(cache) 進級論文
学校と家庭、双方からの教育を目指して
― 学級崩壊をゲマインシャフトの問題として捉える ―
8271 槙香保里
概要
現代社会において、教育現場ではさまざまな問題が多発している。その中で、学級崩壊という問題に焦点をあて、論文のテーマにした。もともとの学級では、教師と生徒、生徒どうしに信頼に満ちた人間関係が築かれており、そこで人々は人格形成の過程を歩むものであった。しかしながら、現代では学級の中でそのような人間関係は薄れており、そのことにより、授業崩壊やいじめ、不登校などの問題が派生している。私は、この問題の原因が、学校だけではなく、家庭・地域にもあると考える。そして、この問題を解決に導くには、学校だけではなく家庭・地域での子どもを取り巻く人間関係に問題があるということを学校・家庭・地域のそれぞれの共同体が認識する必要があるのである。人間が生まれてはじめに、信頼に満ちた人間関係が築かれるはずである場は、どの人間にとっても家庭である。そしてそこから地域、そして学校へと影響を与えていくのである。よって、家庭での人間関係、そこでの教育が最も重要なのである。
目次
序論
第一章 現代の教育現場
第一節 学級崩壊
第二節 学級崩壊は教師力低下から
第三節 学級崩壊は不易の教育力低下から
第二章 教育におけるゲマインシャフト
第一節 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
第二節 そもそも学校、家庭・地域とは
第三節 学級崩壊はゲマインシャフト全体の問題
第三章 これからの教育
第一節 ゲマインシャフト的共同体にとっての家庭教育の重要性
第二節 学校教育と家庭教育、双方からの教育を目指す
結論
脚注
参考文献表
序論
現代の教育現場では、いじめ・不登校・学級崩壊・学力低下など様々な問題が起きている。この問題の多くは、親が過度に教師に苦情を言うモンスターペアレントや、生徒の教師いじめなどに表れているように、学校の責任と見なされがちである。確かに、問題が顕著に見られる場は学校であるが、根本的な原因は学校だけにあるとは限らない。むしろ、家庭・地域の中にそもそもの原因が存在する。私は、教育には、学校・家庭・地域、この三者が必要であると考え、現代の教育の問題には、学校からの教育だけでなく家庭や地域からの教育を重要視しなければならないことを主張する。その際、地域は、家庭が集まったものだとして考えるため、学校と家庭を特に対比するかたちで論じていく。
以下において、第一章では現代の教育現場における問題、課題について示し、第二章ではその問題の原因がどこで起きているのかをテンニエスの定義に基づき示す。その際、学校と家庭を対比させ、家庭教育の重要性を述べる。第三章では、これからの教育において、学校と家庭・地域、双方からの協力が重要であることを述べる。
第一章 現代の教育現場
第一節 学級崩壊
現代の教育現場の大きな問題のひとつとして、学級崩壊がある。文部科学省の定義では、「学級崩壊とは、生徒が教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず、授業が成立しない学級の状態が一定以上継続し、学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態に立至っている場合(学級がうまく機能しない状態)」のことをいう。学級崩壊は、小学校の高学年と低学年に集中してみられる。高学年にみられる学級崩壊は教師に対する反抗や反発が中心である。それは、1980年代までに流行した中学校における校内暴力が低年齢化したものであった。一方、低学年の学級崩壊は保育園・幼稚園で行われるべきだった集団行動のスタイルに慣れていないものである。たとえば、「ある一年生のクラスは四月から、机の上を因幡の白うさぎのように歩く子が数人いた。いきなりアニメの主題歌を、高い声で歌い出す子もいる。授業中もそこここでけんかが起き、ぴーっと泣きだす子がいる。」
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という状態である。このような学級崩壊がはじめに登場したのは、1998年ごろだといわれている。朝日新聞全国版では、1997年の学級崩壊に関する記事は1件だが、1998年には48件、2002年には1259件まで増加する。
