どうもyamaharaです。
この度のcoolのサービスの停止により、閉鎖致します。
このサイトでは、小説を書いたり、曲を作ったり、ゲームを作ったり、と、色々とやってきました。とても楽しい日々でした。
今まで、ありがとうございました。
花火
愛知県G市では八月に恒例の花火大会が催されている。この時期には各地方方でイベントの一環として花火が上げられていることだろう。G市もその一つに過ぎないのだが、住人の私にとっては、数十年見続けている甚だ馴染み深いものである。
花火が上がる光景を我が家から眺めようと思えば眺めることのできるのであるが、なにぶんベランダからでは隣の家の影と重なって大半が隠れてしまうし、屋根に登ろうにも同じ按配なので、どうにもうまく楽しめない。幼少の頃は、家族で窮屈にベランダから眺めたものだが、やはり、本当に花火を楽しもうというのなら、片手間をすること無しに、良く見えるところまで移動して満開の夜空の中に投影される鮮やかな光を仰ぎ見るべきである。すると、そういう見晴らしの良い場所には花火の観方を心得ている人達が既にいるわけで、ここ数年では、私は一人で出掛けては、群集に混じってひょっこりと首を持ち上げるわけである。どん、という花火の音が轟くたび、人人の歓喜やら、喝采が上がるのは、自分の動悸と相俟って心地が良い。それもまた、花火の醍醐味といえるだろう。
今年も、私は例年の如くM町の海岸沿いへと足を運んだ。この場所から眺めると、ちょうど西にあたるところから花火が上がり、海原と夜空が背景となる寸法なので、一層輝いて見える。花火が上がり出した頃に家を出て、建物の合間からちらちらと覗かせる花火を見ながら十五分程かけて歩き、目的地についた頃には、もうすっかり人人でごった返していた。子供連れの家族や御年寄り、カップルなどの様様な年齢層であふれかえり喧騒としていたが、花火が上がる度に蒼然とした緊張感が漂うのは、どこかしら風情を感じさせるものがある。私は、高潮とした面持ちで、浴衣や団扇を潜り抜けて、適当な場所まで歩み進めると、周囲の人人と同じように西の空に目を向けた。
星星を蓄えた雲一つない満開の夜空に、ひゅるひゅる──と、小さな点が覚束無く上昇してゆく。そして星の混じるか否かのところまでゆくと、弾けて美しい赤色の火花が散る。その様子は、まさしく「華」だ。きれいな円の花が夜空に咲き誇る──と同時に、どん──という盛大な音が、円の発生に遅れて響き渡る。それにつられて周囲が「おお」とか「わあ」とかいう歓声をあげる。がその頃には、いつのまにやら花火の光はふっと暗闇に消え入っている。一瞬に乱れ散る儚さに嘆息にも似た感動を覚えるか否かのうちに、次の点がひゅるひゅると上がっている。
花火には、一瞬の美しさがある。その美は普遍の美よりも儚げで無情であるが、心を打つ。その一刻を逸したのなら、同じ感動はもう味わえない。特に大観衆の中で眺める花火は、より味わい深い。同じ場所の人人と共有した花火を見上げているのだが、それぞれが違った思いを抱き、思い思いの声をあげる。それゆえ、小気味良く上がる花火にはどれとして同じ印象はなく、常に変化し続ける。一瞬間の連続が、徐々に変化してゆく過程を鑑みると、どこか不思議な気分になるが、そのことも花火の魅力の一つといえるだろう。
花火大会も半ばほどになると、私は群集の中である一つの変化に注視させられた。中弛みして、少しばかり意識が散漫となったからかもしれない。何気ない変化に気づいて、ふと、空から視線を逸らすと、人ごみの前方にその声の主らしい親子がいた。先ほどにはいなかったようにも思う。きっと、その親子は途中からこの海岸に花火を観に来たのだろう。子供が父親に肩車させられ、群集からちょこんと抜け出たので、私の意識を浚ったのかもしれない。確かに微笑ましい光景であったが、私自身、どうしてその親子が気になるのか、合点がゆかなかった。にもかかわらず、私の目と、耳はその親子の元に釘付けになっていた。
「花火、きれい。」
どん、という音に消え入りそうなほどの子供の声が私の耳に届く。その後に続けて太い声が響く。
「そうか、来て良かったな。」
「うん。」と、快活に返される。「でも、お母さんと一緒に来たかったね。」
無邪気な声に父親の返答がすぐにはない。後ろ姿からでは表情を察することができないが、父親は、動揺しているのかもしれない。
ぴか──と花火の明かりがよぎり、再び、どん、という音が轟く。
「そうだな。きっと、お母さんも空から花火を見ていると思うよ。」
予想外の返答に私は、口を唖然とさせられた。その言葉の表現と父親の動揺からするに、母親は既に他界しているということか。
いとまも無しに、子供の声は続く。
「そう、お母さんも花火を見ているんだ。良かった。お空からでもちゃんとマンマルに見えるかな。」
「花火はどの方向から見てもマンマルに見えるんだよ。だから、きっとお母さんもコウタと同じマンマルの花火を見ているよ。」
「じゃあ、じゃあ。お母さんは、お空からコウタも見ているのかな。」
「うん、ずっとコウタを見守っているんだよ。」
肩車の上の子供が嬉しそうに両手を突き上げた。
「光の穴は天国の隙間なの。あそこのどこかからお母さんが見ているんだよね。どの星にいるのかな。」
星が天国の隙間──私は、妙にしんみりとした心持ちで上空を見上げた。夜空に輝くあまたの星のただ一つから、コウタの母親が花火を楽しみ、そうしてコウタを見守っている──そう思うと、夜は透き通るほどの幻想的な世界に変わってゆく。
ひゅるひゅる──星のような天が上昇し、上空で弾ける。思えば花火は生と死の象徴のようだ。美しく輝き、散ってゆく。だが、その灯火は消えず、きっと夜空を駆け抜け、星となり、恒久に輝くことだろう。
どん──という音につられて、わあ、という歓声が沸きあがった。言いようのない感動を覚えながら、しばし花火に酔いしれた。
平成十三年十二月十六日
扇風機
一、被害者の友人、コウジの証言
──うん、ユウちゃんに呼ばれて、おうちに遊びに行ったの。──そう、ユウちゃんは、ユウスケって名前。で、ユウちゃんとユミちゃんと一緒に遊んだの。──ユミちゃんはユウちゃんの妹。「すごく楽しいゲームをする」って言ったのに、最初はトランプをしたの。ユウちゃん、とてもダイフゴウがうまいの。
──そうそう、おじちゃんの言う通り、ユウちゃんの部屋には扇風機があるよ。──え、怖いから思い出したくないよ。──アメ玉をくれるの、本当に? じゃあ、がんばって思い出すよ。──うん、僕、良い子だよ。
ユウちゃんの部屋は窓を開けておいても暑いから、いつもあの扇風機が回っているの。──うん、いつもユウちゃんの部屋にあったよ。──ううんと、詳しくって言われても、その日も特に変わった様子は無かったよ。……そう言われて見れば、いつもより扇風機がきれいな気がしたなあ。でも、気のせいかな。
──どうして、扇風機に指を入れたのかって? 別に不思議なことじゃないよ。ユウちゃんは、いつも扇風機で遊んでいたもの。指を入れたり、顔と近づけて声を発してみたり、僕もやってみたことあるよ。──え、あの日はもっと危険な遊びをしただろうって? ……やだなあ、おじさん。そんな怖い顔をして……。僕は悪くないよ。ユウちゃんが言い出したんだもの。──う、……うん、そんなに言うなら話すよ。だから僕をしからないでね。
トランプに飽きると、ユウちゃんが「扇風機で遊ぼう」って言い出したの。でも、それもいつものことだからすぐに飽きちゃうよって僕が言うと「もっと楽しくする方法があるんだ」って、ユウちゃんが言ったんだ。どんなふうに楽しくするのって訊いたら「ろしあんるうれっと」って言ってきたの。「ろしあんるうれっと」なんて聞いたことが無かったから、どんなことをやるのって尋ねたらね、「この扇風機には三枚のハネがあるよね。どんなに速く回転させていても指を入れたら止まってしまう。さんざんやったから、そんなことはもう楽しくないし、面白くもない。だからもっと面白くしよう。三枚のハネのうち、一枚にハズレを作るんだ。で、ジャンケンで順番を決めて、誰かがハズレを引くまで指を入れ続けるんだ」って。で、僕は、とても面白そうって思ったから、すぐにでもやろうって言ったよ。──うん、言いだしっぺはユウちゃんだよ。間違いないよ。
でもね、ハズレの一枚はとても怖いんだよ。──え、どうしておじちゃんが知ってるの? なんだ、つまらない。え、誰かがハズレを引いたのかも知ってるの? じゃあ、話す必要もないよね。──う、うん、わかったよ。話すから、……怒らないでね。
確か、僕がやろうって言った後すぐにユミちゃんが「お母さんが怒るから止めよう」って反対したの。──うん、おばさんはユウちゃんのおうちにいたけど、傍にはいなかったよ。──あ、おばさんっていうのは、ユウちゃんのお母さんのこと。ユミちゃんの言葉を聞いたユウちゃんが、すごく怒って「やりたくないならユミはやらなくていいよ」って言い返したの。そうしたら、ユミちゃんの方もムッとしてたけど、……しぶしぶ頷いて、結局、三人でやることになったの。
確か、その日の三日前におばさんがユウちゃんの指の入れているところを見て「今度やったら指が飛ぶわよ」って言ってたっけなあ。ユミちゃんもそれを聞いてたからおばさんに見つかったらまた怒られるからやりたくなかったのかも……。おばさんは、とても怖いんだよ。
──う、うん。話を元に戻すね。ユウちゃんは、ハズレにとびっきり恐ろしい仕掛けを用意したの。おじちゃんは、それも知ってるようだから、言わなくていいよね? ── え、一応聞くの? ふうん。
ユウちゃんはね、扇風機の三枚のハネのうち、一枚にカッターの刃を付けたの。──そうそう、回転方向にセロテープで固定して。つまり、カッターの刃が付いたハネがハズレで、そのハネのときに指を入れた途端、指が傷つくの。怖いでしょ。──え、どうしてそんなゲームをしたのかって言われても……そんなこと、今頃言われても困っちゃうよ。確かに怖かったけど、とても面白かったよ。今度はハヤト君達と一緒にやろうかな。 ──え、冗談だよ。もうやらないよ。──うん、絶対。──わかったってば。
──ええっと、そのときの状況ね。三人でジャンケンをして指を入れる順番を決めた結果、ユウちゃん、ユミちゃん、僕っていうことになったの。──え、初めに何を出したなんて言われても……ううんと、確か、一回目にユウちゃんが「パー」を出して真っ先に負けたんだよ。詳しくって言われても、……ジャンケンって運でしょ。
その後、扇風機にスイッチを入れて回転させ始めたの。──ええっと、「強風」だったかな。あの扇風機で一番強いスイッチ。カッターの刃の回転が、まんまるのドーナッツの円に見えたもの。──え、スイッチを入れたのはユウちゃんだよ。別に不自然じゃなかったよ、うん。
で、ユウちゃんはいよいよ扇風機に指を入れたんだ。──そうそう、右手の人差し指だったね。──ううんと、そのときも別に不自然じゃなかったよ。そういえば、ユウちゃんは、「僕は絶対にハズレを引かない」って言ってたっけ。とても自信を持っていたよ。
──そうそう、でも、ユウちゃんが真っ先にハズレを引いたんだ。指を入れた途端に、がががががががががががががあって音がして、血飛沫があがったの。すごかったよ、あたりが真っ赤になったもの、びっくりしたよ。ユウちゃんは慌てて指を抜いたけど、血まみれになっていて指がなくなっていたの。悲鳴を上げながらユウちゃん自身が扇風機を止めたけど、扇風機のハネには血がびっしり付いていて、右手の人差し指が無くなっていたの。結局何処にいったのかなあ。おじさんは、ユウちゃんの指を探しているんだよね? ──どうして黙っちゃうのかなあ、頼りないね、おじさん。
一番初めにユウちゃんがハズレを引いちゃったから、ゲーム自体はすぐ終わっちゃった。あっけなかったなあ、僕がハズレを引くのもいやだけど。
──その後? えっと、確かユミちゃんがすぐにおばさんを呼びに行ったの。──そうそう、ユウちゃんのお母さん。で、おばさんが駆けつけて、様子を確認すると、すぐに救急車に電話を入れたの。──え、うんうん。おばさんは慌てていなかったよ。そのおかげで、ユウちゃんはシュッケツタリョウにならなくて済んだって。後で聞いたよ。
ユウちゃんは無事だったんだよね。──そうなの、元気なんだね、よかった。ユウちゃんがいなくなったら寂しいから。まず、「ろしあんるうれっと」を他の友達のやっていいのかなって訊いてみないと。──え、やらないってば。絶対。他の人にも言わないよ。──う、うん。約束するよ。本当だってば。
そういえば、おじさん、さっきの約束忘れてないよね? ──え、とぼけちゃって。アメ玉くれるって言ったじゃない。僕、ストロベリー味がいいな。
その後、後片付けを見ていたんだけど、血飛沫を濡れタオルで拭き取ると、ストロベリーみたいな色になるんだよ。味はぜんぜん違うのにね。
二、被害者、ユウスケの証言
──お見舞いって言うから、お母さんだと思ったけれど。──う、うん。あのことについてね。正直に話すよ。
それより、これを見てよ。──そう、あのゲームで指を失ってしまったんだ。これじゃ鉛筆も箸もろくに握れないよ。包帯の上からでも判るだろ。おじさん、僕の指が何処へ行ったかしらないかな? こんなんじゃ不自由で仕方がないよ。──う、うう。酷い言い方だなあ。確かに自業自得だけれど、僕もこんな目に遭うなんて思っても見なかったんだよ。──う、ちゃんと正直に話してるって。
──やだなあ、おじさん。僕を疑っているの? 自分で自分の指をはねることをするはずがないよ。むしろ、僕はあのゲームに勝てる絶対の自信があったんだ。負けるはずはなかったんだ……。──わ、わかったよ。話すよ。話すから、僕の指を捜してくれるって約束してくれないかな。──ありがとう。じゃあ、絶対だよ。これじゃ不恰好で仕方がないんだからね。
僕は、扇風機のハネのうち、一枚にカッターの刃を取り付けたんだ。──え、そのことは知っている。どうして、負けることはないって思ったのかって? なんだ、そんなことが訊きたいんだ、ふうん。……いいよ、この際、正直に話すよ。
僕は、カッターの刃を取り付けた位置をしっかりと記憶しておいたんだ。だから、その場所を知っている僕は絶対に指を傷つけることはない、そうでしょ? ──え、「強風」で回転しているのだから、どのハネにカッターの刃が付いているかを記憶しておいてもしかたがないって? そりゃそうさ。三枚のうち、どのハネがハズレなんかを知っていても意味がない。大事なのは、どの場所につけておいたのかってことだよ。僕は、カッターの刃がちょうど扇風機の外周をまわるように付けて置いておいたのさ。だから、扇風機が回転し始めても、円の中心付近に指を入れればよいんだ。たとえ、カッターの刃の付いたハネに指を差し入れたとしても、絶対に指が傷つくことはないはずなんだよ。どうだい、これで僕が負けるはずはなかったってことが判ったでしょ。──誉めていただいてありがとう。でも、そんな僕の指がどうしてはねられたんだ。おかしい、絶対におかしい。ヤオチョウであったとしても、僕が怪我をすることがないはずなのに。──扇風機の異変? そういえば、扇風機が妙にきれいだったな。お母さんが前日に掃除でもしたのかな。……あ、そういうことか、しまった。迂闊だった。──う、うん。なんでもないよ。なんでもないって。
ということは、僕の指は、……あああ。
三、被害者の母、トミの証言
──扇風機に細工? 何のことかしら、御存知差し上げませんことよ。──別段、とぼけていませんよ。あれは子供たちの悪戯が齎した惨事じゃなくって? ──ワタクシがそんなに冷淡かしら。オホホホホ、もう、子供たちに話を聞いたんでしょうね。それでしたら判るでしょうけど、あの惨事に対して私がドウコウする余地はありませんでしょ。警察の方はナンでもカンでも人を疑うのですから、オホホホホ。
──ワタクシの奇行が有名ですって? だからといって、今回のワタクシに疑いの目を向けられても困りますのよ。──虐待の疑い? あら、とんでもありませんわ。ワタクシは子供を目に入れても痛くないと思っていますのよ。二人とも利発で、虐待をするような欠点など少しも見つかりませんわ。──保険金詐欺容疑? あら、何のことかしら。──「換気扇」? ええ、確かに、不意に動かなくなった換気扇の修理中に旦那の指が巻き込まれましたけど……、オホホホホ、御冗談を。ワタクシは、そのようなことをした覚えがありません。──ええ、本当に。
──ええ、おっしゃる通り、あの日の前日に扇風機の御手入れをしましたわ。──ハネが鋭利に? ええ、確かにワタクシがやりましたことですよ。三枚のハネとも鑢(やすり)で丁寧に削って、綺麗な光沢を出しましたの。御手入れに半日も掛かりましたが、おかげで、とても涼しい風を送ることができるようになりましたのよ。も綺麗になりましたし、心持ち、電気代をうかすことができると思っていましたのに、ユウスケったら血と肉(、)片(、)でべとべとにしてしまうんですもの。あの後の御掃除が大変でしたわ。
──え、コウスケが指を失ったのは、鋭利になったハネが原因ですって? オホホホホ、まさか……。扇風機のハネはプラスティックで出来ていましたのよ。いくら鋭利にしても人間の指を傷つけるほどに研ぎ澄ますことなど出来るはずがないじゃありませんか。──それが可能だ。あそこまで尖っていたのなら、大根までも「大根下ろし」になってしまう? オホホホ。面白い御冗談ですわ、オホホホ。ミキサーじゃありませんし。
──え、それが本当だ。ユウスケの指は粉々になったのだって……。オホ、それは笑えませんわね。では、コウスケの右手の人差し指は元に戻らないのですね、可哀相に……。──故意? どうしてワタクシがそのようなことをしなければなりませんの。面白い御冗談ですわ、オホホホホ。
──ええ、「今度やったら指が飛ぶわよ」と忠告したことは確かです。そもそも、危険なことをしている子供に諭すのがいけないことだとおっしゃるのかしら? オホホホホ。
──もし、カッターの刃なら、指が砕けるような惨事にならなかった、と言うのですか。では、ユウスケは「ハズレ」を引かなければならなかったのですね。しかして、本当にそうかしら。あなたの御機嫌が麗しいなら、カッターの刃では指が砕けないことを証明したらいかがでしょうか。オホホホホ。
四、被害者の妹、ユミの証言
──ええ、私は判っていたわ。あの扇風機にあのような細工がされていたなんてね。どうしてお兄ちゃんは気づかなかったのかしら。確かに前日には遊びに行っていたのだけれど、……きっと自分の思い付きを過信しすぎたのね。
──え、躾? いえいえ、躾なんてものではないですよ。あれは、遊(、)戯(、)。──度が過ぎている……そうなんですか? うちではそれが普通なんですが。──どんな遊戯って言われても……。お母さんやお兄ちゃんに訊いていないんですか? ──え、そんなに言うのでしたら……。じゃあ、お話しましょう。
遊戯は定期的に行われていて、今回の事もその一環で起こったことです。遊戯の規則は簡単。御題と、勝利条件があり、真っ先にその条件を誰よりも満たしたものが勝者。勝者は次の進行役になることが出来るのよ。でもね、遊戯が始まって以来、ずっとお母さんが勝者なんですよ。──ええっと、いつから始まったのかしら。ごめんなさい、良く判らないわ。私のモノゴコロのついたときからあったものだから。──え、そうそう。今の参加者は、お母さんとお兄ちゃんと私の三人ね。──今っていうのが意味深? ふふふ、どのように解釈していただいても結構ですわ。
今回の遊戯の御題は「ミキサー」で、勝利条件は「指を飛ばす」よ。進行役のお母さんが決めたの。──ええ、確かにお兄ちゃんの指が飛んでしまった……でもね、お兄ちゃんは違反を犯したから。──どんなって、説明も無しに部外者を遊戯に巻き込んではいけないのよ。今回の場合だと、コウちゃんを巻き込んだから。ただ単に「ゲームをやろう」っていっただけで、どのような趣旨のものかを少しも説明しなかったんだから。部外者には、ちゃんと何をし、何が勝利条件であるかを説明しないといけないの。つまりは、遊戯の「当事者」にしないといけないの。それを怠ったので規則違反。警戒しない相手を陥れては面白みに欠けるからっていう理由らしいわ。──ええ、お母さんがそう言ったわ。尤も、部外者を巻き込んでいいなら、お兄ちゃんならどんなことでもしかねないわ。指を失ったのは、アンフェアの報いね。
──私が何処まで知っていたかって? ううんと、まずお母さんが扇風機を掃除していたことでピンときたわ。「扇風機」を「ミキサー」にたとえたのね。──実際のミキサーを使わなくても良いかって? ええ。御題はあくまで見立てで、「指を飛ばす」ことで、勝利することになるの。お兄ちゃんの敗因は、「ミキサー」イコール「扇風機」という、お母さんと同じ着想をしたことね。ふふふ。
お兄ちゃんは、あの日きっと私に「ミキサー」を仕掛けたの。──そうそう、「扇風機」でね。
──どうしてあの扇風機に罠が仕掛けられていることを教えなかったのかって? ふふふ、対戦相手にわざわざ有利な情報を与えるはずがないでしょう。あの時点でお兄ちゃんにお母さんの罠を教えたら、私が危険にさらされたんだから。そもそも、情報不足と警戒心の無さは、自己責任でしょう?
