KAZUKI UMEZAWA | 梅沢和木|Artist
インターネット上に無数に転がるアニメやゲームのキャラクター画像などを素材にした美術作品で、各界から注目を集めている梅ラボこと梅沢和木。既存のアーキテクチャに身を委ねたネット上の表現に未来を見出した彼はいま、自らが愛を捧げてきた二次元の世界の先にあるビジョンを模索し続けている。そんな彼が主要メンバーとして参加し、現在も各地で関連イベントが開催されている『カオス*ラウンジ 2010』が大きな反響を巻き起こしているさなか、国内アートシーンの流れを激変させてしまう可能性を秘めたこの若きアーティストに、話を聞くことができた。
Text:原田優輝
これまでに影響を受けてきたものについて教えてください。
最初に影響を受けたのは、兄がやっていたゲーム「ロックマン2」です。ただ、うちではゲームは1日30分しかやらせてもらえなかったので、それ以外の時間は、チラシの裏に自分でゲームのステージを描いたりしていました。あと、当時はまだ字もちゃんと読めないくらいの年だったのですが、『月刊コミックボンボン』を買って、内容を想像しながら読んでいました。「ボンボン」や「コロコロ」では、「マリオ」や「ロックマン」などのゲームがマンガになっていたんです。だから、マンガを媒介としながらも、最初はやはりゲームだったのかもしれません。中学生になってからは、夜更かしをするようになって、ゲームも長くやるようになりました。ただ、毎日何時間もやっていると限界が来るんですよね。それで、他に楽しさを見つけ出すという感じで、2次創作的なキャラクターを作ったりするようになっていきました。
その当時、ゲームを作りたいとは思わなかったのですか?
プログラムを書いて自分でゲームを作るということに、単に適性がなかったというのもありますし、パソコンに触るようになったのは中学生くらいからなのですが、絵はその前から描いていたので、自然とそっちに向かったのだと思います。インターネットのフリーゲームとかはよくやっていたし、影響もかなり受けましたが、自分ができることはやっぱり描くことだろうなと。それ以外に何ができるかと考えても何も思い浮かばなかったので、それなら高校からちゃんと美術の勉強をしようと思って、美術科のある学校に進学しました。
「→結論の続き」
その後、美大では映像を専攻したそうですね。
はい。高校の時に油絵、彫刻、陶芸、日本画などの基礎をひと通り学べたのですが、映像だけはやってなかったので、大学で専攻することにしました。大学では、手描きのアニメーションをひとりで作ったりしていましたね。最初は、カッコ良い映像インスタレーションやビデオアートができたらいいなと安直に思っていたのですが、そういう適性は自分にはなかったみたいです(笑)。
アニメーションはどのようなところが面白かったのですか?
単純に、自分が描いた絵が動くというだけで驚きだったし、表現の世界が一気に広がっていったという感覚はありました。でも、そこから個人で作る自主制作アニメーションのようなものには進みませんでした。それまでに自分が何に影響を受けてきたのかを考えたときに、やはり原点にはゲームやアニメなどのサブカル的なものがあったんです。なぜそれを直接的に使ってはいけないんだという思いがあったので、好きだったキャラクターをトレースしたり、インターネットで拾った画像を直接使って、コラージュ的な作品を作るようになりました。その頃から、自分が本当に好きなものに対して開き直れたというか、ようやく自分が開放されたという感覚がありました。
現在のような平面作品を作るようになったのもその頃からですか?
そうですね。ちょうどその頃は、ニコニコ動画が盛り上がり始めた時期だったんですね。いかにもアニメ的な可愛い女の子が動いていて、バックでは電波っぽい曲が流れているのを見て、「これを本気で見始めたら、絶対にハマってしまう」と思いつつ、自分のなかに微かにあったリア充的なものへの未練があって、最初は「アニメとか見ないし」みたいな態度を取っていたんです(笑)。でも、「ハルヒ」とかが出てきた頃に、ここはあえて意識的にハマってみよう、と。そうしたらものの見事にハマって(笑)。そこでは、映像と弾幕のコラボレーションが繰り広げられていて、受け手と作り手が一体になっているんですね。それを見たときに、これは今のアートよりも絶対に面白いとさえ思えたんです。
「untitled」
そうしたネット上にある表現のどんなところに魅力を感じたのですか?
たまに、完全に時代を言い表してしまっていると思えるようなクリティカルな画像があったりするんですよ。そうしたネット上にある画像は、どこに作家性があるかがよくわからないものが多いのですが、絵としてスゴく魅力的だったりする。例えば、コンピュータでゼロから絵を描いている人にしても、Photoshopというツールを使っていたり、それを自分のサイトやPixivなんかに上げていたり、決められたアーキテクチャに一時的に自分を預けているわけじゃないですか。つまり、完全に自分の意思で一から十まで制作しているというわけではない。そういうアーキテクチャと無邪気に戯れている表現というのが、自分には魅力的に思えたんです。それで、自分もそのインフラに身を預けた上で、何か面白いことをアートの世界でやってみようと思ったんです。
「ラヴォス」
作品で使われているようなネット上の画像を集めるという行為はいつ頃からやっていたのですか?
