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123 返信 日本人を殺すために機能した天皇制 ノンポリ@マジで転載 2005/07/24 17:46
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18873


日本人を殺すために機能した天皇制

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投稿番号:18873 (2003/09/14 00:57)
投稿者:ノンポリ()
mail:



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内容
(この投稿も、宮城晴美・著 高文研「母の遺したもの――沖縄・座間味島『集団自決』の新しい証言」より激しく引用させていただきます)

座間味島駐留軍の最高指揮官であった梅澤裕・元戦隊長は、「朝鮮人慰安婦と心中した」などとトンデモない噂も立てられましたが、実際はアメリカ軍上陸によって捕虜となり生き永らえました。
しかし、自分が自決命令を出したことになってしまったので勤務先に居づらくなって職を転々としたり、息子が反抗して家庭が崩壊するなど、辛い戦後の日々を送っていました。
宮城初枝さんが「梅澤隊長が自決命令を出したわけではなかった」と告白した1977年の3年後、娘の宮城晴美さんは梅澤氏を沖縄に招き、那覇のホテルで宮城初枝さんと梅澤氏は35年ぶりに再会しました。
そこで初枝さんは、住民自決の直前の1945年3月25日、宮里盛秀を筆頭に自分を含めた村の有力者5名が梅澤隊長を訪れ(梅澤氏はそのこと自体を忘れていたそうです)、宮里が住民自決を願い出たところ梅澤隊長はその5名を「そのまま帰した」ことを語りました。
梅澤氏は「ほんとうですか」と驚き、初枝さんの手を握り締め「男泣き」したそうです。その後梅澤氏は戦後の辛い生活などを涙を流しながら語り、二人は4時間余りも話しこんだそうです。
翌日一行は定期船で座間味島へ向いました。梅澤氏は隊員が斬り込み突撃をした場所で「○○くん、すまなかった」「△△くん、許してくれ」などと号泣したそうです。
しかし住民集団自決の場所を案内したところ、「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と、ヒロヒトみたいな軽い反応だったそうです。
那覇に帰る船の中で晴美さんが沖縄戦の写真集をお土産にと渡そうとしたところ、「烈火の如く怒り」、「こんなもの見たくない」と投げ帰したそうです。晴美さんは話題を変えようとして「那覇についたら観光なさいますか。南部戦跡などどうですか」と言ったところ「あんな負けいくさを象徴する場所に誰が行くか」とますます怒りだしたそうです。
梅澤氏にとって、沖縄戦は単なる「負けいくさ」であり、住民の自決は「勝手な行動」だったのでしょう。自分がアメリカ軍の捕虜になったように住民にもいざとなったら投降することを覚悟させておけば惨劇は無かったことなど、考えたことなどないのでしょう。
そもそも沖縄を舞台とした凄惨な地上戦が展開されなければ、日本が無謀な戦争を起こさなければ、沖縄は惨劇に見舞われなかったのです。太平洋戦争は軍人同士が戦った末に「負けいくさ」になったというだけではなく、多くの国民が犠牲となったこの国の大災厄だったのですが・・・・・梅澤氏はそういう視点を全く欠いていたようです。
その後の梅澤氏の行動は実に醜悪なものでした。1987年には故・宮里盛秀の実弟「M・Y氏」を訪れ、「自分が命令していないという書面を準備しているので、証明の印鑑を押してくれないか」と要請しました。「M・Y氏」は、当初は「自分自身、当事は島にいなかったし、知らないことなので押印できない」と断りましたが、梅澤氏はそのとき「M・Y氏」の「戦友」だという福岡県出身の男性2名と同行しており、その男性2名は挨拶代わりにと泡盛(強い酒だよ)を持参していました。4人は宮里宅で夜を徹して飲み続け、朝7時(!)ごろ梅澤氏は、泥酔している「M・Y氏」に「決して迷惑はかけないから」と頼み込み、押印させてしまったのです。
そして梅澤氏は宮里宅を後にし、「バンザイ!」「バンザイ!」と一人で叫んでいたそうです。数時間後には梅澤氏は那覇へ向う船に乗っていました。そのころ酔いつぶれた「M・Y氏」はまだ熟睡していたそうです。

