日本兵すげえってなるコピペください
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 20:57:40.71ID:IGcxscAT0
おねげいします
5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:01:40.67ID:p6CXGh6i0
1944年、ニューギニアでの話。
敵機が我が物顔で飛び回る中、狙われるので日中飯を炊くことさえ出来なかった。
ある士官は、沿岸部を命辛々後退している際、奇妙な高射砲部隊と出会った。
司令本部を設営するにも密林奥深くでないとぼこぼこやられてしまうのに、その隊は密林の切れ目に堂々と陣を構え、ロープを渡して洗濯物を干し、敵機に対しても盛んに発砲している。
しかもねじり鉢巻に褌一丁でだ。
士官がその辺りの兵に話を聞くと、
「頑張って偽装してもすぐに位置を掴まれてしまうから、開き直ってああしたのだ」
との事だった。
久しぶりに勇敢な、胸の好く連中を見た士官だったが、彼がそこを去った何日か後には、やはり重爆か何かで綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまったという。
9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:08:11.05ID:v679JqUL0
特殊作戦群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%E7%BE%A4
>イラク派遣前に普通科部隊と合流して訓練した際には、
>生身の隊員を的の両わきに立たせて10メートル以上離れた場所を移動しながら拳銃の弾を的に命中させるなど、
>一般部隊ではありえない訓練を行っていたという証言もある
10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:08:13.48ID:p6CXGh6i0
撃墜王の坂井三郎さんの手記の中にあるエピソード
本当は敵地で無防備な姿をさらす危険行為なんですが、イタズラ心を起こした
坂井三郎さんたち日本軍パイロットがオーストラリア軍基地を攻撃した後、
基地上空で編隊宙返りを3回行い、オーストラリア軍は普通なら対空砲火を
打ち上げるところですが、だまって彼らの飛行を見ていたそうです。
調子に乗った、パイロット達は更に高度を下げて同じ事を繰り返してみせたそうです。
その後、日本軍基地にオーストラリア軍から戦闘機が飛んできて
爆弾ならぬ手紙の入った通信筒を落としていったそうです。
その中のオーストラリア軍から日本軍に当てた手紙には、
見事な編隊飛行を見せてもらったお礼と、あのパイロットが今度来るときには
緑色のマフラーをしてしてきてくれれば歓迎するという内容がしたためられていたそうです。
もちろん、坂井さんたちは上官にこっぴどく怒鳴られたそうですけど、
戦後の手記には、血みどろで戦う戦場にも時には敵と味方の間に
こんな風が吹くんだなとかたっておられます。
26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:56:31.19ID:p6CXGh6i0
撃墜王坂井三郎さんの話
戦争初期の話で部下と飛行中敵輸送機を発見
撃墜も考えましたが要人が乗っているかも知れないので
拿捕しようと考え輸送機に近づきました
輸送機に警告し付いてくるよう指示(こなければ撃墜)していると
窓越しに母親に抱きついて震える女の子が見えました
坂井は躊躇いを覚え結局見逃しました。上司には
「輸送機を発見するも巧みに雲の中に逃げられてしまいました」
と報告しました
後年この母子の生存が確認されたそうです
(坂井は晩年までこの話を語らず著書にも輸送機に逃げられたと書いてます)
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。終戦までに大小の敵機64機撃墜のスコアを残す日本のエース・パイロットとして知られる。戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。
12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:14:38.58ID:p6CXGh6i0
米軍の補給物資の労務に駆り出された日本の捕虜が、
荷物の数を数えるように命令された。
掛算で瞬時に報告したら、「いい加減なことを言うな、ちゃんと数えろ」
と米兵から怒られた。
で、米兵自ら、ひとつふたつと数え始めたが、合計数が合っているので
「オマエ、どうやって数えたんだ。」と驚嘆したそうな。
16:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:22:07.89ID:sr/FnLbF0
>>12
寺小屋からの流れで読み書き算盤は今よりも得意だったらしい
何か戦後直後に日本語新聞を手に入れた米軍兵が日本の捕虜に手渡したさい
仕官クラスしか新聞読めないと思ってたら一般兵まで読み出してビックリしたとか
14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:18:39.33ID:BgKyzyky0
全然死ななかったやついたよな
15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:20:18.43ID:992DulBm0
>>14
船坂弘軍曹だっけ
舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)は、日本陸軍の軍人、大盛堂書店代表取締役会長。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。 特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道六段教士、居合道練士、銃剣道練士など、武道・射撃の技能を相当に習熟していた。
18:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:26:53.48ID:p6CXGh6i0
スペイン内戦で、共和国側義勇兵唯一の日本人として知られるジャック白井(函館出身)。
国際旅団エイブラハム・リンカーン大隊の兵卒として彼に与えられた任務は炊事兵。
外航船やNYのレストランのコックだった経歴を買われた配属で、実際に彼は戦場でも、
「美味く、早く、大量に」食事を作る達人で、兵士達に評判だったとのこと。
しかし、「ファシストと戦う!」という熱意に燃え志願したジャッキー(愛称)にとって、
戦闘任務こそが本来の志望。何度も何度も転属願いを続け、時には「もう飯作らねえぞ」とごねたりした結果。
めでたく前線に配置換えとなったが、それで済まないのが、うまい飯を食えなくなった他の兵士達。
ジャッキーの後任の作る料理がとにかくまずく、「食える物を食えなく作る達人」だったこともあり、義勇兵達の士気はがた落ち。「ジャッキーのシチューが食えねえなら戦わないぞ」という輩まで出る始末。
大隊付政治委員に折衝し、懇願した結果、ジャッキーはパートタイムで炊事も担当し続けることに。
「戦うコック」の異名がつくことになりました。
ちなみに、彼の最期は、1937年7月11日、ブルネテ攻防戦でのこと。
敵味方が銃火を交えてにらみ合う中、すぐ近くまで来た糧食配給車が立ち往生。
ジャッキーが見かねて「俺が取ってくる」と塹壕から出た瞬間、国民戦線側の機銃弾に倒れました。
最後の最後まで、飯と縁の切れなかった人だったようです。
ジャック白井(ジャックしらい、1900年? - 1937年7月11日)は、スペイン内戦において人民戦線・共和国側の国際旅団に志願入隊して参戦、戦死した日本人義勇兵。北海道函館市出身。生まれてすぐに両親に捨てられ、孤児院で育ったということだが、その前半生は謎に包まれている。彼は15歳の時に孤児院を飛び出し、年齢を偽ってカムチャツカ航路の貨物船に雇って貰い船員となったが、1929年にアメリカに密入国し、ニューヨークでパン職人や料理人として働いた。1936年7月、スペイン内戦が始まると、彼はアメリカ共産党の義勇兵募集に志願し、12月26日、95人のアメリカ人と共にスペインへ旅立った。
22:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:38:56.93ID:8bbp6WWX0
アメリカ陸軍日系人部隊、第442戦闘団所属のサダオ・ムネモリ上等兵の話
Wikipediaからコピペだが、
第二次世界大戦末期のイタリア戦線において、ドイツ軍の防衛線ゴシックライン攻略作戦に参加。
1945年4月5日にセラヴェッツァの「ジョージア高地」山頂への進撃中、塹壕に転がり落ちた手榴弾に覆い被さって戦死し、中にいた2人の部下の命を救った。
自らを犠牲にして仲間を救った功績により名誉勲章を受章した。
ちなみにイラク戦争でも手榴弾に覆い被さり仲間を庇った兵士がいた
彼は抗弾ベストを装着していたが、結果は前大戦と同じだった。
サダオ・S・“スパッド”・ムネモリ(Sadao S. "Spud" Munemori、漢字:宗森 貞雄、1922年8月17日 - 1945年4月5日)は、アメリカ陸軍第442連隊戦闘団第100歩兵大隊上等兵。日系アメリカ人としては、初の名誉勲章受章者となった。愛称は「スパッド」(Spud)。
