「天才」を物語として描くときには、才能を災厄のような宿命として扱うことが多い。
まあ、「天才が才能で勝利して大成功しました」という、一方的な成功譚では、素直に共感して大喜びできる人はあまりいない。
物語では、
1 まず初めに葛藤があり
2 それに対して行動があり
3 乗り越えるべきハードルを認識して
4 勝利を収める
みたいなパターン忠実にを守っていなければ、「万人に受け入れられる王道ドラマ」にはならない。天才を描く場合も同様だ。
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殆どの『天才物語』は、下のどちらかで描かれる。
[A 努力型] 天才でも、本当は努力していて、人とのつながりを得て、成功しました。(努力型)
[B 孤高型] 天才は、意識を共有してくれる人がいなくて孤独なので、つらい思いをしました(孤高型)
どっちにせよ『天才はつらいよ』といわんばかりの物語スタイルだが、ちょうど手段と目的が逆だ。
Aは、成功することが「目的」で、乗り越えるべきハードル「課題」は他人との協力。
典型的な例は、『はじめの一歩』みたいな、努力の天才が成功する話。
Bは、他人と繋がることが「目的」で、乗り越えるべきハードルは天才の才能が発揮される「課題」。
典型的な例は、初期の『美味しんぼ』みたいな、はじめから能力を持っている主人公が人間関係を手に入れる話。
Aの努力型は、《才能の成長》に焦点がおかれて、比較的単純なハッピーエンドストーリになりやすい。一方、Bの方は、《集団との同調》に焦点がおかれる。
もっとも、完全に切り分けられるわけでもない。「人とのつながり」というハードルがクリアされたときに、事態が好転する仕組みになっているのはどちらも同じだ。
結局のところ、「人間関係」と「天才の才能」を関連付けたときに、「ドラマ」になる、ということなのだろう。
人間は他人と一つになりたい生き物だ。他人にうまく伝わらない何かを抱え込んだ時、葛藤とストレスが生まれる。この葛藤とストレスは、万人に共感されやすい。だから、ドラマを引っ張るためのメインディッシュとして使われる。
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一方で、嫉妬のドラマというのもある。この場合には「天才を追いかける秀才」が語り部だ。
[C 嫉妬型] 秀才が、天才の才能を見抜いて、自分には届かないその才能に嫉妬し、嫉妬する自分に苦しむ
このタイプは、書き手にとっては大勝負だ。「嫉妬」という誰もが持っていて、誰もがその存在を認めたくない心理を正面から描くことになるからだ。
ただし、嫉妬は誰もが持っている感情なので、きちんと語ることが出来れば、心を揺さぶる物語になる。
多分、書き手は燃えるけれど編集者は賛成しないというタイプの企画。アマデウスなどの名作になるか、または共感されずに捨てられるかどちらかになる。
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全部あわせてみると、《天才を書く物語》の主要テーマは、コミュニケーションにあるのだろうと思う。
あたりまえだが、人間は、本当は平等(均質)ではない。一方で、人間は平等(均質)である「べき」だという、社会からの強制がある。
「おなじ存在であるはずの人間」 が 「違う機能を果たす」という事実を前にして、僕らの脳は混乱する。この矛盾が生み出すギャップと破綻の一部は、「才能」という言葉に押し込められる。
西洋ではそれを説明する概念を、「神からのギフト」と呼んだ。神に愛されるものと、神に愛されないもの。父に愛される兄弟と、父に嫌われる兄弟の愛憎劇。そんな壮絶な物語は、カインとアベルの時代から延々と続いている。
それが「運命」という話に行き着くと、群像劇や悲劇になる。そこに「解決」というパターンを当てはめると、ハッピーエンドストーリになる。
《天才という物語》の典型的なパターンは、この矛盾を 「納得」 するために作られている。だからこそ、天才も努力するし、他人の力を必要とする、という結論が用意される。天才という憧れと、そうでない自分に対しての安堵。それをブレンドするのが「商業的な天才物語」のテンプレートだ。
(もちろん、このテンプレートを逸脱したレベルの名作物語も沢山ある。だが、そういう傑作は「作家的」または「アマチュア的」だと思う。)
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才能という「矛盾」の周りには願望と挫折が産むコミュニケーションギャップがある。
曰く、孤絶感。曰く、傲慢。曰く、嫉妬。
「他人に尊敬される違うものになりたい」という願望と、「みんなと溶け込む同じものになりたい」という願望と、「周囲の尊敬をうけるあの人間のようになりたい」という願望が、渦を巻く。
好きにせよ嫌いにせよ、その人間関係の渦を見てしまうと、自分たちの心の一番隠したい何かに触れるものを感じる。野次馬センサーが働いてぐいぐいと引き付けられる。僕らは、どうもそういう存在らしい。
天才物語A〜Cのテンプレは読者の共感を得るために良く見ますね。
一方で、例えばハンニバルのレクター博士や「すべてがFになる」
の真賀田四季など共感を得るというよりは、人間離れしたモンスターor
崇拝対象のように描かれ人気を博しているキャラクタもいます。
これはA〜Cのテンプレに属さない、作家的な作品となるのでしょうか?