June 15, 2011

大海の蛙、井の中を知らず

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉は、皆さんおっしゃいます。
ローカルな名声に留まるな、小さな世界に満足するな、世界を目指せと。いうなれば「MITの石井先生的な成長神話と野心と孤高」みたいなお話です。

でも、現実には「大海の蛙、井の中を知らず」コトもよくあったりすると思うんですよ。

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数年前、うちの会社の研究所に、日本の研究機関とかアメリカの大学とか回って、世界の第一線で闘ってきた人が入ってきましてね。
まあ、凄い優秀ですよ。仕事速いですよ。成果バンバン出すですよ。
ぬるま湯でちゃぷちゃぷちゃぷとやってきた私たちと違って、一人で世界で戦ってきたやつは、やっぱりすげえなあ、と思うわけです。

ただ、まあ弱点もあるというか。
そういう才能に溢れた人は、能力の無い人と付き合うのが下手なんですよね。

国内の研究所ってのは、まあ部署にもよるんですが、アカデミックな観点からすると、必ずしも凄い人材ばりなわけでもない。理系とはいえ、数学とか根本的にわかってない人も多い。

そういう中に入っちゃうと、才能に溢れた人は、話が通じないといってやる気をなくしたり、人間関係に軋轢生んでしまったりする。

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「天才肌」にも二種類いて、自分の天才ップリの優越感を愛している自己愛タイプと、本当に人間関係が下手で趣味以外の話をしたくないオタクタイプがいる。
前者はアスリート、後者は職人。
とくにアスリートは負けるの嫌いなツンデレ型が多いので、プライドを満足させてやる必要もあったりするし、結構扱いが難しい。まあ、ちゃんと話し合えると、面白いんだけど、結構会話が疲れるのも事実。

頭の回転が速い分、結構ジョークにとげがあって容赦が無い。私はその人と、結構仲良くしていると思うんですが、この人の「優秀なトーク」についていくのが、キツイひとは多いだろうなあ、と思う。

優秀なトークは、凡庸な人間を置き去りにする。
凡庸な研究者の人だって、それはそれで誤魔化しながら体面保って、人間関係維持してきたわけで。自分の無能さを暴かれそうになると必死でごまかさざるをえないわけですからね。そのうち、維持になると会話から立ち技が無くなって寝技ばかりになる。

さらに軋轢段階が進むと、放置されるようになる。
「こんなことやりました!」「ふうん、すごいね。いや君がやってるんだから凄いんじゃないの?よく知らんけど」
そして、優秀な人は「孤高」に陥る。

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MITの石井先生も、そんな方。日本の某メーカーに勤めたもののそういう軋轢がイヤで、英語猛勉強して渡米してMITで大成功した。およげタイヤキ君(勝者バージョン)な方なわけで、twitterで一日48時間稼動しているタフな才能を発揮していらっしゃる。

そういう「優秀オーラ」を出している人に、日本社会は厳しい。「優秀すぎて日本に居られない人」という人材は、結構いる。日本社会が才能を潰す、出る杭を叩き、足を引っ張る、と、よく言う。僕もそう思う。

だからアメリカ留学万歳論ができる。実際、ブログをばりばり書いている人とか、新書本とか沢山書く人には、そういう「出る杭」タイプの人が多いと思う。その結果、運と境遇が悪いと、「優秀オーラ」に自己愛と周囲への嫌悪感がブレンドされて、「松岡修三的なうざったさ」に変質してしまうことも良くある。

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それは、温度の差に似ている。
熱い分子は高速で動くし、冷たい分子は低速で動く。温度が同じなら、ぶつかっても刺激になる。だが、温度が違いすぎると、ぶつかると、どちらも自分のスタイルが破壊されるので不幸になる。

アメリカの個人主義システムは気体分子的だし、日本のムラ社会システムは液体分子的だ。同じ方程式を当てはめようとすると、どうしたって破綻する。

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ただ、なんていうかなあ。
熱を維持するための、気体方程式PV=nRTだけで制御すればいいかというと、そうでもない。
水が液体であるのは、地球の上では「普通の状態」であるとも言える。

