教育問題

  はじめに(このページを開設する理由)

 この夏(2003年)知人から2冊の本をプレゼントされた。偶然にもその2冊は教師と元教師の著わした本であった。どちらも、頭の中で捻くりまわした著作ではなく、日常の「教育実践」を土台としたものなので大変読みやすい書物である。これらの書物が教育関係者にどれほどの感動を与えるかは私にはわからないが、日ごろ教師達の活動の実態を知らない私には、心ある教師達の心情に触れた感じがして感動すら覚えた。無名の著者の著書であるにもかかわらず、提起された問題の普遍性と、わかり易さが備わっており、ぜひ一般の人にも薦めたい本である。したがって、私の読書感想を述べることで、これらの本を紹介することにした。
 ついでに、今後も教育問題に触れることがあるかもしれないので、「教育問題」という見出しのページを設けることにした。
 私はトップページで自己紹介したとおり、ものづくりであった。したがって教育問題には素人である。しかし私以外の素人でも、多くの人が教育問題には深い関心を持っている。特に昨今の少年犯罪の凶悪化と低年齢化については、否が応でも関心を持たざるを得ない。しかも、一般の人もその子弟を教育機関に委ねる期間は必ずある。「親が無関心」ということがいわれるが、それは極少数である。ほとんどの大人はたとえ学齢期の子供がいなくとも、教育問題には一言何かを持っている。
 ものづくりと言えども、教育はする。技能や技術の伝授なしには、ものづくりは継承されない。しかし、社会人としての教育は、一応義務教育で済んでいるものとして、必要最小限、具体的な問題についてだけ行う。その意味で、いわゆる「教育」関係者の行う教育よりはるかに簡単である。しかし教育関係者は、教育は自分たちだけの専売特許と思っては欲しくない。教師が世間知らずであることは、一般常識であることを、教育関係者は自覚して欲しい。
 教師の世間知らずを補うためか、最近教員免許を持たない社会人校長の採用が行われている。それ自体私は否定しないが、そのことで何をしようとしているのか不明である。私が考えるに、校長は専門職としての教育(実践)と行政(教育行政)を繋ぐ職務である。したがって教師の職制とは違う。しかし専門職としての教育についての造詣は、若手教職員を指導できるだけの深いものを持つ必要がある。そうした職務に社会人出身者(教育の素人)を当てることは、教師出身校長の行政面での弱さを補うのでなく、圧力をかける目的であると思われる。したがって、実際は教育行政当局の力不足を補うのが社会人校長採用の目的であって、教師の世間知らずを補うものではないと思われる。
 われわれ社会人が教育に一言を持つといっても、それぞれの立場から見るのであって、個人個人はきわめて狭い視野で物を言っている。たとえば優等生の子、劣等性の子、非行を繰り返す子、障害児など、教育に預ける自らの子の状況で一般人の持つ意見は千差万別である。社会人が教育に抱く理想像は、その意味で偏っている。それが校長職を務めることは並大抵ではない。
 社会人校長に応募する人は、社会人としての完全な成功者ではないだろう。おそらく何かで行き詰まりを感じているから転職を考えている。そのうえ、挫折を感じるほどだから、論文などを作文する能力は十分ある。その結果、採用する側される側共に、能力の評価にミスが起きる。その結果として広島での民間人出身校長の自殺が起きた。教育委員会の対応も間違っていた。うつ病と診断されれば、それ以上努力を促せば自死に至ることは常識であるのもかかわらず、うつ病発生率の高い教育現場を管理する者がそのことを知らなかった。つまり教育委員会はその資格がなかった。その結果第二の犠牲者を生むことになった。
 この一例でもわかるように、教育行政側は教育を知らない。それが、(社会人校長志望者のように)作文した教育の実践を現場に要求する。それに対し、教育現場の要求を行政に伝えるのが校長の役目である。それは、教育労働者の労働運動とは別の次元である。そうした実践の上に打ち立てられた教育理論を持たずして校長になるべきではない。それがないから板ばさみになる。つまり板ばさみになる校長は最初から資格がない。では何故校長になるのか?それは社会人出身者が応募するのと同じ動機。「元校長」という肩書きが欲しいからである。このこと自体が教育関係者の、そして社会人出身校長の世間知らずを証明している。
 したがって私を始めとする一般人は、社会人出身校長の自殺を、冷ややかな態度で見ている。行政当局は労働組合の圧力とみなすかもわからないが、それに屈して自殺する弱い人間は校長になるべきでない。というより、彼が行政当局の捨石とされたという見方を、厳しいリストラ時代に生きる私ら社会人は、するのである。

