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2011-06-25

精神の自由を保つ


 思索しながら独断におちいらないためにはどうしたらよいのか。それには常に精神の自由を保つということが必要であります。それは言いかえますと、できあがっている概念や思想で〈もの〉を、あるいは〈事実〉をながめることをやめ、自己を無にして、事実そのものに溶け入るということが必要なのであります。どんなに美しい景色でも、それを灰色のめがねをかけて眺めるなら、いっさいは灰色になります。また、はじめから自分の立場をきめておいて、その立場だけからものをながめますなら、ものの一面しか見えません。したがって、そのものの全体の姿もゆがめられておるはずであります。そのような色めがねをはずすこと、自分の立場を必要に応じていつでも変えるということが、すなわち精神の自由を保つということなのであります。それは言葉を換えて申しますと、常に心の柔軟さを保つということではないかと思います。


【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】


 特定の政治信条や信仰をもつ者には「精神の自由」がない。思想は孫悟空の頭にはまった金冠のように作用する。っていうか、元々自由に興味がないんだろうな(笑)。


 私の研究によれば、創価学会エホバの証人と共産党は全く同じように機能している。最近聞いた話だが、ルワンダ大虐殺においてエホバ信者のフツ族がツチ族を匿(かくま)ったというから、機能としてはエホバが一歩リードしているといってよい。


 ルワンダにも創価学会員がいたが何の情報も伝わってこない。伝わってこないということ自体が米国への配慮だと私は考える。当時はクリントン政権だ。

「自分で考える」ということ