これ以来、座間味島にはマスコミが押しかけ、「M・Y氏」は「座間味村遺族連合会会長」を更迭され、初枝さんも村内で厳しく抗議されました。「決して迷惑はかけないから」という約束は全く反古にされてしまったのです。また、その後梅澤氏は右翼団体と関係するようになり、「鉄の暴風」を発行した「沖縄タイムス」の東京支社には街宣車が乗りつけたそうです。
梅澤氏本人にとっては、自分は自決命令を出さなかったことを明らかにすることが最も重要なことだったのでしょうが、そもそも日本軍人の中の特定の個人によって自決命令が出されたか否かの解明など、この悲劇の本質を取り違えていると言えるでしょう。
こうした騒ぎの中で初枝さんの心労は増し、1990年永眠されました。その後娘の晴美さんは母の遺品から、前年の1月7日、つまりヒロヒトがケツから血を流しながら死んだ日に書かれたメモを発見します。

「静かに更けていく昭和の時代も、後30分で終わりを告げようとしている
本当に激動の時代であった
たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう
しかし天皇はうらめない
かえって天皇のお姿がこの世から消えるかと思うと淋しい
新元号「平成」、どんな時代になるのだろう。子や子孫のために、平和な世の中になってほしい」

・・・・・晴美さんは、戦前・戦中を過ごした母と戦後生まれの自分は天皇制に関する見解が異なることを感じていました。
晴美さんが母に「『集団自決』を含めたこの戦争の被害は、天皇を頂点にした国家体制がもたらしたものであり、天皇にも当然責任がある」と語ったところ、
初枝さんは「確かにそうかもしれない。でもね、私は天皇を責める気持ちにはなれないのよ。逆にかわいそうに思ってしまう。皇民化教育を受けた私たちの世代は、ほとんどが同じ気持ちだと思うよ。戦後生まれのあなたにはわからないでしょうけど」と答えたそうです。

そもそも沖縄は日本の領土ではありませんでした。1879年の「琉球処分」以来、沖縄の人々は「ヤマト化」することを要求され、またそれを受け入れていました。「珍奇な名前は改めよう」の号令の元、沖縄の苗字を「ヤマト風」に改名する人も多かったのです。(ところで「玉城」は「タマグスク」と読むけど・・・・「山城」という沖縄県出身の知人を、いつも「ヤマシロちゃん!」と呼んでたけど、元々は「ヤマグスク」と読むのが正しかったのかな?)初枝さん自身も若いころ、名前を「カミ」から「初枝」に改めたそうです。
本土から遠く離れた沖縄県の中のそのまた小さい離島だった座間味村の人々の視点は、「県都の那覇を通り越して皇居(当時は宮城といった)のある東京に向けられ」、早く「ヤマト」と一体化しようと焦ったのです。
このような青春時代を過ごしてきた初枝さんにとって、沖縄が受けた悲劇は天皇制を中心にした軍国主義がもたらしたことを、ヒロヒトは決してただのお飾り人形だったわけでなく戦争遂行に係わり、また戦後は「天皇メッセージ」によってアメリカによる「二十五年乃至五十年或いはそれ以上」のアメリカによる沖縄統治を「希望」すると表明するような男だったことを、直視するのは辛かったのかもしれません。

・・・・「母の遺したもの」の最終章で著者の宮城晴美さんは、次のように「集団自決」を分析しています。
「・・・・しかしながら、畳二枚に21発という圧倒的な砲火にさらされ、完全に逃げ場を遮断されて、心理的にも徹底的に打ちのめされた住民が現実に米軍と向き合ったとき最後にとった行動は、『玉砕』だった。捕らえられれば女性は凌辱され、子どもまで虐殺されるという恐怖心から、せめてこの手でと、わが子をはじめ愛する者を次々に殺し、自らも『死』の途を選択した。
そこではもはや、『隊長命令』は本質的な問題ではなかった。細胞のすみずみにまで染み込んだ『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を『玉砕』へと導いていったといえる。それは、明治以来、人々を洗脳しつづけた『国家』による住民への『死への強要』以外の何ものでもなかった。『集団自決』は、まさに“皇国日本”の総決算であったといわなくてはならない」(P-275)

全く同意です。座間味島や渡嘉敷島の人々は、天皇制を中心にした軍国主義・日本に、「自決」という形で殺されたと言えるでしょう。



・・・・・ところで1995年に、沖縄県南部の糸満市に「平和の礎(いしじ)」が建立され、国籍を問わず沖縄戦で亡くなった人々約23万人の名前が刻印されています。
場所は「沖縄県平和記念資料館」のすぐそば・・・・・つーか「平和の礎」の外周上に資料館が立っています。
http://www.pref.okinawa.jp/97/ishiji/ishiji-j.html
座間味村出身者も677名含まれており、その中で集団自決によって亡くなった人々は135人ということです。
ところで、沖縄戦に動員され亡くなった朝鮮人軍人・軍属、従軍慰安婦は、少なくとも数千人に上ると見られています。しかし1995年の完成時に刻印されていたのは、大韓民国51名、朝鮮民主主義人民共和国82名、合計で僅か133名でした。
在日本大韓民国民団沖縄県地方本部の団長は、「平和の礎」除幕式の式辞の中で次のように述べたそうです。

