medtoolzさんは、BlogでもTwitterでも常に面白い独り言をつぶやいている。先日、陸軍と海軍の対比みたいな話をしていて、思わず私もつっこみを入れてしまった。
medtoolz on twitter 5月26日
なるほどなあ、と思った。
「陸軍/海軍」という、生活様式の差による思想の違いは、面白いと思う。
とうぜん私は実際に海軍に入ったことはありませんので、「物語上の海軍」しか知らないわけですが、海軍の船ってのは、いつも「家」ッぽい描かれ方をするように思う。お父ちゃんがいて、僕がいて、アニキがいて、弟分がいて、家がある。喧嘩しながらも一致団結して、この家の枠の中にいる、・・・・みたいな物語。
宇宙戦艦ヤマトから始まって、宇宙船物語ってのは「船の中」の人間ドラマを描いてナンボの世界だ。そこには、どうしたって逃げ出せない壁があって、一致団結しないと使命が果たせないどころか、生き延びられないという制約がある。
この 「船=家の物語」 を突き詰めた名手が富野由悠季だし、その傑作がガンダムということになるのだろう。ひきこもったり、承認願望むき出しにしたり、船から家出したり戻ってきたり、まあ基本的には「家」のドラマだ。
ただ、単なる家と違うのは、「さまよえるキャラバン」になっていること。
船の物語は、家ごと移動する。そして、動いた挙句に、真の住処、永遠の住処という「あこがれ」を探し続ける。富野作品で一番わかりやすいのは、"Space runaway" と副題が名づけられたイデオンの例だろう。
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宇宙中を逃げ回り、どこか幸せに暮らせる場所を探す。
定住者対逃亡者。キングゲイナーにまでつらなる、富野物語の真骨頂だ。
こういう「約束の土地を求めてさまよえる家」という物語は、西洋では一般的だ。なぜかといえば、聖書に「出エジプト記」という章があるからだ。
出エジプト記というのは、エジプトで奴隷労働させられていたユダヤ人が、大騒動の上エジプトを逃げ出して、イスラエルにたどり着くまで、仲間割れしながら砂漠の地を右往左往して、神様に助けられながら数十年の旅をするという歴史神話。「十戒」という映画になっているので、モーセが海を割って、その間を群衆が逃げていくと言うシーンは有名だ。
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そんでもって、結局、ユダヤ人は、カナーン人が暮らしていた芳醇なイスラエルの土地に突撃して、これを奪ってしまうのですよ。
おいおい、たんなる略奪じゃねえかと、傍から聞いていると思う。だが、ユダヤ神話の中では「カナーン人は凄い強い民族だったのに、神様が手助けしてくれたから勝ったのだ、ヤハウェの神様万歳」という神話が付いて、めでたしめでたしということになっている。
・・・まあ、その挙句に、あの中東情勢があるんだけどね。
この「本当の居場所」を探して旅する物語は、アメリカ人のよりどころらしい。
なにしろ、幸せになれる土地を求めて、はるばるヨーロッパから地球の反対にやってきた人々。そういった生まれながらの逃亡者であり挑戦者としては、定住する場所もない自分たちの未来を約束してくれる神話は、心のそこからありがたいのだろう。
そんなわけで、挑戦国家のアメリカは、宗教国家でもあるわけだ。
アメリカ開拓時代の家族ドラマを描いた、「大草原の小さな家」は、日本でも結構有名になった。これはもう、アメリカの原風景。「家族で開拓しますドラマ」の古典だ。
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そして、この逃亡劇をSFに翻案したのが、「宇宙空母ギャラクティカ」で、今ではリメイクされて『GALACTICA/ギャラクティカ』(原題:Battlestar Galactica)という重厚な名作ドラマになっている。
ただ、この作品、あまりに高度に宗教色むきだしで笑った。作られたのは、911の直後。アメリカが「アイデンティティとしてのキリスト教」に染まった時代に作られたSFドラマだった。
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こんな神話を持っている伝統があるから、アメリカ人は「挑戦」とか「開拓」とか大好き。ベンチャ企業とか、夢持ちまくり。オバマの"Change"とか"Challenge"とかの、かっこいい系の演説でアメリカ人がみんなで盛り上がったりするんだよなあ、と、ちと羨ましくも思う。
一方、日本では、他の国の土地を奪うのはご法度だ。