学級システムとはそもそもどのようなものであったのだろうか。学級システムは、必ずしも古代からあったわけではなく、現代のように年齢別あるいは能力別に分けられるようになったのは17世紀末であった。古代の学校において、学級に分割することは表層的な規律に関する手続きに留まっていた。それが、どのような形の授業が学校に最も適しているかを様々に試行されながら、今日のような詳細かつ厳密な性格を示す完全に習慣化されたものになったのだ。今日の学級は、学校の構造を形づくる細胞であり、プログラムに従って知識を前進的に獲得していく際の段階や身体的、空間的な単位に対応している。年齢ごとに編成されている集団はそれぞれに教室を有し、内容と容器とを同時に示す学級という言葉をもち、実員を変化させる期間を有している。生徒たちの年齢と彼らを結合している有機体的な構成とのあいだには非常に密接な関係がある。この関係は、各々の年齢ごとに固有の人格を与える。各学級はその年齢、固有のプログラム、教室、担任の教師などにより他の学級と固有に異なっている。かつての人間はもっと長い期間にわたり人生のひとつの時期を保っていたが、学級の登場により、少年期という生活期間は短い時間の幅でいくつにも分断されることになる。学級は、幼児の時期と少年の時期との分化の過程の決定的な要因になった。
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このように現代の学級システムは、学校制度を支える重要な制度のひとつとなった。学級ごとに有機体的な構成が築かれ、その中で生徒は各々の人格を与えられる。現代において学級システムは人間が成長していく上で、人格形成という大変重要な役割を担っている。しかし、近年この学級システムの存在を脅かす現象として表れてきたのが学級崩壊なのである。
第二節 学級崩壊は教師力低下から
まず、学級崩壊の原因が教師力低下にあると仮定して論じる。文部科学省による2005年の義務教育特別会での意見をもとに、教師力とは何かをまとめると、「①子ども理解力、児童・生徒指導力、コミュニケーション・スキル、②学級作りの力、③学習指導、授業作りの力、④同僚性の確かさ、⑤人格的資質」となる。学級崩壊の件数がごくわずかなものだった時期には、教師力の低下により学級崩壊が起きる場合もあり得るだろう。しかし、全国的に増加した現状において、単なる教師力低下のみが学級崩壊の原因ではない。なぜなら、先にあげた教師力を持たない教師が一斉に出現するということは考えにくいからである。教師力の向上を求めて教育免許更新制
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の実施が目指されているが、はたして教師だけに問題はあるのだろうか。本論では、学級崩壊の原因が、教師力の低下ではなく、家庭や地域を含む、学校を取り巻く社会に原因があるとして論じる。そこで、教師とはそもそもどのような存在であるかを明確にする必要がある。以下に、そもそも教師はどのようにして学級経営を行っていたのかを示す。
教師は、児童・生徒と信頼関係を保ち、学級内もしくは学校内の秩序は守られていた。それは、教師が児童・生徒に対する権威があったからである
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。権威と混合しがちな言葉として、権力がある。権威も権力も他人を服従させる力である。しかし、権力は規則や軍事力などの外的・物理的な力に頼り他者を強制的に従わせる力であるのに対して、権威は道徳・伝統・人格などの内的・精神的力に基づきおのずと従わせる力である。教師は生徒に対して、6つの権威をもち、学級の秩序を保つと考えられている
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。報償的権威、強制的権威、専門的権威、正統的権威、人格的権威、関係性の権威である。報償的・強制的権威は、教師が生徒に対して褒美と罰を与える権威のことである。専門的権威は、教師が生徒たちよりも高い専門的知識や技能をもつことにより生じる権威である。正統的権威は、社会が教師の権威の正当性を認めることによって生じるものである。そして、人格的権威は教師自身の人間的魅力を中心とし、関係性の権威は教師と生徒の良好な人間関係から生じると考えられる。
学級崩壊とは、先に示したこれらの権威が低下している状態である。報償的権威、強制的権威、人格的権威、関係性の権威については、先に述べた教師力の低下に伴っている。なぜなら、これらの権威はすべて対生徒の権威であり、教師自身がどのように生徒に働きかけるかによって、その権威が守られるかどうかが決定するからである。では、残りの専門的権威、正統的権威の低下について分析する
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。正統的権威は、この専門的権威が低下するとともに低下する。専門的権威の低下は、戦後の社会の高学歴化によって、大部分の人が初等教育しか受けていなかった時代とは異なり教師は最高の知識人であるという意識がなくなり、親の中にも教員免許を持ち高学歴を持つ人々が増えたことによる。自らが高学歴な親は教師の監視人となり、子どもの前で教師の批判を展開することが増え、それを聞いて育つ子どもが教師を尊敬することは難しい。教師という存在が特別なものであるという意識が、親の間から、そして地域から消えていったのであるのである。また、単に高学歴化だけではなく、社会全体の変化による、親の子どもに対する教育の変化が大きく関わっている。これについて、次の第三節で詳しく述べる。