──ええ、確かに私は「お母さんが怒るから止めよう」って、「ろしあんるうれっと」をやめさせるような発言をしたわ。──どうしてって。そう言わなければ不自然でしょ。決してお母さんに加担したわけではないのだけど……。
──え、ええ、私はお兄ちゃんのトリックを見破っているわけではなかったわ。──ふうん、そんなこと言ってたの。カッターの刃は外側を回っていたので、内側の方に指を入れれば絶対に安全……ね。なかなか上手く考えたものね。でも、お兄ちゃんが自信を持っていた以上に、私も私の指が安全だっていう自信があったもの。──どんなって。ふふふ。知りたい? そんなに大した事じゃないのですよ。お兄ちゃんはね、無意識にジャンケンをするとき、最初に必ず「パー」を出すのよ。まぬけでしょ、ふふふ。あのときも案の定「パー」を出してきたの。きっと勝機に焦ってジャンケンの順番なんてどうでも良かったのでしょうね。でも、扇風機の外側だろうが、内側だろうが、指を入れたら「ミキサー」状に粉々になってしまうのだから、実はジャンケンの順番こそ大切だったのにね、ふふふ。
あのジャンケンで負けなくて良かったわ。もし、私の右手の人差し指が無くなったら「チョキ」が出せなくなるじゃない。そうなってしまうと困るのよ。でも、お兄ちゃんは今後も「パー」を出せるわね。良かったわ、ふふふ。──え、ジャンケンは三人だから負けていた可能性もあるって? ふふふ。コウちゃんはね、ジャンケンをするときに私がウインクを二回することで、「チョキ」を出すのよ。──え、コウちゃんはジャンケンが運だって言ってたの? 子供を甘く見ないほうがいいわ、ふふふ。
──君は、何も仕掛けなかったのかって? 失礼ね。私がそんなに不能者に見えるのかしら。ちゃんと仕掛けたわよ。「換気扇」が詰まったかと見せかけて、直そうとした途端、指を絡み取らせるようにね。でも、お母さんは掃除をしなかったどころか、故障にも頓着しなかったのよ。だから、今回もお母さんが勝者。まったく歯が立たないわ、ふふふ。
──え、お母さんを訴えられない? 確かにそうでしょうね。お母さんは「ミキサー」を作っただけですもの。お兄ちゃんが自らの意志でそれに指を突っ込んだのでしょうから。世間的に見れば、「扇風機の刃にカッターを付けた子供」が仕出かした事故でしょうからね。でも、安心してください。お母さんの勝利は揺るがないですから。
──ええ、また新たな遊戯が始まっているわ。──え、今回の遊戯の御題……教えてもいいけど、どうするの? ──未然に防ぐ? ふふふ、いいわ。教えてあげる。でも、それを知ることによって、貴方は遊戯の「当事者」になるのよ。──構わない? え、ええ、そんなに言うのなら、教えてあげますけど。
……え、え? でも、そんな、……やっぱり駄目だわ。──そんなに、泣きそうな顔でせがまれても。……だって、すべてがお母さんの思うままなんだもの。──え、何のことかって言われても……。お母さんは私が貴方を当事者に巻き込むことまで想定していたのかしら、やっぱりお母さんには敵わないわ。──え、首が掛かっているから、どうしても教えてくれ? ふふふふっふふふふふふ。
じゃあ、仕方が無いわ、教えてあげる。今回の遊戯のお題は「ネクタイ」で、勝利条件は「首を飛ばす」よ。……後生だから、首の飛ばないように奔走してくださいね。
どうしたの? そんなに青い顔をして、黙ってしまって……。貴方が聞きたがっていたことを教えてあげただけじゃない。
あ、それから、貴方が聴取したコウちゃん、──そうそう、コウジ君。どうやら「ろしあんるうれっと」を広めているようね。──そうそう、「扇風機」にカッターの刃をつけて。きっと、アメ玉をあげなかったからよ。子供心が判っていないわね。ふふふ。貴方の責任かしら?
ア、そんなに青い顔して、何処に行くのかしら。ア、アア、あんなに慌てふためいて。……首でも吊らなきゃいいけれど。……ふふふふふ。
平成十三年十二月二十九日
髑髏を拾う男
エット、──ごーまん、ななせんット、よんひゃく──エ、に、──イヤ、さん、かナ──ウーンと、エ、ナニナニ、こんなところでナニをしているかって。ハハハ、そりゃ、見れば判るじゃないか。エ、地獄があまりにも暇なところだから、気でも狂ってしまったのか、だと。ナニを言う、俺はナ、退屈を噛殺すなんてことは、今までに何十、何万とヤッてきたが、今やっていることがまさにそのうちの一つなんて思われるとはマッタクモッテ心外だナ。じゃあ、ボンクラ男が、どうしてこうも熱心に髑髏を拾いまわっているのかって。──ホホウ、お前サンは、どうにもオレを気違いに祭り上げようとしているようだが、──ハハン、そんなオレに話しかけるお前サンもスコブル変わった人間ではないか。ここでは、自分の前世での悪業を清算するのに精一杯で、大体、空腹を噛殺すだけでも生きた心地──ハハハ、この言葉は語弊があるか、──死んだ心地がしないというのに、そもそも、お前サンのように、他人に話しかけることに頓着する奴なんて、珍獣中の珍獣では無いか。ソウでなかったら、よっぽど、おませサンだ。──ナニナニ、空腹状態なんて、とっくに慣れてしまったのか。ホホウ、お前サンは、ちっこいくせに、何とも達観した頼もしい奴だナ、──ちっこいは余分だって、か。──ハハハ、そりゃ、悪かった、ハハハ。
久しぶりに人と話したせいか、どうにも、しゃべり足りないという気がするナ──お前サン、折角だから、もうちょっと話を聞いていくか──血ノ池地獄のド真ん中まで来たのだから、聞いていかなきゃ損ではないか。ナニナニ、元からそのつもりだと、フウム関心に感心。まあ、そこの髑髏に腰掛けて、──ハハハ、祟られはしまい。既に地獄に居るってのに、これ以上、何処に落ちるというのだ。座り心地が悪いだと──我が侭を言うと、それこそ祟られてしまうぞ、ハハハハハ──。
今から話すのは、オレのとっておきの話だ。ずううととっておくことにしようと思ったのだが、良い機会だから特別に聞かそう。ナニを隠そう、舞台はこの地獄で起きたのだから、今話す機会を逃すと、いつ披露できるとも限らないからナ。
さて、この話をする前に、地獄にはとっておきの場所が一箇所だけあるということを知っておいてもらわなければならない。──そこが何処なんて知っているのは極少数、──しかも、タダでさえ、無口な地獄の住人が皆皆、口を揃えて、その場所を言いたがらない。にもかかわらず、その場所にまでたどり着ける者が満更ではない数いるのだから、地獄耳とは良く言ったものだ。
ナニ、お前サンもそこを探しているのだと、──ハハン、だから、わざわざ気違いのボンクラ男に声をかけたのだナ。
だが、悪いことは言わないからやめておけ──などと言っても、お前サンはそこを探しかねないような目をしているナ。まあ良い、今からオレの話を聞いておいて損はない。口実は出来たようなものだナ、ハハハハハ──。
オレが、この地獄に着たときにはナ、──そうそう、お前サンのように、うすのろな顔をして、この地獄を右往左往と、途方も無くさまよった。そうして、何処もかも歩き回ったあとに、はあ、とため息をついて、ココがどうしようもなく地獄であると実感したわけだ。そうなると、地の底に沈んでしまったように気分が滅入ってしまった。
さ迷っていた時分に、ふと頭に過ぎったのが母様の顔だ。現世に居るときには、ろくに顔を合わせず、たまにあっては、愚痴を溢すものだから、散散疎ましがっていた、あの母様がダ、こう一度地獄に落ちて、もう、生き顔も、ましてや、御墓さえも仰ぐことが出来ないとなると、ドウにも無償畜生に悲しくなってナ、いてもたっても居られないところへ、あの噂を聞いたわけだ。あの噂とはドウいうのだって──ハハハ、お前サンはそれを聞いてここまで来たのではないか。──噂によると、地獄に居ながらにして、天国に居るものと会話を出来るというのだ。オレは、すぐさまその場所を目指した。しかし、当の噂の場所──ココに、どうしてこんなに髑髏が落ちているのかって──ハハハ、お前サンもなかなか鋭いナ──まあ、その応えは、オレの話を聞けばおのずと判るであろうから、話を先に進めることにしよう。
オレは、母様が天国に居ることは判っていた。なぜかって、ハハハ、こんな地獄に落ちるような畜生を、幾度も幾度も面倒をみてきたのだからナ、天国に行ってもなおも御釣りがくるってものだ。その母様に、一言御礼が言いたいと思ったのだから、オレもなかなかどうして改心しただろう──ハハハ、地獄は、本当に恐ろしいところだナ。
で、オレもお前サンのように、この髑髏の丘まで来たわけだ。無数に存在する髑髏を掴み踏みしめつつ、登っていくと、天辺をたどり着いた。──ほら、あの上の上──ナニ、見えない──ホラホラ、目を凝らして、ほのかに白いあの部分が天辺だ。ソウソウ、あそこまでいかなきゃならんのだよ。簡単にたどり着いたなんて言ったが、しかし、オレ以外に、天辺にたどり着いた奴は、見たことがないナ。──何故わかるかって、ハハハ、今までこうして髑髏を拾っている間に、オレの前を何十、何百の輩が通りすぎていったが、降りてくるきゃつらを見ると、どうしようもなく絶望に満ちた微笑を顔にたたえながら、転げ落ちてくるのだからナ。──ソウソウ、そもそも、帰って来ない奴がいないのだから。地獄に落ちて、何かにすがろうなんて輩は、根性が座ってないのだろうがね。然るに、十数日かけて、オレは、この丘の天辺までたどり着いたのだ。──といっても、どれだけの日数が過ぎたかわからない、三日程度かもしれないし、相当の月日を費やしたのかもしれない。そもそも、この地獄には、時間の認識が必要無いのかもしれない。そうすると、どうだ──時間厳守ってこともなかろうし、ちょっと待って、などという発言もおかしくなる。すべてが狂い始めて、結局は、すべてが怠慢になる。だから、努力なんてものは、次第に失われていくのだろうし、執着もなくなってしまう。時間の認識が失われていくのを認識するか否かによって、きっと餓鬼になってしまうか否かが決定されてしまうのに違いない。だから、地獄のものどもに根性の根の字も生じないのは、或いは仕方の無いのかもしれないがナ、ハハハ──。
話が逸れたが、オレが散散、文字通り、骨を折って登った天辺には──何もアリはしなかった──全く、散散たるありさまだったのだ。──今まで通りの白い髑髏の更につみあがったものが無くなっただけに過ぎない。ああや、くたびれモウケだ、と、天に向かって唾でもかけてやろうかと見上げると、丁度、上空にただひときわ輝くの光が、目に映った。いままで、何気なく見上げていて、星とばかり思っていたものが、これほどまでに登ると、夜空に輝くお月さんみたいに大きく見えるのだと判ると、何だか、妙に望郷にも似たしみじみとした気分になり、さっきまで込み上げていた、分別の無い憤りなど、真っ暗闇のナカへとけこんでしまった。
するとドウだ、暫く空を見上げていたオレの耳に、卒然、遠く、深く、力強い調子の声が響き渡り、──それが、天国からの声であるのに刹那も疑いは無かったナ。
──よくぞ、ここまで来た、云云云云──と、まあ、そのくだりからいって、仰仰しい説教のようであり難い祝詞のようであったが、まあ、内容としては、オレが噂で前前から聞いたことがあるものと、相違無かったナ。つまるところ、天国に居るものと、会話が出来るというわけだ。
オレは、そのものに、もったいぶった上に、それとなく母の名を告げた。すると、どうだ、声の主は、感心したような溜息を漏らした。
──いいだろう、と唸ったのち、突然その声が止んだ。すると、すぐさま、呻きのようなか細い声が劈くように響いた。
ああ、それに耳を傾けた途端、オレの目からどっと涙があふれ出てきたのだ。地獄に落ちたありさまだからナ、こんな身分で母様の言葉を聞くことが出来るなんて、ありがたくてありがたくて堪らない。母様も、すすり泣きような擦り切れた声で、しきりにオレの名を呼ぶものだから、嬉しいやら、恥ずかしいやらで、モウ、みっともないほどのぐちゃくちゃのありさまになった。
と、そこへ、急に母様の声が低まって、呟いた。
──実はな──。と、思いも寄らない話をし始めた。
──お前を助けてやろうと思ってなあ。
助ける? ──オレは、一体何を急にそんな話を始めるのだと、訝しいほどの驚きで、その心境を言葉に出来ない状態だった中を、母様はたんたんと、オレの助かる方法を説明し始めた。
今から垂らす網を上に登ってくれば、天国へと通じている。その網につかまって、ひたすら上りなさい。ただし、何があろうとも、下を見てはならない。──というようなことを、口早に伝えてきた。
漸く、母様の「助ける」の意味を理解したが、ドウにも、気乗りがしなかった。大体、地獄から天国に行くという前例を聞いた試しはないし、内容はドウも「蜘蛛の糸」に酷似しているから、胡散臭さを感じずにはおれなかった。が、しかし、母様の声は真に迫るものがあるし、オレを助けようという感情が、針をたしなむように痛い程、伝わってきたのは確かだ。そうした心境が右往左往して、ドウにもハッキリしない返事を伝えると、それを聞いた母様は、大声で荒げた。
──お前は、網を渡る勇気もないのだね。ああ、あきれてしまった。まさか、地獄に落ちて漸く改心したと思ったのに、未だ親を泣かせるのだね。このボンクラ。──
そこまで言われると、ついにオレの頭の血も上り、何でもやってやる──と、言い返してやった。
すると、天にある月ほどの光から、するすると、網が垂れ下がってきた。で、丁度、オレの頭くらいのところまで来ると、如何にもオレに上れと言わんばかりにぴたりと止まった。ようし、それならば、これを登りきって天国の母様にぎゃふんと言わしてやろう、と意気込んで、ぐいと、しっかりと綱を掴みしいしい、登り始めたのだ。
その網を手にした途端、奇妙な感覚がオレを襲った。今思えば、身震いしてしまうがナ。然るに、その時は、何も知らなかったわけで、──まあ、何も知らないから、ただ、血生臭く、ほのかに暖かく、妙にべとべととして、こんなものを垂れ下げる天国の住人は、なんとも悪趣味だナ──と、ぶつぶつと文句を吐き出したわけだ。
──ソウソウ、時折、オレが悪態を呟くたびに、風もないのに、大きく揺れるものだから、そういったときは、流石に閉口して、目を閉じて、ガタガタと震えながらも、必死になって、網にしがみ付き、揺れがおさまるのを、じじと待つより他なかった。で、悠久なる時間をも思わせるそのときを凌いで、漸く網が安定すると、再び、ぐいぐいと引っ張り上げて、ゆっくりと登り始める──この全くトンデモナイ所業を何十回、何百回と繰り返したか、知れない。
さて、そうこうするうちに、オレにも、多少現状を把握する余裕が生じ始め、そうするが早いか妙に不安な不快な気持ちに襲われた。というのも、この網が、不思議と悪趣味な素材で出来ていると述べたが、オレが既に通過した網の部分は、ぽとりぽとりと、脆くも崩れ、落下しているのに違いないという妄想──いや、ほとんど、確信に近いような感覚に取り付かれてしまったのだ。さて、ソウ思い込むと、──どうだ、強がって登ってきた今までの意気込みが、神妙に捩れ曲がって、モウ、脳髄の中身は、不安でイッパイになってしまっていた。
また、登るにつれて、網の形状が、実はとんでもなく奇妙に変化しているのが、手にとっているのだから、気づかないはずはなかった。血生臭くて、非常に柔らかくざらざらな部分かと思えば、ピンと筋張りつるつるとスベるもの、──そうして、一番登りやすかったのは、髑髏のように白くて、うっすらと視覚でも確認でき、細長く、硬く、節があるもの──そういったものが、交互に連なって網になっているのだということが、手の平からぴりぴりと伝わってきた。
オレは、実は、上昇などしてはいないかと、不安になって、幾度となく天を見上げた。すると、月のような微かな光の穴は、微かではあるが、手綱をたぐりよせるにつれて、次第に大きくなっているのが、確認できた。その穴の存在だけが、唯一の心の支えだったわけだ。で、上に向かうにつれて、その穴から、光が発せられ、網がそこへ向かって繋がっているのが、──勿論、今から思えば、穴から垂れ下がっているのだから、「網が穴に向かっている」というのは、逆説的で非常に滑稽で皮肉なことだが、──ありありと判ったのだ。で、その穴に近づくにつれて、辺りの様子が、光に照らし出されて、色づいているのも、この目でキッカリと、確認できた。
──ああ、しかし、あの時の光が、どれだけの残酷さを極めていたか、──その光によって、漸くオレの握っている綱の正体が、判然としたのだ──網は人間を長く引き伸ばして出来ているのに違いない、と。気持ちが悪いくらい妙にべとべとしていたのは、血の付着のためだ──網の形状が異なっていたのは、人間の臓器、皮、骨が、混在していたためだ──そうして、オレは、それらを知らずに、ぐいぐいと引っ張り上げて、天国へ向かっていたのだ──そういったことを、このボンクラな脳が悟ってしまうと、オレの身体は、もう、どうしようもないくらいに、がたがたと震え出した。
それでも、オレは少しずつ進まねばならないという義務感を宿した。──母様に会わねば──それだけを願いながら、もう、すっかり目を閉じて、慎重に、ゆっくりと、網を手繰り寄せた。触覚は、痛いくらいに引き伸ばされた臓器を噛み締めていた。
──やがて、俺の手は、硬い比較的大きなモノに触れた。──これは、何であろう。と、あまりに単純に──首を傾げた。──いや、そんなことを思わずとも、オレは判ってしまっていた。それは、──たった今、手に掴んだのは、──まぎれもない、頭蓋骨だ。
すると、オレの目は、いつのまにやら、かっと見開いてしまっていた。天井から発せられる光でその骨は燦然と輝いている。──天国が近いのだ、と心を落ち着かせようとしたが、オレの眼界の焦点は、頭蓋骨から離れなかった。と同時に、オレの目からはらはらと涙があふれていたのだ。──もう、マッタク不思議であったが。
オレの頭の中は、真っ白になっていた。が、ぽかんと開いたその空間の領域に、絶望に近い疑念が入りこんできた。