「普通の人」が、行き辛い社会というのは、それはそれで困る。
「二流の人」が、天才のプレッシャーに押しつぶされて、才能を発揮出来なくなる社会というのは、それはそれで生産性が悪い。

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これが観賞用のスポーツだったら、二流はあまりいらない。
トップの数人で日本代表チームを作ればいい。
なんていうかね。天才って、観賞用みたいなところがあるわけですよ。
天才がスタジアムの中、テレビモニタの向こうにいて、こっちは観客席にいてポップコーン食ってる状態なら、心置きなく、楽しめるんですけどね。

ただ、同じ土俵で戦うプレイヤにとっては、結構微妙。
日常の世界はトップの成績での勝負を鑑賞するオリンピックじゃなくて、平均値として参加する運動会に近い。
オリンピック選手が、小学校の運動会のリレーに加わっていたら、ちょっと困るじゃないですか。敵のチームにいたら脅威だし、味方のチームにいたらプレッシャーになってくる。もう、愛想笑いするしかないですよHAHAHA。

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で、初めに話に出た私の友人。
「こんな会社もういやだ、やめて出て行く」と言ったり、「こんなぬるま湯で、これだけ給料もらえるなら御の字だよなあ」と言ったり、思い悩んで、いまのところ、まだ、うちの会社に留まっている。
というか、このまま文句言いつつも腰をすえそうにも見える。

ただ、入ってきた直後のような目覚しい業績ラッシュは挙げていないように思う。

これを、どう解釈するべきか、ちょっと悩む。
日本企業の特性が、優秀な人材を潰しつつあるという気もする。
その一方で、「日本の社会は天才を必要としていない」、という情況に彼が適応を始めているんじゃないかという気もする。

いや、まじで。
ビジネスの構造って、天才とかあまり要らない。しみじみ感じる。ノーベル賞学者が鍬持って数学的な最適性を考えながら農作業してもあまり役にたたないようなものでして。
ふつう、高名な経済学者とか、最新技術の立ち居地の、たいていの場合は、「戦力」じゃなくて『アイドル』としてですよ。看板。見せ球。神輿に担いだ教祖様。そんなん戦場で実戦には投入しない。

もちろん鍬を持たずにトラクター発明すればいい。だけど、それはそれで無数のガンジーさんが反対するのかもしれない。この種類の反対は、屁理屈じゃなく本質論だと思う。

つうか、そもそも本来は、社会や経済なんてものには、そんなに凄い「優秀さ」とかはいらなくて、必要なのは、ギャンブラー性とエンターテインメント性とマメな作業をする「有能さ」なんじゃねえかなと思う。
小学校の運動会をシステマティックに効率化しても、誰も喜ばないかもしれないし。
世界中がウォルマートとセブンイレブンの二社だけに最適化されたら、俺は退屈で首をくくるぞ。

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そんなわけで、「本当に優秀な学生」が来たとき、往々にして現場の人の多くは困る。マジ困る。
プロボクサーがリングに上がってきたときの、プロレスラーみたいな気分。初めのうちはお客が増えるので喜ぶかもしれないけど、八○長とかも覚えてもらわないと、そのうち猪木の首が絞まっていく。
K-1もPrideも最後は、みんな大晦日に鑑賞できるプロレスになった。社会が求めているのは、そういうものかもしれない。

やっぱり、井戸の中は、腐っていると思います?
でも、普通の人間の生活って、やはり井戸と共存するべきものだと思うんですけどねえ。

そもそも、僕らは本当に壊れるまで闘うボクシングが見たいのか?「リアルなプロレス」程度でいいんじゃないのか?そんな自問自答もしたりする、今日この頃。

【関連リンク】ポンコツ山田.com: 『昴』に見る、「天才」の人間関係の話 前編


Posted by Semiprivate June 15, 2011 12:00 PM

Comments

大枠ですごい納得してしまったんですけど、でもそれじゃああまりに悲しすぎますよ。
社会って一言でいっても、その定義は複数存在してて、ボランティア団体だったり家族だったり会社だったり、あるいは総括して国だったり。結論はどの社会を指して、どの社会に生きるかで決まると思うんです。んでそのことを踏まえたうえで、以下の文章は社会を会社組織に限定します。

