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後白河天皇(1127-1192) 後白河天皇の御所はいつもよりものんびりとしていて、側近く仕えている公卿(上級貴族)3人と女房が数人お側にお控え申し上げて、取り留めのない話をしている時におっしゃったことには「あなたたちの身にとって、とても思い出される秘密のことが、何かあるでしょう。ある意味では懺悔のため、皆様方ありのままに話さなくてはならない」とおっしゃられて、法王からじゅんじゅんにおっしゃっていった。小侍従が順番にあたって、「けっして、あなたには素晴らしいことはありませんでしょうな。」などと人々がいえば、小侍従は笑って「多くございますよ。その中から取り上げて生涯忘れられない一件がございます。まことによくないことに執着することになりそうなので、御前で懺悔をすれば罪も軽くなるでしょう」と言って話し出した。

「以前、ある所からお迎えに来ていただいたことがございまして、まるで分別をなくするくらいに激しい恋の虜になりまして、特別な気分になって、どうしたらよいだろうかと思いましたところ、月が冴え渡って、風も肌寒いところに、夜も少しふけていくと、あれこれと思い乱れて、じれったさ限りない事に、車の音がはるか遠くに聞こえて、ああ、これではないだろうかと胸が騒ぐと、からりと車が門内に入ってきたので、いよいよ心を思い悩ませられて、人に見られたら体裁が悪いほどに急いで乗りました。そうして到着して車寄せに寄っていくと、御簾の中から気品があってなえらかに、いとしく思う人が出てきて、簾を持ち上げて下ろすと、まず非常にいとしく私が感じると、立ちながら衣ごしにみしと抱いて、「何という遅さだ」といった様子はどのように申し尽くそうとも覚えております。

そしてしめやかに語っていると長夜も限りがあるので、鐘の音がはるかに響いて、鳥の音もはやくも聞こえれば、睦まじく語り合う話もまだ尽きなくて、朝置く霜よりもなお消えかえりながら起きて別れようとすると、車を寄せる音がするので、魂が身に添わない心地がして、上の空で乗ったのでございます。帰ってきても、寝直す気があれば飽きる事のないなごりを夢にも見ようが、ただ世に知らぬ匂いが移ったものだけが形見なので、嘆きに沈んでいたところが、その夜に、その方と衣を取り替えてきておりましたものを、明日取り替えたりすれば、移り香の形見さえ別れてしまった心のうち、どのように申し述べようとさえ分からず、仕方がなく思っております。」


Dante (1265-1321) 詩人。代表作は『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』からなる『神曲』。神に選ばれたダンテが、死後の世界の有り様を人間に伝えるという使命を受けて、あえて彼岸に渡る、という崇高なテーマである。これは恋人ベアトリーチャへのラブレターみたいものでもある。恋人と言っても、9歳の時に初めて顔を見て、18歳の時に道ですれ違っただけの関係である。言葉も交わしたこともなくて、死ぬまで想っていたとはすごいだからこそ永遠の恋人とうたわれる。結婚したベアトリーチェが25歳で死んでしまったから、なおさらダンテの想いは強まったのだろう。どんどん思い込んでいって…この位の精神的強さがなかったら『神曲』は生まれなかった。

故国フィレンツェを追われ、「私という人間の価値は、俗世間の奴らにはわかるまい。しかし神ならご存知のはずだ。私がいかに崇高な精神で生に立ち向かい、真摯に生きようとしているかを」と絶望と怒りの中で神に叫び、『神曲』を書き始めた。『地獄篇』『煉獄篇』ではダンテを陥れたり、裏切った人間達を登場させて、次々に地獄の責め苦を味あわせる。ダンテは、この『神曲』を書き上げるのに20年を費やし、それから数年で死んでしまった。全てのエネルギーを創作に費やし、燃え尽きたのだろう。


足利義満(1358-1408) 室町幕府三代将軍(在職 1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。号は鹿苑院殿。1378年、室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し、94年将軍職を義持に譲る。97年北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれた。1401年、明に入貢、貿易につとめた。

石田三成(1560-1600) 「大義を思う者は、たとえ首をはねらるる期までも 命を大切にして、何卒本意を達せんと思う」。

本能寺の変(1582) 「時は今、雨が下たる五月哉」。遺恨説と野望説の2つに大別される。光秀は一説によると土岐源氏の末裔、織田信長は平家の末裔、その信長は幕府を倒し、自ら将軍になろうともした。しかし元来将軍は源氏しかなれないその辺が許せないと言う説もある。又、秀吉の毛利攻めで秀吉がよいしょするため、最後の美味しいところを信長に譲ろうと援軍を頼んだ。その時、丹波守護であった光秀に同行させようとした。しかし光秀は秀吉のライバルであり、プライドが許せなかったという見解もある。加えて、丹波の領地からまだ治めていない毛利の領地への領地換えを言い渡されたとも言われる。そのため信長に不信感を抱いたとすめ見解もある。少し前に長年の重心佐久間が失脚しており、このままではいつ首を切られるか分からない恐怖もあった。

その折、絶好のチャンスが到来した。主要な家臣は軍を率いて外征でなかなか引き返せない、そして信長の手勢はわずかだった。しかも光秀には京都近辺に細川藤考の子忠興に娘ガラシアを嫁に行かせ、大和の筒井順慶には自分の息子を養子に出した。頭のいい武将の野望説にしては信長を殺した後の処置がいいかげんな気がする。確かに秀吉の中国大返しは光秀の予想を超えるものだっただろう。しかし仮に秀吉が来なかったとしても、四国出陣前の信孝や丹羽長秀が大阪にいたのに、秀満を近江に配置し柴田勝家に備えていたりする。そして何より問題なのは、やはり細川藤孝や筒井順慶に対するものだろう。連絡の時期が遅すぎる。


江戸時代(1603-1867) 籠かきは腰のあたりから紐をぶら下げていた。何故なら籠を担ぐときにどうしても前の人は籠の中の人に尻を向けなくてはならず、それが通常なら無礼とされるため、籠かきは尻尾にみたてた紐をつけた。 動物なら人に尻を向けても一向に構わないという考えからだった。

池田光政(1609-1682) 江戸前期の備前岡山藩主。輝政の孫。熊沢蕃山を用い、諸制度を整え、農産業を開発し、学問の興隆をはかった。1654年備前に大洪水が起こると、光政は、蕃山の補佐を得て、飢民の救済に万全を期した。これをきっかけにして地方知行制を改め、藩主権力を強化するなどの改革をし、名君と呼ばれるようになった。

近藤重蔵(1771-1829) 博覧強記の江戸の官僚。逢坂剛・重蔵始末(講談社2001)は才人・奇人であった彼の人となりを通じて当時の時代風俗を活写する。直木賞受賞作家が初めて挑む、魅力あふれる江戸捕物帖。

J.W.ゲーテ(1749-1832) 独:詩人、作家。「はじめにおこないありき」「地上のあらゆる所有の中で、自分のハートが最も貴重なものである」。「あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者は過ちを増し、後者は新しい後悔をつくる」。

アンデルセン(1805-1875) デンマーク、童話作家。芸術童話の祖、童話文学の父と言われ、誕生日は「子供の本の日」となっている。童話、詩、小説、戯曲、随筆、旅行記等、多方面に渡る才能を発揮した。「絵のない絵本」「親ゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」など、多くの傑作童話は人類の宝とさえいわれ、童話の父として今も世界中の子ども達に親しまれている。

C.ヒルティ(1833-1909) スイス:哲学者。「高慢は、常にかなりの愚かさに結びついている」(幸福論)。

岩崎弥太郎(1834-1885) 三菱財閥の創業者。妻・早苗は後藤象二郎の長女。元は土佐の貧乏郷士。金勘定が出来るため後藤象二郎に取り立てられ、坂本龍馬主催の海援隊設立の際に海援隊の財務を取り仕切った。龍馬死後、明治維新が成り、後藤から海援隊一式を貰い、それを元手に財閥を作り上げた。特に海援隊によって作られた全国各地の物価情報等、重要な情報が大変役立った。

三菱財閥の当主は@弥太郎→A弥之助(弥太郎の弟)→B久弥(弥太郎の長男)→C小弥太(弥之助の長男)。そして財閥解体に至る。弥太郎系の本家は@弥太郎→A久弥→B彦弥太(久弥の長男、元三菱地所取締役)を経て、現在の当主は寛弥氏(彦弥太の長男、現東山農事社長)。弥之助系の本家は@弥之助→A小弥太→B忠雄(林董の孫、小弥太の婿養子)を経て、現在の当主は正男氏(渡辺良吉の次男、忠雄の婿養子、現麒麟麦酒勤務)。3代目の男性には岩崎寿男氏(近藤宏太郎の四男、俊弥未亡人・八穂の婿養子、元三菱自動車常務)、岩崎英二郎氏(弥之助の孫、輝弥の次男、ドイツ語学者)がいる。

4代目の男性をあげると、岩崎東一氏(弥太郎の曾孫、久弥の孫、隆弥の長男、故人)、岩崎兼幸氏(吉田良兼の三男、勝太郎の養子、弥太郎の曾孫、豊弥の孫、現東京海上勤務)、岩崎泰頴氏(弥太郎の曾孫、康弥の孫、精一郎の長男、古生物学者)、岩崎正秀氏(弥太郎の曾孫、康弥の孫、精一郎の次男)、岩崎俊男氏(弥之助の曾孫、俊弥の孫、寿男の長男、現東京三菱銀行勤務)、岩崎正寛氏(弥之助の曾孫、輝弥の孫、毅太郎の長男、現旭硝子勤務)、岩崎透氏(弥之助の曾孫、輝弥の孫、英二郎の長男、現三菱商事勤務)、岩崎純氏(弥之助の曾孫、輝弥の孫、英二郎の次男、現ニコン勤務)。戦後の岩崎家の男性は三菱系企業に勤めているか学者になっているかのどちらかである。