中学生の頃からやっていました。最初は各種の画像掲示板など、最近はpixivや2ちゃんねるのまとめサイトとかから集めて、アニメのキャラクターから政治的な画像までジャンル分けしています。例えば、特に後から見返すわけでもないのに、学校で授業のメモを取ったりするじゃないですか。そこには、メモすることでその講義の内容を印象付けるのという意味合いがあると思うのですが、それと同じような感覚で、大きな目的があるわけでもなく、衝動的に画像を集めていたんだと思います。あと、画像を集めることで、そのキャラクターと親和性が高まるような錯覚を覚えるんです。
その辺が作品を作るときのモチベーションにもつながっていそうですね。
そうですね。作品として一枚の絵ができるというのは、あくまでも制作の結果として偶然生まれたものだと思っています。それよりも自分にとって重要なのは、2次元に近づきたいという欲求。ゲームにしろアニメにしろ、それを見てスゴく感動した後に、結局現実とは違うというところで虚しくなったりするんです。それなら自分でゲームを作ったり、マンガを描いたりすればいいわけですが、それが自分にはできなかったので、それらをなぞったり集めたりすることで、少しでも近づきたいという思いがあるんです。結局、次元が違うのでひとつにはなれないし、向こう側へは行けない可能性のほうが圧倒的に高いのですが、なれるはず行けるはずと信じて制作していくことで、良いものができていくというのはあると信じています。
話を聞いていると、宗教芸術のようなものと共通点があるような気がします。
そうかもしれないです。あらかじめ物語や神話があって、それを模倣していくということは共通していますよね。昔の宗教画なども、既存の規定や物語に沿って作業していくなかでしか発見できなかったものがあったと思うんです。それはいま自分がやっているなかにもあります。自分が信じるアーキテクチャに沿って操作していくというのは、非常に心地良い表現方法であるがゆえに、枠通りやろうとしても結局自分が出てしまったりする。そこからはみ出る部分が自分の表現性の本質的な部分だったりして、それは面白いなと思います。
作品を構成していく上で大切にしていることはありますか?
たくさん作品を作っていくうちに、こういう色を乗せた方がいいとか、絵画的なマナーや法則のようなものがわかってくるようになりました。でも、仮にキャラクターの画像を切り刻みすぎて、色面としてしか見えなくなってしまったとしても、「このアニメのこのキャラクターの画像を使った」という文脈は残りますよね。そうした文脈があるものと、何もなく絵具で一から塗っているものでは、見え方は同じだとしても、やはり違うわけですよね。そうした文脈と、単純に絵画表現としてのクオリティみたいなものがあって、そのどちらかが欠けてしまうと面白くなくなるんです。いまは、その両方を計算して作っていくというよりは、匂いを嗅ぎわけるように感覚的に操作している感じです。
制作方法についても教えてください。
Photoshopでコラージュした大きな画像を、自宅のA3プリンターで分けて出力しています。それをキャンバスに糊スプレーで定着させて、その上に絵具を乗せていきます。色を乗せていく段階では、使われているキャラクターの髪の色など、配置された画像に反応していく感じなのですが、それは純粋な絵画的な作業に近くて、それはそれで突き詰めていくとやっぱり面白いんです。ただ、そんな絵画らしい絵画をやっても面白く感じられないという思いもあり、そのジレンマと葛藤しながらやっています(笑)。
サイズの大きさにもこだわりはあるのですか?
作品のサイズが大きいと、離れて見たり、近くで見たりできるじゃないですか。展示という形態をとるなら、そのダイナミズムというのは絶対あった方がいいと思うんです。大きいキャンバスに描くと、一つひとつのキャラクターは全体からするとスゴく小さくなりますよね。全体が大きくなればなるほど、ディテールは小さくなる。だから、総体的に見たときに密度がある絵になるんです。そうした大小の関連にダイナミズムがあることで、絵画とはいえど、インタラクティブな表現になると思うんです。ズームができるというのは、Webでも前提としてありますしね。
「カオス*ラウンジ 2010」at 高橋コレクション日比谷
現在各地で展開中の「カオス*ラウンジ 2010」も話題を集めていますね。
率直に言って、様々な意味で話題を集めた展示だったと思います。まだ現在も進行している企画なので「こうだった」と過去形で言うことはできないのですが、高橋コレクション日比谷での展示では、1週間という会期で2000人もの人が実際に来場し、ネット上でも同様に2000人の人がUstreamを見たという事実は重要なことだと思います。それと同時に、その数字以外のこと、展示の内容や作品自体の内容を語ることの難しさも非常に感じています。どうしても作品や作家を成立させている環境や周辺の分析や状況整理の話になってしまうのはなぜだろうと今も考えています。
この「カオス*ラウンジ」のような動きは日本特有のものだと感じますか?
そう思います。やはり、これだけアニメ産業が発達して、そのなかで虚構の歴史みたいなものがどんどん組み上がっていくというのは、日本特有の状況ですよね。そこには、戦後一度様々なものに対してリセットが行われたという歴史的な背景も関係していると思います。そうした独自の文化は、アニメに限らず、SNSやゲーム、ドラマなど色々なものに共通しているんじゃないかなと。もちろん、海外でもゲームやドラマなどで面白いものはたくさんありますが、そこで語られているのは、中央集権的な志向だったり、基本的にマッチョなものだと思うんです。日本にはそういうものとは違うカオスがある。そういうネットや虚構の世界で育まれてきたものを、現実に戻してみようとしたときに、独特の面白さが出てくるんじゃないかと感じています。
そうした表現に対する海外からの反応を感じることはありますか?
僕には、ニューヨークでグループ展に参加したときの経験くらいしかないのですが、異質なものとして捉えてくれているようには感じます。でも、「ジャパニーズ・クレイジー」みたいなイメージに回収されるのはあまり面白くないなと。そういうステレオタイプ的なイメージとは微妙に違うリアリティというものがあるのですが、それを伝えるのはなかなか難しいなと思いました。もちろん、こっちの表現方法にも問題があるとは思うのですが。そのリアリティというのは日本国内で共有することも結構難しかったりするので、時間はかかる気がします。でも、まずは日本国内で爆発的にこの面白さが広がれば、それは絶対に伝わっていくとは思うんですよね。
「境界ing」