように。


 自分達は一体に何をしでかしたのか――


 理解している、彼等は理解はしている。
 ただ、それに実感が伴っていなかった。
 だから今、彼等は真に感じ取ったのだ。


 ――自分達がどれ程の事をしたのかを。

 本当の意味で、今度こそ――


「瀧川 伊織………あなたは………」

 戦くような女性の声。

 その時。

 ピピッと何処かのモニターから発せられた新たな警告音。

 そのモニターの前に座っていた女が慌ててその理由を確認すれば――

 その眼を驚愕に見開き、ヘレナへと勢い良く振り向いた。

「検体026、カドケウス・ウィルス活性反応!! 今までにないレベルとパターンの反応です!!」

 その言葉は、ヘレナが待ち望んだ物だった。
 故にヘレナ・L・マリエッタは彼等を鼓舞するように声を張り上げた。

「これからが本番よ、刮目なさい!
 彼こそ究極のギルステイン、全センサー、ありとあらゆる手段を使って取れるデータは全て取るのよ!!」
「はっ!」

 管制室が音と動きを取り戻す。



 ――管制室の壁に設けられた、幾つものディスプレイが連動して在る巨大な画面。



 其処に映し出されているのは、赤のギルステインと黒のギルステイン。

 しかし。

 黒のギルステインのその姿は、ヘレナの見知らぬものだった。
 その体躯は彼女が知るその姿よりも一回りも二回りも大きく、全身を覆うその甲殻は漆黒の全身鎧にも似た、より力強く洗練された形状へと成り変わり。
 そして新雪のように真白い髪で覆われたその頭部の上半面だけが唯、黒の装甲に覆われておらず、人の――瀧川 伊織の面影を残した容貌が髪の影から垣間見える。

 この姿こそが瀧川 伊織の真の成れの果て――黒のギルステインの本当の姿。


 ――それは戦い、抗う事を顕した黒の巨人。


 そして二体のギルステインはただただ相対し、数瞬の対峙の後、赤のギルステインが黒のギルステインへと飛び掛かる。
 それが、赤と黒の戦いの始まりを告げるものだった。






 ――ただ。

 ヘレナ達はそれを観る事しか許されてはいなかった――















◆後書き◆

何だか書いている内に量が増し、読み返してみたら内容的にも一度区切った方が良いかな~と思い、区切らせてもらいました。
後編(下)は今日の夜か、明日の朝にでも投稿させていただきます。
まだ見直しが完了してませんで。

しかし、四つに分ける場合ってどんな風に区切ればいいのか分からなかったので、今回みたいな感じに。
調べてみたけど良く分からなかった……orz



[8616] 二ノ章後編(下)[Boy=Resolution]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:3b173183
Date: 2009/11/04 23:30



 ──ほんのすこし前まで、少年少女達の憩いの場であったロスト・ガーデン一階のロビーは今はもう見る影も無い、無残な姿に変わり果てていた。

 ロビーを囲っていたガラス窓はその多くが粉々に砕け散り、床や壁には弾丸や砲弾によって穿たれ開けられた大小様々無数の穴。
 床や壁の所々にある黒は、砲弾の爆炎によって焼かれた焦げ痕。
 そして赤のギルステインによって屠られ切り刻まれたギルステインの肉片、飛び散った血が赤く紅く、ロビーを彩っていた。

 最早、地獄絵図にも似た場所へと化していた其処に立っているのは二体のギルステイン。
 片や漆黒、片や真紅の全身鎧を身に纏い、サラが見詰める中、子供達が怯える中、黒と赤の巨人は対峙する。

 そして徐々に、徐々に両者の間の空気が張り詰めていく。
 咳[しわぶ]き一つすら躊躇われるかのような緊張が周囲へと伝播していく。

(伊織クン……)

 その中で、伊織は香奈の声を聞いた──

(私を止めて、伊織クン……!!
 さもないと……………さもないとあたし………ああ、もう……殺して、あたしを!! 伊織クン……!)

 あの時と同じように──

 ──黒い怪物となってしまった菊池 勝の時と同じように。

 少女が伊織に告げるのは慟哭にも似た懇願だった。

 ──己を殺せと、殺してくれと希[こいねが]う言葉だった。

 しかし、眼前の赤の巨人はその言葉と裏腹に腰を沈め、力を溜める。鉤爪を鳴らし、牙を鳴らした。

 それは今にも獲物に飛び掛らんとする猫の動きにも似ていて──

 ──伊織の意識に少女の声が聞こえる。

(伊織クン……おねがい……! あたしを、ころ……──)
「カッ!!」

 次の瞬間、その最中、赤の巨人がその巨体を躍らせ飛び掛る。
 伊織はそれを真っ向から受け──けれどその衝撃は凄まじく、踏ん張る足が固い床を削っていく。
 後ろの壁が瞬く間に迫る。伊織の頭目掛け、赤い鉤爪が振るわれる。その小手をぎりぎりの所で掴んで止めた。
 伊織は掴んだ小手を支点にして、赤の巨人の背後へと回り、身体を入れ替える。
 直後、赤の巨人と黒の巨人は壁に激突した。分厚い筈のコンクリートの壁はしかし、容易く打ち砕かれた。
 巨大な破片が赤の巨人の上に降り掛かり。

「クァハァアアア!!」

 けれど、その残骸の中から、赤い巨人が無造作に身を起こす。

(香奈……!!)
「ガヌ゛ァ……!!」

 伊織が発した呼び掛けの言葉はしかし、濁って意味を成さない只の音でしかなく。

「シャアアアアッ!」
(香奈! くそっ……!!)

 そして赤い巨人は黒の巨人──伊織を再度見定めるや否や、何の躊躇もなく、そして今度は願う言葉さえなく、その長く鋭い鉤爪を振りかざし襲い掛かって来たのだった。












◇ 魔獣星記ギルま! 二ノ章後編(下) [Boy=Resolution] ◇












 ──黒のギルステインと赤のギルステインの戦いを言い表すなら、凄まじいの一言に唯、尽きた。

 互いのその爪は鉄すらも容易に切り裂き、その身を覆う甲殻は鋼以上の硬さを誇る。
 そして何よりも、互いにその装甲を討ち破る『力』を有する。
 ならば、その戦いが人の想像を超えて熾烈な物と成るのは、ある意味、当然だった。
 ロスト・ガーデン内の壁も床も天井も、そして子供達もその戦いを止めるには何の意味も成さない事もまた必然だった。

 そんな未だ間断無く轟音が響き、その度に揺れる建物の中に、武装した彼等は入って来た。

 ──自衛隊特務部隊突入A班。

 ヘレナから要請され、野上から彼等に下された任務は、未変身個体の回収──怪物[ギルステイン]に成るのを免れた子供達を安全な場所へ移す事だった。

「全周警戒! どこから来るかわからんぞ!!」

 そして、彼等は直ぐにロビーの片隅で身を寄せ合い固まっている子供達を見付け。
 けれど、少年少女達はその姿を見て、ひっと一様に身を竦ませた。

 ──子供達は全てに怯えていた。全てに──己を取り巻く世界に。

 彼等は子供達が何故、それ程、怯えているのかを察しつつも、けれどそれに慮ってやる暇など無かった。
 時間が無い、兎にも角にも一分でも一秒でも早く此処を動かなければ、何時また此処があの化け物達の戦場になるかも分からないのだ。

 事実、此処にはギルステインの亡骸だけでなく、既に数人の子供達が何かに潰され、或いは引き裂かれたかのような無残な姿で息絶えている。
 それはあの戦いを止めるのに、何の意味もなさなかった犠牲だった。

「ようし、外へ出るぞ! ついて来い!!」
「あ!!」
「ひい!!」

 しかし当然の如く、子供達は近付いてくる彼等に怯え後退さる。
 だが、それに付き合っている余裕など彼等には無く。

 ──だから彼等は冷徹に、子供達へと銃口を向け、“強制”した。

「死にたくなければ、さっさと動け!!」
「わ!!」
「グズグズするな!!」
「ひ!!」

 その銃口から覗く昏さと怒声に戦き、震える足に必死に力を込めて子供達は慌てて立ち上がる。

 その時、真上から音が聞こえて来た──

 ──黒と赤のギルステインが戦う音が。

 壁が打ち砕かれ切り裂かれ崩れる音が、怪物の雄叫びが──

「きゃあ!」
「来るぞ!!」

 瞬間、彼らの頭上の壁を突き破り、何かが地面へと叩き付けられるように落ち、転がった。
 ぱらぱらとコンクリートの欠片が彼等の頭上に降り注ぐ。

「うおっ!?」
「ぬうっ!!」

 ──うつ伏せに倒れ付す、それは黒の巨人。

 衝撃に気絶しているのか、微動だにしない。或いは死んだのか。

「待て!! 一体だけだ!!」

 しかし、もう一体の赤の巨人は真上に開けられた壁穴から降りて来る気配が一向に無い。
 彼等はもう一体の姿が見えぬ事に慌てた。

「もう一体はどこだ!? 管制室[コントロール]! もう一体の居場所はわからないか!?」
『待ってくれ! カメラもセンサーも被害がひ……』
「シャアアア!!」

 次瞬、その彼らの後ろの壁を幾重も切り裂き、赤い巨人は現れた。

「っ……──」

 そしてその瞬間が彼等の最期だった。
 銃口を向ける事も、振り向く事も出来ず、彼等の身体は切り刻まれ、ばらばらの肉片へと変えられ、屠られる。
 余りの切れ味にか、上半身を切り落とされて尚、暫し立ち尽くす下半身すら有った。

「きゃああっ!!」

 その惨状に辛うじて死を免れ、そして逃げ遅れた一人の少女が悲鳴を上げた──上げてしまった。
 そんな彼女を赤く巨大な掌が無造作に捕まえる、赤い巨人の片手が鷲掴む。

「イやああぁアああ!! たすっ……──」

 更に上げられる少女の悲鳴はけれど直ぐに、そして唐突に途切れ──



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「グゥ……」

 耳障りな甲高い少女の声。恐怖に染まり、戦慄に震えるその声は聞くに堪えない。

(悲鳴……?)

 落下の衝撃に意識を朦朧とさせていた伊織は聞こえて来た悲鳴に上半身を起こす。

 そして見たものは──


 赤。


 見た……ものは──


 紅。


(か……な…………?)

 口許をしとどに赤く濡らし、頭の無い誰かの身体をその巨大な片手で抱え掴んだ赤の巨人。
 首からびゅっ、ぶしゅっと血を噴き出すそれ。しかし首から溢れる血は次第にその量が少なくなり、そして止まった。

 “ソレ”はそれを鷲掴みにしたまま、肩越しに振り返り、口許を引いて狂ったように唯、嗤う。
 人の血に塗れた牙を見せ付けるかのような余りにも禍々しい笑みを、黒の巨人に──伊織に向ける。

 ──まるで飲み干した血が美味いと言うかのように。喰らった肉が、脳髄が堪らないと言うかのように。

 嗤っていた。

(香奈……君は、もう……)


 ──その在り様は、人を喰らう人外の“怪物”そのもの。


「オォ………──」

 少女の請い願う声は、疾うの昔に聞こえない──

 その事が一体何を意味するのか。

(……分かってる、分かってるよ……香奈……)

 ──止めようと只、そう思った。

 故に瀧川 伊織は覚悟する。迷いを振り払う。
 七瀬 香奈と言う少女が自力で己を取り戻してくれるのではないかという執着を、空想を切り捨てる。


 少女を止める為に、この爪を振るうと決意する──


「──オ゛ア゛ガオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!」

 咆哮──その躯体に力を漲らせる。

 呼応──頭部を覆っていた真白い髪が薄い板金のように変化し頭部を滑らかに覆う。

 展開──背面の装甲がせり上がる。その中はスリットがいくつも並び。脇腹の甲殻の一部が後方に鋭く伸びた。

 噴射──瞬間、その装甲から圧縮されたた空気を噴き出した。

 突撃──嘗て七瀬 香奈という少女だった赤の“怪物”へ。

「ゲァッ!!?」

 突き出した左手が赤の怪物の咽喉の真芯を捉えた。
 何かが割れ、潰れ、そして折れる音が手から腕に、そして耳に伝わる。
 鈍く、感ずるに耐えない感触が伝わって来る。

「オオオオオオオオオオッ!!」

 それを打ち消さんと伊織は雄叫びを腹の底から上げた。
 幾つもの壁を突き破り、ロスト・ガーデンの外へ突き抜ける。
 そして地を滑るかのように宙を飛び、力任せに突き進む。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」

 そして、伊織は目前に迫った、まるで巨大な墓石のような建物へと赤の怪物の体躯を叩き付けた。

 ──それは、核爆発にも耐えられる強度を持つと人が自負する中央チェンバー、管制室のある建物の壁を貫き打ち砕く一撃だった。

(香奈! これで決めてやる……!!)



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 伊織は壁を打ち砕いた先にあった床に赤の怪物をその左手で押さえ込み、逃げ出さぬようにこれ以上、暴れぬように押し付けた。
 彼には確信があった。まだこの眼前の怪物は生きていると、このまま放って置けば、すぐに起き上がだろうという言い知れない確信が。

 止めるのは──殺すのは、今だと。

「…………グゥ………」

 だから、その右の鉤爪を振り翳[かざ]し──

「ひ!!」

 誰かの、少年の悲鳴が聞こえた。

(この、声……)

 まさかと、考えもしなかった声に伊織はばっとそちらへと顔を向けた。

(か……和彦!?)

 其処に居たのは、此処に居るはずの無い幼馴染みの姿だった。
 手を少し伸ばせば届きそうな距離で、両手首に手錠を嵌められ、コンクリートの瓦礫に片足を挟まれ、身動きが取れないようだった。
 その傍らには、警備員らしき男が二人、倒れているがその事に伊織は気付けない。気付けるだけの余裕が無かった。

 伊織は驚愕にその身を強張らせ、今関のその眼差しから逃れるように振り翳した右の掌で己のその顔を思わず隠す。

(なぜここに!?)

 ──居る筈の無い、居て欲しくの無かった彼が此処に居るのか。

 そんな事、伊織が知る由も無い。

 ──彼はただ此処に菊池と伊織が居るからで来たのだと、会いに来たのだと、助けに来たのだと伊織は思いもしない。

 その途中で捕まり、けれど始まった実験から彼の身を守る為に此処に連れて来られたなど、分かる筈も無い──

 ただ、伊織は恐怖していた。

 もし先の攻撃がほんの少しでも遅かったら、早かったら、そして場所がずれていたら。
 彼は一体どうなっていたのだろう。

「ば……化け物!!」

 けれど、その伊織の思索を打ち破ったのは、よりにもよって今関の悲鳴だった。

「……オ゛……」

 その言葉に伊織はその巨体を竦ませた。その拍子に零れた呻き声はしかし、人の物とは到底言えない低くくぐもった声。
 そして、今関のの瞳に映る己の姿は化け物の身体――漆黒の全身鎧、板金のような装甲で覆われた頭上半面だけが唯白く。


 ──こんな姿の己を化け物以外に何と言えばいい。


(……違う!! 違うんだ、和彦! ぼくは……ぼくは………!!)

 伊織はただ今関へと手を伸ばす。
 けれど今関はその手にこそ怯え、一刻も早く逃げようとするが、一人では到底退かせない瓦礫に足を挟まれ身動きが取れない。
 動かそうとするがビクともしない。

「足が……!! ぐ……くそっ!!」
(和彦……! ぼくだ、ぼくだよ!!)
「抜けねェ!!」

 伊織は吸い寄せられるように和彦に手を伸ばし、近付いていく。益々、今関は怯え戦き。
 だからつい、伊織は香奈から──赤の怪物から手を離した、離してしまった。

 その瞬間。

 ズダンッ! と──

 今度は伊織が床に叩き付けられる事と相成った。

「ガァ……ア……」
(香、奈……)

 背中から体内を通り胸を突き破って出る、焼けるかのような五つの熱──赤の怪物の五指の鉤爪。
 伊織が肩越しに顧みれば、赤い腕が背中から生えるかのように突き立てられていた。

 そして、右腕を伊織に突きたてたまま、ゆらりと立ち上がる一つの巨大な影。

「クゥオア!!」

 赤の怪物が更に力が込める。

「グガアッ!!」

 ブシュッと血が飛び散った。
 その飛沫が今関の顔に掛かり。

「おわあーっ!! ううっ、ぐっ……うっ!! くっ!!」

 今関は恐慌しながらも、足を引き抜こうと藻掻くが分厚いコンクリートの瓦礫はビクともしない。

(和ッ彦ッ……)

 このまま此処に居ては彼は確実に戦いに巻き込まれる。
 そうなれば、彼は一溜まりも無い事は火を見るよりも明らかだった。
 だから伊織は痛みを堪えながら、必死に腕を伸ばした。
 爪を更に深く突き立てられながら傷を抉られながら、何とか今関の足に乗っていた瓦礫を除けた。

「あ……。な、なんで…………?!」

 信じられない、訳が分からないと今関は呆然と呟く。

 ──と、その時。

 バンッ! と行き成り後ろのドアが開き、自衛隊員達が流れ込んで来た。
 そして、その一人が座り込んでいる彼の襟首を後ろから何の気遣い無く引っ張った。

「ぐっ!?」

 服で首が絞められる。

「少年確保! 大丈夫か、少年!!」
「退避、他も急げ!!」
「検体[サンプル]026、瀧川 伊織、検体031、七瀬 香奈、確認!!」


 その言葉に今関の思考は空白に止まった──

 ──彼らは今、何と言った?


(え? いお、り……?)
「カアッ!!」

 赤の怪物は武装した自衛隊員を見るや、黒の巨人の巨体を持ち上げ、彼等目掛けて振り落とした。
 しかし、それは彼等の前の床を粉砕するに留まり。

「ぐう」

 衝撃に砕け散った飛礫が彼等に飛び掛かる。

「くそう!!」
「化け物め!! これでもくらえ!!」

 応戦、発砲。そして、その内の一人がグレネードを撃ち込んだ。
 それは真っ直ぐに赤の怪物の胴、ど真ん中に着弾する。

「どうだ!?」

 上がる、歓声を微かな含んだ声。
 けれど、もうもうと広がる爆煙に全身に鉤爪を生やした、その人外の影は浮かび上がった。

「くそっ!! もうグレネードじゃ効きやしねェ!!」
「退避急げ!」
「ま、待ってくれ!!」

 今関が何を言うのも構わず、一気に引き摺られ黒の巨人から引き離される。

「ガオ!」

 しかし、必死に退こうとする彼らに赤い怪物は容赦無く爪を振るい。
 その腕を伊織が掴んで止めた。傷から夥しいまでの血が溢れるのも構わずに。

 ──後ろから、今関の声が聞こえる。

「伊織!! 伊織なんだろ?!」
(……ッ!)

 その隙に自衛隊員達は今関と彼の傍らで倒れていた男達を引き摺りながら、一気に扉の向こうへと後退していく。

「今のうちだ!!」
「隔壁閉じろ!!」
「待ってくれ!! 友達なんだ!! あいつはオレの……友達──」

 そして分厚い鉄製の扉が閉じられた。

 その直前、聞こえて来たその声は──救いだった。
 思わず涙が零れてしまいそうなる程に、嬉しかった。


 伊織が戦う理由が、赤の怪物を止めるがまた一つ──






◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 管制室では錯綜する情報に声が飛び交っていた。
 その中にはヘレナのヒステリックな声すらあった。

「なんですって!? サラが、ロスト・ガーデンに降りていた!?」
「は、突入C班が身柄を確保、現在、未変身個体とともに第二研究棟に退避、収容済み!!」
「どうやってあの部屋から!? いえ、そんなことは後でいいわ!! サラは無事でいるのね」
「はい、体力を消耗しているようですが、命に別状はありません!」
「そこにいたのは何時?!」
「記録では026が躯殻獣化する直前です!」
「………なんてこと」

 ヘレナは返された答えに思わず、額を押さえた。

(これはもう………偶然などではあり得まい!!)

 ──鍵を掛けられた部屋からどのようにして出たかもそうだが、彼女がその場所に現れたタイミングが余りにも良過ぎる。

 しかもそれが一体何を意味するというのか。
 ヘレナは想定を飛び越え、逼迫した実験の状況の中で必死に考えを巡らせる。

 そう、再現実験は既にヘレナの想定を疾[と]っくの疾[と]うに超えていた。

(私は、私たちはギルステインを、カドケウス・ウィルスを過小評価していたとでも言うの?
 それとも私たちが把握すらできていない何かがあるとでも……?)

 ヘレナとて、そしてこの実験を承認した者とて実験の実行によって生じるだろう被害を考えなかった訳ではない。
 逆に今までのデータを、特に自衛隊との交戦の際のデータを時間の許される限り、検証し今回の実験を決定したのだ。
 その中では誤差を含めた諸々を考慮しても、実験の規模は飽く迄、ロスト・ガーデン内で済む筈だったのだ。
 最悪、ロースト・ガーデンの内部が破壊されるだけ。建物そのものの破壊に及ぶ事は無いだろうと考えていた。

 ──それがどれ程、楽観に満ちていたのか。ギルステインがどれ程、力を秘めていたか。そして自分達がどれ程、驕っていたか。

 それを今、彼女達は思い知らされていた。

「隔壁、閉鎖確認!!」
「残留要員の救助確認まだか!!」
「違う!! 中央[セントラル]チェンバーへの退避命令は撤回された!! ここも危険だ!!」

 いざ蓋を開けてみれば実験の目論見が叶っていたのは瀧川 伊織が覚醒する所まで。
 後はあれよあれよと外れ、上回り。

 ──実験の規模も被害も瞬く間に膨れ上がっていった。

 そして、この核にも耐えられる筈のこの中央チェンバーすらギルステインは破壊した。
 野上だけでなくヘレナですら、まさか、としか言い様のない、それは出来事だった。

 ヘレナはその思考を巡らせる。

(ギルステインの鍵を握るのは、サラ……あなただというの……?)

 ──そしてその中で、ヘレナがサラという少女に感じていた漠然とした印象が、確信にも似た思いへと変わったのだった。






◇ ◆ ◇ ◆ ◇






 黒の巨人と赤の怪物は、互いに両手を掴み合い、互いに押し合い、力を比べ合う。
 しかし、先に負った傷で力を十全に出し切れないのか、黒の巨人が押し倒されてしまった。


『伊織……クン……』
(サ、ラ……?)


 赤の怪物は組み伏した巨人の胸の傷をハイヒールのように尖ったその踵で踏み躙る。

「ゴ! ガウオオオオオ!!」

 その激痛に伊織は叫んだ。


『助けて………助けて……あげて……』
(分か……ってる……)


「クァハアア!!」

 そして、赤の怪物は兜の側頭部から伸びた腕節の先に具わった鎌を脇の下に突き立て、その巨体を持ち上げた。
 赤の怪物は吊るし上げた黒の巨人を見て嗤う。脇の傷から溢れ、腕節に伝い流れる血を舐めれば悍ましくも艶やかに笑った。


『香奈を……助けてあげて。伊織クン、戻してあげて……。
 大好きな香奈……優しかった香奈……星々の思い出と連なる生命[いのち]の輪の中に……香奈を……──』
(ぼくだって……ぼくだって……香奈を助けてあげたい……。だ、けど……だけど……)


 伊織の身体から徐々に、徐々に身体の熱が流れ出しては抜けていく──『力』が抜けていく。
 まるで傷から零れていくかのように、『力』が抜ける。指先一つ、動かす事すら儘ならなくなっていく。

(寒い、足りない……力が………力が……冷たい……ちく、しょお……!)





 ────  目覚めよ  ────





 声が響いた――声を聞いた。
 サラであってサラでない、誰かの声を。
 身体の隅々に行き渡り滲み込んで行く、何かの声を。

「ヴゥ………ォオ……」
「クァ……?」

 そして、黒の巨人は『力』を取り戻す。
 躯殻の奥に『火』が灯る。その熱は瞬く間に、身体を満たし、その四肢に力が、意思が籠められる。

 まるで沸き立つかのようなその熱に伊織の内に在る“ソレ”が蠢き応じていく──

 伊織は、震える腕を持ち上げ。その腕節を掴むと力の限り、握り締めた。

「オオッ!!」

 黒の巨人の肩部が展開、二つに分かれて開く。アンカーを射出。壁の穴からロスト・ガーデンの壁へと打ち込んだ。
 そして、アンカーに付いたワイヤーにも似たそれを一気に巻き戻し。

「クアアッ!!」

 巨大な質量の躯体が二つ、宙を舞った。



 ────  汝、獣[けだもの]の裔[すえ]なる者  ────



「ヴオ゛オオオオオオオオオオ!!」

 伊織は赤の怪物を壁へと叩き付ける。
 その衝撃で、赤の怪物の腕節がへし折れた。
 ガーデンの根元に大きな亀裂が走り。



 ────  遥か暗黒の深淵[アビス]、白熱のプラズマ  ────



 そして黒の巨人はロスト・ガーデンの壁を蹴り、高く高く宙を舞う。



 ────  汝、星辰のかけらより出[いで]し者也  ────



 一瞬の浮遊、直後、背面の装甲から圧縮空気を吐き出し、噴射──一気に圧倒的な速度にまで黒の巨人はその巨大な躯体を加速させた。

「オ゛オ゛オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」

 黒の巨人は鉤爪を真っ直ぐに振るい、渾身の突きを放つ。
 圧倒的な速度の乗せられたその黒爪は赤の怪物の──七瀬 香奈の胸の中心を過たず穿ち貫いた。
 そしてその一撃はロスト・ガーデンをも穿ち抜き、遂に原型すら残さず崩壊せしめたのだった。






◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 ロスト・ガーデンの瓦礫の中で黒の巨人は赤の怪物の身体を抱きかかえていた。
 その赤い怪物の身体がぱらぱらと崩れて行く。破片、欠片、粒子となり宙へと融けて行くように消えていく。
 そして、腕の中に残ったのは七瀬 香奈の身体。

(伊……お……り……くん……)

 その手が黒の巨人の頬に弱弱しくも、優しく添えられ。

 ──脳裏に少女の声が響いた。

 今にも消えそうなほど、か細く弱弱しい少女の声が──

(あり……が………と…………)

 その言葉を最期に手から力が抜け落ちた。


 ──そうして、七瀬 香奈はその短い生を終えたのだった。


「ウ……グゥ……」

 黒の巨人の震えが徐々に徐々に、大きくなっていく。

「オオオオア゛オオオオオオオオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オッ!!!」

 そして、慟哭にも似た咆哮が響き渡る。
 その終わりに伊織もまた人の身体を取り戻す。

「なるほど……実験は概ね成功、といった所かしら」
(じっけん……実験?!)

 後ろから、聞いた事の無い女性の声が掛けられた。
 その声に、何よりもその声が紡いだ言葉に思わず伊織は肩越しに振り返る。
 その視線の先に居たのは白衣を羽織った異国の美しい、けれど伊織の見知らぬ女性だった。

「だれだ、アンタ……」
「見事に復元するものね。だけど復元抗体は変身中にしか分泌されないのかしら。
 うまくサンプリングできていればいいけれど。さ、見せて……」
「触るな!!」

 差し出されたその手を伊織は払う。
 その女性から少女を隠すように、まだ暖かい、けれど徐々に冷めていくその身体を抱き締めた。

「実験、復元だって?」

 その問い掛けに女井は然りと頷いた。

「そうよ。私はあなたが本当にギルステインから人に戻れるのか、そして本当にギルステインを人に戻せるのか、確かめたかった」
「確かめたかった……?」

 ──脳裏に浮かぶのは向けられた銃口、砲口。その中でギルステインに変わってしまった子供達。ロビーに飛び散った血肉。頭の無い誰かの身体。そして、香奈。

 信じられない、と伊織は呆然と呟いた。その言葉に女性は何も言わず。
 そして伊織は怒りに身を震わせ、怒鳴り声を張り上げた。

「そんなことのために……そんなことのためだけにあんなことを、殺し合いをさせたのか!!」
「……そうよ」
「なっ?! ふざけんなッ!!」

 脳が沸騰するかのような怒りで意識が染まる。しかし、その怒声にも女性はただ真っ直ぐと伊織の目を見詰める事を止めず。
 その眼光に、逆に伊織が気圧された。けれど圧された事に反発するかのように、更に剣呑な眼差しを向け。

 ──つっとヘレナは唐突に伊織から視線を逸らした。

「周りを見てごらんなさい」

 伊織に周りを見渡す事を促すかように──

「たった数体のギルステインが戦っただけで、ここはこんな風になってしまったのよ……」

 伊織が居る其処はつい先程までロスト・ガーデンと呼ばれた建物があった場所だった。
 しかし、今はその姿形は跡形もない。ただただその残骸たる瓦礫が辺りに転がり重なっているだけだった。

 ──怒りが恐れに変わった。

(これがぼくのやったこと……?)

 呆然としかける伊織の意識にヘレナの声が響く。

「憎みたければ憎みなさい。
 けれど……このカドケウス・ウィルスの被害を食い止めるためなら、ギルステインを滅ぼす為なら、私はなんだってして見せる!」

 そして再び、顔を伊織に向けた。

 それから逃げるように伊織は、顔を俯かせる。
 女性は伊織の傍らに跪くと、香奈の裸身にその白衣を被せた。
 そして、その感触を確かめるように何処か穏やかな少女の顔を撫で。

 ──少女の胸から溢れた血が瞬く間に、白衣を赤く染めていく。

「……あなたのおかげなのよ、伊織クン。この子、香奈も、あなたの同級生も最期は怪物ではなく、人間として死ねたわ」

 その言葉に伊織の身体がびくりと震えた。目尻に涙が浮かんでくる。

(だけど、ぼくは……)

 少女を掻き抱くその手に力が微かに込められる。

「未来は……私たちで創るものよ。そして創るのならば、もうこんなことが起こらない未来を創っていきたい。
 いえ、創らなければならないの」

 そして、女性は伊織の目を覗き込む。

「協力、してもらうわよ、伊織クン。あなたは唯一、ギルステインから人へと戻ることのできる、稀有な存在なのだから」

 静かに、力強く、ヘレナ・L・マリエッタは伊織へと告げたのだった。

(未来……)

 その言葉が持つ響きは、そして意味は何と素晴らしいものだろう。

 ──けれど、その中に菊池や香奈はいない。

 死んでしまったから──自分が殺したから。

 それしか止める術が今の伊織には無かったから。

 だから殺した。彼等を止める為に──“怪物[ギルステイン]”から解き放つ為に。

 けれど──

(それでも……生きていてほしかった…………菊池、香奈…………ぼくは……)

 伊織のその思いはただ、胸の中[うち]で終ぞ零されただけだった。

(ぼくは……──)

 その頬に涙が一筋、伝って落ちる。
 それをたった一人の女性が、静かに見詰めていた。


















◇ ◆ ◇ ◆ ◇


















 ──ほの暗い闇の中。

 先程までスピーカーから聞こえていた少年の慟哭も止み、今は女性の静かな宣言が聞こえてくる。
 その言葉を一人の少年が、穿たれた胸部より鮮血を溢れさせる少女を腕に抱えながら、聞いていた。

「ふん……あんな未熟な小僧一人で一体何が変わるというのだ」

 その映像を見て、金の少女──エヴァンジェリンは微かに鼻を鳴らした。
 そして、隣で目を細めている少女──超へと視線だけを向け。

「で、これをどうするつもりなんだ? 私に見せて終わり、という訳ではあるまい?」
「勿論。他の人にも見てもらうつもりヨ。どうネ、茶々丸。データの方は?」

 超はエヴァのその問い掛けにウィンクを返すと振り返り、部屋の中央にあるコンソールの前の椅子に腰掛けている人影──茶々丸と呼ばれた少女へと言葉を掛けた。

 茶々丸は瞑っていた目を開け──

「all clear.こちらには何の問題もありません。しかし、あちらの記録装置が破損した為に、取得できなかったデータ有り」
「まあ、それは仕方ないネ。それでよしとしよう」
「ねえ」
「ん?」

 すると超の服の袖を小さな手が引っ張った。
 その手の主は何処か不安そうに超を見上げているリンだった。

「それ、どうするつもりなの、超ねえ?」
「何、ここで引き篭もっている“彼ら”に是非、知ってもらおうと思ってネ。
 その一端でしかないとは言えどギルステインの力を、そして何よりもギルステイン・エルガー、瀧川 伊織の存在を……ネ」
「……大丈夫なの?」
「そう、不安そうにするでないヨ、リン」

 不安そうに顔を顰めるリンの頭を超は優しく撫でた。
 目の前の少女を安心させようとするかのように、優しげな笑みがその顔には浮かんでいる。
 しかし、少し困ったようにその柳眉は下げられていたが。

「まあ、見当は付けられるだろうが、証拠がなければ幾ら彼らでも動けぬヨ。ただ少し、動き辛くなるだろうが、ネ。
 ……大丈夫、リンとルルンに会えなくなる訳じゃないから、会いたければいつでも来ればイイ」
「……うん!」

 リンは超のその言葉を聞いて安堵したかのように、嬉しげに笑い、超にそれを微笑み返した。

 ──そうして。

 超 鈴音は画面へと目を戻す。
 この先、鍵の一つとなるだろう少年へとその眼差しを向ける。


 暗闇を仄かに照らすその光に目を細めながら、何処か崇拝染みた、その眼差しを──

 ──只、少年へと向けていた。









◇ 二ノ章 了 ◇








◆後書き◆

何とか、午前中に投稿出来ました。若干、朝というには微妙な時間ですけど。
ま、まあ……それは置いておきまして、第一部も章的には後二つほど、話数は二つ以上になるかもしれませんけど。
次回はちょっとした説明回、になるかと思います。
しかし、ネギくんを未だに書けてないのが心苦しい。二部に入れれば、入れればきっと彼も主人公になる、筈……。


以下、駄文。

原作通り、死亡してしまった菊池と香奈。最初は死なない道筋はないかと考えてました。(ネギまの魔法使いがいれば何とかなるんじゃね? という考えの下)しかしそれをやったら今度は伊織が戦えなくなってしまう、と思い、結局、ギルステイン原作にネギまを添えるという形に。
正直、伊織がギルステインとして戦おうとする展開で納得できるものが思いつかなかったというのが大きいですが。
ただ、それぐらいやった方がクロスさせてる意味もあったかな~というのもやっぱり思い。
クロスは難しいとつくづく思います……。



[8616] 三ノ章前編[Girl=Ordeal]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/11/05 00:01



 ──2003年1月5日、麻帆良学園教職員宿舎。

 太陽が昇り、そろそろ朝のご飯時にもなろう頃──


「これは…………」

 麻帆良大学教授、明石 裕晃[あかし ひろあき]は書斎代わりに使っている部屋で一人、信じられないとばかりに呻いていた。
 ディスプレイに細眼鏡を掛けた顔をまじまじと近付け、ただじっとその画面を流れていく“映像”を凝視していた。

 子供達がギルステインへと変わり果て、殺し殺されるその様を。
 そして一体の黒のギルステインによって、二人の少年と少女が死を引き換えにして人の姿へと戻るその様を。
 その黒のギルステインもまた人の姿へ、けれど先の二人と違い生きて戻ったその様を。

 傍らの灰皿に置かれたタバコの灰が長くなっていくのも構わずに──

 部屋の襖を隔てて、キッチンから調理の音が何時の間にか聞こえてくるのも気付かずに──

 明石 裕晃はじっと見詰めていた。ただじっと……見詰めていることしか出来なかった。

(これは……彼は一体……だが、彼がいれば……もしかしたら………!)