たぶん戦国時代までは、逃げ出すのも奪うのも結構やっていたのだろう。だが、江戸時代に「年貢納められなくてもにげちゃだめです」という、官僚主義のきまり=法度が出来て、それを200年マジメに守らされたせいで、かなり固まった。
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逃げちゃダメだ。そう、どこへも逃げないで、守り続けるのがわが国の伝統。
結局、暗黙の空気と言う奴で、「逃げるやつは裏切り者なので、袋叩きにしても殺しても奪ってもよい」・・・という暗黙のデンジャラスなルールができてしまっている。
その結果、「俺は逃げないぜ」という《周囲へのアピール》が重要になった。
いかに逃げないか、いかに逃げたと周囲に思われないか、というアピールをすることが、日本人の基本サバイバル術。だから、「保身用の官僚作文」が流行って、勇敢な戦意を語る美文を競い合うようになる。
その挙句「勝てないというホンネをいえない格好付け軍人たち」がうまれて、無残な総力戦と敗戦になっちゃったわけですが・・・・・まあ、それはそれ。
で、アメリカでは「家族」の中のルールは、家長が決めてよいことになっている。
「周囲の人?知りませんよ。ウチはウチなんです」という主義。これは、「ムラに定住する人」ではなくて、「家族で旅する人たち」である以上、当然のことなのだろう。ムラだと、周囲と喧嘩したら致命的だが、旅の途中なら別の町に行けばよいだけのことなのだから。
キャラバンを率いる指導者には、仲間を守る義務があるが、闘う方向を定める権利もある。
「十戒」で主役のモーセをやったチャールトン・ヘストンが、全米ライフル協会の会長・・・というのは、アメリカ人としては、そんなに違和感ないのだろう。日本では宗教家が武器を持つというのはありえないイメージだが、自分の信じる意見を自分の力で守るというのは、アメリカとしてはごく自然。
これが、アメリカの自治の基本だし、アメリカの保守主義の基本だ。
「海軍」もやはり、そういうところはあって、船の中でえらいのは船長だ。周囲の船と意見が合わなかったとしても、船の方針はとにかく館長が決める。
だから、館長が考えているプランこそが重要になるし、一つの船の中で「自分たちの目標像」を共有したりする。不合理なルールを繰り返していれば、船が沈むのだから、船員も必死だ。
こういうあたりが、根本的にベンチャ企業的なのかもしれない。
一方、親会社子会社孫会社と関連が繋がる企業システムには、そういう独立精神は不要。下手に反抗していると、補給物資ももらえずに餓死する羽目になる。仲間との和を大切にして、味方を作り続けないとヤバイ。裏切りも反抗も異分子も「ご法度」だ。こういうシステムは、根本的に「陸軍的」になるのかもしれない。
さらにいえば、個人経営の職人は空軍だろう。戦果は集団主義ではなく個人に付くし、自分の自由裁量が大きい。とはいえ、戻ってくる基地なり空母なりが無くなると補給も出来ずにどうしようもない。「金はやつらの決めること。飛んでいるときだけが俺の自由」という技術オタクになっていくのだろう。
こういう、「ベンチャ嗜好の海軍」というイメージの最たるものが「沈黙の艦隊」なのだろう。
かわぐちかいじは同じテーマのドラマを繰り返して描いていて、陸軍的な情況のものもあるが、この密閉された潜水艦ストーリの方が「話が締まっている」印象を与える。
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ただ、「主人公=船長」という例は、ガンダム以降少ないように思う。これは多分、松本零士からの伝統だ。
松本零士は、「船」の話も多く書いているが、根っこの部分では、「空軍の孤独な戦い」に一番憧れている模様。
「政治的な話はしらねえ、絶望的な戦局下で、最後まで意地を通すだけだ!」
という、勇敢なる滅びの美学を描いた全滅ストーリに名作が現れやすい。
(それって、デスマーチですがな。)
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この「船」と「飛行機」の要素を上手く纏めたヤマトでは、「主人公=航空機載り 兼 次期館長候補」というスタイルになる。船の行く末の責任と判断を全部負わされるわけではなく、個人技でヒーローになるおいしいポジションだ。
これを引き継いで、・富野ガンダム以降のロボットドラマは、
「船(ホワイトベース)+艦載機(ガンダム)」
という、二重構造で描かれていく。
主人公は、館長に反抗しながらも船を助ける「野党」のポジションにいる。
こうして、
「政治嫌いの主人公=空軍」 + 「帰る家を守るという正当性=海軍」 v.s. 「腐敗した味方=陸軍」
という物語構造が、ある世代の日本人男性の脳に刷り込まれていったのではないのかなあ・・・?