第三節 学級崩壊は不易の教育力低下から
第二節で教師力低下だけが原因ではないことを示した。学級崩壊には、教師だけに原因があるのではない。それなら、直接関わっている児童・生徒に原因があるのではないか。そして、その児童・生徒への教育は、学校を取り巻く家庭や地域という社会が大きな役割を果たしている。以下、現代に求められている教育について述べた後、学級崩壊の原因が児童・生徒、またそれに密接に関わる親の側にあると仮定し論じる。
現代の児童・生徒には「生きる力」というものが求められている。これは、文部科学省の中央教育審議会が、2002年の新学習指導要領で述べたものである。現代に求められる教育には、大きく分けて2種類ある。「不易の教育」、そして先から述べている生きる力である。不易とは、時代を超えて変わらない価値のあるものの意である。つまり、豊かな人間性、正義感や公正さを重んじる心、自らを律しつつ他人と強調し尊重する心、自然を愛する心などである。これは言い換えれば、基礎基本の定着であり、文部科学省の学習指導要領も、先人たちの知恵を受け継ぐ不易なものである。これまでの教育には、不易の部分が不可欠であった。しかし、社会の変化にも無関心であってはならないという主張のもとに求められているのが現代に必要な生きる力である。生きる力とは、変化の激しい現代社会で、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力のことである。それぞれの国の教育において、その国の言語、その国の歴史や伝統を学ばせ、現代に生かしていくことは、教育をする上で大切にされなければならない。この不易の教育は、もともとは就学前の幼児期から、親が子どもへ行わなければならない教育の基本である。
現代の教育現場で問題が起きるのは、これらの不易の教育と生きる力を養うことが出来ていないからである。それは、子どもを取り巻く社会の価値観の変化に関係する
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。子どもに対する教育の原点は、中世の時代まで遡る。学制
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に始まる日本における学校教育は、西洋での教育がながれ込んできたものであるため、ここでは西洋の歴史を参考にする。15世紀まで、西洋では家族という概念は重要視されていなかった。現代のような子どもという概念はなく、誰もが7歳から働き手になっていた。何よりもまず、仕事が大切にされていた。このような文化は、日本古来の家父長制度のあった時代における家ごとの身分の継承にもみられる。現代のような家族とは全く異なっていた。そこで、子どもは仕事のためにつかわれた。そこでは、子どもたちの教育は大人たちのもとでの見習修業によって行われ、現代のような学校はなかった。もともと家族は現代のように感情的というよりは道徳的かつ社会的だった。しかし、徐々に学校での教育が行われるようになり、見習聖職者専用のものから、子どもから大人への過渡期の社会的な手ほどきの通常の手段になっていった。家族が子どもにまなざしを集めるようになるのだ。こうして現代のような子どもが子どもであるという意識が強くなり、家庭での教育は行われるようになる
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。しかし近代化する中で、その家族は、社会性と離れていき、個々の家族がプライベート化していく。「現代っ子」という言葉は日本で早くも昭和36年ごろからにみられるが、社会が生活の技術や様式が機械的・機能的になっていくにつれて、それに適応していき合理的・科学的な思考や態度を持つようになる子、または文系の急速な発展の反面、利己主義や享楽主義の影響を受け、要領良くがめつく自分本位で悪を悪と考えず、非行に走りやすい子だと捉えられている
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。ちょうどこの時代に育てられた子どもたちが大人に、親になったとき、彼ら自身のモラルは低下してしまった。その親たちが子どもに教育を行うとき、彼らの価値観や正しいと思うことをしつけする、教育することは、その子ども自身へ悪影響を及ぼす。よって、過去には行われていた先に述べた文部科学省が理想と考えるような価値観での不易の教育が行われにくくなっているのである。
第二章 教育におけるゲマインシャフトとゲゼルシャフト
第一節 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの定義
学級崩壊は、学校だけで起きているのではなく、学校を取り巻く家庭や地域という社会によって起こっている、ということを以上で述べてきた。学校・家庭・地域における教育の共通点は、教育は、人から人へ行われるものであるということである。よって、教育の場には必ず人間関係が結ばれている。では、教育の場の基本である学校と家庭・地域、それぞれの共同体でどのような人間関係が結ばれているのかをテンニエス