「ここで忘れてならないことは、犠牲者の遺家族の中で子々孫々永代の恥辱であるとの理由で、刻印を拒んだ方々がおられたということです」
(この部分は、新崎盛暉・著 岩波新書「沖縄現代史」より引用しました)

韓国や北朝鮮の沖縄戦戦没者の遺族の多くは、「平和の礎」に自分の亡くなった親族の名前が刻印されれば、それは「子々孫々永代の恥辱」だと感じたということですが全く当然だと思います。自分の親族が、母国を奪った国が起こした馬鹿げた戦争に動員されてしまったという屈辱の記憶が、石碑に刻まれ永遠に残るというのは、ご先祖さまを大事にするお国柄、耐えられないことなのでしょう。

話は飛びますが・・・・私の祖父は健康上の理由で徴兵を免れました。父の話によると、東京大空襲の後には焼死体の後片付けをしていたそうです。
もしも私の祖父が戦場で亡くなっていたとしても、靖国神社なんぞに祀られるのは断固として拒みますね。無益な戦争に動員されて命を奪われてしまった挙句に、その無益な戦争を美化しようとする奇天烈な宗教団体に祀られるなんざ、真っ平御免です。そもそも、ああいう無意味な戦争に協力してしまったこと自体、自慢できるようなことでは無いと思います。
日本の無駄な戦争に動員されてしまったこと自体を恥辱だと感じる韓国・北朝鮮の遺族同様、日本人もあの戦争に協力していたこと自体を恥だと感じるべきでは、ないでしょうか?

122 返信 Re(1):曽野綾子さんのスタンス ノンポリ@マジで転載 2005/07/24 17:44
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18782


Re(1):曽野綾子さんのスタンス

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投稿番号:18782 (2003/08/25 20:38)
投稿者:ノンポリ()
mail:



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内容
>>大江や井上も司馬氏は大東亜戦争を否定していますが、大東亜戦争について沖縄などの激戦地
>>で日本軍は本当に悪いことをしたのかと疑問に思って現地で調査したのか疑わしいです。
>>司馬氏の書いた本の中でもワーストワンのトンデモ本の『歴氏と視点』(新潮文庫)の90頁
>>に「沖縄戦において県民が軍隊に虐殺された」と日本軍が沖縄人を虐殺したという嘘話を
>>信じ込んでいる記述があります。大江健三郎というアホも日本軍が沖縄人を虐殺したという
>>嘘話を信じ込んでいますが、それは間違いです。小林よしのり氏も『戦争論3』で日本軍
>>は沖縄人を虐殺していないと主張しています。小林よしのり氏が信用できないなら『正論』
>>2003年9月号の曽野綾子氏の「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」という論文を
>>読んでください。日本軍は沖縄人を虐殺した証拠はないと書かれています。
>>
>>沖縄戦で赤松嘉次元大尉が沖縄人に「集団自決」を強制したとデタラメが歴史教科書に
>>まで書かれていますが間違いで「集団自決」はありましたが日本軍の「軍命令」では
>>ありません。赤松大尉は沖縄人に「集団自決」を強制していなかったことは曽野綾子氏
>>の取材で明かにされています。大江健三郎のアホは沖縄で現地で取材にもこず日本軍は
>>沖縄人を虐殺したとデタラメを言っています。司馬氏も朝日新聞など反日マスコミの
>>ことを鵜呑みにしていて勉強不足です。沖縄人が戦後「集団自決は軍命令」だったと
>>デタラメを言ったのは「軍命令」で死んだのであれば、戦死あつかいになって年金が入る。
>>しかし自らの意思で自殺したとなれば年金がもらえないかもしれない…そう考えたのです。
>>『歴史と視点』(新潮文庫)という駄本を読んで、俺は司馬氏の大東亜戦争に対する
>>知識のなさに呆れ果ててしまいました。
>-------------- 以上 朝日新聞キラーさん(投稿番号:18756)より引用 --------------
>
>正論9月号の「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」を読んでみました。
>結局、曽野綾子さんが「日本軍からの自決命令の証拠はない」と考えたのは、
>そういう証言を得たからのようですね。
>しかしこれは、日本軍からの自決命令が無かったことを確定できるものではありませんよね?
>自決命令があったという根拠も証言(ですよね?)、無かったという根拠も証言ですからね。
>「日本軍は南京の難民に食糧を供給していた」という元日本兵の証言は、
>「日本軍は我々にこれっぽっちも食糧をよこさなかった」という中国人の証言のみで覆るわけではありませんよね?
>
>そもそも曽野綾子さんが出した結論というのは、
>「赤松大尉からの自決命令が無かったという証拠はない。
>しかし赤松大尉からの自決命令があったという証拠はない」
>というものです。自決命令があったことも無かったことも断定してないのです。
>
>ある記者に「自決命令説は曽野さんによって覆されましたね」と冷やかされたとき、
>「あなたは何ということを言うのですか?
>明日にでも、渡嘉敷の土の中から赤松隊の自決命令書が出てくるかもしれませんよ。
>私は、現時点では自決命令の証拠は得られてないと判断しただけですよ。
>こういう歴史の曖昧さに私たちは耐えなくてはなりません」
>と一喝したそうです。
>
>このように、曽野さんは赤松大尉からの自決命令の有無については断言していないのです。
>また、これ以外の事例については一言も触れていません。
>日本軍による自決の強要、住民虐殺の話は他にいくらでもありますよ。
>そもそも、日本軍からの強制が無いのにどうして自決するのでしょうか?その理由がありません。アメリカ軍に投降すればいいだけの話ですからね(もちろんアメリカ軍による住民虐殺も多発しましたが)
>ところで投降しようとした住民を日本兵が撃ち殺したという話もよく聞きますね。
-------------- 以上 ノンポリさん(投稿番号:18768)より引用 --------------