Gaudi (1852-1926) 仏教信者でなくとも仏像の神秘に心引かれるように、スペインのガウディが生んだサグラダ・ファミリアSagrada Familiaも人の心を奪う。スペインのサグダラ・ファミリア(未完の教会)は未完であるが、そのスケールは人に完成と期待を与えるインパクトは凄い。創作者にとって完成した作品への愛着は大きいが、まだ見ぬ次なる作品への情熱も劣らない。サグダラ・ファミリアをこの世に誕生させたガウディ−の偉大な点は、芸術家自身の寿命では到底完成することの出来ない作品を誕生させたことにある。ガウディは「大地から自然が育つように、大地から自然に生まれる建築」と言った。未完の教会には人類の壮大な夢が託されている。

牧野富太郎(1862-1957) 植物学者。小学校を中退し独学で植物学を学ぶ、主に日本の高等植物の分類学的研究を行い、日本の植物相の解明に貢献した。多くの新種を発表し、彼が命名した数は千種にも及んでいる、また、植物知識の啓蒙活動を行い、アマチュア植物研究家の育成に尽力した。彼の死後、文化勲章が贈られている。著「日本植物志図篇」「日本植物図鑑」「植物記」等。

明治維新(1867) 尊皇攘夷と言っていた者が一転して開国和親と言うのは無節操である。明治維新、近代化といったところでその程度の低い意識に過ぎない。「破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結び付く。…幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない」(島崎藤村・夜明け前第1部下(岩波1969)265)。

上村松園(しょうえん)(1875-1949) 女性日本画家。16歳の時、内国勧業博覧会に「四季美人絵図」を出品、一等褒状を受賞。その絵が、来日中の英国皇太子の目にとまり買い上げられ、一躍有名になった。美人画家として活躍し「母子」「月雪花」「夕暮」「晩秋」など多くの名作を書き、1948年には、女性として最初の文化勲章を受章した。

芥川龍之介(1892-1927) 「人生はマッチ箱に似ている。重大に扱うのは馬鹿馬鹿しいが重大に扱わないと危険である」。

1903.8.22 新橋〜品川間で初の路面電車が本格的に運行を開始した。これを記念して8月22日はチンチン電車の日とされた。

坂口安吾(1906.10.20〜) 新潟県新潟市に生まれた。父・仁一郎は憲政本党の総務を務める衆議院議員で、県会議長などの役職を歴任した人物。安吾は13人兄弟の12番目の子で、父との繋がりは薄かったと後年エッセイに書いている。幼い頃より集団生活を嫌い、幼稚園時代から既に通園拒否をしては街中をさまよい、小学校に入学すると持ち前の腕力でガキ大将となり、同級生を無理矢理連れ出しては夜遅くまで表で遊んでいた。安吾曰く、小学校に入学する前から新聞を読むようになり、講談の連載と相撲記事は必ず目を通していたらしい。1919(T8)年に新潟中学校に入学するが、学校をさぼってはぶらぶらしていたため1922年に放校。すぐに東京の私立豊山中学校へと転校させられ、野球、水泳、陸上競技に夢中になるが相変わらず授業はさぼっていた。

1923年(T12)年、安吾17歳の時、文学好きの同級生の進めで芥川龍之介や谷崎潤一郎を読みはじめ、ようやく文学に目覚める。また、友人の名で『新青年』にボクシング小説の翻訳を発表したりした。翌年、中学校を卒業し、すぐに小学校の代用教員として働き出すが、さらに翌年には求道の厳しさに憧れ、東洋大学印度哲学科に入学する。1931(S6)年、友人らと創った同人誌『青い馬』に『風博士』を発表。牧野信一に激賞され、新進作家として注目を集る。以後、小説やエッセイで着実に文壇での地位を確立し。『日本文化私論』は、戦後、次々と発表された社会批評的エッセイのさきがけともなった作品で、その鋭い視点から現在でも通用する文明批判となっている。

戦争の翌年の1947(S21)年、『堕落論』『続堕落論』『デカダン文学論』と、次々とエッセイを発表。「生きよ堕ちよ」という極論ながらも、人間性を取り戻し人間らしく生きることを励ますこれらの作品は、終戦直後の人々に衝撃を与え、当時の若者達や後の文学者たちに多大なる影響を及ぼした。翌年になるとさらに旺盛な執筆活動に入り、名作『桜の森の満開の下』をはじめとした小説、エッセイを多数発表。私生活では、梶三千代と結婚している。以降は、純文学やエッセイのみならず、推理小説、捕物帖、歴史物とありとあらゆるジャンルの小説を書き、『不連続殺人事件』(1949年)『肝臓先生』(1950年)など、話題作を発表する。

1951年には競輪の不正事件に怒り、自転車振興会を相手に『光を覆うものなし―競輪不正事件』を発表、物議を醸した。又、税金を払うことが納得できず、何度も税務署と対決した。1952(S27)年頃から歴史物や紀行文がぐっと多くなり、『信長』(1952年)『真書太閤記』(1954年)などを発表。また、1953(S28)年には安吾47歳にして、長男の綱男が誕生している。公私ともに充実し、穏やかな日々を送っていた最中の2月17日朝、『安吾新日本風土記』の取材から一旦家に戻ってきた自宅にて脳出血のため48歳の短いながらも充実した生涯を閉じた。

安吾の親子関係 安吾の父親は地方政治家で、多くの役職についていたため年中多忙で家にあまりいなかった。元々、長男以外の子供にあまり興味関心を示さず、この父との関係は薄く、墨をすらせるために安吾を自室に呼びつける時だけが父子の唯一の接触の時間だったと、エッセイ『石の思い』で回想している。母親は後妻だったため、ほとんど年の変わらない先妻の娘達との間に激しい確執があり、さらに持病の膀胱結石の痛みが加わり、年中ヒステリイを起こしていた。腕白だった安吾は常に母親ににらまれており、「母は私を憎み、私も母を憎んでいた」。

このように、安吾は両親の愛情にあまり恵まれなかった幼少期を過ごした。そんな自分が子供を愛せるはずはないと、安吾は子供を持つことを拒否していたが、晩年、一人息子の綱男が生まれると大変な子煩悩になり、まさに目の中に入れても痛くない可愛がりようだった。『安吾新日本風土記』の取材旅行のため家を空けることが多かった安吾は、旅行先から必ず電話をかけ、まだろくろく話すことができない赤ちゃんの綱男さんと片言の言葉を交わしては喜んでいた。それまでの安吾は大変な電話嫌いで絶対に電話に出ず、自分宛ての電話でも妻に対応させていたという。

又、安吾が綱男さんの将来のために貯金しようと言い出し、三千代夫人を驚かせた。安吾が亡くなった朝も、まだ眠っている綱男さんが寒くないようにと隣りの部屋にストーブをつけに行き、脳溢血で倒れてしまった。安吾の作品はいつも孤独を主題としたが、人生の最後の最後に綱男さんという心から安らげる存在ができ、幸せな最期を迎えることができただろうと思う。児童虐待などの事件が多い昨今、「子供を愛せるはずはない」と思った安吾が自分の子供を溺愛できたように、子供の全てを受け入れられる親が増えればと願わずにはいられません。


カラヤン(1908-89) オーストリア、指揮者。貴族であり医者でもある父エルンスト、母マルタ・コスマチの次男としてザルツブルグに生まれた。1955年に、ベルリン・フィル首席指揮者・芸術監督に就任、翌56年、その終身芸術監督になる。これに続き、西欧の音楽界の枢要ポストを一手に収めたことから、「帝王カラヤン」と呼ばれた。

アウンサン将軍(1915-47) ミャンマー民主化運動のアウンサン=スーチーの父、アウンサンは、当時、イギリスに対する独立運動を展開していた。侵略性を隠しつつこれを支援したのが日本軍である。やがて日本が「ビルマ独立」を認め、アウンサンは国防大臣に就任する。しかし、日本の真意(イギリスなど連合国と戦うためにアジア諸民族の独立運動を利用したこと)を知り、また日本軍による人民の生活苦を背景に、アウンサンは1944年8月から、抗日統一戦線組織(反ファシスト人民自由連盟)を樹立する。「われわれの独立は紙の上のものであって、現実にこれを享受している種族はいない。…われわれと、われわれの目標の間には長くて厳しい道がある」と演説した。以後、イギリスと提携して日本軍を駆逐し、イギリスとの協定を重ねた末、1948年に独立した。独立に先立って首相格のアウンサンは他の閣僚らとともに暗殺されたが、「ビルマ独立(建国)の父」と今もたたえられている。わずか32年の生涯だった。 

1911.9.20 山田猪三郎の開発した飛行船が、東京上空を1時間にわたり初飛行した事を記念した。これを記念して政府は1940年に9月20日を空の日と制定した。また、9月20日〜30日までを空の旬間として各地の飛行場で記念行事も行われている。成田空港では「ジャンボ機との綱引き大会」というイベントを行ったこともある。