 その映像は朝、彼のノートパソコンのメールホームに送られてきたメールに添付されていた物だった。

 しかし──

 受信時刻は6時66分という在り得ない数字を示し、尚且つ差出人名は文字化けしており不明。
 いつもなら、そんな訳の分からないメールを開く事など、彼はしなかっただろう。

 その件名が『GUILSTEIN ELGAR』という物でなかったなら、きっと──

 記録されていた映像の全てが終わる。映像は最期の場面で停止する。
 そこに映し出されているのは俯く少年とその腕に抱かれた少女、そしてその二人を見詰める女性。

 明石は放心したかのように、画面を見詰めた。

(何故だ……? 何故、彼は人間に戻ることができる……? 何故、彼は人間に戻すことができる?)

 その記録映像が明石に示したのは、守るべき、そして導き育むべき子供達が理不尽な暴力に翻弄され、異形の怪物に変貌し殺し合う様だった。
 その光景は怒りよりも怖気が先立つ、そんな無惨な光景だった。
 けれどそれに終止符を打ったのはたった一体の黒の巨人、否、たった一人の少年。
 何よりも友を救えなかった、止められなかった己の無力に憤り、涙を流した、たった一人の少年だった。


 理不尽に怒り、誰かの死に涙を流した少年だった。


 ──それはきっと当たり前の事なのだろう。


 出来るか否か。


 ──そう問われれば、きっと誰もが出来る事ではあるのだろう。


 けれど明石は思うのだ。ああ、彼はなんて強い心を持っているのだろう……と。

(とにかく、学園長に確認を……!)

 そして傍らに置かれていた携帯電話を乱暴に掴み──






『では中身を確認してから、また追って連絡しよう。
 それまでスマンがちょっと待っててくれんかの?
 君の言を疑う訳ではないが、実際に己の目で確かめんことには何とも言えんわい……』
「いえ、そうなされるのが一番かと思います、学園長。
 情報の真偽の程は後で確かめるとしましても、一見の価値はあるかと思います」
『うむ、ではまた後でのう、明石くん』
「はい」

 そして学園長との通話を終えられた携帯電話を明石は胸のポケットにしまうと、眼鏡の位置を整えながら身体を傾け、椅子の背凭れに寄り掛かり。
 胸に蟠[くすぶ]る焦りを誤魔化すように寝癖が付いたままの頭を掻いた。そして憂いを吐き出すかのように溜め息を吐き出す。

 そんな時、廊下の方から軽やかな足音が聞こえて来た。と思ったら、黒髪をサイドポニーテールに纏めた少女が部屋の襖を思いっ切り開け放った。

「おとーさん! ごはんだ……ぎゃー!?」
「おわ?!」

 その直後、襖の直ぐ傍にあった、少女の身長よりも高い、塔の如く積み重ねられていた本の山が揺れ、彼女へと降り注ぎ。

「いったー……」

 少女は本の雪崩を避けようとしてバランスを崩し尻餅を突いてしまう。

「オイオイ、大丈夫かい、ゆーな?」

 ──痛みに呻く少女の名は明石 裕奈[あかし ゆうな]。

 明石の愛娘であり、既に他界した妻、理奈[りな]の忘れ形見。
 そして彼女は今年、15歳になる。

 ──15歳。

 詰まり今、彼女は知らずして最も危険な時期にいるという事。
 ギルステインに変貌するかもしれないという漠然とした、けれどその存在を知る者からすれば決して看過できない可能性に常に脅かされているという事。

 娘がそんな事になる訳が無い。

 明石はそうは思う。いや、そう信じていると言った方が適切かもしれない。
 だが、明石のその思いに確固たる根拠など何も無い。もしかしたら、次の瞬間には己の目の前で、彼女は変わってしまうかも知れないのだ。

 恐ろしい。それは余りにも恐ろしい事実だった。自分の子が怪物に成り果ててしまうなど、恐怖以外の何物でもない。
 その恐怖をずっと、ギルステインという怪物が何者なのかを知ってより少女の父たる明石は抱いていた。

 だからこそ、ほっとする。彼女の声を、姿を見ると何時も心の何処かで安堵していた。
 だからこそ、明石がギルステインという存在を知ってから、不安に思わぬ日など無かった。
 だからこそ、明石にとってギルステインから人間に戻る事が出来る、という事実は衝撃だった。

 例え、それが死と引き換えに成される物なのだとしても。

 何せ、今までは少年少女の躯殻獣[ギルステイン]化は不可逆的な反応だと考えられていたのだから。
 其処から死を引き換えにせず済むように、発展出来る可能性は十分に有り得る。

 故に──

 少年は明石にとって光明だった。
 そして男は愛娘を前にして自覚する。


 ──あの映像を見終わった時、己が真っ先に感じたのは見知らぬ子供達に降り掛かった災厄、理不尽への怒りではなく、娘にこれらが降り掛かる前に事態は収束するかもしれないという微かな安堵、期待だった事を。


「ハハハ、そっちは開けるなって言ったろ、ゆーな」

 けれど明石は己の心に重く圧し掛かってくるそれをおくびに出さず困ったように笑いながら、本に埋もれた愛娘へと歩み寄り、手を差し出した。
 裕奈は父に引っ張り起こされて立ち上がり。

「それって去年の夏休みじゃん。片付けていったのに」
「あ~、スマンスマン、忘れていたよ。それよりなんだい、ゆーな?」
「も~、昨日の夜、言ったじゃん。明日の朝はごはん、一緒に食べよって」

 そう、不満に頬を膨らませる娘を見て、然もまぶしい物を見るかのように明石は目を細めた。

「ああ……そうだったね、それじゃあそうしようか、ゆーな」
「ん、どしたの? なんか顔青い? 風邪でも引いた?」

 けれど少女は父の顔を見て、小首を傾げながらそう聞いて来た。
 それには思わず、明石は笑みを零してしまう。
 自分としては上手く取り繕えているつもりだったが、やはり娘の目は誤魔化せなかったらしい。

「う~ん、そうかい? 体調は別に悪くないんだけどね。もしかして昨日、少し寝るのが遅かったからかな」
「ふ~ん………」
「それより、朝ごはんはなんだい?」
「スクランブルエッグに野菜スープ。あとバナナジュースも」
「おお! そりゃ、久しぶりに豪華な朝食だ!!」

 嬉しいね、と喜色満面に言う父にしかし、娘は呆れ顔を向けた。

「これが豪華って普段、朝、何食べてるの?」
「レトルトカレーのチンしないやつとかだね」
「朝からレトルト!!? 却下!!! そんなのばっか食べてたら死ぬよ、おとーさんッ!!」
「早くていいんだけどねぇ、それに慣れると逆に冷たいのが旨くて」

 しかし、少女は腕でバツの字をつくり、盛大に駄目出しをする。

「ダメッ、ゼッタイッ!! 住めば都じゃないんだから!」

 そして明石の言い訳を待たずに踵を返し、リビング・ダイニングに続く狭い廊下を引き返していった。
 明石も雪崩れた本の山を跨ぎ、後ろ手に襖を閉じると祐奈に続いた。

「まったくもー、ダメだなぁ、おとーさんわぁ。やっぱ私がいないと。なんだったらさ……こっち戻ろうか、私?」

 歩きながら裕奈は父へと向けて、小言を告げるように言葉を掛けた。
 けれどその声は何処か嬉しそうな物だった。

「いやいや、父さんは一人で大丈夫だよ。大体麻帆良中はこっちから通うの大変だろ。
 距離からすると寮より倍ぐらいかかるんじゃないかな」
「いーよ、私は別に。だってお父さんの面倒、見れるし」
「毎日、早く起きることになるけど大丈夫かい?」
「う……、だ、だいじょーぶだよ、朝早く起きるぐらい」
「それに友達とも遊びづらくなっちゃうだろ?」
「うぅ~」
「僕としては、それは寂しいなあ」
「……だったら、もっとしっかりしてほしいなーと思うのですよ、私は、おとーさん」
「ハハハ、大丈夫だよ」

 瞬間、祐奈の目が我が意を得たりとばかりにキラリと光った……ようだった。
 リビング・ダイニングに続く扉の前で足を止めると、ばっと振り返り、裕奈は明石の顎を指でビシッと指した。

「その不精ヒゲ剃りなさいッ。いくら休みで誰にも会わないからってー。なんでそんなだらしないの!? ちょーカッコ悪いっ!」
「ハハハ、いやこれは……」
「ホラ、またズボンからシャツもはみ出てるし! っておとーさん、チャックチャック! 社会の窓が全開!!」
「おおっ、僕としたことが?!」
「も~……」

 そして祐奈は腕を組みながらにたにたと意地の悪い笑みを零した。
 言い返せるものだったら言ってみろ、と明石に告げるかのように。

「さっきの台詞、どの口から出たのかなー。ね、おとーさん?」
「これは参った、降参だ、ゆーな。分かった、これからはしっかりしよう」

 明石は諸手を上げ、降参の意を示した。そんな父を見て、娘はにっこり笑い。

「だったら、今回はやめてあげましょう。さ、おとーさん、ごはん食べよ」
「ああ、そうしようか」

 そして明石父子は食卓に着く。
 それは久々に父子、顔を合わせての朝の食事だった。






 シャツの胸ポケットに入れてあった携帯電話が震えたのは、父子が食事を終えたその時だった。












◇ 魔獣星記ギルま! 三ノ章前編 [Girl=Ordeal] ◇












 ──奥秩父の山奥にある青少年保護センター。

 その一角にうず高く積まれている瓦礫は、元はロスト・ガーデンと呼ばれる建物を形作っていた物だった。
 しかし先日、崩壊し、今のこの状況となっている。

 たった二体のギルステインが戦った為に。

 野上はその瓦礫の撤去作業の指示を出しながら、昨日行なわれた再現実験の光景を思い起こしていた。

 ──核爆発にも耐え得る筈の壁を破壊した圧倒的な力。獣をも上回る速度、敏捷性。そして、グレネードランチャーの直撃にも耐えるその身の頑強さ。

 あの時見せたギルステインの『力』は人を遥かに超えた次元に在った。
 もしあれらが街中で、或いは大挙して暴れ回ったらと思うと、想像ですら寒気を覚える。

 そしてFBTの軍事利用──それは自衛隊上層部の一部が、そしてギルステインを知る政府の誰かも考えているだろう事だった。
 明確に誰が、とは野上には分からないが、それでも考えていないと考えるのは余りに稚拙だろう。
 誰もがギルステインのこれ以上の無秩序な発生を防ごうとしているのは確かだ。野上とてそれを疑う心算は無い。
 しかし、ではそれが此方から秩序を与えられるとしたら、与えられるようになったらどうなるか。

 ──十中八九、利用しようとする者が現れるだろう。

 生来、人が持ち得ない強靭な牙、爪、そして肉体を持った屈強な兵士。
 その望みは何も無邪気に“力”を欲しての事ではない。
 何よりも、外国頼みの国防から脱却し、尚且つ護国の英雄達を無駄死にさせず生還させる“力”を欲しての事だろう。

 そう願っての事だろう──

 そう願う彼等には決して悪意は無い。もしかしたなら、国を思うが故の歪んだ善意、なのかもしれない。
 どれ程、技術を突き詰め、組織の効率化を施したとしても結局、国防の要は何時の時代も人であり、そして人でなければならないのだから。

 だがしかし──

(あれは……我々が手を出して良いものなのか……)

 そこに至るまでどれ程の犠牲が必要となるのかなど、野上には見当も付かない。そして、想像だに出来ない。
 何よりも次代を担う子供達を犠牲にし続けるという矛盾を抱えたそれに利用する価値が、そして意味が在るのか。

 『技術の発展は善である』──多くの科学者や技術者はそう信じ、歩んできた。今もそう信じて歩んでいる。

 だがFBT、ギルステイン、曳いてはカドケウス・ウィルスはそもそも“技術”という範疇で収まるものなのか──収めて良いものなのか。

 野上にはそれが分からなかった。

 そして──

(Dr.ヘレナ──私は彼女を見誤っていたか……)

 野上はヘレナ・L・マリエッタの事を冷徹で無慈悲な、そして己の探究心、知的な欲求に正直な科学者であると考えていた。
 事実、彼女は倫理も道理も顧みず、あの実験を提案し、そしてやってのけた。

 しかし、それはたった一つの目的の為。

 ギルステイン症の撲滅、或いはギルステインの絶滅。もしかしたならカドケウス・ウィルスも、かもしれない。

 その為に彼女は、今、己が歩んでいる道がどんな道なのかも構わずにいる。その事を再現実験の中で野上は知った。
 それが世の為なのか、人の為なのか、それとも自分の為なのか。

(そのどれだとしても業が深い事には変わりはない、か……)

 重機の音に紛れて自動車の走行音が届いた。
 野上が振り返ると、森に囲われ今は瓦礫が転がるこの場所には少々似つかわしくない一台のベンツがゲートを通って入ってくる所だった。

(あれは確か……)

 その黒のセダン──そしてフロントに付けられたナンバーは何度も野上が目にしてきた事があるものだった。
 そしてやはりその車から降りて来たスーツ姿の狐目の男は野上の知る所だった。

「水谷さん」

 その男の名は、水谷 悟郎[みずたに ごろう]。
 ギルステイン症に関した案件を担当する内務調査室に所属する上級役人である。
 その歳はまだ30と若く、しかしその歳で抜擢された事から彼が優秀で在る事が窺える。

 はたまた、いざと言う時に容易く切る事が出来る人物だからか──

 けれど、彼は人事の真意など気にも留めず率先してギルステイン症解決の為に動き回っていた。

 互いに不可侵と決め、不干渉と暗黙の内に定めていた“彼等”と大なり小なり、けれど以前とは異なり確かな協力関係を野上達が結べたのも彼の尽力があったからといって過言ではないだろう。

 だからこそ、野上はまだ年若い彼を信頼していた。

「あ、どーも、すいません。野上二佐。邪魔でしたらどかします」

 水谷は瓦礫の山を見て、呆れたように、或いは感心したように呟いた。

「いや~、それにしても見事に壊されたもんですね~。
 昨日の報告[レポート]、まさかとは思いましたけど、ビル一個丸ごと壊すだなんて……。
 あの、ホントにこれ、再現実験で? いや~、ギルステイン、あなどれませんわ~……」

 水谷は野上にとって確かに信頼に値する人物である。
 しかし何か切り出しづらい問題が生じてしまった時に、どうにも回りくどくなってしまうのは彼の欠点かもしれない。

「──何かありましたね? 全体会議は明日だったはず」

 その言葉に水谷は開き掛けていた口を一度、噤み。

「それが……こちらの都合で申し訳ないのですが今夜に前倒しになりました。
 あの女医さんの秘書の方に連絡はいっていると思いますが、念の為、二佐からも直接、女医さんに伝えてくださるとありがたいです」
「それは構いませんが……。しかし今夜ですか、データの解析に粗が出るかもしれませんよ」
「あ、そこらへんは大丈夫だそうです。女医さんの秘書の方が教えてくれました」
「だが、何故です?」

 明日の全体会議とてかなり強行な日程だったのだ。それを更に早めるとなると、今回の実験で得られたデータの検証・考察の確かさよりも時間を優先した事になる。
 ただでさえ既知よりも未知が圧倒的に多いFBT症候群において、それは致命的な、ある意味で本末転倒とも思える決定だった。
 それは水谷自身も理解しているのだろう。どこか心苦しそうにその理由を告げた。

「……実はどうも何か嗅ぎつけたか、それとも女医さん目当てなのかは分かりませんが、アメリカから人が来てるんです」
「アメリカから?!」
「今、東京で何とか足止めしてもらってますがそれも今日一杯が限界かと。明日にもここへ来ると思います」

 野上は唸る。

(まさか……実験の事が漏れでもしたか?)
「あともう一つ、野上二佐」

 そして、水谷はちょっとした事を言い忘れていた、とばかりになんでもない口調で言葉を続けた。

「“彼ら”も今回の全体会議に参加してくれるそうです。さきほど連絡がありまして」

 “彼ら”──それは野上達の間では、多くの場合、『協力者[パートナー]』を指す言葉だった。
 詰まり、関東魔法協会という魔法使いの集団。
 野上は、すっと目を細め。

「ほう、それはまた突然ですな……」
「いやはや、こちらとしては嬉しい限りです、彼らにも是非、加わっていただきたかったですから。
 ただまあ、ちょっとタイミングが良いというか悪いと言うか」
「何か問題が?」

 水谷は声を抑えると、野上にそっと告げた。

「昨日の実験、彼等は知っていました。ついでにギルステインから人間への完全な復元が初めて観測された時の事も含めて………」
「なんですって……?!」

 思わず出してしまった声に作業を行なっていた自衛隊員達の幾人かが振り返った。
 野上はなんでもないと手を振り。

 ──それはまだ、自分達しか知らない筈のものだった。

 情報の漏洩を防ぐ為、具体的な事は政府の上層部にもまだ報告していない。
 それをより確かなものとする為に意見を各機関と交える場でも今回の全体会議はあるのだ。

「……ふむ……情報が漏れましたか……」

 しかし、それを水谷は否定した。

「それが何とも……。いえ、実験の情報が漏れていたというのは間違いないんですけど。
 どうも、彼らも教えられた口のようでして」
「教えられた?」
「はい、彼らも今日、送られてきたメールに添付されていた映像データで知ったそうなのですが……。
 その映像データ、どうも我々でも彼らでもない第三者によって撮られたもののようなんです」
「余り考えたい事でありませんが、彼らがこちらにクラッキングを行い取得した可能性は?
 彼らも別にコンピューターネットワークといった電子情報技術に疎い訳ではないでしょう」

 水谷はポケットからハンカチを取り出すと額に浮かんだ汗を拭き取り。

「や、それはそうなんですが。
 ただ前半は確かにこちらの監視カメラの映像を継ぎ接ぎしたものなんですけど、後半、ロスト・ガーデンから出た後の映像がどうも、それこそカメラに翅が生えて飛んだかのようなカメラワークでして。
 それに仮に彼らが自分たちで手に入れたのなら、その事を明かす意図がイマイチ図りかねますし。
 それこそ自分の手札を晒すような物かと。まあ、一度見てください。野上二佐に確認してもらおうかと持ってきましたから。
 女医さんの方は……時間もない事ですし、二佐の確認を取れてからと言う事で」
「……分かりました、拝見しましょう。それで、あの実験を知った彼らはなんと?」

 そう、あの実験を知られた際の一番の問題はそこにある。あの実験が人道に悖るのは火を見るよりかは明らかだった。
 そして魔法使いの多くは、人間以上の『力』を有していながら、何故か人道家が多い。
 怒り、協力関係を解消するか、或いは針路の食い違いにより敵対する事になるのか。

「それが……」
「………………」
「今回、あの実験を隠していた事を咎められはしましたが、こちらを悪し様に糾弾してくるようなことはありませんでした。
 いやまあ、近衛翁の声が物凄く怖かったのは確かなんですが……。いやあ、あれが静かに怒るというか、気迫というものなんでしょうかねえ」

 水谷は、ハハハと乾いた笑い声を上げ。

「もちろん、協力関係を解消もありません。彼らもギルステイン症を解決したい、と言う事でしょうか」
(解決……か……)

 野上が再現実験の中で見たギルステイン──あの黒と赤の巨人は今までのものとは違った。
 ともすれば、今まで彼が見てきた魔法使い、その回数は決して多くは無いが、攻撃力で言えば一段も二段も上にあったように思えた。

 なんとなれば、あの時、黒の巨人の突撃は核爆発にも耐えられる筈の中央チェンバーの壁をたった一撃で打ち砕いたのだから。

 だからこそ──

 ──ならば、自分達以上の『力』を持っているかもしれないギルステインを一刻も早く根絶やしにしたいのか。

(仮に、ギルステイン症の問題が解決に至ったとして、私たちは彼らとどう付き合っていくことになる?)

 そんな事を野上は考えてしまう。考えただけで、それを口に出す事は無かったが。

「そう……思いたいものですな……」
「あと……」
「まだ何か?」

 悪い時には悪い事が重なる物なのか。
 水谷に申し訳なく思うが、流石に野上もいい加減辟易した気分になってくる。

「……これはもう私の独断なんですが、防衛体勢[デフコン]をレベルアップしといてください」

 しかし、水谷が最後に告げたのは何とも物々しく、けれど彼の独断というごく個人的な判断の物だった。

「……………」
「どうやら、ここんところ在日米軍の通信量が増大してるそうです。
 明日のお客さん……大勢引き連れていらっしゃると思います……」

 根拠と言えばそれだけなのですが、水谷はそう言って話を締め括った。
 個人の、しかも組織的に伝達されたものではない水谷のその言葉に野上が従う義務は無い。
 逆に従い、そして従ったその事実がばれたなら、部隊の私的運用と言う事で野上は相応の罰を受ける事になるかもしれない。

 だがしかし、野上ははっきりと頷いて見せた。

「分かりました。心して準備しましょう」

 再現実験以前、初めて完全な人間への復元反応が見られた記録を野上がヘレナに見せた時、彼女は己にこう言ってはいなかったか。

『たとえば、FBTで強化した兵士たちの部隊とか……自衛隊“でも”お考えでしょう?』

 ──自衛隊“でも”。

 それは詰まり、自衛隊以外にそう考え、そして恐らく自衛隊以上に明確にその為の動きを見せている組織が在るという事なのだろう。
 ヘレナに告げられたその時は自分や自衛隊に対する皮肉か揶揄かとも野上は思っていたが、今となっては一種の警告だったのかもしれない。
 少なくとも野上には、そう思えた。

「すいません、ホンットに……。防衛庁飛び越すようなマネばかりして………!」

 そして伝えるべき事を全て言い終えた水谷は、先程まで漂わせていた物々しい雰囲気は何処へやら、本当に申し訳なさそうにペコペコと頭を下げたのだった。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆









「これが今のところ、人類唯一の希望よ」
「は?」

 気付けば声を零していた。間抜けな声が耳朶に響く。

 伊織は眼前の女医から告げられた言葉の意味を直ぐには理解できなかった。
 何と言っても、彼女が手に持っているビーカーに入っているのは、先程出したばかりの己の小便なのだから。

「人類の希望って……ぼくの、オシッコが? そんな……」
「まさか流したりしてないでしょうね? 全部この中に採ってきたわね? コップを洗った水もちゃんと入れた?」
「はい、ちゃんと全部言われた通りにしました……!」
「そう、なら良いわ」

 正直、自分の排泄物を美しい女性に目の前でまじまじと見詰められるのは伊織にとって恥ずかしい以外の何物でもない。
 しかも傍らに控えている眼鏡の女性も見ているのだ。自然、頬が赤らんでくる。
 けれど少年の初心な羞恥心など気にも留めず、その異国の女性──ヘレナ・L・マリエッタは視線を伊織へと戻すと先程の言葉を正した。

「正確に言えばこの中のマイクロマシンね、人類の希望は。伊織クンにあらかじめ仕込んでおいたものよ。
 腎臓で尿の中に排出されるマイクロマシンを回収して、あなたの体内で分泌され、そしてあなたを人の姿へと戻すスイッチとなった、“何か”が採取できていれば──」
「──ギルステイン症の薬ができる!?」
「……………………理屈ではね。けれど、そう簡単にはいかないわ」

 じゃあ、これお願いね、とヘレナはビーカーを眼鏡の女性に慎重に手渡すと、ヘレナは椅子の背凭れに身体を預けた。
 そして、伊織に見せるように手を顔の高さに掲げ。

「まずマイクロマシンを回収してもそれを採取できたかどうか──」

 人差し指を立て、

「採取できても分析可能なだけの量なのかどうか──」

 中指も立て。

「──それは結果が出るまではわからない。
 それに復元という現象自体は、確かに珍しいものだったけれど、今まで全く起こらなかった訳ではないの」
「え? それじゃあ……」
「ただし、それは身体のごく一部分だけ。しかも人とギルステインが入り混じった歪な形で、ででしかないわ。
 けれど、伊織クン。君の復元はは明らかに他とは違う。あなたみたいな完全復元には何か他の因子が働いているはずなのよ。
 だから、その“何か”が分かれば……きっと……」
(他の因子……)

 その言葉を聞いて、伊織が真っ先に思い浮かべたのは“声”だった。
 あの時、あなたなら大丈夫だと励まし、そして目覚めよと告げた“少女の”声だった。

 何故か伊織は、つい先日知り合ったばかりの白人の少女、サラの事を脳裏に思い浮かべていた。

(いや、だけど……)

 体内で起こる生化学的な反応を一人の人間が何も使わずに声だけ左右出来る訳が無いと、伊織は心の中で頭を振る。
 そもそもあの声は本当に聞こえたものなのか、今となってはそれすらも疑わしかった。

 ──その最中にもヘレナの言葉は続き。

「人間が怪物に変わるギルステイン症。それが引き起こされるメカニズムはもちろん、それを引き起こすカドケウス・ウィルスの構造もまだ謎だらけ。
 だから今までは、躯殻獣[ギルステイン]化は不可逆的な反応だとそう考えられていた。元に戻せるなんて思ってもいなかったのよ。
 伊織クン、あなたが現れるまでは誰も」
「それは、あなたも……ですか?」
「ええ、そうよ。もちろん、私も」
「それで………………それで薬が作れなかったら………どうするんですか? ぼくはどうなるんですか?」

 声を押し出すように、搾り出すようにそう問い掛けた伊織に、ヘレナは何を当たり前の事を聞くのかとばかりに言ってのけた。

「何度でも挑戦するだけよ」

 そして女性が事も無げに伊織へ告げるのは無慈悲な言葉。

「例え、その結果、あなたをすり潰さなければならなくなったとしても、それでギルステインがなくなるなら私は喜んでそうするでしょう」

 けれど、伊織を見詰めるその瞳に宿る光に決して憎しみではない、しかし怒りと言うには余りに静かな光だった。

「………っ……」

 伊織はただ唾[つばき]を飲み下す。


 ──その瞳の輝きにに微かな希望と心の中に染み渡るかのような仄かな不安を感じながら。





















◆後書き◆

の前に。

※明石 『裕晃[ひろあき]』&『理奈[りな]』
・ざっと読んでも名が無い様に勝手に命名させていただきました。
・それぞれ裕奈から一字ずつ取ってというかなり安直なネーミングですけど。

※水谷 『悟郎[ごろう]』
・勝手に名前付けさせてもらいました。だけど今後、出てくるかな……。



前回、次回は説明回になるかも、とかいいつつ全くもって説明回になっていないと言う。
次回こそ、きっと説明回です。ただこじつけるのに苦労してますけど。後は読み直して不整合を失くしていくだけなんですけれど。

しかし、遂に明石 裕奈という2-A所属の子を出す事が出来ました。
相変わらず主人公のネギじゃないですけど。しかも焦点はその子の父親に当てられてますけど。

いやしかしなんか麻帆良学園の魔法先生で14,5歳の子供持ってる人いないかな~とか探したら、明石教授というピンポイントなお方が居て助かりました。
ネギまって色んなキャラに溢れてるんだな、と再認識させていただきました。
……まあ、おばあさんな方やネギの同年代の少年が小太郎以外に見当たらないとかありますけど(私の記憶違いでなければ)。イギリスの方に描写されてないだけでいるんでしょうが。

ただ明石父子をちゃんと書けているかが不安な所。違和感が無ければよいのですが。




[8616] 三ノ章中編[Elderly=Wish]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/11/15 03:24



 実験によりロスト・ガーデンが崩壊してからも、伊織達は相変わらずセンターに収容されていた。
 実験が行なわれてからの昨日の今日だ。それも当然かもしれない。
 しかし、寝床は職員用の宿舎が宛がわれ、今朝、行なわれた検査も実験の事後処理に追われていた為か、健康診断程度のものだった。
 と言っても、人数が人数だけに終ったのは昼も近くになってから。しかも伊織は一人、ヘレナの問診を受ける羽目になったが。

「ふう……」

 そしてようやっと開放された伊織は寒空の下、外に設けられた仮設テントの配給所から食事を受け取ると伊織はさっさと歩き出し、一人、隅に設けられているテーブルに着いた。
 その途中、全身に感じる視線。けれど、己の視界にある者は決してこちらに顔を向けようとはしない。
 それも当然かもしれない。彼らの目の前でギルステインになり、そして生きて帰ってきたのは伊織ただ一人。
 奇異の、ともすれば恐怖、畏怖の目で見られもしよう。下手に騒がれていないだけ、マシと言えるかも知れない。
 そう言った点で伊織を含め、センターに収容された子供達の腕に巻かれたモニターベルト、そして己らをぐるりと囲む自衛隊員達の存在が子供達の暴走に歯止めを掛けていた。

 伊織はそっと左の二の腕に巻かれたモニターベルトに触れる。
 触れ、改めてモニターベルトをヘレナから渡された時に告げられた言葉を思い出す。

『現時点では、ギルステイン症はあなたの年頃の性徴ホルモンやアドレナリンなどの生体物質が“引き金[トリガー]”になって発現すると考えているわ。
 そのモニターベルトはあなたたちの身体の中にインプラントされたセンサーからのデータの記録を行う物だけれど、同時に不意の発現を抑えるためでもあるの。
 だから常にモニターベルトを着けておいて』

 詰まり、保険だという。興奮状態に陥った際、強制的に鎮静剤を打つのもその為の処置なのだろう。

 けれど──

 結局はそれは保険になる“かもしれない”というものでしかない。
 そしてそれは大人たちの都合で、匙加減でどうにでもなるものであり、そして同時に誰にもどうにも出来ない、ならない。

 ──所詮、その程度のものだった。

(菊池……香奈……)

 事実、菊池はどうにもならなかった。香奈はその匙から零れ落ちた。その二人を……伊織は殺した。
 伊織は沸かぬ食欲にトレイの上の食事に手を付けず俯いていると隣の席に誰かが腰を下ろして来た。

「和彦……」

 それは少年の幼馴染み、今関 和彦だった。結局、彼もここに収容される事になったのだ。
 伊織と同じ格好に身を包んだ彼はしかし、伊織の方へと顔は向けず、手元に視線を下ろしている。
 ただその表情は伊織が今まで見た事の無いほど憔悴した物だった。

「……………大変なことになってたんだな…………」
「……うん」
「ギルステイン症……だってな……」
「…………うん」

 二人は互いに搾り出すように声を、言葉を交わす。

「………帰れねェ……よな………」
「………………うん」
「……ったく! くそったれ……!! っんでお前が……!!」
「菊池の……ことは……?」
「…………聞いた。てか聞いて聞かされた……けど……止めて……やったんだよな……。
 ……あいつを……! 人間のままでいさせてくれたんだよな………!!」

 今関は掻き毟るように頭を抱え、机に突っ伏し呻いた。
 けれど伊織はその問い掛けに応える事は出来なかった。もしかしたらと、ふと考えてしまったから。
 もしかしたら、本当は助けられたのではないかと、そんな事を考えてしまったから。
 けれど同時に仕方なかったとも思う。あの時、あれ以外に方法など自分には無かったのだと。

