万治の石仏(みたらしの石仏) 下諏訪町 16.8.10

 「万治の石仏」には幾つかの「謎」があります。“重箱の隅”が大好きな私は、想像力をたくましくして「万治の石仏と万治三年の謎」に迫ってみました。
万治の石仏 16.8.8
どちらにピントを合わせるか迷いましたが、トンボより阿弥陀様としました。 

「万治の石仏と伝説」

 下は、万治の石仏前にある案内板をそのまま書き写したものです。
万治の石仏と伝説
南無阿弥陀仏万治三年(1660)十一月一日 
願主・明誉浄光 心誉廣春 
 伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)。
 その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ、果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。
下諏訪町
 「大らかで大ざっぱなのが伝説の面白さ」なので、そこまで「下諏訪町」を“突っつく”のは、と反発を受けるのを覚悟で“難癖”を付けてみました。
 まず、冒頭に「願主が二人の僧」と実名まで挙げてあるのに、「石工がまつって記念とした」では大きな矛盾となります。また、現状を見た限りでは、大きく削り取ってから血が流れ出たことになります。これではダメです。あくまで最初の一振りで血を出させなくてはなりません。さらに、「神様(鳥居)ではダメで、仏様(石仏)ならOK」というのも(私には)理解に苦しむところです。そこで、以下の話を創作しました。
万治の石仏建立秘話
 浄光さんが当てにしていた仏像用の大石が藩命で鳥居用に加工され始めた。それを断念させるために、石工と共謀して「血が出た」ことをでっち上げた。彼の思惑通りの結果となり、仏様なら大丈夫という話で順調に石仏造りが進んだ。しかし、僧籍にある彼は「でっち上げ」という行為を恥じ、完成間際にその続行を断念した。
 その後、未完の姿を悲しんだ廣春さんが発起人となって継続を申し出た。しかし、「中断したのは血が出たからだ」との噂が広まっており、石工は尻込みして誰も手を付けない。仕方なく、彼自身が見よう見まねで頭部を造ることになった。出来はよくなかったが、あるべき姿に戻すことができた。完成のあかつきに、先輩の意思を尊重し連名で願主とした。
 書き上げた時は「上出来」でしたが、日が経ってから読み返すと、…どっちもどっちでしょうか。

春宮の大鳥居は、いつ建てられた

 『下諏訪町誌』の「石の造形品」で、春宮の石鳥居を解説しています。建立年は、伝説から割り出した推定「万治三年」でした。
 春宮前の御影石の大鳥居は万治三年(1660)の建立と推定されている。寄進の人も石工の名前も伝わっていないが、浮島北方にある石仏は、このとき石工たちが記念につくったといい万治三年の銘がある。この巨石を割って鳥居の石材にしようしたら石から血が出て中止したとか、(後略)
 一方、諏訪教育会『復刻諏訪資料叢書』収録の、神長官が書いた『古日記書抜』には
延宝三乙卯 下之春宮え石の鳥居建 大坂(※大阪)より石工来る
と載っています。諏訪神社(現諏訪大社)上社筆頭神官の日記ですから間違いないでしょう。延宝3年(1675)は万治三年より15年後のことですから、前述の案内板「万治の石仏と伝説」から「伝説」の部分が消えることになります。

謎はともかく「万治の石仏」

「万治の石仏」16.10.9 九州「臼杵の石仏」のように、よくも頭部が落ちないものとの疑問も、胴体に差し込まれた首を見て納得しました(後に、何回か落下したので固定されたと知りました)。
 胴体に刻まれた造作は磨崖仏によく見られますが、頭部(顔)は当(まさ)に取って付けたようで未完成の説も納得できます。石工が加工中に息絶えたとの伝説がありますから、何らかの理由で工事が中断し、後世の人が頭部を据えたことが考えられます。結果として、この表情(アンバランスさ)が後世の(一部の)人に熱狂的に受け入れられたわけですが、「実は、遠くからの拝顔を計算してデフォルメ化したんじゃよ」と空の上から笑っているのでは…。
 「万治の石仏」周辺は、一時は公園化されましたが、故岡本太郎さんの縁で度々訪れる敏子夫人の声もあって、現在あるような田圃が復活したそうです。

万治の石仏二題

「万治の石仏」16.8.8 平成16年8月8日、真夏の田園風景です。万治の石仏写真は「ピンからキリまで」数多く紹介されていますから、あえて「獲物を待ち受けるクモ」を主題に撮ってみました。
「万治の石仏」16.10.8 10月8日です。稲刈りはすでに終わり、今年の集大成がハゼに掛かっていました。
 トラ刈りのように一本だけ延びた稲ワラに、(名前がわからないので)アカトンボが西日を浴びて羽を休めていました。同じ方向に顔を向けているのがミソでしょうか。