ツルネン・マルティ(1940-) フィンランド北カレリア生まれ。1979年、日本国に帰化。1992年、神奈川県湯河原町議に当選。その後4度に渡り衆参両院選挙に出馬するものの、全て次点で落選。英語塾を営なむ傍ら「源氏物語」等、日本の古典書をフィンランド語に翻訳。日本文化をフィンランドへ紹介。経済と環境の両立を目指し、様々な提言を行う。地道な政治活動は、地元民の共感を呼び、国政選挙で最大50万票の得票を得るも未だに国会に議席を得るには至らず。湯河原町在住。「湯河原で天寿を全うしたい」と語る。著書「日本人になりたい」(祥伝社)他多数。

御下問奉答(1941.9.5) ヒロヒト「絶対に勝てるか」。杉山参謀総長「絶対とは申し兼ねます。しかし勝てる算のあることだけは申しあげます。必ず勝つとは申しあげかねます」。それにもかかわらずヒロヒトは開戦を決断するのである。

御前会議(1941.9.6) 天皇臨席のもとに開催される会議。大日本帝国憲法にこの規定は実はなく、日清戦争直前から山県有朋や伊藤博文が開催した元老会議の権威を高めるために明治天皇が臨席したのがはじまり。しかし元老らが政治から一線を退いた明治末期から大正、昭和初期にかけて、御前会議が開催された例はない。1937年日中戦争開始以降、日独伊三国軍事同盟などの重用事項を審議するため、政府と陸海軍の大本営との連絡調整会議として大本営政府連絡会議が新たに開催される(1944年東条内閣崩壊まで195回開催)。出席者は、通常、政府側が首相・蔵相・外相・内相(内務大臣)・陸相・海相・企画院総裁、大本営側が陸軍参謀総長・海軍軍令部総長。議題によっては枢密院議長・参謀次長・軍令部次長なども出席した。これに天皇が臨席した会議が御前会議。日中戦争から敗戦まで、重要な国政に関する最高機関として、15回開催された。今回の御前会議では、アメリカ(イギリス・オランダ)との戦争を事実上方向づけた「帝国国策遂行要領」が決定された。それには「帝国は自存自衛を全うするため対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と定められた。

東条英機内閣(1941.10.18) 交渉継続か戦争かをめぐって近衛首相と東条英機陸軍大臣57歳との間で対立がおき、第3次近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立する。この内閣は、原敬内閣(3年2か月)いらい、しばらくみられなかった長さの政権(2年9か月)になる。東条首相はこの期間中に外務、内務、陸軍、文部、商工、軍需各大臣を兼任することになるが、主な大臣には、外務に東郷茂徳(外務官僚出身)、大蔵に賀屋興宣(かやおきのり、大蔵官僚出身、貴族院議員、北支那開発株式会社総裁)、農商に内田信也(のぶや、神戸内田汽船を創業した「船成金」、代議士、宮城県知事)、商工に岸信介(のぶすけ、いわゆる「革新」派商工官僚、満州国産業部次長、商工次官。商工相就任時45歳)

近衛は以下のように回想する。「自分が総理大臣として陛下に、今日、戦争の不利なことを申しあげると、それに賛成されていたのに、明くる日御前に出ると、「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することもないよ。」と仰せられて、少し戦争の方へ寄っていかれる。…統帥について何ら権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない」(富田健治・敗戦日本の内側)。1年前には新体制運動の中心人物として脚光を浴びた公爵・近衛文麿は、戦争指導者たちが開戦論で占められていくなか、ひとり孤独感を抱きつつ、しばらくの間、歴史の舞台から退くことになる。


南方占領地行政実施要領(大本営政府連絡会議1941.11.20) 「第1 方針
占領地に対してはさしあたり軍政を実施し、治安の回復、重要国防資源の急速獲得および作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
6.通貨はつとめて従来の現地通過を活用せしむるを原則として、やむをえざる場合にありては外資表示軍票を使用す。
7.国防資源取得と占領軍の現地自活のため民生に及ぼさざるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ宣撫上の要求は右目的に反せざる限度にとどまるものとす。
8.…原住土民に対しては皇軍に対する信倚観念を助長せしむるごとく指導しその独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとする」。
6によって乱発された軍票は各地で猛烈なインフレを引き起こし、現地住民を苦しめた。7は、占領軍(日本軍)に必要な資源を獲得するためには現地住民に重圧を与えることも構わないとする。8は、「現住土民」に日本軍を「信倚観念を助長」つまり信じ頼らせつつ、独立運動の誘発を避けることが方針として記されている。 

真珠湾攻撃(1941.12.8) 日本は卑劣にもハワイ真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃し、ここに15年戦争の後半戦であるアジア太平洋戦争が始まる。日本からの交渉打ち切りが真珠湾攻撃の1時間後という、外交的手続きをふまずに攻撃が行われた。ルーズベルト大統領特別教書「私たちは、法律と、秩序と、正義との原則を転覆し、人類に対して放縦専断な力による冷酷な支配制度を課さんとする前古未曾有の強暴なる努力に対し、これらの原則を防衛するために戦いつつある」。

宣戦の詔書(1941.12.8) 天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆(なんじゆうしゅう)に示す。朕(ちん)ここに米国および英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶はおのおのその本分をつくし、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ。

…米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋制覇の非望を逞うせんとす。あまつさえ与国(ここではオランダをさす)を誘い、帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断行を敢えてし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。…かくの如くにして推移せんか、東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立また正に危殆に瀕せり。事すでにここにいたる。帝国は今や自存自衛のため 蹶然(けつぜん)起って一切の障礙(しょうがい)を破砕するのほかなきなり。

「「馬鹿野郎だ!」かんで吐き出すようにぼくが叫んだ。戦争が不利だという見とおしをつけたからではなく、当分この戦争がつづくといううっとうしさからであった。どうにも持ってゆきどころがないので、ぼくは蒲団をかぶってねてしまった」(金子光晴「詩人」)。


シンガポール華僑虐殺事件(1942.2-) 「シンガポールやイギリス領マラヤ各地で日本軍がおこなった中国系住民への虐待・虐殺行為。1942年2月のシンガポール占領後、日本軍第25軍は、援蒋行為(蒋介石の国民党への援助)阻止と抗日運動の取りしまりのために、シンガポールで「抗日分子」とみなされた華僑男子を集団拘束し、その多くを海岸や沼地に連行して殺害した。その犠牲者数は4-5万人といわれている。2月から4月にかけて第25軍は第5師団を中心に作戦地をマレー半島の占領地域に拡大、ネグリセンビラン州パリッティンギ村など各地で「敵性分子」の掃討作戦を展開、多数の華僑系住民を殺害した」(岩波書店「岩波日本史辞典」)。

ミッドウェイ海戦(1942.6.5) 日本軍は大敗を喫し(空母4隻・ほか1隻・航空機285機を失う)、以後連敗を重ねていくことになる。当時の新聞(朝日新聞1942.6.11付)は、「ミッドウェー沖に大海戦。米空母2隻撃沈。わが2空母、1巡洋艦に損害 ”刺し違え戦法”成功。わが損害は軽微。太平洋の戦局この一戦に決す。敵空母集団殲滅」と報道した。国民には「勝利」と伝えられたため、兵士たちの死は遺族にもずいぶん遅れて知らされた。正確に伝えると、国民が敗北に気づき、反戦・厭戦、あるいは、天皇や内閣に対する不満の声が強くなって暴動や革命が起こることを戦争指導者たちはおそれた。

インドネシアの抗日独立運動(1942.11.10) 「私たちは、日本が西洋の抑圧からアジア全土の民衆を解放するとのかけ声とともにインドネシアへやってきたことをすでに知っている。しかしその到来後数か月のうちに彼らは仮面を脱ぎ捨て、アジアの国々を占領して民衆を公然と抑圧した。同じことはインドネシアでもおこった。その圧制のためにあちこちで日本に対する反乱が発生した。日本がアチエー(スマトラ島北部)を征服して間もなく、トゥンク=アブドゥル=ジャリルという若いウラマ(イスラムの学者・宗教指導者)によって指導された反乱が勃発した。…1942年11月10日に日本軍はチョット=プリェンを攻撃した。そのとき、人びとは祈祷の最中だった。剣や短剣で武装した民衆は日本軍を撃退し、日本軍は退却せざるをえなかった。2度目の攻撃でも日本軍は撃退された。3度目の攻撃で日本軍は成功し、その後モスクを焼き払った。トゥンク=アブドゥル=ジャリルは逃亡することができたが、最後には祈祷しているところを射殺された。この反乱で日本側は90人が犠牲となり、民衆の側では3000人前後が戦死した」(『インドネシア国民史』第3巻)。

御前会議決定「大東亜戦略指導大綱」(1943.5.31) 日本を盟主とする大東亜共栄圏の成果を誇示するため、大東亜会議をよびかけた。しかし同年5-6月に開かれた会議に出席したのは、『中華民国』・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(オブザーバー参加)という日本の傀儡的親日政権の代表ばかりであった。大東亜共栄圏構想はかつて孫文らが主張したような被抑圧民族を欧米帝国主義から解放するためのものではなく、日本が欧米列強の地位にとってかわり、古い不平等を新しい不平等にかえようとしたにすぎなかった。