 菊池の時は、自分が生きる為にも。

 先の実験の時は、自分だけでなく今関だけでなく、あの時、あの場にいた誰も彼もが生きる為にも。

 でなければきっと菊池と香奈の二人は死ぬまで、その爪で牙で目に映る者全てを殺し続けていただろう。
 初めは獣のように、そして終には獣そのものとなって。

 だけれど、伊織は思うのだ。

(だけどもしかしたら本当は……)


 ──助けられたのかもしれない。


 そんな、今となっては何の意味も無い問答をずっと、ずっと繰り返していた。



 遠くから、瓦礫を撤去する作業音、重機の駆動音に紛れて、車の走る音が聞こえて来る──















◇ 魔獣星記ギルま! 三ノ章中編 [Elderly=Wish] ◇















「まるで試されておるようじゃなあ……」

 静寂ではない、沈黙に満たされた会議室で、関東魔法協会の長であり、此処、麻帆良学園の学園長でもある近衛 近右衛門はそう呟いた。
 豊かに蓄えられた白い顎髭を手で梳きながら。

 ──会議室には十数人の魔法使いが集まっていた。

 その顔ぶれは上座に座る近衛 近右衛門を始めとしてタカミチ・T・高畑、葛葉 刀子、神多羅木 重蔵、明石 裕晃等々。
 皆が皆、名立たる魔法の担い手であり、氣の使い手達だった。
 そんな彼らがまだ年が明けて間もない2003年1月5日の今日、彼らが学園長の招集の声に伴い集まったのは他でもない。
 今朝、送られてきた映像を改めて確認する為であり、そして近衛 近右衛門としては出来る限り鎮める為だった。

 ──彼らの怒り、そして不審を。

「試されている、ですか」

 斜向かいに座る明石の反芻に学園長は然りと頷く。

「そうじゃ。“さあ、君たちはこれを知って、これからどう動く?”
 そう問われておるようじゃわい。これの送り主に、の」

 され送り主は誰だろうかと考えた学園長の脳裏に浮かぶのは、どこか人を食ったような笑みを浮かべる一人の少女だった。
 大陸からこの地に学びに訪れた天才のその姿が浮かび上がってくる。

「さて、この名無しの権兵衛くんは、もしかしたらちゃんかもしれんが、何者なのか……と問いたい所じゃがまあ大体、察しは付くの」

 黒人の男がその後を継ぐように口を開いた。

「超 鈴音[チャオ リンシェン]でしょうか? 学園長」
「確証はまあ、何も無いがの。しかし、それはさて置くとしてこの映像を送って一体何がしたかったのじゃろうか」

 そのぼんやりとした問いに答えたのは黒人の男の隣に座っている青年、瀬流彦だった。

「それは……それは自分達にこの事実を教えるため、ではないでしょうか。そして瀧川くんの存在を我々に示す為に」
「かのう……」

 青年の何処か自信無さげなそれに、学園長も何処か眉根を落としながら同意する。

 ──しかし、イマイチ納得する事が出来ない。

 確かにこの映像が無ければ、現時点で彼──瀧川 伊織の存在を、そしてギルステイン化が不可逆的な反応ではないという事実を学園長達が知る事はなかっただろう。
 あちらから伝えられるまで、或いは最悪、知る事の無いままだったかもしれない。
 だがしかし、目的が本当にそれだけなのかと考えてしまう。

「それで学園長、どうするおつもりですか?」
「高畑くん、我らは魔法使いを名乗る者。なれば成すべき事は決まっておろう」

 静かに、けれど意思を込めながら問い掛けてきた青年に老爺は告げる。

 ──魔法使いは、否、少なくとも此処にいる者達は皆、世の為、人の為に己が持つその『力』を使うと心に決めた者達なのだ。

 学園長がそう応えたのは当然だった。そして、その思いはここに集まっている者達とて変わりはない。

 ないのだが──

「じゃがわしらはそうである事に……『魔法の秘匿』に拘り過ぎた、のじゃろうのう……」

 その言葉を、誰も否定できなかった。幾人かが思わず、と言った態で開き掛け、けれど結局その口から何か発せられる事は無く。
 皆が皆、その枠の中で出来る限りの事をしてきた。
 しかし、その枠を打ち壊そうとする者が誰もいなかったのもまた確かだったのだから。

「だからこそ、あの子にあのような業を背負わせてしもうたと思えてならんのじゃ。
 今さらにも程があるがの……。とにかく魔法の秘匿に関しては本国の方に掛け合ってみようと思っておる。
 それに気を取られ過ぎては、これからも後手に回ってしまうような気がしてならん」

 老人は息を継ぐように一息吐き。

「まあ、そうは言ってもまずは日本じゃ。
 政府の方は兎も角として、東と西……何時までも別れていたままでは終わるものも終わらんじゃろうて」
「………しかし、それは出来るのでしょうか?」

 そんな疑問を呈して来たのは葛葉 刀子だった。
 彼女は元々、西に存在する京都神明流、そして関西呪術協会の下でその剣を振るっていた経緯を持つ。
 その為、身を持って西の者が東の者へと向ける負の感情を知っているのだろう。

「ふむ……」

 ──派閥を超えた、そして過去の遺恨を乗り越えた協力。

 陳腐な言葉ではあるが、一丸となって事に当たる体制が、もっと深く交わる必要が今はあると学園長は考えていた。

 ──それは分かっている、しかし手段を選ばなかった彼等を信用出来ない。

 己と向かい合う部下達のその表情はそう告げるかのようだった。
 確かにその懸念は老爺にも理解出来た。協力し、情報を齎し、そして結果として自分達の『力』を少しでも利用できるようになった時、彼らは何某かの利の為に更なる悲劇を生み出すのではないか。
 そんな懸念が学園長の脳裏に浮ぶのも確かだった。その利の為の悲劇が今回の実験なのだから。
 今回は偶然、その悲劇の中にも希望を見い出す事が出来た。犠牲を未来に繋げる事は出来たと思っていいのだろう。
 しかしそれは奇蹟にも等しい。次も上手くいくかどうか。それは分からない。

 ──だから足りないのは、此方と彼方[あちら]の溝を埋め一歩を踏み出す拠り所となる“何か”。

 学園長には、そう思えてならなかった。

 その“何か”を示す事が出来なければ、どんなに学園長が諭したとしても彼らの内に凝[しこ]り、蟠[わだかま]りの類は残ったままだろう。
 最悪、そのままで今後も協力していかなければならないだろうが、互いに疑心暗鬼のままでこの事態を打開出来るとも思えない。
 何より学園長自身も、その“何か”が欲しかった、見出したかった。
 彼とて部下と同じなのだ。あの実験を何も思っていない訳ではない。

 そして関西呪術協会との確執もまた無視出来ない。元々、関東魔法協会、つまり魔法使いは余所の土地から日本に入ってきた経緯を持つ。
 その当時の彼らからすれば縄張りを奪い取られたようなものだろう。その時の恨み辛みが長年積み重なり、結果として今、互いに歩み寄る事を容易には許さないまでに至ってしまった。

 今、協会を預かる身の近衛 近右衛門としては当時の長にもっと上手くやれなかったのかと愚痴を零したくもなる。

(まあ、関西の方は良い。まだ時期ではない。これ以上の悪化を防げれば今はそれでよい……)

 そう、今はまだ西の方の問題を手に付けるのは時期ではない。
 あれもこれもと欲張り慌てて、どちらもこけては笑い話にもならない。

 兎に角、今は──

 学園長は一人の魔法使いへと顔を向けた。

「でのう、明石くん。ギルステイン症に関する会議が明日行なわれる予定なのは知っておるな?」
「はい」
「さっき、会議が始まる前に届いた報なのじゃが、それが今夜に前倒しにされてのう」
「それは……また何故でしょう?」

 その言葉に明石を始め、学者肌の幾人かが首を傾げた。
 このタイミングで行なわれるなら、今回の実験の結果も報告される筈だ。
 しかし、それが今夜となると時間的に早すぎる。一日も空けずに纏め、考察できるものだろうかと、彼らはそう考えていた。

 その疑問に老爺が応えた。

「どうやらアメリカさんが動いておるようでの。その関係で前倒しされたそうじゃ。
 まあ、邪魔されん今の内に流せるものは流しておこうという思惑じゃろうて。
 ……で本題なんじゃがの、その会議に出てくれんかな、明石君」
「…………」

 けれど明石は口篭った。学園長はその長く豊かに蓄えられた白眉を片方だけ上げ。

「どうしたかね?」
「僕には……僕は相応しくないように思います」
「…………ふむ」

 老爺は微かに息を零し。

「何故、そう思うのかね?」

 束の間、躊躇い、しかし瞑目し気を落ち着かせるように明石は一度、息を深く吸い吐き出すとゆっくりと言葉を紡いだ。

「僕は……あの映像を見た時、確かに子供たちを意図的に変えた彼等に憤りました。
 けれど同時に、確かな安堵も感じてしまいました……」
「安堵と、な?」

 明石は学園長の視線から逃れるように僅かに顔を俯かせ。

「あそこに……あそこに娘が居なくて本当に良かったとッ。
 そして、もしかしたら…………これであの子がギルステインと成る事を防げるかもしれない、成ったとしてももしかしたら死なずに済むのではないか……そんな風に思いました………」
「…………」
「僕は……心の底から怒ることができませんでした……」

 そして明石は息をゆっくり吐き出すと口を噤んだ。
 学園長も、そしてその場に居合わせた誰も何も言わなかった。
 静寂が部屋を包む。

「だからこそ……」

 学園長が身動ぎ、その拍子に椅子が微かに鳴った。

「だからこそ、わしは君に行って欲しいのじゃよ。
 君が14歳の子を持つ親だからこそ、わしは任せようと思う。
 君に酷な事を求めておるのは理解しておるつもりじゃ。
 だがもう一度、言おう。………出てはくれぬか?」

 近衛 近右衛門にも孫がいる。今年で15歳になる可愛らしい少女だ。
 つまり明石の娘と同じように、現在、ギルステインになってしまう時期にある。
 そして何よりも彼女は、魔法は知らずとも世界最高峰の魔力量を擁する身。
 それがギルステインとどう関わってくるのか。他の子よりも変わりやすいのか変わりにくいのか、それとも全く関係しないのか。

 それは、老爺にも誰にも分からない。

 分からないからこそ、学園長たる近衛 近右衛門もまた、長であるが故に誰にも告げられない危惧を胸中に抱えていた。

 ギルステインに関わる事が何も分かっていないに等しい今。
 今日は無事でも明日も無事である保障など何処にも無い。
 この地にいる子供達がギルステインにならない保障など何処にも無い。
 そしてこの地で未だ完全なギルステイン症患者が出ていないのはただの幸運でしかない。

 ともすれば再現実験の時のように状況によっては、もしかしたならそんな状況でなくても一斉に躯殻獣化してしまう可能性すら有り得る。

 ギルステイン症の引き金が実際の所、何であるかなど誰にも分かっていないのだから。
 そしてそれを止める術は“彼方[あちら]”にも“此方[こちら]”にも無い。

(これは……もう一度、真祖殿に話を聞いてみる必要があるかも知れんな……)

 真祖──それはこの地に一人の英雄によって封じられた、一体の吸血鬼の真祖。
 光を拒んだ夜の、不死の王でありながら、光溢れる昼の世界を渡り歩く事の出来るデイ・ウォーカー。
 恐らく、闇に身を置く彼女だからこそ、光から闇を対峙する己よりも闇を深く知っているに違いない。

 問題は、彼女が聞いて素直に答えてくれるかどうか。それが学園長にも頭の痛い所だった。

 そして学園長は押し黙ったままの明石へと意識を戻し。

「やはり……己には資格無しと思うかの?」

 技能的な、知識的な事を言えば必ずしも明石である必要はない。
 そんな事は学園長とて分かっている。
 しかし同時に学園長には、彼ほど適任の者はいないように思えるのだ。
 同時に最も危ういのも彼であるようにも思うのだが。

 そして──

 数瞬の沈黙、葛藤の後。

 ──明石は肺に溜まった息を静かに吐き出した。

「………謹んで承らせて頂きます」

 そして、明石は迷いを振り払うようにしっかりと学園長と視線を交じらせ、深々と頭を下げたのだった。

「ありがとう、明石くん」

 学園長は明石から前へと顔を向け。

「ではこれにて今日は解散しよう。明石くんが持って帰ったものを考える為にまた集まってもらうことになるじゃろうが、詳しい日時はおって伝えるものとする
 ああ、明石くんは今夜のあちらで行なわれる会議の詳しい話をしたいから後で部屋まで来てくれのう」

 学園長のその言葉に魔法使い、気の使い手たちは了承の返事を返すと会議室は雑音に満たされ始めた。
 今回の急の集会はこれで一先ずの終わりとなる。
 しかし、学園長は唯一人、腰を上げず。

(さて、どうなることか……)

 ──ギルステインの全容は未だ見えていない。

 近衛 近右衛門には、そう思えてならなかった。暗中模索にも等しい今のこの状況、見えているものなどほんの一端だろうと、そう思えてならない。
 だからこそ今、問われているのは己らの心なのだと、今とどう向き合っていくかなのだと、人よりも少し長く生きた老爺には思えるのだった。















◆後書き◆

長くなったので、ついでに場面転換が多かったので一旦区切らせてもらいました。
良かったら後編へどうぞ。

しかし、悩んだな~。不自然じゃなければいいのですが。



[8616] 三ノ章後編[Girl=Gratitude]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2009/11/15 03:33



 満天の星が地上を仄かに照らし、森の奏でる葉音が静寂の中に響く頃。



 ふと目が覚めた。

 ──まるで誰かに呼ばれたかのように。

 伊織は目を覚ました。
 ベッドから身を起こした伊織は、ドアの方へと顔を向け首を傾げた。

(なんだ……?)

 誰かに呼ばれたような気がしたのだが、気のせいだったのだろうか。
 暗闇に慣れた目でもう一度、部屋を見渡すがやはり誰もいない。いた名残も気配もない。
 不気味よりも不思議に首を傾げながら伊織は再び横になるもやはり、何故だか呼ばれたような気がした。
 だから伊織は何となく部屋を出て、何となく階段を上がり、そして何となく屋上に続く扉を開け。

 そこには月夜にあって尚、肌の白きが分かる白人の少女──サラが夜空を満たす星々を見上げていた。

 扉の音に気付いてか、少女は振り返った。伊織を見るとにっこりと親しげな笑みを向け。

「今晩は。伊織クン」
「サラ……」

 サラは直ぐに顔をまた夜空へと戻す。
 その横顔は夜空に浮かぶ星々に見蕩れている、というよりも郷愁を思わせるような切なげな眼差しだった。
 伊織はその表情、眼差しに自分が近寄っても良いものかと迷うも、

「見て、伊織クン! きれいな星……、触れれば掴み取れそうなくらい……」

 結局、サラに再度声を掛けられた事で屋上に足を踏み入れた。
 サラはその細く白い手をまるで星を掴み取ろうとするかのように天へと伸ばす。
 そんな彼女の傍らに歩み寄った伊織も釣られて夜空を見上げた。

「伊織クン、私ね、ずうっと昔、あそこにいたような気がするの……」

 不思議な事を言うな、と少年は思った。

「君はいつもこうしてるの?」
「時々、ないしょでね………。建物の外に出してもらえないから。特に今夜みたいな眠れない夜は………」

 その時、ふらりとサラの身体が揺れた。

「サラ!?」

 慌てて伊織が支える。少女の息が何処か荒い事に気が付いた。
 顔色は夜の所為で良く分からなかったが、その表情は少し苦しそうだった。
 伊織が少女の額に手を当て。

「熱があるじゃないか! 戻らなきゃ!!」
「もう少し……もう少しいさせて……」
「だけど……」
「伊織クン」

 サラは伊織の言葉を遮るように名を呼んだ。

「…………………ありがとう、伊織クン……。香奈を、助けてくれ」
「え………」
「香奈を優しい香奈に戻してくれて………生命[いのち]の輪の中に戻してくれて……」

 それはあの時、怪物へと変貌した香奈に殺されるその間際に聞こえて来た声、言葉、そして願いだった。
 夢ではなかった、空耳でもなかったのだ。あの時に聞こえたあの声は、そしてあの場に現れた少女の姿は。

「サラ……!! ……………君は………!!」

 ──一体、何者なんだ。

 けれど少女は答えず答えられず、ただただ困ったように微笑むだけだった。















◇ 魔獣星記ギルま! 三ノ章後編 [Girl=Gratitude] ◇















 夜、青少年保護センター、中央チェンバーの廊下を一人の女性が靴をカッカッと鳴らしながら歩いて行く。
 腕に分厚い紙束を抱えた彼女──ヘレナ・L・マリエッタが目指すのは円い会議場。
 そこに続く扉が見えてくる。そして開け放たれた先に広がった光景の中央に鎮座していたのは、十人以上が座れるほどの大きさのドーナツ状の円卓、その周りの壁には巨大なディスプレイが設けられている。

 そんな場所に、今は多くの人が集っていた。政府の上層に食い込んでいる役人、自衛隊の幹部、或いは高名な研究者などなど。
 彼女が入ってくるや否や、彼らは雑談を止め、揃って此方へと視線を向けてきた。
 しかし、それに怯む事も無く、ヘレナは視線を悟られぬように巡らせた。

(分からないわね……)

 探し人は、この会議に参加しているという魔法使いだった。しかし一見、それらしき者は見当たらない。
 皆が皆、スーツを着ているか、白衣を羽織っているか。
 そもそもヘレナは来るとしか知らず、顔や名前も知らないのだが。
 まあ、分からないのなら仕方ないとヘレナは野上の隣に宛がわれた席に座った。
 彼女が椅子に着くと、ヘレナとは円卓の反対側に着いていた水谷が腰を上げた。

「え~、では始めさせていただきます。今回、進行役の座長を勤めさせていただく水谷です。皆さん、宜しくお願いします」

 水谷は頭を下げた後、ヘレナへと手を差し向けた。

「紹介いたします。アメリカ海軍カドケウス研究センターからおいでいただいております、ヘレナ・L・マリエッタ博士です。その前にマリエッタ博士」
「ヘレナでかまいませんわ」
「では、お言葉に甘えさせていただきまして、ヘレナ博士、今回、我々の招きに応じていただき御礼申し上げます。――ですが、このことでお国での立場を危ういものにしたのではないでしょうか」

 しかし、その言葉にヘレナは持ってきた資料の束を机に置きながら、いいえ、と否定した。

「私にとってはむしろ好都合でした。日本に来て直ぐに希望を見い出すことも出来ましたし、個人的な立場はこの際問題になりません」
「そういっていただければ幸いです。そしてもう一人、紹介させていただきます」

 その言葉に己の手元に視線を落としていたヘレナも顔を上げた。
 そして水谷が示す方へと視線を向け。

「今回、“関東魔法協会”からお越し頂きました、明石 裕晃氏です」

 その紹介と同時に、スーツに身を包み、細眼鏡を掛けた優男が人好きのする柔和な笑みを浮かべ、頭を軽く下げていた。

「はじめまして、今日はよろしくお願いしいます」

 その言葉に場がざわめいた。

 ──まさか本当にいたのか、本当に来たのか。

 それは実際に魔法使いと呼ばれる者と会うのは初めての者達のそんな思いに満ちた響[どよ]めきだった。
 率直に言えば、彼らは魔法使いと呼ばれる者の存在を余り信じてはいなかった。
 存在すると言われ、それを肯定する様々な情報が示されたが、そのどれもが紙面越しであり画面越しであり人伝てだった。
 だから、彼らは何処かで魔法使いという存在を疑っていた。

 ──しかも見れば、その背格好はごく普通ではないか。

 だからこそ、場はざわめいたのだ。

「ふん」

 そんな中で白衣を羽織った気難しそうな老人が胡散臭げに口を開いた。

「そのまほうつかいとやらが科学なんぞ分かるのかね?」

 分子生物学の権威たる吾妻 健作[あづま けんさく]、その人である。

「吾妻博士……え~、吾妻博士は麻帆良学園をご存知でしょうか?」
「知っておるわ、そもそも麻帆良学園は筑波の学園都市に優るとも劣らぬ場所だ。まさかそこが……──」

 ──魔法使いどもの巣窟だったとは。

 そう言い掛ける吾妻を遮るように、水谷は声を割り込ませた。

「あっ、吾妻博士ッ! え~……明石氏はその学園に存在する麻帆良大学で教授を勤めておりまして、ギルステイン症の解析にも携わっております。
 決して研究者として後れを取るものではないと。それにそれを言ってしまっては私などもはなはだ部外者というか門外漢ですので。
 今回の全体会議はギルステイン症をより理解するという意味もありますことを承知していただければ幸いなのですが……」

 門外漢という意味では水谷を始めとした役所勤めの者、野上といった自衛隊に属している者達も同様だろう。
 しかし漠然としたイメージだけでは、適切な対処が出来なくなる可能性が大きくなる。
 この会議は情報の共有し、そして意見を出し合う事を目的としたものである。と同時に学者でない者達の理解を深める為でもあるのだ。

「ふん」

 しぶしぶと言った態ながらも老博士が矛先を納めてくれた事に水谷は安堵の息を微かに零しつつ、明石へと顔を向けた。

「明石教授、もし宜しければお答えをいただきたいのですが協会の方は当初、この全体会議の参加に難色を示しておられましたが、何故、急遽出てくださる事にしたのでしょうか」
「そう、ですね……」

 明石は場が落ち着くのを待つように、一呼吸を置き。

「理由としては……色々とあります。が、我々が今回の参加に踏み切ったのはギルステインに対して認識を改めたということが大きいとお考えください」
「認識を改めた、ですか?」

 明石はええ、と頷き。

「そしてギルステイン症の解決の為には皆さんとの協力が必要不可欠……と考えたからです。
 その為、今回の全体会議は丁度良い物だったと考えています」

 水谷が何かを堪えるように声を少しばかり震わせながら明石へと尋ねた。

「それは……明石教授の私見、でしょうか?」
「関東魔法協会のものと捉えてくださって結構です」
「そう、ですか……」

 水谷は一瞬、呆けたように沈黙する。
 そんな青年の姿を見て、ヘレナはそういえば、と思い出す。

(魔法使いとのより密接な協力関係を彼は望んでいたわね。今の言葉が嬉しかったのかしら)

 しかし、すぐにはっと我に返った彼はヘレナへと顔を向け。

「あ……では、博士から現状のまとめをお願いできますか。その、ここで見い出された希望、までの流れを」
「分かりました」

 そして話を向けられたヘレナは立ち上がり、滔々と語り始める。

 ──己が考えるギルステインというものを。

「2年ほど前から日本で起こるようになった人間が怪物化する奇病、FBT症候群――これは私たちがアメリカで研究していたギルステイン症と同一のものであると確認できました。
 ギルステイン症は外皮の珪酸質化、および、突発的な体格、体重の増大を特徴とし、末期には精神活動を冒され、粗暴化して自己破壊に至る死の病、というのは皆さんすでに承知しておられるかと思います」

 幾人かが相槌を打った。

「個人的な発病も災難だが、患者が怪物化する──その事実の方が社会に与える衝撃も問題も大きい」

 役人の一人が呟いたそれに水谷が呻くように言葉を続けた。

「ですが、すでに情報は漏れはじめています。『サナギ狩り』など一部暴徒化する集団まで現れているんです」
「それもまた由々しき問題だが……しかし何故、そのように漏れたのか。
 規制が完璧に行なえていた、などと戯言を言うつもりはないが、仮に目撃者がいたとして……14,5歳の子供と問題の怪物を結び付けられるものか?」
「有り得ないからこそ、誰かが面白おかしく作り出した噂話がいつしか実しやかに言われるようになってしまったか。
 あるいは何者かが、敢えてそれとなくぼかしながら漏らしたか。
 水谷くん、そちらはどうなのかね?」

 水谷の所属は内務調査室である。複数の班が存在し、その中では情報漏洩があったかどうか、あったならその源を探っている班もあった。

「今の所、私たちの方では政府の方から漏れたとは考えにくいとしか。
 目星を付けていた人も白か、灰に近い白しかいないと……」

 目星を付けた、といっても大分、こじ付けなところがあったのも否めないのだが。
 思わず唸る声が円卓の所々から発せられる。その時、老博士がにヘレナへと口を開いた。

「一つ良いかね?」
「なんでしょうか」
「ギルステイン症はある種の感染症だそうだが………まさか、おたくの研究所から漏れ出したのではないでしょうな?」

 唐突な、ある意味、言いがかりともとれるかのようなそれに声が一斉に途絶えた。
 水谷ははらはらとヘレナと吾妻を交互に見遣り。
 しかし、ヘレナはその疑心に憤るでもなく静かに応えた。

「それは、半分だけ正しいと言えます。
 ギルステイン症が最初に確認されたのは1985年、米ソ対立の冷戦体制化で北極圏に造られた秘密基地でのことです」
「じゅ……18年前!?」

 水谷の悲鳴のような言葉に、ヘレナはええ、そうですと頷き返し。

「この時は18名が発症、基地要員300名中287名が死亡――以来、米海軍主導の下、アメリカではカドケウス研究センターのP・5施設、すなわち生物学的防護レベルが最も高い施設でこの奇病の研究は続けられて来ました。
 しかも病原体の発見、同定は3年前に宇田島博士によって成し得たばかりです。そして、病原体はその永久氷床の中に眠っていたのです。
 そこで問題となるのが、基地建設の為に削り出した氷は融かしてそのまま北極海に排水されていたことにあるのです。
 ウィルスは海流に乗り、海を媒介として世界中に広がっていったと考えられます。
 どのようなプロセスを経て拡散していったかの詳細は疫学調査の結果を待たねばなりませんが、事実、私たちはこの18年の間に世界中でギルステインの発生を確認しています」
「………フン! 結局アメリカが撒き散らしたんじゃないか! 迷惑な話だ!」

 ぼやく吾妻を諭すように、ヘレナの隣に座っていた野上が口を開いた。

「今さらそれを言っても始まりますまい。問題は何を成すべきかです」
「…………」

 ちらりとヘレナは己の隣の席に腕を組んで瞑目する男を一瞥した。
 彼女からすればまさか隣の男から、擁護するかのような発言が出るとは思わなかった、というのが正直な所だった。

 その時、壁に設けられていたディスプレイ越しに会議に参加していた一人が口を開いた。

『――あの、よろしいですか、ドクター・ヘレナ。南里研究所の望月です。
 18年前から研究を続けられ病原体の同定に15年もかかったとのことですが、実際にはどのような病原体なのですか?
 また、治療法の見通しについてもお聞きしたのですが』
「……わかりました。ギルステイン症の病原体――私たちはこれをカドケウス・ウィルスと呼んではいますが、ですが病原体という言葉は正確ではありません。
 そして、virusという言葉も同じです。そんな生易しいモノではありません」

 そして、ヘレナは湿らすかのように舌で唇を舐め。

「おそらくは、地球上の生物ですらないのです。タンパク質やアミノ基でもない未知の構造成分。
 X線による構造解析図ではフラクタル・パターンが表れていました。
 そして一瞬にして宿主の体格、体重を増大させるメカニズム。つまり、ウィルスレベルの存在が、ゼロからの物質生成を成し遂げている!
 ………ウィルスと言うならばまだ、3次元以上の超次元構造を持ったハイパー・ナノマシンとでも言ったほうが相応しいかもしれません」

 それに慌てたのは水谷達、政府の役人だった。

「ちょ、ちょっと待ってください博士! いくらなんでもそんなSFみたいな話が……」

 しかしそれに真っ先に賛同したのは、幾度と無く対ギルステイン戦で陣頭指揮を執り、そして自身も対峙した事のある野上であった。

「信じられんでしょうな。実際にギルステインを目の当たりにしなければ。
 あんなものをもたらすものがこの地球の生き物とは到底、思えない」
(そう……まったく彼らはこの地球の生物と似てない……)

 けれど、彼らに似ている者はいる。

 ──それが“鬼”や“悪魔”と呼ばれる者達。

 そしてヘレナは明石へとそれとなく一瞥をくれた。
 その彼らに対抗する“彼ら”もまた、彼女からすればギルステインに近しい存在のように思えた。
 だからこそ、ヘレンの脳裏にふっと浮かび上がったものがあったのだ。

「これはまだ仮説、いえ思い付きの域すら出たものではないのですが……ともすればカドケウス・ウィルスとは我々の精神体をエネルギー、あるいは物質と同じように実在として認識出来る存在なのかもしれません」

 何よりもギルステイン症の特徴として挙げられた外皮の珪酸質化、体格、体重の増大を成す為のエネルギー、原動力が何処から来るのか、ヘレナは不思議でならなかった。
 少なくとも現代科学のロジック、原理、理論はそれに言及できるその域にはなかった。
 しかし聞けば、魔法使いや気の使い手は『魔力』や『氣』を使い、鬼や悪魔も『魔力』や『氣』を、或いはそれに酷似したエネルギーを使うのだという。
 そして魔法使いは『精霊』という存在を介して『魔法』を引き起こす。

 その様は然も無から有の事象を引き起こしているかのようだった。

 ──現代の科学では明確に区別できないエネルギー、それが何がしか関与しているのではないか。

 しかしそれを一人の老人が鼻で笑った。

「精神体を認識するだと? そんな事がありえるのかね?
 そも、我々の感情は所詮、外的な、或いは内的な刺激に対して発生した電気信号が脳神経を行き交った結果生じたものに過ぎん。
 そんなものを在るものとして認識できる次元などあるのかどうか。
 そもそも、仮定を前提として更なる仮定を上げるとは最早、妄想でしかないとおもうがな。
 それとも何かね、その魔法使いやら氣の使い手とやらはカドケウス・ウィルスを使っているとでも言うのかね」

 言葉の端々に嘲笑う響きを含ませながら、老博士は告げる。

 しかし――

「………それは面白いですね」
「なんだと」

 その皮肉を肯定する声があった。
 思わず老人がその声の主を見て、しかし顔を顰めた。
 その視線の先に居たのは明石 裕晃――魔法使い。

「面白いとは一体、君は何が言いたいんのかね? ん?」

 いえ、大したことはありませんが、と魔法使いの男はそう前置きをし。

「単純に面白いと思ったもので。そういった見方も確かにあると思います。
 それにそういったものがあると知らなければ、魔法や氣も無から有を生み出しているようにも見えませんか?
 そして現代科学ではまだそういったものの観測は出来ない。技術や理論も同様に確立されていない。
 ならば仮にギルステイン、正確にはカドケウス・ウィルスがそういったものを使っているとしたなら、恐らくは見逃しただろうと思うのです。
 それにいつどこで現れるとも分からない彼らからそういったものを見出そうとするのは難しいでしょうし」

 ますます訳が分からなくなる。

「だ………──だとすれば博士! 治療方法は!?」
「ワクチンとか薬とか……」

 慌てたのは水谷達、政府の役人だった。
 何せ病原体、所謂細菌・ウィルスの類だと思っていたものが、もしかしたならそれ以上の存在で在る事が示唆され始めたのだから。

 ヘレナは明石の言葉を踏まえるように頤に微かに折り曲げた手を当て、考え込むように暫し沈黙した。

「……おそらく、ギルステインに従来の生化学的な対策は通用しないでしょう。
 病原体の発見に15年もかかったのも、従来の生化学的な検査が通用しなかったからです。
 ……ですが、希望はあります。私が日本に来たその日に一人の少年と出会いました」

 ヘレナはある少年の顔写真の貼られた一枚の書類に目を落とした。

「検体[サンプル]ナンバー26、瀧川伊織。彼もすでにギルステイン症を発症してはいました。
 ですが、彼は、彼自身ともう一人のギルステインを人間の姿に復元させたのです。この現象は昨日の再現実験でも確認されました」

 その言葉に、事情を知らぬ者達が一斉に色めき立った。

 しかし――

 そのざわめきを押さえ込むかのように明石が静かに口を開いた。

「ヘレナ博士、一つ、お聞きしたい事があります」

 ヘレナは明石へ眼差しを向ける。そして彼女が見た明石は余りに冷静だった。
 ギルステインが人に戻れるという事実に浮かれた熱など、その瞳には一欠けらも見られない。

「………なんでしょうか、明石教授?」
「その再現実験、恐らくはただギルステイン症に罹ったに過ぎない子供達を使った人体実験を何故、あなた方は行なったのでしょうか?」

 その声は静かに会議場に染み込んで行った。



 ──それは明石 弘晃にとってどうしても問わねばならない事だった。






◇ ◆ ◇ ◆






 ──何故、行なったのか。

 そう問うて帰ってきたヘレナの答えは一つだけだった。
 後にも先にも、これだけで十分だと言うかのように、彼女は屹然と言い放った。

「必要だったからです、明石教授。ギルステイン症を解明し、ギルステイン症のこれ以上の発生を防ぐ為には。だから、行ないました」

 言葉も少なく告げられたそれに明石は憤るでもなく、机の上に置いた手を組み合わせ、ただただ静かに聴いていた。
 その答えは明石達が予想していたものではあったが、実際に聞くとやはりその衝撃は大きかった。

 ──何故、彼女はそう思えるのか。

 そんな事すら考えてしまう。
 そんな明石に今度はヘレナが問い掛ける。

「それで、この事を知ってあなた方、“魔法使い”はどうするおつもりでしょうか?」
「……………………率直な心境を語るのならば、我々はあなたに怒りを抱いています」
「………」

 その言葉にもヘレナは表情を動かさなかった。

「けれど………このままでは、ギルステイン症は最悪の事態を招くかもしれない。
 その時、その中心にはきっと子供達がいる。ならば……」

 搾り出すように言葉を紡いでいた明石は一端、言葉を切り。

「我々が成すべきなのはギルステイン症の克服、なのでしょう。
 そしてそれは我々だけで成し得るには膨大な時間が掛かる事は目に見えています。
 だからこそ……」
「我々に協力しようと?」

 水谷の言葉に明石は眉間に皺を寄せながらも頷いた。
 ある言葉を思い出しながら。

(“隠者”に世の罪は問えない、か……)

 それは今日の昼、集った会議場にて静かに猛る高畑や葛葉を学園長が鎮めた時の言葉だった。

(確かに僕たちは隠者だ……。人の目を怖れて世間から隠れた、けれど世の中から自らを阻む事も出来なかった……)

 己らが力を持っている事を知られる事を怖れて、しかし捨てる事も世間を捨てる事も出来ず、それを隠して社会の中に溶け込んで生きている。
 己の娘にすら、己の力を明かせない己。自分の娘ならば、きっと笑って受け入れてくれるだろうとは思う。
 しかし、もしかしたら、とも思う。そんな一抹の不安が彼を躊躇わせていた。

 ──それが何を今更、大きな顔をして他人の、誰かの罪を問おうと言うのか。

 権利はあるだろう。けれど権利は常に資格が問われる。資格が無ければ、権利など有って無いに等しい。
 資格も無しに権利を行使しようとすれば、それは歪んだ結末しか齎さない。

 そして自分達にはその資格が無い。そう、明石には思えてならなかった。

 明石の言葉が終わり、知らず止められていた息を吐き出す音が場に響いた。
 その息に紛れ込ませるかのようにヘレナは口を開いた。

「──実は18年前、ギルステインやカドケウス・ウィルスよりも先に発見されたものがあります。
 もし、ギルステインやカドケウス・ウィルスが活動を停止していたならばきっとそれこそが世間を騒がせていたでしょう」

 水谷が首を傾げるようにしながらも口を開いた。

「はあ、一体それは?」
「それは14万8千年前の永久氷床の中に眠る一人の少女でした」
「……少女っていうとその、女の子、ですか……?」

 しかし、その内容は唐突だった。明石は思わず眉を顰め、ヘレナは鸚鵡返しに呟く水谷に無言で頷いた。

「そしてカドケウス・ウィルスの第一発見者である宇田島博士はその少女の解析の為に招かれ、そこで一体の悪魔と出会いました……──」
「は、悪魔?」
「──……そしてその悪魔から、『ギルステイン』と『ギルステイエンヌ・クイーン』という言葉を告げられたそうです」

 沈黙が場に落ちた。ヘレナが告げたその言葉を計りかねる、或いは捕らえかねると言った雰囲気だった。
 座長、つまりこの会議の視界進行役である水谷がおずおずと口を開いた。

「では現在、我々が使っている『ギルステイン』という言葉は宇田島博士が考えたものではない、と?」
「そうです」
「悪魔が齎したものである、と?」
「そうです」
「馬鹿な……!!」

 その問答に耐え切れなかったのか、老博士が悪態を吐こうとしたその瞬間、明石は唸るように声を吐き出した。

 ──ギルステイン。

 それは魔法使いにとって、古文書に極稀に出てくる不可解な言葉だった。
 鬼や悪魔のように描かれながら、鬼の別称でも、悪魔の蔑称でもないそれ。
 長い間、それの指す意味が分からなかった。そして今も分かっていない。
 だからこそ、ギルステインという言葉は魔法使いの誰かが宇田島博士なる人物に零したものだと明石はそう勝手に考えていた。

 ──その誰かがまさか、悪魔だったとは!