エッ! 万治の石仏参拝方法?  19.11.2

 新聞に、「石仏の参拝方法が決まった」と載っていました。「万(よろず)何とか…」と唱えて石仏の周りを回る、というものです。「下諏訪商工会議所がアドバイザーの提案を受けて」とありますが、こんな「安易な創作参拝作法」を(何も知らない観光客に)押しつけることに反対した役員は一人もいなかったのでしょうか。
 経緯を知らないまま(踊らされて)参拝している人々を想像すると、おかしいやら哀しいやら…。後は、これが「地元の言い伝え」にならないことを祈るだけです。

予想外! 環境整備はしたものの… 21.12.23

 「周辺を整備した」ことは知っていました。しかし、これは大失敗でしょう。背後の木を間伐して枝を刈ったため、目隠しがなくなりアラが現れてしまいました。万治の石仏も、背中の風通しがよくなって寒くなったようで、肩をすぼめているように見えました。高台の家も、下方からですが観光客の目に曝(さら)されています。
 「良かれ」として行った事業ですが、誰もが予想しなかった結果になってしまいました。改めて、観光客向けに行う整備の難しさを知りました。
 そろそろ、入口の「朝ズバッ!」の旗は回収した方が…。

「万治」と「万冶」の怪 [23.4.3 改訂]

 “台”の「さんずい」と「にすい」の違いです。かつてのネット検索では、GoogleとYahooではトップに「にすい」の「万冶の石仏(下諏訪観光協会)」を表示しました。それを参照して自分のHPやBlogに貼り付ける人がいるらしく、ネットでは「治」と「冶」が広く混在しています。特に「Blogでは小文字化によるウソ字が一般的」なので、点や線が一つくらい無くてもわかりません。人は私のことを「重箱の隅を突っつく暇人」と決め込むかもしれませんが、それは無視して、現在は「どうなっているのか」と再び調べてみました。以下は「改訂前」の文です。
 冒頭の「下諏訪町の案内板」と『下諏訪町公式サイト』の「下諏訪町の文化財」では「治」です。下諏訪商工会議所は「万治の石仏」で商標を登録しています。一方、下諏訪観光協会は「冶」を使っています。
 下諏訪観光協会と「万治派」の間で“何か”があって、「さんずい」と「にすい」を使い分けているのでしょうか。そうは言っても「万冶」は「まんや」としか読めないし、何より「万治三年」と彫られていますから、「万治の石仏」が“正統”でしょう。
 現在の下諏訪観光協会のサイトは、リニューアルして「万治」に替わっていました。ところが、「万治の石仏」を商標登録したはずの下諏訪商工会議所のサイト『ぐるっとしもすわ』が、下諏訪観光協会の旧ページを引き継いだ形で「万冶」を使っています。その他、「下諏訪温泉旅館組合」でも「混在」が見られました。ホームページ作成代行業者に“丸投げ”とも思えないので、下諏訪町(民間の観光業者)には「万治vs万冶」の図式があるのかもしれません。因みに、Googleで「万冶の石仏」を検索すると、「もしかして:万治の石仏」を表示します。
 今からでも間に合います。「万冶の石仏」を商標登録したらいかがでしょうか。

「万治の石像」って何だ!? 23.4.7

 4月に入ってから「万治の石像」が検索ワードの上位になっています。「何だろう」と試しに「万治の石像」で検索すると、気を利かせたGoogleが「像を(勝手に)仏に変換」して「万治の石仏」を表示してくれました。私の目的はあくまでも「万治の石像」なので、なぜかと考えた末に「"万治の石像"」で再検索をしました。「""」で括(くく)ると、“正誤に関係なく”ワードそのものを検索してくれるからです。
 トップにブログ『観光|篠田麻里子|AKB48LOVER』が表示し、以下のすべてに「篠田麻里子」の名が見られます。「万治の石像」と書いたこのブログを読んだ多くのファンが「万治の石像って何」と検索した結果が、本家の「仏」を抜いて「像」がトップに立った原因とわかりました。「(良くも悪くも)篠田麻里子さんパワー恐るべし」でした。
 それにしても、「“万治の石像”で検索しても“万治の石仏”しか表示しない」ことに頭を悩ませた多くの篠田麻里子ファンがいたのは確実です。篠田麻里子さんより「検索ロボット」の方が“一枚上”ということでしょうか。幸いにも篠田麻里子さんに「バチが当たった」という話を聞かないので、「万(よろず)治まった」ようです。
 初めて「AKB48」の文字を目にした時、「アー・カー(かん)・ベー」と読んでしまいました。もちろん「KGB」と同じ読み方です。