日本の無条件降伏(1945.8.15) アジア太平洋戦争の人的被害。中国…死者:軍人・ゲリラ321万人、一般市民1000万人以上、計1321万人。朝鮮…戦死・不明15万人、強制連行70万人、戦犯148人うち23人処刑(B・C級戦犯)。ベトナム…1944−45年200万人餓死、革命家など2000人虐殺、全体で人口の7分の1の割合で死亡。インドネシア・・・餓死者10万人(正確な数字は不明)。フィリピン・・・死者:軍人2万人、ゲリラ2万9621人、計4万9621人。シンガポール・・・一般市民約8万人死亡。ビルマ・・・数万人が死亡(正確な数字は不明)。セイロン・・・日本軍機が精神病院に投弾。ニュージーランド・・・死者:軍人11625人。東アジア地域総計1298万人。他にラオス、カンボジア、インド、オーストラリアにも日本軍の見境ない攻撃によって多くの死者が出た。日本(外地、沖縄を含まず)・・・死者:軍人・軍属155万5308人、市民29万9485人、死者数計185万4793人、負傷不明67万8232人。

「フィリピンでも占領中に約9万人(極東国際軍事裁判所速記録)もの一般住民を虐殺した。そして、軍票(通貨の代用として発行)などを乱発して物資を強制的に徴発した結果、悪性インフレをひきおこし、また食糧の収奪は、1944年から45年のベトナムのように、自然災害重なって大飢饉をひきおこし、ベトナムでは約200万人もの餓死者をだしたという。さらに日本軍は、タイとビルマをむすぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に、連合国軍の捕虜6万1000人や、東南アジア各地から募集または強制連行した現地労働者約7万人を使役し、きわめて劣悪な労働条件と虐待によって、捕虜1万2000人と現地労働者3万3000人を死亡させた。しかし、いずれの植民地・占領地でも、根強い抗日運動をおさえることはできなかった」(江坂輝弥・竹内理三ほか『高等学校新日本史B』桐原書店)。


世界都市計画の日(1949.11.8) アルゼンチンの都市計画学者・パオレラ教授が提唱。日本では都市計画協会が1965年から実施。11月8日は他に、レントゲンの日、いい歯の日、刃物の日、ボイラーデー、八ヶ岳の日。マーガレット・ミッチェル(『風と共に去りぬ』1949年8月16日没)、アラン・ドロン、亀井久興(衆議院議員(自民党))、ダイアナ・キングの誕生日。
また逢う日まで(1950) 日本で公開され当時大ヒットした映画。戦争によって恋を引き裂かれた恋人達が別れる際に、雪積もる窓ガラス越しにキスをするという名シーンがある。

気象庁(1956) 気象庁は1875(M8)年に東京気象台(内務省地理寮量地課)として発足し、その後、明治20年に中央気象台と改称、明治28年文部省の附属期間に移管された。昭和14年にはそれまで多数あった県に属していた官署を国の所属とし、昭和18年には運輸通信省に移管。昭和31年に気象庁として外局に昇格し今日に至っている。

気象庁本庁は 東京都千代田区にあり、全国の気象業務を統括。札幌,仙台、東京、大阪、福岡に管区気象台、那覇に沖縄気象台を置き、地域の広域的な気象や地震などの観測、予報や情報提供を行う。各都道府県(北海道と沖縄県は1〜3支所毎)に地方気象台を置き、県内の気象観測、予報、注意報・警報の発表を行う。観測網を充実させるため、所要の地に観測所を置き、気象観測などを行う。

航空機の安全のため、空港には航空地方気象台、航空測候所、空港出張所を置き空港の気象観測、航空機への情報提供を行っている。海上、海洋の気象観測を行う海洋気象台を函館、神戸、長崎、舞鶴に置いている。上記の官署の他、気象庁には施設等機関として気象研究所、気象衛星センター、高層気象台、地磁気観測所、気象大学校がある。平成9年の定員は、全国で6,206人。気象庁本庁は1,149人、管区気象台、地方気象台等で4471人、施設等機関586人。


ARPANET(1969-71) インターネットの前身。この時期には12のサイトが開設される。1974年には62、1981年には200サイトに増加した。当時はテキストのみによるメールの交換と掲示板くらいで、今日のマルチメディアデータの利用状況とは著しく違っていた。今日的な狭い意味でのインターネットの始まりは、技術の発展によりパソコンで写真画像が処理できるようになってからであり(CPUスピードとメモリ容量)、80年代後半より以前ということはない。

東芝JW-10(1978.9.26) 日本初のワープロが発表され、翌年2月から出荷された。価格:630万円。記憶装置:10MB-HardDisk, 8inch-FloppyDisk。書体:独自開発。コードは発表されたばかりのJISに準拠。表示装置:中央無線製ラスター式CRT 24dotの漢字を41桁×14行表示。プリンタ:ワイヤドット式 24dot/文字 (独自開発)。CPU:ミニコンTOSBAC40CのCPU相当をLSI化したもの。1982年、富士通の日本語ワープロMy-OASYS登場。初めて100万円を切る。

レーザーディスク(1981.10.8) パイオニアが日本で初めてレーザーディスクを発売。それを記念して10/8はレーザーディスクの日とした。最近はレーザーディスクもDVDに押され気味。レーザーディスクは重い、場所取る、もう見ない、ということで引越しの度に処分するか悩む所有者も多い。一方で根強いレーザーディスクファンも少なくなく、オールドアニメファンには必需品という。当時の作品が今更DVD化する可能性が低いからである。ビデオは30年もの歳月をかけて、インチ、4/3テープからベータ、VHS、S-VHS、W-VHS、D-VHSと進化を遂げてきた。その過程でVHSも格段の画質向上があった。MDも初期と今とでは音質は大違い。

WILLIAM GIBSON, NEUROMANCER (1984). 「サイバースペース」の語源となったサイバーパンクSF小説。

電電公社民営化(1985.4.1) 行政改革の本来的目的は、国民・市民への奉仕者である官僚に公務員法に記述された「国民全体への奉仕者」という本務を自覚させ、官僚制度そのものを見直しそのサービスの向上と効率化を実現、彼らの意識と行動を民衆・国民本位に転換することである。しかし中曽根政権は国鉄・専売公社・電電公社を民営化して、政権政党に都合の悪い労組を解体し、利権の割譲を強行するために行革のスローガンを悪用した。その構想の実現のための最初のターゲットになったのが「労働の社会的価値と役割」についての建設的展望を描けないでいた旧国鉄・国労と、事実上その存在価値のなくなった塩とたばこの専売公社(制度)であった。これら二公社の非効率性を前面に出し世論を味方につけながら、彼らは黒字の電電公社とその職員組合である全電通労組の弱体化とその事業からの利権割譲をもとめて民営化と分離・分割路線を押し進めたのである。

電電公社民営化は郵政族が儲けるため、官僚(主として郵政官僚)が天下りをする場所を作るため、国民の財産である市内電話網を私物化して持ち逃げするため、公務員の制度の縛りを避けて無茶な給料を取るためになされた。公社なので入札していたのを、株式会社になったのをよいことに、全部随意契約にし、NTT関連会社だけが潤うようにしている。現在問題になっている特殊法人より悪い。これが日本の通信政策を遅らせ、景気を悪くした。

このように郵政族が問題なのだが、郵政族という呼び名に隠れて責任を逃れてのうのうとしている奴がいるというのは、今後のために良くない。やはり悪いことはできないなと思わせるくらいの見せしめは必要だろう。さもないとまだまだ通信事業にまつわる茶番は続いてしまう。小渕首相が亡くなったのも、NTTドコモ株疑惑が広がらないようにということだろう。

通信産業は設備産業だからどうしてもある程度の負債を抱えてしまいがちだが、その負債をどのように減らしていくのかに対する明確な回答がないまま投資しなければならないのは不毛である。NTTが民営化するまでの長距離電話料金の高さはすごかった。当時、市内電話の赤字を長距離料金でカバーするという前提の下に料金体系が組まれていた。競争が激しくなる前はこの方法が通用していた。これは長距離電話をかけるより、市内電話の方が頻度が高いから、市内電話を採算割れするほど値下げしておけば一般消費者にとってはメリットが多いという通信政策によるものとする見解もある。新電電が参入し、数年前まで毎年値下げするのが恒例行事になっていた。NTTのサービスや料金設定には客のためとういうより、単純に政治的、経営戦略的にやっているという印象を強く受けるところが腹立たしい。


DANIEL RADCLIFFE(1989.7.31-) イギリス人。1999年、BBC製作の英国の小説家チャールズ・ディケンズ(1812-70)の「デイビッド・コパーフィールド」(1850)を原作にしたTV映画で、若き時代のデイビッド・コパーフィールドを演じた。 ジョン・ブーアマン監督の「The Tailor of Panama」(2000)にも出演する。映画版「ハリー・ポッター」主演。

日本音楽マネージャー協会(1990.8.19) 8月19日をクラシック音楽の日と制定した。たまにはクラシック音楽を聴くのもよい。8月19日は俳句の日、バイクの日でもある。バイクの日は8/19をバイクと読むことや、夏休み中に少年のバイクの事故が最も多くおこることから、事故防止を目的として制定された日。この日は総務庁が関係機関と協力して、広報活動や討論会、シンポジウムなどを開催する。

1991.10.3 社団法人日本アルパインガイド協会が自然に触れる機会を増やし、美しき日本の山々を守っていこうという目的から10月3日を「登山の日」(と10ざん3)と制定した。

BRUCE STERLING, THE HACKER CRACKDOWN (1992). 通俗的な意味での「ハッカー」とは異なり、真のハッカーというのは倫理を重んじるコンピュータの巨匠である。