 顔色を変えた明石へ、ヘレナは視線を向けた。

「当初、それを聞いたものはジョークの類と思って笑ったそうですが、恐らく本当に悪魔から齎された言葉なのでしょう」
「ヘレナ博士、宇田島博士はその悪魔の名を何と言っていましたか?」

 ヘレナは首を横に振り。

「いえ……流石にそこまでは。名を告げられたはしたらしいのですが、忘れてしまったとか……」
「では、彼もその名の由来を知らない?」
「と聞いています。そもそもその悪魔が告げた『ギルステイン』という言葉が現在、我々が『ギルステイン』と呼んでいる物に向けられていた物なのかどうかは分かりません。宇田島博士がそう呼び始めたのですから。
 しかし、氷の少女は違います。その少女を指差し、確かにその悪魔はその二つの名を告げたとそうはっきりと仰っていました」
「…………」

 その場に居た誰もが、明石またその意味を図り損ね、押し黙る。

「──まだ推測の息を出ませんが、カドケウス・ウィルスあるいはギルステインは彼女を守るための防衛システムなのかもしれません」
「防衛……システム?」

 意味が分からないと誰かが言葉を零した。それは明石も同様だった。

(彼女は一体、何を知っているというんだ?)

 何故、そう思ったのか──彼女にそう思わせる何か、自分達の知らない彼女だけがは知っている何かがあるのではないか。
 それを見極めようと、明石はヘレナを見遣った。

「ここには私が日本に連れて来たサラと名付けられた少女がいます……」

 そしてヘレナは手元の端末を操作し、途端、壁のディスプレイに一人の少女の顔写真が映し出された。
 それは微かな笑みを浮かべる可愛らしい白人の少女だった。

 その画像を背にして淡々と言葉を紡がれるヘレナの言葉。

「──……彼女は氷の少女のクローンなのです」

 そんな馬鹿な、と明石は唇と舌を動かした。しかし、掠れた息は声にはならなかった。

「クローン………」

 皆が皆、壁に映し出された少女を一様に見上げる。その中の誰かの呟きが静寂の中に良く響いた。

 確かにクローン技術はある程度、組み立てられている。しかし、人間のクローンが既に生み出されているとは。
 そしてそれが何を意味するのか、明石には図り切れない。
 しかしその言葉を聞いた瞬間、己の背筋には冷たいものが奔ったのを明石はざわめく意識の中で確かに自覚するのだった。









◇ 三ノ章 了 ◇









◆後書き◆

の前に、

※吾妻 『健作』
勝手に名前を付けさせていただきました。


今回はカドケウス・ウィルスの関連付けな回。
しかし、魔法使い云々は使いどころが難しいなと。

恐らくは次の章で第一部は終わりかな?
きっといくつかに分かれるかと思いますが!

あと少し、あと少しでネギくんだ。頑張ろう。



[8616] 四ノ章前編[Gold=Evil]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/03/24 17:03



 ──青少年保護センター。

 其処は奥秩父に根付く森の奥深くにある、日本の最先端技術の粋を集め、ギルステイン症治療研究が昼夜問わず行なわれていた場所だった。
 しかし傍目から見て得るその雰囲気は物々しさに満ちていた。それも当然か。
 その広大な敷地には装甲車といった自衛隊の戦闘車両が配置され、何かを警戒してか、それに乗り込んでいる自衛隊員達はぴりぴりと気を張っている。
 その雰囲気を助長しているのは、先の実験によってセンターの建物の一つが一部破損、一つが崩壊し瓦礫の山となっているからだろう。

 その光景をセンターの中で無傷に立っている建物の屋上から、スーツ姿の二人の男が見下ろしていた。
 片や黒人、片や日本人の彼らは自らを“魔法使い”と呼称する者達、日本は関東魔法協会に属する魔法使い。
 二人が後は打ち捨てられるのを待つばかりの此処に訪れたのは、此処で今日、アメリカと日本間で今後のギルステイン研究に関する交渉、会談の場が持たれるからだった。
 その会談の結果によっては、日本で行なわれてきた今までのギルステイン研究が白紙になる可能性も在り得る。
 ようやっとギルステイン症克服の糸口が見付かったと思ったその矢先にそれが失われたとなれば、ギルステイン症早期克服を願い動いている彼らからすれば、それは笑い話にもならない。

 しかし、二国間での話し合いにそう容易く口を出せる訳も無く──だからこそ、せめてその動向を逸早く知るべく、彼らは此処に来たのだった。

 日本人の青年はセンターから遠ざかって行く一台のバスを見詰めながら呟いた。

「良かったんでしょうか……」
「……」
「子供達をこのままにして。もしかしたら、また……」

 そのバスには、このセンターに保護されていた子供達が乗せられている。
 向かう先は南里研究所という国立の研究所。やはり、彼らが早々に干渉出来る場所ではない。

 黒人の男はただ頭を振った。

「君の気持ちも分かるが、物事には順序がある。今はまだ、我々には手は出せない」
「それは……分かっていますが……」

 青年のその脳裏に浮かぶのは、先日知り得たある実験の映像だった。
 銃火に晒され、逃げ惑う子供達。怪物へと変貌し、殺し合う子供達。そしてその実験の中で、物言わぬ肉塊へと変わり果てた子供達。
 思い出すだけでも、胸糞が悪くなってくる。あんな事が行なわれる前に何か自分達には出来なかったのかと、後悔の念が沸き起こる。


 ──ただ、

 あの実験は必要だったからこそ、行われた事は理解できる、否、理解できてしまった。

 けれど到底受け入れ切れない、けれど認めなくてはならない。

 あの実験が必要だったことは──


 だからこそ、自分達はギルステイン症克服のきっかけに辿り着けるのかもしれないのだから。
 きっかけというには余りにも儚い、願望にも似た可能性でしかないかもしれないがそれでもそれは、確かな希望だった。


 ──未だ暗中模索に等しいこの状況の中、その微かな光は余りにも強すぎた。


 二人の間に沈黙が漂う。会話の無い時間だけが過ぎていく。
 その時、バスが去った道路の向こうから、此方に向かって走ってくる一台の黒のベンツが見えてきた。

「来た、か」

 青年は落とし気味だった顔を上げる。
 それは森に囲われ、未だ瓦礫が取り除かれていない此処には少々不釣合いな、高級そうな車種だった。

「あれに……」
「ああ、アメリカ側の外交官が乗っているんだろう」

 その言葉を証すように、センターの中枢である中央チェンバーの出入り口から、女の科学者と男の上級自衛官が出迎えに姿を現した。
 やおら、青年は表情を沈ませる。

「どうなるんでしょうか」
「……それは終ってみなければ分から──」

 しかし、黒人の男の言葉はベンツから降りた二人の男の姿を認めたその瞬間に途切れたのだった。

(なんだ、“アレ”は……?)

 それは言うなれば、“勘”だった。

 それは言うなれば、魔法使いとして幾多の魔と対峙し討って来たが故に培われた“経験”だった。


 それはまるで──


 ──高位の悪魔を目の当たりにしたかのような寒気、怖気だった。


 隣にいる青年も何か違和感を感じ取ったのだろう。その表情を、何時に無く険しくしている。
 黒人の男が不審に眉を顰めたその時、白人の青年が唐突に此方へ顔を向け、笑った。
 それはまるで悪魔が浮かべるかのような、嗜虐に塗れた笑みだった。


 ──そして、


「くっ!!」
「っ!」


 何故と問う間も無く、驚愕する暇も無く──


 ──太陽の下に在っても尚峻烈な金色の光が、二人の視界を灼いたのだった。















 ◇ 魔獣星記ギルま! 四ノ章前編 [Gold=Evil] ◇















「また何かあるの?」
「こんな朝っぱらから集合させてよォ……」

 青少年保護センターで比較的開けた場所に停められている一台のバスの前に、センターに保護されている子供達は集められていた。
 冬の朝の寒さにさらされ、大なり小なり不満気である。各々固まり合い身を寄せ合いながら、不平不満を零し合っていた。
 その中にはストレッチャーに寝かせられ、子供達を引率する男達に診られているサラの姿もある。体調が芳しくないのか、顔色は悪く呼吸は少し乱れているようだった。

(僕は──怪物だ)

 そんな中で、伊織は一人、煩悶と考える。

(あの人は……ドクター・へレナはカドケウス・ウィルスとかいう病原体のせいだと言うけれど、でも……──)

 ギルステインやカドケウス・ウィルスについて、詳しい事は伊織には分からない。
 けれど、ギルステインとなった伊織だからこそ、分かる事はある。

(──でも、あの怪物は、ギルステインは僕自身だ)

 それが“ギルステイン”とは一体、何であるか、という事。その存在[もの]の本質、と言えるかもしれない。
 ただ直感にも等しい思考の果てに齎されたそれが果たして他人と共用できるのかどうか。何よりも正しいのかどうか。
 伊織には分からない。

 だから、彼は悶々と一人考え続け、自分自身に問い掛け続けていた。

 ──己が怪物であるかどうかを。

 そんな伊織から、子供達は距離を置いている。こそこそひそひそ囁き続ける彼らは時折、ちらちらと伊織に視線を送っている。
 その視線から感じられる物は決して快いものではなかった。
 それもその筈か、彼らの中には伊織がギルステインとなり戦うのを見ていた者もいるのだ。
 幾らギルステインについて説明され、大丈夫だと言われているからとて、不審の念の全てを拭う事は出来ないだろう。
 自分達も同じようにギルステインとなる可能性を秘めているのだとしても、恐ろしいものは恐ろしいのだから。

 けれどそれにも気付かず、少年はただただ己の思考に没していた。

「列の先頭から順に奥に乗り込むんだ!」

 その指示に素直に、少なくとも表面上は、子供達は従い、ぞろぞろと動き始めた。

「おい、伊織」
「あ、うん」

 傍にいた今関に肘で軽く突付かれ、伊織もバスへと向かう。
 その中で、誰かがポツリと呟いた。

「カドケウス・ウィルス感染症……か。これからどうなるのかなぁ、私たち……」

 そして、全員が乗り終えれば、バスはまるで何かから逃れるかのように慌しく出発するのだった。






 ──センターの中枢である、中央チェンバー管制室[コントロール]。

 そこでヘレナと野上はモニターの画面越しにセンターを出発するバスを見送っていた。
 遠ざかっていくバスを見届けヘレナはほっと、まるで安堵するかのように息を吐いた。

「なんとか時間までに送り出せたわね……」
「……ドクターも、せめて彼らと一緒に南里研究所に移られた方が後々楽なのですがね。
 今日のアメリカとの交渉の次第によっては、ここは軍の攻撃を受けると予想されるので」

 子供達だけではない。研究者、技術者といった類の人間も続々と此処を後にしている。
 これから交渉の場を持つアメリカがどのような手を打ってくるか分からない以上、非戦闘員を残しておく事は出来なかったのだ。

 本来ならば、日本でのギルステイン症研究の要とも言える彼女こそ、真っ先にここから退避して然るべきなのだが──

「私が他に移った事を知られれば、すぐさま巡航ミサイルを撃ち込んでくるわよ。
 元々、日本の地図にも載っていない場所で、存在は秘匿されているに近い所だもの。
 カドケウス・ウィルスに関する事を占有したいあちらとしては、率先してギルステインに関わっていた物を消しにかかってくるでしょうね」
「むぅ……」
「ギルステインの存在はどの国家、曳いては人間社会のアキレス腱。
 治療方法の無い今の段階では、ギルステインの存在を公にできる筈もない。
 だからミサイルを撃ち込まれた事を、撃ち込まれた日本が揉み消さなくてはならない」

 皮肉なものね、と冗談とも本気ともつかぬその言葉に野上は微かに唸った。

「それに……」

 ヘレナは目を横へと動かし、ある部屋の監視カメラから送られてきている映像に視線を移した。
 そこに映っているのはスーツ姿の二人の男。自衛隊員ではないし、研究員でもない。水谷のような、政府から送られてきた役人という訳でもない。
 “彼ら”は麻帆良から送られてきた者達だった。片や壮年の黒人──アベル・ガンドルフィーニ、片や青年の日本人──瀬流彦 那達[せるひこ くにたつ]。

 彼らもまた“魔法使い”であるという。

 彼らが今日、此処に訪れたのは今回の会談の結果を逸早く知る為に、という事だった。
 それが建前なのか、本音なのか、分からない以上、どのように振舞うのかも気に掛かる。
 先日の全体会議に出席した明石という名の“魔法使い”は自分達と協力すると言ってはいたが。

「いずれにせよ……研究体制を大幅にシフトさせる必要があったし、今回の移動はいい機会だったわ。
 それに今日、ここに来る男は私がいたカドケウス研究センターから来ているのよ。顔を合わせない訳には行かないでしょう」
「お知り合いで?」
「……ええ……」

 事前に通達されたアメリカ側の使者は、マズー・ウォーリスという名の黒人とミハエル・U・ギュンターという名の白人。
 ヘレナがまだアメリカにいた頃、ミハエル・U・ギュンターと家族ぐるみの付き合いがあった。
 そんな彼と最後に出会ったのは、アメリカのカドケウス研究センターでの事──ある事件の際、カドケウス・ウィルスに感染した疑いのある患者として、だった。

(どうやってセンターから出たというの、ミハエル?)

 いやそもそも、どのようにして政府に取り入ったというのか。

 しかし、答えの出ぬ疑問を延々と考える時間も余裕も今は無く。
 会談が穏便に済んだ場合と仲違いに終った場合、双方の事を考えておかなければならないのだから。

 何よりも──

(問題は地下にあるサンプルね……)

 それはヘレナが今日まで日本で得たギルステインのサンプルであり、そしてその中にはアメリカから持ってきた最も古いギルステインのサンプルも含まれている。
 出来れば研究員の移動に伴って移しておきたかったが、それは厳重に密閉し、尚且つ液体窒素によって冷凍保存されている。
 そして中身が中身である為、持って行こうとして直ぐに持っていける物ではなく、運搬するのにも、受け取る側にも相応の準備が必要だった。
 今、その準備が急遽進められているが、実際に移せるようになるのは会談が終わった後だろう。
 サンプルから得られるデータは取れるだけ取っていたが、今後新しい要素が出てこないとも限らないし、そもそも取得したデータが間違っている可能性も十分に有り得る。
 何せ、ギルステインは人類にとって未知の物なのだ。何が正しくて何が間違っているかなど、誰にも分からない。
 そういった時の為に、サンプルは有って損は無い。

(場合によってはあちらに明け渡す必要もあるけど……)

 と言っても、それはアメリカがギルステイン症研究に対して、どのようなスタンスで望んでいるかによるのだが。

(結局は、内容次第かしらね)

 ヘレナは疲れたように息を一つ吐いた。



 そして幾許かの時が過ぎ──



 アメリカ合衆国外交官の到着が告げられる。

「ついに……来たか」

 野上が胸元の無線で部下に指示を出し、警戒態勢のレベルが上げられる。
 外交官を乗せたベンツはゆっくりと検問所を通り、中央チェンバーの出入り口の前で止まった。

 それを出迎えるヘレナと野上。

 そして車のドアを開け降りてきたのは、事前に送られたプロフィール通り、外交官の黒人の男と、その補佐である白人の青年。
 黒人の外交官はヘレナ達へ、穏やかな口調で告げた。

「今日の会談に応じて頂き、ありがとうございます」
「こちらこそ、この様な辺鄙な所までご足労ありがとうございますわ、ウォーリス外交官」

 次いで口を開いたのはその傍らに立った白人の青年だった。

「しかし……少々無粋な連中が居られるようで」

 野上は周囲にいる自衛隊員の事を言っているのだろう、とそう考え。

「これはあなた方に向けたものではない。あくまでセンターの安全とギルステインの秘匿の為に必要な……」
「ああ、申し訳ない。別にあなた方、ジエイタイの事を言ってはいませんよ」
「なに?」

 しかし、弁明する野上の言葉を遮って、白人の青年は言葉を続けた。
 その言い様に野上は眉を顰める。見ればミハエルはその眼差しを別の方へと向けていた。
 野上はその向けられた視線の先にある建物に“誰”がいるのか、はたと思い出し。

「“彼ら”には少しの間──」

 そして浮かべたその笑みは正に悪魔の様──口唇を吊り上げ作られた、嘲笑う笑みだった。
 想定すらしていなかった状況の変化についていけないヘレナが呆然と呟いた。

「何を……?」
「──大人しく頂きましょうか」


 直後──


 目を灼かんばかりの金色の光が、その場を埋め尽くしたのだった。












◇ ◆ ◇ ◆ ◇












 森林に囲われ、コンクリートで舗装された山道を一台のバスが走っていく。その途中、森に囲われたこの場所には少々不釣合いなベンツとすれ違い───



「ん?」

 伊織は突如、脳裏に過ぎった奇妙な感覚に首を傾げた。
 けれどその何かは、判然としないまま、直ぐに消えて無くなり──いや離れていったと言った方が正しいかも知れない。
 兎に角、それは経験した事の無い奇妙な感覚だった。だから伊織はただただ首を傾げるしかなく。

「どうした、頭痛か?」

 そんな伊織に気付いてか、今関が声を掛けた。

「あ、いや、なんでもない。なんでもないよ、多分……」

 伊織は愛想笑いを浮かべる事すらせず、ただ頭を振った。
 しかしそうは言っても今関からすれば、伊織の表情は何処か浮かない。微かな陰が指しているように見える。
 それは以前の少年ならば、決して浮かべる事の無かっただろう昏さだった。

「……伊織、お前さ」
「え?」
「変わったよな」

 そんな伊織を見て、今関はこの研究所で再会してから何となしに思っていた事を口にした。

「んー……てゆうか似てきたぜ、雰囲気が克己にーちゃんに。高校行ってハジケた頃のさ。やっぱ兄弟だからかな?」

 もしかしたら、伊織の変化は雰囲気ともまた違うかもしれない。
 けれど今関が表現しうる中でもっとも近い言葉が“雰囲気”だったのだ。

「…………違うよ……兄ちゃんとは……」
「え……?」

 しかし今関は伊織の声の余りの暗さに驚き、一瞬、我が耳を疑った。

「伊織お前、どうしたんだ?」

 けれど今関のその声に被せるように、バスの前の方の座席でサラの容態を診ていた男が伊織に声を掛けてきた。

「瀧川君、ちょっとこっちに来てくれないか」
「は、はい! っと何、和彦?」
「いや……後で良いや。早く行かないとおっさん達がうるさそうだしよ」
「……うん、そうだね」

 伊織は今関のその言葉に小さく笑みを零すと、そのまま席を立ち。

「どうも、サラが君を呼んでいるんだ」
「容態が悪いんですか?」
「いや……熱でうなされているという訳でもないんだが……」
「いおり……くん……たすけて、あげて」
「サラ?」

 どういう事か、と己を呼んだ男へと目を向けるが、男にも良く分からないのかただ肩を竦めただけだった。
 何を、誰を、助けて欲しいのか。伊織はサラに問おうとした、

 直後──

「おわっ?!」

 それは圧倒的な、金色の光の奔流だった。行き成り、バスの後方、青少年保護センターから、無数の光が──遠目からでもはっきりと見えるほどの光量を放つ金色の光弾が沸き立ったのだ!
 次瞬、バスに襲い掛かったのは空間を震わせるかのような轟音と衝撃波。
 揺さぶられる車体、危うく転倒しかけるバス。

「ヒィッ!!」
「きゃああ!!」

 そして、その場所から巨大な爆煙、土煙が立ち上ってゆく。
 それはまるで噴火でも起こったかのようだった。誰もが色めき立った。

「まさか、もう米軍の攻撃が!?」

 愕然とする男達に、子供達は一斉に喚き始める。

「なんですか、あれ!?」
「このバス大丈夫なんだろーな!? “また”何かやろうってのか!?」

 その脳裏に過ぎるのは、先日行われた実験の惨状だった。


 ──あの時は運良く生き残れたとて、だからどうだと言うのか。また同じ事が繰り返されないなど保障など何処にある。その時、自分は、自分達はどうなるのか。化け物に殺されるのか。化け物になって殺して、殺されるのか。それとも運良く生き延びられてしまうのか。

 子供達に等しく根付いた、それは恐怖だった。

「……安心してくれ。今日の移送はこのことを予想して君たちを退避させるためのものだ」
「退避……?」

 どうして? と暗に問うその少女の声に男の一人は頷き。

「実は……アメリカにギルステイン症の共同治療研究を申し入れたのだが」
「………」
「だが、アメリカは君たちを含めた研究成果の全てを引き渡せと言って来たんだ。
 どうも、カドケウス・ウィルスに関わるもの全てを独占したいらしい」

 ギルステインは確かに脅威だ。現段階でその存在が明るみに出れば、人間社会は瓦解してしまうかもしれない。
 しかし同時にそれを引き起こすメカニズムは人類の未知の物。仮に解明できれば、10年先の技術というレベルの話ではなくなる。
 オーバーテクノロジーといって差し支えないかもしれない。その価値は計り知れず、故にそれが齎すだろう恩恵は底が知れない。

「ど、独占って……!?」
「生物、兵器とか……!?」

 しかしアメリカという軍事大国が率先してそれを独占しようとする事に一体どういう意味があるのか。仮に、あちらへと引き渡されれば自分達はどうなるのか。
 その言葉が内包する言い知れないおぞましい感触に、子供達は息を呑んだ。

「だが、それにしても様子が変だ……。部隊の展開も航空機も、火器もミサイルの航路もまるで見えん!」
「それに研究所には今、アメリカの外交官もいる筈だ。なのになぜ攻撃が……!?」

 研究所が攻撃を受けたのは明らか。だがそれはあまりに不可解な規模とタイミングだった。何故、という疑問が付いて回る。

「あ、あの! ヘレナ、さんはまだあそこに……いるんですか!?」
「そうだ」
「あの人がオトリの交渉役に残って、時間を稼ぐ手筈になっていたのだ」

 それにあの場所にはまだヘレナ・L・マリエッタが留まっている。アメリカにとって、彼女は必要な人材だった筈だ。
 カドケウス・ウィルスの第一発見者にしてギルステイン研究の第一人者、そして今や故人となった宇多島博士に次ぐ立場に彼女は在ったと言っても過言では無い。
 可能な限り、彼女の身柄は確保しようとするだろう。

 だというのに何故。

「そんな……」

 その事実を知らされ驚く伊織。その時、再度の爆発、金色の発光。
 と、濛々と湧き上がる噴煙の中から何かが飛び出した。

「!! あれは……!?」

 その巨大な何かは、錐揉みながら此方へと落ちてくる。
 あれよあれよという間にそれは大きくなり──自分達の乗るバスへと向かって落ちてくる。

「うわわっ!!」

 バスのすぐ傍に墜落し、けれどその勢いは止まらず、道路のコンクリートを破壊し周囲の森をなぎ倒して、ようやっとその何かは静止すした

 正に危機一髪。

 もし飛んでくる角度が数度ずれていれば、バスを直撃していたかもしれない。
 そうなっていれば、自分達は無事ではすまなかっただろう。バスの前方を舞い上がった土煙が塞ぐ。
 そして土煙が晴れ、落ちてきた物を引率の男達が見た時、

「ばっ、ばかな!! FV[Fighting Vehicle]がこんなところまで吹き飛ばされた!?」

 男達はもう一度、驚愕に口を開いた。
 その何かは無残な鉄屑へと変わり果てたFV──89式戦闘装甲車だった。
 車体は醜く歪み、半ば引き千切られかけている。中に搭乗していた者達の生死は、確かめるまでもない。

「なっ、何が研究所で起こってるんだ!?」

 ミサイルが装甲車の間近に落ちたとしても、こうは飛ぶまい。何せ二十数トンもあるのだ。
 それが此処まで“飛んで”来るなど、どういう事か。
 その有り得ない光景に、誰もが口を噤んだ。沈黙がバスの中を満たした。

 だから、サラが微かな声が伊織の耳に届いたのだった。

「……助けに……いかなきゃ……、いおり……クン……。おね……がい、あの人、を……助けて……」

 鉄屑へと変わり果てた装甲車を見て、サラのその言葉を聞いて、伊織の心は決まった。

「ボクが!!」
「え?」
「ボクが助けに行きます!!」
「お、おい伊織!?」

 伊織は今関の制止を振り払い、バスの乗降口へと向かう。そこで一度立ち止まり、後ろを振り返った。

「あ、あの人を死なせるわけにいきません!! それに!!!」
「何をバカなことを」
「そんなことできるわけがって、待ちなさい!! おとなしく席に……」
「それにボクは、バ、バケモノです。ボクなら助けられるかもしれません!」

 それは必死に恐怖を押し殺し、必死に己を奮い立たせているのがありありと分かる声音だった。
 友のそんな姿を見て、今関はぐっと拳を握り。

「い、いかっ! おわ?!」

 尚も伊織の蛮勇を止めようとする男二人の上に今関が勢い良く圧し掛かった。

「ようしわかった!! 行って来い伊織!!」
「うんっ!」

 威勢の良い親友のその声に送り出されるかのように、少年は一人、バスを飛び降り駆けて行く。


















◆後書き◆

の前に

※『アベル』・ガンドルフィーニ、瀬流彦 『那達』、マズー・『ウォーリス』
 調べてみても見当たらなかったので、勝手に命名させて頂きました。
 正直、瀬流彦は姓名どちらなのか、判別つかないんですけど、勝手に姓の方と判断。



 しかし、実に4ヶ月ぶりの更新。憶えていてくれる人はいるのだろうか……。
 そ、それはさておき、(予定では)後2話で一部終わりです。さて、どうなる事か。
 自分、ネギまは原作は24巻までしか持ってないんですけれど、魔法世界編での設定をどうしたものかと悩んでます。
 正直、ギルまのプロット考えてる時にはなかった設定がわっさわっさ。ていうか、ネギくん強いな~。



[8616] 四ノ章後編[Boy=Defeated]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/03/31 11:24



「瀬流彦くん、だいじょう、ぶか……?」
「はい、なんとか……」

 瀬流彦とガンドルフィーニは互いに声を掛けながら、コンクリートの瓦礫の上に転がっていた身体を起こした。

「いたた……」

 不覚にも気を失っていたらしいが、その際に何かに身体を打ち付けたのだろう、身体の節々に鈍い痛みがある。
 見ればこの日の為に新調したスーツは砂埃で見事に汚れてしまっていて、瀬流彦は場違いにも哀しくなってしまった。
 しかし、五体無事なだけマシかと魔法使いの青年は気を取り直し。

「一体、何が……」

 気を失う直前で憶えている事は視界を埋め尽くす金色の光。その先から記憶はぶつりと途切れている。
 何があったのか、それを少しでも知ろうと周囲を見渡せば、

「これ、は…………!!」

 青少年保護センターはその尽くが瓦礫の山と化していた。
 此処が研究所だったと誰が気付くだろうか、教えられて誰がそう思うだろうか。
 破壊の規模はそれほどだった。

「他の人達……は?」
「分からん」

 にべも無く返されたガンドルフィーニの言葉はしかし、それも当然か。周囲には未だ濛々と土煙が立ち上っていて視界が悪い。
 周囲を見渡しながら、二人は立ち上がる。その時、瀬流彦の脳裏に浮かんだ一つの疑問。

 それは何故、あの時、外交官の補佐である白人の青年が此方を向いたのか、と言う事だった。

 自分達はあの時確かに、『人避けの結界』を周囲に張っていたのだ。
 人避けの結界とは即ち、人の認識を煙に巻く、たとえ見えていても見えていないと、そう思わせる魔法である。
 魔法と言う物のご多分に漏れず、効果は術者の技量によって変化してしまう代物ではあるが、それでも相応の訓練を受けているか、もしくは余程勘の鋭い人間でなければ違和感すら感じさせない筈だった。
 しかし、あの白人の青年は自分達に確かに気付いていた。
 確証など無いが、誤魔化しようの無い確信が瀬流彦の中にはあった。

 そして、一陣の風が吹き土煙が取り払われ少し視界が明けた時、二人の視線はある一点へと吸い寄せられた。

 それは廃墟の中、堂々と立つ青白色の“化け物”──鬼のようにも、悪魔のようにも見える異形の怪物だった。
 その傍には倒れ伏すヘレナと野上、そして汚れ一つ無く立っている白人の青年の姿も見える。

「ちぃ、瀬流彦くん、行くぞ!!」
「はいっ!」

 その異形の正体が何であるとて、命に害を成す者ならば討たねばならない。
 何処に有ったのか、巨大な円柱状の容器の傍に立つその佇まいに、確かな知性が感じられたとしても……だ。

(もしかしてあいつが、引き起こしたのか?)