万治の石仏とみたらしの石仏の謎

 『下諏訪町公式サイト』の「生涯学習情報」[下諏訪町の文化財]では、「万治の石仏」を以下のように紹介しています。
ここを東山田の小字石仏といい、延宝3年(1675)の検地帳や享保18年(1733)の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と、下の原村の文化2年(1805)の「山の神講歳代記」には「みたらしの石仏」と記されている。(以下略)
『諏訪藩主手元絵図』から東山田村(部分)『諏訪藩主手元絵図』 「五代藩主諏訪忠林(ただとき)が諏訪の領地の全貌を知るために、享保18年に各村に命じて村絵図を描かせ…」とある領内百九ヶ村の絵地図です。「山・河川・田畑・道路・神社仏閣・家・一里塚・古塚・木樹・大石」などが名前入りで描かれています。
 左は、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から「東山田村」の一部です。右端(村境)には、確かに「ゑぼし石」と書いてあります。藩主自らの命で作らせた公式地図ですから、この「諏訪藩主手元絵図のゑぼし石」の重みは無視できません。さらに、石仏の形状を見直すと、削り取られた石仏の背中を推定復元すれば「烏帽子」状になりますから、まさに「えぼし石」です。このため、享保18年はまだ「えぼし石」であった可能性があります。
『山の神講歳代記』 下諏訪町第一区発行『郷土誌下の原』の「みたらしの石仏(万治の石仏)」の章に、「下の原の人々が『浮島の阿弥陀さま』と呼んでいた石仏が、最近になって『万治の石仏』と…」で始まる3ページにわたる解説があります。ここに、『下諏訪町公式サイト』の「万治の石仏」が引用した『山の神講歳代記』があります。
 文化二乙丑

一、みたらし石仏儀、百六十二年より文化二年閏(うるう)八月三日より村の忠蔵女房参り始(め)(霊験)あらたかにて、近在は申すに及ばず他所より大きに参り候(※流行り地蔵)

一、地所儀、地分東山田分持地村の吉兵エの地所に相違無し、

 「みたらし石仏儀」ですが、「(計算に合わない)百六十二年より」を、「間違い説」を含めた諸説を挙げて(何とかして万治の石仏に関連づけようとして)いますが結論に至っていません。「地所儀」は、「万治の石仏の周辺の場所は現在も吉兵衛の子孫が受け継いでいるから、この『みたらしの石仏』はいまの『万治の石仏』のことをいうものと思われる」としています。
 『郷土誌下の原』では「みたらしの石仏=万治の石仏」を前提にしているのでこのような解釈になるのでしょう。しかし、難解の「東山田分持地」ですが、私には「東山田村が持つ土地分(飛地)」と読めます。「(下の原村にある)東山田村の飛地は、吉兵エの地所」と解釈できますから、「みたらしの石仏は、下の原村にある」となります。
 いずれにしても、『郷土誌下の原』は「この石仏は作者を始め、時代や宗教背景など確かな史実はなく、今後の調査研究を待ちたい」とまとめていました。
「万治三年の謎」
万治三庚子年 本題に戻ります。私は、碑文(銘文)にもしっくりしないものを感じています。通常、「製造年月日」を表示する場合は「元号の後に干支」を加えます。万治三年は「庚子(かのえね)」ですから、それを左のように小文字で斜めに入れます。もちろん例外はあるので、これをもって「万治」を否定することはできません。
万治の石仏「碑文」
 次は「万治三年十一月一日」のレイアウトです。右図は、左の写真を、書体は違いますが大きさや傾きを忠実に写し取ったものです。これを見ると、願主とある僧二人の実在はともかく、その上に年月日を彫るのは不自然です。何よりも「万治三年」が斜めにズレています。研究者の本では同一筆跡と断定していますが、「年」の略字を含めた書体は私には稚拙に見えます。このように、総合的に見れば、誰もが「南無阿弥陀佛 願主 明誉浄光・心誉廣春」と「万治三年十一月一日」は別物と思うでしょう。
「万治三年」の新中山道
 著者不明の『諏訪郡諸村舊蹟年代記』です。拾い読みでは「嘉永の出来事」が見えるので、幕末の頃に書かれたと思われます。
「東山田村」…今之道は貮拾丁程も廻り候由(そうろうよし)万治三年の頃にや其節下の五官衆(※下社の神官)武居村へ引越候と云、…万治年中之頃之由今之道は古道よりは貮拾丁も遠く廻りと云、
「下の原村」…万治三年湯之町今之道に成(る)、古道よりは廿(20)丁廻り也と云、
石仏のお膝元である「東山田村と隣の下の原村」の項に、他には見られない「万治三年」が何回も出てきます。その内容は、「中山道の新道が、2kmも遠回りになる湯之町(下諏訪宿)経由になった」「(それが原因で)下社の神官が揃って秋宮へ移った」というものです。下の原村や東山田村にとっては大きなエポックメーキングですから、それが、誰もが知っている「万治3年」として幕末まで言い伝えられたのでしょう。言い方を変えれば、古い(いかにも古そうな)元号では真っ先に頭に浮かぶ「万治3年」を、石仏に箔が付くように刻み加えたことも考えられます。