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の定義に基づいて論じる。以下に、テンニエスの示した人間関係の定義を示す。
人々の意志はさまざまな関係を結んでいる。これらは、一方が働きかけるのに対し他方が応じるという、相互作用である。これらの作用は、他人の意志または身体を保存する傾向つまり肯定的なものであるか、それらをそこなう傾向つまり否定的なものであるかのいずれかである。この肯定的な関係によって形成される集団を結合体といい、実在的有機的な生命体と観念的機械的な形成物というふたつのものにわけられる。前者は、ゲマインシャフトといい信頼に満ちた共同体における人間関係で、家や信仰や仲間、また教会が目指す全人類を包括するものなどがその具体例である。こちらは持続的で真実の共同生活である。後者は、ゲゼルシャフトといい目的合理的な共同体における人間関係で、会社や結社がその具体例である。こちらは一時的な外見上の共同生活にすぎない。
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存在の統一としての血のゲマインシャフトは、共同居住により表現される場所のゲマインシャフトに発展し分化する。そしてさらに、目的や意図を等しくする単なる共同作業、共同管理としての精神のゲマインシャフトに発展し分化する。精神のゲマインシャフトは前の2つのゲマインシャフトと結びついて、真に人間的な最高の種類のゲマインシャフトを示すものだと考えることができる。この3つのゲマインシャフトは、互いに空間的にも時間的にももっとも密接に連関し合っている。
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また、ゲマインシャフトに特有な意思としての相互に共通な結合的心もちがあり、ここではそれを了解と称す。了解は、お互いについてのくわしい知識にもとづいており、体質や経験が似ていれば似ているほど、あるいは気質や性質や考え方が同一または調和したものであればあるほど、行われやすい。これは自然的におこなわれる。
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このように、テンニエスによると人間関係はすべてゲマインシャフトとゲゼルシャフトから成り立っている。では、教育を取り巻く学校、家族、地域は、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに分けられることができるのだろうか。以下において、テンニエスの定義に基づき、これらの共同体はどのような性質をもった人間関係なのかを論じる。
第二節 そもそも学校、家庭・地域とは
教育とは、人が人に教え育てることである。教育には必ず人間関係が発生する。しかし、教育を取り巻く人間関係には、ゲマインシャフト的なものとゲゼルシャフト的なものがある。では、テンニエスの定義に基づき、学校と家庭・地域がそれぞれ、どのような共同体であるのかを論じる。
まず、家庭・地域から述べる。家庭・地域はそれぞれ血、土地のゲマインシャフトである。このゲマインシャフト的共同体は、あとから作られて出来るものではなく、血や土地を同じくする人々の間に元からあるものである。現代では、先に述べたように、戦後の機械化・機能化により社会が急激に目的合理的な社会に変化してきたことで、家庭や地域の中の共同体であるゲマインシャフト的共同体における人間関係も変化してきた。ゲマインシャフトである家庭内の人間に対して、ゲゼルシャフトの社会からの影響があるということは、家庭内の人間関係、親から子に対する教育にも影響してしまうということなのである。
では、学校はゲマインシャフトとゲゼルシャフトのどちらであり、それが現代どのような状態なのかを述べる。学校は、ゲマインシャフト的でもありゲゼルシャフト的でもある。先から何度も参考にしている民主主義のもとで掲げられた教育に関する定義を発行する文部科学省という機関も学校と同じである。私が考える教育現場での人間関係が目指すところは、ゲマインシャフト的人間関係である。なぜなら、学校とは、人格形成の場であるということは第一章で述べたように、人間そのものを作り上げる場であるためである。しかし、現代の教育現場の問題に出される制度は、ゲゼルシャフト的なものである。制度というもの自体が、目的を達成するためにつくられたものであり、ゲゼルシャフト的である。
学校のはじまりは、ゲゼルシャフト的であった。なぜなら、初期の学校は、聖職という職業のためにつくられ、その後産業革命などの流れの中で、社会つまりゲゼルシャフト的共同体に役にたつ人間を大量に効率よく育てるためにつくられたものだからである。現代においても、社会で生きていくためにという部分は残っており、学校は子どもつまり生徒に学力や困難を乗り越える力など、生きていく上で不可欠な諸事を学ばせるという目的のためにつくられた共同体である。また、学校は義務教育以外、つまり私立の学校などでは、金銭面の直接的利益を目的とする。よって、この部分だけを見るとゲゼルシャフトである。