サンテラ・コーポレーション(1992) カリフォルニア州サン・マテオにシグニチュアー・リゾート・インクとして設立。最初にオープンしたリゾートはフロリダ州オーランドのサイプレスポイント。その後、複数のホテル運営会社などを傘下に収め、着実にスケールを拡大。 現在、欧米各地10カ国90カ所のリゾート施設を保有し、30万世帯のオーナーファミリーを持つ、世界最大級のリゾート会社に成長した。サンテラ・コーポレーションは1992年、

石炭の日(1992.9.5) 資源エネルギー庁が9月5日を石炭の日(クリーンコール・デー)と制定した。9/5を「クリーンコール」と読ませる。石炭もクリーンエネルギーとなっていることをアピールする事が制定の目的。現在でも日本では年間1億トンの石炭が使われている。

毛利衛(1992.9.12) 日本人初の宇宙飛行士となった毛利衛が、エンデバーでケネディ宇宙センターから飛び立った。後にこれを記念して9月12日を一般公募で宇宙の日と制定した。

セラシーン(1994) イタリアの医学博士ジャン・フランコ・メリッツィが、天然ハーブを中心とした成分を独自の方法でブレンドした、抗セルライトのためのハーブサプリメント。セルライトとは女性のお尻や太股などに起こりやすく、肌が凸凹したオレンジの皮のようになる現象がセルライト。年齢、体重、体調を問わず、世界各国の女性共通の悩みであり、ダイエットや運動では除去することができない。セルライトは、主に第二次成長期以降の女性に起こりやすく、体型を問わずほとんどの女性に見られる現象である。


1998.9.23 日本テニス振興協議会がテニス愛好者の創出と育成を目的として、9月23日をテニスの日と制定した。そのためこの日には全国各地でテニス大会等のイベントも行われる。

1999.9.14 福岡中央署は福岡−鹿児島間の高速バスの偽造回数券を使って乗車しようとした偽造有価証券行使と詐欺未遂の現行犯として、鹿児島市新照院町、九州電力鹿児島支店次長A容疑者(50)を13日に逮捕した、と発表した。調べではA容疑者は13日午前9時ごろ、福岡市中央区天神の西鉄天神バスセンターで、偽造した福岡−鹿児島間の回数券で高速バスに乗車しようとした疑い。これまで同路線で3、4回、紙質が違う偽造回数券が見つかり、A容疑者とは別の名前で予約が入っていた。13日にもこの名前で予約が入っていたため、西鉄から通報を受けた同署員が張り込んででいた。福岡−鹿児島間の高速バス回数券は4枚つづりで1万8千円(3ヶ月間有効)。

A容疑者は7月から鹿児島市に単身赴任しており「(福岡への)帰省費用を浮かせたかった」と供述。「会社のコピー機を使って自分で偽造した」とも話しており、同署は○江容疑者が日常的に回数券を偽造、乗車していたとみている(「九電支店次長を逮捕 偽造バス回数券を使用 福岡−鹿児島」西日本新聞夕刊1999.9.14)。サミットの時の外務キャリア官僚によるタクシー料金水増し請求もそうだが、基本的に日本のエリートのやることはこずるくて、セコイ。


ラグビーワールドカップ(ウェールズ1999.10) 平尾監督のもと着実に戦力アップが図られた日本代表チームが、94回連続で出場する。これに先立ち、7月の日韓定期戦をはじめとした国際試合が予定されており、ワールドカップイヤーとしての盛り上がりを見せてきている。一方、ここ3ヶ年の観客動向の変化を見ると、全体の観客人数に大きな変化はないものの、これを年代別にみると、50才以上では増加しているのに対し24才以下では減少してきており、若年層を中心としたラグビーファンの底上げが必要な状況にある。

2000.2.1 過去の不幸を自分の人生のいい方向に活かしてなどと無責任なことを言う輩には強く憤りを覚える。かつて広島で原爆による白血病の患者に「病は気から」と侮辱して顰蹙を買った政治家がいた。又、新潟で監禁されていた女の子が発見されたが(2000.1)、その監禁されていた女の子に対し監禁されていたことをいい方向にいかして生きていってほしいと言ったら、どうなるだろうか。

そもそも今の日本には焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない変な世代がのさばっているためにこのような発想が強いのだろうか。しかし高性能なコンピュータが与えられた条件の下でしかうまく作動せず、ちょっとしか衝撃で壊れてしまうように、人間も素晴らしい感性を持っている人ほど傷つきやすいものである。そのような人に対して前述の前に進むことしかできない鈍感な人間の発想を当てはめるべきではない。


常に何処かで笑っていたい(2000.2.2) 常に何処かで語り合いたい。面白い冗談話しでさ、くだらない洒落っ気たっぷりでさ。そういうのがいい。時間がどんどん流れていって、もうお別れ時になっても「もう少しだけ」と真っ暗になるまで話している。お茶が冷えても、身体が冷えても、笑って過ごすこの一時。無情にもお終いはやってくるが、そういう日は決まって明日が楽しみになる。

2000.2.5 別段傷なども無いのに私は泣きうめく。「…私は…私は、私は勝てんのか」。石刻の勇者らは堅く飄々と無視を決め込み、冷淡な唇は私の貧弱な二の腕を、私をせせら笑う。聡明な眉はぴくりとも動かぬし、瞳には虚空にすら無い。一度拳を交わせば知れると言うのに、肩に積もる埃さえ祓わぬと言うのか。それが答えとするならば、私は…。次に吐きかけた言葉は芯と鳴る銅鑼の音に消えた。案内人の背は円く薄い。従えば路は球状の定めの上を原点へといざなう。気配は正直なもので私の眼が頑なに求める栄光が既にそこにないことを物語っている。雲は逃げ、陽は白く金色ではないのであろう。あるのは己と影のみで、羊水の重さにも似た闘技場の扉を私は開けた。彫刻達は未だ動き出さない。


エラリィ「聖なる夜」2000.2.12 このタイトルを読んで先ず考えたのは、タンポポの「聖なる鐘がひびく夜」であった。「あとがき」を読むと著者もここから着想を得たようである。因みにタンポポの飯田圭織さんと石黒彩さん(2000年1月脱退)はこの物語の舞台である札幌出身である。この作品では恋人を待つ女性の気持ちが上手く描かれている。期待、切望から喜びへという心理経過がたどられており、途中で雪を降らせることが「転」の効果をもたらし、短いながらも起承転結になっている。

一般論として待ち合わせで女性の方が待たされるのはあまり好ましいことではないと思われる。しかしここではカップルは「1ヶ月も会ってない」状態であり二人は遠距離恋愛をしていると考えられる。そして多分ナミは札幌(近郊)に住んでおり、他方「彼」は遠くに住んでおり久しぶりにおそらく故郷かもしれない札幌に帰ってくるのだろう。ナミが「彼」が来るのを待ち「彼」を迎えるのが自然に描写されている。

本文中には「赤くなっている両手に白い息を吹きかける。」という表現がある。彼女は寒いのに手袋をしていないのか、と疑問に思われもするが、赤くなっている手に白い息というコントラストは詩的で美しいし、「彼」に会う前、一人で待っている寂しさをうまく表している。以上のように本作は素敵な小品である。


黒猫「姫君と黒竜」2000.2.18 筆者による解説によれば本作執筆の動機は辰年にちなんで竜を題材にした作品を書こうということのようである。竜の物語といえば竜退治であるが、それを竜の視点で書いたのが本作という。しかし作品の前半部は姫を奪還しようとして竜に戦いを挑む人間の視点から描かれている。読者である私も勇者に感情移入して読んでおり、筆者にまんまと騙されてしまった。狂言誘拐はドラマでも漫画でも更には事実でも存在しており、オリジナリティーの高い発想とは言えない。窮屈・退屈な宮廷生活からの逃避についても映画「ローマの休日」等で既に使われている。

そして「竜は、ため息をついた」「薄目にしていたまぶたをゆっくりと持ち上げ」等の表現を随所に入れることによって、竜退治の物語に登場するような攻撃的・暴力的な竜とは異なるということを筆者は仄めかしている。それにもかかわらず私は本作の結末を予見することができなかった。筆者の筆力にただただ感服するだけである。

本作は短編ということで登場人物の深い心理描写を求めることは望蜀の言かもしれない。それでも登場人物が何をしたいのかがわかりにくい。竜は姫君の望み通り、姫君を城から連れ去り、洞窟にかくまい、勇者の相手までしているが、それが姫の立場に同情しているからとは思えない。同情しているのならば軍隊を相手にするのが面倒くさいから出て行こうという、途中で放り投げるような姫から見れば無責任な言動はしないだろう。しかしそうでないならば何故竜は姫の望み通りに動いたのだろうか。竜は人知を超えた生き物だから理解しようというのが間違えかもしれない。

しかしもっとわからないのが姫君である。姫君はただのわがままなのだろうか。命がけで救出しようとしている人のことをどう思っているのだろうか。確かに「ローマの休日」の原題Roman Holidayには「ローマの休日」というそのものの意味の他に他人の苦しみによって得る娯楽という意味があり、自分がいなくなることで周りが慌てふためくのを見るのが快感ということもありうるが、本作の姫君がそのようなことを楽しんでいるとの記述はうかがえない。

