反対派にも聞いてほしい その2
昨日ぐらいから、ツイッターで当サイトの記事が紹介されたようで、ものすごく多くの方のアクセスをいただきました。ツイートをたどっていくと、様々なご意見を拝見できましたが、概ね好意的な評価をいただき、大変ありがたく感じています。
皆さんの発言を読む限りでは、私が感じていた違和感のようなことは、多くの方が感じていらっしゃったようで、まあ、私が特別鋭い視線でどうこう、というよりも、単に皆さんが感じていたことを私も感いていただけ、と言う性質のようです。
さて、
こうして多くの方にご意見をいただきましたが、その中には記事に批判的なご意見もあります。
ただ、どうも私のいいたいことと、やや違う解釈をされた方がいらっしゃるようなので、その点を補足したいと思います。
批判をするな、といっているのではない
マスゴミのような言葉を使うのはどうだろうか?
というようなことを書くと「じゃあ、報道について批判するなと言う意味なのか」という風に捕らえる方もいるでしょうし、「創価」と言う言葉を無配慮に使うなといえば、「創価」を批判するなというのか、という考える人もいらっしゃるでしょう。
でも、それは、私が記事で書いたことではありません。
当該記事でも触れましたが、「批判をするなということではない」のです。
そもそも、その記事でわざわざ「創価」と言う言葉の後に「w」とつけたのかといえば、こうした表現が「創価学会にかかわりがあることそれ自体を嘲笑する」という意味だと考えるからです。
私がなぜこれを取り上げたのかといえば、「創価学会の関係者にも反対者はいるのに、それはどうなんだろう」という考えがあるからです。
創価学会の表現規制の問題(統一教会もキリスト教も同じです)でいえば、創価学会の存在を無視できないし、その支持を受けている事実上の政治部門である公明党の影響力を無視できません。
創価学会、公明党(統一教会やキリスト教の一部)に主張にあやまりや行き過ぎがあるのは明らかで、それについての批判は当然です。私も何度か取り上げているし、統一教会機関紙の社説にもかなり強い内容で批判をしています。
ただ、同じ批判をするのにも、「創価学会、とりわけ婦人部の姿勢は不誠実である」とか、「創価学会の宗教的な思想を法律や条例に押し込もうとしている」という主張を一定の根拠を元に展開するのであれば、根拠があるのだから正当な「批判」であって、私達がもっとも力を入れるべきことです。
ですが、「創価学会がアニメや映画を韓国に売り渡そうとしている」とか、「創価が社会を支配しようとして陰謀をたくらんでいる」とか、そういう「その事実を証明することが困難であること」を「あたかも当然の既知の事実であるかのように記事で書くこと」については、それをさも事実であるかのように取り扱うのはまずいのではないか?という事を私は言いたいのです。
こういうことを軽々しく発言することは好ましくないと私は思うし、「学会員や公明党の議員の中にいる(あるいはいるかもしれない)反対派や慎重派の存在を少しは考えてあげてほしい」という考えは、少なくとも私個人としてはそれほど間違いだとは思っていません。
個人が創価学会やユニセフを「日本を売り渡す売国奴」だと思うのは勝手ですが、その考えを他人が常に共有しているとは思わないでほしいし、事実関係を証明できないようなことは、例えブログやツイッターであっても。軽々しく決め付けるような発言は控えてほしい、というのが私の考えです。
いろいろな証拠や論拠を固めたうえで、自己の責任としてあえて、そう主張するのは自由です。
ですが、同じ反対派の人間の中が必ずしもそうした考えに同意するとは思わないでほしい、というのが記事の趣旨です。
これはマスコミについても同じで、私達が、例えば毎日新聞を「変態新聞」と呼ぶことをさも当然であるかのように無思慮に使い続ければ、毎日新聞の中で規制反対論を張る記者をも罵倒することになるのと同じです。
例えば、毎日新聞がかつての偏向記事時代に戻り、オタク叩きを増長するような記事を書いた時に、
「これでは、変態新聞といわれてもしかたなかろう」とか「中立を欠く変態新聞的な記事だ」というような批判をするのは当然ですが、何の脈略の無く「あの変態新聞が…」のように書けば、それに違和感を感じる人も多いでしょうし、反対派の中にも不快に思う人も出てくるでしょう。
マスコミの中にも、反対派記者やオタク記者は確実に存在します。
朝日新聞の小原篤記者、読売新聞の福田淳記者、毎日新聞の「開かれた新聞委員」田島泰彦教授や臺宏士記者など、かれらが書いた記事や社内での啓蒙がどれほど重要な働きがあったかわかりません。
特に毎日新聞のお二人は、毎日新聞を規制一辺倒から慎重な意見を載せる方向に転換させた功労者でもあります。
「マスゴミ」「カスゴミ」という言葉を使う時、こういった方々の存在について何も思いを致さないのですか?と私は、その言葉を見るたびに感じるのです。
私達が「マスゴミ」と言う言葉を使う時、私達は報道機関の中の検閲派を罵倒すると同時に、そうしたわれわれの貴重な味方も同時に罵倒していることになるはずです。
個人が、あるマスコミの報道について「これだから、カスゴミなどといわれてしまうのだ」と言う論評をするのは構わないでしょう。
ですが、恒常的にマスコミを「マスゴミ」といい続けることは、はたして適切な行為といえるのか?
