携帯電話が鳴ったのは土曜日の午後11時。福岡県大牟田市の児童家庭支援センター「あまぎやま」の主任相談員、坂口明夫(38)が自宅でくつろいでいたときだった。
「先生、私、またやってしまいそう…」
センター敷地内にある児童養護施設で小3から高3まで過ごした女性からだった。母親は失踪、父親から性的虐待を受けて育った。今は30歳のシングルマザーとなり、小学生の息子への接し方で悩んでいた。
翌日の日曜日。待ち合わせた喫茶店に子連れで現れた女性は「これ以上一緒におると、たたいてしまう」と訴えた。「その前に、よく俺に電話した。それでいいとよ」。ゲームセンターで子どもが好きなゲームを3人でしたら、女性は少し楽になったようだった。
児童養護施設の支援対象は原則18歳未満。支援は終わっているが、坂口は時々「どげんしとるね」と電話をする。「虐待の傷は一生癒えない。それは僕が一番知っているから」
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左手中指には彫刻刀。左手甲にはたばこ。右ふくらはぎにはアイロン-。坂口の体にはすさまじい虐待の痕跡が残る。
九州各地の親戚の家を転々とし、中3までに姓は7回変わった。毎日が暴力の嵐だった。ある家ではアルコール依存症の養父から、別の家では夫の暴力のはけ口として養母から…。実の父母は、生まれて間もなく交通事故死したと聞かされた。真偽は分からない。知りたくもなかった。
「何で普通の家に生まれんかったとやろ」「生きていても仕方なか」。自殺も考えた。踏みとどまったのは、救ってくれる人たちとの出会いがあったからだ。
最後の養父が病死し、身寄りがなくなった中3のときは、自宅に3カ月間泊めてくれた教諭がいた。高校時代は遺族年金とアルバイト代でアパートに1人暮らし。年金が切れた高3のとき、友人の親たちが生活費をかき集めてくれた。涙が止まらなかった。
児童養護施設で出会った職員の一人もそうだ。高3で入所が検討されたのをきっかけに仲良くなった。施設に遊びに行くうちに、自分と同じ境遇の子がたくさんいることを知った。
「おまえなら分かることもあるやろ。この仕事、やってみんか」と誘ってくれた。高校卒業後、アルバイトをしながら社会福祉士になるため通信教育で学んだ。1年後、その施設に職を得た。
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職場結婚した妻と2人の子と暮らす。自分もいつか「虐待の連鎖」の加害者にならないか-。不安は消えない。だが日々接する傷ついた子どもたちの存在が、押しとどめてくれている。
「この子たちを少しでもいい方にもっていくことで、自分も救われているのかもしれない」
施設職員として18年。今はセンターに籍を置き、施設に入所する子のほか、虐待が疑われる親子や不登校の生徒ら施設外の市民からの相談にも乗る。電話相談だけで終わらず、自宅に日参したり、学校の運動会に顔を出したり…。そうして相談者の様子を確認する。
「おまえのこと忘れてないよ、というメッセージなんです。本当にぎりぎりまで追い詰められたとき、僕を思い出して電話をくれる。それだけで万々歳」
どんなに尽くしても、事態が劇的に好転することはない。それでも、寄り添い続けることが使命だと信じている。
(文中敬称略)
=終わり=
◆児童家庭支援センター◆
1998年の児童福祉法改正で児童相談所を補完する目的で設けられた。今年4月現在、86カ所(九州は6カ所)。児童養護施設をもつ社会福祉法人などが運営する。虐待や引きこもり、発達障害などについて市民からの相談に応じたり、児童相談所から委託された子どもを支援したりする。各機関が連携して虐待を防ぐ「要保護児童対策地域協議会」の指導・調整役も果たしている。
=2011/06/22付 西日本新聞朝刊=