23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:40:09.61ID:IGcxscAT0
ある元日本兵は、同じ部隊で戦い、戦死した高砂族を慰霊するため、
この碑に赴き、そこで昼飯にと差し出されたおにぎりを見て、
いきなり涙を流し、慟哭をはじめたそうです。
「俺はこの握り飯を彼の前で食うことはできない。」と。
彼の部隊は東南アジアで作戦中、食料不足で飢えに苦しみました。
そこで足腰が強く、ジャングルに強い高砂族の兵士が、
遙か後方の基地まで食料を取りに行ったそうです。
しかし何日待っても帰ってこない。様子を見に行ったら、
彼は部隊まであと少しというところで、両手一杯の米を抱えて餓死していた。
米を持ちながらの餓死。
信じられるでしょうか。
餓死するほどの限界に達しながらも、多くの日本兵が心待ちにしている食料には
一切手をつけなかったのです。
慟哭した元日本兵は、そんな彼の霊前で握り飯を食うことができなかったのです
24:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:46:31.54ID:p6CXGh6i0
「潜水艦殉国碑」
太平洋戦争中に戦没した潜水艦乗員の慰霊碑で、碑には「殉国」の文字と伊号潜水艦の
レリーフが飾られ、碑文が記載されている。慰霊碑にそびえ立つマスト状のものは、
潜水艦の潜望鏡である。
『潜水艦有志に捧ぐ
太平洋戦争中、百二十余隻の潜水艦と共に戦没された一万余人の乗員諸君。特殊潜航艇及び回天決死隊諸君。又諸公試、演練に殉難された諸君。諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収する途がない。しかし、それは国難に赴いた諸君の忠誠が、そのまま其戦場に在ることを意味する。民族の急を救うべく戦った犠牲の精神は永えに其処に活きている。
残された潜水艦関係の吾等は、個人と法人と併せて幾千、常に諸君の英霊の坐する海底を見つめている。願わくは、日本国民の全部も、ありし日の諸君の勇姿と、奮戦激闘の光景と、護国の屍となった戦場とを緬想して、敬弔の誠を伸ぶると共に、祖国再興の心の糧とすることを祈願して已まない。
茲に曾ての戦友、潜水艦建造関係者外有志一同相計り、小碑を東郷神社の霊域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ。
昭和三十三年五月二十五日』
27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 21:59:56.71ID:IGcxscAT0
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 22:01:08.65ID:IGcxscAT0
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の
人々を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に
避難させたのである。
そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の
亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと
ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという
29:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 22:03:08.88ID:1nki2n/u0
撃墜王が戦後に敵国の戦闘機乗りらとの懇談会にて
元敵兵「戦時中、私、飛行機に乗ってるときに、確かあなたとすれ違いましたよ」
撃墜王「いや、それはあり得ません。私とすれ違ってたなら、あなたは今頃この世にいません」
30:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 22:06:50.14ID:p6CXGh6i0
杉原千畝さんの話も有名ですが、満州とソ連(現ロシア連邦)の境目附近で、亡命しようとしているユダヤ人2万名近くを助けた樋口季一郎(字がちがうかも)さんと いう軍人がいます。
この方は大戦末期にアッツ島やキスカ島から撤退するときに、部下の安全を第一に考え
「退却するときに荷物になるようだったら武器を捨てても構わない」と命じたとか。
当時は武器は天皇陛下から賜ったものとされ、捨てるなどとんでもないと考えられていました。
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる難民を救ったことで知られる。その難民の多くは、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1938年3月、ユダヤ人がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った(オトポール事件)。樋口は「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記しているが、芙蓉書房は彼の手記にある数字を勝手に2万人に改竄している。樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。
34:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 22:25:49.03ID:HmesoSrn0
まあ陸軍と海軍がケンカしてるのに戦争に突入しちゃった事かな
戦時くらい仲良くしろよ
39:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 23:45:36.77ID:aEBJTxzQ0
>>34
日本人の気質もあるのかもしれんが
あれは組織を立法の段階で陸軍と海軍っていう二つの組織に分けたのが問題なんだろうな・・・・二つを統合する組織が事実上無いからな
36:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 23:12:02.69ID:p6CXGh6i0
ある日爺ちゃんとテレビを見ながら飯を食っていると
世界不思議発見だか何だかでラバウルが紹介されたんだ
でレポーターが現地の案内の人のおっさんに話しかけてると
突然爺ちゃんが「あいつ!○○だ!○○だ!」と叫び出した
ついにボケたかと思ったがテロップに本当にその名前が出た
ビックリして爺ちゃんに詳しい話を聞くと、
戦時中はラバウルにいてそのテレビに出てた
当時は子供のおっさんに日本語を教えたり遊んだりしてたらしい
そしてテレビでおっさんが当時の事を話した
おっさん「私が病気にかかって高熱に苦しんでいると日本兵が当時貴重だった薬をくれた」
爺ちゃん「俺だ!俺だ!それ俺だ!俺!俺の事だ!」
とてもうるさい
いい話でこれで爺ちゃんがテレビに出るんじゃないとか思ってたが
爺ちゃん「あれ薬じゃなくて歯磨き粉だったんだわ、あいつ馬鹿で信じてやがるwwww」
俺は誰にも言わないでおこうと決めた
37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/01/13(木) 23:21:18.78ID:p6CXGh6i0
「戦争は女の顔をしていない」より
------------------------------------------
わたしは夜勤でした。重症者のテントに入ると、大尉が横たわっていた。先生方から
言われていました。「今夜のうちに、大尉は亡くなる、朝までもたない」と。
その大尉に訊きます、「どう?何をして欲しい?」決して忘れられないわ。彼はにっこりした。苦しみ抜いたその顔には明るすぎる微笑みだった。
「白衣のボタンをはずして、乳房を見せてくれ……女房と離れてもうずいぶんになる……」
わたしは恥ずかしくなって、何か答えて、テントを出ました。一時間後に戻ると、彼は
もう亡くなっていて、あのときのの微笑みを浮かべたままで……
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1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:03:41.85ID:Hq6t7sd70
4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:06:16.78ID:Hq6t7sd70
7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:07:25.18ID:Hq6t7sd70
6:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:06:36.83ID:sjdFpBMy0
8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:08:26.40ID:FrzXwyBf0
9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:08:41.02ID:sjdFpBMy0
10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:12:41.81ID:Hq6t7sd70