しかし、教師と生徒、生徒と生徒、教師と教師にはそれぞれ信頼関係が結ばれるものである。勉強するためや活動するためにより学校に集う生徒と教師は、「学びたい」「子どもに教えたい、教えるのが好きである」という精神のもとに集まった共同体である。ここでは教師たちは、学級や教科指導などの様々な問題をチームとして解決に向けて思案する、つまり同じ場所で同じ経験をする。生徒たちも毎日同じ生活を送ることで、同じ経験を重ねていく。これらには、自然なかたちで互いに了解をもつことが行われている。よって学級とは、ゲマインシャフト的共同体である。教師と生徒には、教師の権威
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がある場合に信頼関係が築かれていた。ただし、現在は教師と生徒の間に信頼関係が築かれていないことがあり、その状態は学級崩壊をもたらす。しかし、もともと学校はゲマインシャフト的な部分をも持ち合わせているのだ。
以上のことより、学校はゲマインシャフト的でもありゲゼルシャフト的でもある。ここで注意しておきたいのは、本論全体として取り上げている学級崩壊とは、学校のゲマインシャフト的な部分の崩壊である、ということである。なぜなら、学級崩壊は、教師と児童・生徒の信頼関係の集まりであった学級が崩壊している状態のことだからである。そして、親はゲマインシャフトの問題である教育の問題、つまり家庭も含まれるはずのゲマインシャフトの問題を学校にのみ責任があると押し付け、学校に解決を求めている。以下において、学級崩壊という問題は学校のゲマインシャフトにおいて起きているという前提で論じる。
第三節 学級崩壊はゲマインシャフト全体の問題
ここで、現代の状況を整理しておく。現代社会では、ゲマインシャフト内において学級崩壊という問題が起きている。しかし、これに対して協力するべきである家庭・地域は、学校に問題があると批判し、制度の改良や作成などによりゲゼルシャフト的な解決策を持ち寄ろうとする。制度というもの自体が、目的合理的でありゲゼルシャフト的である。ゲマインシャフト内での問題は、ゲゼルシャフト的な解決策によっては、根幹からの解決がなされることはない。ゲマインシャフトはつくろうと思ってつくることが出来るものではなく、取り戻そうとして取り戻せるものではないのである。学級崩壊というゲマインシャフトの問題は、ゲマインシャフトにおける人間関係が結ばれることによって、解決へと進んでいくのである。そして、現代の最も重要な問題点は、学校、家庭、地域という3者のゲマインシャフトすべてに問題がある、ということを3者がともに認識していないところにあるのである。現代の社会全体は、市場社会であるためゲゼルシャフト的である。現代の家庭における親は、現代っ子と呼ばれる子どもが登場したころの子どもである。彼らが、ゲゼルシャフト化しゲマインシャフト的な部分が抑圧されていった時代に生きており、現代問題を起こしている子どもたちの親である彼ら自体に問題があることは論じてきた。このまま学校に教育を一方的に任していたのでは、一向に学級崩壊や他の教育の問題は解決しない。まずは、家庭や地域が、学校での教育の支えになるゲマインシャフト的人間関係を結び、教育を正しい価値観で行う必要があるのである。
第三章 これからの教育
第一章 ゲマインシャフト的共同体にとっての家庭教育の重要性
これまで、家庭や地域における教育が重要であると述べてきた。ここで、なぜ家庭教育がそのように重要なのかを述べる。テンニエスのゲマインシャフトということばのように、家庭は、人間が生まれてから最初に人間関係を結ぶ場である。どの人間にも共通していえることであり、そこで結ばれる人間関係は、信頼に満ちた人間関係である。このような人間関係の中では、さまざまな教育が行われる。学級崩壊が起こり出す以前の社会では、このような人間関係は現代よりもいたるところで結ばれていた。大人が子どもにしつけをしたり語りかけたりする人間関係は、家庭だけではなく、地域でも結ばれていた。
民衆教育の父と呼ばれるペスタロッチーは、家庭教育を重視した。親、とくに幼児教育においては、母親のこどもに対する母性愛と信頼という「自然がつくった最初にしてもっともすぐれた人間関係」を基盤にした母による教育、家庭の教育が「純粋な人間の知恵」の獲得のために行われる教育の源泉なのだ
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。ここでは、礼儀作法やあいさつだけでなく、人に対する信頼や、愛を学ぶことができる。ペスタロッチーの言葉に次のようなものがある。「近き関係によって育成された力は何時も遠き諸関係に対する人間の智慧と力の源泉である。親心は君主を陶治し―同胞心は公民を陶治する。此等両者が家庭における秩序と国家における秩序とを作り出す。人類の家庭的関係は最初の且つまた最も優れた自然の関係である。人間は家庭的幸福の純粋な淨福を静かに味得せんがために、自己の職業にも勤めばまた公民制度の重荷にも耐へる。だから職業及び階級状態のための人間の陶治は、純粋な家庭的幸福を味得するといふ究極目的に従属しなければならない。従って父の家よ、汝は人類のすべての純粋な自然的陶治の基礎である。父の家よ、汝は道徳と国家との学校である。
