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30351 返信 イスラエル建国にまつわる歴史の歪曲(Re:水原文人の誹謗中傷投稿禁止を要請します) URL ノンポリ 2004/10/25 02:22
毎度の如く二番煎じで恐縮ですが・・・
あの負けず嫌いな(笑)水原さんが、29792に於ける森永さんの指摘に反論していません。勿論反論できるような余地は無いと思われますが、かといって彼が森永さんの指摘に全て納得したのかどうか不明ですので、今更ながら部分的に横レスさせて頂きます。(もちろん水原さんの発言内容に関してです)

> > 同様に、1948年にパレスティナを離れたアラブ人(パレスティナ難民と呼ばれる人々)自体は、イスラエル側の暴力を恐れたとはいえ、避難するかどうかを決めたこと自体は自分たちの意思である、とは言えます。むろん一部でイスラエル側の暴力もあったのですが、それ以上に最初からボタンの掛け違い的な状態で双方がお互いに相手を「敵だ」と過剰に認識していた現実もあったと思います(し、現にそうした証言もあります)。アラブ連盟が避難を呼びかけたこともあるでしょうし、一般民衆のほとんどが、イスラエルの軍、というよりゲリラ部隊(パルマハ)との接触前に逃げています。一方で残った人もたくさんいて、そのままイスラエル国籍を持っているアラブ人は当初で人口の10%、今では20%を超えているんじゃないかな?
>
> これも、恥知らずな歴史の偽造です。
>
> 「アラブ連盟が避難を呼びかけた」というのは、シオニストのデマ宣伝であり、いかなる物証もありません。(逆に、「逃げるな、踏みとどまれ」というよびかけがなされた証拠はいくらでもありますが。)「アラブ連盟が避難を呼びかけた」というのが事実だというのなら、一つでも証拠を出してみたらどうだ!
>
> 「むろん一部で暴力もあった」などというのは、「むろん一部で南京大虐殺もあった」とかいうほどに恥知らずな物言いです。この人はヤシン村を始めとする虐殺事件を知らないのでしょうか。
>
> シオニストは、アラブ人の間にパニックを引き起こし、彼らが逃亡するように仕向けるために、意図的・計画的に虐殺を行ったのであって、「ボタンの掛け違い」などではまったくないのである。



・・・・暫し脱線させて下さい。

1937年12月、日本軍が中国の南京を占領した際、中国軍の一部の兵士は日本軍に捕らえられることを恐れ、武器を手放し軍服を脱ぎ捨て民間人になりすまし、南京在住のドイツ人やアメリカ人が結成した「安全区」に逃げ込みました。
そして日本軍は安全区に侵入し、兵士ではないかと勝手に決めつけた者を捕らえ、殺害しました。これが俗に言う「便衣兵の処刑」です。(実質上は民間人に対する虐殺に他ならなかったと言えます)
この事件について「便衣戦術は国際法上違法だから処刑は妥当だった」とする主張は、やっと最近少なくなりましたが一方、「(仮にゲリラ活動を行なわなくとも)投降せず、『便衣化』したこと自体が死罪に値する重大な陸戦法違反」とする主張が流行っているようです。たとえば「電脳日本の歴史研究会掲示板」に於いてもグース氏がこの主張を展開しておられます。
私なんぞは、このような国際法が云々〜〜という話になれば沈黙せざるを得ないのですが・・・ところで、もし彼ら(安全区に逃げ込んだ中国兵)が素直に投降していたらどうなったでしょうか?
ご存知のように日本軍が南京で行なった残虐行為は「便衣兵の処刑」だけではありません。一度捕虜として受け入れた中国兵を虐殺した事例は枚挙に暇がありません。南京を占領した日本軍は上海上陸以来、この蛮行を繰り返していたのです。
食糧の補給が乏しいまま上海から進軍し南京を占領してしまった日本軍は、「安全区」の難民のために南京市が準備していた食糧を奪って食いつなぐような有様でした。捕虜を収容して食べさせるのは非常に厳しい状況であり、これが捕虜を「処断」するという、安易な選択を導びかせたのです。
もちろん全ての捕虜が殺害されたわけではありませんが、安全区に逃げ込まずに素直に投降していたとしても、殺害された可能性が高かったでしょう。一部の中国兵が安全区に逃げ込んだのは身を守るための当然の判断だったのです。言い換えれば日本軍が彼らを安全区に追い込んだも同然なのです。
ですから『便衣化』云々という主張に全く意味はないのです。日本軍の残虐行為を正当化する詭弁に過ぎないのです。
(この詭弁について、毎度の下手な喩え(^ ^;)を試みるならば・・・・ある男性が公園を散歩していたら、突然刃物を持った通り魔に襲われ、反射的に近くの女子トイレに逃げ込んだとします。その男性に対して「何で男子トイレを探さなかったのか?」「何で通り魔を説得しなかったのか?」と責めるようなものでしょうw)