12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:13:36.96ID:sjdFpBMy0
13:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:15:13.05ID:Hq6t7sd70
18:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:21:51.60ID:Hq6t7sd70
20:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:25:16.95ID:p6+7xYtm0
液冷の頭にたった半年足らずで空冷ぶっこむ改造施すとかマジでキチガイじみてた
39:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:48:11.36ID:jS/1E2s0O
>>20
土井さんによればハ-112(金星62型)の補器の位置を変更せずに
防火壁のスペースに収まったの大きかったらしい。
これが収まり切らなかった場合、胴体を改造するか
エンジン後部のレイアウトを見直すことになる。
戦闘機はスペースの設計も命で一式戦3型乙など
試作機が良好でも機首延長加工みたいなことをしていたら
量産見送りになることもあったり。
21:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:26:38.28ID:aSjkzY3x0
22:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:27:25.11ID:Hq6t7sd70
25:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:31:32.41ID:Hq6t7sd70
27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:33:25.56ID:Hq6t7sd70
29:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:35:00.57ID:sjdFpBMy0
35:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:40:54.77ID:sjdFpBMy0
38:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:47:14.53ID:hdPvzpQJ0
靖国行った時のやつ
五二型零戦と二〇ミリ機銃
九六式榴弾砲と砲弾八九式加農砲
48:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:03:34.90ID:o48UgnyiO
>>38
遥々東京行ったのに靖国スルーしたんだよな…
20ミリは52ではなく21型などに搭載された九九式一号二型系統の銃だね
52のは銃身が伸びて(銃身1198mm:全長1861mm)弾倉の無いベルト給弾式になってる
40:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:48:43.40ID:Hq6t7sd70
41:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:49:14.77ID:sjdFpBMy0
47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/24(木) 23:59:08.96ID:5ic9qkIc0
俺ほぼ毎日こいつ見てる
52:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:14:50.20ID:vz31ZY+m0
53:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:17:23.65ID:KBzA5K8jO
前上げた画像だけど雷電
58:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:38:13.03ID:KBzA5K8jO
米コロラド州で復元中の零戦32型
金属光沢があるのが外板で緑色の部分が翼桁
外板パネルと桁の境目がよく分かる
60:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:39:53.29ID:sELg4+a80
キ87の画像ない?
66:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:57:18.61ID:KBzA5K8jO
>>60
携帯でよければ
プロペラ側から複列ハ219エンジン、下がオイルクーラー
横に移り上面が排気タービン下の円柱が圧縮空気管、
主翼の付け根前側面が排気口、
最端がオイルタンク
操縦は97式軽爆に似た感じだと言われる
73:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 01:06:23.78ID:sELg4+a80
>>66
試作機1機で写真残ってるんかい・・・
75:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 01:16:16.23ID:KBzA5K8jO
>>73
審査されるものだから無くなっていなければ
どんな機にも写真は残っているだろう。これは1号機だろうけど
飛行機はできないまでも一応2号機が作られ、
先々は10号機まで作る予定だったらしい。
62:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:44:05.35ID:+XlSwUM+0
64:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:52:17.28ID:sELg4+a80
吹雪と三隈・・・プラモだけど許して><
65:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:57:05.13ID:QhTh0bLp0
戦闘機とか戦艦ってロマンがあるよな
69:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 00:59:25.60ID:+XlSwUM+0
78:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 01:30:43.43ID:kws9ZfVp0
94:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 04:23:23.89ID:2gLQTn+x0
98:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 12:14:16.69ID:KBzA5K8jO
疾風と雷電のプロモーション映画
101:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 14:10:07.79ID:AR2QmouJO
だれか空母の画像ないか
戦闘機が並んでるのをみるとワクワクしてくるんだが
戦艦も好きだ
こうみると海が好きみたいだけど戦闘機に乗ってみたい不思議
102:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 14:14:17.90ID:k42tIcwO0
>>101
104:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 14:27:09.15ID:KBzA5K8jO
>>101
相変わらず携帯ですまないが
しかし零戦は陸上基地のイメージが強い
長距離飛行できれば島が制空の優勢を握る証拠なのだろうが
105:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 14:49:14.77ID:KBzA5K8jO
戦艦の航空機といえば着弾観測機があるな
計画のみでは大和型に瑞雲を20機を運用する案もあったとか。
120:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 23:26:22.62ID:KBzA5K8jO
日本戦闘機で悪かったのは最大速度よりも急降下速度だな…
昇るのが得意て降りるのが下手な戦闘機。
急降下が速いと上方から攻めるのが得意になるが、
初期零戦なんかは逆に昇りながら攻めている
(もちろん爆撃機に対してはエンジンを狙い上方から攻める)。
44年辺りになると殆ど後上方からの攻撃になってしまうけど…。
一番得意なのは追撃状態になったとき小半径の上昇旋回をすること。
115:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 21:11:28.07ID:KBzA5K8jO
1995年に龍ヶ崎に遠征したアメリカPO
F(航空資料館)所蔵の零戦。
エンジンも栄。横転速度にも注目。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1298556221/