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」つまり、ペスタロッチーが言うには、家庭での人間関係が、人間にとっての幸福がある場であり、他のすべての人間関係に影響するものであるということである。そして、家が道徳と国家との学校である、と述べているように、家庭は不易の教育を行うべき場であることが分かる。この不易の教育は、親が学校に任せてはいけない教育である。そして、ペスタロッチーの「人間は内的の安らぎを得るように陶治され、彼の地位と彼に得られる楽しみとに満足し、如何なる障碍に際しても隱忍し、心を籠め、且つ父親の愛を信ずるやうに陶治されなければならない。これこそ人間の智慧への陶治である。内的の安らぎがなくては人間は荒れ果てた道にさまよふ。
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」という言葉のように、親が子どもに愛を注ぐ場合においてのみ行われることができるのである。学級崩壊が起こるより以前の家庭では昔からゲマインシャフト的人間関係が結ばれていたのである。しかし、社会の変化により、人間関係も変化した。ペスタロッチーの言うような家庭・地域での教育は、現代においても重要なのである。
第二節 学校教育と家庭教育、双方からの教育を目指す
以上、家庭教育の重要性を主張してきた。しかし、家庭教育のみでは、直接的に教育の成果が読み取られやすい学校における教育の問題は解決されない。よって、学校教育にもまだまだ改善の余地はあるだろう。しかし、教育とは、学校、家庭、地域の3者すべてによって行われるべきものであり、学級崩壊という問題の低年齢化の状況から、やはり小学校入学までの家庭教育が不可欠である。まず、学校、家庭・地域において、3者から行われるはずの教育が行われていないこと、3者からの教育が必要であることを皆が認識し、その上で、学校と家庭、地域からの教育を目指していくべきである。まずは、3者からの教育が行われるべきであるという認識を持つことが重要なのである。
家庭におけるゲマインシャフトの重要性を親はしっかりと抱き、不易の教育を行わなければならない。地域は、子どもを取り巻くゲマインシャフト的共同体のひとつとして、子どもに対して働きかけることである。家庭の集まりが地域である。家庭によってゲマインシャフトが結ばれれば、地域としてのゲマインシャフトも現れてくるであろう。学校は、学校自体のゲマインシャフト的な部分とゲゼルシャフト的な部分の両端があるということをしっかりと認識したうえで、ゲマインシャフト的な問題である学級崩壊という問題に対して、ゲゼルシャフト的つまり目的合理的な制度や規制による解決を行うのではなく、家庭や地域とともに、子どもに対して教育を行っていくべきである。
結論
以上、現代の学級崩壊という問題を取り上げ、家庭教育の重要性を、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトにあてはめることで論じた。まずは、ゲマインシャフト内の問題であるということを学校、家庭、地域が認識しなければならない。現代の教育で問題としてあげられる学級崩壊。学級崩壊は、学校の中の学級というゲマインシャフト的共同体が崩壊しているのである。これは、ゲゼルシャフト的につくられた制度や、批判だけでは解決されない。ゲマインシャフトの崩壊という問題に対しては、ゲマインシャフトによって解決されるしか道はない。教育を取り巻くゲマインシャフトとは、学校、家庭、地域である。学校におけるゲマインシャフトの崩壊は、家庭や地域でのゲマインシャフトの崩壊にもつながり、実際に問題として、起こっている。教育の問題は決して学校だけで起きているのではない。ゲマインシャフトである家庭、地域において起こっているのである。このことを、3者は理解しなければならない。ゲマインシャフト的共同体は、つくろうと思ってつくることができるものではない。しかし、ゲマインシャフト的共同体は、述べてきたように歴史や変貌する社会の中で変化してきた。変化してきたものは、変化させるしかない。家庭と地域は、学校に対する教育のみを期待するのではなく、自ら働きかけることが必要である。述べてきたように、家庭は、人格形成の基礎になる場である。地域もまた、その家庭の集まりである。家庭において、親は子どもに、まず愛するというかたちで信頼関係を築き、その上で不易の教育についても見直さなければならない。このことが可能になったとき、学級崩壊は解決していくのである。まずは、学校・家庭・地域の全体が、子どもに対して教育を行わなければならないのである。3者のうちどこかに過度に頼るのではなく、3者がバランスを取り合いながら、育てていく。これがこれからの教育に必要なのである。そのことを、学校・家庭・地域が認識しなければならない。