つまり、何が問題って、この構図だと「パイロット」になるほうが楽しそうでかっこいいから、皆さん「船長」をやりたがらないのですよ! (僕も含む)
そんなわけで、多分、「未来へのプラン」を自分で描こうとするのは「海軍=ベンチャの奴等」ということになる。
陸軍は上位下達の命令に逆らわないし、空軍はそんな先のことは考えない。
だけど、日本のベンチャって、陸軍に兵力を提供する海兵隊=派遣会社ばっかりな気もするんだよな。
・・・・せっかくの島国なのになあ、とも思うのだが。
陸軍の下っ端にいる私としてはなんともはや。
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3ToheiLog かえるところ
なんで僕らには物語が必要なのだろうか。
なんで僕らには歌が必要なのだろうか。
立川談春の「赤めだか」では、立川談志がこんな風に言い放つ。
どんな芸能でも多くの場合は、為せば成るというのがテーマなんだな。一所懸命努力しなさい、勉強しなさい、練習しなさい。そうすれば必ず最後はむくわれますよ。良い結果が出ますよとね。
(中略)
落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない情況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやったほうがあとで楽だとわかっていても、そうはいかない。八月末になって家族中があわてだす、それを認めてやるのが落語だ。
ここ数年、色々と周辺事情が厳しくなって、今までのように、達観したり韜晦したりもしにくくなってきた。ようするに、仕事が忙しくなって、おちおちマンガを読んでもいられなくなってきたということだ。
そして忙しくなって見ると、自分の欠点ばかりが表に出てくる。忘れ物、無くし物、勘違い。整理もできないし、スケジュールも滅茶苦茶。つくづく自分に嫌気がさしたり、気落ちしたり、そりゃあまあ、色々ある。
そして、時間と心の余裕がなくなると、心は歌と物語を忘れる。
・・・いやあ、本当に、心がストレスでひずんでいくと、物語を読めなくなっていくものなのですねえ。
こんなとき、思うのだ。
なんで僕らには物語が必要なのだろうか?
なんで僕らには歌が必要なのだろうか?
