日清戦争

清の征日論
近代史に於いてでは、古来よりの中華思想に基づく華夷思想により、朝貢体制秩序に従わずにアジア侵略を展開する西欧列強に対して、これを罰し懲らしめ清へ屈服させようと懲罰戦争を展開した。阿片戦争アロー戦争清仏戦争などがそれである。
清は我が国の近代化に対しても、同様に臨んだ。我が国の明治維新に対し「朝令暮改で児戯の如し」「風俗を改むるに甚だ荒唐無稽、正朔衣冠の祖制亡ぶ」と見なし、明治維新政府を不法に権力奪取した王朝交代と見なしていた。
これにより清では、明治維新を「西服に改め、洋言を効い、焚書にして法を変えしむ」として、これに対し「精鋭なる軍万人を選び、ただちに長崎を撃ち、進んで倭都に迫れ」と提言する「征日論」が浮上した。
明治九(18762536)年、清駐在の森有礼特命全権公使と李鴻章の会談では、清の我が国の明治維新に対する態度が垣間見られる。
「守るべき先祖の遺制である衣冠まで変えて独立の精神を捨て、欧風を装い、子孫としては、恥ずかしいと思わんのかね」
との当時五十三歳の李鴻章の問いに、当時三十歳の森有礼公使は
「従来の和服は、勤労者には全く適さない。だから洋服に変えただけのことです。もし祖宗が今日に生まれたら、やはり絶対、変わると信じます。日本は従来から各国の長所を摂取してきたので、外国に学ぶことは、少しも恥ずかしいことではありません。逆に変革を誇りにしています」
「我が国は絶対に衣冠を変えない。ただ兵器、鉄道、電信、その他の機械だけが必要なので、やむを得ず西洋から採用するだけのことである」
「貴国では四百年前には、只今お召しのような旗服(清朝の正装・満州族の民族衣装)を好んだ人はいなかったのではありませんか」
李鴻章は森有礼のこの一言で、急に話題を変えてしまった、と『清光諸朝中日交渉資料』(故旧博物院編)と『金大日支文化論』(実藤恵秀著)は記述している。
清は、我が国を臣服させる為に、日本征伐について少なからぬ軍事偵察を繰り返して、懲罰戦争を唱えている。当時の清の駐日大使館随員が著した『日本地理兵要』(1884年)『琉球地理志』(1882年)等は、我が国侵略の為の軍事関係書である。
琉球処分(明治五(18722532)年の琉球藩設置から明治十二(18792539)年の廃藩置県)や台湾出兵(明治七(18742534)年に、我が国政府が台湾原住民による日本人殺害の責任を追及した際、清国側は原住民が"化外"であるとして応じなかった為、台湾に軍隊を派遣した事件)の際にも、対日懲罰戦争を主張する征日論が起こっている。

甲申政変後の朝鮮情勢
甲申政変の後、天津条約により清が朝鮮から兵を退くと、朝鮮ではロシアに接近しようとする動きが起こった。
ロシアは、東では清と各地で国境紛争を起こしつつ、既に朝鮮と国境を接する所まで南下侵略を遂げていた。一方、西ではアフガニスタンでイギリスと対峙する所まで勢力を拡大していた。
明治十八(18852545)年四月十五日、イギリスが突然、朝鮮半島の多島海諸島の一つ巨文島を占領した。アフガニスタンでの交渉が決裂し、ロシアの太平洋艦隊が朝鮮半島の永興湾一帯の占領へ動こうとする機先を制したのである。巨文島を基地にすれば、ウラジオストク封鎖を狙う事もできる。四月二十三日には英アジア艦隊のほとんどが巨文島に集結した。
朝鮮政府がこの事を知ったのは四月十五日、我が国の近藤臨時代理大使からの報告を受けてからだった。この段階で朝鮮政府はほとんど関心を示さず、抗議するどころか何らの政治行動もとろうとしなかった。
イギリスは巨文島占領を朝鮮に通告する事無く、英国駐在大使に伝えた。朝鮮が清の属国と国際社会からこの頃認知されていた証明である。
清の李鴻章の警告で初めて事態の深刻さを悟った朝鮮政府は、メルレンドルフを巨文島へ派遣して英アジア艦隊と交渉したが、まともに相手をされなかった。
朝鮮政府は次に、アメリカに対して巨文島を米国東洋艦隊の石炭燃料貯蔵基地として永久貸与する事を申し出た。しかし当時の米国には、イギリスとロシアに対抗する意図も実力も無かった為、朝鮮の申し出を受けなかった。
清がイギリスとロシアに働きかけた事によって、巨文島からイギリス軍が撤退したのは、二年後の明治二十(18872547)年三月のことだった。
清は、ロシアへの接近をはかる朝鮮の閔氏一族を牽制する為、壬午軍乱以来清に幽閉中だった大院君を帰国させた。
そして袁世凱を朝鮮総理交渉通商事宜に任命し、朝鮮の政治全般に目を配らせることとなった。朝鮮国王代理とも云うべきその地位に就いた袁世凱は、以後、凄まじいばかりの専制ぶりを発揮していった。
それに対抗するように、閔氏一族とメルレンドルフは、ロシアとの密約交渉に動いた。西暦1886年八月、ロシアの保護を求める国王の親書がロシア公使ウェーバーに届けられた。ところが、それはたちまちのうちに袁世凱の知るところとなった。李鴻章と袁世凱は、もはやメルレンドルフを朝鮮においておくわけにはいかないと、清へ召喚した。
こうして朝鮮のロシア接近政策は、ひとまず後退を余儀なくされた。そして、駐留軍こそいないものの専制君主袁世凱の強権支配下、かつてより厳しい宗属関係の拘束を受け、内政外政にわたる清朝の干渉は一層強まっていったのである。
朝鮮が自立することなく清やロシアへ接近依存し、清露がそれぞれに朝鮮へと影響力を拡大させる中、朝鮮が独立した近代国家となって東アジアの緩衝国となることを期待していた我が国は、朝鮮の現状に深刻な危機感を強めていった。