南京大虐殺の死者数が戦後増え続けた事だろ 居なくても敵を倒せる
極東のこの戦争(日清戦争・日露戦争)を取り巻く状況には注目すべきことが多い。
中でもとりわけ目立つのは、ミカドの軍隊の勇気と戦いぶりである。
我々は不本意ながら、日本のすべての人間の行動を支配し動かす精神力の存在を認めざるを得ない。
この力はいったい何なのか。
その存在を感じると、妬ましく、落ち着かず、腹立たしくさえある。
勇気は西洋にとっても珍しいことではない。
が、これは単なる勇気ではない。
その背後にもっと違う何かがある。
もし、西洋の軍隊がそれをもっていたら、
西洋のすべての国の軍旗は絶対に汚されることはなかったであろう。
そういう何かである。
これは何か。これは何か。これは何か。・・・・・
1904年10月4日 ロンドンタイムズ紙
日本が西欧に認められるうえで、日露戦争は有益な学習だった。
文明世界は奇妙な小男たちの勇気と闘争心に仰天し興奮した。
彼らは民族衣装であるキモノを着ながら、
たちまちにして近代戦の技術を習得していたのだ。
1904年10月4日付けロンドンタイムズの記事が、
当時のイギリス人の反応を物語っているが、
それはほとんどのアメリカ人が感じたことでもあった。
アメリカの鏡・日本 ヘレン・ミアーズ
レンジャー隊員育成訓練は飲まず食わずで、重装備を背負い何百キロもの移動や戦闘行動を行う過酷な訓練。 蛇やカエルを食べ、教官のいじめに近い嫌がらせに耐えて始めてバッジを手にする事が出来る。 途中脱落者も多く、全課程修了時には10kgも20kgも体重が減っているという。
「アイルランドの親日感情」、北村良和、月曜評論、H11.5.5
現地の友人とダブリン市のとあるパブに入った。
何やら、乾杯、乾杯と騒いでいる人々がいる。
その友人に、何を祝っているのか、と聞いた所、連れのアイルランド人は、
「何? 今日2月15日はシンガポール陥落記念日なんだぜ。
日本人の君が知らないなんて、おどろきだよ」と答えた。
そして、さらに次のように怒られた。
君達戦後世代は第2次大戦に就いて何も教えられていないらしいが、
シンガポールは当時世界一難攻不落の要塞だったんだぜ。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズやレパルスが沈められた時も我々は喜んだが、
シンガポールの時は格別だった。
君、相手は世界一のイギリス海軍だった事を忘れてはいかんよ。
それをあんなに見事に陥落させるなんて素晴らしいじゃないか。
その山下将軍の2月15日を忘れるなぞ信じられないよ。
>>26
この話には戦後再会することができたって続きがあったよな?
義和団の乱にて日本とともに戦った
イギリス人青年ウィールの手記
・・・日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものとなっていた。
しかも彼らは深傷を負っても、呻き声ひとつ立てない。
あるイギリスの義勇兵は、隣りの銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。
真っ赤な血が飛び散った。
しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。
”くそっ!”と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すとやおら鉢巻の包帯をして、
そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視を続けていた。
ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。
人間業とは、とうてい思えなかった。
また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、
ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。
彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。
病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。
しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。
イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、
おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。
日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。
その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
ながい篭城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。
なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。
だから欧米の婦人たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。
看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった。
「戦争は女の顔をしていない」は名著。日本とは関係ないけど、WW2におけるソ連の女性達がなにを思ったか、何を見たかがわかる。
ドキュメント番組を見たんだが、南京大虐殺を経験した日本兵がこう言っていた。
「御国の命で現地に入ったんですけど、食糧やらなんやらは全て現地調達ですからそれは大変でしたよ。民家に盗みに入ったりもしましたw他にもいろいろしましたよ。泣いて逃げる現地の女をひっ捕まえて、SEXもしました。仲間内で交代ごうたいでレイプですねwwそれで、やった後は殺して・・・・・(略)。別に悪いとはおもいませんでしたね。こっちも殺すか、殺されるかの戦場に置かれてましたから、あれ(レイプ)だけが楽しみでしたよw」
笑いなが話すことかと、見ていてはらった。戦争なら何をしてもいいのかよ。
俺は似非日本人の、朝鮮人はくそ嫌いで、マジ滅べって思うが、
あの日本兵の発言はひいた。
戦闘機ばっかじゃねーか
*9
それ、デマって話があったな。どっちが本当なんだろね。
※11
そうなんですか?
でも、実際に現地で戦争体験した本人が言ってたし
タイトルわすれたけど本でもそういう話がありましたよ!
日本軍の場合、本部から作戦命令は出るけど
1部隊ごとに自由な行動がとれたから(作戦方法は各自で考えろみたいな)
虐殺が当たり前のようにあった部隊もあれば、
ちょっとでも略奪したら処刑なんて部隊もあったという話。
だから個々の事象に関しては、
そこにいた兵士の証言が正しいんだろうけど、
それが全体を現すことにはならない。
※12
そういう話はちゃんとソースをつけような。
それを怠るばかりにあべこべになったデマがネット上に広がることになるんだから
※14
了解です!
すんませんした!次からはきをつけます
こういう人たちが戦ってくれた結果、今の日本があるんだよなぁ……
そう思うとなんか色々と考えさせられるわ
※9
'`ィ'`ィいつもの非日本人さん乙www
※15
お前ワザとやってるだろ
見え透いてるんだよ
鬼軍曹の舩坂弘が出てて安心した。
あれはもはや人間じゃない。
一種の生体兵器。
>戦争体験した本人
ほんとに体験したのかも怪しげな人もいるし、体験してもあることないこと脚色して語る人もいる
話だけをまるっと鵜呑みにするなよ
そういう経験絶対主義や証言絶対主義ってのはいただけない
愚者は経験に学ぶってのはよく言ったもんだ
船坂弘スレだと思ったらそんなこともなかった
零戦に狙われたら急降下で逃げるしか無いってのも絶望だけどね。
高度を失えばもうどうやっても逃げられない。
ひねりこみながら急降下→失速落下しながら死角に→エンジン全開で離脱
これくらいしかない。
ドキュメントとやらの番組名も本の題名も作者も覚えてないのに、
発言だけは完璧に覚えているID:UVQDJpge0はパネェな。
民間人が殺される、強姦されるのが戦争だろ
何も日本だけが加害者じゃない、アメリカは沖縄に侵攻した際
ソ連は北方領土、北海道に侵攻した際
何万人もの民間人を殺し強姦してる
日本人だけというそういう卑下た妄想は全ての戦争経験者と犠牲者を冒涜してる
※15
興味あるんでソースくれないか。
正確に思い出せなくてもいいので放送局とかどんな感じの番組名だったかとか、
本ならどんな単語の入ったタイトルだったか教えてくれたらこっちで探すし。
※15
お前のやっていることは英霊を汚すことだよ
気をつけるもクソも無い
証拠も無しにこうだったと言うのは誰にでも出来る
クズそのものだお前は
タイムリーな話、被災地で一番の功労者である自衛隊をねぎらう番組ってやらないよね
政治家なんて自衛隊員の一滴の汗にも満たないくせに
菅が被災地の避難所に行くだけですごい警備体制とってたな
米9
向こうの雇われ現地人も、
ちょっと戦えば立派な「日本兵」だからな。
日本人とは言ってない。
※9
反日外国人のフリしたニートってとこかな
創作にしても文章が残念すぎる
※9
ああ、ついでにそのドキュメント番組が本当なら調べてやるから
いつ何時くらいにどの局で見たのか大体でいいから言ってみろ?