*
企業でも国家でも何でも、拡大期の成長神話は、いろいろな致命的問題を意識から隠してくれる。
昔の僕は、時がたてば自分も成熟すると思っていた。
訓練して、努力していけば、落ち着いて物事をこなせる人間にいつかはなるだろうと。
そうすれば、僕にどうにかあるらしい「奇抜な発想」という長所を生かして、何か社会のお役に立てるだろうと。
いまは、どうかなあ?、と思っている。
忙しくなって複数のタスクをこなさなければならなくなってから、失敗は、年々悪化しているように思える。一人で物を作っていたときなら挽回も可能だが、人と一緒に仕事をすると、他人に迷惑をかけてばかりだ。
奇抜な発想という、怪しげな長所についても、どれだけメリットがあるか、正直言って首をかしげるようになってきた。時間が無くなり、不安が増すようになってからというもの、文章もまとまりがなくなっているような気がする。
結局、本来の私は、スローペースでしか物事をこなせない人間だったのだ。世で必要とされる人間とは、軽く要領よく手の早い人間だというのに。
それでいて、いろいろなところに手を出しすぎる悪癖が直らない。成功に必要な素質とは、選択と集中だというのに。
そんなわけで、呻いている。
*
客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。
でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。
『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんどバカなんだから、こんなことは教えねぇだろう。
嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな。
談志は、こんな風に言い放つ。
まあ、本当に努力したかどうかはわからないのだが。
*
このまえ、妻と、僕の両親と、親戚の叔母で墓参りに行った。
僕が、昔からのほほんとして、プレッシャーとか不安とか感じない人間だ、というような話が出てきた。
まあ、僕は年中マイペース人間ではあるが、それは年中失敗して頭を抱えているのを、あいそわらいを巻き散らかしてごまかしているからだ。まあ、外からみて、能天気と見えるのは、擬態成功ということで喜ぶべきなのだろう。
僕は、苦笑いしながら、
「もう最近は、風呂の中で耐え切れなくなって、畜生畜生と呻いたり、悲鳴上げたりしてますよ」
と、笑いながら言い返した。
「ああ、言ってます、言ってます」
と、妻がまぜっかえした。
母が大笑いした。
「ああ、もう、お父さんそっくり」
「そうなんですか?」 と、妻。
「もう、お風呂の中で、畜生とかうめいたり、歌いだしたり」
「ああするする」
「ホント似たもの親子なんだから」
妻と母がふたりでもりあがって楽しそうに話し始めた。
僕が苦笑いすると、運転席の父も苦笑いしてブツブツつぶやいていた。
「畜生といえるときはまだ良いときで、本当に厳しくなると、呻くことも出来なくなるんだよな」
僕はため息をついた。
同じトラックを周回遅れで走っている、ということなのだろう。最近よく、父と酒を飲んでみたいと思う。
*
「落語は人間の業の肯定だ」
人間は、年とともに変わる。あきらかに。
10代の物語があり、20代の物語がある。
10代の業があり、20代の業があるからだ。
今まで書き綴ってきた「異邦人たち」の物語は、僕の20代に作った物語だ。
では、今、自分の成長の限界が見えてきたこの位置から、僕は何をもって自分の物語とするのだろうか。それは人に語れるものなのだろうか。語る価値のあるものになるのだろうか。
潰されそうな不安や、砕けたプライドや、残ったかけら。
そんなものをジグソーパズルのように集めながら、もう一度、自分の形を組みなおしていく。
まあ、それはそれで、面白いものかもしれない。
「業の肯定」
もう一度、等身大の自分と向かい合って、自分の業を肯定してやること。そして、できれば自分を許してやった分だけ、他人も許してやれるような、いつかそんな歌は歌えないもんだろうか。そんな物語は語れないもんだろうか。
最近は、よく、そんなことを考えている。
メルトダウン。
なんか、実は初日のうちに既にメルトダウンしてました、とか、ついにぶっちゃけはじめましたね。
いやあ、かなりの人が、そんなことじゃないかと思っていたのだが。
口にしたら怒られそうなので言わなかった、という、この事態。
実際、3/12時点で正直に事実予想を伝えていた審議官の人は、「国民に不安を与えた」ということで、更迭されてたそうな。
中村幸一郎審議官を絶対に更迭してはいけなかった。その理由を怒りをこめてわかりやすく。
ああ、あるあるある。そういうのって、よくある。
・・・と思った。
敗戦がどうしても避けられなくなるまでは、敗戦の可能性を口にしてはいけない。
この前向き思想を、ときにポジティブシンキングと呼ぶこともある。
とても日本組織にありがちなこと。うちの会社でも良くある
こういうのは「カミカゼ的な前向き思考」だと思う。
「勝利の可能性はゼロではない!敗北主義を口にする奴は銃殺」
あとになって冷静に考えると、敗戦は間違いないのだが、そこはそれ。