東学党の乱
明治二十七(18942554)年五月、朝鮮で東学党の乱(甲午農民武装蜂起)が起こった。東学党とは、崔済愚が創始した新興宗教信徒を指し、キリスト教(西学)と対して東の学と云う意味から東学と呼んだ。
千名余りの農民暴動から始まった武装蜂起は、瞬く間に八千名を超える暴動へと発展した為、朝鮮政府は八百名の軍隊を派遣したが、農民軍は更に一万名に膨れ上がり、政府軍を撃ち破って五月三十一日に全羅道道都の全州を占領した。
これに対して国王高宗閔氏政府は清朝に鎮圧を要請。清は天津条約に基づき我が国に事前通告をして、軍艦を仁川に派遣した。これを受けて我が国も清に事前通告を行い、公使館と邦人居留民保護の為に仁川に軍艦を派遣し、六月十日に兵力の一部を漢城(現・首爾ソウル)に入れた。
我が国は、農民反乱の原因となった諸問題を解決する為に、清に対し、朝鮮の内政改革案をもって朝鮮への共同介入を提案した。しかし清はこれを拒否し、軍事衝突を怖れた袁世凱は密かに漢城を脱出して帰国してしまった。
その為我が国は、七月三日に駐鮮公使大鳥圭介から外務督弁に改革綱領を提示させ、七月十日、朝鮮政府に内政改革案を示した。それに対し朝鮮政府は、日本軍撤収が改革実施の前提であるとしてこれを拒否し、我が国は朝鮮政府が改革を行わなければ内乱が再発するので、改革をしなければ軍隊を撤収できないと応じ、あくまで内政改革を要求し続けた。
実際、農民軍は完全に武装を解除したわけではなく、閔氏政権の打倒と農民自治体制が実現されない限り、いつでも再蜂起する事が予想された。
こうして我が国は、朝鮮政府に七月二十二日を回答期限として、清軍の撤兵を要請することと、実質的な宗属関係を規定する清との通商貿易協定を破棄することを要求したが、朝鮮政府は回答しなかった
回答期限が切れた七月二十三日午前三時、我が国の兵は漢城城内に入って諸門を固め、王宮を占拠し、国王に大院君を執政とするとの詔勅を出させて閔氏一族を政権から追放し、漢城の軍隊を武装解除した。
これに前後し清では、清の朝貢国である朝鮮に対する我が国の行為に対し、駐鮮軍を以て我が国へ懲罰すべきだとの声が上がった。その為、清は我が国に対する懲罰戦争へと動き出した。