──マサカ、マサカ、そんなはずはあるまい。トンデモナイ愚かな思いつきにかぶりをふって、恐ろしく震えつづける右手を頭蓋骨の上にかけた──その網の形状は、髪の毛であった。ゆっくりと身体を持ち上げ、頭蓋骨に足をかけると──。
ふわり──頭蓋骨が落下してゆく──。
──かかああさああああまああああ──絶叫と共に、オレは、思わず、見下ろした。オレの曇った視界の中で、白い点がどんどんと小さくなってゆく。──と、同じにオレの握っていた髪の毛がぶちとちぎれた。そのときに、オレは漸く言いつけを思い出した。──そうだ、見下ろしてはいけなかったのだ。
と同じに、間近で輝いていた天国の穴は、見る見るうちに小さくなっていった。そうして、オレは、髑髏の丘へと落下した。
──話は以上だ。
ナニナニ、お前サンだったら、頭蓋骨に頓着せず、そのまま登ることが出来る、か。──ホホウ、それは、感心だな。
お前サンが何と言おうと、オレはこうして再び地獄に落とされてしまったことを少しも、不満ではない──むしろ、あり難いとも感じている──こうして、髑髏の山を漁っていることにナ。──ハハハ、まあ、気が違ってしまったと言えば、それまでだがナ、ハハハ。
──ナニナニ、今、お前サンの座っているモノが、母様の頭蓋骨かもしれないではないかって。──ハハハ、そんなはずはあるまい、そんなはずあるまいよ。ハハハハハ──。
平成十四年九月五日
黄色に魅せられて
第一章 黄色い猫から落ちる
あやめは、とにかく黄色いものが好きでした。それはもう、食べ物であれ、飲み物であれ、黄色いから好きなのか、好きだから黄色いのかがわからないほど好きだったのです。
そして、そのことは、乗り物であっても例外ではなかったのです。「もし、この世に黄色がなかったら」と、あやめは、黄色いブランコをこぎながら呟きました。
「黄色がなかったら」と言いながらも、格別に眠くなってしまっていた自分に気づきました。
「あらやだ、ブランコをこぎながら寝てしまうなんて、何てけったいな事でしょう」と、誰もいない公園中に遠慮して言いましたが、「けったいな」という言葉が実に良い表現だと思ったので、続く言葉が、とても大きい声になってしまいました。
「何てけったいな事が、あったとしても、そうね、黄色いブランコだから許されると思うの」
そう言いながら、あやめは、地面を蹴ってますます揺れを激しくしていたのでした。
「何て、世界が速く動くことでしょう。あまりに速いので、なんだか黄色く見えるような気がするわ」
第二章 私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから
実際、あやめの周りの景色は、どんどん、黄色に染まっていって、やがて、本当に辺りが黄色になってしまったのです。不思議に思って、ブランコを止めようとしましたが、あやめは自分の身体がブランコから降りているのに気がつきました。
「ブランコから落ちたのかしら」と、あやめは首を傾げました。「でも、もし落ちたのなら、どすんとお尻を打たないといけないはずだわ。だったら、きっとブランコが私から落ちたんだわ」
あやめは、そう思って辺りを見回し始めましたが、黄色ばかりの世界には、ブランコの板らしきものが落ちていませんでした。
代わりに見つけたのは、なにやら、停留所のような標識が一本と、それを横切るように連なる石畳のような道だけでした。道は、とにかく左から続いていて、とにかく右に伸びているので、一体全体何処から来て、何処へ行く道なのかがわかりません。見える限りの一本道なので、辿っていけば迷うことはないはずです。しかし、どちらに行けば良いというのでしょう。
「もし、どちらかに進むとしましょう。帰り道を目指しているのに、行き道へと進んでしまったら、間違えに気づいて折り返したら、かなりの時間を無駄にしてしまうでしょうね」(単純に考えれば、三倍の労力の無駄になってしまうのでしょう)
「でも、どっちにも行かないとしたら、どれだけの無駄となるのかしら」あやめは首をかしげながら標識を見ました。標識にはこのように書いてありました。
「私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから」
「まあ、何てへんてこりんな駅の名前かしら」とあやめは声をあげたあと、意味をかみ締めるように呟きました。「そもそも、『私』って誰かしら。『あなた』は私のことかもしれないけれど」
「私が、誰だって言いたいのかい」と、突然声がしました。
「まあ、どの黄色が喋ったのかしら、見当もつかないわ」
「おっと、待った。目を凝らしちゃいけない。俺を見たいなら目をそむける事だ」
あやめは、言われたとおりにひょいと首を傾けて目をそむけると、目の前の道の中央に大きな輪郭が浮かび上がりました。
「あら、不思議」
「不思議なものかい。ここでは『動かざるもの見るべからず』さ」
「せわしいのね。でも、私は動くのが好きよ」と言いながら、あやめはぴょんぴょんと飛び跳ねると、目の前にいる輪郭の正体がわかりました。そこには、象のようにとても大きな猫が立っていました。
「あら、あなたが喋ったのかしら」
こんなに大きな猫が喋るのにびっくりしたので、ぴょんぴょんと飛びながらも後ずさりしました。
「もし、俺が喋らなかったとしたら、俺以外の誰かが喋ったことになるのだろうね」と言って、大きな猫が何処かへ行こうと動き始めたので、あやめは慌ててそれを制しました。(もし、ここでこの猫を見失ったら、一体全体次に話ができる機会がいつ訪れるのかがわからないのです)
「あの」とあやめはなるべく失礼にならないように、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらも質問しました。「あなたの名前は何というのかしら」
「俺の名前は、俺にはわからない。俺以外が知るのみだ」
「じゃあ、『俺以外』さんに聞けばよいのですね」
「ああ、そうしてくれ」と言い、再び、何処かに行こうとするので、あやめは話を畳み掛けました。(もし、この世界へ来てばかりでなかったら、そして、この猫の横に「俺以外」がいたのなら、すぐにでもこの猫との話をやめてしまったことでしょう)
「あなたは、動いていないように見えるけど、私を見えるのですか」
「君が動いているから、俺を見えるのさ」
「でも、あなたが初めに私に声をかけたのですが」
「そのときには、俺が動いていたのさ」と言い、三たび、何処かに行こうとするのをあやめはもう、止めませんでした。
猫は、見た目の大きさからは想像のできないほどの素早さで、石畳を走り抜けていきました。(その猫は一駆で石畳の四つ分を進んでいたのです)
「何て速いのかしら」とあやめはため息交じりに言いました。「でも、いなくなって清々した気持ちのこみ上げてくるよりは、若干、そう、若干遅かったようだわ」
第三章 不規則な石畳
あやめは、ぽつんと一人で取り残されていました。でも、ここに来た当初よりはそれほど寂しくありませんでした。
「少なくとも、会話ができる『へんてこりん』がいるのだもの。また、会話する機会が無いなんてことは、無いはずだわ。でも、彼だって、もう少し、『へんてこりん』でなかったさえすれば、ね」
そういって、気を取り直して、あやめは、この標識の下で待つことにしました。「もし、次に会うのも、彼と同じだけの『へんてこりん』だったとしたら、果たして寂しい思いがしていたときよりも好転しているのかしら」
しかし、そのような心配をしながら、二分待っても、その二倍の時間を待っても、何もそれらしき乗り物があやめの待つ停留所には来ません。「まあ、何て役に立たない停留所なのかしら」とあやめはとうとう我慢の限界を超えました。
「何時間経っても来ない停留所だったら、無いほうがましかもしれないわ」
そう言って、とうとうあやめは石畳の道を歩くことにしました。(しかし、あやめが歩き出したのは正しかったのです。このまま止まっていれば、見えるものも見えなかったはずなのですから)
あやめが、歩き出したのは停留所から向かって右方向でした。理由は簡単です。先ほどの大きな猫が右側へと走っていったからです。
道は、とても不思議な形をしていました。あやめが乗ると、ふんわかとやわらかい弾力があり、まるで、潰れない風船に乗っているかのようです。
「まあ、何て素敵な道かしら。もしこんな素敵な道が普段の道だったら、歩くのがとても楽しくてしょうがないことでしょうね」
骨のように連なる長方形の石畳の一つ一つは、どれもほとんど同じ大きさをしていました。ただ、不思議なことに黄色で塗りつぶされているものと透明なものと、二つの種類があります。それらが交互に連なっているわけでもなく、まるで、何も規則性が無いように配置されているのです。
「この道を作った人は、何て『へんてこりん』なのかしら。もし私だったら、そうね。交互にして縞状に配置するわ。きっとその方が素敵ですもの」
そう言い終わるか否かのうちに、大きな猫が、前に立って話しかけてきました。
「はあい、君、君」
一番初めにあった猫と姿かたちが瓜二つでしたが、馴れ馴れしい態度なので、先ほどとは違う猫だということがはっきりしていました。
「なにかしら」とあやめは、そっけなくそっぽを向きながら、歩くのをやめませんでした。「ねえ、ねえ、君は何処へ行くの。ねえ、ねえ」
「きっと、あなたの知っているところよ」(でも、私にとっては知らないところだけど。と言おうとしましたが、なめられてはいけないと思い、口をつぐみました)
「なんだい、つまらないなあ。でも、君の知らないところになら、何処へでも連れてってあげるよ。ねえ、ねえ」
「あら残念、その必要は無いわ。だって、ここも十分私の知らないところだから」
「ふうん、じゃあ、何処に行きたいの」
「そうね。残念ながら、行きたいところがわからないの」(だって、行く場所の地名さえ指定できないんだもの)
「じゃあ、迷子なんだね、ふうん」
「そうとも言えるけど、そうでないとも言えるかしら」(だって、誰かからはぐれているわけでもないんだもの)
「じゃあ、ねえ、君。僕は一体全体どうしたらいいんだい」
「きっと、そのまま通り過ぎるのがいいんじゃないかしら」
猫は、妙案だと言うばかりにこくりと頷きました。
「うん、そうするよ。じゃあ、君、君、またね」
「ええ、ごきげんよう」
大きな猫が高速で走り去って行く姿を見届けると、あやめは二つの理由にびっくりして我が目を疑いました。
一つは、さっきの「へんてこりん」な猫とは違い、今度の猫は、石畳を丁寧に一つずつ駆けているにも関わらず、たいそう足が速かったからです。(四つの石畳を飛ばして走る猫と、一つずつ踏んで走ってゆく猫が、同じ速さで進んでゆくとしたら、どちらが能力が高いといえるでしょうか)
そしてもう一つの理由は、猫の踏んでいった石畳が、時折光を発して、透明のものが黄色に、黄色のものが透明に反転しているのです。
「まあ、何て素敵なことができるのかしら」あやめは、とても喜びました。で、大急ぎで、黄色のものが透明になった石畳に駆け寄りました。真上でじっと見つめましたが、あたかも、今まで透明であったかのように落ち着いています。
「まあ、何て素敵なことができるのかしら」と、あやめは先ほどと同じ抑揚で呟きました。
石畳は、あやめがぴょんぴょんと飛び跳ねても、ぴくりとも反応しません。試しに、全力で走り抜けてみましたが、無駄でした。仕舞いには、叩いたり、蹴ったり、地団太を踏んだりしてみましたが、やはり、結果は同じでした。
「きっと、性格がひねくれていないと、できないのだわ。こんなにまっすぐ伸びている道だというのに」
そういった折に、大きな猫があやめの頭上を飛び越えて通り過ぎていきました。今度の猫も、上手にところどころの道の石畳を反転させて進んで行きました。(今度のは、石畳を二つずつ進んでいきました)
「もし、ちょっと前の私だったら、くやしがったかもしれないわ」と、あやめは、ふと、思いついたことににんまりとして、少し前の自分に難癖をつけました。
「でも、今の私には」と、あやめは思案しながら、独り言を続けました。「今の私には、とっておきの方法があるのだから、くやしくないの」
そういうと、あやめは、今まで歩いていた道の真後ろを向いて、後ろ向きに進みました。(つまり、進んでゆく方向は先ほどと一緒です)
そうして、しばらく進んでいると、再び大きな猫が、あやめの方に向かって来るのがわかりました。で、ぐんぐんと近づいて追い越される瞬間を見計らって、あやめは、えい、とがむしゃらにつかまりました。
すると、実にうまく大きな尻尾を握ることができました。更に不思議なことに、あまりに速く走っているのに、振り落とされそうな気がしません。むしろ、綱引きのようにぐいぐいと尻尾を手繰り寄せると、うまく大きな猫の背中に乗ることができたのです。
あやめは、猫の背から見る道がとても美しい風景を刻んでいるのに驚きました。道が、大海を押し広げる船のように美しい黄色い光の波を掻き分けています。しかも、先ほどまで黄色ばかりだった辺りの様子が、実にくっきりと見えるのです。
「あら、あんなところに赤い屋根の家が見えるわ」
第四章 屋根の上の不動亀
「きっと、かなり遠いのにあまりにはっきり見えすぎるのよ。ただでさえ、赤い屋根で目立つというのに」一向にその家に辿り着かないので、あやめは、暫く走っている猫の背中の上で、じれったく思いました。
どうやら、速く走るほど、くっきりと世界が見えるようです。ただ、家にたどり着かないのは、そればかりの理由でもありませんでした。猫がぐんぐんと突き進んで行くにつれ、家は、ぐんぐんと大きくなっていくのです。そして、あやめが普段見慣れている家の大きさよりも更に大きくなりましたが、まだ、辿りつく様子ではありません。
「目の錯覚かしら」と、あやめは首を傾げました。「でも、家があるのなら、誰かが住んでいるはずだわ」
そう思って、あやめは大きな猫の背から飛び降りました。(とても大胆なことですが、あやめは飛び乗ることが「乗る方法」なら、飛び降りることが「降りる方法」だと思ったのです)
勢いよく、石畳の上に降りると、ふわりと吸収されるように弓なりになって、石つぶてのように弾かれて、空へと舞い上がりました。
どすんと、尻餅をついたので、あやめは何処に落ちたのか暫くわかりませんでした。が、辺りを見回すと、真っ直ぐに連なっている道が彼方にうっすらと見えているのがわかりました。
「まあ、何て高いところかしら。あんなところから飛んできたなんて。きっと、ここは大きな家の屋根の上に違いないわ」
そう思うと、あやめは、途端にこの屋根が傾いているような気がしました。実際、屋根は何処かの工場のように山なりにでこぼことしているのです。その感覚に従えば、屋根にしがみついていなければいけないような気がしましたが、あやめは、ひょいと立ち上がることができました。
「お嬢ちゃん、何をそんなに困っているんだい」と、声がしましたので、振り返るとそこには、とても小さな緑色の亀が眠っているように座っていました。
「あら、私が動いていないのに、亀がはっきりと見えるわ」と思いつつも、こんな傾いた屋根で動いてしまったら、たちまち屋根から転げ落ちてしまいそうです。
「『ここ』が正しいのかしら。『あそこ』が正しいのかしら。でも『ここ』が高いのだから『あそこ』まで行かないといけないのかもしれないわ」
あやめは、亀に困っているように思われたので、困っているような気になってしまいました。
「ええ、実は、大変困っているの。ここが、高いのか、それとも、傾いているのか、ええと。それらがわからなかったものですから」それとも、あなたがとても小さいのから、とつけ加えそうになったのを、遠慮する心のゆとりがあったのが不思議なくらいでした。
「ふむ。それは、とてもむつかしい問題だね」と、小さい亀からは信じられないほどの、とても大きな返事でした。
「ここが、どれだけ高いのかを知るには、道からの距離を測らなくちゃならん。また、ここがどれだけ傾いているのかを知るには、道からの角度を測らなくちゃならん、と思うがの」
「いえ、『どれだけ』という具体的なものは知らなくても良いのです。ただ、自分が『どういう』状態にあるのかが気になっただけなのです」
「ふむ。気になったことが、気に入らないということかの」
「ええ、まあ、そういったようなことです」と、あやめは、話がこんぐらがらないように、頷きました。「ただ、私は、ここから『どうやって』降りようかと思案していたのです」
「そうかい、そうかい。それも、とてもむつかしい問題だね」と、発せられる声が次第にゆっくりとなりながらも、更にはっきりと聞こえました。
「王子様が、君を『いつ』迎えに来るというのだね、と、確認しておいたほうがいいのかの」
「王子様ですって。王子様なんて知りません」あやめは、いきなり突拍子の無いことを言われてびっくりして否定しました。
「そうかい、そうかい。じゃあ、知っておいたほうがいいね。君は、王子様を待っているんだから」
「では、私は、この屋根の上で、ずっと待っていればいいのかしら」
「ふむ、それもむつかしい問題だね」それを言い終わるころには、あまりに亀が言葉を紡ぐ遅さに、眠くなってしまうほどでした。「そら『あそこ』に煙突があるだろう」
そう言われたので、あやめは辺りを見回すと、確かに煙突を見つけました。といっても、この大きな屋根に比べればとても小さなものです。
「煙突まで辿りつければ、良いのではないのかの。ただし、最短の距離でいかなくちゃならん。いかなくちゃならん、と思うがの」(あやめと煙突は、山なりになっている屋根のちょうど山の部分にいます。そして、その間には、四十五度の坂になり、下りきったとこから、四十五度の山になっています。つまり、真横から見れば、あやめと煙突を直線で引いたものから、九十度の角度で谷側にくっきりと切り取ったような感じです。で、真上から見れば、その谷を挟んで、あやめが右下に位置するとすれば、丁度、斜め四十五度左上に煙突がありました)
「最短距離で行かなければ、何か起こるのでしょうか」とあやめは眠そうになるのを必死にこらえながら、質問しました。
「ふむ、何か起こる必要があれば、何か起こると思うがの」