ここで注目すべきことは姫君が裸である、という点である。宮廷生活が窮屈で嫌だ、というのは常識的に理解できる範囲だが、普通の人なら喜びそうな宝石すら姫君にとっては「奇妙な石」に過ぎない。姫君が苦痛なのは堅苦しい宮廷生活だけでなく、文明生活・人間社会そのものもなのかもしれない。そうだとすれば姫君は求めているというよりも、自然に帰ろうとしているのかもしれない。動物の中で人間だけが服を着るものであり(最近ではペットも服を着せられるが、そのようなペットは自分は人間だと思っていよう)、裸ということは人間であることの否定にもつながる。姫君が望むものが人間的な自由ではなく、自然にあるとすれば、人間界に関心が低い竜が姫君を助けるのも肯ける。本作は一読しただけでも楽しめるが、深く読み込めば色々と考えさせてくれる作品である。


エラリィ「パンドラの箱」2000.2.19 パンドラPandoraの箱とはもともとギリシャ神話の物語で、ゼウスが最初の人間の女性であるパンドラに人間のあらゆる罪や災いを入れて渡した箱を指す。本作は魔法やモンスターのいる架空のファンタジー世界を舞台にパンドラの箱を題材とした物語である。私が一読して感じたことは本作は非常に読みにくい、ということである。

まず舞台が現代日本とはかなり異なる世界であるにもかかわらず、その世界に対する説明はほとんどないため、読者の作品世界への理解が困難である。勿論、「パンドラの箱」というタイトルで現代日本の日常生活を予見する方が奇特であり、読者は別世界の物語であることは覚悟していよう。但し私は同じ作者の札幌を舞台とした恋愛短編「聖なる夜」を読んだ直後に本作を読んだためかなり困惑してしまった。

例えば「導士級の魔術士」という言葉があるが、これだけでは導士が魔術士のランクであることはわかっても、それがどれくらいの階級なのかは不明である。かろうじて「ここ、ライソルド大陸にはさまざまな伝承があった。世界を救ったという十二神徒の伝説 神による最後の審判 神がいなくなる原因になったといわれている最終戦争・・・」という説明が見られるが、十二信徒なり最後の審判なり最終戦争なりの詳しい説明がないため却って謎が深まるばかりである。

そして登場人物に対する説明も少ないため、登場人物が日本人にはなじみ薄い欧風の名前であること、代名詞が多用されていることも手伝って、人間関係も理解しにくい。ちょうどFyodor Dostoyevskyの小説や水滸伝を読んでいるような感じである。更に本作では登場人物は三人称で語られているのに、最後の節だけ登場人物の一人である「僕」の視点で語らせている点も、読者を困惑させる一因となろう。

勿論、読みにくいということが本作の評価を落とすことにはならない。わかりやすくしようとして詳しい説明を入れたら却って冗長になってしまい、作品のテンポを損なってしまうかもしれない。おそらく作者は本作の背景設定を綿密に行っているのだろうが、表現の過程で削ぎ落としてしまったのだろう。折角築き上げた精緻な世界を本作だけで終わりにしてしまうのは惜しく、続編も期待できる作品である。


秦乃実さえら「水の底の小さなお魚」2000.2.20 感想同盟加盟者リストによると作者の作品ジャンルは学園恋愛という。本作は紛れもなく高校生同士の恋愛が主題であり、学校生活も描かれているが、「学園恋愛」という語から一般に想起されるイメージを抱いて読むならば違和感を覚えるだろう。何故ならば本作の登場人物の境遇も生活も相手も「普通」ではないからである。

優等生と不良という組み合わせは少女漫画によくあるが、本作はそのようなステレオタイプとは似て非なるものである。尤も全く境遇の異なる二人が互いに惹かれあって強く結ばれるという点で本作は吉田秋夫・Banana Fishに共通する。又、「僕は許されていいのかな。僕は、僕を救っていいのかな。」のくだりは新世紀エヴァンゲリオンTV版最終回を想起させる。

主人公ユタは自閉症と診断された少年で、「正常」者からみれば「異常」者である。しかしその求めているものは、「小さな水槽の魚みたいな、たったそれだけの自由」、即ち自己の生活圏内における自由であり、それはささやかで常識的な願望に過ぎない。そのような普通の願望のために苦闘する人物として精神「異常」者を登場させるところに現代日本の救いがたい矛盾が潜んでいる。日本では「普通」に生活を送る「普通」の人々にはそのような自由はなく、そのような自由を求めることさえ忘れてしまっているようだ。そして皆と同じことをして満足している。「普通」でないからこそ、「普通」の人々が発するどうしようもない汚臭を感じることができる。本作は私にこのようなことを感じさせてくれた。


森猫「化ける」2000.2.21 本作は「森猫の森」という作品の一部で、文字化けを主題にした部分である。創作という営為はこれまで存在しなかったものを自己の手で生み出す行為であり、創作によって他の誰でもない自己の個性を表現することができる。しかし人間は外界から全く孤立した存在ではなく、よいか悪いかは別として外界から多大な影響を受けている。表現についても媒体に規定されるところが少なくない。

作者はテキストによる表現という点に徹底的にこだわる。ここでは「「音」すら文字を介して聞き取るしかない」し、大声で叫びたいときも、大声で叫ぶのではなく、強調字体で叫ぶものなのである。そして本作のテーマは文字化けという特殊インターネット的問題である。これはインターネットだから書ける作品であり、作者が自らのメディアを自己の創作の道具として十分に使いこなしていることを示している。

文字化けは、作者が記号にもたせた意味を「全部、無意味に」させてしまう。文字化けのページをいくら読んでも作者の意図は読み手に全く伝わらない。旧かな遣いを校正者が勝手に現代かな遣いに変えることでも烈火の如く怒る作家も存在する。作家にとって自己の作品が自己の表現した通りに伝達されないということは、作品が全く伝達されないこと以上に避けたいことであろう。

ただ文字化けをなくすことがインターネット文化にとって好ましいことかは疑問である。文字化けの原因は文字コードが統一されていない点にあるから、文字コードを統一すればよいのだが、文字コードを統一する権限など一体誰にあるだろうか。世界各国の文字を一つのコードに含めたUnicodeなるものが開発されているが、それは表音文字の文化圏に属する人々を主体として開発されたためか、多くの漢字がそのコードには含まれてはいない。そのためそのコードでは自分が使いたい漢字が使えないかもしれない。

コードの統一化は特定の文字の排除をもたらしかねない。文化の豊かさとは多様性であり、文字コードの多様性も否定すべきではないと私は考える。デジタル著作物とはコピーや伝達が容易という面の他に専用の読み取り・再生装置、ソフトウェアがなければ視聴できないという特徴もあり、文字化けはユーザーがそれ用の文字コードを備えたブラウザーをもっていなかっただけということもできる。それ故、文字化けはなくならないが、ソフトウェア会社は文字化けを増やすようなことをすべきではない。

最近は多くのワープロソフトにhtml形式での保存機能がついているが、それによって保存したhtmlファイルのソースを調べてみると、普通のタグの書き方とはかなり異なっていたりする。このような自社のブラウザーでしか通用しないような特殊なタグを使っていたりする。このような企業に対しては「ヒドイよね」と呟いてもいいだろう。


White Day(2000.3.14) White Dayはとても不思議な日。バレンタインデーがなければ存在しない日。とってつけたようで少し違和感のある。マシュマロ、キャンディーから始まって、いまだに諸説あるホワイトデーは、つねにアンテナを張っていないとトレンドに乗り遅れてしまう。バレンタインデーにチョコレートもらったら、それはとってもうれしいけれど、同時になんだか宿題ももらったようになる。義理には義理で、誠意には誠意で応えたい。

ホワイトデーに張り切ってる男性は嫌い。「義理」のお返しにどうしてそんなに「イベント性」をもたせようとするのだろうか。彼氏がデパートかどこかでメモを片手に「お返し」を調達している姿を見ちゃったら絶対引く。それは「私がいるのに、どうしてアナタは合コンに行くの」という気持ちと同じだろう。彼女でもない相手にんなに時間とお金をかけて、そこから愛が生まれてしまったらどうするつもり。


異業種交流会(2000.3.15) 異業種交流会に参加した。時に、全く異なる職業、価値観を持っている方々と触れ合うことも人生の中で非常に重要である。テーマがある時もあるし、ない時もある。時に激論会、時に笑みが絶えない和やかムードで。そんな、一見焦点が霞んでいるような曖昧さの中にこそ実は、ヒントや、自己啓発につながるかもしれない。本当に色々な職業の方、色々な考え方の人が、わーぁっと集まって、やいのやいの話すのだが、これが面白い。そして、しゃべりたいだけ、しゃべり尽くして、会った人、全員にhayariki.comの宣伝をしまくって来た。

数日後、異業種交流会で会った人から電話があって、もう少しお話しをしましょうということになった。おおっ!これは面白い展開だと思い、のこのこと行ってみたら、その人は私の詩のことには全く興味のない様子で、私の仕事のことを、しつこく聞きたがった。この前も仕事のことについては触れてくれるなと言ったのに、どういうわけだろうか、と思っていると、彼は唐突に自分の仕事のことを宣伝し始めた。それは別にいいのだが、その人は競合他社らしい会社の批判を始めた。それも長々と。私は良く知らない会社の悪口を聞いても面白いと思う人ではないので、退屈してしまった。率直に言って、聞いていて面白い話ではなかった。もっと自分の会社の良さを主張すればいいのに、と思っていた。