 物を書き、それを公開するということは、たんに何かを訴えることではない。その人の人格をさらけだすということであり、そうした勇気はよほど自己顕示欲の強い人でないと、なかなかむずかしい。さらに公開された書き物には、ものづくりで言う、製造物責任制ともいうべき社会的責任が生じる。その意味では、無名の著者による出版物は、著者の奥ゆかしさをのりこえて、公開に向かわせる何かがあるはずである。
 そうした出版物に感想文を公開することもまた同じである。書かれたことを理解できなくても、黙ってうなづいておけば、人はそれをみて、彼を誤解する。しかし、書評でも感想文でも、公開すればそれを(感想文)を書いた人の感性、知的水準、人格をさらけだすことになる。なによりも、原作者からみれば、評者の知的水準は一目瞭然である。まして教育に素人の私が、プロの著作に意見をいうなどおこがましいし、著者の意図を、おそらく正しく理解していない。しかし、以下に紹介する2冊の書物は、私なりに感動し、より多くの人に紹介したいと思ったので、ここにその感想を公開することにした。
 至らないてんは、世捨てご隠居のたわごととしてお見逃し願いたい。



 1  虹を追うものたち

  竹島由美子・山口文彦[著]         高文研      2003年7月20日発行
  福岡教育大学教授 高田 清 [解説]
 
 著者は共に、福岡県八女市にある西日本短期大学付属高等学校(西短)の教師である。西短は甲子園での優勝経験もあり、なによりも新庄 剛で有名な学校である。といえば想像がつくと思うが、体育面で力を入れた学校である。私立学校の場合、何か売りがあるほうが生徒集めに都合が良く、それが学校経営に直接影響するので、このような特色を生み出す学校は多い。また、少子化のために、公立校より進学に特化した学級を設けることも、私学経営では当然のこととなっている。ただしこれは、学校間格差だけでなく、校内格差を生み出し、教育環境に次なる問題をもたらすことになる。
 表向きは差別はしてならないことになっているが、こうした学校間格差や校内格差は厳然たる事実であり、就職に際しては、採用試験という関門がある以上、無定見な平等主義は生徒たちに間違った認識を与えることになる。というより生徒たちは格差を十分認識しており、建前の平等主義で大人たちをからかう「悪知恵」すらもっている。
 この本は、特別進学コースをもつ学校の、普通コースの学級の記録であり、したがって生徒たちの状態はそこから想像せざるをえない。
 成績で選抜される高校入学は、トップクラスは進学コースを持つ私学に、次のクラスは公立に、その下は私学の普通コースにというのが大体の住み分けである。したがってかなりの問題を抱えた生徒達との、文字通り「格闘」の記録ということになろう。
 この水準の学級は、学問で身を立てようと考えている生徒は少ない。したがって学問(授業)で学級をまとめる事は困難である。学問の道を断念するかわり、ごく一部には人生の目的を決めている生徒もいる。それゆえ意識的に授業を無視したり逆らったりする者もいる。しかしほとんどはそうでなく、むしろコンプレックスをもち、反抗しているか、すべてに無気力であるかの生徒が多数であろう。そのような生徒たちに目標を持たせること自体大変な作業である。ただおとなしい子は他に迷惑をかけないので、学級運営を邪魔することもなく、手がかからないかわりに、むしろ問題なのかもしれない。しかし、授業であれその他の学級運営であれ、なんらかのまとまりをつくりだすためには反抗的な生徒に目標を持たせることが必要であろう。
 竹島先生はそれを演劇活動によって行った。その過程は並大抵のことではなかったと想像できるし、その成功もこの本を読んでもらえばよくわかる。
 私は演劇については全くの素人なので想像するしかないが、この本を読んでいくつかのことを考えた。
 演劇は基本的に一定のチームで創っていくものである。共同作業が基本なので、学級をまとめる道具としてはかなり都合の良い方法であろう。このことが成功の一因であると思われる。ただし、高水準の進学コースでは、生徒は勉学を個人の競争として行っており、共同作業を受け入れる環境はないだろう。また、この学級の水準で、学級形成活動の対象となる生徒は、個人的能力は低くないが、反抗的であり、それゆえに自分の目的を見出す道を自ら閉ざしている傾向があるので、共同作業に対しては特に反発する傾向がある。したがって、竹島先生の取り組みは、走り出してのいろいろの問題より、そのレールに乗せるまでが大変だったのではないかと思われる。それは、竹島先生の能力というよりは、問題の多い学級をなんとかしなければならないという、教師としての本能と情熱のようである。そのために、問題児たちの心の闇をつかみとろうとするひたむきさが、悪がきどもを引き込んでしまったと思われる。
 どんなに一人で粋がっている人間でも、結局は社会への帰属が自己認識できたとき、精神の安定を獲得する。演劇活動の共同作業は、名を馳せた野球部の共同作業ほど校内で注目を浴びなかったであろうが、共同作業に参加する精神的安らぎと、その中での自分の役割を与えられる、自己の存在感を認識するにはかなり有効であったようである。
 演劇は、「役になりきる」とか「感情移入」など、技術的にも高度なことがあるようであるが、素人から見れば、自分以外の人生の追体験、自分の対象化が、自分自身を知るための、したがって自己変革の機会として有効な手段ではないかと思う。しかも、その活動がコンクール参加やボランテイアなどでの、外へ向かっての存在感の主張は、共同作業に参加するメンバーの意欲を高めている。そのうえ、生徒たちの心の中を知った竹島先生が、それを土台に自ら脚本を書くことで、その活動を一層深めている。これは、先生自身の演劇活動への卓越した造詣の深さを想像させるとともに、それゆえにこの教育実践が成功を収めたと思われる。
 そのうえこの活動は、先輩が後輩を指導するということで、先輩から後輩へと受け継がれている。ということは、この活動を通過していく人生が、そのときだけにとどまらず、一人の人生を貫くと共に、世代間への継承と言う人類社会の縦糸と横糸をそのなかで再現しているのである。これは、知識の断片としての教育でなく、ミニ人生を実感させるということではないだろうか。
 