と言う点にもう少し考えてみてもいいのではないでしょうか?
少なくとも私はそう考えています。
検閲に反対する人の中には、創価学会の学会員であったり、自民党員であったり、マスコミ関係者であったり、宗教関係者だったりする人もいます。
自民党の行為や創価学会の主張が愚かであり、誤っていると思うならそう書けばいいのです。
「創価学会の主張はコレコレの理由で愚かであるといわざると得ない」と。
しかし、それが「ゆえに、創価学会に属する人間は愚かであるから、罵倒してよい」という認識につながるなら、「ちょっとそれは待ってほしい」というのが私の本音です。
批判相手が読むかもしれないということを忘れていないか?
なんで、こんなことを記事にしたのかといえば、私は規制に反対する仲間を増やしたいのであって、敵はできるだけ作りたくないと思うからです。
今回の非実在青少年問題等を通して、私達は「創価学会」や「マスコミ」等の、従来「敵」として扱われたの中に味方になりえる人々が含まれることに気が付きました。
私達はこうした人々を説得し、自陣に引き入れ、過ちを訂正し、われわれとの対話としての「チャンネル」をお願いしなければならない立場です。
それなに、当然のように「カスゴミw」「創価は売国」などといい続けていれば、本来味方となるべき人間まで敵に回すことになりかねません。
批判はあくまでも主張や論拠、論理に対して行われるべきです。「報道の論拠に誤りがある」というのであれば、個人攻撃にはなりませんが、「所詮カスゴミ」等と書けば、マスコミ関係者を「一括して」個人攻撃するに等しい行為だと私は考えます。
かつて平和運動華やかなころ、自衛官を税金泥棒、人殺し、国設暴力団と罵倒する集団や組織がたくさんありましたが、こういう行為は、それと対して差が無いものと私には感じられます。
「反対派の意見を理解しようとしていた人々がこういう言葉に触れた時、どういう気分になるか、そのことに最近やや配慮が欠けて来はじめているのではないか?反対運動が長引き、先が見えない中で、こういうところで疲れが見え始めているのではないか」というのが、ここ数ヶ月の私の感想です。
私が感じた違和感とは、こういうことです。
反対運動の売りは「説得力」
検閲反対運動が、多くの議員や関係者に受け入れられたのも、私達の主張が、検閲派に比べ説得力があるからです。
このことは、都議会民主党の議員が新聞記事で触れていますし、直接の陳情で感じた方も多いでしょう。
検閲派が、科学的根拠もなく、統計的事実もないことを根拠に思い込みで法案を作成した際に、その嘘を暴き、感情論であることを指摘し、その結果説得力が生まれ、今の状況があるはずです。
確かに、われわれから見て「悪」である組織や個人を罵倒することは快いでしょう。
でも、その後で何が残るのでしょうか?