少なくとも10億以上稼ぐ優秀な会社ってのは、そのビジネスの核となる部分に優れた理論や特許が絡んでいることが多いです。そしてそういった核を天才じゃない人が作り出すことは難しい。さらに、いくら天才がそのビジネス核を作ったとしても、周りにいくらでもいる「一般社会に強い普通の人」がいないとビジネスとして成り立ちません。
普通の人はそういったビジネス核を作れる人材を心待ちにしていて、それは一生の内で出会えるかどうかわからない。だから出会えるまでの間、エセ科学で作ったエセ商品で口を糊している。

あくまで天才がビジネス核を作れるという前提で、しかも会社組織限定の話ですけれども、そう考えておくと幾分天才の人も救われるのではないでしょうか。

たとえそれで無数のガンジーさんに襲われそうになっても、ミシン開発者のように何度でも仲間募って資本主義社会で生きていけばいいじゃないですか。

釣られて初めての長文失礼しました。

Posted by: 下士官 at June 15, 2011 05:32 PM
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優秀さを、成果を生み出す能力とするなら、日本の教育は優秀さは目標としてないですよね。
せいぜいが「思考力」とかいう意味不明なものを養うことを目的にしていますし。

心の中に特別じゃない安心院さんを一人用意しておくような対処というか、いちいち劣等感に悩んでいたのでは、身が持たないですし、それに優秀な友人がいなくなるのは、それはそれで何だか嫌です。

馬鹿なりに偉そうなことを言って突っ込みを入れられて、そんなボケとツッコミや、優秀な人なりのボケに、馬鹿視点のツッコミしてるような、そんな井戸端話でいいような気がしてます。卑屈になっても誰も喜ばないですし。

結局大海なんて、自分の井戸以外の井戸の総称に過ぎないのではないかなぁとか。

Posted by: who at June 16, 2011 02:02 AM
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>ビジネス核を作れる人材を心待ち
そうですねえ・・・。うちの会社も、研究所側がビジネス核を作らなきゃいけないんですがねえ、ホントは orz。
まあ、「優秀なエース人材を生かすだけの《覚悟》」ってのを、既存の普通の人間が身につけるのが重要なのですな。

>いちいち劣等感に悩んでいたのでは、身が持たない
まったくだ。

>大海なんて、自分の井戸以外の井戸の総称
魂を引く重力の井戸から抜け出すだけのエネルギーが欲しいですねえ。

Posted by: 三等兵 at June 17, 2011 12:08 AM
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読み終わってまず思ったのが
「じゃあ天才はどうすりゃいいんだよ」
でした
結局「普通」に適応して潰されてくしかないってことなんですかね
近頃その普通という価値観による暴力についてよく考えてしまいます・・・

Posted by: 名無し at June 18, 2011 05:56 AM
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>「じゃあ天才はどうすりゃいいんだよ」
むずかしいよね。
普通という世界の中で、異形を持った人間が生きていくのは、凄く難しいと思います。多分、凡人より天才の方が、圧倒的に自殺率も高いだろうしねえ。

アイザックアシモフが「天国の異邦人」という小説を書いていた。火星探査ロボットと天才兄弟の話で、ロボットは、火星にたどり着いた瞬間に、自分にあった世界を見出すお話。アシモフにしては珍しく、まとまりの悪い話だった。多分、言いたいことがありすぎてまとまらなかったんだろうなあ。

Posted by: 三等兵 at June 19, 2011 02:00 PM
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・社会貢献などを通じて社会に適応できる天才
・自分が生き易いように周囲環境をデザインできる天才
というのはいないという前提でOKなのでせうか?
フィクションに登場する天才科学者というヤツは、
大抵上記のどれかのような気がしますが、所詮フィクションだからか…

Posted by: U2DA at June 21, 2011 10:33 PM
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