ディスカバリーかナショジオでやってた番組。
米軍が島の現地民と仲良くなって島に来た日本兵を現地人のやり方で拷問しまくって最後さらし首にしたとかやっててすげえ欝になった
でも一番きつかったのが米軍で率先してやってた兵隊さんの嫁さんがそれを嬉々として取材陣に語ってたとこ
※25
TVはたぶんNHKの番組としか思い出せない、3年前ぐらいの夏休みにやってた番組です!
本は「本当にあった戦争の話」的な名前です
なんかデマ扱いされて、めちゃムカムカするんだがww
※29.
記憶で書いてるんだからしょうがないっしょw
※28.
いや、インタビュー答えてたのが日本人
※24
北海道…?
お前の学の無さは教育に対する冒涜だは
ホルホルタイムはっじまるよー!!
※24.
同じ日本人がその行為をうれしそうに話すから、腹立つんだよ。
※32
悪い、NHKじゃないかも汗
BSで見た気がするから
特定しづらいキーワード並べてこれがソースって
デマ扱いされて当たり前だろ
そのドキュメントが朝日のやつなら自称日本人の年齢があってないってオチがついたな
テロップに出てた年齢がその当時の学徒兵になる年齢にも満たないのに南京にいるのはおかしいって話だ
ああ、扶桑
いいシルエットだ…
こういうのを読むと、当時の日本兵が世界と比べて比較的強かったのは学力の差が大きかったのかね。
砲撃などの機械操作の計算の速さや、マニュアルの明文化など、一兵卒の理解度が各国に比べて一様に高かっただろうな。
※32
なるほど明確なソースを提示できないんだね。
書籍名や番組名を提示できないってことは、思い込み・思い違い・嘘ってことになる。
ソース出せって言ってるヤツって、このスレの本文全部ソース知ってるわけ?
証言は信じられないって言ってるヤツは、坂井三郎さんの証言も信じてないのか?
日本が悪印象になる話(レイプの話)を全否定するのはちがうだろ。
こっちが先に見つかったわ
松岡環という反日教師
http://www.tamanegiya.com/matuokatamaki.html
日本の為に戦い亡くなった人々に対して
畏敬の念を持つのは当然のことなのに。※9と来たら・・・
>UVQDJpge0
とりあえず焼き土下座な
お前の創作ではなく反日馬鹿の創作だったわけだが
「コンクリ事件の関係者が芸能人の○○」というデマを真に受けて突撃した馬鹿と同レベル
※45
そういう名前はかえって誤解受けるぞw
なんでかって、近年の日本はTV報道の倫理的なものにはうるさいだろう?
PTAしかり、お隣の国も事あるごとに文句言ってくるし。
それを内容まではともかく、笑いながら話したってのは相当なものだよ。
外国・・・例えばアメリカで日本人対象に同じ内容放送されたら、日本でも少なくとも
ネットでならちょっとした祭りになると思うよ。
それこそ※9の言うとおり、日本人だってはらっちゃうよ。
だからそのとんでもない番組をどの局で放送し、どういうスタッフが作ったのか、
どんな奴がインタビュー受けてたのか、気になる訳だ。
※9が嘘つきだとは決めつけてはいないからソースを求めた。
正直、その番組に嘘がある可能性があるとは思ってるけどそれも決めつけてないよ。
※45
あのな、もう少しよく読め。
「とある事象Aがあったという発言をした番組・書籍がある」
「その番組名・書籍名は?」
「……」
ってことだぞ?
ソースがあるなら、そのソースの内容の検証という作業がある(坂井三郎の話の場合、
一緒に編隊宙返りしたパイロットの証言やオーストラリア軍側の記録など)。
しかし、※32の場合、証言も何も、「そういった証言があったというソース」すら提示できていない。だから、信頼性が疑われるのもソースの提示を求められるのも至極当然。
あと、誰も全否定していないと思うぞ。事実、戦争には残虐な行為が付き物だしな。
ただ個別の事象を語るとき「ソース」は大切ですねってこと。
俺がこんな凄い連中の末裔だとは思えない
まあまじでこういう日本兵の勇猛さがなかったら、今頃分割されて戦争状態になってるのは日本なのかもしれんな なんかそういう小説なかったっけ
いや、レイプぐらいならあったと思うぞ。
日本人でも殺人するやつなんか他より少ないだけで一応いるんだからな。
それにあのときは乗りに乗ってた時だから無法が通ってた思うぞ。
まぁ戦争やってたらどこの国でも図に乗った相手のこと考えない屑ならしそうだな。
日本だけってわけじぇねーと思う。アメリカもやったろうし、ほかの国やった例はあると思う。
まぁとにかく勝った国の下っ端がそんなことするのはあったと思うぜ。
でもそいつらは、今でいう屑の部類だからそればかりがあったって考えをするのはナンセンスなんだと俺は思う。
気にするな!どんまい!