後ろ向きな発想を口にするのは、ヤンキー美学において「カッコ悪い」ということなのだろう。
実際、こういうヤンキー主義の人たちが強力に戦線を支えているものなので、こういう人に「舐められる」と、前線から組織が崩壊する。だから、トップは「格好悪い発言」はいえない。そして、組織はバカになる。
・・・あるあるある。
だが、このヤンキー美学による神風システムこそが日本の強みだし。
ううむ。・・・改善策を思いつかないなあ。
中原中也の「山羊の歌」を通勤中に読んでいた。
まあ、それくらいに疲れていたということか。
山羊の歌:憔悴より
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
これは、敗北宣言か、ひらきなおりの強がりか。どちらともいえるし、どちらともいえない。
でも確かに、僕もいつもこういう気分で生きている気がする。だからビジネスマンになりきれないのだろう。
で、こういう「ヘタレ強がり」を、大声で言い続けて、「敗北を隠さない俺は実は勝者!」 とひらきなおって言い張る生き方もある。
だが、中也は新生のヘタレなので、すぐに弱気になる。
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
このあたりが、僕とそっくりと言いますか。
しみじみ共感してしまう。
いろんな人が「俺そっくりや」とつぶやいたからこそ、中也はいまだに人気の詩人なのだろう。
西尾威信が「戯言使い」というキャラを「全ての人の欠点を持っているから、誰が見ても共感する」という説明で描いていた。弱さの共有、そこに共感がある。
*
ビジネスは「強み」で社会を結びつけ、物語は「弱み」で人を結びつける。
詩と宗教とは「強さ」を放棄した果てに、共感にたどり着くシステムだ。心の中に強みを抱えている間は、それは強がりであって、自分の弱さを迎え入れたときに、それは救済になる。
中原中也の「弱さ」は、強さを持てなくなった瞬間にこそ、詩に昇華する。
あなたの状態を測るリトマス試験紙のようなものだ。
あなたに力が溢れているとき、それはただの臭いエゴが紡ぐ強がりに見える。あなたが自分の力をなくしたと感じたときに、それは染み渡る詩に戻る。
白い紙に他に何もかかれていないときにだけ、一本の線が水平線の絵に見えるように。それは打算も筋書きもメリハリもなくなったときにだけ、まったいらな物語になる。
と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰をのがれるすべがない!
やまがなく、おちがなく、いみもない。
ただ、共感だけがある。
菅総理大臣による原発勢力らの神的救済が光っておりますな。
その昔、中川昭一大臣が、「記者会見で酔っ払うだけで止まらない円高を止める」 という離れ業を演じたことがありました。
ニューロサイエンスとマーケティングの間:中川昭一氏は身を挺して円高を止めた?
官僚と銀行がどんなに必死になっても止まらない円高が、酒飲むだけでピタリと止まる。大臣って凄いなあ、と思ったものです。故人に合掌。
そして今度は、菅さんだ。
「原子力発電反対!」とか、動き出していた世の中の流れを、ピタリと止めて見せた。
「浜岡原子力発電所の運転停止!キリッ」 ・・・の一言で。
もう、たぶん恥ずかしくて、世の中の人は「原子力発電反対」とか、言えませんよ。
「なに?お前、あの菅さんと同意見?ぷギャー」
とか言われたら、真っ赤になって反論せざるを得ません。
「ほ、ほ本気でそんなこと言うと思った?ばっかじゃないの!?」
みたいに
「あの菅総理大臣と同意見」 なんて情況、空気読む人だったら、恥ずかしくて耐えられない。
自意識の強い日本人は「誰に似ているか」ではなく、「誰に似ていないか」という問題に敏感だからだ。
案の定、webの言論、とくに経済人は、菅たたきモードに突入したような気配。
菅首相は誰のために右往左往している
数日後には、世の中の空気読み勢力は、こぞって、「やっぱり原子力発電重要!」 とか叫びだすに違いない。わが国の世論は、だいたいこのようにして動くのでしょう。
・・・・ほんとすげえよな、総理大臣の威圧力って。
「異邦人たち」5月号分、本日中にコミホリに掲載される予定です。
休載連続の後、ようやくの発表です。
ほんとうに申し訳ありませんでした orz、・・・としか言っていないですね。
震災の前後。なんかもう、色々と煮詰まっていて、諸方面でアウトプットが出にくくなってしまってます。
漫画の方も、色々と煮詰まっています。
今回の展開は、唐突な情報が溢れかえってしまっている気がする。情況が上手く表現できているか自信ないなあ・・・。
僕は、発散型の人間で、纏めるのが致命的だ。面白い方向に話を持っていくとか、風呂敷の畳み方のアイデアとかは出てくるのだが、・・・風呂敷を《実際に畳む》には、修練と経験が要る。その辺の修行がぜんぜん足りてない。
畳もうとするときに、もう一度「そもそも論」が始まってしまうのは致命的だ。
今回の漫画は、どうなんでしょう。
片付けるつもりで散らかしてしまった気もするのだけど。
ここからちゃんと畳めるのかなあ?