あやめは、わかったかどうかもわからぬまま、辺りの状況を見て、すぐさま歩き出そうとしました。「とにかく四十五度づくめだから、左四十五度に進めばいいのだわ」
そう言って、数歩進むと、突然、足元の屋根が崩れ落ちて、途端に吸い込まれてしまいました。
第五章 重たいは明るい、軽いは暗い
ほの暗い落とし穴は、どこまで行っても続いていきます。ころころと転がっていたあやめは、もうとっくに落下に慣れてしまい、いつのまにやら自分の足で走っていました。
「おやおや、一体全体何処までいくのかい」
という声が聞こえなければ、あやめは自分がいつまで走っているのかどうかを考えもしなかったはずです。きょろきょろと見回しても、声の主がわかりません。不意に足元をみると、そこには一匹の白い蛇が、自分と同じ速度で走っていたのでした。
「まあ、何て速い速度で走ることが出来るのでしょう」とあやめはびっくりして離れました。(というのも、蛇を意識したから、踏んでしまいそうだということに気づいたのです)
「そんなに失礼にされたのは、生まれて初めてだ」と蛇は怒りながら、あやめの足に今にも絡みつきそうなほどに近づいて併走してきました。
「そんなに近づいたらいつ踏んでしまうのかわかりません」あやめは困惑したように言いました。が、蛇は、あやめの足の間を「8の字」になるように、くるくると廻っているのです。
「そんなに踏んでしまうと思うのなら、止まればよい」
なるほど、と思い、あやめは走るのを止めると、不思議なことに落とし穴は落とし穴でなくなっていて、洞窟の出口にいることがわかりました。
「あら、そんなこと、ちっとも気づかなかったわ。どうもありがとう」とお礼を述べようと足元を見ると、白い蛇は、しゅるしゅると出口の方へと向かっていました。
あやめもそれに続くと、辺りは急に開けて、不思議な岩がいくつもある広場に出ました。
岩は透き通っているのにもかかわらず、色がついていました。色は、どうやら赤色、緑色、青色の三種類だけでした。しかし、岩が重なると、手前の岩の色が裏の岩の色と溶け合って、さまざまな色を表していたので、岩が半透明なことを忘れてしまうほどでした。
「まあ、何て素敵な岩なのかしら」あやめは、これほどまでに色鮮やかな光景を見たことがありませんでした。「黄色は好きだけど、黄色が好きって実感できるのは、きっと周りに他の色があるからだわ」
透き通る岩がどうなっているのか、触って見ようとした瞬間、声がしました。
「それに触っちゃいけない」
振り向くと先ほどの蛇が、背筋をぴんと伸ばして、あやめを見ていました。(もっとも、あやめの目には体のすべてが背筋のようでした)
「そんなに軽い色に触っちゃ、途端に体が浮き出してしまう」
「色に軽さなんてあるのかしら」
「あるとも、あるとも。もし、色に重さがないとしたら、果たして何に重さがあるというのだい」そう言われると、確かに重さがあるような気がしてきました。
「でも、色によって重さが違うのでしょうか」
「そうとも、そうとも。最も重い色は、白色だね」と、白蛇は答えました。
「それは意外だわ。最も重いといえば、てっきり黒色だと思っていました」
「黒は、最も軽い色。触ったら、途端に体が浮き出してしまう。浮いちゃ駄目だよ。なんたって、沈んでいかなくちゃいけないんだからね」
「沈むより、浮いたほうが楽しそうだわ」と思いましたが、蛇があまりにも非難を浴びせたので、反論しませんでした。
「とにかく、先を急ぐかの」そういって蛇は、まるまったり、伸びたり、器用な動きで岩の脇をすり抜けていきました。無駄な動きのようで、あまりにも素早いので、あやめは少し小走りで追いかけなければなりませんでした。
「白が最も重いのなら、どうしてそんなに素早く動けるのかしら」と、あやめは独り言のようにつぶやきました。
「重いものが速く動いてはいけないとしたら、動く順番としては、まず、周りの岩が先に動かなくてはならないね。まあ、結局は、周りの岩たちが動いていて、僕たちは全然動いていないことになるのだけどね」
前半の話には納得できましたが、白蛇の姿を追いかけているあやめにとっては、後半の話には納得できませんでした。
「周りの岩たちが動いているとしたら、どうして汗をかかないのかしら」
「それは、ね。汗をかけないからさ。そうらみてごらん」
と、蛇の言われたままに見ると、広間の中央には大きな井戸がぽっかりと口を開けていました。その外周があまりにも広いので、まるで垣根のついた池のようでした。(ただ、池ではないことの根拠が一つ、水らしいものは何もなかったからなのでした)
白い蛇は、そこに着くなり、ぴたりと振り返り、あやめが到着するのを、背筋を伸ばして待っていました。その様子を見ると、更に急がなければならないと思い、慌てて蛇に駆け寄りました。
「どうして、そんなに慌てているんだい」と、到着したあやめを蛇は不思議そうに眺めました。
「汗をかいてしまいそうじゃないか」
「だって、そんなに背筋を真っ直ぐにしているのは大変でしょう」と、あやめは申し訳なさそうに言いました。
「ふん、そんなに急いでくるほうが、よっぽど大変だと思うけどね」
蛇は、不機嫌そうに、鼻を鳴らしました。「まあ、とにかく、自分に触っておくれ」
「え、白はもっとも重いので、触ってしまったら、沈んでしまうって言っていたわ」
「しかるべきところで、しかるべきことをする以外はしてはいけないだけだ。ここでは、自分を触るべきなどとは思わないかね」
「では、そうしましょう。で、しかるべき触る『ところ』とは、何処なのでしょう」
「うむ、わかればよろしい。では、尻尾を触っておくれ」
あやめは言われたままに、さし出しだされた白蛇の尻尾を触りました。
第六章 おしゃべり森の逆さコウモリ
尻尾はにょきにょきと伸びていって、あやめはその先を持っていたわけですから、ずるずると、井戸の方へと引っ張られていきました。井戸の中をゆっくりと落下していったわけです。
井戸の中は暗かったので、あやめは不安に思いました。が、そう思った途端に、蛇の尻尾の先が光りだしたので、井戸の中がすっかりと良く見えるようになりました。井戸の壁には、様々な看板が建てかけてあるのがわかりました。
「あらやだ、こんなにたくさんの看板があったのに、暗くて、気づかなかったなんて。気づかなかったら、看板の意味がないじゃない」
看板は、あやめがきちんと確認できる向きのあるものを探す方が難しかったほどです。つまりは、てんでばらばらに壁に打ち込まれていたのです。なので、あやめはどちらを向いていればいいのかわからなくなってしまいました。
「もしもし、ここでは、そんなに首を傾げなくていいんですよ」と、ぱさぱさと舞い降りてきたコウモリが言いました。
「あら、コウモリさん。でも、どの看板を読めばいいのかわからなかったものですから」
「自分に合った看板がきっと見つかるはずですわ。私はこのように逆さに飛んでいるので、逆さにむいている看板に目を奪われてしまいます。といっても、私から見れば、あなたが逆さなんだけどね」(そうです、コウモリは、先ほどから頭を下にして空を飛んでいるのです)
「自分に合った看板を見つけるなんて。看板は、あえて見つける必要のないものだと思っていたわ」あやめの知っている看板は、見たくなくても自然に目が向いてしまうような派手なものばかりだったからです。
「ここは、意味のあるものばかりがあるばかりです。なので、何に目を通しても結構ですわ。ご自由に」
そういうと、コウモリは満足したように井戸の更に奥の方へと飛んでいってしまいました。(つまり、逆さのコウモリの「上」へと飛んでいったのです)
「ご自由どころか、不自由しないわ」あやめは、看板の一つに注目しました。
「本日、十九時より、舞踏会。来たれ、『おしゃべり森』を抜け、いざお城に参らん」
「亀さんが言っていた王子様は、この舞踏会に来るのかしら」とあやめは首を傾げました。「でも、時計や、空の光がなければ、いつが十九時なのかわからないわ」
その看板も通り過ぎ、やがて井戸の底が見えてくると、蛇のしっぽは伸びるのをやめてぴたりと止まりました。あやめが底に足をつけて、辺りを見回しました。が、どこも、看板で埋まっています。ふと、前を向きなおすと、先ほどのコウモリが眠たそうに看板の一つにぶら下がっていました。
「あら、コウモリさん。先ほどはどうも」
「よろしい、挨拶はしっかりとしなくちゃね」と言うと、コウモリはうれしそうに飛び回りました。やはり、逆さに。
「よし、特別にいいことを教えてあげよう」そういうと、コウモリはある一つの看板にぴたりと止まりました。(そのときも逆さに止まったので、あやめはなんとも器用だなあと感心しました)
「この看板を時計回りにひねって、思いっきり引っ張ってください」
あやめが言われるままにひねって、そして思いっきり引っ張ると、周りの看板の一部が一緒にくっついて手前に動きました。
それはまるで扉を開くようでした。ちょうど、あやめ一人分が通り抜けられるほどの入り口が開き、そこから、明るくて暖かい光が発せられました。
「ささ、そこから入って、森を抜けてください。どうぞご無事で」とコウモリは光がまぶしそうに遠巻きに飛び回りながら言いました。
白蛇は、手ならぬ、尻尾を振っています。
「コウモリさん、そして、白蛇さん、どうもありがとうございました」
あやめは、扉を抜けると、辺りはすっかりと木々で覆われていました。扉は木と一体化していて、実は、いままで木の幹を通ってきていたというのがわかりました。
森の木々は、今まであやめが知っているどの木よりも、不思議でした。というのも、どの木も幹の太さはゆうに先ほどの井戸の外周ほどもあり、空を突き抜けるほどの高さにまで伸びているのでした。また、根っこや、枝からは看板が無数に生えていて、それがちょうど葉っぱの代わりであるかのようでした。
「木から看板が生えていたのね。てっきり誰かが看板を建てかけていたと思っていたのだけれど」あやめは、このことを知るととてもうれしく思いました。というのも、今まで木は何も考えていないと思っていましたが、看板を通して会話できるということに気づいたからです。
あやめは、自分に合った看板を探しながら、歩き始めました。木々がとても複雑に入り組んでいましたが、看板どおりに行けば、きっと何処かにたどり着けるはずなのだと思ったのです。
暫くすると、あやめはどこからか声がするのに気づきました。
第七章 ヤギ先生とオオカミ少年
大きな木の下に大きな机があり、そこに、二つの姿がありました。それを確認すると、あやめは、早速、近づいていきました。(とにかく、ここにいる住人を見かけたら話しかけるべきだと思っていたのです)
子供の狼と、大人のヤギが腰掛けていました。一見すると、ヤギ先生が生徒の狼君に勉強を教えているような位置関係でした。ところが、ヤギ先生がとても困ったような顔つきをしているので、あやめはどうやら難しい問題を考えているのだと思いました。
「こんにちは、ヤギ先生」と、あやめは、「先生」かどうかも確認せずに、既に敬称をつけていました。
「ああ、こんにちは。ああ、こまったこまった」声に出してまで困っているので、そうとう困っているのに違いありません。
「どうしたのですか。先生でも困ることがあるのですか」
「それがね、狼君があまりにも熱心に本を読んでいるのでね。ああ、こまった」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは思わず声を出してしまいました。というのも、あやめは、本を読むことよりも、外で土遊びをしていたほうが熱心になれる自信があったからです。
「ええ、それが、素晴らしく困ってしまうんです」と、ヤギ先生は、相変わらずの顔をしてつぶやきました。「というのもね、私はその本の『ある箇所』を直す必要があるのですよ」
「では、狼君の読んでいるその本は、先生が書いていらっしゃるのですか」
「ええ、ええ。そうです」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは再び思わず声を出してしまいました。というのも、本を書いているような人と初めて会話したからです。(本を書いている人は、今まで、本を通じてしか会話ができなかったのですから)
「ええ、ええ、それがですね、素晴らしく困ってしまうんです」と、ヤギ先生は、またまた困った顔をしました。「その本はそれ一つしかないのです」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは三たび思わず声を出してしまいました。というのも、世界で一つしかない本があるというのを今まで知らなかったからです。狼君をこれほどまでに夢中にする本が、もし、いろんな人の手に渡ったのなら、たちまち子供たちの注目の的になるのに違いありません。
あやめは、世界でたった一つの本が、一体全体どのような内容なのか興味津々でした。が、ヤギ先生の困っている姿を見て、何とかしないといけないと思いました。
「では、ちょっとだけ貸してもらう、というのはどうでしょう」
「それが、何回頼んでも駄目なんです」という、ヤギ先生の声に覆いかぶさるように狼君の甲高い声が響きました。
「先生が書き込む時間は、ちょっとじゃすまないから嫌だ」
「そうなんですか」と、あやめはヤギ先生を覗き込むと、ヤギ先生は、困ったように、あごに蓄えている髭を撫でて頷きました。
「ええ、書き込むためには、その前後の文脈を読み込まなければならないので、なんともかんとも時間がかかってしまうのです」
「では、その前後を狼君に読みあげてもらうというのはどうでしょう。ちょうど書き換えたい箇所になったときだけ訂正してまた狼君に手渡せば、大抵が狼君の手元にあるわけですから」
「なるほど」と、二人は大きく頷きました。
「それは、良い案だね。では、狼君。本の目次を読み上げてください」
「はい。先生」
と、軽快に返事をした後の狼君の朗読は、実にたどたどしく発せられたので、あやめは、笑ってしまいそうになりました。
「第一章、黄色い猫から落ちる」
「ちがう」
「第二章、私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから」
「ちがう」
「第三章、不規則な石畳」
「ちがう」
「第四章、屋根の上の不動亀」
「ちがう」
「第五章、重たいは明るい、軽いは暗い」
「ちがう」
「第六章、おしゃべり森の逆さコウモリ」
「ちがう」
「第七章、ヤギ先生とオオカミ少年」
「ちが、……おっと、それ、それ。変更したいのは、その章でした。すみませんが、その章を開いて読んでください」
狼君が読み上げている第七章の内容が、先ほど、あやめがここに来て、悩んでいるヤギ先生に話しかける行為と全く同じ内容だったので、びっくりしました。(すでに本になっていることを体験しているのか、体験していることが本になっているのかわからなかったのです)
しかし、本の内容では、以下のくだりが違っていました。
* * *
「では、ちょっとだけ貸してもらう、というのはどうでしょう」
「それが、何回頼んでも駄目なんです」と、ヤギ先生は悲しく頷きました。その悲しそうな姿を見て、狼君はしぶしぶ本を渡しました。
ヤギ先生は、冒頭から本を読み始めました。というのも、直したい箇所が、実はいっぱいあったからなのです。先生は、ぶつぶつといいながら、ほとんどの箇所を書きかえていきました。それを見ていた狼君は、お気に入りの話を目の前で削除されていることに腹を立てはじめました。しかし、ヤギ先生はそれにはお構い無しで、一向に本を返しません。
怒った狼君は、とうとうヤギ先生を食べてしまいました。
* * *
「そうそう、ここの箇所をかえたかったのです」とヤギ先生は思い出したように頷きました。
「確かにかえたほうがいいよ」と狼君も頷きました。「だって、ヤギ先生がいなくなったら、本の続きが書かれないんだもの」
ヤギ先生は、あやめに向きなおしてお辞儀をしました。「ありがとう、君。名前はなんと言うのですか」
「あやめです」
「おお、君も『あやめ』というのですか」と言って、先生はおもむろに今の箇所の本の頁をやぶり、その裏側に筆で字を書きました。
「お礼に、これを持っていって下さい」
「ありがとうございます」と、あやめはそれが何かもわからず、とりあえずもらったものに対してお礼をしないといけないと思い、お辞儀しました。
紙には、このように書いてありました。
「王子様へ あやめを舞踏会にご招待くださり、ありがとうございます」
第八章 おしゃれなハクビシン
あやめは、二人に別れを告げて、更に森の奥へと進みました。道は更に入り組んでいましたが、時折、街の存在を表示する看板を確認しました。(距離の単位はわかりませんでしたが、徐々に数字が減っていると言うことはそれだけ近づいていると言うことを表しているのだ、とあやめは思いました)
『けもの道』という看板を見つけたので、それに向かって歩いていくと、高々とそびえる木の間を縫うように、ぽっかりと開かれた平坦な細い道を見つけました。しかも、その細い道には茶色い絨毯が引かれ、道のかなたまで一直線に伸びているのです。
「まあ、何て『すんなり』と伸びた道があるのでしょう」とあやめは感心しました。
「おお、褒めてくださるなんて何とも光栄」と木の陰から声が響きました。
あやめが木の裏手に廻ると、黒い服を着こなしたハクビシンが優雅に立っていました。
「おお、これはお嬢さん。ところで、一体全体何を褒めなさったのですか」
「ええ、何て、平坦で『すんなり』とした『けもの道』だと思ったのです」
「なんと、この私を差し置いて、この道を褒めていたのですか」とハクビシンは頭を抱えてうろたえてしまいました。
「いえ、そういう意味ではないのだけど」と言いながらも、大体そういう意味だと思っていたので、あやめは言葉を詰まらせてしまいました。
「いえいえ、結構結構。ここにいるこの私が、何処の誰かを知らないまま、貴方は早とちりしてしまったのですね」
「まあ、大体そういう意味だと思います」と、あやめは呆れながら答えました。
ハクビシンは、片手に杖を持っていましたが、それを愉快そうに二度くるくると廻して上機嫌さを表現しました。