日清戦争の海戦を描いた浮世絵

日清戦争
明治二十七(18942554)年七月二十五日、我が国海軍が清の軍艦高陞号を豊島沖で砲撃して撃沈、護衛艦を撃破して、日清戦争が勃発した。
我が国軍は、七月二十九日には威歓の清軍を攻撃して勝利し、八月一日初めて宣戦布告を行った。
我が国の宣戦布告文では朝鮮の処遇に対して
「朝鮮ハ(中略)列国ノ互伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ」
と、朝鮮を独立国として扱っているのに対して、清側の宣戦布告文では
「朝鮮ハ我大清ノ藩平塀タルコト二百余年、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ」
と、朝鮮を清の属国であると明言し、それを護ることを戦争の目的の一つとして明言していた。
我が国軍は九月十五日、十六日の平壌の戦闘で清軍を撃破して北進し、十月下旬には山県有朋大将指揮下の第一軍が遂に清との国境を越え、満州に進撃した。大山巌大将指揮下の第二軍は黄海経由で遼東半島に上陸し、旅順と大連を十一月に占領した。
海軍は九月十七日、黄海の海戦で清国の主力艦隊を撃破して大勝し制海権を確保した。翌明治二十八(18952555)年三月までに陸軍は遼東半島を制圧し、さらに山東省の威海衛を占領し、清の首都の北京に脅威を与えるようになり、清軍の敗北は決定的となった。
朝鮮から撤退して行く清軍の敗残兵は、その途上至る所で略奪暴行を働いた。『日清交戦録』第十六号の外国人の手記に拠れば、清軍が漢城から平壌への撤退中、沿道の村々はすっかり略奪され、人々は四方に逃亡したとのことである。
清の李鴻章は早くから列強に対し講和の調停を要請していた。
平壌の陸戦と黄海の海戦後イギリスは日清間の講和の斡旋に乗り出したが、ロシアなど列強の思惑の相違で実現に至らず、十一月にアメリカの斡旋で講和は進展するようになった。当時イギリスなどの列強は、これ以上清の負け戦が続けば清朝が崩壊し、革命が起こり列強の利権に悪影響することを憂慮していたので、日清両国に対し講和を勧告するようになった。
我が国は一月二十七日の御前会議(天皇臨席の会議)で、軍部の主張する北京攻略の強硬論を抑えて講和交渉に入ることにした。
福沢諭吉や徳富蘇峰などの我が国言論界の指導者の間では、このまま北京を攻め落とすまで我が国も戦いをやめるべきではない、との主張もあった。しかし我が国の総理大臣伊藤博文は、北京を陥落させて清政府が崩壊すると、各地で反乱が起こり、西欧列強が自国民保護を口実に清へ出兵して清の分割が拡大する、と考え講和への道を選択したのである。
李鴻章が全権として来日し、三月二十日から我が国の伊藤博文陸奥宗光の両全権と下関講和会談を開いた。三月二十四日李鴻章が小山豊太郎に狙撃され負傷する事件も起きたが、四月十七日下関講和条約は調印された。
こうして清による対日懲罰戦争は失敗し、我が国の明治維新以来初の本格的対外戦争となった日清戦争は、我が国の勝利で幕を降ろした。

日清戦争の様子

下関条約
日清戦争の講和条約は、明治二十八(西暦1895皇紀2555)年四月十七日に締結された。
伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣による日本全権大使と、李鴻章と李経芳の清全権大使により、山口県下関市で行われた下関講和会議で締結された条約である為、下関条約と呼ばれる。
来日していた敗戦国である清の全権代表李鴻章は、この条約調印の際、戦勝国である我が国全権代表の伊藤博文に対して、名宰相と褒め称えた上で「小国日本の宰相にしては実に惜しい。その気さえあれば、西太后に推挙してあげよう。大清帝国の宰相になった方がもっとその才能が発揮できるだろう」と述べた、と伊藤博文の日記に記されている。
日清戦争開戦に際し、日本側の宣戦布告文では朝鮮の処遇に対して、朝鮮を独立国として扱っているのに対して、清側の宣戦布告文では朝鮮を清の属国であると明言し、それを護ることを戦争の目的の一つとして明言していた。
しかし、日清戦争で清が我が国に敗北した為、下関条約により、その第一条で
「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」
と朝鮮を「完全無欠なる独立自主の国」とし、それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言し、それまで清の属国とされてきた朝鮮の主権独立が認められた。これにより、朝鮮は初めて独立国家として国際的に認められたのである。
また、この下関条約によって、清は日本に対して台湾及び遼東半島永遠に(第二条条文)割譲し、賠償金二億両(テール・約三億一千万円)の支払いが決められた。我が国はこの賠償金をもとに、翌年金本位制を施行した。
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