大騒ぎした姉歯建築士の耐震偽装問題。
「耐震偽装」の建築物が震災で倒壊したかどうか、非常に気になった。同じことが気になっている人は多いらしく、webでも2chでも話題スレが立っていた。
【耐震偽装損賠訴訟】東日本大震災で倒壊しなかった姉歯建築【姉歯元建築士にのみ賠償命令】
でも結局、公的な検証報道の情報ってのは、web上で見つからない。
どうなっているのだろう、あの話は。だれか詳しい人って、います?
*
僕は建築の専門家でもないし、十分な結果を調べたわけでもない。
事実データがなく、よくわからないままの妄想で書いている。ひょっとしたらあのときにあわてて補修工事をしたから倒れなかったのかもしれない。それとも、あの程度の建築材でも、結構頑丈でポンポン倒壊はしないものなのかもしれない。
ほんと、わからないのだ。
でも、あの問題を再調査して検証したマスコミがないらしいという事態には、ちょっと驚いている。
それとも、僕の知らないどこかには、もう出ているのだろうか?
*
ひょっとして、この問題は
「耐震偽装建築物 v.s. 東北大震災」
という格闘技ではなく
「耐震偽装建築物 v.s. 東北大震災 v.s. マスコミ」
という異種格闘技なんじゃないかなあ?という気もする。
つまりのところ
「倒れるか?=喧嘩したらどっちが強い」 という部外者の観点と、
「建築基準を満たしているか=試合での勝敗」 という試合ルールの観点の差、みたいなものだ。
あの報道で、多くの人が不安になって、建築物に補強工事を入れたり、マンションを手放したり、凄いことになっていた。責任を感じたのか追求に疲れたのか、奥さんが自殺すると言う痛ましい事態まで至った。
極貧生活の末、姉歯逮捕…自宅売却、妻は自殺 [夕刊フジ]
あの「試合ルール」ってのは、何だったのだろう?
どのくらいの実効性があったのか。
震災が実際に起こった今、そのあたりは非常に気になる。
*
「マスコミが報道しないのはけしからん」と、大声で義憤を言いたいわけではない。
ひょっとしたら、熟慮の判断の結果、報道しないことにしているかもしれない。
例えば、崩壊した物件があった場合に、また風評被害がひどくなって、不動産市場にパニックが起こるのを恐れているのかもしれない。
例えば、崩壊した物件がなかった場合に、建築法に非難が集まって、その結果、建築法を軽視する傾向が広がるのを恐れているのかもしれない。実際、耐震建築基準への違反はあれ以降もあった。
頻発する大地震 繰り返されるマンション耐震偽装(2010/4/20)
とくに「非常時」の社会の中のマスコミが、そういった、「治安維持」の発想に気を配る責任があるのは、間違いないだろう。だから、あえて何も検証報道しないのかもしれない。
もしくは・・・、もしくは、単に報道したくないのかもしれない。
崩壊した物件が無かった場合には、マスコミ報道で大騒ぎになったこと自体に、非難が集中する可能性だってあるだろう。そんな面倒くさくて誰も得しない事態を、避けたくなるのも理解できる。
*
まあ、社会的な事情は、そんな所だろう。
その辺の事情を、あれこれは考えるのだが、要するに気になるのだ。
僕らの世界の「社会ルール」は、どの程度、物理的な「ガチンコの世界」と対応しているのだろうか?