「まあ、お嬢さん。私が、何かをするのではないかと期待していると、私は信じていてもよろしいでしょうか」
「ええ、大体そのようかもしれません」と、あやめは遠慮がちに頷きました。
「そうですかそうですか、それはそれは、あなたの関心に感心しますね」ハクビシンは自分自身の言葉に満足したように頷きました。
「して、お嬢さん、あなたは何処へ行くのでしょうか」
「ええ、私は、先ほど『舞踏会』に参加することになりました」(『今回』は、はっきりと目的地を示すことが出来てうれしく思いました)
「おお、なんと。それはそれは。では、今から街に向かうのですね。では、その場所をお退きになりませんか」
突然、そのように言われたので、あやめはわけもわからず移動しました。
「ああ、もっと右。ええっと、もっと、ええ、そのくらい」
言われるままに移動すると、あやめは、いつのまにやら茶色い絨毯から外れていました。ハクビシンはにんまりとして、指をばちんと弾きました。
すると、絨毯は、みるみるうちに重なっていき、やがて大きな馬車の形になりました。絨毯のなくなったため、周りと大差のない道となりましたが、しかし、ところどころに花が植わっています。
ハクビシンは植わった花に近づき、二束分を摘みとって、ふうっと息を吹きかけると、花は見る見るうちに大きくなって、やがて、二匹の馬の形になりました。これで、すっかり馬車が出来上がったわけです。
「まあ、何て素敵なの」とあやめは声をあげました。
「さあ、この馬車に乗って街へと参りましょう」と、ハクビシンは上機嫌で丁寧にお辞儀をしました。「何かを期待している人に、何もしないという残忍なことをこの私がするはずがないですからね」
あやめは、うれしくてたまらず、三回のお辞儀をしました。
「それでは、よろしくお願いします」一つは、ハクビシンに。残り二つは馬に。
「まかせておくれよ、お嬢さん」と左の黒い馬がお辞儀にこたえました。「白い馬よりも丁寧に走って見せるから」
「まかせておくれよ、お嬢さん」と右の白い馬がお辞儀にこたえました。「黒い馬よりも速く走って見せるから」
「まっさらな砂漠を歩くのに、右側か左側の靴が磨り減っていたら、ずっと同じ円を描いてしまうことになるけれど」と、ハクビシンは顔をしかめて言いました。「道は、道なりに続いているので、馬は馬なりに進ませるがいいでしょう」
「本当に大丈夫かしら」とあやめは思いながらも、ハクビシンの差し出した手に誘導されて馬車の中へと乗り込みました。
第九章 馬車の住人たち
馬車の中は大層狭く、あやめが乗り込むのが精一杯でした。(というのも「余計なものが」たくさん置いてあったのです)
「それじゃ、気をつけていってらっしゃい」と、ハクビシンが手を振ると、二匹の馬は勢いよく駆け出しました。
「本当に大丈夫かしら」と、あやめは、馬車の中にある様々な棚の様子を見て思いました。
あやめの目の前は、背丈いっぱいまで茶色い棚に覆われていました。棚には所狭しと白い食器などが置かれています。馬車が揺れ動くたびに、食器たちが、がしゃんがちゃんと音を発てて、今にも落ちてきそうな有様でした。
しかし不思議なことに、どれだけ揺れていても、どの食器も落ちてきません。
「何てお行儀の良い食器かしら」と、食器たちを褒めながらも、あやめは勇気を振り絞って外で走っている馬たちに頼みました。
「あの」と、あやめは大きな声を出して外へ向かって叫びました。「もう少し、丁寧にゆっくりと運転してくださらないかしら」
「運転は、すこぶる丁寧だよ、お嬢さん」と、黒い馬が呼びかけにこたえました。「ただ、白いやつがあまりに小石に足を取られるからいけない」
「運転は、すこぶる順調だよ、お嬢さん」と、白い馬が呼びかけにこたえました。「ただ、黒いやつが地面に『小石をおかないでください』と頼んでおいてくれないからいけない」
「まあ、地面に頼むですって」と、あやめは大きな声で独り言をつぶやきました。「どちらかというと、小石たちに頼んだほうがよさそうだわ。だって、地面が移動するわけにはいかないんだもの。そもそも、馬たちの仲が悪いのがいけないんじゃないのかしら」
「もし、白い馬が俺と仲良くなるとしたら」と、黒い馬は鼻息混じりに言いました。「俺は丁寧に走る意味がなくなってしまう」
「もし、黒い馬が私と仲良くなるとしたら」と、白い馬は鼻息混じりに言いました。「私は速く走る意味がなくなってしまう」
「仲が悪いのだけれど」と、あやめはため息混じりに思いました。「言い合いの呼吸はぴったりだわ」
「とにかく、揺れないようにするために、小石に頼んでみようかしら」と、思いながらも、首をすくめました。「でも、小石は道にたくさんあって、先のほうにあるんですもの、一体全体『どの』小石に、『どうやって』伝えたらいいのかわからないわ」
「あらそれじゃ、考えないといけないね」と、突如、馬車の中から声がしたので、あやめはとっさにそちらを見ましたが、そこには棚から落ちそうになっている食器たちしかありません。
「あら、一体全体『何』から声が聞こえたのかしら」
「多数の中から、一つを探し出すのは大変だろうけど、多数が一つであると思ってしまえば、お嬢さんはそちらに話しかけなされば良い」
「まあ、食器が話しかけてきたのね」あやめは怪訝な顔をして、目の前の棚に眼を移しました。
「どのお皿に話しかければよいか判らないのですが」と、おろおろと様々なお皿に目を奪われながら言いました。「そして、何という名前でお話すればよろしいか判らないのですが、えっと、お皿さん」
「それじゃ駄目だね、だって俺はお皿じゃないもの」と急須。
「では、食器さん」
「それでも駄目だね、だって私は器じゃないもの」と箸。
「だったら、何と呼べばいいのかわからないわ」と、あやめは頭を抱えると、杓文字がやさしく話しかけてきました。
「もし、もし、呼び方が判らないのなら、判らないままにしておけばいいわ。例えば、『何か』というふうにね」
「ええ、じゃあ、そうさせていただくわ、『何か』さん」
あやめがそういったと同時に、食器たちは自分が呼ばれたものだと思い、いっせいに、おのおのの返事を始めたので、馬車の中いっぱいに声が響きわたりました。
「まあ、何てにぎやかな食器たちなのかしら」と、あやめはびっくりして思いました。「食器のぶつかり合う音よりも、更に騒がしくなってしまったわ」
一番初めに話しかけてきた声が響くと、食器たちは突如として話を止めました。
「揺れには、散々苦しめられているんだ」どうやら話しかけてきていたのは、一番下の段にある大皿だったようです。「ぶつかり合うと、ひびが入ったり、欠けてしまうかもしれないからね。もうちょっと、穏やかにならないものかね」
「それでしたら、私たちが、小石を取り除いてあげましょう」と、小皿たちの声が歌うように響きました。
「あら、お皿に、何が出来るのかしら」とあやめは思わず言ってしまいました。
「私たちにだって、できることがあるんですよ、あなたがのぞんでくださればね」
「もちろん、私も、揺れないほうがいいわ」
あやめがそういうと、小皿たちが棚からぱらぱらと落ちてきました。あやめは危険を感じてさっと頭を抑えました。
ところが、小皿たちは、落下中にみるみるうちに形を変えて、やがて鳩の形になって、馬車の窓から飛び立っていきました。
「まあ、何て素敵なんでしょう」あやめは、窓から頭を出して飛び立った鳩たちの様子を眺めました。
道に降り立って小石を啄ばむ鳩たちの群れが、さながら白い絨毯のように広がっては、つぎつぎと道の前へと続いていきます。
たちどころに馬車が安定し始めて、揺れをほとんど感じなくなりました。
「お礼を言わなくてはいけないわ」とあやめは思いました。「でも、鳩なのか、小皿なのかわからないんだもの。そうそう、きっと『何か』だわ」
そう思い終わった途端、馬車は途端に停まりました。
あわてて外を覗こうとすると、ハクビシンが、不意に馬車を覗き込んできました。
「やあ、馬車の乗り心地はどうだったかね」
「ええ、結構な感じでした」
「それは、結構結構。では、あなたはまず、初めに向かいの服屋に行き、とびっきりの服を選び、そして、その隣の靴屋にて、ぴったりの大きさの靴を調達してください。それでは」
そう言ってしまうと、ハクビシンは、颯爽と馬車を降りていきました。
「いつ先回りしたのかしら」という疑問で頭を抱えていたので、あやめは、とっさに言われたことのすべてを覚えることができませんでした。もう一度、確認しようと慌てて外へと飛び出しました。
第十章 繰り返す馬
飛び出すと、華やかな通りへと出ました。様々な動物が思い思いの顔で街を練り歩いています。でも、どこか変なのは、皆、あやめの見慣れない格好をしているからなのでした。
古めかしい格好なのかもしれませんが、あやめには新鮮に見えました。
「こんな服装に着替えれたら、きっと毎日が楽しくなるわ」
道を挟んで向かい側を見ると、たくさんの建物が一様に並んでいました。
丁度正面には服屋の看板が見えました。
「建物の外見がほとんど同じだから、看板がなければ、一体全体どの建物が服屋なのかわからなかったわ」独り言を言いつつ、あやめは、そこを目指しましたが、道の往来は激しいため、横切るのは至難の業です。背丈の低いあやめは、群集に飲み込まれたら直ぐに、方向を見失って、右往左往としてしまいました。
ようやく人通りの無いところに来たかと思うと、また、馬車の前に舞い戻ってしまいます。
何回か試しても、やはり、同じ場所に押し戻されてしまいます。
「どうして、いつも同じところに戻ってしまうのかしら」と、とうとうあやめは大きな声を出して訴えました。
「どうして、ここが、さっきと同じところだって思うの」と、あやめが乗って来た馬車の白い馬が、首をかしげながら言いました。
「ええ、だって、いつも押し戻されたところにあなたたちがいるのですもの」
「まあね、でも、僕たちが動いていないとも限らないけどね」と黒い馬。
「あなたたちにまた乗せてもらえば、あの服屋まで行くことが出来ますか」とあやめは遠慮がちに言いました。(というのも、あまりにも往来が激しいので、無理やり通ることはできないと半ば諦めていたからなのです)
「あの中に入っていくのは、もう耐えられないの。だって、何処へ進んだらたどり着けるかわからないんだもの」
「進む方向が正しいかどうかはすべてあなたの判断だが」と黒い馬は、穴息を荒く噴出しつつ答えました。「もし、あなたが群衆の中に入りたくないと思うのなら、入るべきではない」
あやめは、これ以上言うと、常に同じことを繰り返しかねないと思って、首をふりました。
すると、それを見かねた白い馬がやさしく呟きました。
「この世界では物事は、『流れる』か、『繰り返す』か、『分岐する』かの三種類しかないの。もちろん、後者の二つは『流れる』に含まれるのだけど、丁度、今あなたがいるのは『繰り返す』の中。条件が満たされるまで、繰り返されるのさ」
「では、繰り返さないための条件があるのですね。それを教えていただけないのかしら」
「それは、簡単。繰り返しが終わるまで繰り返されることさ」
「何てこと、ではやはり繰り返すしかないのですね」あやめが悲しそうに首を振ったので、それを見かねて、黒い馬が呟きました。
「もし宜しければ、繰り返した『ふり』をしても良いが」
「まあ、『ふり』ってどういうことかしら」とあやめは首を傾げましたが、黒い馬がにっこりと微笑みかけてくれたので、お願いすることにしました。
「そうこなくっちゃ。では、馬車にお乗りなさい」
言われたとおりにあやめが馬車に乗ると、二頭の馬は、身体に巻きついていた紐を馬車から離した後、勢い良く馬車の周りを廻り始めました。(紐がはずれているので、あやめの乗っている馬車は一向に動いていません。しかし、あまりにはやく廻っているので、馬車から覗く外の風景が、線のように見えるほどです)
「何て速く走っているのかしら」あやめは感心しました。「もし、こんなに速く走ることが出来たのなら、世界は線ばかりになってしまいそうだわ」
やがて二頭の馬の動きが鈍り、止まりました。
「決して疲れたわけではないよ」と、二頭の馬が、息を切らせながら馬車を覗き込み訴えました。
「私のためにしてくださったのだもの。感謝するわ」(でも、どんな変化がおこったのかわからなかったので、あやめはわかった『ふり』をしました)
「まあ、外を見ずに良くそんなことが言えるわね」と白い馬が言うので、外を覗き込むと、そこには、白く美しい木造の建物が建っていました。
「まあ、いつのまに店の前まで来ていたのかしら。もし、こんなに苦労せずにたどり着くことが出来るのなら、もっと早めに頼んでおくのだったわ。ありがとうございました」
そうお礼を言った後、あやめは、服屋の扉を引きました。
第十一章 狐おばあさんと盗まれた色
店内は、色とりどりの布で埋め尽くされていました。
壁中、ぐるっと一周して綺麗な布の色の変化を見渡すことが出来ました。
「まあ、何て美しいのかしら」
「美しいのは、大して重要ではないね」と途端にしわがれた大きな声があやめの声を覆いかぶさりました。
「多くの布がたくさんあることに比べればね」
壁に釘づけになっていた視線を目の前に向けると、椅子には、狐のおばあさんが座っていました。
「美しいことと、たくさんあることは比べられないと思います」
「おやまあ」あやめの返答に、とっさにそう言い被せると、おばあさんは口を閉ざしてしまいました。
あやめはどうしていいのかわからず、途方にくれたまま、暫く一向に動かないおばあさんの姿を見ていましたが、どうにも壁の美しさが気になって、視線をそちらに奪われそうになりました。
そうすると、とっさにおばあさんの声が覆いかぶさりました。
「あんたは、一体全体どうやって来たんだい」
「馬車に揺られてきたんです」
「おやまあ」
このとき、あやめは、おばあさんのこの文句は、あきれではなくて、相槌ではないかと勝手に納得しました。(そう思わないと、会話をするのが途切れてしまうと思ったからです)
「そして、道の往来まで着くと、ハクビシンさんが、ここに来て服を仕立てるべきだというので来ました」
「おやまあ」
そのあと、馬との会話によって往来を抜けてここまで来たことを正直に話しました。
おばあさんは、聞いているか寝ているのかわからないほど、こくりこくり、と定期的に頷いていました。
あやめがここまで至った経緯を伝え終わっても、数分間は何も言わず同じ動作を続けていました。
「もし、こんなにじれったいのなら、話をしないほうがマシだったわ」
と、心の中で思いながら、視線を壁のほうに向けようとすると、突然、大きな声が響きました。
「もし、世の中で、してはいけないことのいくつかを挙げるのなら、そのうちの一つは『しているふり』をすることだね」
「なんですって」
「もし、お主に何らかの仕事を頼んでおいて、『しているふり』をするとしよう。『もう少しか』と尋ねたところ、『もう少しです』とこたえたのなら、三重の罪を犯すことになる。一つは、ウソをつくこと、もう一つは、期待を持たせてしまうこと。そして、もう一つは、発覚してから、仕事を片づけるのに、更に労力を費やさねばならないこと。そうは思わないか」
あやめは、「もう少しか」と尋ねられたことも「もう少しです」と言った事も覚えが無かったけれども、話の内容は、確かにその通りだと思ったので、こくりと頷きました。
「そう思います」
「それでは、困る」と、お婆さん。
「お主は、『そう思わないか』いう問いに『そう思います』と応える事によって、四重の罪を犯したことになる。一つは、思わせぶりの返答をすることによって、きちんとした返答をしているかどうかが疑わしいこと。一つは」
「すみません」あやめはたまらなく口を出しました。
「私は、これ以上、罪を犯さない方法を教えていただければ、そうします」
「そうかい、もっと、早くに謝って欲しいものだね。色を盗んでいたというのに」
「何ですって」あやめは、叫んでしまいました。「私は、いまだかつて、盗みをしたことなんてありません」
「おやまあ、さっきから、盗んでばかりじゃないか」
「私がここに来たのは、色を盗みに来たのではなく、服を仕立てていただくためです」
「おやまあ、そうかい、そうかい。それを早く言わないから話がややこしくなる。それじゃ、そこにかけておくれ」
お婆さんが指をさした先には、小さな木の椅子がありました。あやめが、言われたとおりに椅子に座ると、お婆さんは、杖を片手にゆっくりと立ち上がり(本当にゆっくりです)腰をかがめながら、ゆっくりと歩き(これまた本当にゆっくりです)あやめの真向かいに移動しました。あまりにもゆっくりなので、おばあさんの頼りにしている杖が相当に重いと勘違いしてしまうほどでした。
あやめの前に立つと、お婆さんは、杖を前に立てて、あやめの方向を見据えました。つまり、あやめ、杖、お婆さんが一直線に並んだわけです。
お婆さんは、かがみこんで、杖とあやめをじっくりと見比べました。
「おやまあ」とお婆さんが叫びました。
「お主は『この』杖よりもずいぶんと大きいのだな」
「『その』杖に比べれば、大きいに決まっているわ」
「それ、動いてはいけないよ。今、計測中だから」
そう言われたので、あやめは、ぴんと背筋を伸ばして、座りなおしました。
それから数分もの間、じっとしていましたが、計測が進んでいるのかどうか、わかりません。
そうこうするうちに、時計がぼんと、音を発てたので、またとない機会だと思い、あやめは勇気を振り絞ってそっけなく(本当にそっけなくです)尋ねました。
「もうそろそろ、計測が終わったかしら」
「おやまあ、とっくに終わっているよ」
「そんなこと、少しも聞いていなかったわ」
「言っては無いからね」
何て、いじわるなのかしら、とあやめは思いましたが、荒立てて、今までの計測が無駄になってしまうのも残念なので、黙っていました。
「お主、結果が気になるか」
「ええ、是非教えていただきたいわ」
「おやまあ、何て傲慢なのかい、結果が気になるか否かを尋ねたのに、教えるかどうかは、また別の話じゃないかい」
「お言葉ですが」と言おうとした時、時計が再び、ぼんと音を発てました。
「お言葉ですが、何て不規則な時計なのかしら」