脚注
1.
朝日新聞社会部、1999年。
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2.
アリエス、168-169頁。
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3.
平成21年4月1日から導入。教員として必要な資質能力を保持されるよう、定期的に最新の知識技能を身につけることを目的とする。大学などが開設する30時間の免許更新講習を受講・修了した後、免許管理者に申請し修了確認を受ける。
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4.
新堀、163-165頁。
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5.
南本、88頁。
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6.
新堀、165頁。
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7.
アリエス、346頁。
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8.
南本、58頁。1872年に公布された学制は、フランスの制度からとられたもの。
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9.
アリエス、347頁。
>>>本文へ
10.
志賀、100-101頁。
>>>本文へ
11.
テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―』上巻 杉之浦寿一訳、岩波書店、1912年。
>>>本文へ
12.
テンニエス、34-37頁。
>>>本文へ
13.
テンニエス、50頁。
>>>本文へ
14.
テンニエス、59頁。
>>>本文へ
15.
南本、82-91頁。
>>>本文へ
16.
谷田、26頁。
>>>本文へ
17.
ペスタロッチー、18-19頁。
>>>本文へ
18.
同上、20頁。
>>>本文へ
参考文献表
1.朝日新聞社会部編 『学級崩壊』 朝日新聞社、1999年。
2.アリエス 『〈子供〉の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活―』 杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年。
3.志賀匡 『家庭教育―その原理と方法―』 東洋館出版社刊、1975年。
4.志村廣明 『学級経営の歴史』 三省堂、1994年。
5.谷田貝公昭・中野由美子編 『保育学概論』 一藝社、1998年。
6.テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―』上巻 杉之浦寿一訳、岩波書店、1912年。
7.新堀通也・加野芳正編 『教育社会学』 玉川大学出版部、1987年。
8.ペスタロッチー 『隠者の夕暮・シュタンツだより』 長田新訳、1943年。
9.南本長穂・伴恒信編 『子ども支援の教育社会学』 北大路書房、2002年。
10.文部科学省 「いわゆる学級崩壊について」 2008年12月、オンライン、「文部科学省ホームページ」、インターネット、http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/kaikaku/pdf/p84.pdf (2009/1/2にアクセス)。
11.文部科学省 「義務教育特別部会(第1回~第4回)における主な意見」 2006年11月、オンライン、「文部科学省ホームページ」、インターネット、http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo6/gijiroku/001/05041201/002.htm (2002/12/15にアクセス)。
12.文部科学省 「文部省 審議会答申等 (21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)) 第1部今後における教育の在り方(3)今後における教育の在り方の基本的な方向」 2006年10月、オンライン、「文部科学省ホームページ」、インターネット、http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701e.htm (2008/12/15にアクセス)。
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