今はなき祖父に聞いた話だけど、支那戦線では普通に略奪とか強姦はあったみたいだよ。
今考えれば嫌な話だけど、当時の世界の民度ではしょうがないと思う。
日本兵だけじゃなくて米兵だって普通に行なっていたんだから。
日本兵の幽霊は雰囲気出てる。
※27
文官政治をうたってる日本が軍人を誉めるわけにもいかんのだろう。
平和ボケした市民に文句言われながらも任務を全うするのが正しいあり方だ。
ただ個人的には同意見でやはり誉めてもいいんじゃないかなって思ったりする。
兵士1人が日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る予備の日本刀を持ち、
以下略
何故わざわざ荒れる話題にからみ続けるのか
>>12
>>16
は会田 雄次「アーロン収容所」がソースかな
エピソードをいっぱい読みたかったのに
途中から画像スレになっちゃってるのが
ちょっと残念だったな
※49さんなんか、とばっちり受けてますね・・・
ホントすみません。
※50.さんもすいません。内容しか覚えてなくて
TVの方はNHKスペシャルか、証言記録って番組のどっちかだったと思います。
本は父が持ってた物なので、出版社はNF文庫かもしれません
>>102
B-52でけえええええ
※53
当時の日本兵の軍服をよく見てみるといい。
あれは一度着込んだら直ぐに脱げない作りになってる。片手じゃ外せないんだよ。
レイプしようとして捕まえても脱いでる間に逃げられるわ。
日本人になりすまして暴れまわってた朝鮮人日本兵なら居たみたいだが。
あと※9みたいなのは支那共産党のプロパガンダで相当使い古されたネタだ。
まあ分かっててやってるんだろうけど。
南京大虐殺についてはもう随分研究が進んでるし、あったと主張してる中国側からは結局決定的な証拠は出ていない。
写真や映像は尽く捏造だった事が既に証明済み。
無かったということを証明することはできんよ、悪魔の証明になってしまうからね。
まあ当時大量に現地に居た世界各国の記者達からも証拠写真の一つも出てこないってのは決定的じゃないかね。
20万の人口をどうやって30万人分も殺せるのか?
虐殺があったというのならその間、中国軍はどこで何をやっていた?
30万もの人間を軍が到着するまでに皆殺しにした挙句綺麗サッパリ跡形も無く消したとでも言うのか?
戦後の南京の人口は25万人だそうだがこいつらはどこから来た?
ちなみに支那共産党が主張するような残虐な殺し方は、「通州事件」で実際に日本人がやられてる。
たぶん自分達ならこうするから相手もそうだろうと考えて嘘八百並べてるんだろうな。
結構はじめてみるコピペ多くてびっくり
こんなにもあるのか 自分でも探してみようかな
南京大虐殺を経験(笑)とかID:UVQDJpge0は共産中国人か反日朝鮮人ってことでいいの?
日帝最強だな(笑)
27は鳥肌だな
荒れる原因になってるからID:UVQDJpge0はもう書き込まないほうがいいんじゃないか?
一応外務省の公式見解も貼っておこう
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/08.html
皆さん品のあるいいお顔ですね。私たちの先祖は厳しくも美しい…今の政治家とか有名無名で活躍してる人達の顔つきはなんとも見ていたくない顔ばっかり。
証言なんて証言者の立場や、その時点の時勢で幾らでも変わる。
左翼全盛の頃に書かれた日支事変の体験談なんて、人民解放軍が勇敢無比、規律正しい武士道の亀鑑であったかの如く書かれている。行った事も無い戦線の体験談を証言しちゃう奴も居る。
裏打ちする物証の無い証言なんて無価値だよ。
中瀬泝 大佐
第29代 戦艦伊勢の艦長。
エンガノ岬沖海戦(レイテ沖海戦)において数十回に及ぶ米艦載機の爆撃・雷撃をすべて
取り舵による左への方向転換で回避する神がかり的な操艦指示を行い戦艦伊勢を守り抜いた。敵対したハルゼー大将は、「老練なる艦長の回避行動により、ついに一発の命中弾も得ず」と驚嘆した。
もっともこれには艦長の発令以下、副長の復唱、操舵長の絶妙なタイミングでのあて舵の発令が功を奏したともいえる。
もし南京大虐殺が本当にあったなら日本兵は最強
人数とか調べてみればやべぇってなる
じゃあ三笠宮殿下の発言を
最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。
また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員)
【パラオの民間人を救うために玉砕した日本兵の話】の後日談
あのピースビートの辻元清美が、「こないだパラオへ視察に行ったら
日本兵のせいで家族が殺された」と、パラオのお婆ちゃんから
罵倒されたわ~・・・と、嬉しそうに嘘をブログで書いた。
あのブログ、今でもあるのかなー。
不死身の鬼貫
高校二年の担任が日教組とは正反対の右翼的な考えの先生で、薦められて坂井三郎さんや岩本徹三さんなどの戦記を読み漁った。
バロン西さんとか、もう本当の武士だよ。
斜め銃の画像ください^q^
なんで途中からミリオタが出張ってるんだようぜえ
『真崎甚三郎日記』より
(一九三八年)一月二十八日 金 晴
九時より約一時間散歩。
十一時江藤君来訪、北支及上海方面の視察談を聞く。同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、今回も主なる責任者の談を交 へて研究せり。従て同君の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。
(『真崎甚三郎日記 昭和十一年七月~昭和十三年十二月』 P263)
四月一日 金 晴
塚原君四時半に来訪、予を伴ひ共に築地四丁目藍亭に至る。上海毎日新聞社長深町君を主賓として其の談を聞けり。会する者小寺、米田、森及勝次なり。別に耳新しきことあらざるも軍の不統一、掠奪強姦の例、支那が降伏せざること等に関する談話なりし。十一時に米田、森等と共に帰宅す。十二時まで語る。
(同 P291~P292)
※73
これ理由に南京事件あったとかホザくバカが多いんだけどさ。
三笠宮が参謀として南京にいたのは1943年~44年。
1937年の南京事件とは何の関係もない
さらに
『青年将校から聞いた』
『【満州】での映画を見た』→南京と全く関係ない場所の【映画】
信ぴょう性皆無だぜ、これ
かつて「極東の憲兵」と言われ、アジア・南米から敬意を表され同時に欧米から恐れられていた日本軍
米を背負ったまま餓死っていうのが感動した
そのほかの話も凄く良かったのに、な ん で 途中から戦闘機の画像スレになってやがるんだ
冷めたわ
>>80
この映画って、大方「黒い太陽731」でも見ちゃったんじゃねーの?