曽野綾子さんは渡嘉敷島での取材や赤松部隊関係者からの聞き取りを「ある神話の背景」(文芸春秋、1973年)という本にまとめています。
赤松嘉次元大尉(海上挺進第三戦隊長・陸士53期卒、沖縄戦当時25歳)は、曽野さんの質問に対して勿論「自決命令は出していない」と答えていますが、部隊が住民に手榴弾を配ったことは認めています。
しかしそれは「不届きな防衛召集兵が勝手に配った」ことだそうです・・・・見苦しい責任逃れですが、日本軍が住民の自決を(少なくとも)勧めていたことを認める発言と言えます。
つーか、
「朝鮮人慰安婦が就業詐欺に遭ったのは、悪徳業者の責任だ」
「南京で様々な犯罪があったが、それは兵士個人の犯罪だから、日本軍全体の責任みたいに言うな!」
・・・・みたいな詭弁はやめてもらいたいものです。
また戦後「戦傷病者戦没者遺族等援護法」に基づき、戦死者の遺族には年金が支給されましたが、
曽野さんは「赤松隊長からの自決命令があったということになってしまったのは、遺族が年金を欲しがって『命令があった』と証言したからではないか?」と推測しています。
隊員の一人は「我々元隊員が『命令はなかった』と証言すれば、遺族への年金が止められるかも?と考えた。だから我々は黙っていた」と曽野さんに語ったそうです。
しかしこういうのは「下衆の勘繰り」以外の何物でもないでしょう・・・・・。

ところで赤松元大尉も、
アメリカ軍の捕虜となった伊江島住民の男女数名が降伏の勧告に訪れたところ、彼らを処刑したことを自ら命じたことは認めています。当時の「陣中日誌」にもその記述があります(この件に関しては「ある神話の背景」P-193〜197を参照願います)。

日本軍による沖縄の住民の虐殺を、関係者自身が告白したわけですが・・・・
しかし曽野さんはこの事件について、
「処刑された者は当時の陸軍の軍規に照らし合わせれば『翻敵・奔敵・利敵行為』にあたるのではないか?」
「赤松氏の証言によれば、男性が処刑されたあと女性たちは自決を願い出たそうだ。だから自殺幇助罪にあたるかも、しれない」
とか、アホなことを言っています。
まるで
「便衣兵を裁判なしで処刑することは合法だ」
「無関係な者が処刑されたとしてもそれは便衣戦術をとったシナ側の責任だ」
「捕虜を必ずしも生かしておく法的根拠はない」
みたいな、アホらしい開き直りです。
歴史観を歪めようとする者は、アジアの人々の死に対してだけでなく、日本国民の死に対しても、愚弄することを恐れない・・・・・のでしょう。
もし万が一、赤松大尉から自決命令があったことが立証されたとしても、
「あの激戦の中で、住民たちが生き残れた可能性は殆んど無いと言ってよいだろう。だから赤松氏の判断は正しかったと言える」
とか言い始めるかもしれません???

そもそも日本が馬鹿馬鹿しい戦争を始めなければ、沖縄の住民が戦死することも、自決することも無かったのですが・・・・



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