相手を論破し、人格を否定し、叩きのめしても、結局検閲が認められたら意味がありません。
怒りを表明するために、強い言葉を使ったり、厳しい物言いをするのは当然です。
ですが、怒りに任せて何も考えず、感情のままにそうした言葉を使うのと、こうしたことの意味を理解した上であえて使うのとでは意味がぜんぜん違うと考えます。
私がいいたいことをまとめれば、
「あなたの発言を「敵」や、「将来味方になる敵」が読んでいる可能性についても、今よりもう少しだけ考えてほしい。その上での発言であれば、あとはあなたの責任において自由です」
ということです。
このことについて皆さんがどう受取るかは、私には語る資格はありません。
ただ、こういう考えの人間も反対運動派の中にいることをご理解いただければうれしいです。
皆さんの発言を読む限りでは、私が感じていた違和感のようなことは、多くの方が感じていらっしゃったようで、まあ、私が特別鋭い視線でどうこう、というよりも、単に皆さんが感じていたことを私も感いていただけ、と言う性質のようです。
さて、
こうして多くの方にご意見をいただきましたが、その中には記事に批判的なご意見もあります。
ただ、どうも私のいいたいことと、やや違う解釈をされた方がいらっしゃるようなので、その点を補足したいと思います。
批判をするな、といっているのではない
マスゴミのような言葉を使うのはどうだろうか?
というようなことを書くと「じゃあ、報道について批判するなと言う意味なのか」という風に捕らえる方もいるでしょうし、「創価」と言う言葉を無配慮に使うなといえば、「創価」を批判するなというのか、という考える人もいらっしゃるでしょう。
でも、それは、私が記事で書いたことではありません。
当該記事でも触れましたが、「批判をするなということではない」のです。
そもそも、その記事でわざわざ「創価」と言う言葉の後に「w」とつけたのかといえば、こうした表現が「創価学会にかかわりがあることそれ自体を嘲笑する」という意味だと考えるからです。
私がなぜこれを取り上げたのかといえば、「創価学会の関係者にも反対者はいるのに、それはどうなんだろう」という考えがあるからです。
創価学会の表現規制の問題(統一教会もキリスト教も同じです)でいえば、創価学会の存在を無視できないし、その支持を受けている事実上の政治部門である公明党の影響力を無視できません。
創価学会、公明党(統一教会やキリスト教の一部)に主張にあやまりや行き過ぎがあるのは明らかで、それについての批判は当然です。私も何度か取り上げているし、統一教会機関紙の社説にもかなり強い内容で批判をしています。
ただ、同じ批判をするのにも、「創価学会、とりわけ婦人部の姿勢は不誠実である」とか、「創価学会の宗教的な思想を法律や条例に押し込もうとしている」という主張を一定の根拠を元に展開するのであれば、根拠があるのだから正当な「批判」であって、私達がもっとも力を入れるべきことです。
ですが、「創価学会がアニメや映画を韓国に売り渡そうとしている」とか、「創価が社会を支配しようとして陰謀をたくらんでいる」とか、そういう「その事実を証明することが困難であること」を「あたかも当然の既知の事実であるかのように記事で書くこと」については、それをさも事実であるかのように取り扱うのはまずいのではないか?という事を私は言いたいのです。
こういうことを軽々しく発言することは好ましくないと私は思うし、「学会員や公明党の議員の中にいる(あるいはいるかもしれない)反対派や慎重派の存在を少しは考えてあげてほしい」という考えは、少なくとも私個人としてはそれほど間違いだとは思っていません。
個人が創価学会やユニセフを「日本を売り渡す売国奴」だと思うのは勝手ですが、その考えを他人が常に共有しているとは思わないでほしいし、事実関係を証明できないようなことは、例えブログやツイッターであっても。軽々しく決め付けるような発言は控えてほしい、というのが私の考えです。
いろいろな証拠や論拠を固めたうえで、自己の責任としてあえて、そう主張するのは自由です。
ですが、同じ反対派の人間の中が必ずしもそうした考えに同意するとは思わないでほしい、というのが記事の趣旨です。
これはマスコミについても同じで、私達が、例えば毎日新聞を「変態新聞」と呼ぶことをさも当然であるかのように無思慮に使い続ければ、毎日新聞の中で規制反対論を張る記者をも罵倒することになるのと同じです。
例えば、毎日新聞がかつての偏向記事時代に戻り、オタク叩きを増長するような記事を書いた時に、
「これでは、変態新聞といわれてもしかたなかろう」とか「中立を欠く変態新聞的な記事だ」というような批判をするのは当然ですが、何の脈略の無く「あの変態新聞が…」のように書けば、それに違和感を感じる人も多いでしょうし、反対派の中にも不快に思う人も出てくるでしょう。
マスコミの中にも、反対派記者やオタク記者は確実に存在します。
朝日新聞の小原篤記者、読売新聞の福田淳記者、毎日新聞の「開かれた新聞委員」田島泰彦教授や臺宏士記者など、かれらが書いた記事や社内での啓蒙がどれほど重要な働きがあったかわかりません。
特に毎日新聞のお二人は、毎日新聞を規制一辺倒から慎重な意見を載せる方向に転換させた功労者でもあります。
「マスゴミ」「カスゴミ」という言葉を使う時、こういった方々の存在について何も思いを致さないのですか?と私は、その言葉を見るたびに感じるのです。
私達が「マスゴミ」と言う言葉を使う時、私達は報道機関の中の検閲派を罵倒すると同時に、そうしたわれわれの貴重な味方も同時に罵倒していることになるはずです。
個人が、あるマスコミの報道について「これだから、カスゴミなどといわれてしまうのだ」と言う論評をするのは構わないでしょう。
ですが、恒常的にマスコミを「マスゴミ」といい続けることは、はたして適切な行為といえるのか?