さらにその原作の「悪魔の飽食」を読んじゃったとかさ。
映画が中華産、原作者が共産党シンパってだけで信憑性あるわけねーw
ソースどころか真偽判定まで※46に出てるのにいつまでグダグダ言ってんだよ
個人的には戦時中だから民間人の犠牲や略奪強姦もあったんだろうな
何処の国にも屑はいる
おっと途中で送信してしまった
無かったとは言い切れないからな残念ながら
だがそれをダシにして糞ったれな真似をする奴は
敵味方関係無く命をかけて戦った兵士と全ての犠牲者の尊厳を踏みにじる事行為だ
ろくに防空も出来ない
輜重など知らない
資源もない
仮に確保しても輸送手段考えていない
そのくせにアメリカに戦争売ったところがすごい
ちなみに
ルール工業地帯における高射砲=日本全土に配置された高射砲
これ豆な
72. 名前:ゴンベイさん 投稿日: 2010年04月06日 00:18 ID: 6gnzeGsh0 [編集]
インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが味方じゃないことは確かなので
銃をそちらに向けたとき、上官に殴り飛ばされた。
何がなんだかわからなかったが不思議なことに、
パキスタン側でも銃声がやんでいた。
歌声の主は数人の年寄りで、われわれに気づかないのか
旗を持って一列で歩いてきていた。
われわれ側もパキスタン側もその数人のお年寄りが通り過ぎて見えたくなるまで
一発の銃弾も発射しなかった。
結局その日から2日間は戦闘は再開されなかった。
停戦命令も出ていないのにどうして戦闘がやんだのかわからずに、
上官に聞きに言った。
その年寄りたちが歌っていたのは日本の軍歌で
持っていた旗は日の丸だということを聞いた。
その話を聞いてその夜は泣いた。
ものすごく泣いた。
その年寄りたちは第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに来ていたのだと知った。
こんな危険地帯なのに、第二次世界大戦から何年もたっているのに、
戦友を弔うためにこんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。
あとから知ったが、パキスタン側もそれが日本人で
かつてインド(パキスタン)独立のためにイギリス軍と戦った人たちだと知って
敬意を表して戦闘を中断したそうだ。
この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。
たくさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。
何年もたって、日本のお酒が飲めるようになって、
サクラを見ながら飲んでいたとき、サクラの花びらがコップに入った。
それを見て急に涙が出てきた。
あの年寄りたちのことを思いだした。
日本人が本当にうらやましい。
団塊ジュニアの私の子供の頃はまだ戦後30年あまりで、小学二年の担任が定年間近の戦争帰りの老教師で戦争体験を沢山話してくれた。
左右の指が一本ずつなかったり、背中・うなじ・右足と至るところに傷痕があり、勇ましい話から戦後数年かかって復員するまでの話など壮絶な話でもユーモアを交えて話してくれたのでクラスのみんなが先生の話を楽しみにしていた。
指がなくて全身傷痕だらけの先生が話すとどんなことでも説得力があり、クラスにはイジメなど一切なく「河合先生みたいになりたいな~」と思う生徒も多く、実際に一昨年の同窓会ではクラス40人中6人が先生になってた。
普通の市立の小学校にもかかわらずそのクラスの大学進学率8割を越えてた。
何か言葉にできないけど、戦争体験者は凄いよ。
日本軍の幹部連中の性根の腐り方
逃げ腰、責任転嫁には本当にウンザリするが、
兵士には凄まじい人が大勢居るし、
戦闘機や戦艦の名前はやたらカッコイイんだよな
そういえば、この日本軍幹部の腐り具合って
戦後の日本のあちこちにしっかり残ってるよな
東電の幹部連中とか驚くくらいそっくり。
どんな選択ミスしようが一切責任取る気なし、身内のミスは追求しない
下っ端が死ぬのはどうでもいい
バカ大衆は大本営発表を黙って信じてればいい、みたいな態度
完全に生き写し
うちの親父は昭和8年生まれ。戦争に入ってないが疎開はしたそうだ。
親父曰く「軍国少年だった」そうで、子供の頃床屋の親父が
「中国でちゃんころ(って言ってたかな?)の首を日本刀で切り落とすと、そのまま少し走ってから倒れるんだぜ」と言っているのをきいて
「こういう勇ましい軍人になりたい」と思ったそうだ。
ホントに床屋の親父が生きてる人の首を切り落としたか、その体が走ったかは今となってはわからん。子供相手の与太話だったのかも知らん。
ただ、親父がそういう話を聞いて「立派な軍人になりたい」と思ったのはホントだぞ。
「昔は全員がそう思っていたはず。そういう教育を受けたから」だそうだ。
写真の紫電って本当は紫電改じゃないの?
紫電って強風からフロート外しただけじゃなかった?
紫電は中翼、紫電改は低翼と覚えてたんだけど。
写真の機体、低翼に見えるんだけど紫電なの?
兵士として戦争体験を楽しく勇ましく話す方は、死期が近づくにつれて、長い間胸の奥底に秘めてきた、自らの犯した罪を語り始める。戦死した戦友たちが毎晩やって来て、ベッドの周りに立つんだと。何も言わず、じーっと自分を見る様が「それでいいのか?」と自分を問い詰めてるみたいなんだと。そんなこと話しながら、あの末期癌のじいさんは亡くなっていったなぁ。
あの時期に朝鮮半島滅ぼしておくべきだった
チョンを根絶やしにしておけば、ちょっとは今の世界もマシだったろうに
風景画像や今回の記事とか興味津々で、一番注目のブログになってます。
今後もよろしく。
「坂の上の雲」でも出てくる超人的なエピソード!
冬はマイナス40度になる極寒の戦場(冬は休戦みたいなもん)。日本兵に与えられた防寒具は、せいぜいマイナス20度に耐えられる程度。
マイナス18度の冷凍庫での作業をしたことあるからその凄さがわかる。
※93
なんかすぐにお前みたいなこと言う奴がいるけれど、大日本帝国の臣民として日本陸海軍に従軍して勇敢に戦った朝鮮人日本軍人が居る事を忘れてはいけない
独立運動が決して多数派でなく、彼らのほとんどが日本人たる自覚の元に生きていたことも
無論、今の韓国北朝鮮に反感を覚えるのは判るけれどもね
北の金将軍は旧日本軍大好きだけどね
自軍のモデルにするくらいだから
中野学校も好きなんだってさ
※93
むしろ緩衝地帯という役割だけ与えといて併合しなかった場合の歴史を考えると面白い
果たして併合されなかった半島は国家としての体裁は保てただろうか?
まあ在日のほうが国内問題だから現実にはもっとやっかいな話だよな
爺ちゃんが、制裁を行っていた上官に反撃したら、その上官はもう何もしてこなくなったんだと。
こういう上官みたいな奴って、現代の日本に脈々と受け継がれてるよね。
731石井部隊 終戦時実験データーをアメリカに渡し戦後長生きした男石井四郎
※9
それもしかして金子さんのインタビューじゃない?オレも見た事があるよ。
確かYOU TUBEで見た気がする、まだあれば其処で見れるんじゃないかな
みなさん知っての通り
『 金子 』の姓は、日本人の名では無い。
そして彼らは当時、実際、本当にレイプ事件を頻繁に起こしている。
三国人企業の電通がテレビを牛耳っている日本では全く報道されないが
当時を知る現地の原住民は正直に有りのままを話してくれる。
日本兵の中に混じっている朝鮮人達は本当に酷かったと。
彼等は日本人と顔が違うから、すぐに分かると。
【 それらの犯罪を全て、三国人達は日本兵の仕業にして罪をなすりつけてる訳です 】
恥ずべき事をした時や「 最後の時 」に実際に切腹をしていた様な異常な迄に厳しく自分を律する大和魂やサムライ魂の本物が当時は、まだ生きていましたた。
ほんの60年位前までは本物の大和魂、サムライ魂は生きていたんです。
ほんの60年位前までは本物の大和魂、サムライ魂は生きていたんです。
それで尚且つ、世界でも有名な程の厳しい軍規の旧日本軍の将兵達、そんな彼等が
日々の鍛錬を惜しまず、本物の武士道に生きていた大和魂を持った侍が
ニヤニヤしながら白昼堂々レイプしますか?