 けれど、その瀬流彦の自問に返された自答は──否。そう、勘は囁いていた──あの“怪物”ではないと。

 何よりも不自然なのは、白人の青年が己の背後にある存在を全く怖れていない事だった。
 訝る二人。しかしそんな二人の戸惑いを置いて、青年はヘレナへと近付き、助け起こすのかと思いきや、彼女の首に手を掛けた。
 そして、その場に駈け付けたガンドルフィーニと瀬流彦の前にその青白色の異形は立ち塞がれば、

「主の邪魔はしないで頂こうか、魔法使いよ」

 主とは、白人の青年の事を指しているのか。

「主……だと? 貴様いや……貴様ら、何者だ?」

 スーツの左右の袖口から一丁の銃とナイフを取り出し構え問うガンドルフィーニ。
 瀬流彦もまた己の得物たる魔法使いの杖を手に持ち構えた。

 しかし、怪物はさも笑みを零すかのようにくっと一瞬だけ、息を吐き出す。

 瀬流彦は思わず眉を顰[ひそ]めた。それが多分に嘲りを含んでいるのを感じたからだ。


 ただそれは──


 鬼が力弱き人間を見下した、というよりも、悪魔が獲物である人間を弄ろうしている、というよりも。


 ──まるでそれは、人間が人間を嘲笑うかのようであり。


 その時だった。



「ヴオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」



 獣の如き雄叫びが、その場に響き渡ったのは──









◇ 魔獣星記ギルま! 四ノ章後編 [Boy=Defeated] ◇









 突如として聞こえた雄叫び。空高くに身を躍らせた一つの影。
 それは次の瞬間にはの長い腕を振りかざし、此方に向かって急降下して来る。
 もしや異形の仲間か、と瀬流彦が構えるが、その影は瀬流彦たちを飛び越し、青白い異形へと襲い掛かった。
 速度があるとは言え、直線的な攻撃だ。異形が避けるのは容易いかと思われたがしかし、異形は振るわれる爪から傍にあった円柱状の巨大な容器を庇うかのように受け、

「グッ!?」

 容赦なく弾き飛ばされる。瓦礫の山へと突っ込んだ。
 そして黒い影は異形の怪物を一顧だにする事も無く、白人の青年の足元に倒れ付しているヘレナへと跳躍した。
 ヘレナの首から手を離したミハエルはその影と向かい合う。

 ──影と白人の青年は交差する。刹那、刀の如く、逆袈裟に振り落とされる青年の白い指。

「ッ!!」
「むっ!」

 そして──

 斬ッ、と影の胴が切り裂かれ、血が舞った。
 それを見て、ガンドルフィーニはその眼を眇めた。

(あの男、何者だ?)

 影はヘレナを抱え飛び上がると、辛うじて建物としての外観を残している物の上へと降り立った。
 そこで瀬流彦はようやっとその影の正体を視認する。

「あれは……瀧川、伊織くん?」

 新雪のように白い髪、黒い躯殻に覆われた肢体。
 人の姿に似ているが、、長く伸びたその腕の先にある鋭利な爪が人ではない事を知らしめるその姿。鬼とも悪魔とも思えるその異様。

 ──それは瀧川 伊織という名の少年が変化した姿だった。

 ギルステインと成りながら、己の意思を保ち、尚且つ元の人の姿へと戻る事の出来る稀有な存在。
 瓦礫の山から這い出た青白の異形は主の邪魔をした無粋な闖入者を討つべく腰を屈めるがしかし、

「待て、マズー!!」

 青年によって止められた。何が面白いのか、その顔には笑みが浮かべられている。

(マズー? マズーだって?!)

 ただ白人の青年の口から出て来たその名を聞いて、瀬流彦は驚いた。
 その名は今日、此処に来ているはずの外交官の名前だったからだ。
 しかし、青年のその思考は少年の叫びで掻き消される。

「……この人を……この人を殺させはしない!!」

 黒の影は、黒のギルステインは、瀧川 伊織は声を張り上げた。
 それは怒る声、憎む声を腹の底から吐き出すようだった。

「この人を殺すのは……──」

 まるでそれに応えるかのように──





「──僕だ!!!」





 漆黒のギルステインは更なる異様へと、変容した。






◇ ◆ ◇ ◆ ◇






 崩れかけた建物の頂きに立つ、その姿はまるで──


 ──二匹の龍をその背に従えた、暗黒の魔人。



「え……」
「なんだ?!」

 二人の魔法使いはただただ驚愕する。
 突如として膨れ上がった強大な『力』。魔力に似ていて魔力に非ず。気に似ていて気に非ず。

 けれどうなじの毛がじりじりと逆立つかのような確かな圧力を伴う彼の力。

「あ……あれが瀧川伊織か!? なんだ、なんなんだ!? あの形は!?」

 意識を取り戻した野上が、伝わってくる圧迫感に知らず、喘ぐ。
 だからこそ、その巨腕に抱かれていたヘレナはその力の余波を諸に受けたのだった。

「ぁあっ………!」

 彼女の身体を、その胸を、巨大化したギルステインの躯体の衝角が無慈悲に貫いたのだ。

(ああっ!! ヘレナさん!? ヘレナさん!!)

 辛うじて、急所は免れたようだったが、その傷は余りに深い。白衣はしとどに赤く濡れていく。
 そしてその光景に、自身が引き起こしたそれにもっとも動揺したのは──伊織だった。

 その背にあった二匹の魔龍は粒子となって宙に溶け、その身体は一回り以上小さくなり──あの実験の時に示した──黒の巨人へと変わっていた。

(ヘレナさん!!!)
「……た…………きが…………クン……」

 瀬流彦とガンドルフィーニからは何があったのか、分からない。しかし、女性の微かな悲鳴、肉の裂ける音が聞こえた。
 それだけで何か良からぬ事が起こった事は分かる。

「く……」

 けれど一体の怪物によって、彼らは自由に動けない。

「そこを退け……!!」
「ならば私を倒してみせるのだな。出来るのならば、の話だがな」

 異形の怪物がただ強大な力を我武者羅に振り回す類であったなら、彼らからすれば然程の脅威ではないだろう。
 けれど、その強大な力を己の意思の下に置くとなれば話は変わってくる。

 それは正しく、脅威だ。故に、彼らも迂闊には動けない。

 けれどそれは異形にとっても同じ事か。二人の魔法使いの為に、それも容易には動けないようだった。

「くそっ」
「……」

 魔法使いと異形は睨み合う。そして気付けば、ミハエルは伊織のその直ぐ傍に立っていた。

「どうした? 殺すんじゃなかったのか? 構わないよ、君が殺そうというなら」
「いっ、いつの間に!?」

 有り得ない、と伊織は驚愕の眼差しを白人の青年へと向けた。
 どうやって、どうのようにして、ここまで昇って来たのか。

(まさか飛び上がってきた?)

 ──ギルステインでもない、ただの人間が?

 有り得ない。しかし青年は伊織の驚愕に構わず、口ずさみ続ける。

「わかるよ、君のその気持ち。この研究所で、君もずい分とひどい目に会わされたんだろう?
 それに元々その人は、生かすに値せぬ人だ」
「ミハ……エル……!!」
「ドクター・ヘレナ! この人は研究のためなら自分の弟を切り刻むような人だ。
 カドケウス・ウィルスに感染し、ギルステインと化した最愛の弟をね!」
「!!」

 ミハエルの言葉に、ヘレナは血の気の失せつつあるその顔を更に青くさせた。

「君のようなギルステインは格好の実験動物でしかない。ギルステインの仲間は他にいただろう?
 彼らがどうなったか、忘れた訳じゃないだろうね?」
「そ、それは……」
「…………そう。彼女を生かしておくなら死ぬのは、君だ!」

 イメージが伊織の意識に叩きつけられる。

 それは、菊池の、香奈の、そしてギルステインとして無残に死んでいった名も知らない誰かの死に様だった。

 それが自分で思い起こした物なのか、他者が引き起こした物なのか。
 分からない。分からないが、伊織に言えることはただ一つ。


 ──その死はどれも、余りに理不尽で哀れだった。


 瞬間、


 ── ……ロセ! ──


 おぞましい“声”が伊織の心に響き渡った。


 ── 殺セ! 殺セ!! 殺セ!!! ──


「グ……ググ……グ……!!」


 ── 腹ヲ切リ裂ケ!! 腸[ハラワタ]ヲ抉リ出セ!! ──


 衝動が、殺意が、伊織の中に満ちていく。
 伊織はその“声”に引き摺られるかのように、腕をのろのろと振り上げる。


 ── 元凶ハコノ女!! 殺セ!! 殺セバ…… ──


「ガ! ヴオオオ゛ア!!」


 ── 自由ニナレル!! ──


 そして振り下ろされた爪はしかし、コンクリートを砕いただけだった。
 伊織の額に灯る、三つ葉の光。その光を見て、衝動に抗いきった黒の巨人を見て、ミハエルは更に笑みを深めた。
 抗った故の消耗か、ギルステインの躯体が更に小さくなる。けれど黒のギルステインは尚、吼えた。

「この人を、殺すのは僕だ……。だけど今じゃない!! お前に、この人を殺させない!! お前の思いどおりになんかに、僕はならない!!」

 瀧川 伊織はヘレナ・L・マリエッタが憎い。

 彼女の所為で、まだギルステインではなかった子供達は化け物へと変わり果て、殺し合った。彼女の所為で、伊織は友を殺さなければならなかった。そして彼女の所為で、伊織は己の心の闇に気付かされた。

 だから、瀧川 伊織はヘレナ・L・マリエッタが憎い。

 けれど……──けれど!!


「この人は……この人はギルステイン症と闘う人だ!!」


 彼女は誰よりも、ギルステインという存在[もの]と戦おうとしている!!!

 その言葉に薄ら笑いを浮かべていた青年はその表情を消した。打って変わって冷徹な眼差しで伊織を見詰めれば、小さく嘆息した。

「……なるほど、君とはわかりあえると思ったんだが、残念だよ……」

 その言葉と共に強烈な金色の光が伊織の視界を灼けば、痛烈な衝撃が襲い掛かる。

「ぐぅっ?!」

 行き成りの事に、伊織は成す術も無く吹き飛ばされ、呻く野上の目の前に落下した。
 ヘレナをこれ以上傷付けはさせまいと腕で覆うのが伊織に出来た精一杯の事だった。
 伊織は地面に打ち付けた身体をすぐさま起こし、ヘレナの身体を地面に横たえ、ミハエルの姿を探すが、

「こっちだ」
「!?」

 その声が聞こえてきたのは己の直ぐ後ろ。
 反射的に振り返った伊織の胸部に人差し指と中指の指先を当てられ──

「グガァっ!!!」

 やはり、いとも容易く吹き飛ばされる。

「日本のギルステイン研究も、なかなか面白い素材を手に入れたのだな」

 しかし、そんな伊織を見て、青年は然も感心したかのように息を零した。

「何者だ、貴様は……!?」
「さあ……………何者だろうな?」

 異形の怪物を警戒しつつ発せられたガンドルフィーニの誰何にしかし、青年はただ肩を竦めた。
 そして、痛みに呻き悶えるヘレナを見下ろしながら、のたまうのだった。

「この力、“とある”ウィルスに感染してから身についたものでね。
 王になれるか、それとも神か……試してみねばわからないさ」
「な!?」

 そして己の顔の前に掲げた、白人の青年のその右手は金色の躯殻を纏った鋭き爪へと、その瞳は獣の如きの瞳へと瞬き一つする間に、変わっていた。

「鬼と思ったかい? それとも魑魅魍魎の類かな? 或いは悪魔とでも?
 生憎と、そのどれでもない。マズー・ウォーリス、そしてこの私は……ギルステインだ!!」
「なっ?!」「そんな」「ギルステイン……だと?」「ありえんっ、そんなバカな事がっ!!」
「まあ、マズーに関してはまだ大統領も知りませんがね」

 くっくっと外交官補佐たるミハエル・U・ギュンターは嘲笑った。
 有り得ないと伊織も、瀬流彦も、ガンドルフィーニも、そして野上もただただ愕然とする。
 青年は見せびらかすように掲げていた右手を払えば、それだけで、その手はギルステインから元の人間の物に戻っていた。


 その男の在り方はまるで──

 ──ギルステインという存在[もの]を意のままに操っているようではないか。


 ギルステインの躯殻の残滓たる粒子が、束の間、宙を漂い、

「それにしても、君がこの人を殺してくれないなら、私が殺すしかないじゃないか」

 ミハエルはヘレナの頭に足を置き。

「二度手間は、非常に不愉快だ!」
「止めろおおおおお!!」

 その光景を見て、三度、伊織は奮い立つ。その意気に呼応するかのように、その躯体は瞬く間に膨張し、黒の巨人へと成り変る。

「オ゛オオオオオオオ!!!!」
「止めておきたまえ」
「止めろ、無闇に突っ込むな!!」

 ミハエルの忠告にも、ガンドルフィーニの静止にも構わず、伊織はただ吶喊する!

「君はまだ力の使い方を知らない。おまけに戦い方も、話にならん!!」

 そして行われた事は先の出来事の繰り返し。絶大な膂力と体格を持ってして行われた伊織の突撃は堂に入[い]った体裁きで軽くいなされ、逆にその力こそを使われて黒の巨人は地面に叩き付けられた。

「グア!!」

 しかし尚諦めず、態勢を立て直す黒の巨人に、やれやれとミハエルは息を吐くと、すかさず人差し指と薬指の指先をその額に押し当てた。
 ミハエルのその額に先ほどの伊織と同じように、三つ葉の光が輝く。

「カドケウス・ウィルスの能力[ちから]は、こう使う!」

 何を、と伊織が思う間も無く、白い中指でその額が弾かれる、

 その瞬間──

 伊織が纏っていたギルステインの躯殻は消え去り、晒される生身の上半身。
 ミハエルは露になった伊織のその鳩尾に強烈な掌打を打ち込んだ。

 グジャッ、と何が潰れるような生々しい音が響き、伊織は膝から崩れ落ち地面に蹲る。

「そんな?! 復元させた!? 一瞬で!? 部分的に!?」

 瀬流彦はただただ驚愕した。自分達がずっと捜し求めていた現象が、まさか目の前であんなにも容易く行われるとは思いもしなかったのだから。
 ミハエルは伊織を打った手を振り、

「ギルステインを倒すならこれが一番効果的だ。カドケウス・ウィルスは宿主を一方的に守ろうとするものだからね」
「あ……あアア……」

 腹を押さえて痛みにもがく伊織を見下ろしながら、伊織を諭すかのように言葉を連ねる。

「ギルステインは言わば鎧……脱がしてしまえば、一撃だ!」
「ああうぐぉああ!!!」

 そして思い出したかのように再度、伊織の身体が黒のギルステインの躯殻に包まれる。

 が──

 ミハエルの言葉通り、傷が癒えることは無く、激痛に苛まれて伊織は立ち上がれない。
 多少の傷ならば、瞬く間に復元するはずが一向に治らない。

 その理由もやはり、彼が教えてくれた。

「ギルステインは宿主のダメージを修復する能力も持つが、復元途中での宿主のダメージはそのまま保存される。
 それが守るべき宿主の状態だと判断されてしまうのだ」
「…………!!」

 しかし、余りの激痛に脳が悲鳴を上げている今の状態では伊織にその言葉を理解する気力は無かった。
 言葉はただ音として、耳を通り抜け、意識に刻まれるだけだった。

「さあ、早くカドケウス・ウィルスをコントロールしないと、いつまでも苦しみ続けることになるぞ」
「ミハエル様、そろそろお時間です」

 そのミハエルへと青白色の異形が──否、ギルステインが呼び掛けた。
 遠くから、ヘリの飛行音が聞こえてくる。見れば、それは米軍の軍用ヘリだった。

「そうか。仕方ない、今日は当初の目的でよしとしよう」

 ミハエルはその身を翻し伊織達から離れていく。その先には、あえて壊さなかったのだろう、自身が乗っていたベンツがあった。
 けれどその途中で振り返り、その場に立ち尽くす全員を見遣った。

「覚えておくといい! ギルステインの姿は宿主の心の闇の形そのものだということを!!
 その心の闇を乗り越えねばギルステインはコントロールできないのだ!」
「貴様、ギルステインの何を知っている?」

 しかしガンドルフィーニの問い掛けに、ミハエルは笑うだけで、その場から離れていった。
 これ以上、送ってやる塩は無いという事か。

「その少年が垣間見せたギルステインの姿! ドクター・ヘレナにも言っておけ!
 先が楽しみだとな!! もっとも生きていればの話だがね!」

 それはあの二匹の魔龍を従えた暗黒の魔人のような姿を言っていたのだろうか。

「待て!」
「よせ、瀬流彦くん!」

 堪え切れず瀬流彦が一歩前へと踏み出すが、それをガンドルフィーニが遮った。
 ミハエルは呆れたように肩を竦めた。

「戦うというのかい、今、この状況で? 確かに君達魔法使いは生き残れるかもしれんが他の者はどうかな?」
「そちらの黒人さんは分かっているようだがね。私達は正真正銘、アメリカの外交官だ。君は、組織を巻き込んで一国と事を構える覚悟があると?」
「くっ」
「これだけの非道を、引き起こしておきながら……!」

 野上のその言葉にミハエルは思わず、といった態で小さく噴き出した。笑みを抑えるように肩が小さく震えている。

「いや、失礼。私達が引き起こしたと言う証拠は何処にも無いじゃないか。言いがかりは止めてもらいたいな?
 私達は避難するだけだよ、重要なギルステインのサンプルの入れられたこれを回収しつつね」

 ミハエルは円柱状の容器を撫でれば、歩みを再開する。
 ぎりっと臍を噛む二人の魔法使いと一人の自衛官。
 そしてもう一体の、青白色のギルステインも人の姿へと戻り──或いは変わり──アメリカの外交官とその補佐として悠々とその場を後にした。

「くっそお!!」「………」「そんな……どうして……」

 少年はもがき苦しみ、女は迫る死に喘ぐ。

 三人の男達は、ギルステインの肉塊が収められた円柱状の容器を運ぶヘリと二体の怪物を乗せて走る車をただ見送るだけしか出来なかった。






◇ 四ノ章 了 ◇






◆後書き◆

これで後は終ノ章を投稿すれば、第一部は終わりです。
後はもう一度、推敲したら投稿しようかと思います。
多分、夜ぐらいには出来るかと。




[8616] 終ノ章[Ending=Starting]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/04/02 02:37



 ──内閣調査室、水谷 悟郎。

 それがスーツ姿の狐目の男から手渡された名刺に記されていた文字だった。
 その男は今、伊織と共に麻帆良にある病院の廊下に置かれている長椅子に腰掛けていた。

「キミは、もう大丈夫なのかい?」
「え、あ……はい」
「君もだいぶひどいって聞いてたが、さすがだね。ま、とりあえず初めまして、瀧川 伊織君。内閣調査室の水谷 悟郎って者です」
「はあ…………内閣……調査室? ですか」

 伊織は手に持った名刺と男の顔を交互に見ながら、戸惑っていた。
 見た目も雰囲気も、名刺に記されているその職業のどれを取っても、自分に用があるような類の人間には見えないのだ。

 水谷は戸惑う伊織をじっと見詰める。その眼差しの強さに、伊織はますます困惑した。

「あの……?」
「……“君は元に戻れる”んだよな……。どういう仕組みか、それが分かれば苦労はないんだが…………」
「………」
「ギルステイン症……このまま秘密にしておく訳にもいかないが、公開するにしても何がしかの打開策が必要だ。だが、そのためには……──」

 水谷は伊織から視線を外し、前をへと向けた。その視線の先にあるのは、その瞳に映るのは集中治療室に入ったまま、未だ眠りに着くヘレナの姿だった。
 彼女に付けられた人工呼吸器、心電図。そして患者衣から覗く肌に巻かれた包帯が痛々しく、そのどれもが彼女の重態さを表している様だった。

「──……うん、まあ、ドクター・ヘレナだ」

 伊織は膝に置かれていた両手をぎゅっと握り締めた。

「すみません……!! ヘレナさんは、僕が……!!」

 しかし、水谷は伊織を咎める事はなく、逆に励ますようにその肩に手を置いた。

「まあ、今回はしょうがない。あれは事故だ。君のせいじゃないよ。逆に君のお陰なんだと私は思うんだ、彼女が生きていたのはきっと」
「ですけど……」
「君はよくやったよ、瀧川君。それだけは間違いない。それで……今回の事件だけど」
「はい」
「おかしな話だがアメリカ政府は預かり知らんと言ってきた。
 あんな強硬な手段を使ってまでギルステイン・サンプルを強奪したというのにだ。何を企んでるのか、それがわからん」

 そして引き起こした事件の規模、被害を鑑みれば、その結果、あちらが得た物は余りにも割に合わないと水谷は言った。
 ギルステインのサンプルは確かに有って損は無い。しかし同時に此方に甚大な被害を齎して尚、得る価値がある訳でも無いのだ。

 ふと、水谷は考え込み。

「もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「いや、これは君に言うべき事ではないな。すまない、気にしないでくれ」
「はあ……」
「さて、今回の事件、政府が預かり知らぬというのなら、外交官の……いやその補佐役に着いていたミハエルという男の独断、という事になるが……」

 野上やその場に居合わせた魔法使いから聞いた話の限りでは、ミハエルという男が今回の事件の中心にあったという。

「あ……あいつは……あの男は何者なんですか!?」

 そして伊織はその名を聞いた瞬間、気付けば水谷に大声で尋ねていた。
 知らず、未だ微かに鈍痛の残る鳩尾を押さえながら。

「あ、す、すみません……」
「そのことで実は君に話がある。この男だね? 研究所を襲ったのは」

 しかし、水谷は突然の大声に気を悪くした様子も見せず、懐から取り出した一枚の写真を伊織へと差し出した。
 伊織はその写真に写っている人物を見て、目を見開いた。

「え、ええ! この男です!! だけどこれ、一緒に写ってるのは……」

 その写真に映っていたのは白人の青年と少女だった。青年の方はセンターを襲った男の一人、ミハエルだった。記憶に焼き付いたその顔を間違える筈が無い。
 けれど、伊織はその写真を見て、戸惑った。あの時とは違い、写真に写っている青年は優しげな笑みをカメラへと向けているのだ。
 本当にあの男だったのかと一瞬、伊織は我が目を疑ってしまう。それほど、その写真から感じ取れる印象と記憶に残る印象が異なっていた。

 そして、ミハエルと共に映っているのは、彼に抱き付くように映っている少女は──

「サラ……?」

 水谷は、然りと頷いた。

「そう、この男はミハエル・ウダジマ・ギュンター。カドケウス・ウィルスの第一発見者ウダジマ博士の息子で、彼女の兄にあたる」
「そう……なんですか……」

 水谷は深々と溜め息を吐いた。

「彼の為に日本のギルステイン症研究は壊滅的な打撃を受けた。恐らく今後も、何らかの妨害を受ける事が予想される。
 それが政府を通してか、それとも今回のように自ら引き起こしてかはまだ分からないが、その中心にあるのはDr.ヘレナと……──」

 再び、水谷は伊織へと目を向ける。

「──恐らく、君だろう……」
「……」

 伊織は思わず、ごくりと唾を飲み下した。

「今回の襲撃で……私達は自衛隊の一特務部隊だけでは彼らに対抗しきれないと判断された。
 君の頑張りがあったのは確かだが、幸運だった事もまた否めない」
「はい……」
「だから、こちらの体制が整うまでの暫定的な処置として、今回、センターで保護されていた子供達含めギルステイン症研究に関わっていた人、物を此処、麻帆良で匿って貰う事が決定した」
「へ?」

 麻帆良という言葉を聞き、何を言い出すのだろうか、と伊織は首を傾げた。何故、自分が通っていた学校の名が出てくるのだろうか、と。
 しかし水谷がからかっている訳でも、嘘を付いている訳でも無いようだった。

 その表情も雰囲気も、何処までも真剣だった。

 伊織の内心の戸惑いは予想していたのだろう、息を深く吸うと水谷はこう言葉を続けたのだった。



 ──君は“魔法”という物を信じているかな、と。












◇ 魔獣星記ギルま! 終ノ章 [Ending=Starting] ◇












「それじゃ、私はこれで。君も早く部屋に戻るんだよ。君にもまだ入院中なんだからね」

 そう言うと話を終えた水谷はその場を後にした。けれど伊織が立ち上がる事はなく、そのまま長椅子に座り込んだままだった。

「よ、隣、いいか?」
「あ、和彦……」

 暫くして、誰かが前に立った。見上げれば、それは今関だった。
 今関は伊織の隣に座ると深々と溜め息を付いた。並んで座った二人のその表情は何処か硬い。

「そっちも話、終わったか?」
「うん……」
「そうか、俺たちもさっき終わったよ……」
「和彦はどんな事、言われたの?」
「しばらく麻帆良の施設に入れられるってのと……、あと……」
「うん」
「魔法、についてだった」
「そっか……」

 説明されたその内容が余りと言えば余りの事に、妙な虚脱感がある。それが未だに拭えない。

 物語の中だけだと思っていた物がこの世に実在していた事を疑い──

 ──些細で小さな力などではなく、国すら一目置く力を秘めている事に戸惑い。

 そして此処、麻帆良の地が魔法使い達の集う地だった事に驚いた──

 思い返せば返すほど、なんとも荒唐無稽なお話に思えてならない。狐につままれたか、はたまた夢でも見ているのか。
 しかしそれは現実に在るという。だからこそ少年達は思うのだ。

 ──そんな彼らでも、そんな奇跡染みた物でも、ギルステインへと変わった菊池を、香奈を、子供達を救えなかったのか……と。

「魔法でも無理なことは無理なんだな……」
「うん……」

 けれど、あの男は、ミハエル・U・ギュンターは違う。
 あの男はギルステインの力を意のままに操っていた。伊織の躯殻獣化すら、容易く解いて見せた。
 その男は去り際に、一つの言葉──道標を伊織に残している。

 けれど、その為には……──

 そこまで思い至り、伊織は俯かせたその顔を険しくする。
 と今関が肺の中で凝り固まった空気を思い切り吐き出せば、

「ま、サラちゃんには感謝しとけよ?」
「サラに?」
「あの子が必死に戻ってって頼んでなきゃお前も医者のおばさんも、マジでやばかったらしいからな」
「サラが、そっか」
「おう。渋ってた引率のおっさんらにずっと頼むんだぜ? 戻ってくれ、戻ってくれ、でないと二人が死んでしまうってさ」
「……そう……なんだ」

 伊織は微かにその顔を緩ませる。
 しかし今関は悔やむように目を瞑れば天井へと顔を向けたまま、呟いた。

「しかし、ひっでぇよなあ」
「え?」
「俺さ、あの医者のおばさんやら自衛隊員のおっさん達……死ぬほど酷い目に会っちまえって、思ってた……。
 菊池は……サナギ狩りの連中のせいだけど、お前を酷い目に会わせて、お前の友達を死なせちまった奴らなんざ……ってさ。
 だけど、だけどよ……」

 今関は息を整えるかのように呼吸を数回繰り返し、けれども紡がれたその声は微かに震えていた。

「……人が、誰かが死ぬのって、辛いんだな…………」

 センターの惨状を見て、瓦礫の中から運ばれていく亡骸を見て、今関は思い知ったのだ。
 人が死ぬとはどういう事なのかを。

「ギルステインに変わっちまえば……暴れるんだよな……」

 ではあの巨体で暴れ狂えばどうなるか。だからこそ、彼女らは必死だったのだろう。


 ──ある日突然、何の前触れも無く、子供が怪物へと変わってしまうギルステイン症。

 暴れ狂う怪物が齎す物とは一体何なのかを知っていたからこそ──


 自分はそれを知ろうとしなかった。知ろうともせず、ただ恨んでいた。
 彼女らが行なった事は早々と許せるものではないが、必死だったのだろう、それだけは今なら分かる。
 分かってしまったら、今関は心の底から恨む事が、憎む事が出来なくなってしまったのだ。

 けれど、伊織は呟いた──今関と同じように、まるで懺悔するかのように。

「違う……違うんだよ、和彦……」
「違うって……何がだよ?」
「菊池も……」
「…………」
「菊池も香奈も、僕が……僕が、この手で……殺したんだ。僕が殺そうと、そう思って、そう決めて、殺したんだ……」
「だけどそれは……」

 何かを言おうとして、結局何も言えなかった。何と言えば良いのか、今関には“まだ”分からなかった。
 伊織は顔を俯けたまま、今関の言葉を遮るように首を横に振った。

「あいつに言われたんだ、ギルステインは人の心の闇を顕したものだって」
「心の、闇?」
「今関も見ただろ? ギルステインのあの姿は僕の心の怪物そのものなんだ。
 壊す、殺す! あれは僕の心の中にある物を表しただけなんだ、きっと。
 カドケウス・ウィルスとかギルステイン症だとか……そんなのは関係ない!
 怪物[ギルステイン]になっても僕は……僕のままだった……!!!」

 菊池や香奈がギルステインになった時、彼らは等しく錯乱し暴れ狂った。
 そして、あの実験の時にギルステインとなってしまった子供達もまた。

 けれど、その中で伊織は違っていた。伊織だけは違ったのだ。


 ──彼だけは彼のままだった。


「……怖いんだ……!! このまま怪物に……喰われてしまうじゃないかって……!!」

 その時は怪物になって、周りにいた人を殺そうとするのだろうか。ヘレナだけでなく、野上だけでなく、今関や久美すらも殺してしまうのだろうか。
 もし喰われなかったとしても、喰われなかったとしたら、それは既に己の心は怪物であるという事ではないのか。

 ──伊織には、分からない。

 少年は手で顔を覆い、膝に顔をうずめるように背を折った。けれど今関は、そんな親友の肩に力強く手を置き。

「伊織、その怪物ならオレも飼ってる。克己にーちゃんも、きっと伊織の親父さんやお袋さんも……久美ブーのやつもな」
「だけど……」

 そうだとは……思う。

 けれど──

 自分はギルステインになり、彼らはギルステインにならなかった。
 その違いは一体、何なのか。有るのかも知れないし、無いのかもしれない。
 ただ、少年にとってその問いの答えが何よりも恐ろしいのだ。

 しかし今関は伊織のその恐れを掃うかのように、ただただ真っ直ぐに親友の目を見詰め。

「ギルステイン症が心の怪物をそのまま表に出しちまう病気だっていうなら大丈夫だ、伊織!
 心の怪物なら心で、“魂”で、戦える!」
「魂で……」

 おう! と今関は大きく頷いた。

「お前の魂はオレが保障してやる! 大丈夫だ、お前は自分の闇になんか負けやしねェ!!」

 鼻息荒く力強く、今関はそう言い切った。少年のその言葉には、根拠も確証もありはしない。
 けれど、ただただ、少年はそう思う。

 思うからこそ、彼はその思いを言葉に変えた。


「お前はギルステインなんかに、絶対に負けない!!!」


 相応の年月を経た者からすればそれはきっと、幼く青い思いの顕れでしかないのかもしれない。

 けれど確かな絆で結ばれ、真摯な思いの込められた言葉には時として力が宿る。
 人を励まし、時には奮い立たせ、そして支える力が込められるのだ。


 ──だからこそ。


 僅かな沈黙の後、上げられた伊織のその目に宿った光は──


「うん、ありがとう……和彦」


 ──先ほどよりもずっと確かな意思に、満ちているようだった。









◇ 第一部[PUPAL] 完 ◇









◆後書き◆

昨日の夜には出すとか言っといて、結局投稿できなかった……。
読み直しに思いの外時間がががが……。

という事で、第一部[PUPAL]はこれで終わりになります。
次はいよいよネギくんが登場です。長かった、本当に長かった……。
しかしもう一人の主人公なのに、台詞もなしとは何たること。


しかし、この今関と伊織の遣り取りは、原作だと本当はバスの中で行われた物だったり。
個人的に最後に持ってきたかったから、ちょいとシャッフルさせていただきました。
だけれど結構熱い台詞を言ってたんですね~、今関は。

……何故、ギルステイン原作4巻でははぶられたし、今関……orz

ただ第二部の方は少し時間掛かるかも、しれません……。
若干、迷ってる物がありまして、流れには考えてあるんでけすけど、設定をどうしたものかと考え中。
気長に待っていただけるとこれ幸い。それでは。



[8616] 第二部[麻帆良] 序ノ章[少年/英雄ノ忘レ形見]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:891c474c
Date: 2010/08/03 21:22



 その日は、春も近いのに珍しく、淡雪が降りた日だった。

 今日も昨日と同じように穏やかに終わる日の……筈だった。


 けれど──


 家が焼けていく人が死んでいく村が壊れていく雪が炎に煽られ溶けていく。

 響き渡るは怒号に悲鳴、咆哮に言霊。

 地面に樹に煉瓦造りの屋根に壁に数多の血がこびり付く。赤に緑に青に……それは様々な色を成していた。

 ついさっきまで暖かな人々に満たされていた其処は最早、地獄の釜の中と変わり果てていた。






 ──コロセ!






 声が聞こえた。囁くかのようなその声は、罵るかのようなその声は、憤るかのようなその声は心の中に響き渡り染み渡り瞬く間に埋め尽くす。

 ──殺セ!

 ──アノ歪ナ悪魔共ヲ!

 腕を振るう。
 淀んだ風の刃が、無貌の悪魔を切り裂き木っ端微塵に切り刻んだ。

 ──殺セ!

 ──アノ捩ジクレタ怪物共ヲ!

 指を差す。
 黒の光が、異形の怪物を貫き無数の風穴を開けた。

 ──殺セ!

 ──アノ悪魔ト怪物ノ淵源共ヲ!

 目を向ける。
 濁った雷が無数に走り、逃げ惑う■■■んを焼き尽くした。

 ──殺セ! 殺セ!! 殺セェ!!!