黒猫「地球へ……」2000.3.20 本作は短編SFである。「リング」に代表されるホラー小説ブームが一頃起きたが、次はSFブームとも言われている。SFとは空想科学小説であり、作者の空想の産物たる未来社会・未来技術がウリとなるはずである。しかし優れたSF作品はそれだけで終わらないことが多い。登場人物は現代とは異なる未来社会で未来の技術に囲まれて生活しているが、彼の感情・思いは非常に感傷的・非合理的で、背景となる合理主義の粋を凝らした先端科学技術と好対照をなしていたりする。時代劇をちょんまげをつけた現代ドラマというのと相通じるだろう。

本作も主人公の自分のではなく人類の祖先の故郷たる地球への望郷の念がモチーフになっている。手塚治虫・火の鳥でも人類は他の惑星に植民していったが、やはり地球が恋しくなって戻ってしまい地球の人口が増大したため、戻るのを禁止してしまった。又、ガンダムの世界でもコロニー生活に対し地球に住むことが特権として描かれている。

本作の世界でも地球に住むことが社会的経済的に価値があることなのかどうかはわからないが、たとえそうだとしても本作の主人公がそのようなことのために地球にあこがれるわけではない。この辺は行間を読まなければならないが、好きな人と一緒に行くことに意味があるのだろう。この点で本作は現代的な小説である。

もう一つ本作を読んでいて現代を感じてしまった点がある。それはジェンダーである。本作の主人公は女性であるように思われる。明確な証拠が文中にあるわけではないが、名前や仕草からそのような印象を受けた。問題なのは、この主人公の幸福が相手の男(だよね)よって与えられるものになっている、という点である。女性が自分の将来を受身の立場でむかえなければならないというのは、歴史的に作られた観念に過ぎず、未来永劫固定したものではないと思う。

又、主人公の職業は専門医療器具のオペレーターとされるが、これは現代における看護婦を連想させる。やはり未来においても女性の仕事は男性であるドクターの補助というのが常態なのだろうか。たまたまこの主人公を専門医療器具のオペレーターとしただけで、ここまで言うのは深読みのしすぎかもしれないが、読者は作者によって与えられた表現から考えていかなければならない。私は未来社会においてはジェンダーは打破されていると考えたいが、現実は厳しいのもまた事実だろう。そして小説は理想を描くとは限らず、むしろ現実を描くものともいえる。その意味で本作は地に足ついたSFと言えよう。


しずく(葉月)「Room - Hello Again」2000.3.21 本作はオムニバス小説Roomの一編である。日常と非日常、電子メールによるコミュニケーションと旅路での偶然の出会い、そのような好対照をなす要素が絡み合って本作を際立たせている。多くの場合、一方を賛美して他方を軽視してしまいがちである。とりわけ日本では大衆がなあなあで済ます傾向が強いために、却って知識人には相容れないものは全く受け入れないという傾向がある。勿論、理論とはそういうものであり、足して2で割るような解決策を是とするような態度では普遍的正義を実現できず、個別的正義をも満足させることができないだろう。

「黒板に向かっておんなじ様な恰好をして、勉強」することが人生にとって重要なことなのか、それとも人生の意義はそれを抜け出たところにあるのか。インターネットは新たな人間関係を構築するのか、それとも人間関係の希薄化を進め個々人を孤立化させてしまうのか。このような議論は真剣に検討する価値があり中途半端な妥協で満足すべきではないと思うが、人生の実践においてはおそらく両方を適度に利用していくことが望ましいのだろう。本作はその辺のバランスが無理なく取れているように感じられる。達成不可能な理想を追求しているわけではなく、奴隷的境遇の中での満足を探そうというのでもない。

最後に話と関係のない点を一つ。本文では商標が多用されている。それは小説に現実感・生活感を与えるものであり結構なことだと思う。ただメールソフトがOutlookである必要があるのだろうか。筆者自身OSはWin 98、ブラウザはIE、メーラーはOEというプレインストールされていたのをそのまま使っている。しかも雑誌のCD-ROM等で他社のソフトも入手してはいるが、インストールしていない。それ故、述べる資格はないかもしれないが、小説の中までもMSにする必要はないのではないだろうか。これは単なる私の願望である。


秦乃実さえら「クール・ビューティ」「キリング・ムーン」「ノックタール・ミー」「セブン・シーズ」2000.4.4 前者は作者がはじめて書いた学園小説という。後三者は三部作となっている。両方とも一貫制の名門私立高校を舞台として幼馴染の対立と愛情を中心に、学校行事や三角関係を絡ませている。

本作はある種理想(空想)的な学園小説と言えよう。現実の学園ではいい意味でも悪い意味でも生徒はク ラスや学校に対してそれほど大きな帰属感・連帯感を抱いていないし、生徒会というものの影響力を感じていないだろう。高校生の生活に学校は大きな割合を占めているが、携帯電話を持って渋谷へ繰り出す高校生の交友・交際範囲は校内という枠を容易に飛び越えている。むしろ学校にいる自分はつくった、演技した自分であり、学校の外に本当の自分はいると考えている人も少なくないだろう。

その中で学校を楽園とし、忘れられない思い出にするためにクラスが更には全学が一丸となって行事に熱中するのを追っていくのは面映い。その意味で本作は私にとって暗すぎて救いようがないと評されたとされる「水の底の小さなお魚」以上に違和感を感じた。私は本作に現実離れ、リアリティの欠如を感じてしまったが、一方でこのような学園生活は羨ましいとも思う。

生徒は高校を選ぶ自由が保障されているが、その学校の全ての面を支持して入学するわけではない。だから自分が選んだ学校でも不満を抱いてもいいし、高校がつまらないなら無理にそこで楽しもうとせず、外に楽しみを見出してもよい。その点でコミュニケーションツールの発達によって学外の人とも情報交換が容易になり、学外での可能性が開かれたことは非常に好ましいことである。しかし高校生活が楽しければそれは望ましく無理に絶望することもクールを決め込むこともない。作者は「ちょっと歪んだ愛の世界」が嗜好というが、学校生活を真剣に楽しもうとする登場人物に健全さを感じた。


国際グランプリ陸上大阪大会(2000.5.13) 室伏広治がハンマー投げで日本人初の80m突破。80m23で優勝。

2000.5.15 ニューヨークを拠点に世界中で活躍しているアーティストのロドニーのカフェが表参道にオープンした。ロドニーとは、プレイステーションゲーム「パラッパラッパー」、ファミリーマートのバージョンアップキャンペーン、パフィーなどのキャラクターデザインで有名。カフェ・ロドニー店内は食器から家具まですべて彼のデザインによるもの。営業時間は11:00am-11:00pmまで。

2000.5.17 ウキウキのGWもあっという間に終わり、私は年中という噂もあるが5月病にかかってしまった。溜まった仕事を目の前に、「来年のGWはどこに行こうかな〜?」と現実逃避気味である。ゴールデンウィークが終わった後の5月、6月、そして夏休み前の7月は、どこの宿も閑散期である。季節としては旅行にぴったりなのに、部屋は空いていることが多い。結構空いているということは、道もすいてゆっくりできるということでもある。

第2回国際バラとガーデニングショウ(2000.5.18-22) 花と自然を愛する多くの人々に、バラとガーデニングがもつ様々な可能性を提案し、 新しい文化としての魅力を再発見することをテーマに、世界有数のバラのブリーダー、 ピーター・ビールス氏デザインのシンボルガーデンをはじめ大小さまざまな“ガーデン”が ドーム球場内に造られている。


2000.6.9 ここは大陸である。大陸は島より大きい。私も勉強したからそのくらいの知識はある。ここはいろいろ不思議なことがあると聞いたことがある。色々な怪物も住んでいるそうだが、この辺にはいないようだ。面白いことがあるといいなあ。とりあえず旅の宿に宿泊した。山に続くなだらかな丘に建つ宿は、極めて閑静。四季花咲く庭園の中に、いくつかの棟が離れ家のように建っている。海の幸、山の幸をふんだんに使った懐石料理をはじめ、温泉も自慢の宿という。

あちこちの谷あいから熱湯が噴き出すスケールの大きな温泉地である。「美女づくりの湯」の名の通りものすごくすべすべして、3回も入ってしまった。特に24時間源泉のお湯を流し放しはとても良い。 循環ろ過しているお風呂は嫌だと常々思っているのでこれは最高でした。洗い場のシャワーのお湯も温泉だった。ただ玄関の付近から風呂の中が普通に見えてしまうのが(1部透明なガラスの所、露天)入浴後に気が付いてビックリした。気になる人は反対側のお風呂を希望した方がいいだろう。宿の至る所に温泉に関するデータが張ってあって面白かった。ある程度読んだ後に温泉に入るとまた違った感じだった。

食事は猪なべ、山菜のてんぷら、とろろそば等食べきれないほどの料理がどれもおいしかった。ボリュームも満点だし最後にデザートまで。部屋は他のお客さんのキャンセルもあり18畳の部屋だった。客室はかなり古く、天井の角が腐ってたりとか、あちこちちょっとボロっとしていたが、掃除も行き届いていて特に問題はなかった。掃除も行き届き、こんな料金で泊まらせていただくのが心苦しいほどのすばらしい旅館だった。ただここの従業員はみんな明らかに外国人だったにもかかわらず、名札には「鈴木」や「佐藤」と書かれていた。シーツがなかったので、持ってくるように頼んだら、「私日本語わかりません」と言われた。


旅館のロビーには宿泊客が沢山集まっていて話をしていた。タイムカプセル発掘団も泊っていた。この大陸南方の砂漠に古代人が埋めたタイムカプセルを調査しに来たのに、怪物が住むようになって発掘できないという。残念だなあ。でも、私なら多分掘り出せると思う。旅の宿の近くに自動販売機が置いてあった。何が売ってるのか見てみたら思い出ファイルだった。観光客がおみやげに買うのだろう。1個100円で、どんな思い出が出てくるかは謎という。私は思わず買ってしまった。何が出たかは、帰ってからのお楽しみ。

2000.6.11 宿の前を通っている道をまっすぐ歩いた。観光スポットというだけあって観光客としばしば行き交う。道端になつかしグッズの店があったから寄ってみた。砂漠からタイムカプセルがそのまま発掘されることがあるという。この店で売ってるのはそういう掘り出し物ばかりという。それで今日は特別だって、本をもらった。『どら山どら吉どこにいる』というタイトルである。得しちゃった!