・・・・さて水原さんは、
パレスチナ難民が「避難するかどうかを決めたこと自体は自分たちの意思である」ので、イスラエル政府がそこに移民を住まわせたのは「当時の政府としては当たり前の現実的判断」という論理を展開されました。ぶっちゃけ「勝手に逃げたのがマヌケなのさ」ということでしょうが、これは上記の『便衣化』云々という主張と同様の詭弁であることが自覚できないのでしょうか?(そもそも私は恥ずかしながら、それが水原さんのオリジナルではないことを知りませんでした!)パレスチナ問題について全く知らない私でも、近所の図書館の中を数十分うろつくだけでそれを悟ることが出来ました。全く森永さんの指摘の通りだったのです。

「パレスチナ 新版」(広河隆一・著、岩波新書784)という文庫本によると、広河氏はイスラエル滞在中、「パレスチナ難民はなぜ発生したのか」について何度かイスラエル人に質問しましたが、その答えは「いつも同じ」で、「エルサレムを追放されていたアラブ最高委員長議長フセイニーがパレスチナ人に、アラブ軍の作戦が終わるまで自分の村を離れろ、と『退避命令』を放送したから」、イスラエル側に責任はないというものだったそうです(P-43)。
しかし後にそのような「退避命令」の放送が実在したかにについて多くの調査が行なわれたところ、「当時のパレスチナにおける放送をすべて傍受し録音」していた、「BBCやアメリカ政府」の記録を調べても、そのような放送の記録を見つけることは出来ず、またイスラエル側もその証拠を出すことは出来ませんでした。逆に、「パレスチナ人に村に留まるように呼びかけたアラブ側の放送の記録は多数ある」そうです。
さらにイスラエルの当時の軍関係者の証言をまとめると、イスラエル側が行なった「武力、策略、虐殺によるパニックによって難民が発生したと考えられるそうです。後のイスラエル首相のラビンは「住民を十数キロから二十数キロも歩かせるには、力を行使したり、警告発砲せざるを得なかった」と述べ、また後の外相イーガル・アロンは「ガリラヤ地方の村々を焼き払うと脅した」と証言したそうです(以上P-44)。
こうしたパレスチナ人追放キャンペーンに於いて最も効果のあったのが、実際の「虐殺」であったことでしょう。イスラエルのアラブ問題顧問のアモス・ギルモアという人の報告書によれば、アイン・アッゼイトネ村というところでは、37人の少年がテロ組織に連行されたまま消息不明になり、サフサという地方の村では4人の少女が強姦され70人が射殺され、ドワイマという村では女子供を含む何十名もの村人が、頭蓋を叩き割られたそうです(P-45)。
また、「新版 リウスのパレスチナ問題入門」(山崎カヲル・訳、第三書館)という漫画入りの解説書のP-56〜57には、1947年12月以降のイスラエルのテロ組織によるパレスチナ人虐殺事件が列挙されています。
●12月12日 ハイファ近くでバスを銃撃:死者12名
●12月14日 ハガナの部隊、テル・アヴィヴのアラブ人村を攻撃:死者18名、負傷者98名
●12月19日 ハガナの部隊、サファド近郊のアラブ人村を攻撃:家二軒が爆破され、死者10名(内2名は子供)
●12月20日 ハガナのテロリスト、カザザ村を攻撃、村長の家が爆破され、死者2名
●12月29日 イルグンのコマンド(ベギンが指揮)、ジャッファを攻撃:死者30名