と言う点にもう少し考えてみてもいいのではないでしょうか?
少なくとも私はそう考えています。
検閲に反対する人の中には、創価学会の学会員であったり、自民党員であったり、マスコミ関係者であったり、宗教関係者だったりする人もいます。
自民党の行為や創価学会の主張が愚かであり、誤っていると思うならそう書けばいいのです。
「創価学会の主張はコレコレの理由で愚かであるといわざると得ない」と。
しかし、それが「ゆえに、創価学会に属する人間は愚かであるから、罵倒してよい」という認識につながるなら、「ちょっとそれは待ってほしい」というのが私の本音です。
批判相手が読むかもしれないということを忘れていないか?
なんで、こんなことを記事にしたのかといえば、私は規制に反対する仲間を増やしたいのであって、敵はできるだけ作りたくないと思うからです。
今回の非実在青少年問題等を通して、私達は「創価学会」や「マスコミ」等の、従来「敵」として扱われたの中に味方になりえる人々が含まれることに気が付きました。
私達はこうした人々を説得し、自陣に引き入れ、過ちを訂正し、われわれとの対話としての「チャンネル」をお願いしなければならない立場です。
それなに、当然のように「カスゴミw」「創価は売国」などといい続けていれば、本来味方となるべき人間まで敵に回すことになりかねません。
批判はあくまでも主張や論拠、論理に対して行われるべきです。「報道の論拠に誤りがある」というのであれば、個人攻撃にはなりませんが、「所詮カスゴミ」等と書けば、マスコミ関係者を「一括して」個人攻撃するに等しい行為だと私は考えます。
かつて平和運動華やかなころ、自衛官を税金泥棒、人殺し、国設暴力団と罵倒する集団や組織がたくさんありましたが、こういう行為は、それと対して差が無いものと私には感じられます。
「反対派の意見を理解しようとしていた人々がこういう言葉に触れた時、どういう気分になるか、そのことに最近やや配慮が欠けて来はじめているのではないか?反対運動が長引き、先が見えない中で、こういうところで疲れが見え始めているのではないか」というのが、ここ数ヶ月の私の感想です。
私が感じた違和感とは、こういうことです。
反対運動の売りは「説得力」
検閲反対運動が、多くの議員や関係者に受け入れられたのも、私達の主張が、検閲派に比べ説得力があるからです。
このことは、都議会民主党の議員が新聞記事で触れていますし、直接の陳情で感じた方も多いでしょう。
検閲派が、科学的根拠もなく、統計的事実もないことを根拠に思い込みで法案を作成した際に、その嘘を暴き、感情論であることを指摘し、その結果説得力が生まれ、今の状況があるはずです。
確かに、われわれから見て「悪」である組織や個人を罵倒することは快いでしょう。
でも、その後で何が残るのでしょうか?
相手を論破し、人格を否定し、叩きのめしても、結局検閲が認められたら意味がありません。
怒りを表明するために、強い言葉を使ったり、厳しい物言いをするのは当然です。
ですが、怒りに任せて何も考えず、感情のままにそうした言葉を使うのと、こうしたことの意味を理解した上であえて使うのとでは意味がぜんぜん違うと考えます。
私がいいたいことをまとめれば、
「あなたの発言を「敵」や、「将来味方になる敵」が読んでいる可能性についても、今よりもう少しだけ考えてほしい。その上での発言であれば、あとはあなたの責任において自由です」
ということです。
このことについて皆さんがどう受取るかは、私には語る資格はありません。
ただ、こういう考えの人間も反対運動派の中にいることをご理解いただければうれしいです。
テーマ : 表現規制・メディア規制
ジャンル : サブカル