あまりに、突然の時計の音に、あやめは言いたいことがちぐはぐになってしまいました。
「あの時計が、規則的に鳴ることは、あまり重要じゃないね、むしろ、重要なことは、なり続けたら、時が早く過ぎてしまうことだね」
「時間が早く過ぎるなんて耐えられないわ。それだけ早く年をとるのかしら」
「年はいくつだね」
あやめは、正直に答えました。
「おやまあ、もし、お主が、年を尋ねられたら、こう答えるのが良かろう。『時をとめてくれさえしたらきちんと答えられるのに』とね。まあよい、お主の年の数だけ、首飾りをしつらえてあげよう。さあ、立って、あちらを向いておくれ」
「まあ、素敵。誕生日のときみたいね」
あやめは、喜んで、言われるままに立ち上がり、お婆さんに背を向けました。
すると、後ろから、勢いよく、ぽんと背中を押されました。
第十二章 靴屋の狸と変わらない建物
ぽんと押された勢いで、扉を押しのけて、外へ出たと思ったら、いつの間にか、建物の中に入っていました。
あやめは、おそるおそるその建物の内装を見渡しました。(というのも、また、色泥棒に間違われてしまいそうだと思ったからです)
内装は、先ほどの服屋の構造と瓜二つでした。家具の配置も一緒でした。ただ、服屋のように、壁一杯の色とりどりの布が無く、代わりに、靴の皮がところせましと垂れ下がっていました。
「この皮だったら、私の目も『奪われない』わ」とあやめは安心しました。
「いらっしゃい」と快活な声が響いたので振り返ると、狸のおじさんが座っていました。
「どうしたんだい、そんなに辺りを見回して」
「いえ、この建物が先ほどいた服屋と、ほとんど同じ家具の配置だったものだから」
「ああ、なるほどね。ここら辺の建物は、ほとんど一緒だよ。共通のものをえりすぐるより、違いを見つけるほうが簡単だからね。僕が驚くのだとしたら、目新しい物を見たときだね。で、これなんかどうだい」
と、おじさんは、得意げに言いながら、棚からトンカチを取り出そうとしました。といっても、片手には、ぐっとあやめの見えないものを引っ張っているような状態だったので、非常にトンカチが取りにくそうでした。ようやく棚から取り出すと、にんまりと微笑んでかかげました。
「このトンカチは、僕の持っているものの中で、一番新しいものだぞ」
取るのがじれったかったわりには、何の変哲も無い普通のトンカチにしか見えませんでした。
「私達の周りでは、珍しいものを自慢するわ」と、思いましたが、口には出しませんでした。
おじさんのそのトンカチを自慢する満面の笑みが、実にすがすがしい表情だったので、あやめは、そのトンカチが、実に素晴らしいものに見えてきました。
「まあ、とても綺麗なトンカチね」
「そうだろう。もし、よかったら、お嬢さんの靴をこのトンカチで、叩いて差し上げようか」
「まさか、本当にトンカチで靴を叩こうとするつもりかしら」と、あやめが思っているところにおじさんは、にんまりとして言葉を続けました。
「では、まず、足の大きさをおしえてほしいのだが、三十二よりも、大きかろうか、小さかろうか、同じだろうか」
「勿論、小さいわ」
「それじゃ、八よりも、大きかろうか、小さかろうか、同じだろうか」
「えっと、大きいわ」
「では、十六よりも……」
「すみません、もし計らずに尋ねるのだったら、私は、自分の足の大きさを知っているので、数字を言ったほうが早いと思うのですが」
「おお、そうだね、それには気づかなかった。でも、あいにく計れないんだ。さっきから、片手が引っ張られて、巻き込まれてしまいそうで」
そう言われたので、おどろいて近づいてみると、おじさんは糸巻きのようなものを手で廻していました。
「糸巻きのようなもの」と言ったのは、実際、器械の先端で、糸がくるくると跳ね上がっているからです。
「どういう原理か知らないけれど、手を止めればいいんじゃないかしら」
「違うんだ、僕がまわしているんじゃなくて、この器械がまわっているんだ」
ああ、それは大変と思い、あやめは、急いで器械に駆け寄り、手伝いました。すかさず取っ手を掴んで力を入れましたが、逆に勢い良く引っ張られてしまいます。
そうこうするうちに、何処からともなく、声のような音が聞こえてきました。
初めは、とても、弱々しいものでしたが、あやめの力が抜けて、回転が速くなると、音が速く、更にはっきりと聞こえてくるのです。
「まあ、まるで蓄音機のようだわ」
と、あやめは、うきうきしてきましたが、しかし、力を抜いてしまうのは、失礼だと思い、必死に力を入れました。
しかし、男と同じだけの力を出せるはずもありませんので(ましてや、男と同じだけの力を出したとしても、この回転を止めることが出来たのでしょうか)器械は回転し続けて、引き伸ばされたような声が、ゆっくりと流れ出しました。
「何て言っているのかしら。気になるわ」
と、じれったく思い、あやめが叫ぼうとしたときに、いよいよ、糸巻きの回転は、どうにもならないくらいの力が加わり、速くなっていきました。
ぐるんぐるんと回転が、高鳴り、やがて、取っ手を持っているあやめ自身も巻き込まれました。
器械は、いろんなものを引っ張っていきました。
あやめは勿論、おじさん、この家の床、天上、壁、入り口、様々なものを吸い込んでいきました。
(といっても、あやめ自身が回っていたので、そういうふうに見えていたのかもしれません)
手を離そうものなら、直ぐにでも吹き飛んでしまいそうです。
第十三章 女王様の舞踏会
「本当に、回転が止まる保障があるのかしら」
と、疑問に思っている頃です。
すべての色を飲み込んで、真っ暗になった瞬間、突然、回転が止みました。
何が起こったのかと周りを見回しましたが、何も見えなかったので、何かを見るということを諦めなければなりませんでした。
ただ、暗闇の中から、先ほどの引き伸ばされていた音がすっかりと、ひそひそ声となって聞こえてきます。
あまりにもひっきりなので、人の声なのか、かえるの声なのかがわからないくらいでした。
「もう、待ちきれないわ」という甲高い声。
「待たないといけないさ」という制する声。
どの声も、何かを期待する内容でしたが、一体全体、『何』を待ちわびているのかを言っているものは一つもなかったので、あやめは、じれったくなりました。
「すみません」もしかしたら、蓄音機の再生じゃないかと思いつつも、あやめは、近くで声をした方向に声をかけました。
「今から、何が起こるのでしょうか」
「そんな野暮なことを訊くもんじゃないよ」と、ぶっけらぼうに声が返ってきました。
「そうよ、誰も、未来のことなんかわからないんだもの」
「でも、皆さんは、何かを期待しているのですよね」
「予定は、未定だとも」という男の声。
「ええ、しかし、予定時刻は過ぎているんだ。もしかしたら、王子様が寝坊しているのかもしれない。あるいは、寝ちがえているのかもしれない」
「そんなことってあるのかしら」と、あやめは呆れました。「こんなに大勢の人が待ちわびているのに、寝過ごす王子様がいるのなんて」
ただ、あやめが、本当に、寝坊しているのかもしれない、と思ったのは、数々の声に混じって、鼾が鳴り響いてきたからなのです。
「こんなに真っ暗だから寝てしまうのかもしれないわ。ただ、本当に緒寝坊さんならね」
「真っ暗っていうほどのしゃれた服があるって言うのかい」
そう轟くと、あたりは、たちどころに明るくなりました。
明るくなった途端に、周りにいた様々な動物たちが、わあわあと思い思いに、一斉に大きな声を発しました。
あやめの周りの動物たちは、往来を歩いていたときと同じ格好をしていました。「みんなここに向かっていたのね」
その中でも、微かな鼾が聞こえてくるので、ついぞ、あやめは呆れてしまいました。
「静かにしなさい」と、ひときわ大きな先ほどと同じ声が轟いた途端、騒ぎは、たちどころにおさまりました。
「女王様が怒っているぞ」
というひそひそ声がしたので、「女王様ですって」とあやめは、驚きの声を上げました。
「あの声の主は、服屋のおばあさんだわ」
声を張り上げたつもりではないのだけど、静まり返っている中で響いてしまったので、あやめは、とっさに口をつぐみました。
ところが、もはや、手遅れであったらしく、あやめの周りの動物たちが一斉にあやめを見ました。
「お嬢さん、いけない、いけない。はやく、女王様に謝りなさい」とか「頭を隠しなさい」とか、小声で助言してくれるのです。
「でも、大丈夫よ」とあやめは、にんまりと微笑んで、皆に諭すように言いました。
「だって、さっきまで、この声の持ち主のおばあさんと会っていたのですもの。聞き間違えてなんかいないから」
皆が一斉にシーという格好をするものだから、あやめはおかしくて仕方がありませんでした。
「あの、おばあさんったら」と言いかけた時に、一番大きなクマが、よろりと体勢を崩したので、驚いてそちらを向くと、ゆっくりと歩いてくるおばあさんの姿がありました。
見間違えることはない、確かに、服屋のおばあさんでした。先ほどとは比べ物にならないくらいのきらびやかな服装を着こなしているのにもかかわらず、歩き方が、さきほどと少しも変わっていませんでした。
「女王様だ」という声で、あやめの周りの動物たちが、一斉におばあさんの行く道を開けました。ので、必然的に、あやめとおばあさんの間に、道が出来ました。
道が出来たのにも関わらず、おばあさんの歩みは本当にゆっくりです。あやめの目の前まで来て、おばあさんはようやく口を開きました。
「お主が、靴屋に行っている時に、ワシは女王になったのじゃ」
「なんですって」あやめは、おばあさんの声に耳を疑いました。「女王様に簡単になれっこないわ」
「そうとも、簡単にはなれないね。くじで当たらなければなれないんだから」
「くじで当たるって難しいことなのかしら」そもそも、くじで、女王様を決めているなんて、初めて聞いたので、あやめは自分でも女王様になれそうな気がしてきました。
「唐突に女王になったので、服が間に合わなくてな。壁にあった布を外套代わりとして巻きつけたのじゃ」
おばあさんが、照れながら外套のすそをちょんとあげて、お気に入りの格好をとったので、あやめも、嬉しくなりました。
「まあ、素敵。とても似合うわ」
「さあ、みんな、踊るのじゃ」とおばあさんが呼びかけたので、辺りには、大きな歓声がわき上がりました。
動物たちが、思い思いの格好や、拍子で身体を揺らすので、あやめもうきうきしながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねました。
第十四章 王子様の目覚め
あやめは、しばらく、舞踏を楽しみました。順繰りに、動物たちの手を取り、踊ります。
「靴を仕立てることが出来なくて、申し訳ないね」
一緒に糸巻きに巻き込まれた、狸のおじさんも無事だったので、うれしく思いました。
「いえ、素敵な服を着たり、素敵な靴を履くことが、素敵な時間を過ごすことじゃないんだもの。素敵な時間は、そうね、皆で楽しい時間を過ごすことよ」
あやめは、先ほどのおばあさんにも負けないくらいのとびっきりの格好をしました。
「やあ、やあ」
と、話しかけてきたのは、ハクビシンでした。あやめの手をとり、軽やかにお辞儀をします。
「どうだい、楽しんでいるかい」
「ええ、とっても、素敵だわ。こんなに舞踏会がこんなに楽しいなんて知らなかったわ」
「それは、結構結構。ところで、招待していただいた王子様にお礼を言ったかい」
「あ、そういえば」あやめは、あまりにも楽しくて、王子様に会う目的をすっかり忘れていました。
「王子様に会ってないわ。一体全体、王子様が『誰』なのかわからないのだもの」あやめは、楽しそうに踊っている動物達の顔を見回しましたが、わかりません。
「そうかい、じゃあ、王子様の伝言を伝えておくね。『私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから』」
「その言葉、どこかで聞いたよな気がするわ」
あやめが思い出そうと悩むと、「ウーン、ウーン」という先ほどから微かに聞こえていた鼾が、次第にハッキリと響いてきました。
「むみゃむにゃ、ああ、君、君。そんな動きじゃいけないよ。もっと、激しく動かないと」
「まあ、何て失礼なのかしら」と、あやめは思いました。「私が、こんなに動いているのに、眠そうな声を出しているのなんて。それに、私の名前はあやめだわ」
「おお、そうかい、あやめ。足をもっと動かして、そうそう、そうそう、その調子で」
あやめは、自分の名前が呼ばれたので嬉しくて、更にぴょんぴょんと飛び跳ねました。
すると、あやめが飛び跳ねるたびに、どんどんと身体が沈んでいきます。いつの間にか、動物達の足元を見上げていました。
「もっと、もっと」
声につられて、更に激しく飛び跳ねると、たくさんの足たちが、ぐんぐんと空高くに飛び立っていきました。
第十五章 正しい猫の背中に乗って
空かなたの足たちから、視線を前に向けると、黄色い野原が、目一杯に広がっていました。
まだらな石畳の一本道を、ぐんぐんと突き進んでいたのでした。
「まあ、いつのまに、猫の背中に乗っているのかしら」あやめは、狐につままれたように驚きました。
「あやめ、目が覚めたかい」
と、大きな猫は、走りながら、呟きました。
「あら、この声は、先ほどの眠そうな声。私には、あなたの方が、眠りから目覚めたように思えたのだけれど」
「ふふふ、どうだろうね」
「私に呼びかけてきたのだから、あなたが王子様かしら」
「ふふふ、どうだろうね。更に、速くなるよ。つかまっていてね。『今度』は、振り落とされないようにね」
そういうと、猫は、更に加速していきます。
速くなればなるほど、辺りがはっきりしていって……。
第十六章 黄色いブランコから落ちる
勢い良く、あやめは地面に尻餅をつきました。あまりに痛いので、とっさに、周囲を見回しました。
そこは、あやめの馴染みの公園の風景でした。どうやら、あやめは、黄色いブランコの板から落ちたのです。
「振り落とされないようにって言われたのに、ブランコから落ちるなんて、何てけったいなことでしょう。でも、ブランコにずっと乗っていたのかしら」
あやめは、不思議に思い、首をかしげました。というのも、先ほど体験した記憶が鮮明に残っているからです。なので、自分がブランコから落ちたと同じくらい、おばあさんのことが気になりました。
「おばあさんは、あんなに激しく動いて、腰を抜かしてしまわないかしら」と、心配しながら、立ち上がり、あやめは、スカートの砂を払いました。
「いけない、おばあさんは、女王様だったんだわ。女王様って、呼ばないと」
黄色の世界に行って来たことを思い出しながら、わくわくする自分に気づきました。
「そういえば、ヤギ先生にもらった招待状を渡すのを忘れていたわ。でも、一体全体、誰に渡せばよかったのかしら」
あやめは、そう思いながら、紙を取り出すと、不思議なことに、そこに書かれていた文面がかわっていたのでした。
「あやめ様へ 『黄色に魅せられて』いただき、ありがとうございます」
ブログ
一日目
「霧島藍子」というキーワードで、まさかひっかかるとは思わなかったので、僕は一番初めに見つかったページにおよそ期待していなかった。
【霧島藍子の生活】
というのが、そのページのタイトルだった。インターネットの普及によって、いたる所で乱立する「ブログ」──このページもその中の一つに過ぎなかったのだが、僕にとって「霧島藍子」というキーワードは、特別な名前なので、このページも特別であるのかもしれなかった。ブログにはプロフィールが載っていた。
【霧島藍子、十七歳、19XX年7月10日生まれ、××市在住、××塾に通っています】
ビンゴだ。僕の口は自然に、にやけた。
この短いプロフィールでも、十分だ。名前と生年月日と住所が合致すれば、高い確率で本人を特定できる。名前が筆名であったとしても、後者二つでかなり絞り込める。名前で引っかからなかったら、生年月日で検索をかけるつもりだったが、まさかこんなにあっさり見つかるものだとは、と拍子抜けしてしまった。
しかも「塾」という情報まで付けてある。その塾は僕の通っている塾の名称と合致する。このブログが「霧島藍子」本人を指し示すのに十分すぎる情報であったことは確かだ。
僕は興奮しながらパソコンの画面をのぞきこんだ。文字がきっちりと書いてあるので、所有するディスプレイでは小さすぎるほどだ。
まずブログの全体をざっと見る。ページ全体がさわやかな緑色と白色に統一されて、すっきりとして見やすい。ページの上には、一番初めに目に飛び込んできた「霧島藍子の生活」というロゴがあり、そのタイトルの下は三分割されているという一般的な「ブログ」だ。三分割の右側一番上には先程確認したプロフィールが書かれていた。左側にはカレンダが付いており、日記を記述した日──今日(八月十日)までの印がついていた。毎日日記を書いていることがうかがえる。
で、カレンダの下には「最近書き込まれたコメント」と「リンク」があった。
ブログの形態は、ブログを作成した者が自由に変更できる。「コメントを可能」にしておけば、このアイコの日記に対しての感想を読んだ者が自由に書き込むことができる。交友が広がる反面、見知らぬ者がこころない内容を書き込むことが可能でもある。
リンクという項目があるにも関わらず、リンク先がないようだった。
リンクは、気に入ったほかの人のサイトや、ブログを登録しておくというものだ。リンク先がないということは、アイコは、あまり交流がないのかもしれない。あるいは、ブログを始めたばかりであろうか。
というような全体の様式をざっと見た後、僕はいよいよ、三分割の中央にある本文を読み始めた。
【お風呂に入ったよ。
朝シャンはとっても気持ちいい。
頭をごしごし洗っちゃうの。
良くないって言うよね。
でもごしごしって洗うのが気持ちいいよ。
あいこ 11時26分35秒】【コメント(26)】
何だ、これだけか──と、拍子抜けしてしまった。
たわいもない内容だ。
僕は、なかば呆れつつ、コメント欄に視線を向けたが、そこで我が目を疑った。
「コメントの数が二十六? 」──この単純な内容に対して二十六もの感想が書き込まれているのか?