・・・・とまあ、挙げていればキリがないのです。(そもそもイスラエル独立宣言は1948年5月14日であり、それを認められないアラブ諸国がパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発しました。イスラエル人による「フセイニーがアラブ軍の作戦が終わるまで自分の村を離れろ、と『退避命令』を放送したから」などという言い訳は既にこの点に於いて嘘っぱちなのです)
こうした中で起こった最大の虐殺事件は、1948年4月9日エルサレム近郊の「ディル・ヤシン」という村で、後のイスラエル首相メナヘム・ベギン率いる「イルグン」というテロ組織によって254名の村人が殺害された事件です。生き残った村人は血だらけの服のままエルサレムまで「勝利の行進」をさせられたそうです。ベギンは後に「戦時中にはよくあることだ」とほざいたそうです(同上より)。
これらの残虐行為について当時の農務省のアロハン・シズリングという人は、
「今やユダヤ人はナチスのように振舞っている。私は身体中がふるえている・・・はっきりしているのは人々の目からこの行為を隠さなければいけないということだ。われわれが調査していることを明らかにしないということに私は賛成である。しかし、調査は行なわなければならない」
と、呟いたそうです(「パレスチナとイスラエル」ダヴィッド・マクドワル著、三一書房 P-281)。
彼は同胞が行なっている残虐行為に慄きながらも、それがイスラエル建国に際して必要なパレスチナ人追放に最も効果のあることを理解していたのでしょう。
このようにしてパレスチナ人を追い払ったイスラエル政府は1950年に、
1947年11月29日の国連分割決議の日から、1948年9月1日までに、一度でも自分の居住地を離れた者に適用される「不在者財産没収法」を定めました(「パレスチナ 新版」P-46)。こうしてイスラエルの蛮行から逃れた人々の全ての土地屋敷・財産が没収され、移民の入植地となったわけです。イスラエルという国家は無数のパレスチナ人の土地を奪い、虐殺することによって建国されたのです。

・・・以上のように、イスラエルがパレスチナ人を追放するため行なった数々の「武力、策略、虐殺の中で、虐殺の占めるウェイトが大きかったと思われます。もちろん実際に虐殺の現場を目撃したり、銃口を突きつけられた人々は全体から見れば小数だったことでしょう。しかしイスラエルは新国家建設の予定地からパレスチナ人が消え去ることを望み、そのため見せしめの虐殺を行なっている以上、避難することが最も安全な選択だったでしょう。パレスチナ人はイスラエルの暴力と脅迫によって、故郷を捨てることを余儀なくされたのです。避難したパレスチナ人は全て、イスラエルによって力ずくで追い出されたも同然なのです。
「避難するかどうかを決めたこと自体は自分たちの意思である」などと言えるものではありません。避難しなければ自分が見せしめ虐殺の犠牲になったかもしれないのです。
水原さんが受け売りした論理は、南京大虐殺論争に於ける『便衣化』云々の論理と同様の歴史の歪曲に過ぎないのです。今後も水原さんや「自由主義史観」の論者による、小賢しいトリックに幻惑されないように心がけようと思います。(もっとも水原さんの場合、完全に他人を騙そうとするほどの度胸は無かったようですw)

ところで・・・・日本は現在でも中国や朝鮮を占領し虐殺を続けているわけでは、ありません。しかしイスラエルによるホロコースト政策猟奇的殺人は、私のような平和ボケした日本人がこうしてパソコンに向っている間も行なわれているのです。この点において水原さんの存在は、「南京大虐殺は無かった!」「七三一部隊の人体実験なんてウソだ!」などと主張する方々とは幾分違う意味で危険な存在であります。
また普段の彼は一見まともな論者のように振舞っています。自衛隊のイラク派遣を批判したり、人質バッシングを嘆いてみせたり、とても虐殺事件を隠蔽したり正当化するような人物には見えないのです。この点もまた、厄介だと言えます・・・



・・・・蛇足ですが、虐殺事件を起したテロ組織のリーダーだったメナヘム・ベギンという男は1977年にイスラエルの首相となり、キャンプ・デービッド合意を結んだことを評価され、エジプトのサダト大統領と共にノーベル平和賞を受けました。
ノーベル賞などという「馬の小便」は、まさに佐藤栄作やベギンのような犬の糞に相応しいと言えるでしょう(藁



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