2000.6.12 宿の隣に大きい病院があったから、ちょっと寄ってみた。中には怪物にかじられたりして、ケガをした人が沢山いた。化石の調査にいったんだけど、怪物に襲われて逃げてきたんだって。怖いなあ。そんなところ行きたくない。

宿の前の道を真っ直ぐ進むと野原に出た。野原の先は見渡す限りずっと森が続いていて、向こうの方がどうなってるのかはかなり謎である。野原を歩いてたら、北に向かう集団がいた。大きな網と小さいビンを沢山持っていた。一体何しに行くのだろう。それで北の方に向かって歩いてたら、いつの間にか森の中にいた。なんだかよくわからないまま歩いてたら、結構奥の方まで来ちゃったみたいで……ちょっと困ってウロウロしてたら、小人の姿をチラッと見かけた。ここには何かあるのかな。それで奥の方へ進んでみたが、シーンとしてて何もいないんだ。なんなんだろうね。ここは。


2000.6.14 久しぶりの晴天。朝から雑巾がけにお洗濯、お布団干して、シーツ洗ってもう大忙し。ふ〜っ、疲れた一日だったけど、運動した後のような爽快感が残った。早く梅雨が明けないかと願っている今日この頃である。

星降りの丘(2001.6.17・18) 西に進んだら丘があってゴザが沢山敷いてあった。何だろうと思って近くにいた観光客に聞いたら夜になるとこの辺は流れ星をよく見られるから、昼間からゴザを敷いて場所取りをしているという。これでは見れそうにないから、明日早めに行くことにした。

星降りの丘に来た。今日は場所が取れた。しばらく待っていたら、暗くなって星が見えてきた。そしたらその星が、細くなったかと思うとスーッと弧を描くように流れて行った。そのうち星の数も増えてきて、ポッと現れたかと思うと、スーッと流れていくから光の雨が降ってるみたいなんだ!すごいよ!


2000.6.19 野原をずっと南に向かって歩いてたら松の木ばかりが沢山生えている森に出た。とても静かで、鳥の鳴き声ひとつしない。その森をずっと探検してたら、大陸の南に向かって続いてる道を見つけた。南に見える草が生えてない土地が砂漠だろう。タイムカプセルが埋まってるという。砂漠でタイムカプセルの発掘を始めた。何が出てくるのかな?あれからしばらく掘ってたら硬い岩盤に突き当たった。『穴掘りピッケル』があればこわして先に掘り進んで行けたのに…。悔しいが仕方がないからとりあえず帰った。もう道はわかったからいつでも来れる。

大通りを歩いてたら、冒険用品のお店を見つけた。ちょっとのぞいてみたら、お店の中にはちょっと黒い人がいて、忙しそうに店の中を掃除していた。その人は店のオーナーで枕という。あの料亭「枕屋」も経営していてメガロポリスでも有数の実業家らしい。私が「何かいいものない?」と聞いたら枕はこの店はついさっきオープンしたばかりだから、何も売るものがないと答えた。何も売るものがないのにオープンするなんて変なお店だ。でも今度来る時までには何か入荷しておくってさ。

2000.6.20 枕の冒険用品屋に行った。店長の枕が笑顔で出迎えてくれた。中にはピカピカな道具から古ぼけた道具まで沢山並んでいて、それぞれに値札が貼ってある。私は穴掘りピッケルを買おうとしたら、お金を持っていないことに気付いた。ガーン!私がションボリしてたら、枕がこれを食べて元気出せって『化石おこし』をくれた。ありがとう。じゃあ、私はお金を取りに行くからね。

お金を取りに戻って穴掘りピッケルを買った。これは、何かを掘り出したりするのに使う道具である。これでタイムカプセルを発掘できるだろう。枕は「お買い上げありがとうございます。それから、これはオマケ、銀のスプーンをおつけしますね」。わ〜い、オマケまで貰っちゃった。枕は気前がいいや。

2000.6.21 『穴掘りピッケル』を持って砂漠へ行った。しばらく掘ってたら金属の箱が出てきた。これは多分タイムカプセルだよ!中を開けようとしたのだが…そのカプセルはかみつき箱だった。あまりに突然だったから、かみつかれてしまつた。血が出るし、たたいてもなかなか放さないし、さんざんだった。

気を取り直してカプセル発掘を再開した。そしたら後ろの方でキュルキュルという音が鳴ってたのだが、そのまま無視して堀り続けてた。そしたら、急に後頭部にガツン!とスゴイ衝撃があった。何がなんだかわからないまま後ろを向いたらそこには巨大な怪物が立っていて襲いかかってきた。私は必死で逃げた。あんなにデッカイの、戦っても絶対勝てないから。ふぅ…頭がズキズキする。


2000.6.23 中心街には人が沢山いる。オレンジ色の袈裟を着た托鉢僧侶とか、毛を逆立てたモヒカンとか。でも港とちがってワイワイガヤガヤという感じではない。みんな忙しそうである。旅の薬売りに会った。昨日まで港に行っていたという。港には海賊の船長がいたって言っていた。楽しそうだ。

中心街には何でもある。映画館、ゲーセン、ホテル、プール、ラーメン屋、コンビニ…。すごく高いビルも沢山建っている。すごいなあ。誰が建てたのかなあ。お城なんかは、昔、農民たちが沢山駆り出されて作られたらしいけど、これもやっぱりそうなのかな…。大都市の冒険スポットというと、裏通りとか、地下街とかかな。超高層ビルのエレベーターなんかもいいかなあ…。いい冒険スポットがいっぱいあり過ぎてうれしい悲鳴が出ちゃう。ぎゃー!


2000.6.28 どこからかラーメン屋のいいニオイが…。そしたらお腹が減ってきちゃって…。ラーメン屋に入って、チャーシューメンの大盛りを食べた。あんまりおいしくなかった。食べ終わってお金を払おうとしたのだが、財布がない!確かに逆さポケットに入れておいたのだが…。途中で落としたのかもしれない。

食い逃げしようかとも思ったのだが、やっぱり正直に店員さんに話した。そしたらこのラーメン屋、小さくて立ち食いなのに筋肉ムキムキの用心棒がいて、その用心棒がやってきて「じゃあ働いて返せ!皿を5千枚洗え!」と言う。私が「そんなのできない。せめて100枚くらいにして」と言ったら、その用心棒が怒リ出してフライパン持って私の方に向かってきたんだ。

用心棒がこっちに向かってくる間、どうしようと思ってブルってたんだ。そしたら横から、ズタ袋を肩に下げた人が出てきて私の代金を代わりに払ってくれたんだ。めちゃくちゃ親切な人だよ。その人は冒険家を目指してて、テフチンという名前なんだって。私も冒険家だよと言ったら、多分そうだと思ったという。これからどこかで会うかも知れない。一つ借りができちゃった。


2000.6.29 夏だ!ダイビングだ!みんなで潜ろう。海の計画もどんどん入ってきて嬉しい。行きたいところがありすぎで困ってしまう。安良里に行ってきた。曇っていて水温18度だった。とても寒がりな私は震えが止まらず死にそうだったが、水中は最高。魚もいっぱいで、トビエイが浅場で泳いでいるのも見た。水中から見上げるようにウォッチング。影になってハッキリ見えないが、幻想的でカッコよかった。そのうちの1匹はしっぽがなかった。タツノオトシゴの大きいのも見られた。しかし寒くて体が持たず、上がってお風呂にダッシュした。いやぁ〜、お風呂は最高である。今度は温泉に行きたい。

2000.6.30 公園にテントが張ってあって「小人大会開催中」というのぼりが立っていた。そういえばこののぼり、いろんなところで見たなあって思って、大会のことを聞いてみた。そしたら『小人ビン』という変なビンをくれて、これに小人を入れて会場に来て下さいという。今この街の草むらにいっぱい放してあるんだって。小人を持ってないと会場には入れないんだって。

草むらの中を歩いてたら、急に小人が飛び出して来た。もしかしてこれが小人大会で言ってた小人?その小人は目つきが鋭くてなんか強そうな感じがする。その小人が急に襲いかかってきた。一生懸命戦ったのだが、すごくすばしっこくて強いんだ。それで逃げようとしたら、おしりを刺されて血が出てきた……死ぬかも。でも、これくらいでへこたれないよ。まだ襲い掛かってくる小人を何とか押さえ込んで、『小人ビン』に入れた。

小人を持って小人大会の会場に入った。捕まえられた小人同士が、血みどろになって戦っている。私はかわいそうに思って大会に出るのをやめた。ポケットさんの故郷は大陸の森にある。それがこの大会のために連れてこられたという。だから私は小人を故郷の森に帰してあげると約束した。


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