 堪らない──ついさっきまで■ん■■を蹂躙するばかりだった悪魔が浮かべた、その絶望が。

 堪らない──破壊の限りを尽くしていた怪物が、瞬く間に肉片へと変わるその様が。

 堪らない──鼻腔に染み渡る、■■げ■の肉の焼けるその香[かぐわ]しい匂いが。

 堪らない──耳に届く悲鳴が、哀哭が、慟哭が、断末魔が、阿鼻叫喚が。


 アアタマラナイ。タマラナイタマラナイタマラナイ。


「────────────────」

 笑う、哂う、嗤う──今や、たった一つの笑い声は響き渡る。

 それは喜悦だった、それは憤怒だった、それは悲哀だった、それは歓楽だった。


 けれど、それは──

 ──もがき苦しむ、苦悶の声だった。


「■■……」


 名を、呼ばれた気がした。

 振り返れば、その視線の先に一つの人影──フードを目深に被り、ローブを羽織った男だった。
 フードから僅かに垣間見えた顔立ちは若いながらも精悍で、その肉体は細身ながらも引き締められていた。
 右手には己の背よりも高い樫の樹の杖を持ち、フードの縁から赤毛の髪が覗いて見える。

 燃え落ちる木々、崩れ落ちる家屋、散乱する数多の死骸、辺り一面から立ち上る黒煙、大地に染み込んでいく鮮血、天を赤く染めるほどの炎。

 そんな無残な光景の中にあって尚、男は堂々と立っていた。

 ──それは己が此処から待ち望んで止まなかった人の筈だった。

「もう泣くな、■■。お前は俺が、止めてやる、絶対にな。
 だからもう泣くな……もう、泣かなくていいんだ……■■」

 もう一度、名前を呼ばれた。






 そんな気が……した──









◇ 魔獣星記ギルま! 序ノ章 [少年/英雄ノ忘レ形見] ◇









 ──2001年6月下旬。

 イギリスはグレートブリテン島南西部にあるウェールズ地方の片田舎。
 のどかな田園風景の広がる其処に建てられたメルディアナ魔法学校では今、卒業式が行なわれていた。
 聖堂も斯くやと思わせるほどの立派な造りの講堂には十数人の子供達が整列し、ステンドグラスを背にした学校長が壇上から晴れて卒業する子供達を見下ろしている。
 講堂の両脇には学校の教師達が立ち並び、子供達の後ろには彼らの父母が式を見守っていた。

「卒業証書授与……、この7年間、よく頑張ってきた。だがこれからの修行が本番だ。気を抜くでないぞ」

 魔法学校を卒業すると言う事は日本で言う所の義務教育を修了したような物だ。
 これからの彼らには、卒業証書に浮かび上がった地で一人前の魔法使いになる為の修行の日々が待っている。

 子供達の名前が順々に呼ばわれ、学園長から卒業証書を手渡されて行く。

「ネギ・スプリングフィールド君!」
「はい!」

 卒業──それは一つの到着、終着であり、新たな門出、旅立ちである。

 学校長たる老人の胸中には、子供達の行く先への不安が確かにある。
 けれど同時に、子供達の瞳に宿った明るい光は、老人の枯れた不安など吹き飛ばすようだった。

「君の行く先に幸あらんことを。これからも頑張るんじゃぞ、ネギ君」
「はい、ありがとうございます、校長先生」
「だが、あまり無茶はせんようにな」
「あはは……はい」

 そんな風に、メルディアナ魔法学校学校長は穏やかな笑みを浮かべながら、子供達一人一人に新たな門出を祝福する言葉を掛けていく。
 そして困ったように笑う赤毛の少年の頭を、他の子供達と同じようにその節くれ立った手で撫でたのだった。






 ──かくして、メルディアナ魔法学校の卒業式は無事に終わりを告げた。






「ねえ、ネギ、卒業証書の見せ合いっこしよ?」

 卒業式を終え、レンガ造りの学校の廊下を歩いていた赤毛の少年──ネギ・スプリングフィールドに声を掛けたのは、ネギの幼馴染みである少女──アンナ・ユーリエウナ・ココロウァだった。

「え? なんで?」
「修行場所、まだ見てないでしょ? 私もまだ見てないから、お互いに見せ合いっこすんのよ」
「うん、良いよ。はい、アーニャ」

 その後ろではネギの従姉であるネカネ・スプリングフィールドが微笑ましげにネギとアーニャの遣り取りを見守っている。
 彼女が此処にいるのはネギとアーニャの晴れ姿を見に、今日の卒業式に出ていたからだった。

 そして、少女と少年は互いに持っていた証書を交換すれば、

「いい、ネギ、合図したら一緒に見るのよ?」
「うん」
「それじゃ……いっせーの、せ!」

 二人はばっと証書を広げ合い、そしてネギはアーニャの卒業証書に浮かび上がっていた文字を読んで感嘆の息を零したのだった。

「わ、アーニャ、凄いな。ロンドンで占い師だってさ」
「………」
「アーニャ、僕のはどうだった?」
「………」
「………アーニャ?」

 何度呼びかけても何も返さない彼女を不思議に思い、ネギは視線を証書から傍らへと移す。
 けれどその先に少女の姿を無く、あれ? と後ろを振り返ればアーニャは立ち止まり、呆然と少年の証書を見詰めていた。
 そんな彼女の奇行を不思議に思い、ネギは踵を返すと、脇から自分の証書を覗き見る。

 そしてそこに記されていた文字は、己に課せられた修行は、



『A TEACHER IN JAPAN』



 という物だった。



「……………」
「……………」

 少年は目をぱちくりとさせ、じっと見る。
 ネカネも二人の様子を不審に思ってか、アーニャの後ろからひょいと覗き込んだ。

「まあ……」

 ネカネは驚き、思わず口を押さえた。
 そしていつまでも変わらないその文字に、ようやっとネギとアーニャの思考は追い付いたのか──

「「ええええええええええええええええええ?!」」

 メルディアナ魔法学校に、二つの可愛らしい声が大きく響き渡ったのだった。


















 時は過ぎ、2002年2月初旬。

 日本の麻帆良の地に、遠くはイギリスの少年が訪れた。

 微かな不安と大きな期待に逸る心を胸に秘めながら。

 その地で、彼は一人の少年と出会う事となる。



 けれど、それはまだ先の事──

 ──ほんの少しだけ、後の事。








◇ 序ノ章 了 ◇









◆後書き◆

ようやっと第二部連載開始です!
長かった、ようやっとネギくんですよ、いや本当に。
という事で暫く、伊織の出番はなし……かな?
ちょっと短いですが、序章という事で。
そして第二部始まったという事で、第一部のやつを追々修正して行きたいと思います。あくまで文章表現を直す程度のつもりですが。

しかし未だプロットが不安定……というかこれで行こうか迷ってる次第ですが、一先ずはプロットどおりに書いていこうかと思います。
さて……自分にネギまのキャラを書き分けられるかな……。

ところで、1万PV突破しました。第一部完と共に越えたのはある意味切りが良いですね。
しかし1万PV稼ぐのって大変なんだな~と思いました。
……どれくらいの人が、全部に読んでくれているのか分からないのがちと不安ですが。
それは兎も角、ありがとうございました。



[8616] 一ノ章[訪来/異国ノ少年]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:2fdf918c
Date: 2010/08/03 21:36



 ──イギリスの片田舎、ウェールズに昔からある古い鉄道のホーム。

 田舎であるが故に何時しか寂れ、今となっては滅多に使う人のいなくなった其処に何時もと変わらず列車が走り込む。

「あ、来た!」

 ただ何時もと違うのは、それを今か今かと待っていたる三つの人影がホームにあった、と言う事だろうか。

「よいしょっと」

 小さな丸眼鏡を掛けた赤毛の少年──ネギ・スプリングフィールドはホームに設けられた待ち合い席から立ち上がると、床に置いてあった大きなリュックサックを背負い、席の横に立て掛けてあった樫の木の杖を手に取った。
 布で丁寧包まれたそれは“6年前のあの時”、父であるナギ・スプリングフィールドから直接手渡された物。
 ネギの持ち物の中で唯一と言っても良い、父と所縁のある物だった。

 少年は杖を仰ぎ見る。

(いよいよ、なんだ……)

 そう、少年にとって、遂に待ち焦がれた日が訪れたのだ。


 ──一人前の魔法使いとなる為に、育った故郷を旅立ち異郷の地へと向かうその日が。


 だからか。少年の杖を仰ぎ見るその様はまるでその樫の木の杖を通して何かを見ようとするかのようにも、はたまた祈りを捧げているようにも見える。
 そして一息吐くと、自分の見送りに来てくれた二人──従姉妹であり姉と慕ったネカネ・スプリングフィールドと幼馴染みであるアンナ・コーリエウナ・ココロウァへと振り返った。

「それじゃあ、行って来ます、お姉ちゃん、アーニャ」
「日本でも元気でね、ネギ。向こうに着いたら、案内の人が迎えてくれるらしいから、時間には遅れないようにね。場所も間違えちゃダメよ?
 後、いろいろと大変でしょうけれど、女の子には優しくなさいね?」

 いよいよの別れが迫り、時には姉として、時には母として少年の成長を見守ってきたネカネは不安を隠しきれないようだった。
 子供心にそれを察してか、ネギはネカネを元気付けるかのようににっこりと笑い掛ける。

「うん、お姉ちゃん。向こうにはタカミチもいるし、きっと大丈夫! 生活が落ち着いたら、手紙書くね」
「ええ、楽しみにしてるわ」
「……ふんだ」

 その傍らから、アーニャのつっけんどんな声音が聞こえ。

「私はアンタみたいなボケでガキに先生なんてできるとは思えないけどねー」
「む、大丈夫だよ、アーニャ! そういうアーニャこそ、ロンドンで占い師なんて大丈夫なの?」
「それ、どういう意味よ……」
「そのまんまの意味! 誰かの運勢占うなんて繊細なこと、ボク、アーニャには向いてないと思うな」
「なぁんですってー!? ネギのくせにー!」
「そっちこそ!」
「……あらあら」

 互いの挑発にむきになって顔を近付け睨み合う子供達二人に、ネカネは微笑ましげな眼差しを送る。
 それは昔から行なわれてきた風景だった。この子達はこうやってじゃれ合いながら日々を過ごし、共に大きくなってきた。
 けれどそれも明日からは見られなくなる。ネギは旅立ちを向かえ、アーニャもそう遠くない内に彼女の修行の地であるロンドンへと旅立つ事だろう。

 ネカネは、ネギとアーニャの二人が各々の道を行くその門出に立ち会えた事を誇らしく思う。
 ただ……この微笑ましい遣り取りがもう見られなくなるかもしれないと思うと、ほんの少しだけ寂しかった。

 ホームに列車の出発を告げるベルが響き渡る。
 それを合図とするかのように、ネカネはパンパンッと手を打ち合わせ。

「ほらほら二人とも、落ち着いて。ネギ、そろそろ乗らないと列車が出発しちゃうわよ?」
「あ、はーい、それじゃあ二人とも元気でね!!」
「あ……」

 ネカネの言葉に背中を押されるように、ネギは手を振りながら二人の元を離れていく。
 そんなネギの後ろ姿を見て、アーニャは僅かな躊躇の後、その躊躇いを振り切るかのように大きな声で呼び掛けた。

「ネギ!」
「え?」
「頑張りなさいよね! 途中で投げ出すなんて許さないんだから!!」

 その言葉にネギは心底嬉しそうな笑みを満面に浮かべ。

「うん! アーニャも頑張ってね!!」

 こうして、ネギ・スプリングフィールドは二人に見送られて、極東の異国──日本を目指し故郷を旅立ったのだった。



 その小さな胸を、期待と不安で膨らませながら──









◇ 魔獣星記ギルま! 一ノ章 [訪来/異国ノ少年] ◇









 そして己の修行の地である、日本は埼玉県麻帆良市、麻帆良学園に辿り着いたネギは、大いに戸惑いながらも感嘆の息を吐いていた。

「すごいや……これが日本の学校かー……!」

 麻帆良学園中央駅の改札口を出たネギの視界に真っ先に入り込んで来たのは人、人、人。
 まるで人が波のように進む、麻帆良学園の朝の通学風景だった。

(まるでお祭りみたいだ……)

 これ程の人だかりを見たのは何時以来だろうか。少年は思わず見入る。
 その人数は、もしかしたなら故郷のお祭りでもこれだけの人は集まらなかったかもしれないと思えてしまう程だった。

(日本は本当に人が多いんだなー……ってあ!)

 と、少年は自分がここに居る理由をはたと思い出し、慌てて胸元から懐中時計を取り出した。

「わ、いけない。待ち合わせの時間まであんまり時間ないや。僕も急がないと!」

 そして背中の荷物の具合を直すように一度、身体を揺らし、駅の階段を降りて行く。

「おーい、そこのきみー!」

 独特のイントネーションを含んだ、可愛らしい少女の声が辺りに響いた。

「きみや、きみ! おっきな棒かついどる、そこの男の子ー!」
「え……?」

 大きな棒、正確には大きな樫の木の杖なのだが、兎角、そんな大仰なものを持っているのはネギただ一人。
 声に釣られネギに視線が集まったが、朝の通学に追われて自然と流れていく。
 そして掛けられた言葉に立ち止まり、声のした方を振り返ったネギの前に二人の少女が立っていた。

「きみが、ネギ・スプリングフィールド君?」

 黒い綺麗な髪を長く伸ばした少女が一枚の写真とネギを見比べながら、そう尋ね。

「あ、はい、そうです。もしかして、あなた方がお迎えの人ですか?」
「そうや。おじいちゃん、あ、ここの学園長ってウチのおじいちゃんなん。で、頼まれてお迎えに来ました。
 ウチは近衛 木乃香。隣の子は神楽坂 明日菜。よろしゅうな~」
「はい、こちらこそ!」

 木乃香と名乗った少女は、人好きのする可愛らしい笑みを浮かべながらペコリとお辞儀。
 それを見て、そう言えばこっちではお辞儀が挨拶なんだっけと、ネギも慌てて頭を下げ返した。

「なによ木乃香、お迎えの人ってこいつなの?」
「そうやよ、アスナ」
「なーんだ。学園長の知り合いっていうから、よぼよぼのおじいさんかなにかと思ってたわ」

 その隣でネギをまじまじと見詰めていたツインテールの少女──アスナが、何処か面白くなさげに呟いた。
 ネギはその少女の様子に居心地の悪さを感じながらも、左右で色の異なるその瞳を見返し。

「でアンタ、麻帆良学園に何の用なの? 転入だったら、初等部は違う地区よ?」
「そやね~。しかもガッコに来て早々、学園長室にお呼ばれなんて…………もしかして、どこかの王子様とか?」
「ち、違います!」
「なんや、違うん?」
「はい、ボク、ここで教師をするんです!!」
「へ~、そうなんや~、ウチよりちっこいのに偉いな…………え?」
「……はぁ?」

 その瞬間、三者の間に沈黙が降り立った。
 木乃香は笑顔のまま表情を凍らせ、アスナは片眉を釣り上げながら。
 周囲の賑やかさとは正反対のその静けさに、背筋がむずむずとするようなネギは居た堪れなさを感じ。

「えっとあ、あの……?」
「……もっかい聞いてええ? ここに何しに来たん?」
「ですから、ここで教師をしに」
「はあ!? アンタ、何言ってんのよ。アンタみたいなガキが先生なんて出来るわけないじゃない。
 嘘吐くんだったらもっとマシな嘘吐きなさいよ」

 木乃香の再度の、確認の問い掛けに答えたネギの言葉はけれど、アスナにむんずと頭を掴まれ妨げられた。
 ぐりぐりと頭を押さえるその手は暗に本当の事を言え、とネギに告げるようだった。

「アスナ、乱暴はあかんえ」
「こんなくだらない嘘吐くようなガキを気遣うことないわよ、木乃香」
「もう~。ええから、手をはなし」

 めっと指を立てる木乃香に諭されるように、アスナはネギの頭から手を離した。
 小さく舌打ちしながら、ではあったが。

「う、嘘なんて言ってません! 本当なんです!!」
「アンタねぇ……」

 まだ言うか、とアスナはネギを睨み付け。

「本当だったら、本当なんです、信じてくださぁい!!」

 やや目を潤ませながらも、それでも言葉を変えないネギを見て、木乃香はう~んと頤に指を当てつつ小首を傾げた。
 こんな小さな子が教師をやるなど流石に信じられないが、けれどこの少年が嘘を吐いているようにも見えなかったのだ。

「ほな、学園長室に行っておじいちゃんに話をきこか? そうすれば、ホントの事わかるやろし。
 それにおじいちゃんが坊やを呼んでたんはかわらへんしね」
「む、まあ、確かに。それが一番かしらね」
「は、はい、お願いします、近衛さん、神楽坂さん!!」
「ほいほい。ほな学園長室にレッツゴーや~、二人ともー」



 そうして、三人は女子中等部校舎にあると学園長室に向かい──



「うむ、ネギ君は確かにここで先生をすることになっとるよ。
 彼には高畑君の代わりに君達2-Aのクラス担任になってもらおうかと思っておる」
「なあっ!? 一体どーゆーことなんですか、学園長先生!?
 こんなガキが先生やるだけじゃなくて、よりにもよって、よりにもよって高畑先生の代わりに……!?」

 明日菜が学園長の主たる老人、近衛 近右衛門に詰め寄るという事態になったのだった。
 その後ろでネギは事の推移、というか明日菜の激昂が静まるのを木乃香と並んでただただ待っていた。
 待つしか、出来る事は無かったとも言えるが……。

 しかし、目の前で老人に食って掛かっている少女を見ていると、聞き及んでいた大和撫子という言葉とは余りに程遠かった。

(なんだか、激しい人だな~。日本の女の人は親切で優しいって聞いてたけど、そうじゃない人もいるんだ……)

 しかし少年としては、こうも反対されるのは些か心外だった。
 向こうはこちらの事情を知らないとは言えど、それでも小さな不満を感じてしまうのは、少年がまだ幼いからか。


『A TEACHER in JAPAN』


 ──それはネギ・スプリングフィールドが“一人前”と認められる為に成し遂げなければならな魔法使いの修行。


 通過しなければならない儀式と言える。

 けれど誰よりもネギこそが、己に課せられた修行に戸惑い、その達成を不安に思った事だろう。
 各人の修行内容は公表されている訳でも文書として纏められている訳でも無い為、過去どのようなものがあったのかはネギ自身知る由も無い。
 ただネカネやメルディアナの校長といった周囲の戸惑いを見るに、ネギのそれはかなり珍しいものだったのだろう。
 それでもそれを受け入れ、彼は頑張ってきた。日本語を学び、教職についても出来るだけの事はやってきた心算だった。

 だのに、自分が子供と言うだけで、あの神楽坂 明日菜という少女は反対してばかり。

(ボクだって、頑張って準備して来たのに……)

 ネギはその事に、我知らず、むすっとしていた。それはある意味で、とても子どもらしい表情だった。
 その顔を目に留めた学園長は豊かな眉に隠された目を微かに細め、内心、感慨深げに息を吐き。

「学園長先生!」

 と、それは兎も角、今はがなりたてるアスナである。

「まあまあ、アスナちゃんや。あの子は日本で学校の先生をやれという……そりゃまた大変な課題をもろうてのー。
 それに高畑君は今後、外に行く事が多くなりそうでの。担任をやっていられる余裕がなさそうなんじゃよ。そこでネギ君という訳じゃ」
「そこでってなんですか、課題ってなんですかそれ!? 納得できません! 大体、なんで先生なんですかー!! しかも、高畑先生の代わりだなんてそんな……っ」

 どうやら少女にとって、ネギが高畑の代わりをする、というところに一番の不満があるらしかった。
 その時、コンコンッとドアをノックする音が響き。

「学園長、高畑です」
「おぉ! 丁度よいところに来たの! どうぞ、高畑くん、入ってきてくれ」
「え、た、高畑先生?!」

 少女にとって、聞き間違えようの無いその声音と言葉に、ばっと後ろを振り返る。
 そして入ってきたのはスーツを着込んだ、灰色の髪の青年──タカミチ・T・高畑だった。
 彼女達の担任でもある青年へと向け、明日菜と木乃香の二人は揃って挨拶をし、

「た、高畑先生! お、おはよーございます!!」
「おはようございます~」
「やあ、お早う、アスナ君、木乃香君」

 そしてネギもまた、思いがけず早い知己の人との再会に嬉しげな声を上げたのだった。

「あ、タカミチ!」
「やあ、ネギ君。久しぶりだね」
「うん、久しぶり!」

 気安げな二人の遣り取りにアスナはうろたえた様に目を泳がせた。

「あ、あの、高畑先生?」
「ん、なんだい?」
「ふ、二人ってお知り合い……なんですか?」
「ああ、そうだよ」
「はい、そうです」
「ええっ、そんな……」

 先程の勢いは何処へやら。揃って頷いたネギと高畑の二人に、気圧されたように少女は一歩後ずさり。
 これを機と見た学園長はここぞとばかりに声を上げたのだった。

「時に二人とも、そろそろHRの時間ではないのかの? 木乃香、アスナちゃん、今日は案内役をやってもらってご苦労様じゃったの」
「まあ、これぐらい朝飯前やわ~。ほな、アスナ、HR遅れるから行こうな~」
「ちょっと木乃香?! HRったって、高畑先生、ここにいるじゃない!」
「うちらは先生がくんの、教室でまってなあかんえ? それともアスナは、先生と一緒に教室に行きたいん?」
「えっ、あ……そ、そういうわけじゃないけど……」
「アスナ君、近衛君、申し訳ないけどあやか君にHRは少し遅れるかもしれない、と伝えておいてくれないかな?」
「は、はい、分かりました! あの、その、高畑先生……」
「さあさあ、それじゃ、高畑先生の伝言、イインチョに早よ伝えなな、アスナ~」
「あっ、ちょっと木乃香、押さないでよ!!」

 そして二人の少女は慌しく部屋を出る、その間際に、

「そうそう、もう一つ! しばらくネギ君をお前さん達の部屋に泊めてもらえんかの? まだ住むとこ、きまっとらんのじゃよー!!」

 頼んだもん勝ちと言わんばかりに二人に掛けられた、学園長の更なる言葉。
 それに返ってきた答えと言えば、

「は~い、ええよ~」
「ええ?! 何から何まで、学園長ーっ」

 快諾と、なんとも恨みがましい声という正反対のものだった。
 そして学園長室の扉が慌しくもバタンと閉じられた途端、まるで嵐が去った後のような静けさに学園長室は満たされたのだった。
 学園長は場を区切るように、深くゆっくりと息を吐き出し。

「……では、ネギ君、少々慌しくなってしまったが本題に入ろうかの」
「は、はいよろしくお願いします」
「さて、君はメルディアナ魔法学校の卒業証書にて、日本で教師となるべし、という修行を賜った訳じゃが、さりとてこちらとしてはすぐに教師として受け入れる、という訳にはいかん。
 まずは教育実習とゆーことになるかのう。実習期間は来週の頭から3月までじゃ。担当クラスは2-A、さっきの二人もおるぞい」
「は、はあ。ですけど、すぐじゃなくて良いんですか?」
「なぁに、初めての外国で慣れんことも多かろうて。今週一杯はこちらでの生活に慣れることに努めなさい」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」

 ぺこりとお辞儀をするネギに老人は一つ頷き返し、その豊かな眉根を上げると、その年経た眼で目の前の少年を見遣る。

「……この修行はおそらく大変じゃろう。しかし一度課せられたからには。変えることはできぬ。
 しかも一度[ひとたび]しくじれば、二度の機会は無いといってよい。となれば、故郷[くに]に帰らねばならん。
 魔法使い見習いネギ・スプリングフィールドよ、そなたに改めて尋ねよう。遣り遂げる、その覚悟はあるのじゃな?」

 反射的に答えようとしたネギはしかし、その眼差しに圧される様に口を閉じた。

 覚悟──その言葉が持つ重さは、ネギにはまだ解らない。
 いつか解る日が来るのかも、少年には分からない。

 けれどネギは父のような“立派な魔法使い”になる夢を、まだ始まっていもいないのに諦めたくはなかった。
 だから唾を飲み下し気を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた後、今度は真っ直ぐに老人のその目を見返し、

「はい、必ず遣り遂げて見せますっ!!」

 しっかりと頷いて見せたのだった。
 その答えに満足したように、老人もまた深々と首肯する。

「……うむ、結構。では、君の指導教員を紹介しようかの。しずな君、入ってきなさい」
「はい」

 老人の言葉に促され、部屋に入ってきたのは髪を腰の高さまで真っ直ぐと伸ばし眼鏡を掛けた、美しい妙齢の女性だった。

「源[みなもと] しずなです。これからよろしくね、ネギ君」
「……あ、ハイ、よろしくお願いします!」
「教職やこの学園について分からないことがあったら、基本的には彼女に相談しなさい」

 その女性に思わず見とれたネギは慌てて、お辞儀をする。
 その少年らしいぎこちなさを可愛らしく思ってか、しずなはくすくすと微笑んだ。

「さて、さっきも言ったように君が担当するクラスは2-Aという事になるのじゃが、如何せん、他のクラスよりも元気な子達があつまっておっての」
「元気、ですか……」

 元気、と言われてネギの脳裏に思い浮かんだのは幼馴染みの少女の姿だった。
 いやいやいや、とネギは心の中で頭[かぶり]を振った。あれは元気なんてもんじゃない、やんちゃなんだと思い直し。

「うむ、振り回されることもあるじゃろうが、本質は気の良い子達ばかりじゃ。悪い事にはならんじゃろうて。
 ただまあ、クラスのことで困った事があったら高畑君に相談するといい。
 今まであの子達の担任をやっておったんじゃ。きっと力になれるじゃろうて。そうじゃな、高畑君?」
「ええ、勿論ですよ、学園長」
「ありがとう、タカミチ」
「木乃香はそうでもないと思うが、アスナちゃんは2-Aのご多分に漏れず、元気の良い子じゃからの。
 さっきみたいに勢いに負けんよう、頑張るんじゃぞ」
「は、はい……」

 言われ、さっきまでの遣り取りを思い出してか、微かに顔を顰めたネギを見て、老人はフォッフォッフォと笑い。

「それじゃあ、後は任せたぞい。高畑君、しずな君」
「分かりました」
「はい」
「それじゃあ、ネギ君、HRで君の事を紹介しようと思うだけれど、大丈夫かい」
「うん、タカミチ……じゃなくて、はい、高畑先生!」
「はは、そうかい。さて、君を見たら皆はどんな反応をするかな?」
「え、う~ん……」
「良くも悪くも、驚くでしょうね」
「うぅ、緊張してきた、かも……」
「大丈夫大丈夫、きっと受け入れてくれるさ。それじゃあ、早速行こうか」
「うん!」

 不安げなネギを安心させるかのように、高畑は少年の頭を撫でた。
 ネギはこそばゆそうにしつつも、その大きな手の平の按撫にエヘヘと顔を緩ませる。
 高畑はそれを見て、もう大丈夫だろうと少年の頭から手を離し、学園長へと顔を向けた。

「それじゃあ、僕達も教室に向かいます」
「うむ」
「失礼しました」
「し、失礼しました!」

 いよいよ教室へ向かうことになり、再び言動に緊張を滲ませるネギに大人達は微笑ましそうに、或いは懐かしそうに笑みを零し。
 そうしてネギ達もまた学園長室を後にして、2-Aへと向かうのだった。


















◆ ◇ ◆ ◇ ◆


















 そして、老人ただ一人だけとなった学園長室はとても静かだった。
 先程の慌しさ喧しさ賑やかさが嘘であったかのような静寂の中に老人は在った。
 その中で近衛 近右衛門は深々と、感慨深げに息を吐いた

(あの子はどうやら、この6年間健やかに育ってくれたようじゃのう……)

 脳裏に思い描かれたのは先程の少年の姿。今のあの姿を見れば、過去に人形のように感情に乏しい時期があったなどと誰が想像出来ようものか。
 ただまあ、健やかと言っても、メルディアナ魔法学校の校長をやっている古い友人からすれば、それでも色々とあったらしいが。

(……少なくとも、翳りは見られぬ。今はそれで……十分じゃろうて)

 あの時の己らの判断が本当に正しい物だったのかどうかは、それは未だに確信を得ていない。
 得ていないがそれでも、今の少年のあどけなさと健やかさを見れば、正しかったのだと思う事が──安堵する事が出来た。

 だがしかし──

 この先もそうであるかは、誰にも分からない。

 その懸念は今の日本が、妖怪でも悪魔でもない、異形の怪物の脅威に晒されている事にも起因した。
 しかもその中心は今や、日本となりつつあった。そしてこの地もまた、それに無関係ではいられないだろう。
 子供達と係わり深いこの職業ならば、尚の事。

(さて、この地であの小さな魔法使い殿は何と向き合うことになるのかのう……)

 ともすれば、彼自身の過去と向き合う事になるかもしれない。或いは少年のその顔が苦しみに歪む事となるのかもしれない。

 けれどそれだけではないと、老人は信じたかった。
 修行とは即ち、成長である。そしてその修行の場所として、ここは選ばれたのだから。
 そして何よりも老人は、この地で学び育っている光が齎す物を信じたかった。

 ただ、今はまだ老人が出来ることと言えば数少なく──精々、祈るか見守るぐらいしかないのもまた事実。

 だからこそ、だろうか。老人は椅子の背凭れに深く身を沈め、祈るように机の上に手を組んだ。


(願わくば……)


 ──願わくば、彼らの道行きに幸い在れ、と。












◇ 一ノ章 了 ◇












◆後書き◆

実に4ヶ月ぶりの投稿。ご無沙汰しておりました。
ようやっと一ノ章を投稿できました。

ネギまのネギ君を書くことが出来ました。しかし、若干、キャラの発言が再現できてるか不安です。違和感あったら指摘してくださるとありがたし。
しばらく伊織の登場は第二部での伊織の登場はまだ先な感じでしょうか。
……案外、さっさと出てくるかもですががが。


ちなみにネギまのようなパンチラ的なシーンは、基本カットしていこうかと思います(上手く文章で表現できないとも言う)。


…………しかし、ネギまからパンチラとかカットしちゃっていいんだろうか……。



[8616] 二ノ章[兆し/魔法ノ呪文]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:c1b718ce
Date: 2010/09/29 01:14


「…………………」

 木乃香に学園長室を押し出されたアスナは、肩を怒らせずんずんと廊下を突き進む。

「アスナ~、ちょっとまってえな~」
「…………………」

 むっつりと口を閉ざしながら進む彼女に置いていかれまいと、その後ろを木乃香はとことこと早足で着いて行く。
 けれど階段を降りて行く最中で、我慢しきれなくなったとばかりにアスナは悪態を吐いたのだった。

「ああ、もう最悪ッ……。あんなガキが高畑先生の代わりだなんて! 木乃香だってそう思うでしょ!?」
「う~ん……まあな~……」
「ジジイもジジイよっ。なんであんなガキに先生なんてさせようとすんのよっ」
「だけどおじいちゃんの事やから、あの子に先生できると思うてるからさせんのとちゃうんかな?」
「……この際、あのガキが先生として相応しいとかどうかなんて正直どうでもいいわ! 心底どうでもいいわ!!」
「さっきと言ってることかわっとるで?」
「……高畑先生が……」
「高畑先生が?」
「高畑先生が! 私達のクラス担任でも英語の教科担当でもなくなるってどういうことなのよー!!」
「……あー……」

 朝のHR間近だからか、廊下や階段といった彼女達の周囲に人影はない。
 だから彼女の叫びで人目を集める事はなかったが、それでも木乃香は居心地を悪そうに声を零し。

「ハァァ……」

 アスナは一転肩を落として、先ほどの気勢もどこへやら項垂れるようにしながら階段を降りて行く。
 そして2-Aの教室に入ると自分の席にどっかりと腰を下ろし、机の上に身を投げ出したのだった。

「あ~もう、なんなのよ、どうしてこうなったのよ~」
「アスナ、愚痴ってないでほら、いいんちょに先生の伝言つたえなくていいん?」
「うぅ~……………」

 迷うようにアスナは唸っていると、その傍に歩み寄ってくる少女が一人。
 日本人離れした顔立ちに腰の高さにすらりと伸びた手足、白い肌に映える鮮やかな金の長髪を靡[なび]かせる彼女の名は雪広あやか。
 初等部の頃から、アスナと何かと縁のある少女だった。

「アスナさん、時間ギリギリですわよ? もう5分早く寮を出るようになさっては?」
「あ、おはようや~、いいんちょ」
「お早うございます、木乃香さん」
「……ふんだ、こっちだって色々とあったのよ……でなけりゃ、もっと早く着いてたわよ……」
「あら、それは一体なんですの?」

 アスナはむすっと顔を顰め。

「………木乃香、お願い」
「そこまで言ったんやったら言ってくれたらええんに」
「口にすることすら……腹立たしいわ……」
「もうっ、困った子やなぁ、アスナは~」

 呆れた、と言わんばかりに黒髪の少女は頬を膨らませ。

「あんな、いいんちょ、先生HRに少し遅れるって」
「あら、珍しいしいですね。それはまたなぜでして?」
「うん、あんな──」
「ガキよガキ、ガキを連れてくんのよ!」