「コメント(26)」の箇所をクリックして、この記事への書き込みを確認した。
【お、一ゲット? やった、初めてだよ、嬉しいな。
あいちゃん、おはよ。オレは今起きたよ。
ごしごししているあいちゃんの姿が見てみたいな。
今度、写真もアップしてよ。
よしき 11時27分40秒】
「一ゲット」というのは、一番乗りということだ。あえてこのことを明記しているということは、一番初めに内容を読んだことを誇示できるからかもしれない。とにかく記事の投稿から一分以内に書き込まれているのだから、よほどの頻度でこのブログをチェックしているはずだ。
【お、まさかの一ゲット。やったぜ。
におか 11時27分58秒】
二件目のコメントは、一ゲットできたと勘違いしている。
二十分ほどでコメントが二十六件──「霧島藍子」がこれほどまでに「人気」があるのが、吃驚した反面、とても嬉しかった。なぜなら、僕はその本人を知っているのだから。
他のコメントを流し読みつつも、僕は更なる興奮を覚えた。コメントを書き込んでいる人たちは、文の内容から推測すれば、少なくとも「アイコ本人」を知らないようだ。コメントには「アイコ自身」のものは含まれていなかった。僕は優越感を感じながら、二十六のコメントを読み終えた。
多数の「読者」を惹きつけるのは何であろう──と首を傾げながら、次の記事に目を移した。
【朝食は一枚パンを焼いたよ。
××屋の××パン。
こんがり焼けておいしかった。
紅茶と合うよ。
セレブな気分──えへ。
あいこ 10時39分20秒】
この記事にはコメントが三十五も付いていた。最後の記事からわずか四十分前に更新されたものだというのに。
通常ブログは「日記」感覚で利用すれば、一日一回の更新となる。
しかし、アイコは、四十分の間隔で次の記事を更新していた。確かにわずか「五行」の内容だから、それほど更新が大変ではないのかもしれない。
僕は、更に記事をさかのぼって、目を通した。
【おはよ、今起きたよ。
今日は天気がいいね。
どこかに出かけたいな。
あ、でも今日も塾があるから無理。
考えると憂鬱になってきたな。
あいこ 10時21分54秒】
「塾がある」というのは、僕と同じ、夏期講習を指し示しているはずだ。アイコとクラスが違うのが悔やまれる。
【あいちゃん、おはよ。余裕の一ゲット。
悩みをどんどん書き込んじゃいなよ。私たちが聞いてあげるよ。
みちこ 10時22分11秒】
僕も、もっと、アイコの悩みを聞きたい。このブログは、アイコの悩みを打ち明けることの出来る環境なのだ。アイコの今日の書き込みは、この記事までだった。
現在の時刻は十二時五分。彼女が起きてからまだ一時間半程度。それで三つの記事が投稿されていた。なるほど、このブログの人気は、更新の頻度に所以しているのに違いない。
僕はもっとも新しい記事のコメントの数が、先程の二十六から増えているのかを確かめるために「ページの更新」を押した。ブログの最終情報を取得するためには、このボタンを押す必要がある。
すると、一番上の記事が変わっていた。どうやら、先程、新しい記事が投稿されたようだ。
【昼食作ってるよ。
いつもの××のコーンフレーク。
牛乳が途中で切れちゃった。
ひたひたできない、残念。
買いに行かないと。
あいこ 12時6分15秒】【コメント(3)】
すでにコメントが三つも付いてる。まだ二分あまりだ。
なるほど──と僕は頷いた。記事の投稿頻度が多いからコメントが分散するのかもしれない。
基本的にブログのコメントは、最新の記事に書き込まれやすい。最新のものは、常に一つで、他はすべて「過去の記事」だ。コメントを書き込むとすれば、一番目立つもの──つまり、は最新のものに対してだろう。そして、アイコ自身がコメントに返信していないので、短い記事に対して、同じ人物が幾度も書き込むことは少ないのかもしれない。少なくとも、前の記事の「コメント(26)」では、二十六人全員の名前が違っていた──つまり、それだけの人物がこのブログを閲覧したということになる。しかし、本来の閲覧者数は、二十六人程度ではなかろう。そもそも、僕自身、記事を読んではいるが、コメントを書いていない。むしろ書き込んでいるのは、ごく一部の人間だろう。すると、このブログを訪れているのは、驚異的な数ではなかろうか。
全体的な人数を把握したかったが、閲覧者の数を指し示す「カウンタ」が見当たらなかった。しかし、まさか、アイコがこのような驚異的なブログを運営していたとは及びもつかなかった。真夜中は別の顔ならぬ、オンライン別の顔──というべきか。
今日以前の記事を読みたかったが、何しろそろそろ食事をすませ、家を出ないと塾に間に合わない。僕は名残惜しくパソコンの電源を落として、朝食、兼、昼食を取りにいった。冷蔵庫の中に母が用意しておいたサラダと、おにぎりを見つけた。
母は、仕事に出かけている。妹も出かけているようだから、パソコンでネットを閲覧出来るかっこうのチャンスだが、塾をサボるわけにもいかない。
何しろ、塾には、アイコ本人が来るのだから。
僕は、朝食を流し込むように胃に詰め込むと、家と自転車のカギを引っ掛けてアパートを出た。
塾は、一区間遠い塾を敢えて選択した。誰も知らない環境下の方が、集中できると思ったからだ。母子家庭で生活している我が家としては、塾に行くというのだけでも贅沢なことだろう。それを身に染みているから、勉学に励む心意気だった。
だが、塾には、アイコがいた。清楚で可憐なアイコは、忽ち僕の心の大部分を領有していった。学校も、住まいも知らなかったが、夢中になった僕は、あらゆる手を使って、彼女のことを知ろうとした。彼女の帰宅で、自転車でそっと尾行して、住所を特定した後、中学校時代の学区内を割り出し、卒業アルバムを調べ上げた。
で、その情報を元にパソコンで検索して探し当てたのが、あのブログだった。
自転車に揺られながらも、アイコのことが気になって仕方がなかった。こうしている間にも、あのブログが更新されているのかもしれないからだ。アイコの痕跡は、あのブログに脈々と綴られている。「霧島藍子の生活」とは、まさにその名のとおりのブログだ。アイコの生活の一部を垣間見ているような気分になる。
ブログのコメントは、オンライン上の人物のものばかりだった。
アイコとはあいさつ程度で、ほとんど会話らしい会話をしたことがなかったが、ブログと、アイコ本人を知っている僕は、きっと、それらの人たちよりは、優位な立場にいるはずだ。
そもそも、アイコと話すきっかけがなかった。すこぶる美人だから近寄りがたかったが、ブログを見る限り、いたって普通の人物という気がしてきた。
「よし、そうだ、ブログを話のきっかけにしよう」──そう思うと、僕のペダルは軽くなった。
塾に到着して、駐輪場に自転車を停めた。玄関で、スリッパに履き替えて、教室に向かおうとした途端に、ばったりとアイコに会った。
何という偶然だろうか──僕の心臓は、全く心構えをしていなかったので、高鳴り方に戸惑っていた。素通りしようとするアイコに、何かしなければと思い立ち、僕は震える唇を更に震わせて、漸く声を発した。
「あの──」と、僕の声が一段と震えて、辛うじて意味をつないでいるのを確認しつつ、声を出した。
「あの、霧島さんだよね? 」
「ええ、そうですけど」と、戸惑いながらもアイコが頷いた。
「もしかして、ブログをやってる? ちょっとそれっぽいのを見つけたんだけど、人違いだったらごめんね」
「え──」と言いながら、アイコの顔が強張り、みるみる蒼白になっていった。
訊き方がまずかったのか──いや、そもそも、内緒にしておきたかったのかもしれない──と、僕は、軽率な自分を恨みながらも、見開かれたアイコの瞳の奥をまじまじと覗くばかりだった。
もう取り返しがつかないと思いながらも、取り繕おうと必死に言葉を発した。
「いや、あんなに人気のブログだったんで、たまたま見つけたというか──プロフィールを見たら、君とまったく同じ名前と生年月日だったんで──うんと、偶然見つけたんだよ。それにしてもすごいよね、あんなに更新しているなんて──」
「どうして──見ちゃったの? 」
アイコは、空恐ろしいものを見るように後ずさり、去っていった。僕は、アイコの表情から、嫌悪しか感じ取れなかった。
その途端に、講義を開始するブザーが高らかに鳴った。
僕は、半ば呆然としながら、教室に入り、どかと座り、授業を受けた。アイコとは違う教室だ。アイコと同じ教室なら、直ぐにでも、彼女の表情を確認できて、どれだけ気が楽になったろう。アイコは、どう思ったのか──という疑問符が、何度も脳髄を往来した。勿論、こんなことを考えるのは愚問だ。本人がどう思った、感じたのを邪推するのは意味の無いことだ。しかるに、考えざるを得ない。
どうして見ちゃったの──という言葉が、僕の心をこだまする。ネットで不特定多数が確認出来るブログという形態だから、私が見たとしても問題がないはずだ。だが、アイコは、明らかに嫌悪の表情だった。もしかしたら、ブログの存在を問いただした行為をブログに書かれるのかもしれない。そう考えただけで、背筋がぞっとした。僕が、こうしてぽつんと教室にいる間に、何十というコメントが、アイコのブログに書き連ねられている。そこに、僕を特定することが書かれていたとしたら──と思うと、胸が苦しくなった。
僕は、冷汗まみれで、救済を求めるようにホワイトボードに書かれている内容を眺めたが、数式は、少しも、僕の心の呪縛を解き放つ魔方陣とはならなかった。
僕は、半ば逃げるような形で、教室を後にした。頭を埋め尽くす不安で、首が折れてしまいそうになりつつも、廊下を駆け抜けた。
もしかしたら、玄関で、アイコに会うのかもしれない──という、どきまぎした心境のまま、警戒して、廊下を突き進んだ。自転車置き場にもアイコの自転車が無いことを確認して、安堵とも失望ともつかぬ溜息をついた。
直ぐに自転車に跨って、家に向かった。
脳髄には、彼女の凍りついたような冷ややかな目線を感じながら。
アパートの二階の自分の部屋に駆け上がり、チャイムを鳴らすと、重々しい扉が開かれた。転がり落ちるように靴を脱いで、中央のデッキにぽつんと置かれたパソコンに駆け寄って、電源をつけた。
「まあ、帰ってきて早々」──という母の愚痴が、玄関から遠巻きに聞こえてくる。だが、今は、母が居る時に、暗黙の了解でパソコンを見ることが許された唯一の時間だ。
ぶん──という低い音がした後、OSのログがたらたらと表示された。
起動までが、じれったい。パソコンの起動はどうしてこんなに遅いのだろうか。電源をつけっぱなしにしておけば、どんなに時間的に効率的なのだろうか、と、このロゴを見るたびに思ってしまう。
数十秒後にようやく起動すると、すぐさまネットにつなげた。「お気に入り」のサイトの中から「霧島藍子の生活」を選ぶ。今朝見たものと同じブログが開かれた。
僕の目は、泳ぐように最新記事に注がれた。
【トモ君に癒してもらったよ。
とてもやさしくてうっとり。
藤井に話しかけられた嫌なことを忘れちゃった。
やっぱりトモ君と一緒にいると嬉しいな。
みんな心配かけてごめんね。
あいこ 18時47分2秒】
なんだこの日記は、と、僕は、我が目を疑った。
アイコに彼氏らしい人物が居たことにも、驚いたが、僕の苗字が実名で出ているではないか。
まさかこんなにあからさまに自分の名前が晒されるとは。何かの間違いではないかと思い「更新ボタン」を押して、もう一度、内容を確かめた。が、記事の内容が変わることはなく、その間に、皮肉にもコメントの数が二つ増えたのだった。
コメントの数は三十八だった。わずか十分前に書かれた内容に、これだけのコメントがあるとは──。
僕は恐る恐るコメントをクリックした。
【あいちゃん、かわいそう。優しい彼氏がそばにいてよかったね。
藤井見かけたらぶっ殺しちゃる。見た目どんな奴か教えて、あいちゃん。
ただし 18時47分59秒】
コメントは「藤井」という人物、つまり僕に対する誹謗中傷ばかりだった。
何てことだ──自分の血の気がひしひしと退いてゆくのを感じた。
ブログをやっていることをたずねただけだというのに、こんな報いを受けるとは──僕は不甲斐ない気持ちで記事を遡った。
「彼氏に会ってきた」内容や「塾を出る」内容など、数十分単位でことあるごとに更新されている。遡って、ついに僕とアイコの会話の記事を見つけた。
わずか三時間前のことだが、最新記事から、この記事の間に、十一もの記事が存在していた。
僕とアイコとの会話の記事は、僕を愕然とさせた。
【藤井豊に話しかけられた。
私のブログを見たんだって。
なに、あの勝ち誇ったような態度。
藤井もブログ始めたんだって。
信じられない。
あいこ 13時27分31秒】
僕がブログを始めた──何を言っているのだろう。
あのとき、僕は、アイコのブログに対して尋ねたのは確かだが、ブログを始めたなんて言ったこともないし、実際、僕は、ブログなんてやっていない。
「あのとき? 」記事の時間は、ちょうど彼女と話し終えた時くらいだ。
塾にいたのだから、アイコは、パソコンで記事を更新したとは考えにくい。家に着いてからパソコンで記事を書き、過去の時間をつけて投稿する方法もあるが、コメントの数からして、その可能性も低い。とすると、携帯から記事を投稿しているのだろう。むしろ、いつも「五行」の内容だから、携帯で投稿していると見るべきだ。
アイコが、僕と別れてからすぐに「ブログ」に「僕の実名」を晒したかと思うとぞっとした。
その行為に、躊躇すら感じない。何という残忍な行為を平然とやってのけるのだろうか──。
もしかしたら、アイコは、自分自身でこのブログを確認していないのかもしれない。だからこそ、コメントへの返信をしないし、反響の大きさに頓着せず、ひたすら記事を投稿し続けることができるのだ──など、と思いつつ、マウスを動かしながら、アイコの「今日の記事」を片っ端から読んでゆく。
驚くべきことに、授業中にも、七つの記事が投稿されていた。
講師や生徒の実名を晒し、非難している。授業風景や、講義内容への不満まで包み隠さず書いてある。
何というブログだ。
僕は、呆れを通り越して感心すら覚えた。
包み隠さずに暴露しているからこそ、このブログが関心を引いているということかもしれない。トップページにある記事を読み終えて、画面に目線を移すと、どこかしら、ブログに異変を感じた。
今日の朝に確認したときから、何かが違っている。果て、何が違うのだろうと、見渡すと、今朝までには、存在しなかったリンク先に、一件のリンクが追加がされていた。
【藤井豊の生活】
「藤井豊」──僕の実名だ。
どういうことだ?
僕は、頭が疑問符に包まれながらも、おそるおそるマウスでそのリンク先に標準を合わせて、クリックした。
別のものが開かれる、もしくは、リンク先が見つからないとかいう状況を期待しつつ──。
しかし、それらの淡い期待は、悉く裏切られた。
「藤井豊の生活」という大きな見出しのあるサイトが開かれた。
【藤井豊、十六歳、19XX年10月28日生まれ、××市在住、××塾に通っています】
プロフィールを見る限り、僕を指し示しているのは疑いなかった。
僕と同姓同名で、同じ誕生日で、同じ市、同じ塾に通い、おまけに、アイコと接点を持った人物を僕以外で探し出すことは絶望的だろう。
何といういたずらだ。
アイコが僕に対する「あてつけ」で作ったブログに違いない。
うちのめされた気分で、記事に目を通した。
【ブログを始めた。
何を書けばいいかわからない。
でも始めることが重要だね。
毎日の生活のことを書こうと思う。
そんなに素晴らしい人生じゃないけど。
ゆたか 13時27分31秒】【コメント(138)】
この時間は僕が塾に居るときだ。
いや、まてよ、と思い「霧島藍子の生活」に戻り、「僕がブログを始めた」という記事を再度確認する。
投稿時間が「13時27分31秒」──ぴたりと同じだ。
偶然だろうか。
アイコ自身の記事と、僕の記事を同時に更新したのだろうか。ケータイの機能で同時に複数人に同じ内容のメールを送るというのは知っているが、違う内容のブログの記事を同時に更新するという機能を聞いたことが無い。そもそも、必要性が無い。
自分の記事を書いた後、僕の記事を書けば、差分で時間がずれるはずだ。もしかしたら、アイコは、時間を指定して、記事を送信しているのかもしれない。
「13時27分31秒」というのは、アイコの僕に対するメッセージなのだろうか。
コメントが百三十八も書き込まれていた。たいした記事の内容でもないから、アイコのサイトから流れてきたのだろう。僕はおそるおそる「コメント(138)」をクリックした。
【一ゲット──ってか氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね。
たろう 13時28分5秒】
【超キモい。
五行でまとめるあいちゃんの書き方を真似てるし、おかしいとちゃうの?