 山口先生の授業については解説でその方法について述べられている。わからない言葉について、授業中でも辞書で調べさせるなど、生徒に自分で学び取る努力をさせている。ただし、「自分で調べろ」というだけでなく、生徒たちが興味を持ち、調べずにはおれないような心理状態に導いていくところに、氏の教育技術の特徴があるようである。それは、たんに技術でなく、現代国語という科目の基幹性を認識し、それがおろそかにされれば、他の一切の学問がなりたたないという自負があるように思われる。
 一回の試験で選抜される受験勉強では、試されるのは、主に知識の断片の総量である。詰め込み教育と呼ばれるもので、短時間のテストでは個人の持つ想像力などは測定しようがないので仕方ない部分もある。そのための授業では辞書で調べるなどの、学問の方法論の習得より、手っ取り早い知識のコピーが中心となるので、このような授業の進め方は受け入れられにくいのではないだろうか。しかし長期的に見れば、山口先生の方法は正しいと思われる。
 受験というレールにのって形成された現在の学校教育には多くの批判が寄せられてはいるが、それを突き破るものは未だ現れていない。そのなかで、落ちこぼれの部類にはいるこの学級で、解説者の言う、山口先生の「知的レベルを下げない」授業のやりかたは、私には想像のつかないものであった。普通に考えれば、このレベルの生徒達はその授業についていけないのではないかと思うのである。

 素人目ではあるが、「落ちこぼれ」を出さない学校教育ということで、遅れた生徒にレベルを合わせるようなやりかたが10年ほど前までかなりの影響力をもっていた。その流れの中に、受験の負担をなくすためとして、「高校全入運動」などもあった。そこで提起されている問題の全てを否定するわけではないが、そこで実践された平等主義教育は、われわれ部外者には知ることができないが、そうとうの弊害を生んでいるようである。学校間格差は厳然として存在し、受験教育に特化した私立学校の受験競争は熾烈さをましている。社会的教育論と現実のギャップについて、その本質を教育行政当局は認識はしているが、理解はしていないように思う。
 基本的人権のひとつに教育を受ける権利がある。と同時に、国家にも子供の親にも「義務教育」つまり教育を受けさせる義務がある。こうした社会制度と、学問は自ら学び取るものであるという自然の原理とをどう融合させるかという問題があるように思う。教育行政の側からは教育は主に施すものと考えられている。しかし実際は、施すのは自ら学ぶための方法と、学びたいというきっかけを与えることでしかない。その方法の最も基本にあるのが言葉である。言葉はたんなる排泄物ではない。言葉が人を成長させる。数学も音楽も絵画も、おおまかに言えば言葉の一種である。そしてそのなかで言葉は人のコミニュケーションをもたらすのに、もっとも客観性を持っているのである。
 教育行政的発想による、施す教育は、「愛国心教育」などというお題目の羅列になる。そのてん、山口先生は施す教育の役割と限界をわきまえた方のように思う。

 最後に「知的レベルを下げない」ということについて。
 非常に卑近な例になるが、算数で問題を解くのと方程式で解くのは、後者がはるかに簡単で合理的である。これは高度な方法を知ることの意味を示している。つまり知的なレベルは高ければ高いほど良い。このことはものづくりをしていてもよくわかる。あるものをつくる場合でも、その作業全体を理解し、工夫し、改善して合理的作業を行ううえで、「学歴」による個人差は確実にある。受験勉強が、知識の断片の集積量の拡大でしかないとはいえ、知的レベル向上にとって全く無駄ではないことの証拠であろう。ただ、効率の面から見れば非常に低い。役に立たなかったり忘れてしまうことをいっぱい覚えなければならないから。せいぜい、脳の働きを高める頭の体操ぐらいに思わないとしんどいかぎりであるが。
 だが、学歴以上に、ものづくりをしながら学問を怠らない個人は、やがて学歴の差以上の能力を身につけていくことも確かである。したがって、教育でレベルを落とさないということは、教師自身が自らのレベルを落とさない努力が必要だということであろう。
 そして、教育実践とは、この二人の真似をすればうまくいくというものでもない。彼らのように、より多くの教師が、自分で自分の方法を、批判にさらされ、同業、他業のひととのやりとりをしながら、自ら編み出していくことが必要ではないだろうか。

                 2003年8月


    次へ     目次へ