 黙りこんだと思ったら口を挟むアスナに、あやかは呆れように息を吐いた。

「ガキ……というと、転入生の方がまた私達のクラスに?」

 あやかは二人から外に面した窓の方へと視線を移す。その視線の先にあったその窓際の席には、浅黒い肌の少女と談笑している白人の少女の姿。
 あやかの視線に気付いてか、少女はにこやかな笑みと共に手を振ってくる。それに応え、あやかも手を振り返すとアスナ達へと視線を戻した。

「変ですわね、つい先日、サラさんが入ったばかりですのに。
 まあ……それは一生徒に過ぎないわたくしが今更言っても詮無いことなのでしょうが。
 それでその方はどんな子でして、アスナさん?」
「………」

 しかし答えたくない、とばかりにアスナは押し黙る。
 その代わりに答えたのはいつもの如く、にこにこと笑みを浮かべた木乃香だった。

「転入生じゃなくて新しい先生や~」
「はぁ……それは実習生の方がくるということでしょうか、木乃香さん?」
「ん~、それはよう分からんけど……高畑先生の代わりにうちらの担任になるかもとかなんとか言っとったな~、うちのじいちゃん」
「まあ!」

 その木乃香の言葉で、何もかも合点がいったとばかりにあやかは頷いた。、

「それでアスナさんはこんなにご立腹でしたのですね」
「そうなんよー」
「ちょっと二人ともっ?!」

 聞き捨てならないとばかりにアスナは慌てて机から身を起こす。が、それに構わず二人はとんとんと話を進め。

「んでな、その先生、なんと男の子なんや~」
「あら、男性の方なのですか。ですけど木乃香さん、年が近いとはいえ、年上なのです。
 男の子、という言い方はあまり関心しませんわ」
「ちょっと、木乃香、いいんちょ、聞いてんのっ?」
「ちゃうちゃう、本当に男の子なんや。多分、うちらより年下やで?」
「え……そうなのですか……?」
「うんうん」
「無視すんなー!」
「はいはいちゃんと聞いとるで~、アスナ~」
「撫でんなー!!」

 小さい子をあやす様に木乃香はアスナの頭を撫でて、アスナはそれを頭を振って振り払う。

「…………」

 あやかは口に手を当て、事の真偽を測るように黙考し。

「男の子……ですか……しかし、そのような事、本当に……?」
「いいんちょ、どうしたん?」

 木乃香の疑問にも答えず、何かを思うように微かに目を伏せぶつぶつと呟くあやかだったが、次の瞬間にははっと顔を上げ。

「む、あなた達、何を仕掛けているのですか!!」

 教室の教壇辺りに嬉々として何かを仕掛けていたクラスメイト達へとダッシュするのだった。
 慌てて逃げる少女達、しかし抵抗も空しくあっという間にあやかに捕まったようだったが。

「今のよう気付いたな~」

 どうやら教壇辺りにブービートラップを仕掛けていたらしい。トラップといっても、黒板とかバケツとかを利用した程度の者だったが。
 見れば「麻帆良のパパラッチ」なる渾名を付けられている少女も一緒にあやかの注意を受けている。
 情報源は彼女と言う所なのだろう。けれど2‐Aの教室は、取りとめのない少女達の朝の会話や遣り取りで何かと騒がしい。
 その中で気付くなんて、と感心したように木乃香はうんうんと頷いた。
 その一方で、アスナは疲れた顔を頬杖で支えながら、呆れたように呟いた。

「ま、ガキが関わってくりゃそりゃあね……」
「へぇ、優しいんやなぁ。アスナも少しは見習ったらどうなん? 子供だからって嫌ってたらあの子、かわいそうやよ?」
「…………」

 少女の苦言に、けれどアスナは言い返すでもなく、何とも言えないとばかり眉を顰めるだけだった。
 木乃香はことりと首を傾げた。

「ん? なんえ?」
「ううん、何でもない……そういうことにしとく。まあ、善処はするわよ」
「……変なアスナ」

 するとHRの始まりを告げるチャイムが響き渡り。
 クラスの委員長であるあやかがパンパンと手を打ち鳴らした。

「さあ、皆さん、HRの時間ですわ。高畑先生は少し遅くなるそうですが席にお着きになってください」
「「「は~い」」」

 あやかの声に、少女達はぞろぞろ各々の席へと戻り、教室の中のざわめきは引いていく。

 暫くして教室の扉が、ゆっくりと開けられ──






「キャアアッ、か、かわいいい~!!」
「うわあぁっ?!」

 少年の戸惑いの声を掻き消す少女達の歓声が、教室に響き渡ったのだった。












◇ 魔獣星記ギルま! 二ノ章 [兆し/魔法ノ呪文] ◇












 時は進み日も暮れかけた夕の頃、場所は麻帆良学園女子中等部校舎から少し離れた噴水広場。
 空は茜色に染まり、周囲から下校途中なのだろう女子生徒達の話し声や笑い声が聞こえて来る。
 けれどネギは一人、それを半ば聞き流しながら、表紙に授業計画と書かれたノートをぼんやりと見詰めていた。

「はぁ………」
「ねぇ、もしかしてあの子って噂の子供先生じゃない?」
「おー、ホントに子供だー」

 噴水の縁に、心此処に在らずと座り込むネギは自身に向けられる視線や声に気付かない。

「ボク、あんな風にできるようになるのかな……」

 気付かないから、少年は何処か陰鬱な溜め息に乗せて、一人言葉を吐き出していた。
 思い出すのは、今日見せてもらったある人の授業だった。科目は自分が担当することになる英語で、クラスは勿論、2-Aである。

 ──高畑・T・タカミチ。

 彼はHRで紹介された自分に驚き、1時間目が始まってもはしゃぐように騒ぐ少女達をあっさりと宥めたばかりか、いざ授業が始まればその授業もまた要点をしっかり押さえた分かりやすい物だった。

(あの明日菜って人もタカミチの授業、しっかり受けてたなぁ……)

 自分に散々突っかかってきた時のあの態度から、もしかして素行不良な問題児なのでは、と思っていたネギからすればあの時の真剣な眼差しは意外なものだった。
 そも、タカミチと自分とでは英語を教える上での観点が違うようにすら少年には思えるのだ。

「…………はぁ」

 ただ、それはある意味で当然かもしれない。
 ネギ・スプリングフィールドにとって英語とは母国語で、ここに住む彼彼女らの多くにとって英語とは外国語でしかない。
 普段は使わない、異国の言葉なのだ。だったら、それを修める上で押さえるべき点も違うのは当然の事だろう。
 改めて自分が分かりやすいようにではなく、彼女達が分かりやすいように英語授業を計画し行なわなければならないという事をネギは思い知らされたのだった。

「はぁ……」

 三度[みたび]、溜め息が零された。

「ボク、ここでやってけるのかな……」

 知らず、そんな弱気な言葉が零れて出ていた。

(あんなたくさん、年上の人達に教えられるのかな……。本当にボク、日本で先生なんかできるのかな……。お姉ちゃん、アーニャ……ボク、大丈夫かな……)

 ふと脳裏に過ぎったのは故郷で最後に見た──己を見送る二人の姿。
 まだ故郷から離れて幾日しか経っていないというのに、記憶の中の二人の姿が酷く懐かしく思えてしまう。

 だからか、二人の声が鮮やかに蘇る。

『頑張ってね、ネギ』
『しっかりやるのよー』

 あの二人は、自分を見送ってくれた時なんと言っていただろうか。

「…………ッ!!」

 弱気を振り払うように、ネギはブンブンと頭を振った。

「今日来たばっかりじゃないか。まだ始まってもないんだ、やる前に諦めちゃいけないよね……お姉ちゃん、アーニャ」

 少年は、うんと一つ頷き。

(……そうだ、ボクが日本語覚えた時のこと踏まえてやってみるっていうのはどうだろう)

 ふと思い至ったそれは酷く朧気で、ネギは自身の中に見えたおぼろげな何かを形にしようと傍らに置いてあったノートを手に取り、ペンを動かしていく。
 瞬く間に文字が書き込まれていく。その顔は先程よりもずっと活力に満たされていた。
 数分か、十数分か、夢中でペンを動かしていると後ろから親しげな男の声が掛けられた。

「やあ、ネギ君」
「ふぇ? ………あ、タカミチ!」

 肩越しに振り向けば、それはこの地で唯一とも言っていい見知った人がいた。
 その両手にはそれぞれ、パックのリンゴジュースとオレンジジュース。

「はい、良かったらこれ」
「わ、ありがとう」
「どっちがいいかな、リンゴとオレンジしかないんだけど」
「じゃあ、リンゴで」

 高畑は持っていたパックジュースを手渡すと、ネギの隣に腰を下ろした。

「どうだい? 初日から学校に来て疲れたんじゃないかい、ネギ君?」
「ううん、そうでもないよ。それに楽しかったし」
「そっか、それは良かった。それで、麻帆良での初日はどうだったかな?」

 その問い掛けに、ネギは考える間を得るようにジュースのストローに口を付けた。

「う~ん……なんていったらいいのか……」

 そして眼前に広がっている麻帆良の風景を見下ろしながら、ネギをストローから唇を離し。

「……元気、うん、すごく元気な人が多いね、ビックリするぐらい。
 それに向こうじゃ考えられないぐらい人がいて、特に朝なんてまるでお祭りみたいだった!」

 ネギが心の中に浮かんだ率直な感想を告げれば高畑はおかしそうに、けれどどこか嬉しそうに笑い。
 そして青年も噴水広場から見渡せる麻帆良の風景へと目を移した。

「だけど、麻穂良学園って広いんだね。
 タカミチの授業の後、しずな先生に校舎を案内してもらったけど、ここってほんの一部なんだよね」
「うん、ここは女子中等部があるだけだからね」

 その高畑の言葉にネギは、ほうっと感嘆の息を零した。

「これでほんの一部なんだから、学園全体だったらどれくらい広いのかな?」
「う~ん、言葉で言うのもいいけどそれだと実感は持てないだろうし……。
 そうだ、今度の休みにでも回ってみるといい、色々とあるから一日で周り切れはしないだろうけどきっと楽しめるんじゃないかな?」
「う~ん……うん、そうしてみる!」

 そう言って、目を輝かせた少年につられる様に高畑は小さく笑みを零し。
 けれど幼い少年は、その笑みに紛れた翳に──笑う直前、その瞳に浮かんだ酷く悲しそうな色に目敏く気付く。

「……タカミチ?」
「うん、なんだい?」
(……気のせい、だったのかな……?)

 その翳が高畑の顔に過ぎったのはほんの一瞬、とても暗いように思えたそれ。

「えっと……ううん、なんでもない」
「そうかい?」
「うん。あははは、ごめんね、ヘンなこといっちゃって」

 けれどその翳は、ネギが気づいた時にはもう跡形もなく消え失せていた。
 確かに見たのだと確信の持てなかった少年に、どうにもそれ以上の事を聞く事が躊躇われ。
 不思議そうに向けられる高畑の眼差しから逃れるようにネギは視線を逸らせた。と、その先に、

「……あれ、なに?」

 こちらに近付いてくる、人の手足が生えた本の山があった。

(本の山が歩いてる?)

 何かの見間違いかと、ごしごしと目を擦り、

「あ、本をたくさん持ってるのか。あー、びっくりした……」
「ん? どうしたんだい?」

 高畑も声に釣られ、ネギの見ている方へと顔を向けた。

「あれは……のどか君かな?」
「のどかさんって確か……タカミチのクラスの人だよね?」
「ああ」

 ネギは先ほどまで見ていた名簿から、その2-Aの少女──宮崎のどかの顔を思い出す。
 長めの前髪と積み重ねた本で顔は良く見えないが、高畑が言うからにはそうなのだろう。

(う~ん、だけど、大丈夫なのかな……?)

 ただ小柄な事も相俟って、本を抱えた少女のその歩みは酷く危なっかしい。
 今も、右に左にふらふらと振り子のようにこちらに、というよりは校舎の方へだろう、歩いている。

「……ねえ、タカミチ」

 呼び掛ける、それだけで目の前の青年には自分が何が言いたいのか察してくれたようだった。

「よし、それじゃあ僕たちも手伝おうか、ネギ君」
「うん!」

 二人は飲み終えたパックジュースをくずかごに放り込めば、揃って腰を上げたのだった。






◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 中等部校舎の一階にある図書室に本を運び終えたのどかは、ネギと高畑に向けてぺこりと頭を下げた。

「あの……ありがとうございましたー、高畑先生、ネギ先生。本を図書室に運ぶの手伝って頂いて」
「どういたしまして。だけどのどか君、運んだだけで良かったのかい?」
「は、はい、あとは私たち図書委員の仕事ですから」
「なるほど、それは確かに。僕たちが勝手に仕事を取ってはまずいか」
「す、すみません……」
「いやいや、気にしないでくれ、僕たちが勝手にやっただけだからね」

 申し訳なさそうに縮こまる少女の気遣いを解すように高畑は軽やかに笑った。
 腕時計に目を落とすと、

「それじゃあ、時間も良いみたいだしパーティ会場に向かうとしようか、ネギ君、のどか君」

 興味深そうに図書室の書架を眺めていたネギが振り返った。

「パーティー? 今日は誰かのバースデーなの?」
「君の歓迎パーティーさ、ネギ君。2-Aの子達がやろうっていってくれたんだよ………と?」

 そこへ、高畑の胸から携帯電話の着信音が鳴り響く。彼は胸ポケットから携帯電話を取り出すと、二人から少し離れて通話を始めた。
 暫くして、タカミチが申し訳なさそうに眉根を下げながら振り向いたのだった。

「……すまない二人とも、少し用事が出来てしまった。それで申し訳ないけどのどか君、ネギ君をパーティー会場までエスコートしてあげてくれないかな」
「え、えぇー!? わ、わたし一人でですか!?」
「出来ればでいいんだ、無理かな?」

 のどかは一瞬迷うように、高畑とネギを交互に見遣る。
 ぎゅっと胸の前で組んだ手を握り込むと、己を鼓舞するようにしっかりと頷いた。

「だ、大丈夫だと思いますー。わかりました、高畑先生」
「すまないね、ありがとう。それじゃあ、また後で、二人とも」

 高畑は二人に手を振ると、足早に図書室から出て行った。その後ろ姿が見えなくなると図書室は二人だけとなり。
 途端、図書室に沈黙の帳が下りる、その前にのどかはネギへと話し掛けたのだった。

「そ! それじゃあ、いきましょうか。会場は2‐Aです。急だったので、そんなに大したものは用意できなかったんですけど……」
「いえそんな、パーティーを開いてくれるだけでとっても嬉しいです。そ、それじゃあ、よろしくお願いします」
「は、はい~、ネギ先生」

 そして二人は揃って図書室を出ると、ネギの少し前をのどか歩きながら廊下を進んでいく。

「先生、かぁ……」

 すると後ろから少年の呟く声が聞こえて来た。その声には少し恥ずかしそうにはにかみを含まれていた。
 はにかみを含んだその声に振り返ったのどかは不思議そうに小首を傾げた。

「……あの、どうしたんですか~?」
「あ、いえその……なんだか先生って呼ばれるの、くすぐったいなって思ったんです」

 あははは、と顔に浮かんだ小さな笑みを誤魔化すようにネギは頭を掻けば、のどかもどこか安堵したようにくすりと笑みを零したのだった。
 それで少し場が和んだのか、二人は取りとめのな言葉を交わしていく。
 麻帆良学園はどんな所で、2-Aのクラスはどういうクラスなのか。のどかはそんな事をネギに伝えていく。
 ネギはそれに応じるように、生まれ故郷の事を少女へと伝えるのだった。
 少年にとっても、少女にとっても、それは新鮮で興味深い、楽しいと思えるものだった。 

 2-Aのある二階へと続く階段が見えてくる。

 その時だった、ふと零すように少女が呟いた。

「ネギ先生って……すごいですね……」
「え?」
「まだ大人じゃないのに先生やろうなんて、しかも外国で……。
 おんなじ事しろって言われても私だったら、きっと無理だと思うから……きっと私だったら、怖くて一歩も踏み出せない……」

 消え入る声で少女は呟き俯き、胸の前で合わせた両手にぎゅっと握り込んだ。

「踏み出せない……」

 ネギは微かに呟き、何かを思い出すかのように目を伏せた。
 その呟きにはっと我に返ったかのように、のどかは俯かせていた顔を慌てて上げ後ろを振り返る。

「あ、ご、ごめんなさい、いきなりヘンなこと言って……! その私、男の人苦手で、だけど治したくてそのネギ先生だったら大丈夫かなって!
 だ、だけどやっぱり緊張しちゃって、それでその、あ、あれ……私何言ってるんだろ、あの、その……すみません!」

 のどかは己の支離滅裂な言動を誤魔化すようにネギへ向けて頭を深く下げる。
 けれどネギは何に思い至ったのか、

「きゃっ?!」

 次の瞬間にはのどかの傍を駆け抜け階段を駆け上り、階段の踊り場で立ち止まる。
 そして勢い良く振り返ると、不思議そうに己を見上げる少女に呼び掛けたのだった。

「宮崎さん!」
「は、はい!」
「宮崎さんは魔法ってあると思います?」
「え? ま、マホウ……ですか?」
「はい!」

 突然の少年の問い掛けに戸惑いながらも、のどかはその答えをネギへと返した。
 宮崎のどかは本が好きだ。それはさまざまな物語、さまざまな世界を感じさせてくれるからだった。
 時に本当にあったことのように語られるお話が、時に幻想で以って紡がれるお話が好きだった。

 そして魔法は、少女にとって最も身近で、故にもっとも遠い──幻想だった。

「──それは、あったらいいなって思いますけど……」
「本当はない、ですか?」
「…………」

 少年の確認にのどかは何も返さなかったが、それは肯定の沈黙だった。
 ごほんと喉の調子を整えるようにネギは一度咳[しわぶ]き。

「ボクは、魔法は本当にあるって思います。おじいちゃんに教えてもらった魔法の呪文、いつもボクを助けてくれたから……」
「え?」

 特別に教えてあげますね? と少年は微笑みながら、少女へと告げた。
 少女は戸惑い、答えに窮する。その時、窓に夕日が差し込んだ。
 のどかの視界の何もかもが茜色に染め上げられる。

 少年が小さな口を微かに開く。吐き出した吐息は僅かで発した声は微か、けれどその声は少女の耳朶にするりと届いた。

「“勇気[BRAVE]”」
「ブレイブ……勇気………?」
「はい、おじいちゃん言ってました。ほんの少しの“勇気”こそが本当の魔法だって。
 これさえあれば、どんな魔物とも戦える、どんな悪魔にも打ち克てる、どんな夢だって叶えられるって……。
 ボクは、この魔法を信じてます。だから今、ボクはここにいるんだって、そう思うんです。
 だからのどかさんにも叶えたい夢があるんだったら、この魔法を信じてみてください。きっと貴方の力になると思います!」

 そして少年は満面の笑みをのどかへ向けて浮かべるのだった。
 不思議な事を言うんだな、と少女は思った。

 けれど──

 ──夕日を背に不思議な事を言う少年は、けれど。

 それはどこか、少女にはひどく幻想染みた“光景[え]”にも見え──

(キレイ……)

 何となしに、そんな事すら思ってしまう。

「…………」
「あ、あはははは、その……変な事いきなり言ってごめんなさい。
 で、ですけど! 本当に効果があるんですよ、のどかさん!
 ボクも何度も助けられたんですから、この魔法に!!」
「そう……なんですか」
「あ、そうだ! 宮崎さん。僕のおじいちゃんが魔法使いって事、皆には秘密にしてくださいね? ばれたら大変なことになっちゃうんです……」
「大変な事、ですか?」

 少女の脳裏に一瞬、ヨーロッパで過去、実際に起こったという魔女狩りという言葉が思い浮かび。

「はい……オコジョにされちゃうんです……」
「ぷっ」

 少年がさも深刻そうに言ったその言葉に吹き出してしまうのだった。

「はい、分かりました、ネギ先生。ネギ先生のおじいちゃん、オコジョにされちゃったら大変ですもの」
「ありがとうございます、宮崎さん」

 ほっと安堵するように息を吐いた少年にのどかはまたくすりと笑い。

「それじゃあ、行きましょうか、ネギ先生」
「はい、宮崎さん」
(……………………あ……)

 その時、のどかはふと気付く──男性という異性をどこか恐ろしいものだと思っていた自分が、今までにないほどその異性へ向けて、穏やかに笑えているということに。






 ──とくんっ、と胸の奥の、更にその奥で何かが小さく高鳴ったのを少女は確かに感じたのだった。





















◆後書き◆

実に前回投稿から約二ヶ月ぶり。お久しぶりです。

ということで原作のイベントを弄くってみました、な回です。
原作キャラの言動とかに違和感がなければいいんですけど。
本当は冒頭に伊織が出てくるシーンを書こうかと思ったんですけど、視点がぶれるかなと思い変更。
今の時点だと補足でしかないから、蛇足にしかならないかなとも思い止めました。




しかしPVがなかなか増えないですねorz
ギルステインがマイナーな作品だという事を書いてて思い知った次第です。
読んでくれてる人はいてくださるようですががが。

ただやっぱりPV増えないのが寂しい、という事で板変更を変えようかなと最近考えたりしてしまっています。
と同時に悩んでもいるのですが。現在考えてるこの後の展開を思うと移らない方が無難かなとも。
ですのでもう暫くは板変更せずに書いて反応を窺おうと思います。それでは。



[8616] 三ノ章[夜/泡沫ノ夢]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:c1b718ce
Date: 2011/03/07 23:31



 2-Aの少女達によって催されたネギの歓迎パーティーは騒がしくも無事に終えられた。
 そして日は沈み切り、学園が夜闇に包まれた頃。

「いい! 今日は仕方なく泊まらせてあげるけど、さっさと部屋見つけて、さっさと出てくのよ!!」
「は、はい!」

 麻帆良学園女子寮の一室──神楽坂 明日菜と近衛 木乃香に宛がわれたその部屋でしかし、パジャマに着替えたネギは眠る一時のその前に、明日菜からビシリと指を突き付けられていた。

「もう、まだそんなこと言ってるん?」

 そこへ押入れから布団一式を抱えた木乃香が戻ってくる。

「ええやん、しばらく泊めてあげたって。別におじいちゃんもずっとって言ってた訳やないし。あ、アスナ~、そこのテーブル、退かしてなー」
「あー……はいはい」

 言われた通りに部屋の中央に置いてあったテーブルを隅に動かすと、木乃香はよいしょっと両腕に抱え持っていた布団を床に引いていく。
 と言っても、この布団は二人が寝る為のものではない。部屋にある二段ベッドの上下が彼女達二人の寝床だった。
 では、誰の為といえばそれは勿論、二人の傍で何とも肩身の狭そうにしている赤毛の少年の為の物だった。

 その少年へと明日菜は再度目を向ける。

「木乃香、アンタねぇ……思い出してもみなさいよ、こいつが私達の部屋に泊まるって知った時のみんなの反応……!!」

 その時のことを思い出してか、明日菜は苦々しく顔を顰め。けれど木乃香はことりと小首を傾げるだけだっだ。

「んー、やっぱ驚いてたなー?」
「それだけじゃないでしょ! ……いいんちょは無駄に突っかかって来てめんどかったし、ウチのクラスの事よ、ろくでもない賭けしてるのがゼッタイいるわ……」
「みんな、ネギくん来たばっかやから、面白がってるだけと思うけどな」
「そんな能天気な……」

 のほほんと笑って明日菜の言葉を流す彼女に明日菜は疲れたように溜め息を吐き、眉間に寄った皺を解すかのように額に手を当てた。
 そんな明日菜を不思議そうに一瞥した後、木乃香は壁際で律儀に体育座りしているネギへと顔を向ける。

「そやけどごめんなー、煎餅布団ぐらいしか用意できんで。
 なんだったら、うちとベッド代わろか? ネギ君、今までお布団で寝たことなんてないやろ?」

 そう申し訳なさそうに言う木乃香に向けて、ネギは慌てて頭を振る。

「だ、大丈夫です。それに折角日本に来たんですし、前からお布団で寝てみたかったですから。お心遣いありがとうございます、木乃香さん」
「そう?」
「はい!」

 そのやりとりを見て、明日菜はやれやれと肩を竦め。

「もうっ、まーたそうやってすぐ甘やかす」
「甘やかしてるんやなくて、気を利かしてるんよ~。なんたって、まだ来たばっかなんやし
 ほんじゃ、ネギくんの寝床の用意もできたし、そろそろ寝よかー。ええ加減、夜も遅いしな」
「え、もうそんな時間?」

 明日菜が部屋の壁に掛けられている時計を見れば、短針はとうに10時を過ぎていた。

「げ、ヤバッ」

 己がしている毎朝の朝刊配りのバイトの事を考えれば確かにこれ以上の夜更かしは翌日が辛くなる。
 と明日菜はそそくさと二段ベッドの階段を昇り、ベッドの中に入り込んだ。

「ネギ君もええ?」
「あ、はい」

 ネギも木乃香に促され、興味深そうに布団を触りながらその中に入っていく。

「そんじゃ二人とも、お休みー」
「お休み」
「お休みなさい」

 木乃香のその声と共に部屋の明かりはぱちりと消され、部屋を瞬く間に夜闇が支配する。
 もぞもぞと木乃香も寝床の中に入り込み、そして暫くすれば、穏やかな寝息がベッドの方から聞こえてくるのだった。









◇ 魔獣星記ギルま 三ノ章 [夜/泡沫ノ夢] ◇









 麻帆良学園の夜──それは昼間に満ちていた活気が嘘のようだった。けれど、その夜は空虚なのではない。
 穏やかな、そうまるで街そのものもまた子供達に釣られて寝入っていってしまったかのような、そんな穏やかな夜だった。

 それはいつもの、麻帆良学園都市の夜。

 けれど──

「……っ!!」

 そんな夜に包まれて、神楽坂 明日菜はカッと目を見開いた。
 一瞬の間を置き、息が長く重く吐き出される。

「あれ……ここ……」

 そうしてようやっと、此処が何処なのか、オッドアイの少女は気付く。
 自分が眠りからを目を覚ました事に、先ほどまで見ていたものは夢だったのだと──夢でしかないのだと、彼女は気付く。
 ゆっくりと息を吸い、ゆっくりを息を吐き。
 そんな事を数回繰り返して、ぽつりと呟いた。

「また、あの夢……だ……」

 凝りのように、胸奥に残った気持ちの悪さに顔を歪めて、それを誤魔化そうとするかのように腕で目を覆う。

「ああもう……」

 それは何時の頃から見るようになった夢だった。何時の間にか見るようになった夢だった。
 そして彼女はこの夢が大嫌いだった。もっともらしい理由など思い浮かばなかったが、それでも彼女は大嫌いだった。
 どんな夢なのかは、正直よく憶えていない。常の様に、目を覚ませばあっという間に記憶の彼方へと過ぎ去ってしまうのだから。
 思い出そうとしても、思い出せないそのもどかしさが、彼女がその夢に持つ嫌悪の感情に拍車を掛けているのかもしれなかった。

 しかし息が整い、それに合わせて気分も落ち着いてくると、今度は自身の体が寝汗で塗れている事の方が気になって来る。

「……汗でパジャマが気持ち悪い」

 寝汗で身体に引っ付くパジャマの感触にうんざりとしたように少女は身じろいだ。
 そういえば今は何時なのだろうと枕の傍に置いてある目覚まし時計を手に取り、時間を確認すれば、

「なんだ、まだ2時にもなってないじゃん」

 思わず、うんざりとした小言が零れ出た。
 朝刊配りのバイトの時間まではまだまだ時間がある。寝直そうと思うも、その前に。

(お風呂いこ)

 この汗だくの身体を放ったままでいるのは一人の女の子として許せなかった。
 明日菜はルームメイトの眠りを妨げないようにそっと二段ベッドの階段を静かに降りると、箪笥から代えのパジャマを取り出し足音を忍ばせ浴室に向かうのだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 シャワーから出てくるぬるま湯を頭から浴びながら思い出すのは、先ほどまで見ていた夢の事だった────

(だけど……なんなんだろ、あの夢)

 その意味の分からない夢で憶えているものは一つだけ──たった一つの光景だった。



 ──絶えず雷鳴が響く暗黒の夜空。

 遥か彼方のまで続くかのような暗黒の海──

 ──その海に唯一浮かぶ巨大な氷塊。



 そして…………そして──

「いつ……ッ?」

 突如走ったこめかみの痛みに明日菜は顔を顰める。その痛みを誤魔化すように、こめかみを指で揉んだ。

 僅かに憶えているその夢の光景に明日菜はいつも首を傾げる思いだった。
 そんな光景なぞ、今の今まで見たことなどない筈なのに、何故か、自分はそれを遠い昔から知っているような……そんな気がするのだから。


 ──けれど、それならば何故。


 あの夢を見るのがこんなにも煩わしく思うのか、それが彼女には分からなかった。
 その夢はとても幻想的だ──天空の暗さに刹那の発光は良く映え、周囲の闇色の海から重く低く響く潮騒は音が己を飲み込むかのような深さを伴い、そしてその中にただただ恬然と浮かび波に揺れる巨大な氷塊。


 恐ろしくも美しい──言葉にするとすれば、それはそんな光景だった。


 だのに、彼女はその夢が心底、大嫌いだった。

(なにか──他になにか……──)

 ──あの夢にあるのではないか……?

 けれどそれが分からない。あるのかもしれないし、本当に何も無いのかもしれない。その夢を嫌うのは単に自分の趣味嗜好に合わないだけなのかもしれない。



 けれど夢から覚めた今となっては、そのどれもが定かではなかった。



「はぁ……」

 それは普段の彼女からは考えられない陰鬱した溜め息だった。

(あー、頭が混乱する。)

 脳裏を焼くかのような、何ともいえない焦燥感に眉を顰めながら、それを払い落とそうとするかのように、明日菜は髪を荒っぽく手で梳き。

「あ~あ、やめよ。わかんない事に頭使うのもばからし」

 そして胸にちらつく気持ちの悪さを洗い落とそうとするように、シャワーの勢いを強めて頭から被る。

「ふぅ……」

 ただただ、温い水を頭から被る。目を瞑り、水の流れ出てくる方へと顔を向ける。

「あー、きもちいー……」

 きゅっと勢い良くシャワーのノズルを絞って水流を止めると、タオルで身体に残った水滴を拭いてゆく。
 程よい温度の水を思い切り浴びたからか、入る前よりもずっと気分も良くなったように思えた。
 そして洗面所で新しいパジャマに袖を通し、再びこみ上げて来た眠気に誘われるようにベッドに向かう、


 その途中──


「おねぇちゃん……」

 そのか細い、寂しそうな声は聞こえてきた。

「きゃっ……?!」

 すっかりネギの事を忘れていた明日菜は聞きなれない声に思わず声を上げかける。

「ってなんだ、こいつのか……」

 すわ幽霊かと驚きかけたが、その声の出所が少年の寝言だと分かり、少女はほっと一息吐く。
 そして再び聞こえてきたのは、微かに鼻を啜る音。

(こいつ、もしかして泣いてんの?)

 少女が少年の顔を覗き込む。そして暗闇に慣れたその目に映ったのは、カーテンの隙間から僅かに差し込んだ僅かな月の光に照らされたのは少年の寂しそうな寝顔だった。
 途端、明日菜は呆れたように溜め息を吐いた。

(やっぱりガキね~、来た早々にホームシックにかかってるじゃない。
 にしてもお父さんでもお母さんでもなくて、お姉ちゃんか……こいつってもしかしてシスコン?)

 胸中でそんな小言を呟きながら明日菜は少年へと何と無しに、本当に何と無しに手を伸ばし、その頭を柔らかに撫でた。
 暫くそうしていると、何時しか寝息を穏やかに繰り返されるだけとなり、その寝顔は安らぎに緩んでいく。

「──だからガキは嫌いなのよ。全く……手がかかるんだから……」

 そう、なんとも嫌そうに呟いた少女のその顔はけれど、ネギに昼に見せたものと比べればずっと優しげで……ただほんの少しばかり羨ましそうだった……──









◇ ◆ ◇ ◆ ◇









 ──まだ日も出ていない朝も早く。

「それじゃあ行って来ます!」
「いってらー。バイト頑張ってなー」
「えと……いってらっしゃぁい」

 明日菜は主に木乃香に向けて言いながら、玄関を飛び出して行った。
 それを見送った後、ネギはどこか寝惚けた声で傍らの少女に問い掛けた。

「コノカさぁん、アスナさんはどこへぇ?」
「うん? バイトやー、ここらへんの家の新聞配りのバイトしてるんやで?」
「そうなんですかぁ……」

 部屋の中に引き返す木乃香の後を追いながら、シンブンクバリってなんだっけ? そんな事を寝惚けた頭で考える。

「そやー。ほんじゃ、うちは朝ごはんの準備しとるから、ネギ君は、顔洗って今日の準備でもしててな。
 ほんで、アスナ帰って来たらご飯一緒に食べよ?」
「はぁい 、です……」

 言われ、ネギは目を擦りながら昨日教えられた洗面所へと向かい、洗面台の前に立つ。
 そして洗面台に水が溜まる、その間にふと頭に手を当てた。

(そういえばあれって誰だったのかな……?)