そんな今迄自分の必死の努力、誇り、生き様をドブに捨てる様な事をしますか?
俺達に「日本軍は特亜に酷い事をしてきた」と、そう教えてきた日凶組の教師達
が実は、みんな「 三国人 」だったではないか。
「 日本軍は内部から腐り果てた組織 」そう教えたのは通名で日本人名を勝手に騙る
犯罪者の三国人だったではないか。
日狂組自体が工作員組織そのものだったではないか。
残念な事に日本の教科書は本当の日本の歴史を教えません。
戦後にGHQが、どれだけ洗脳工作をやって来たか、どれだけ検閲で真実を握りつぶして来たか
知るべきです。
置き土産がテレビ、新聞、日狂租等の洗脳、先導の工作活動なんだから
彼等の言う事を鵜呑みにする事自体が間違っています。
http://www35.atwiki.jp/kolia/
>91
つーか、紫電改は通称で、紫電21型のこと。
設計はかなり変わったが、紫電シリーズとみなされてた。
まー、写真の「紫電」改21型って表記もおかしいけどな。
諸葛亮孔明みたいな、氏名と字を一緒に書いた
あり得ない表記だ。
紫電21型、もしくは、紫電改、って書かないと。
※102
まあいろんな日本人がいただろうさ。
俺の爺ちゃんのように、部下にも優しく、何一つ威張ろうとしなかった立派な人もいたし、
俺の爺ちゃんに制裁を加えるような意地汚い奴もいる。
毎度のことながら、こんな記事で軍靴の足音が聞こえてきたり日本は昔こんな酷いことを云々とかの流れに持ってく輩が居ることに寒気がするね
同じ土俵に乗って声高に叩くこたぁない。そもそも虐殺虐殺言い出す輩から当時の大陸事情を語るに欠かせないゲリラや便衣兵が出てこない時点で情報が偏り過ぎてるわ
次やるときは勝つ
どんだけ持ち上げたところで、復員者のほとんどが社会復帰の難しい「昭和の怖いオヤジ」になったのは知るべき
右派にせよ左派にせよソースのうさんくささは異常
※105
軍靴の足音が聞こえてる輩はどこにもいないような気がするのだが……
矢弾尽き果て散るぞ悲しき 栗林忠道
カッコイイです!!
>>10の「歓迎する」ってのは言葉通りに読んじゃダメなんだよね?
皆さん、一度でもいいから光人社のノンフィクション文庫を読んでみてください くだらない仮装戦記よりも遥かに面白い オススメは高崎伝の「最悪の戦場に奇跡はなかった」泣く子も黙る日本陸軍最強とうたわれた第18師団の一兵士の体験談です。これを読めば少しでもあの戦争の真実がわかります
お前らこんな話題で盛り上がれんだ 先人の血の犠牲の上にある現在の平和をもっと有り難く思わなきゃな 少なくとも引きこもったりオタクしてる場合じゃ無いぞ
昔の人はすごかったな~と口をあけてバカ面晒している間に
優秀な韓国人により戦わずしてまた敗戦ですね。
戦争も切羽詰ってくると街のヤクザやチンピラも徴兵されるようになる。
まぁ、普段の素行が悪いだけで国に逆らおうっていう連中じゃないから
軍隊に入隊するんだけれど、そこで問題になるのが彫り物。
陸軍のことはわからないが、当時海軍にいたウチのじいさんの話だとそう
いう連中はやっぱり軍隊に入ってもあまり態度が良くないのだが背中の
彫り物を軍規にしたがって落とすと一発でおとなしくなったそうだ。
その刺青の落とし方とは希硫酸で背中をこすり洗いするというもので、数
人で押えつけておいて一気にやるんだとか。ものすごい悲鳴をあげて以後
はすっかり気のいい若者に戻ったとか。
名前がステキ
車やバイクも漢字二文字で付けろよ
※101『 金子 』の姓は、日本人の名では無い。
こういうデマを確認もせず流す奴が一番たちが悪い。
http://rokusan.comoj.com/ln4.html
こういうの見たらやっぱ戦争って美しいと感じるよな
読み書きできるとか計算ができるとかは、日本はもっと昔から
幅広い層があたりまえに出来てたみたいだね
外国じゃ王様すら読み書きできない、なんてザラだったとか
もう10年くらい前になるんだけど、深夜にやってた「特攻隊生き残り」の回顧録ドキュメント番組がめちゃくちゃかっこよくて泣けた。
職業軍人と招集された素人軍人では特攻作戦のとらえ方が全然違うんだよね。
空が大好きで、飛ぶには軍に入るしか無かった時代、軍パイロットってだけで誇りに満ちあふれているんだよ。
でも、実際戦局は悪化する一方で、何の成果も上げられずジリ貧のまま犬死するしかない状況ってのが、飛行機乗りにはたまらない屈辱だったっていうんだよ。
大本営から特攻作戦が発表されたとき、もう職業飛行機乗りは余りの崇高な使命に身震いしながら感涙を流したというんだよ。洗脳されてたという意味じゃなくて、やっと、飛行機乗りになって、やっと敵に一矢報いるチャンスが来た、と。ずるずる犬死するしかなかった人生に、やっと崇高な死に場所が見つけられた、と。
ところが実際軍としては職業パイロットは軍の宝だから失うわけにはいかない。不慣れな学徒兵から消耗戦につぎ込んでいく。
ここでまた「何故俺たちに行かせてくれないんだ!」と歯ぎしりして悔し涙を流すんだ。目の前で散っていく半人前をただただ見送るしかないんだよ。
特攻隊の生き残りを生き恥的に言う、言われるっていうのは、ここまで深い意味があってなんだよな。
そんなじいさん達が熱く語る話って、もう戦争云々より、ほんとに純粋な飛行機少年のそれなんだよ。
あのドキュメント番組、マジでもう一回みたいな。