「みたらしの石仏」はどこにある

 再び『郷土誌下の原』から「御手洗(みたらし)川汐」です。
 御手洗川の汐(せぎ)は浮島を取入口にして、下の原平坦地域全域を網の目のように合理的に流れる汐である。この汐の成立が下の原村落の成立と密接に関係をもっている。(後略)
浮島の春宮側から取り入れた用水の一部は「春宮参道の下馬橋」下を通っています。下馬橋では藩主も馬を降りて川の水で手を清めたことから、一般参詣人も「御手洗」として使ったのでしょう。小字も、時代は違いますが下の絵図では「春宮参道と戸川(砥川)の間・下馬橋の上」が「御手洗」になっています。
『諏訪藩主手元絵図』から下の原村(部分) このように、御手洗川は「下の原村の呼び名」ですから、砥川を挟んだ隣村「東山田村」にある(万治の)石仏を「みたらしの石仏」とするのは無理があります。同書にも、文中に(わざわざ)「下の原の人々が『浮島の阿弥陀さま』と呼んでいる」とありますから、「みたらしの石仏」は、あくまで下の原村内(御手洗川の近く)になければなりません。
 左上の古図は、諏訪史談会『諏訪藩主手元絵図』にある「下の原村」の一部です。下馬橋の下方に御堂が描かれ「堂」と書いてあります。「参道・下馬・御手洗」との関連から、この堂内か境内にある石仏が「みたらしの石仏」ではないかとにらみました。該当する場所に「十王像」の案内板があるのを思い出したからです。
明新館 平成22年7月21日、久しぶりに明新館の前に立ちました。近くの案内板には「明新館は、行屋と呼ばれるお堂を取り壊して建てられた」とありますから、『諏訪藩主手元絵図』と一致しました。改めて下諏訪町文化財「十王像一組」とある解説に、予想に近い「寛永十九年壬午(1642)九月二十一日の刻銘があり…」を読んで思わずニンマリしました。
御手洗川 下馬橋から、今は暗渠となった御手洗川をたどると、バス道から“川面が見える川”に変わり、その先は浮島の取り入れ口でした。写真では、砥川の赤い手すりから手前が旧下の原村になります。
 家より砥川の川風の方が涼しいのでしょう。老体の男性三人がくつろいでいます。尋ねると、「万治の石仏は、みたらしの石仏とは言わない」と答えました。下の原の住民ですから間違いないでしょう。補足ですが、観光客は突き当たりのT字道を、右の春宮境内から左にある浮島への橋を渡って万治の石仏へ向かいます。
「162年より」と「吉兵エ」さん
 『山の神講歳代記』は「百六十二年より文化二年…」ですから、「より」を「前より」とすれば文化2年の162年前で「1805−162=1643」です。案内板にも間違いがある場合があるので、正確を期すために年代表で確認すると「寛永20年」です。十王像は寛永19年ですから、正確には1年違います。しかし、「石仏(十王像)の9月21日」と『山の神講歳代記』の「8月3日」の間一ヶ月を、(自説に都合のいいように)「切り捨て・切り上げ、数え・満の違い」で“処理”できますから、みたらしの石仏は十王の中の一体に限りなく近くなりました。
 『郷土誌下の原』に「宝暦8年集落地図(1758)」があります。現在の住宅地図です。祈りと期待を持って「みたらしの石仏推定地・御堂」の周囲を確認すると、…「春宮参道を挟んだ道向かいで下馬橋下の家が吉兵衛さん」です。御堂の周囲は「田」ですから、前出の「吉兵エ」が「下の原村の吉兵衛」で、御堂の地主でもある可能性が高くなりました。ただし、「東山田分持」が説明できません。図書館にある明治期までの絵図を比較すると、時代で村境が大きく変わっています。原則は「砥川が境」ですから、氾濫による砥川の流れの変化とその時代の経済格差で、“取ったり取られたり(売買)”の飛地(出作)ができたと考えました。
 これで、下の原村の「みたらしの石仏」は「仏」ですから、現在の明新館の地にあった御堂内にある「十王像の内の地蔵菩薩」に落ち着きました。まさに「流行り地蔵」になりました。因みに、下諏訪町文化財『十王像一組』は「閻魔大王以下十王・三途河婆・獄卒・浄玻璃鏡・地蔵菩薩」です。
 以上が、「万治三年の謎」に絡めた「万治の石仏とみたらしの石仏は異なる」と推定した話です。畏れ多くも「万治の石仏」を突っついてしまいましたが、楽しんでいただけたでしょうか。
‖関連 サイト内‖「春宮の大鳥居」