正確な表現は怪しいのだが、もともと、当時に姉歯氏側は「行政指針が安全係数を取ってオーバースペックに設定してあったから、その分を削ったんだ」と言う弁解をしていた気がする。
まあ、この震災でそれらのビルが倒壊し無かったのだとしたら、その判断は「実効的には」正しかったのかもしれない。
もちろん僕はべつに、耐震建築法違反する奴が正しいといいたいわけでも、賢いといいたいわけでもない。依頼された内容と違う建築物をつくったら、そいつは「経済的損害」を払う義務があるのだろう。
それはあくまでルール違反の話だ。ボクシングで金的に蹴りを出すようなものだ。
ルール違反する人間が、正しいかといわれたら正しくないし、強いかと言われたら強くない。尊敬もしないし、子供にマネしろともいえない。
ただ、「金的に対応できないボクシングは格闘技でなくてスポーツだ!」 という意見を言われたら、腕を組んで考えてしまうのも事実だ。ボクシング「だけ」では喧嘩には対応できないのかもしれない。
ボクシングのルール、それ自体の正当性は、だれが議論するのだろう?
それがまあ、僕の興味がある「異種格闘技の視点」というお話。
「ルールの実効性」と「ルールの正当性」というお話。
そんな視点から思うわけだ。
この社会のルールは、どこまで「スポーツ」で、どこから「喧嘩上等」なんだろうか、と?
*
ひねた見方をするならば、耐震偽装の問題は、ビルが安全か安全でないかは問題ではなく、「契約が破られていたかどうか」という問題でしかない。結局、「経済的ブランド」の問題でしかなくて、本当の安全を保障する閾値とは関係無いのかもしれないなあ、という危惧もないではない。
もちろん、基準を満たしている建物は、強度が強い。ボクシングチャンピオンが、喧嘩にも強いように。
僕らは目の前の人間が強い人間か弱い人間か、定量的に確かめる方法をもたない。でも、ボクシングチャンピオンだったら、強いだろうと思う。
それは、ボクシングという試合形式とルールがきずいてきた、ブランドと信仰があるからだ。
一方で、災害に耐えらる想定の原子力発電所は耐えられなかったりする。こっちでは、想定基準が足りなかったのだといって、また大騒ぎになっている。
ボクシングのルール上は勝利するチャンピオンのはずなのだが、金的を食らったようなものだ。
確かに契約上の不備はなかったのだろう。だが、「チャンピオン=強い人」というブランドを作って、社会にアピールしていた以上は、金的食らっちゃ不味いだろ、と言われる
*
世界は、約束ゲームの中で動いている。
約束違反が起きると、マスコミが大騒ぎして「非難」してくれる。だけど、約束ゲームのルールが本当に妥当であるかは、あんまり議論にならない。単純に「非難」するには難しすぎる話題になってしまうからだ。
姉歯建築士の問題が大騒ぎになったのは、あくまで、「約束が破られたから、土地物件の経済価値が崩壊した」という問題だった。それは、サブプライムのバブルが崩壊するのと同じことなのだろう。
「信頼と契約が崩れる」ときに、「スポーツとしての社会」は機能しなくなる。
だけど、このスポーツのルールは、どの程度役に立つんだ? それが、物理世界のガチンコ勝負と、どのくらい対応しているのだろうか。その辺については、事態が起こる前には専門家しか議論できないし、実際の勝負が起こった後でないと検証できない。
だからまあ、あくまで野次馬的な好奇心で気になるのだ。
あの耐震強度の問題は、「ガチンコ」的にはどんな話だったんだろう?、と。