みよ 13時28分21秒】
【つまんねえお前の生活なんか見たくねえ。ってか、毎日荒らしてやんよ。
ひさし 18時28分47秒】
覚悟していたが、野次や、中傷ばかりだ。
わずか数時間前に投稿されて以来、僕はオンライン上の不特定多数──少なくとも、百三十八人から侮辱を受けているのだ。しかも、これらのコメントを消すことはおろか、このブログの更新をやめることもできない。
なんという、いたずらだ──。
明日、アイコが出勤したら、まっさきに謝ろうと僕は決意しながら、コメントから目をそらして、半ば、救いを求めるように、アイコのブログに戻った。
【ただいま、家に帰ったよ。
まだまだ蒸し暑い。
速攻で、部屋のクーラーを付けたよ。
涼しくなってきた。
うれしいな。
あいこ 18時25分20秒】
思わず時計を見た。二分前だ。
「早く来ないと、飯を抜きにするよ」──という母親の罵声が轟いた。
アイコの過去の記事を確認したかったが、今日は、もう、パソコンに触れる機会を得ることが出来ないだろう。
僕は、名残惜しそうにパソコンの電源を切った。
二日目
朝起きて、すかさずパソコンの電源を付けた。
すぐにアイコのブログを確認する。本日すでに二つの記事が投稿されていた。
【おはよ、今起きたよ。
今日もすがすがしい朝。
天気が良くて気持ちいいね。
昨日は嫌なことがあったけど、
今日はこの天気みたいに晴れやかであって欲しいな。
あいこ 10時25分52秒】
【クーラーの設定温度を間違えていた。
25度にしてあったよ。
いつもは寝るときは27度にしてあるのに。
どおりで寝苦しくなかった。
エコよりもエゴでいこうかな。
あいこ 10時31分8秒】
昨日の嫌なこと──という言葉が僕の心に突き刺さった。アイコはかなり気を悪くしているのだろう。
しかも、実名を晒された僕の気持ちのことなど、少しも頓着していない。
僕はすぐさま、アイコのリンクにある「藤井豊の生活」をクリックした。
ページが開けず、エラーの出ることを望んでいた。すなわち、一時的な「いわじる」であったことを願った。
が、その願いの虚しく「藤井豊の生活」というタイトルが僕の目に飛び込んできた。
僕のブログであるというのに、僕以外のものが書いているブログ──それを僕が見ているのだから、何という皮肉だろう。
ふと見ると、最新の記事が投稿されていた。
【今、起きた。
今日もアイコのことばかり気になる。
気になって、さっそくアイコのブログを確認する。
ブログには「嫌なこと」という記事があった。
はたして「僕のこと」だろうかと気になる。
ゆたか 10時41分7秒】
なんということだ──僕は思わず時計を見た。
更新されたのは、四分前だ。
僕がアイコのブログを確認したという内容が「たかが五行」だが、明確に書かれてあった。
何だろう、これは──と、僕は、僕の皮膚から、ぞわぞわと沸き立つ気色悪さに身震いしつつ、更新ボタンを押して、もう一度、ブログの最新情報を取得する。
が、そうしてみても、ブログに書かれてある内容が変わるはずもなかった。
どういうことだ──と、僕の気は焦った。まさかアイコは僕の部屋を覗いているのかもしれないと思い、窓を見たが、カーテンは閉ざされたままだ。
どういうことだ──という疑問で頭が埋め尽くされそうになりながらも、僕は落ち着こうと幾度も深呼吸をした。
きっと、「僕が朝にブログを確認するのであろう」という推測で書いているのに違いない。そうしてそれがまんまと的中したから、僕はこんなに驚いているのだ。
そうだ、そうに違いない。──というようなことを何十回も信じ込もうと頷きながらも、僕はこの記事のコメントがすでに十一も書き込まれていることに愕然とした。
【一ゲット。ぜんぜん嬉しくねえ。うは、きもちわる。
あいこちゃんが好きだからブログも真似したってか? きもきもきもきも。
みちる 10時42分21秒】
僕は、その文章半ばで思わずページを閉じてしまった。これ以上見続けることに吐き気を覚えながら、パソコンから逃げるように遠のくと、ベッドの枕に頭を埋めて、がたがたと震える体を押さえつけるのに意識をしようとした。そうすることで、この「いじわる」から解放されることを願いながら──。
妹に、たたき起こされて、目を覚ました。
「お兄ちゃん、塾サボったの? 」
時計を見ると、十三時を回っていた。
現実に引き戻されたような感覚で跳ね起きると、慌てて支度をした。
塾に向かう自転車の上で、まったく呆然としていた。
こういうときに自転車は、とても律儀に「無意識」の中へと入ることが可能な空間となる。
アイコの顔がちらつく。「アイコ」があまりにも僕の意識を占領しているので、僕が考えを巡らすのに費やすことのできる領域が、ごくわずかであるように思われた。
アイコに「僕のブログ」のことを問いただせねば、この不可思議な気持ちは解消されない。しかし、問いただすという行為が「アイコのブログ」に書かれてしまうというスパイラル状態に陥ることになりかねないか、という危惧がすぐさま襲い掛かってきた。
もうこれ以上ブログが書かれないようにするためには、アイコに接触してはならない。しかし、僕のブログの更新をやめさせるためには、アイコに接触しなければならないという、相反する天秤がつりあうたび、僕はもうわけがわからないような気分になっていた。
とにかく言えることは、アイコが非常に危険な人物だったということだ。あの巨大なブログを運営しているのを知った時点で気づくべきだった。
僕は、僕に纏わり付いた嫌な気分を拭い去るように自転車を加速させた。
塾に着いたが、授業只中で、教室に入ることが億劫だった。
時間を見ると、授業終了まで残り十分程度だから、次の授業から参加しよう──と思い立つ。
次の授業? ──そうか、次の授業の直前で、アイコを呼び出して問いただせば良いのか。あんないたずらをされたのだから、僕は、アイコに問いただす権利があるべきだ。
という気持ちに傾くと、手首にまかれた時計に、病的な力強さを感じた。
授業終了のブザーがなり響いたと同時に、僕は塾に入った。授業の続いていたアイコの教室の横を素通りし、アイコの位置を確認する。
アイコの横には、トモアキが座っていた。
ひょろ長い顔立ちで、ぎょろりと、目をむき出しているような風貌だ。
とにかく、この男は、アイコと良く一緒にいる。また、他の女性とも、仲良く喋っているのを目撃したことがある。どうして、こういう人間がちやほやされるのかが、判然としない。口が達者なのかもしれない。
教室を通り過ぎたところで授業の終わるのを待った。
講師の合図の後、教室内がざわめいた。授業が終わったようだ。
数人が教室から出てきた。
僕は、ばくばくと高鳴る心臓を抑えながら、機会を伺った。
が、数分、待ってもアイコが教室から出てこない。
仕方が無いので、教室の中の様子を覗き見ると、アイコがまだ、席についていて、隣のトモアキと話をしていた。
話の内容が判らないが、お互いの口調が強い。喧嘩でもしているのだろうか。
割り込むのは、気が引けたが、このままでは休憩時間が終わってしまう。僕は、目をパチパチとしばだたせて意を決すると、教室に入って、アイコのそばへと立ち、遠慮がちに言い放った。
「アイコさん、ちょっと、話があるのだけど、いい? 」
「何? 誰、こいつ」
トモアキは、不快な態度で、僕を睨んだ。
「ちょっと、待ってて──」と、トモアキの方を見ながら、アイコは、席を立った。
「あれはどういうこと? 」と、僕は、教室を出たところで、振り返りながら、アイコに問いただした。
「あれって──なんのこと? 」
アイコは僕を睨み返す。
「ふざけるな──」と、憤りでつい声を張り上げてしまった。アイコが、訳がわからないといった表情で、なおも僕を睨み続けている。
「昨日『ブログ』をやっていることを問いただしただけで、あの扱いは、ひどいだろ」
「あの扱いって言われても──私は何も『知らない』の」
「『知らない』だって? 『霧島藍子の生活』っていうブログがあるじゃないか」
アイコは、遠慮がちに頷いた。
「じゃあ、シラを切るのも好い加減にしてくれ。あんなに頻繁に『ブログ』を更新して、僕の名前まで晒しているのに『何を』知らないっていうんだ? 」
「信じて、私は──『ブログ』を書いてないの」
「書いてない? 」
僕は、唖然としながらアイコの顔を眺めた。
アイコが、かぶりを振りながら、僕を見つめる。
「書いていない? 」と、思考が停止ながらも、僕は、もう一度その言葉を呟いた。
「そんなバカな。君以外があんな詳細な『ブログ』を書けるはずないじゃないか」
「私──あの『ブログ』が怖いの」
「『ブログ』の存在を知っているのか? 」
「知っているけど、今はもう見てないわ。一時期、見ていたけど、内容がどんどんエスカレートしていくので怖くて──」
「じゃあ、一体全体、誰が更新しているっていうんだ。『藤井豊の生活』っていうふざけた『ブログ』も、『君じゃない誰か』が勝手に始めたってことか? 」
「おい、お前は何を言ってるんだ」
突然、声がしたので、振り返ると、トモアキがいた。
「アイコに何を言っているんだ。──アイコ、こいつ、誰なんだ? 」
「大丈夫、関係ないの」
「まさか、こいつとデキてたんじゃないんだろうな」
アイコは、懇願の目で、僕を見た。
「お願い、えっと、藤井くんだったっけ? 向こうに行って、お願い」
アイコと別れた後、参加した授業に、当然の如く、身の入らなかった。僕はひたすら続く長い責め苦に苛まれるようだった。
アイコの言っていることの真偽さえもままならなかった。アイコの嘘をついているのかもしれない。いや、むしろ嘘のほうが現実味があるまいか?
アイコは何かを言いかけていた。
とにかく、アイコと話の続きがしたい。
ぼんやりとしながら、見つめるホワイトボードの数式は、苛立つ僕に呪術のような時間を束縛した。
授業が終わると、すぐさま立ち上がり、アイコの教室の前を通った。が、まだ授業をやっているにも関わらずアイコがいなかった。
一体全体どういうことだろうと、思いしいしい、塾の外に出た。
自転車置き場で、アイコの自転車を探したが、無かった。
授業を受けずに、早退したのだろうか──僕は、すぐさま、自分の自転車にまたがり、家へと急いだ。
家に帰り、母親の「食事は? 」という言葉を無視して、パソコンの電源を付ける。
アイコのブログを開き、内容を確認する。
【トモ君が、判ってくれない。
私が「遊んでいる女」だって──。
トモ君一筋なのにどうしてそう言うんだろ。
何て話せば判ってくれるのかな。
トモ君のことが好きなのに。
あいこ 16時7分5秒】
【今、公園にいるの。
トモ君に呼び出されたの。
トモ君は、私にできた子を堕ろせって。
とてもこわい表情──どうしたらいいの。
トモ君が別人のようだよ。
あいこ 17時21分5秒】
トモ君とは、トモアキのことだろう。
出来た子を堕ろせ──アイコは妊娠していたのか?
僕が信じていたアイコ像が、音を発ててがらがらと崩れていった。しかしながら、このブログに書かれている内容が、真実であるという確証も無い──はずだ。
僕はざっと前の記事を読んで、経過を調べる。
記事を読んで、愕然とした。
僕が、廊下でアイコが教室から出てくるのを待っていたときに、アイコは、トモアキに妊娠の話をしていたのだ。
そこで、僕が、話に割りこんでいった。
トモアキは、僕のことを不審に思っていたのも無理はない。「妊娠」を告げられた直後に、見知らぬ人物──僕が現れたのだから。
トモアキは、僕を追い払い、アイコに「話をしよう」と、持ちかける。
残りの授業を放棄して、塾を出て、公園へと向かった。
で、ブログには、公園のベンチで、詳細を話している風景までが、記録されている。
はて、公園とは、どこのことだろう。
僕は頭をフル回転させた。塾から一番近い公園は、ねこの額ほどだ。あんな場所で深刻な話をするだろうか。
深刻な話? ──僕はいてもたってもいられず、すぐさま家を飛び出して、自転車を走らせた。
僕が、アイコの元に行ったところで、何も解決しないと判りながらも──。
塾からもっとも近い公園に着いたが、人影はなかった。
見晴らしの良いところでは、やはり話をしないのかもしれない。いや、もう話を終えたかもしれない。が、とにかく、近くのもう一つの公園へと向かった。
その公園の入口には、アイコの自転車が置いてあった。ビンゴだ──と思いながら、僕はアイコの自転車を遠巻きで確認するような位置に自分の自転車を停めた。
自転車は、一つだ。
トモアキも自転車に乗っていたはずだが、それらしいのはアイコの自転車のそばになかった。
公園の電灯を避けるように、公園の中に入ってゆく。
この公園も、そんなに大きくなく、いくつかのアスレチックとベンチのあるばかりだった。
木に身を隠しながら、辺りの様子を見渡した。
すると、ベンチにアイコがうずくまっていた。
一人で泣いているのだろうか。──遠巻きで、よくわからないが、一人だ。
とにかく言えることは、トモアキが、近くにいないということだ。
周りはおそろしいほど静かで、まるで僕の心臓の高鳴りだけが、時を動かしているようだった。
僕は二、三の深呼吸をして、アイコの居るベンチへと近づいた。
近づいてもアイコは僕に気がつかない。
「アイコさん──」と呟くが、返事がない。
「アイコさん」と呼びつつ、もうベンチのすぐ近くまで来たが、不思議なほどアイコは身じろぎ一つしなかった。
なおも蹲るアイコのそばで、僕はもう一度「アイコさん」と呟いたが、様子はまるで同じだった。
僕は躍起になりながら、肩をぽんと叩くと、アイコの四肢が、ベンチから転げ落ちて──顔があらわになった。
だらんと見開かれたアイコの目が仰向いた。が、僕の目と焦点を合わさなかった。
ああ、死んでいる──と、僕は薄々感づいていながらも、肯定できなかった思いをついに口にしてしまった。
僕は「あああああああああ」と叫びつつ、その場を離れた。
とにかく、逃げた。
慌てふためいている自分に馬鹿らしく思えるほど、慌てふためいて、自分の自転車へと一目散に逃げた。
そのまま自転車に乗って、何度もペダルを踏み外した後、家へと向かった。
自転車を転がしながら、僕は思案した。
犯人はトモアキに違いない。
公園に一緒に行ったのは、ブログに書いてあった。そして、公園に実際にアイコが居たのだから、確かだ。
しかし、アイコが、トモアキの目を盗んで、携帯であの記事を書くことが、果たして出来たのだろうか。
今、思えば、ブログは「何処か」おかしかった。
そもそも、アイコは、僕に興味がなかったのだから、僕の名前すら知らなかったのかもしれない。だが、僕の「ブログ」は、僕の生年月日まで、事細かに書かれていた。
あのブログは、一体全体何なんだ?
そして、今、ブログには、何が書かれているのだろう?
僕は、気が急くたびに、いっそうペダルの勢いを加速させた。
自転車をアパートの駐輪場に、半ば捨て去るように置いて、アパートの階段を駆け上がる。
僕は、何を焦っているのだろう、という、わけのわからない煩悶にさいなまれる。
アイコはもう死んでいるというのに。
そもそも、死んでいるという事実を知っているのは、僕と、犯人のトモアキと、アイコと僕のブログを書いている人物だ。
アイコと僕のブログ?
アイコと僕を同時に監視することなど、出来るはずも無い。
家に着いた。
扉を開こうとするが、閉まっていたので、焦りながら、がんがんと叩く。
十何回も叩くと、ようやく扉の開いた。
「出かけたと思ったら、やかましく帰ってきて、好い加減にしてよ」という憮然とした母親の脇を掻き分けて、パソコンの前へとすがりつく。
「帰ってきたそうそう──」と、言いかけた、母を制する。
「あれ──パソコンを付けっぱなしにしておかなかったっけ」
「電気がもったいないから、ユカに切ってもらったよ。私は切り方を知らないからね。そんなことより、ご飯まだでしょ? そんなものやってないで、さっさと食べてちょうだい」
という、いつもなら煩い声が、なつかしいほど穏やかに感じた。
「あとで食べるから、ちょっと待ってて」
塾で大事なことを言われて、調べ物をしているから──と、当たり障りなくウソぶきながら、そばから母を追い払い、パソコンの電源を付ける。
パソコンのOSは相変わらず、なかなか起動せず、じれったい。
僕は僕の荒い息を落ち着かせようと、幾度も深呼吸をする。
漸く電源がついたので「霧島藍子の生活」をクリックした。
画面が開かれた。
最期の記事に目を移した。
【今まで読んでくれてありがとう。
私は死んじゃったよ。
もう更新できなくて残念。
でも、リンクできたからよかった。
これからも「ブログ」をよろしくね。
あいこ 18時23分5秒】
それを見て、僕は初めて涙が出てきた。
アイコが死んだ──この目で事実を見てきたのに、この文章ではじめて「死」を認識した。
この記事は、アイコが事切れる瞬間に更新したのだろうか。
いや、死の間際にこんな内容の記事を更新できるはずがない。わざわざリンク先の僕のブログを気にかけるとは──しかし、そもそも、アイコは、僕のブログの存在を知らなかったはずだ。
僕は悲しさと同時に、恐ろしい不安にとりつかれた。このブログは、やはり「おかしい」。
このブログを更新しているものは、アイコの死を淡々と見届けていたのか。
なんという冷徹な存在だ。
と思い、僕はすぐさま、リンク先の「藤井豊の生活」をクリックして、最新の記事を読む。
【僕は、すぐさまパソコンの前に行く。
そんな僕を母親が非難する。
でも、僕はアイコが気になってしかたがないんだ。
死んだアイコの「ブログ」がどうなったかが。
そして「ブログ」を確認した。
ゆたか 18時49分25秒】
僕の体がわなわなと震えだした。何という気分の悪い内容だ。僕は、悉く「観察」されている。
僕は震える手と、涙を蓄えた眼で、過去の記事を遡って読み漁った。
先程のアイコの死体を確認する内容が克明に書かれていた。
僕は、何度も頭をかきむしったが、確かに痛かった。これは、現実だ。
どの記事にも大量のコメントがついていた。
「冗談だろ──」と僕は呟いた。
「こんなことがありえるはずがないんだ」と、思いながら、更新を押して、最新情報を取得する。
すると、新しい記事が投稿されていた。
【僕はパソコンでアイコの死を知った。
涙が出てきた。
自分のブログを確認する。
新しく投稿された記事を見て出てきた言葉は「冗談だろ」。
でも、冗談じゃなかったんだ。
ゆたか 18時51分2秒】
「そんなバカな」と僕はくるくると周りを見回す。
誰もいるはずもない。だが、何かが確実に僕に視線を向けているのだ。
「誰だ──」と僕は小声で呟いた。
誰もいないのはわかっているのに、僕は敵意をむき出しにして叫んだ。
「誰だ」
荒い息を押し殺すように、更新をクリックした。
【僕は狂ったように叫んだ。
「誰だ」と叫んだ。
「誰だ」と叫んだ。
叫んでみたものの、周りには誰もいない。
ただ自分がいるばかりだ。
ゆたか 18時51分54秒】
「あああああああ──」
僕は狂ったように更新を何回もクリックした。
【僕は狂ったように更新をクリックした。
「ブログ」にはこう書かれていた。
「僕は狂ったように更新をクリックした。」
「ブログ」にはこう書かれていた。
「僕は狂ったように更新をクリックした。」
ゆたか 18時52分7秒】
僕は叫びながら、窓を開いた。
窓の外に、誰もいるはずがない──ただ、緩やかな夕闇が広がっていた。
「あああああああ──」
僕は、叫びながら、更新地獄がどうにかならないかを手探りした。
と、思った瞬間、僕は、ベランダに足をかけて飛び降りていた。
僕の脳裏にはアイコの笑顔が焼きついていた。
やっと楽になった──と僕と虚像のアイコは、同時に微笑んだ。
n日目
目を覚ますと、白い天井を眺めていた。
あまりに唐突なので、僕はここが病院であることを理解するためには、覗き込んできた妹の顔と声を理解しなければならなかった。
「お兄ちゃん──目が覚めた? 」
「ここは? 」
「病院だよ」
「ああ──」僕は生返事をした。
記憶の帯を辿ると、ついさっきまでは錯乱して、ベランダによじ登ったところまでしかなかった。
「ああ、飛び降りたのか」
「大丈夫──どうしちゃったの? 」
僕の心は、不思議と穏やかだった。
脳の中ではアドレナリンで満たされているからかもしれない。
飛び降りたときの心境を冷静に判断しえてしまうほどだ。
「そうか──『ブログ』を見なければ良かったんだ」
と、僕は納得して、頷いた。
「アイコもそうしていたように、いくら他人に晒されようとも、自分がそれを見なければよかったんだ」と思うと、僕の心は晴れやかになった。
気づかせてくれたアイコに、心から感謝したかった──今は亡き、アイコに。
「ブログ? 」
と妹が唖然として呟いた。どうやら僕の小言が聞こえてしまったようだ。
「あ、お兄ちゃん、あの『ブログ』はどういうことなの? 」
「え──」
と言いつつ、僕が始めてアイコに話しかけた時のアイコの顔がフラッシュバックした。
「リンク」──この三文字が僕の脳を埋め尽くした。
僕は、漸く理解した。「ブログ」にとりつかれた人物に「ブログ」のことを問いただすと、リンクしてしまうのか──あの時のアイコは、これを悟っていたのか。
「どうして、見てしまったんだ? 」
僕の気の遠くなりそうな意識の中で、妹の無邪気な声だけが響き渡った。
「どうしてって──お母さんにパソコンを切るのを頼まれた時、画面にお兄ちゃんの『ブログ』が開いていたんだもの」
【病院のベッドは、居心地が悪い。
妹の藤井由佳に話しかけられた。
僕のブログを見たらしい。
由佳もブログ始めたと言っていた。
病院では、確かめられないな。
ゆたか 11時27分31秒】
【余裕の、一ゲット──まだ、生きてたの? 早く死んじゃいなよ、楽になるから。
あいこ 11時27分48秒】
了