 思い出すのは今日見た夢だった。もうぼんやりとしか覚えていないが、その夢の中で誰かが優しく頭を撫でてくれた──そんな夢だった。

(お姉ちゃん? アーニャ? ……ううん、だったら二人だって分かると思うし)

 夜、寂しい時、彼の従姉がいつもそうしてくれた様に、優しく頭を撫でてくれた誰か。
 誰かは分からないけれど、何の言葉もなかったけれど、その誰かは自分の事を励ましてくれた──そんな気がする。

「ふぅ……」

 少年は洗面台に溜めた水で顔を良く洗い眠気を飛ばし、そして一つの思いを口に出す。

「うん、頑張ろう!」

 ──そう、すんなりとそう思えたのは夢をお陰、なのだろうか。

 次いで、パジャマからまだまだ真新しいスーツに着替えれば、

「うーん、やっぱり……」

 赤毛の少年は洗面台の鏡に映る自身の姿に思わず苦笑する。

(なんだか違和感あるなぁ…………いつか似合うって思えるのかな?)

 自分から見ても服に着られているという感が強いのだから、傍から見ればさぞ自分の格好は不似合いに映っていることだろう。ネギは鏡を見ながら、ネクタイを拙くも整える。
 そして次第に朝食の良い香りが漂い始めた部屋で今日の準備をする、とは言ってもまだ来たばかりで指導教諭のしずなとも大した打ち合わせもしていないから、用意する物は殆ど無かったのたが。

 そして日が地平の向こうから顔出し始めた頃、元気の良い声が玄関から駆け込んで来た。

「ただいま~」
「おかえり、アスナ。ほんじゃご飯にしようか、二人とも~」
「あ、ちょっと待って、先にシャワー浴びる」
「はいはい」



 とまあ、兎にも角にも──


「それじゃあ、いただきます」
「いただきます!」
「い、いただきます」


 ──少年の麻帆良での一日が今日も、始まろうとしていた。















◆後書き◆

お久しぶりです。……どれくらいの人が覚えていてくれてるか分かりませんけど……orz

今回は短めとなってます。切りもいいという事もありますが、ちょっと諸事情で書けない時期がありまして、そして書こうと思ったら書き方忘れててたという。
定期的に触れてないとダメですね、やっぱり。
書きたいシーンはまだまだたくさんあるので、頑張ります。


何か誤字脱字、アドバイス等ありました、よろしくお願いします。



[8616] 四ノ章[鍵/無邪気ナ想イ]
Name: YOU◆b54a9b37 ID:c1b718ce
Date: 2011/06/28 22:59



 魔法使い見習いの少年が麻帆良に訪れてから早一週間近くが経った。
 魔法使いとなる為の修行──教育実習生としての活動も始められ、今日はネギによる英語の授業の日だった。
 ネギは教壇に立つと、まだ緊張の抜け切っていない面持ちで口を開く。
 そんな少年を2-Aの少女達は様々な目で見詰め。

「じゃあ、1時間目を始めます。テキスト76ページを開いてください」

 ネギが授業を行なうようになったといっても、まだ始めたばかりでほんの数回程度。
 その上、その数回の中で上手くいったと思えるような授業は行なえていなかった。

(今のところ、僕がやってる授業って上手く行ってない、よね……)

 今までの授業の惨状を思うと、少年は心の中で悔しさにちょっぴりと涙を流す。
 授業を始めるまでに時間が掛かり過ぎたり、背が低いネギの為に黒板の上まで届くように急遽台を用意してもらったりと色々あるが、何よりも授業でやろうと思っていた事を半分も行なえていなかった。
 いやもしかしたら、半分行けば良い方かもしれない。

 まだ始めたばかりなのだから、と何とか教師足ろうと悪戦苦闘する少年を見詰める少女達の眼差しは概ね優しい。
 しかしこれでは、どちらが授業の主体なのか分からない。教師として導く筈が、こちらが導かれているようだ。
 何より次は頑張らないとね、という指導教諭の言葉が忘れられない。

(今日こそ、授業計画通りに進めるんだ……!)

 ネギは萎みそうになる心を奮い立たせる。
 2-Aの少女達がぱらぱらとページを開き終えるのを確認すれば、前回の続きから英文を読み始めた。

「──The fall of Jason the flower.Spribg came.Jason the flower was born on a branch of a tall tree.
 Hundreds of flowers were born on the tree.They were all friends──」

 その発音はやはり、ネイティブらしい流暢さ。

「──それじゃ今の所、訳してもらいますね。えーと……」

 教科書から少女達の方へとチラリと視線を向ければ、慌てて顔を逸らす影がちらほら。

(うーん、前と同じ人たちかー)

 前回は誰にしてもらうか悩んでいると、2-Aのクラス委員長だという少女が上げてくれたのだが。

(……うん、今日は当ててみよう)

 その時、視界にゆらりと揺れるツーテールに結ばれた髪が映る。
 ネギは少し悩み、

「じゃあ、アスナさん。今の所を訳してみてください」
「な、なんで私っ!?」
「え、だって」
「フツー、誰にしようか迷ったら、日付とか出席番号順で当てるでしょ! 今日はそのどっちも私が当たる要素が全然ないじゃない!?」
「でもアスナさん、ア行じゃ……」
「アスナは名前じゃん!」
「あと、いつもお世話になってるから、そのお礼も込めて……」
「何のお礼よそれっ!? お礼参り?  お礼参りなの!?」

 立ち上がり食って掛かってくる明日菜にそれに戸惑うネギ。
 そう授業を置いてけぼりにして二人が言い合っていると、どこか気取った笑い声が教室に響いた。

「要するに分からないんですわね、アスナさん」
「な、なんですってぇ!?」

 雪広 あやか、クラス委員長その人である。

「では、答えられない彼女に代わってわたくしが……」

 普段から何かと彼女といがみ合う事の多い明日菜からすれば、その申し出は看過できないものであった。
 何よりも得意げに澄ましたその顔が気に入らない。明日菜は慌てて机の上の教科書を手に取った。

「わ、わかったわよ、訳すわよ! えーと……ジェイソンが花の上……に落ち……、春が来た?
 ジェイソンとその花は……えと……高い木で食べたブランチで……骨が……百本? えーと……骨が……木の……。
 えっと………………………………………」

 拙くもなんとか口に出していた言葉はけれど、半ばで沈黙し。むむむっと眉根を寄せながら、彼女が英文と睨めっこしているとネギがポツリと零したのだった。

「──アスナさん、英語ダメなんですねぇ」
「なっ……!?」

 思わぬ言葉に明日菜は口を詰まらせる。途端、周囲から追い撃ちの声が上げられた。

「アスナは英語だけじゃなくて、数学もダメですけどね」
「国語も……」
「理科、社会もネ」
「要するにバカなんですわ、いいのは保健体育くらいで。ホホホ」

 クスクスと笑う声が教室に満ちてゆく。けれど明日菜はその言葉のどれも否定する事が出来ない。
 安易な否定の言葉なら、今にも口から飛び出しそうだが、そんなもの、単なる虚勢にしかなりはしない。
 日頃の行いの結果といえばそれまでだが、クラス中から笑い者にされた明日菜からすれば溜まったものではなかった。

 だから、少女は──

(こっ……殺す!!)
「ひっ……!」

 ギラリと、己に恥をかかせた少年を思いっ切りねめつける。
 その眼光は中々に鋭く、そして凄みがあった。



 ………少なくとも、向けられた当の少年が震え上がる程度には──







◇ 魔獣星記ギルま! 四ノ章 [鍵/無邪気ナ想イ] ◇







 日は傾き、寒空は茜色に染まり切る。

「はぁ……」

 ホームルームを終えれば、少女達は部活へ、或いは友達と遊びにと言う具合に瞬く間に教室を後にしていった。
 ネギは生徒達のいなくなった空っぽの教室を見渡しながら、小さく溜め息を吐く。

「アスナさんにひどいことしちゃったな……。あの後、授業中ずっとこっち見てるし、やっぱり怒ってるよなー」

 授業での出来事を思い返して、少年は一人、物思いに耽る。
 脳裏を過ぎるのは、タカミチの昔を懐かしむような淡い笑みとしずなの困ったような笑み、そして明日菜の怒りに満ちた眼差し。
 結局、授業の後で指導教官であるしずなにやんわりと諭されたが、今更ながらも何ということを言ってしまったのだろうと思う。

「そりゃ、みんなの前であんな事言われたら、誰だって怒るよね……」

 授業を始めたばかりの頃と比べれば少しは慣れたと思ったが、それでもまだまだ緊張は抜けきっていないらしい。
 どうにも頭が上手く回らない。言動に思考が追いついていない、そんなちぐはぐな印象。
 こんな風になったのっていつ以来だろう? と一瞬考えるも、

「……ボク、人前に立って、こんなことした事ないや……」

 思い返してみれば、自分はずっと本の虫ではなかったか。こんな風に緊張する立場は愚か、場面すらあったかどうか分からない。
 故郷ではずっと魔法書を読み耽っていたように思う。仮に外に出たとしても、それは魔法の実践の為でしかなく。
 メルディアナ魔法学校の授業で習うものでは物足りず、それよりずっと高度な物を求めて、アーニャを巻き込み、本来なら立ち入り禁止の書庫に入ったのも一度や二度ではなかった。
 ここ数年はアーニャに連れ出される形で外に出て遊ぶ事も多かったが、心の何処か遊ぶよりも魔法書を読みたいと思う自分がいたのも否定など出来ないことだった。

「はぁ、気をつけないように、しないとな……」

 次は迂闊な事を言わないようにしなければと少年は心に刻む……が、それで今日の失言がなくなる訳でもなく。
 まだ明日菜達の寮室に仮住まいさせて貰っている身としては、明日菜の態度が怖いネギだった。

「…………コ、コノカさんがいる時になるべく帰ろう」

 そうすれば、荒ぶっているだろう明日菜を少しはなだめてくれる……かも、とそう一先ずの方針を決め、うんと一つ頷いたネギに教室の外から声が掛けられた。

「あれ、先生まだいたんだ?」
「あの~……」
「え、あ、はいっ?」

 考え事をしていたネギは突然掛けられた声に少し驚きながらも声のした方を見れば、教室の奥の扉からこちらを窺う三人の女子の姿があった。
 早乙女 ハルナと綾瀬 夕映。そして二人の後ろに宮崎 のどかの姿が見える。
 ネギの様子に違和感を感じたのか、ハルナが眼鏡を掛け直しながら興味深そうに聞いてくる。

「んー、どったの、先生? 考え事でもしてた? お邪魔しちゃった?」
「あ、いえ、大丈夫です、えと……早乙女さん、それでどうなさったんですか」
「え? いやー、ちょっと忘れ物しちゃってさ、それ取りに来たんだー。あ、私じゃなくて、のどかなんですけど」
「きゃ!?」

 そう言って、自分と夕映の後ろに立っていたのどかをぽんと前に押し出した。
 少し体勢を崩しながらも、のどかはネギの前に立ち、

「あ、その……本、机に忘れちゃって……」
「そうなんですか、あれ?」
「え?」
「宮崎さん、髪形変えたんですね、似合ってますよ」
「え……」

 見れば、以前は目を覆い隠して前髪が目元がはっきりと分かるぐらいには切り揃えられ、少女の可愛らしい顔立ちが良く見える。
 のどかの頬が瞬く間に紅く染まり、ハルナが嬉しそうに言葉を続けた。

「でしょ、でしょ!? かわいーと思うでしょ!? この子、かわいーのに顔出さないのよねー」
「あ、ありがとうございます、ネギ先生……」

 のどかは真っ赤になった顔を俯かせ、胸の前で組んだ手をもじもじと動かしながら、それでもその声には喜色に溢れていた。

「そういえば先生、何か悩み事? 良かったら、教えてくれない? もしかしたらなにかいい案だせるかもよー?」
「ハルナ?」

 するとそれまで隣で静観していた小柄な少女──夕映が咎めるように口を開いた。
 ハルナは反論するように夕映へと顔を向け。

「いいじゃんいいじゃん、三人寄れば文殊の知恵って言うんだし。この場合、四人だけど」
「むぅ……」

 ネギはハルナの申し出に暫し迷う。やっぱり誰かのアドバイスが欲しい所ではあったのだ。
 麻帆良学園では基本的にクラス移動は進学した時に行なわれて、卒業までは同じクラスメイトである事が多い。
 だったら最近、来たばかりの自分よりも彼女達の方が明日菜の事を良く知っているだろうと思い、

「えと……その、今日の授業のことで……」
「もしかして、アスナ……神楽坂さんのこと? う~ん、確かにあれはちょっとまずかったかもねー」
「囃したてた張本人の一人が何言ってるですか」

 隣から上げられた夕映の突っ込みを誤魔化すように、ハルナはアハハハハと笑い声を上げる。
 そんな反応を夕映はじと目で見遣り、のどかは心持ち心配そうにネギへと話し掛けた。

「だ、大丈夫、だと思いますよ、ネギ先生。神楽坂さん、そんなにヒドイ人じゃないと思いますし」
「う……だと、思うんですけど」

 それでも不安そうなネギの力に、なんとかなりたかったのだろう。
 気付けばのどかは思いつくままに言葉を続けていた。

「その、ネギ先生は高畑先生とお知り合い、なんですよね?」
「あ、はい、そうですよ? ですけど、それがどうしたんですか?」
「神楽坂さん、高畑先生の事が好きみたいだから、その……」
「お、それいいじゃん。アスナは高畑先生のファンだからねー」
「へぇ……そうなんですか?」
「そうそう、本人は隠せてるつもりみたいだけどね。んー、だったら高畑先生に仲裁頼んでみるとか?」
「……うーん、タカミチに、ですか」

 しかし、忙しく動き回っているタカミチにこういう事を頼むなんて良いのかなと思う。
 それにもしかしたら、逆にそういう仲裁こそを明日菜は嫌がるのではないか、とも思う。
 こういうご機嫌取りこそ、彼女の嫌う事ではなかっただろうか。
 短くも共に過ごした生活の中で彼女を見て、少年にはそう思えてならなかった。

(んー、今回のお詫びでアスナさんとタカミチの仲を良くするとか、どうだろ?
 だけどそんなコト…………あ)

 何かを閃いた、とばかりにネギは顔を上げ、

「そうだ……もしかしたら……」

 ぽつりと呟くや否や、三人の少女へと勢い良く頭を下げる。

「のどかさん、綾瀬さん、早乙女さん、アドバイスありがとうございます!」
「うわって、あ、ちょっとせんせー?!」

 いきなりの行動に驚く少女達。
 しかし既に駆け出していたネギはそれに気付かず、

「もう下校時間ですから、早めに帰ってくださいねー!」

 そう声を投げ掛けるも足を止めぬまま、三人の返答を待たず、学校の廊下を進んで行くのだった。






◆ ◇ ◆ ◇ ◆






「確か、ここに入れたハズ」

 教室を後にしたネギは寮の部屋に帰っていた。木乃香と明日菜の二人とも、部屋にはいないらしい。
 まだ帰ってきていないのか、それともまた出かけたのか分からないが、それを良い事にネギはイギリスから持ってきた自分の荷物をひっくり返して探し物をしていた。
 そして目的の物を見付け、それを取り出した。

「あっ、あった! これだ!!」

 透明な筒に入った七色の丸薬をネギはまじまじと見詰める。それは昔、祖父がくれた物──『魔法の素丸薬七色セット(大人用)』だった。
 名前が表す通り、これは魔法薬の素──定められた呪文を唱えればそれに応じた物が出来る優れ物。
 それはまだ魔法が使えなかった頃、誕生日にプレゼントしてくれた物だった。結局使う機会は無く、何時しか大事にしまったままになった物。

 時間は30分持つかどうかだし、効果そのものも大したものではない──けれどそれでも、それは確かに“魔法”だった。

 様々な言葉がネギの脳裏を駆け巡る。それは本当に様々な言葉だった。
 例えばそれは、『魔法使いは世の為、人の為に在るべし』。
 例えばそれは、『魔法を人に知られてはならない』。

(だけど……)

『魔法とは中立なるもの、ならばそれが善いものになるか悪いものになるかは我々使い手次第』

 それは祖父が、メルディアナ魔法学校の学園長たる彼が子供達に向けて良く告げていた言葉だった。


 ならば──


 もし彼の言うとおり、魔法の在り方が使い手次第なら、


 ──今から作る物が、彼女の役に立ったなら。

 だったらきっとそれは『善かれこと』に違いない──


 それに、とネギはか細く呟いた。

「……これ位しか僕、アスナさんに出来ることないんだ」

 そして少年は魔法の呪文を口ずさむ。


 ──ラス・テル・マ・スキル・マギステル──


 魔法使いは善かれ、善く在れ──少なくとも少年はその時、その瞬間は心の底からそう信じていた。















◆後書き◆

色々と悩みながら書き上げました。といっても、量はあんまり無いのですが^^;
ラブコメしてる時の原作のイベントをこういうシリアスっぽい展開に使うのはどうなのかなーと思いつつ、折角、あるのだからとそれでも使わせて頂きました。


感想・批判等、なんでも構いませんので何かありましたら感想板の方にお願いします。
それでは。




[8616] 【ネタ】魔獣星記ギルま! 嘘予告風本編ダイジェス……ト?【修正】
Name: YOU◆b54a9b37 ID:9a3e8dbd
Date: 2009/07/12 02:43
注)人によってはネギまキャラの扱いに不快感を覚える可能性があります。ご注意下さい。









◇魔獣星記ギルま! 嘘予告風ダイジェス……ト?(魔法先生ネギま!×獣星記ギルステイン)



 目覚めよ。

 汝、獣の裔なる者。

 遥か暗黒の深淵[アビス]、白熱のプラズマ。

 汝、星辰のかけらより出し者也。








 その全ての始まりは、北極の海に眠りし、たった一人の少女だった――








 サナギという言葉がある。

 それは幼い蟲が成なる蟲へと変ずる為の殻を指す言葉だった。
 姿を変え、形を変え、果てに異形へと至る為の殻を指す言葉だった。

 本来ならば、それはその程度の意味しか持たぬ物だった。

 けれど今、その言葉はヒトの子供達へと向けられていた。
 ただ根拠の無い、漠然とした恐怖と不定の不安で以ってして。



 そして、物語の始まりは今此処より―――



 或る時、日本の或る土地に或る特別な少年が一人、訪れる。
 遠くはイギリスより訪れたるは赤毛の少年。年は幼く、数えで漸く十に届く少年だった。

 少年は己の夢の為に、幼くして異国の地に足を踏み入れる。

 そう、少年には夢があった。
 嘗て、英雄と称えられる己の父の様に成りたいという夢が。

 少年は父に憧れていた。
 誰よりも近かったからこそ、誰よりも憧れていた。

 けれど、物心がついた時には既に父の姿は無く、母の姿も無かった。

 しかし少年には母のような従姉が居た。けれど父の代わりはいなかった。
 だから、少年は父に会いたかった。
 会って何をしたいのかも分からずとも、少年は父に会いたかった。

 少年の幼き日は、誰も彼もが少年の父を称えていたから。
 だから、会いたかった。

 何処へ行ったのか、誰も答えてくれる人は居なかったから。

 だから、少年には夢があった。父と同じ『偉大な魔法使い』に為ると言う夢が。

 父に会いたいという夢が―――

 だから、その背中を追い掛けた。
 追いつければ何時か会えると、会いに来てくれると心の何処かでそう信じていた。
 根拠など何処にもないのに、心の何処かで確かにそう信じていた。


「どうしたですか、のどか。なんだか苦しそうですが」
「わ、本当だ! この熱はヤバイって! 何でこんなになるまで言わなかったのよ! 一先ず、保健室にいこ?」
「………………駄目なの、会わなきゃ………ネギ先生に……」
「何言ってるですか。それよりも早く保健室に行きましょうです、のどか」
「そうそう、ネギ先生の所にはまた明日にでも行けばいいじゃん。ほら行こう、のどか――っイタ?!」
「なんで………なんで、邪魔するの……? 私達、友達だよね。なのになんで……」
「の、どか?」
「のどか? どうしたの? さっきから何か変よ?」
「ああ、そっか。ユエユエもハルナもネギ先生に会いたいんだ。だけど、駄目。ネギ先生は私の物なんだから。
 あ、だけど二人は私の友達だし……う~ん……それじゃあ、こうしよう?
 私と一緒になれば、良いよ許してあげる……ユエぇ、ハルナァ………」
「あ、―――」
「の、―――」


 だから――


「せんせぇ………」
「宮崎、さん? ………っ?! なんで……綾瀬、さんの顔? それに早乙女さ、ん?
 な、なにが?! 何があった、二人に何をしたんですか?! 宮崎さん!!」
「大好きですぅ………………私と………一緒になろお? 私の、センセェ………センセェ………!!」
「み……―――」


 その夢は少年に周りを省みる事をさせなかった。

 だから………己が教え導くべき筈の少女が死んだ。

 それを………少年はその始まりから終わりまで全てを、ただ見ているだけだった。
 何か出来たかもしれないのに、ただ見ているだけ。否、見届ける事も出来なかった。



 そして、物語の始まりは今此処より――



 或る街に、或る平凡な少年が一人居た。その少年には父が居た、母が居た、兄が居た、幼馴染みが居た、友達が居た。

 その少年には何処にでも居るだろう子供だった。
 時に怒りを抱き、不満を抱き、悲しみを抱き、憎しみを抱き、劣情を抱き、喜びを抱き、楽しみを抱き、慈しみを抱き、そしてほんの少しだけ優しかった。

 ほんの少しだけ理不尽に抗う強い心を持っていた。

 けれど、それは穏やかな日々に埋もれ。

 そんな日々の中で、少年は種に犯された。世界の何処かに居る誰かと同じように犯されていた。己の直ぐ傍に居た友達と同じように犯されていた。

 だから――

 少年は友達に殺されかけた。怪物へと変じた友達に。けれどそれでも、少年にとってその怪物は友達だった。

 だから、少年は―――


「助けてくれ!! 助けてくれ! 伊織、オレはもう自分を抑えられない!
 だけどわかるんだ!! お前ならオレを止められる! 助けてくれ!! 助けてくれ! 伊織!!!」


 友達を殺した。異形の力、姿で以ってして。



 そして、物語は歩き出す。二人の少年の意思を巻き込んで――



 少年は答えを探した。何故こんなことになったのか。どうして、己は何も出来なかったのか。

 少年は知りたかった。何故、友達があんな事になってしまったのか。いったい己はどうなってしまうのか。











 そして、辿り着いた答えが――

 ――ギルステイン。



「ああ!! ダメだ、香奈!! 変わるな!! 変わっちゃだめだ!!」



 それは宇宙の彼方より訪れ齎された異形、ヒトの……成れの果て。






『伊織……クン……、助けて……。助けて…あげて…!!
 戻してあげて!! 星々の思い出と、連なる生命の輪の中に……』

『 ―――目覚めよ――― 』






 それをただ驚愕の中、少年は聞き。

「ギル、ステイン………?」
「うむ、それが……此度の悲劇を齎した物じゃろう。そして、今、世間を騒がせておる物の正体じゃ。
 その存在は古今東西に於いて見られておる。
 或いは鬼とは、嘗てはコレの事を指していたのかも知れぬ」
「なんで、ですか!? なんで、宮崎さんはあんな姿になったんですか!?
 なんで、綾瀬さんも早乙女さんも死ななきゃならなかったんですかっ!!
 それにそこまで分かっていたんでしたら、助けられる方法もあったんじゃないんですか?!」
「分からぬ、何も分かっておらぬのじゃよ、ネギくん。
 分かっているのは、ただああなってしまえば、わしらには殺すしか方法がない、ということだけなのじゃ」
「そんな!! そんな……………」



 ただ絶望の中で、少年は聞き。

「なるほど、見事に復元するものね」
「ッ!!」
「復元抗体は変身中にしか分泌されないようね。
 うまくサンプリングできていればいいけれど。さ、見せて」
「触るな!!」
「…………」
「そんなことのために………。そんなことのために、殺し合いをさせたのか!!」
「そうよ」
「っ!?」
「周りの廃墟を見てごらんなさい。これが未来の世界よ。
 私たちが何もしなければ、世界中がこんなふうになる」

 ―――背負わされる、重き業。

「あなたのおかげなのよ、伊織クン。
 香奈も、あなたの同級生も、最期は怪物ではなく、人間として死ねたわ」



 けれど、その中にあって一人の少女と出会う。そう、正しく希望にも見紛う一人の少女と。

「せっ、ちゃん……………?」
「この、ちゃん……をハナせぇぇぇええええええ!」
「な、なんやおまッギャアッ!!」
「ヒ、ぃ…………ば……ケモノ」
「あ、あぁ……アアアアアアアアあああああAAAAAAAAAっ!!!」
「桜咲さん?!」
「駄目、刹那さんっ! 止まって、止まれえええええ!!」

 そう、ギルステインに侵された同胞を救う事の出来る少女と。

「よかった、よかったぁ……せっちゃん、ゴメン、ゴメンなあ、バケモノなんて……言うて。許してぇ、せっちゃん……」
「このちゃん………」
「良かった、なんとか……なった……」
「アスナ、さん………」

 そして、少年は救う事が出来た。初めて助ける事が出来た。初めて……己を犯し、友達を殺した力で。

『伊織クン、悲しいの? これがあなたの悲しみ……?
 この悲しみが止められるなら……、立ち向かいましょう。もう恐れずに!! あなたと、いっしょに!』
『サラ!?』

 それは少年にとって、正しく救いであった。


 けれど―――


 一人の少女に、少年が一つの希望を見出し始めた時。

 雨に煙る、ある日。

 少年は出会う。

 ―――金色の絶望を背負った青年と。


「ハッピーバースデー。サラ。兄さんが迎えに来たよ。今日はサラの15回目の誕生日だね」
「あなたは、だぁれ?」
「待て! ミハエル!! サラを放せ!!」


 少年は出会う。

 ―――真白い虚無を抱えた少年と。


「お迎えに上がりました。黄昏の姫御子、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア様」
「誰よ、アンタ………」
「離れててください! アスナさん!!」






 刹那の邂逅。隔絶し合う意思の交錯。そして、世界はその時より崩れ崩れ崩れ――


「グハッ!」
「弱いな、君は本当にナギ・スプリングフィールドの息子なのかい?
 まあ、だけど……これで終わりだ……」
「止めて! 行くわ。だけど、その代わり………ネギを殺さないで……」
「…………分かりました。さあ、御手を」
「……………」
「ま……てぇ……」
「往生際が悪いね、ネギ・スプリングフィールド。
 姫の望みだ、其処で這い蹲っていろ。向かってくるなら、今度こそ死ぬかもしれないよ」
「ぐぅ……うぅ……」
「………まだ立つか、愚かだね」
「待って、早く私を連れて行きなさいよ。アンタの望みはそれなんでしょ!」
「………それでは」
「アスナ……さん……! 待ってください……!」
「ありがと、ネギ……バイバイ」
「アスナさぁぁぁぁぁぁぁんっ」


 魑魅魍魎が跋扈する異界と変じた。












 少年は吼えた。ただ怒りに猛った。

 大切な友達が殺された事に、少年は怒るしかなかった。

 怒りしか……無かった。


『 人 間 な ん て 、 滅 び て し ま え ! ! 』


 だから、吼えた。怒りの中に、化け物も人間も世界も、何もかもをも呑み込まんと――

『伊織クン!!』
『伊織のバカ~ッ!!』

『久美ブー……!?』

『私は私! 私の生も死も私のもの!! 伊織のじゃない!!
 行きなさい!! 言ってあなたは、あなた自身になるのよ!!』

『そうよ……』

『……サラ……?』

『すべてのものが、闇より出でて、闇へと還る……。
 汝、星辰の欠片より出[いで]し者、遥か白熱のプラズマの中で、遥か暗黒の深淵[アビス]の底から、つづられ織られる生命の錦、我ら等しく獣の裔なる者……』

『サラ?』

『憶えていてね、私のことを。良かった……、伊織クン、元気になって……』

『どうしたんだ!? どこへ行くんだ!? サラ!?』












 一人の少年はただただ戦った。護る為に、取り戻す為に、そして父の様に世界を救いたいと戦った。

 一人の少年はただただ流浪する。抗う為に、そして己を救ってくれた、強かった少女達との約を果たす為に。
 己が己となる為に。己が己である為に。世界を救う事が出来るだろう一人の女性を求めて、旅をする。



 そして、物語は交差し、一つと混じり合う―――


「あなたが滝川伊織さん……ですか? 東京大崩壊を齎したという、ギルステイン……」
「…………………」


 その中で、戦う少年は旅する少年と出会った。

 出会い、そして少年は打ちひしがれた。

 嘗ては何の変哲も無い、平凡だった筈の少年が持っていたその強さに、その意思に打ちのめされた。

 表に出さずとも、心の中で。

 羨ましかった。そして思った。この人のように強くなりたいと。

 知りたくなった。どうしてこの人はこんなにも強いのだろうかと。

 それを知る為に、少年は少年と共に旅をした。

 けれどその中で、少年は気付いた。気付いてしまった。

 それは何の意味の無い行為だったのだと。

 ―――何故、旅する少年は強いのか。

 其処に、旅する少年の強さは無いのだと。

 分からなくなった。戦う少年は分からなくなってしまった。

 自分は『偉大な魔法使い』に為って、一体如何したかったのか――


 それでも、少年は戦った。


 それでも少年が戦ったのは、それは少年が人一倍、優しかったからだった。

 力を持って尚、優しかったから。

 たった一歩を踏み出す、勇気が有ったから。

 護る為に、取り戻す為に、そして世界を救う為に。


 故に、気付く。


 真っ先に己が為さねばならなかった事を。己が真に成すべき事を。

 それは超える事。

 ―――己を。

 そう、少年は己が超えるべきは己であると知る。

 ―――父の背に追いつこうとした己を。旅する少年の様に強くなりたいと思った己を。

 でなければ、意味が無い。

 ―――己の生に。

 でなければ、意義が無い。

 ―――その道に在った全ての出会いに。

 でなければ、価値が無い。

 ―――その道で出会った全ての幸運と不幸と日常に。

 そう、誰かに追い付こうとした己を、誰かを追い抜こうとした己を超える事こそが、己が真っ先に為さねばならぬ事だったのだと戦う少年は遂ぞ知る。


 けれど、少年には分からなかった。


 如何すれば良いのか。如何すれば超えられるのか。

 しかし、世界は少年にただ悩む事を許さなかった。

 何もしなければ、この変じた世界では命が失われていくから。ただただ無残に奪われていくから。

 だから、少年は戦った。戦い、けれどその内では苦しんでいた、悲しんでいた。

 戦い、それでも失われていく命に。戦い、奪っていく命に。

 そして、己を何時までも越えられない己に。


「バ~カ、いい加減に気付きなさいよ……アンタはもう、ちゃんと“ネギ”になれてるんだってさ……」









 そして、物語は終焉へと向かう――









 金色の絶望に相対するは漆黒の鎧に身を包んだ、一人の少年。

 真白い虚無に相対するは蒼黒の雷を身に纏った、一人の少年。


 幾千の魑魅に包まれ、幾万の魍魎に囲まれ、幾億の怪物に覆われながら。

 それでも――

 二人の黒の少年は絶望と虚無に相対す。


「見ただろう? 見せ付けられただろう!? エルガーよ!
 人の醜い本性を……、人の醜い欲望を……!!」

「見ただろ、魔法の、偉大な魔法使いとやらの真実を。だからこそ、これは世界が、そして人が救われる為には必要な事。
 何処までも醜く、獣でしかない人が救われる為には」

「そう。そして、星の記憶を忘れ去った愚図共を救う為には!」


 それは否である―――少年達は知っていた。

 虚無と絶望が知り得ながら敢えて目を背けていた、ある事を。


 だからこそ、二人の少年はその思いを言葉に乗せる。

「……お前は、お前達は間違ってる! ミハエル、フェイト!」

「確かに、ギルステインはヒトの欲望や本性を表す者なのかもしれません。
 けれど、ボクは、ボク達はそれが醜い物だなんて思いません!」

「そう。そして、ヒトはケダモノなんじゃない! ヒトは、まだケダモノなんだ!」

「だから、滅ぼさせたりなんかさせません! 絶対に!!」

「忘れているのは、お前達の方だ! ミハエル、フェイト!! 星の記憶……、この星の記憶を!!」

 そして、己の全てを懸け、命を賭して。

「「今ばかり見ているお前達に、未来を決める資格なんか無いっ!!!」」

 ――その言葉を証さんと。

 二人の少年は立ち向かう。

 抗う為に、そして護る為に。








 春の野に芽吹く花々、伊[これ]を織る。その果ては――








 ――これは、そんな少年達の物語。












 本編へ…………続かな、い!?



◆後書き
 最後までお読み頂き、有難う御座いました。
 これは前々から頭の中にあった漠然としたプロットを文章として書き起こし、嘘予告として手を加えたものです。

 ただ何といいますか、嘘予告……難しかった。ネギまキャラが難しかった。口調とか再現できてるか、不安です。

 しかしネギま!の知名度は抜群だろうけれど、獣星記ギルステインを知っている人ってどのくらい居るのかな。

 まあ、このクロスの一番の問題は赤松先生の「やさしいせかい」が崩壊するという事に尽きるような気がしますが。




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