明治34年4月29日 午後10時10分
皇孫 迪宮(みちのみや)裕仁親王殿下
のちの昭和天皇 御降誕。

このお写真は明治37年頃で
当時は男子も女子の服装で御幼少時代を送られた。

陛下は生後70日目に宮中の長年のしきたりによって
『里子』に出された。
皇孫御養育主任になったのは、人格高潔で
明治天皇のご信任篤い枢密院顧問官
伯爵川村純義 海軍中将(のち大将)であった。

ご健康には細心の注意が払われたが、
日常のご生活は、わがままなお振舞いは許されない、
厳しいものであった。

明治39年頃

中 光宮宣仁親王殿下(高松宮)
左 淳宮雍仁親王殿下(秩父宮)
右 迪宮裕仁親王殿下(昭和天皇)

前年に第三皇孫 光宮親王が御生まれになった。

ご兄弟でもご性格は正反対で
迪宮殿下は沈着さと物に動じないご性格に対して
淳宮殿下は「やんちゃ」で「手がかかる」皇子で、
侍女にかみついたり乱暴が過ぎる面があったようである。

後年 秩父宮殿下は、御自分の幼児期の史料を御覧になり
まったく恥ずかしくなる、と記されている。

明治44年5月31日

学習院初等科の制服の御兄弟

中 迪宮裕仁親王殿下(昭和天皇)
左 淳宮雍仁親王殿下(秩父宮)
右 光宮宣仁親王殿下(高松宮)

このころの淳宮殿下は、勇猛果敢なる『勇』の御方であり
光宮殿下は、思慮極めて周密なる『知』の御方であった。

大正元年9月

陸海軍少尉に任官された
御年11歳の皇太子殿下(昭和天皇)

この年明治天皇が崩御され、皇太子嘉仁親王が践祚
大正と改元された。

迪宮殿下は皇太子となられ、東宮内府の監督のもとに
新たに侍従と侍従武官がついた。

また、この年の12月
皇孫御殿をお出になられて高輪の東宮御所に移られた。

   御写真集 2

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